ひとりひとりに問う

今朝は、起きた途端にネガティブな想いが湧いてきた。
世の中にはいろいろな人がいる。
フリーな立場にいる人たちが、
ここの活動や発信していることについて
どのように考えるだろう。

最近の僕のブログにしろ、
木の花が発信している情報にしろ、
非常にマニアックだと思っている。
ここの世界の中だけにある、
内弁慶のようなものと取れないこともない。
それに対する外からのブレーキや
メッセージを客観的に検証してみると、
たとえば、以前ここを訪れた方から、
「対外的に発信することは、多少調整して、
出すことと出さないことを
考えるべきなんじゃないだろうか」
というメールがあった。

元メンバーからは、事実を捻じ曲げて、
自分の都合のいいように解釈する手紙が送られてきた。
「結局、いさどんワールドなんだよ。
理想のところに共鳴しようと思ったけれど、
強制が強いから出てきてやった」と。

ここのところ、
体験ツアーの参加者の人数が落ちてきたり、
野菜などの消費者の伸びも落ちてきたりしている。
これも、ここが発信しているものが
影響しているのではないか。

また、ブログに対するコメントが
最近少なくなったことについても、
ここが非常にマニアックな世界に
入っていくことに対して、
ついていけないということの表われではないか。

ここには、沢山の人たちが訪れるけれども、
継続してここに関わるということが定着しにくい。

ここは、今まで人々が歩んできた
価値観を否定する存在である、という見方もできる。

私たちが進めようとしている綾部のプロジェクトも、
とんとん拍子にはいかない。
そういったことも、
私たちが一方的に事を進めていこうとする結果として
起こっているのではないか、
と考えてみる必要がある。

僕がバランスを欠いて、
マニアックなところへ走っていることに対して、
皆を巻き込んですまない、と
皆に伝えるべきかなと。
なぜかというと、ある見方からすれば、
確かに一つ一つの言葉や
ここの在り方について話していることは、
筋道が通っていて、その通りである。

しかし、筋道を通していった時に、
誰もがそれを正しいんだと思ってしまって、
一種のマインドコントロールのような世界になり、
内弁慶のような場をつくってしまうことになる。

今朝、なぜ自分に
いきなりこんな発想が浮かんできたかということを、
客観的に検証してみようとするのだけれど、わからない。
「朝の想いは、神の意志」ということからしたら、
神様の意思であるという見地からものを観る必要もある。

全くここに利害を持たないところから、
ここはどんなふうに見えるんだろうとずっと考えてみた。
超否定的な、非難的なメッセージが、
そこにはありえるなと思う。
では、どうしてそういうことが起きるのかというと、
自分たちがやっていることを一方の方向だけから観て、
他方の方向を観ないから。
一方をいいものにして、
他のところを一切観ない時に、
陥りやすい現象である。

それを追っていった時に、
今朝のこの想いは何だろうと。
未来に対して暗くて孤立したここの景色が観えてくる。
ここの存続が危ぶまれるような状況になっている。
そういう発想にもなってくる。

それをさらに展開させると、
そういう懸念があるからこそ、
それをかき消そうとして、
最近の僕のブログにしろ、
ここから出ているメッセージがあるのだとも思う。
見えない危機を感じて、見えない意識を働かせて、
そういうところに陥っていくのではないか。

私たちはここで、
一般社会とはちょっと違う生き方をしている。
ことによっては、大いに違う生き方をしている。
それは全ての人に否定されるものではないけれど、
一般社会という枠からすると、
なかなかできないことであったり、
アレルギー的に否定されるものである。

それを私たちが、
新しい社会の概念として捉えている。
それはこちらにとって都合のいい勝手な解釈で、
マスターベーションのようなものだ。

今、ここに対して
ネガティブに受け取った場合の表現を全部出してみた。
僕自身としては、
巧みに語ることによって、
皆をそこへ巻き込んで、
もっと悪い言い方をすれば、
皆をマインドコントロールしている。
だから、皆に詫びなきゃいけないという心が湧いてきた。

