根本の心が何ものか

人間はひとつの種で成立しているけれど、
それぞれの個性は思考によって大いに違いが見られる。
それに引き換え、動物たちの個体差は、
人間ほどは見られない。
こっちのライオンとあっちのライオンの違いが
どれくらいあるかといえば、
地域性や性質、習慣その他で多少違っていても、
おおむね大差は見られない。

それに対して、人間という生き物は、
思考、性質、習慣その他で、非常に差がある。
それぞれの舞台で、個性的な人生を演じている。

「人間はこういうものだ」と
ざっくりと語ることはできても、
人間の数だけ、ひとりひとりはオリジナルである。
それが人間の能力の高さ、特殊な存在の証でもある。

今後、人間が進化していくと
この多様性はなくなって、
この世界の仕組みに目覚めて
調和のもとに近づいていく。

過去に戻ってみると、この多様性はなく、
もっと野性的な時代であった。
ひょっとすると、今の時代が一番
人間は個性的でバラバラなのかもしれない。

仏教経典の中の法華経に、
正法、像法、末法という言葉がある。
お釈迦様が仏教を説いた時代は正法の時代といって、
人々は法華経を習ったことをまだ覚えていた。
心がまだきれいだから、
正しいことはこういうことですよ、
悪いことはしてはいけませんよ、
正しく生きましょうねと言うと、
素直に正しいことはいいことだと、
正しい道を歩むことが出来た時代。

像法の時代というのは、
人々の心の中に法華経の教えが
まだ残ってはいるが、道が掴めない。
しかし、その時代の人々には、
まだ正しいことを求めようとする心があった。

今の時代を末法の世といって、
人々が道理や理屈、知識が大変豊富になり、
上手に語るようになった。
しかし、真実の教えである
法華経の根本を失ってしまって、
物や形に捉われてしまい迷いの中にある。
そういう人たちが生きる時代である。

だから、この世界の根本をわかるために
法華経を学びなさい、と。
それが、末法の衆生を救済する道で、
この法華経をもとにしてそれを広めるのが、
経典の中に記されている上行菩薩といって、
菩薩の中でも特に優れた菩薩。
それが、法華経を根本にして宗門を開いた、
日蓮さんである。
そのことは、
日蓮さん自身も御書の中に残している。

法華経の中には、
そういう優れた菩薩が現れて、
法華経を根本に人々に教えを説くであろう。
ただ、その上行菩薩は、
末法の世の中で
真実を忘れてしまった人々に説く存在であるために、
大変な迫害を受けたり、
命を奪われんがごとくの法難を受けるであろう。
しかし、この世界の法を動かしている神々が
その者を守るであろう、
と記されている。

どんな優れた教えであっても、
その根本の精神が伴っていかなければ、
ただの方便になってしまう。
それには、日常の生活のもとにある心が何であるのか、
しっかり見ていかないといけない。

僕がいつも大事に想うのは、
何を語っているのかというよりも、
どういう心をして語っているのかということ。
本当にこの世のこと、
自分のことを想って日々を生きているのか、
相手のことを想って語ったり行動しているのか、
ということが大切である。

人々の想っていることと語っていることは、
必ずしも同じではない。
つまり、相手のことを想っているように語っても、
実は想ってないことがある。
そのカラクリをよく観ていくと、
自分に対する想いが強くて、
相手のことを想っているように見えても、
自分事が優先していることがある。

いろいろな経典や教えは沢山あるけれど、
自分の組織や教えを正当化するものになりがちである。
今、宗教が信じるに足りるものであるかどうかは、
考えものである。
自分のところだけが全ての真理で、
他は違っているものであるような表現をしていることがある。
しかし、そんなことをしていたら、
それぞれの主張が原因で対立が起きるばかりである。

そこで考えられるのは、その根本の心。
一体全体、その言葉の背景にどんな心があるのか。
わかりやすく表現すれば、世を想う清い心、人を想う心。
それは、キリストの言葉で、
「汝を愛するがごとく、他を愛しなさい。」
この世界をひとつの命として、あなた自身と観ていく。
そのことを前提に、根本を観ていく。

それは誰の考えでもなく、
この世界の命の仕組みそのものである。
そこに自分の根本を置いて、
ものを観ていくことが大切である。
この世界があって、この世界が動いて、
その中に私たちもいて、
私たちのもとはこの世界の始まりに生み出されたものであり、
今も生き生きと続いている。

この時代、人間の歴史の中では、
もっとも個が激しく強い時代だと思われる。
お互いが違う生き物のように自己主張を繰り返し、
個性的で、バラバラである時代。
競争や対立の中で、
人間は優れたところを沢山発揮してきた。
しかし、その結果、人間の世界はバラバラである。
高い能力は発揮しているが、
非常に愚かな現象が、今この世界に現れている。

過去を辿ると、人間は動物と同じように、
ひとつの種として違いはなかった。
それが今、個がバラバラの状態になってきている。
これがまた過去のようにひとつに戻る。
これは戻るのではなくて、進化である。
進化していくと、またひとつになっていく。
それを束ねる根本は、
自然の仕組み、命の仕組み。
私たちを生みだしたものの仕組み。
そこに思考を働かせて、
自分の行動が自然の仕組みに沿った行動をするということ。
今はそこに移行する段階で、
個々の自己主張がピークに達した時代である。
いろいろな人がいて、そういった主張を認めながら、
成長のプロセスとして学んでいくことが大切である。

今の世界は、
沢山の国々にそれぞれの法律があるように、
ルールだらけ。
その中でルールとルールを比べると、
それぞれにまったく違う世界が展開されている。
さらに、それぞれが生まれてきた素性から、
いろいろな人生があって自己主張がある。
個々に辿っていけば、全て認められることではあるが、
自己主張を通して得られるものは、
不調和であり、対立であって、豊かさではない。

