生きていること自体が神様との対話

今朝、早めに目が覚めたから、神様に
「ここのところ何日間か、
体調があまり思わしくなくて、何でしょうね」って。

でも、どう考えたって、
体調が思わしくないことは、
心の表われということである。
でも、わからない。
だから、久しぶりに、
己のことは己で見ていくというよりも、
わからないから何なんでしょうね、
と問いかける時間になった。

しかし、「こうだぞ」という答えをもらわなくて、
思考を巡らしていたら、答えを出してもらった。
問いかけて対話するように答えをもらうこともありがたいし、
大切だけれど、自分の思考を巡らすことによって、
その思考の中から答えが湧き出てくる。
それも、自分が考えたのではなくて、
その対話の結果、いただいた。
ありがたい。

前者のほうが便利がよくて、
ありがたみがあるようだけれど、
あまり人を育てない。
後者のほうは、
答えをもらった気になれないようだけれど、
自分を育てるということをいただきながら、
自分がそれに気づいていく。
思考を巡らせて、自分自身の能力を高めながら、
自分の中から答えを見出していく。
これが、優れた師に出会った時の学びである。

大学の先生に、
僕がよくお話することがある。
「知識を伝える学問は高校まででいいんです。
大学の学問は、
知恵を生み出させるための
人づくりの学問なんです」と。
このことも同じである。

気楽に答えをいただくことを、
人はとかくありがたいと思うものだけど、
答えをいただかなくても、
自分の中で巡らせながら、
迷いながらもそこで答えを見出していく。
人間そのものを育てながら、
自分の中から知恵を引き出しながら、
自分で道を開いていく。

これは優れた師が使う、
弟子を育てる手法。
弟子は、自分の想いがごとく、
学びをいただいて育っていく。

この世界があって、
私たちがその世界に降ろされて
生きているということは、
そういったことの表われである。
だから、神様と通じて、
「神様わかりません。教えて下さい」と問いかけ、
すぐ「それはこういうことである」
と答えをいただければ、
ありがたいことのようだけれど、
実はそれはありがたいことではない。
悩み苦しみ、わからない人生をいただいて、
そうやって生きていくことで、人が育てられる。
そこにありがたさが見つからないと、
人生は辛いことばかりになる。

実は、生きていること自体が、
神様と対話している。

「何も不満はありません。何ひとつ不満はありません」

そう思えば、事は何も解決されていないのに、
この世界の問題事は立ちどころに解決される。
ありがたいと思った時に、全てが解決される。
そこには、不満はない。
何も解決されていないのに、全てが解決される。
不満な時と何も変わらないのに。

全ては心次第。

「今日も一日、
自分の役割を果たさせていただきます」


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