こういったネガティブな考え方を
心の専門家として見ると、
うつ病の始まりになる。
物事を悪く悪く、
どんどん悲観的に取っていった時に、
心の病気になっていく。

ここ2、3日、僕は重い夢を見ていた。
それから、ここのところ、
ちょっと疲労が溜まっている。
僕はうつ病を患っている人に
「まずは休みなさい。
環境を変えてフリーな時間を持ちなさい」と
提案するんだけれど、
自分にもそう言えるなと思っていた。

今、湧いてきたネガティブな思考は、
ただネガティブなだけなのか、
それとも、そこのところへ
気づかずに進んでいった結果なのか、
どういう捉え方をしようとも、
いずれにしろ、
ここの状態を否定する考えがずっと出てきた。

大人のメンバーに対しては、
そこへ皆を引っ張ってきた自分がいて、
申し訳ない。
子供たちについては、
皆の未来を極端な強制の中に置いて申し訳ない、
ということを想っていた。

これを、うつ病の始まりとも言えるな、と診断していた。
今、ひとつずつ挙げてきたことを検証していくと、
そうとは言えない。
どれも、「それはこういうものの見方をしたらこうなる」という、
違う解釈ができる。

世の中にはいろいろな人がいて、
人々の受け取り方は自由である。
マイナスな発想は、私たちの中にも常にあるはず。
自分の願いを叶えて、
自分の好きなように生きていきたいという心は、
誰にでもある。

それを、自分の意思で制御して
生きていくことが大事という心も出てくる。
その葛藤はなんだろうと思う。
私たちがどちらを選んだかというと、
自分の中から湧き出てくる葛藤をコントロールして、
自分の中に秩序を持たせようとしてきた。

悪く考えていけば、
うつ病のようになっていくし、
自分の中にある欲望をどんどん叶えていけば、
体のバランスを崩す。
それは、自分の内には心や体の不健康、
外には社会の不健康をもたらすから、
コントロールして生きているのが私たちである。

神様に、この想いは何ですかと問うてみた。
最近、全然心を向けていなかった。
一人で歩んできたなと思って、心を向けてみた。
そうしたら、何も回答がない。
かすかにあるなと思うのは、進んでいけばわかる。
そこには、何も問題はなしともあるとも、何もない。

それを、見捨てられていると捉えることもできれば、
もう十分に託してあるので自分の道を歩め、とも取れる。
「我即神也」である。

ずっと今朝の想いを挙げながら、
常にいい方向いい方向へ誘導しようという心を、
もし一方通行としたならば、
逆の悪い方向へ悪い方向へ、
いろいろと考えてみた。

僕は、そういう一方通行で
皆を誘導しているのではないか。
それこそが、
マインドコントロールなんだというところに行き着いた。

そこから、さて、どうしていくのか。
僕のワールドの押しつけ、
マインドコントロールを皆に問うて、
一人一人にどうしていきたいのか考えてもらう。
それが必要なんだなと。
でも、必要なんだな、と言うと、
必要なということをもう既に押し付けている。

つまり、今の世の中に、右と左があって、
だから真ん中があって、この世界ができている。
いろいろなことが移り変わって、
今の世の中の状況があり、
その中に私たちもいるのだから、
一人一人がそのことに気づいて、歩む道を選択する。
それが大事だと思った。

僕の中には、
さっきの悲観的なものの見方に対する代替案がある。
マイナスだとしたら、
それを打ち消すプラスの考え。
プラスだとしたら、
それを打ち消すマイナスの考えや見方がある。
今までも、そこのところを社会や人の
トラブル、不健康と捉えて、
私たちがどちらの方向へ行くべきか考えて歩んできた。
それが一方通行であるということ。

しかし実際、世の中にはいろいろな考えがあって、
人間がどちらへ行くかは自由である。
そうしたら、自分の進む方向を
一人一人がもう一度、自分で検証して、立つべきだと思う。

それをまた、大事というと、
それもまた方向付けになる。
そこで、一切方向付けをしない。
材料だけを提示する。
敢えて、今は「こちらの方向が大事」という
ポジティブな発想は語らないで、
ネガティブな発想だけを語った。
ずっと今まで、ポジティブなことばかり示して、
「そちらに行くことが大事」と語ってきたから。
敢えて、そちらのほうは全然語らず、
ネガティブな発想だけを語り、
それ自体も自由な選択肢の一つですよ、と。

誘導は一切なくて、個が自分の道を選んだ結果、
もし共にあるとしたら、結果同じだったね、と。
共通の意識を持つ人が集まったね、ということ。
今もそうなんだけれど、
よりそのことをしっかりと確認したい。
敢えてこんなことはする必要はないのかなとも思うんだけれど、
敢えてする必要があるのかなと。

私たちがどうするべきなのかということには、
もう一つ、尺度があって、
この社会やその中にいる私たちの位置。
それは、心の位置であったり、
具体的な生活の位置であったりする。

この世界ができてきた成り立ち、
人間的な概念を超えた自然や地球、
宇宙というものの見方から、ここを観ることもできる。
この世界は、創られて維持されている。
そこから捉える。
未来についてはわからない。
過去と現在の視点から、これを捉える。

その視点と合わせて、
さらにこのフリーな世界で、
どう私たちが生きていくのか、
考える必要があるなと思う。

この結論は、個々に任せようと思う。
憲章を創る前に、
これを皆に提示しようと思っている。

そうやって、僕の縛りから皆を解き放ちたい。
皆に皆を預けたい。

もしあなたの中に神がおられて、
それを信じたら、行動して下さい。
あなたの意思として、行動して下さい。

決して一つの方向や、
イデオロギー的なことや
宗教的な方向に誘導して、
それに誘導されたものたちが集まって
生きている場所ではない。
独立した個人が、その個人それぞれの思考の中で
大事と思うことを選んで、
選んだ時に共通するものに出会って、
それが集ったものである。

だから、これは特定の誰かワールドではない。
皆ワールドである。


来年は変革の年~宇宙ドラマのクライマックス

いよいよ来るぞ。変革の大きな波が。
皆でその波乗りを楽しんでいこう。

ここは、ここの在り様のようにあり続けている。
そして、新しい価値観を
世の中に提示しようとしている。
それはなぜかというと、
世の中がいろいろな意味で行き詰ってきている。
世の中の人々が、
個人個人の価値観で生きてきた結果、
何か全体が忘れてしまっているものを
気づかせようとする力が働いているからである。

自然が人間の営みにNOと言っているように、
病気や環境破壊、人間関係など
いろいろな問題が世の中に起きている。
世界的には大きな対立はなくなり、
人間たちには自分たちの枠の中で、
秩序を保っているように見えるかもしれない。
しかし、実際には、個々の人間の中で、
大きな葛藤として戦争が起きている。

私たち人間は、
宇宙という生命の中で生み出され、
現在もその生命の仕組みの中で生かされている。
明らかに、この世界があって、
私たちが後から生まれてきている。
後から生まれてきたものというのは、
前のものに何かニーズがあって、
生み出されてきているはずである。

つまり、
私たちが生み出されてきたのには、目的がある。
その目的に沿って生み出されたはずなのに、
今、生み出された全体からNOという答えが沢山出ている。
それを受け取ろうとしている流れもあるけれど、
人間たちの中には、受け取ろうとする心と
受け取るまいとする心が対立している状態である。

ここでは、対立するのではなく、
大本の目的、
私たちを生み出した仕組みのほうへ移行する、
途上の生活をしている。
そういったことを生活全体に、
それこそ、村のようにしてやっているのが、
ここの平和を提案する生き方である。

自然やこの世界の仕組みの側に立って
ここを進めていこう、
人間が地球の意思に沿って
平和に生きていこうという生き方。
地球と対立する生き方から、
地球の意思に沿った平和的な生き方へ。
環境、食など部分的なことだけではなく、
全てのことにおいて
この世界と平和的に生きていこうとする生き方を、
ここは示していると思う。

大きなくくりで言えば、
宇宙意識、地球意識のメッセージを、
僕らがまさしく代理としてやっている。
その意識を
私たちはしっかりと持っていないといけないし、
持っているからこそ、
今までこうやって歩んでこれた。

さらに、世の中にこういった考え方が
爆発的に広がろうとする今、
それに対して抵抗しようとする力は
非常に大きなものである。
それは、生半可なエネルギーではない。
その強いエネルギーは、
私たちの生き方に対して
一見、大きな逆風のように見えるかもしれない。

しかし、考えてみたら、
ここでこの生き方を小さく伝えていることよりも、
世の中が逆風としてうねり出した時に、
私たちはそれを波ととらえ、
波乗りのサーファーになれば、
逆にそれがもっと広く広がる。

なぜ、今の価値観じゃないといけないのか。
今の価値観であり続けると、
どれほど知らない間に沢山のものに負荷をかけ、
沢山のものを混乱に追いやったり、
絶滅に追いやったりしているのか。
そういったことに気づかなければいけない。

沢山のものどころか、
自らの生活、自らの社会を、
どれほど対立や混乱に追いやっているか。
そこを根本的に考える必要がある。
これを形で世の中に示すために、
私たちは役割として、
始めからこの生活をいただいてきたはず。

そして今、変革の時が来ようとしている。
私たちは、そういう使命を持ったものの自覚として、
その波に乗り、大いにその波乗りを楽しもう。

人間社会や一般常識は、
自然や地球の仕組み、
宇宙の仕組みから外れて、
自分たちを創り出したものと対立している。
それに対して、もっと恒久的で、
人々が本当に喜び合える、
皆が支え合って喜び合える社会創りをする側に
僕らは立っているのに、
何を恐れる必要があるのか。

そのことを人々に目覚めてもらうための役割というのは、
どんな大きな産業を興すよりも、
どんな教育をすることよりも、
どんな政治をすることよりも、
大事なことであるはずである。

そうすると、ここでの生活の一つ一つが、
とても大切だということに気づく。
それが、一人一人の中でしっかりと認識していないと、
自分の中から湧き出てくるエゴによって、
自分では気づかないうちに、
自分が侵害されることに対しての
アレルギーが生まれてくる。

そのアレルギーは、
どういうメッセージかというと、
その現象が起きているあなたの中に問題があって、
あなたの生活スタイルのもとにある精神を変えなさい、
それを変えることによって健康になれるんですよ、
というメッセージである。

今まで、縁があるものだけに、
ソフトにこのメッセージを伝えてきた。
そしてその証として、小さいけれど、
ここに理想郷を築いてきた。
でも、まだユートピアにはなっていない。
なぜかというと、ユートピアは、
その小さなコミュニティだけのためにあるのではなくて、
世の中全てが理想になるべきものだからである。

特定の宗教や団体のためにあるものではなく、
全人類が地球の上で何ものであって、
今後地球とどうつきあっていくのか。
さらに、私たちは宇宙の中にあって、
今後、宇宙をどう生きていくのか。

このまま進んでいったら、
人間は地球の中の単なる異物であり、
癌細胞であり、秩序を乱すものであって、
その人間の姿勢を宇宙にまで広げていってしまう。
人間は本来尊い存在であり、
この世界に本当の意味での平和をもたらすもの、
理想をもたらすものの先駆けであるはず。

今、この世界に大変革が起きようとしている。
その抵抗勢力が、実は人間の中にあるということに気づき、
その大変革のための心を育てていくという時が来ている。
そのために、私たちの生き方があり、
今まではソフトに示してきて、
それに対する抵抗、無知、無理解があった。

そして今、私たちの役割を果たす時が来ている。
その役割は、この宇宙ドラマの中のゲームのように、
クライマックスを迎えようとしている。
それを大いに楽しんでいこう。

皆がつながって皆で喜べる世界を創るために、
私たちはこの生活を送っているのだから。
使命は大きい。
しかし、古い価値観から観たら、異物に観える。
でも本当は、何が異物なのか、人々に伝えないといけない。

そこで、恐れの心が出たり、
一番大事な大本の信念を持っていないと、
この時代を逆行するようなうねりに呑みこまれてしまう。
楽しむどころか、私たち自身が苦痛の中に入ってしまう。
先駆けだったものが、単なる異物として潰されてしまう。

しかし、私たちは、そんなやわな心で
この生き方を選んで生きてきたわけではない。
その波を大いに活かし、
私たちはその大きな抵抗の波に乗って、
波乗りを楽しもう。

確かに抵抗はあるし、
それは巨大な抵抗のようにも思われる。
私たちは、このような清らかな心で
世の中のことを考えて生きているが、
人間の無知な部分、愚かな部分は、
それに対して後押しをするかもしれない。
自然や宇宙の仕組みや流れは、私たちを応援している。
これを応援せずに地球の未来があるのかといったら、
ないのだから、当たり前のことだ。

そして、今、沢山の人々が、
そのことに目覚めようとしている。
何も恐れることはない。
実際に問題があるのは、人々の心の中にある、
真実へ行こうとする心と
真実を行くことに対して抵抗する心との
葛藤であるのだから。

その葛藤が、個々であったり、
社会であったり、国家であったり、
今、矛盾として出ている。
敵は己の中にあるのに、
己の中を観ないで外に問題事を見つけ、
外の対象に攻撃している。
これは、人間がずっとやってきた、
戦争を引き起こした心そのもの。

私たちは、大切な役割をしている。
ここが始まった時から持っている精神をベースにして、
流れに任せればよい。
今は踏ん張る必要はない。
その波を待ち構えていて、
その波に乗って、皆で楽しめばよい。

すごい波が来た。
これを楽しまない手はない。

目先の小さいことでちまちまとしているのではなく、
この宇宙ゲームを楽しんでいこう。
僕らには、この調和で平和で大切な仲間と生活がある。
これを地球中に広げたい。
その大きな志は、誰にも犯すことができない大事なもの。
その側に立っているものが何を恐れる必要があるのか。

大事を生きているということに気づいたら、
人々は堂々と自信を持って歩んでいける。

ようこ:

未知なるものが恐怖ではなく、
実は喜びの種だったということだよね。
そう考えると、心次第で、
こんなに楽しい時代はないよね。

いさどん:

これからどんどん変わっていく時に、
変わっていくことに対する恐怖がすごく大きな抵抗になって、
私たちにも向かってくるけれど、
逆に私たちはそのエネルギーを利用して、世の中を変えていこう。
そういうチャンスでもある。

そういう時が来る。
年が明けたら、賑やかになるぞ。

ようこ:

どんな年だろう?
去年が、洪水で、今年が、津波で。

いさどん:

来年は変革の年だ。
洪水が来て、津波が来て、
そして汚れたものを全て洗い流して、
本当の生き方に皆が目覚めていく。
そのためのスタートの年だね。

すべてが、深い深い愛の中にある。
すべてが深い深い愛の中で私たちは生きていて、
そのことに気づけば、人間は対立せずに、
すべてを運命共同体として、
この世界を創っていける。
そこには、全く新しい世界が展開される。

人間はそろそろ、
狭い人間だけの価値観だけで生きていてはいけない。
自然の仕組み、地球の意思、
この宇宙の壮大なドラマの中に、
自分たちが生み出されていることに
気づかないといけない。

何を恐れる必要があるのか。
これほどの巨大な後押しがあるのに。
たとえ私たちが社会通念を壊すものであろうが、
その根本にあるのは、この世界が本当に平和で、
人々が輝いて幸せに生きていくための大事を持って、
日々を生きているのに。
それを怖がってしまったら、
世の中はいつまでたってもよくならない。

ようこ:

変革の年を恐怖の年とするのも、
喜びの年とするのも私たち次第だね。

いさどん:

そうだよ、そういうことだよ。
このメッセージを世の中に示す時が必ず来るから。
そして、一人一人に問いたい。
あなたは本当に、
自分のために今を生きているのか。
そして、自分というのは、
あなたという自分の姿をしているあなただけではなくて、
この世界全体があなた自身ですよと。


「おやじの館」へようこそ

僕の中に、
「おやじの館」のイメージというのがあってね。

洞窟があって、その奥へ入っていくと、
ずっといくつか部屋があって、
一番の奥の奥に、おやじがいる。
そこで、何をしているかと言ったら、
にやっと笑っているだけ。

人々はそこへ入ってきて、
その人流に、
玄関まで来て帰っていく人もいれば、
次の部屋まで来て帰っていく人もいれば、
だんだんだんだん慣れてきて、
一番奥まで来て、
その「にやっ」に出会って帰っていく人もいる。

玄関にだけ来て、
一番奥のおやじの姿を見ないで帰っていく人もいる。
そういう場所。

今でも、僕に出会わないで、
「ありがとう」と言って帰っていく人もいれば、
仮に僕と出会ったところで、
表面的な話をして帰っていく人もいる。
深い人間性を垣間見て帰る人もいる。

それは、
おやじを観たのではなくて、
あなたを観ていくことですね。


生きていること自体が神様との対話

今朝、早めに目が覚めたから、神様に
「ここのところ何日間か、
体調があまり思わしくなくて、何でしょうね」って。

でも、どう考えたって、
体調が思わしくないことは、
心の表われということである。
でも、わからない。
だから、久しぶりに、
己のことは己で見ていくというよりも、
わからないから何なんでしょうね、
と問いかける時間になった。

しかし、「こうだぞ」という答えをもらわなくて、
思考を巡らしていたら、答えを出してもらった。
問いかけて対話するように答えをもらうこともありがたいし、
大切だけれど、自分の思考を巡らすことによって、
その思考の中から答えが湧き出てくる。
それも、自分が考えたのではなくて、
その対話の結果、いただいた。
ありがたい。

前者のほうが便利がよくて、
ありがたみがあるようだけれど、
あまり人を育てない。
後者のほうは、
答えをもらった気になれないようだけれど、
自分を育てるということをいただきながら、
自分がそれに気づいていく。
思考を巡らせて、自分自身の能力を高めながら、
自分の中から答えを見出していく。
これが、優れた師に出会った時の学びである。

大学の先生に、
僕がよくお話することがある。
「知識を伝える学問は高校まででいいんです。
大学の学問は、
知恵を生み出させるための
人づくりの学問なんです」と。
このことも同じである。

気楽に答えをいただくことを、
人はとかくありがたいと思うものだけど、
答えをいただかなくても、
自分の中で巡らせながら、
迷いながらもそこで答えを見出していく。
人間そのものを育てながら、
自分の中から知恵を引き出しながら、
自分で道を開いていく。

これは優れた師が使う、
弟子を育てる手法。
弟子は、自分の想いがごとく、
学びをいただいて育っていく。

この世界があって、
私たちがその世界に降ろされて
生きているということは、
そういったことの表われである。
だから、神様と通じて、
「神様わかりません。教えて下さい」と問いかけ、
すぐ「それはこういうことである」
と答えをいただければ、
ありがたいことのようだけれど、
実はそれはありがたいことではない。
悩み苦しみ、わからない人生をいただいて、
そうやって生きていくことで、人が育てられる。
そこにありがたさが見つからないと、
人生は辛いことばかりになる。

実は、生きていること自体が、
神様と対話している。

「何も不満はありません。何ひとつ不満はありません」

そう思えば、事は何も解決されていないのに、
この世界の問題事は立ちどころに解決される。
ありがたいと思った時に、全てが解決される。
そこには、不満はない。
何も解決されていないのに、全てが解決される。
不満な時と何も変わらないのに。

全ては心次第。

「今日も一日、
自分の役割を果たさせていただきます」


人は変われる

昨夜、9月14日からケア滞在をしていた、
けいこちゃんの卒業コンサートが行われました。
8年間のうつ病を見事一ヶ月で克服し、
その後は「今度は自分の心の癖を直していきたい」
ということで、一ヶ月半の生活体験をしました。
この二ヶ月間のけいこちゃんの変身ぶりは、
いさどんブログでも紹介してきましたが、
本当に素晴らしく、目を見張るものでした。
今回は、卒業コンサートでの
けいこちゃんのあいさつを
皆さんともシェアしたいと思います。

けいこちゃん

来たばっかりの頃は、
ここがどういう所かもよくわからなくて。
ホームページで下見はしていたんですけれど、
実際行ってみようと一大決心をして、
やっと重い腰を3カ月後くらいに上げて、
ここへ来ました。

来たばっかりの頃は、何というか、
びくびくおどおど、
ぐずぐずめそめそしているような状態で、
自分も他の人も信じられなくて、
自分も消えてしまいたい、皆も消えちゃえばいい、
みたいに思っていました。

座っているのも辛い状態で、
ご存知の通り、寝てばっかりの生活だったので、
筋肉も弱っていたし、
なにしろ普通のことがまともにできませんでした。
今も、まともだとは思っていないんですけれど。

いろんなものを見たり聞いたりするのも辛くて、
ここに来てからもしばらくは耳栓をして、
食堂の隅にいたり、ミーティングも耳栓をして、
なぜか出席していました(笑)

ここに来ても、
まだ疑いや信じられない気持ちで、
すごく身構えていて、なかなか心が開けなくて、
治りたいのに治したくないという、
そういう葛藤がありました。
すっかり自信もなくしていたので。

でも、なんとか治りたいと思ってあがいて、
ずっと、暗いトンネルの中にいて、
なんとか光がほしいなと思って。
道しるべがすごくほしかったです。

ここに来て、
だんだんすごくいい感じで巻き込まれていって、
だんだんここのことを知っていきたいとか、
いろんなことを聞いていきたいという気持ちに
変わっていって、
自然に耳栓も外れるようになって、
なぜか眼鏡まで外れるようになって(笑)
それが自分の中では、
「なんか変わった、不思議だな」
というふうに思っていました。

ケアとして来たおかげか、
あまりがんがんと指摘されることもなく、
すごくいい形で
ソフトランディングさせてもらったなと思いました。
最初の入り口がすごく良かったのか、悪かったのか、
わからないけれど、
だんだん、ここはすごい善意の中で暮らしている、
すごく信頼できるなと思って、
どんどん安心して
自分の身も心も委ねていけるようになりました。

道しるべも、藁をも掴む想いだったんですけれど、
なんか、ここで羅針盤とか
北極星を見つけたような気持ちになりました。

ここにいて、自分の説明できない
もやもやとした気持ちを持っていると、
自然と他の人がタイムリーに
それをわかりやすく表わしてくれて、
何というか、すごく必然性を感じて、
沢山学ばせてもらったなと思います。

どうして薬をやめられたのかというのは、
本当に簡単には説明できないんですけれど、
すごく思っていることは、
とにかく嬉しいし、ありがたいし、ここは素晴らしい。
それが私にとっては、何よりの真実ということです。

ここの良さを、
私のまわりの身近な人や、
心の病気の知り合いにどんどん伝えていきたいな、って。
心の病気の一経験者として、一サンプルとして、
皆に利用してもらいたいなと思っています。

一般社会は、いろんな誘惑や雑音が多いし、
まだまだ自分の問題や不安や心の癖はあるけど、
一朝一夕に直していけることではないので、
まずはコツコツ目の前のことをいただいて、
やっていくしかないと思っています。
そうしていけば、よいほうに導かれると信じて
やっていこうと思います。

何か困ったことがあっても、
それは解決できる課題だし、
いただいているからありがたく受け取って、
逃げずに取り組んでいこうと思います。

ここの印象を簡単にイメージするとしたら、
違うのかもしれないんですけれど、
ここはすごく高度な
レクリエーションコミュニティだと思いました。
親のいる実家よりも、ここが実家のような、
心の実家のような気がしています。

とにかく、皆に
ありがとう、ありがとう、ありがとう!
ここに出会えて本当によかったです!
まさに、苦しいことも悲しいことも、
良いことのためにあるんだと思います。
心の中では、
皆にハグしているような気持ちになっています。
本当は、沢山伝えたいことがまだあるんですけれど、
すごくまとまらなくてもどがしいです。

ここを去ることは去りますが、
ここの生活を伝えていきたいし、
自分自身もできるだけ続けて生きたいと思っているので。
例えば菜食とかもできるだけ続けたいなと思っているし、
心の学びも自分なりにやっていきたいなと思っているので、
実家の沼津は木の花ファミリーの
沼津支社だと思ってやっていこうと思います(笑)

それでは、ちょっくら、沼津支社に出向してきます!
ありがとうございました。

いさどん

毎回卒業式になると、
ケア担当主治医としてお話をさせていただくのが、
とても名誉なことだと思います。
その度に、僕らの生活に対する勲章が、
一つずつ増えていくなというふうに思います。

今、けいこちゃんの話を聞いていて思ったのは、
けいこちゃんがまわりの者たちを信じられなかった。
だけど、結果、信ずるということは
いいことだなと思います。

決して疑うことなかれ。
疑いを持って生きたら、
疑いの世界が自分の前に現れる。
信ずる者には、信ずるに足りる世界が現れる。
まさしく、名言だなというふうに思いました。

私たちも、一般社会で生きていて、
こういう世界があるよと風の便りで聞いたら、
「え、そんなのあり?
なんか裏があるんじゃないの?」
って思ったかもしれません。
そういう意味では、ここにいて、
それを日々目の当たりにしているということは、
とても幸せなことだなと思います。

ただ、私たちは、
偶然ここにいたのではないんですね。
自分がそのことを大切と思って、
この世界にたくさんの価値観がある中で、
あえて自分の意思でこの価値観を選んできた。

だから、大事なことは、
自分が何を考え、どんな行動をするのか。
その種が自分の中にあって、
その種をいつも吟味すること。
その種が芽生えてきた時に、
自分に何をもたらすのか、
ということを常に吟味している。
そのことが大事だなと思います。

日々の自分をよく観察していくこと。
一つ一つの行いを、
自分はなぜやっているのか観察していくと、
その結果が自分に何をもたらすのかがよくわかる。
そうしたら、自分で自分の行動を修正できる。
そして、困ったことを回避していける。
困ったことが起きないような生活ができる。
もっと言えば、困ったことが起きないのではなくて、
非常に豊かに生きていける。

毎回卒業式で想うのは、
ここに来て病気が治る人は沢山います。
でも、うつ病や病気が治った人の中で
卒業を迎えられるのは、37%です。
まだ、全員は卒業できません。
病気が治っても、病気の種がある。
その種に取り組んで、
自分の中にある病気の種を取り去っていく。
つまり、性格まで自分の中にメスを入れて、
自分の意思で変えていく。

これは、可能です。
そのために人間は、生まれてきて生きている。
そのために、いろいろなことが起きている。
そこのところまでメスを入れて健全にするために、
人間はそのために生きているのですから、可能なんです。
だけど、自分にとらわれていると、
なかなかそうはいかない。

けいこちゃんは、
病気というところまできて、
本当に見事に卒業を迎えました。
病気の種どころか、
心の種も自分で観ることができた。
「病気はこれで治ったよ」と言っても、
「いやいや、
私はもうちょっと心を磨いていきたい」
という自分の意思から、
ケア終了後もここにしばらく滞在した。
そこの部分も、今日のコメントを聞けば、
本当に健全な人になったなと。
これこそ、けいこちゃんに
けいこちゃんの人生を任せていいなと思います。

これからは、
こういった人々にこの世の中を任せていいなと思います。
そういう点では、
この世界は信ずるに足りるところだと思います。

そして何よりも、私たちが生きていると、
いろいろな問題に出会う。
人生の「ささくれ」みたいなもの。
それは痛くて辛くて嫌なものですね。
でも、それがいいものだということがわかると、
それがあってこそ、
私たちは育てられているんです。
問題事やささくれがいいものならば、
私たちはその他の何を疑う必要があるのかといったら、
この世界は本当に信ずるに足るところだなと思います。

そういった善意の心を自分たちが持ち続けて、
人生を生きる。
この世の中の見本として、
良い社会を引き寄せていく。
まさしくそれが、私たちの役割だと思います。

いつも、
「卒業おめでとう」という言葉と同時に、
「卒業してくれてありがとう」
というのが僕の気持ちです。
ありがとうございました。

「人は変われる」
メンバーからもご家族からも、
「別人のようになったね」と言われるけいこちゃんを見て、
心からそう思います。
それも、けいこちゃんの中に
「よくなりたい、変わりたい」
という求める心があったからこそ。
けいこちゃんは皆の言うことを素直に受け取って、
あっという間に、どんどん良くなっていきました。

ありがたい、ありがたいと言いながら、
笑顔で木の花を出発したけいこちゃん。
いってらっしゃい、けいこちゃん。
木の花沼津支社出向、皆で心から応援しています!
本当に本当に、いい出会いでした。