多様性がある人間には、
根本に共通の目的があるはずで、
大切なのは、
個々が自己主張するような我の部分ではなく、
生命としての根本の部分。
この世界の命として、万物と共有している部分。
そこから出てくる仕組みで生きていくことが
大切である。

今はまだ、
そういったことが理解される時代ではないから、
なかなか難しいことではあるけれど、
進化の過程で必ず人がそこへ行き着くことは間違いない。
だから、それに気づいた者は、
世のため他人のためという大事を信じて歩み続ける。
世のため他人のためというと、
人間世界のことだけみたいだけれど、
この地球に訪れる未来にふさわしい生き方を生きる道である。

富士山に移住する時に、皆にこんなことを伝えた。

「小さな志を持って生きていくと、人に認められたい、
人に理解されて生きていきたいという志になってしまって、
まわりの人たちの御機嫌伺いをしなければならない。
けれど、大きな志を持てば、
まわりの人たちが理解しなくても、
自分の姿勢に信念を持って、
歩んでいくことができる。

無理解でも行けるというのは、
大きな志があればこそできること。
あなたが、誰か一人、
例えば僕を信じて行こうとするのではなく、
自分の中にある大切を生きようとする心。
あなたの中に神がおられて、
それを信じられたら行きましょう。
人間を信じて歩むようなことでは、長続きしない。
それは、自分という個の満足になってしまう。

大きな志。それを持って歩んでいけば歩める。
この生き方は、世の中の二歩先を行く歩み。
一歩先というのは、皆がそのことに対して、
大切ということは理解できているけれど、
実際にはやれない道。
しかし、二歩先を行くというのは、
世の中がまだそこに至らない。
志に目覚めている人々であっても、
その生き方は大切だなと思えても、
本当にそのように歩みきれない。
そして、ほとんどの人たちは、
そのことの大切さをまだ理解できないから、
不可思議なものに見えてしまう。

そういった中で、先駆けとして生きるということは、
大きな志を持たないと歩んでいけない。
無理解な人たちのためにも、
それを生きていかないといけない。
それは、しっかりとした大きな志。
己を捨てて、世のため他人のために生きるという志。
そういう志を持って生きていかないといけない」

このことを皆に伝えて、この生活が始まった。
そして今、まさしくこの道を歩んでいる。

多くの人々には
まだそのことが理解できないけれど、
必ずその理解者はいて、この道の歩みを守ってくれている。
それがこの世界の根本の仕組みを信じていくと、
神様の後ろ立ての現象が表われてくる。

いろいろな人がいて、いろいろな主張がある。
それをどれも否定しない。
しかし、それが心の中のどこから出てきているのか。
心の根っこを観て、
それがこれから来るべきこの世界の目的、
役割として捉えていくことが大切である。
一歩先だろうが二歩先だろうが、
間違いなく世の中が後からついてくるわけだから、
信念を持って生きていきたい。

人間は、日常の中で、
何かが変化しそうになると不安になるものである。
例えば、食糧危機が来るのではないかとか、
会社の経営が行き詰って失業するんじゃないかとか、
いろいろなことを思って不安になる。
今現在の状態を壊したくない、
それを守ろうとする心がそこには働く。

現状を守るという意識になると、
少しの変化でも不安になるもの。
しかし、視点を少し変えると、変化することは、
新しい自分がそこにいるということ。
もっと良くなるかもしれないぞ、という発想になれば、
変化することはすごく楽しみで、
何かが壊れていくということは、
新たなことが起きる始まりである。

守ろうとする心があると、
変化することが悪いことのように思えてしまう。
その心の根っこにあるもの。
それが全部、その人の未来に起きる出来事を誘導している。
そこのところに気づいていくことが賢明である。

人類は、生命として誕生してから、
貧しい時代を過ごしてきた。
長い間自然のままに、
自己主張を全く許されずに歩んできた。
しかし、その時その時、不自由があればこそ、
喜びがあって生きてきた。
郷に入っては郷に従うように、
価値観が変われば、
違う価値観の中でも喜びはあるはずなのである。
今の時代のように、何でもあるのに喜べない時代は、
それとは対照的である。

そのことに気づけば、何でもいただく心を持てる。
縄文時代の人間と私たちとどのように違うのかと言ったら、
ほとんど変わらない。
チンバンジーと人間のDNAがほとんど変わらないように。
全体のルールが変われば、
そこには新たな生き方があって、何も恐れることはない。
それは、退化することではなく、
新しい価値のもとに進化することである。

今を守ろう、維持しようとして、
自分を自分の中に閉じ込めている。
成長させないでいる。その根本を忘れてしまう。
全体を忘れて、個々に自分を成り立たせようとするのである。
これは、個性的な表現の仕方の生き方である。
それは人間が能力が高く、
特殊な生き物である証ではあるけれど、
そのことがこの世界に混乱をもたらしている。

どんなことでも、根本が何であるか、
そのことをしっかりと吟味していくことが大切である。
それをどう使うかによって、
自分にとっても、他人にとっても、社会にとっても、
有益にも有害にもなるのである。


信頼が幸せの種

今日は、ケアがスタートしてからもう少しで2カ月になる、
けいこちゃんのご両親がファミリーを訪れました。
いさどんとの面談が始まるや否や、
開口一番、けいこちゃんのお母さんが
嬉しそうに話し出しました。

けいこちゃん母:

けいこから電話がかかってくると、
木の花さんでの生活が楽しいって、
明るい声で言うんですよね。
もうそれを聞いたら、主人と二人で泣いてしまって・・・。
楽しいっていうのを、
もう何年も聞いてなかったものですから。

いさどん:

一番いいことですね。

けいこちゃん:

実は、私と父親の性格が似ているから、
連れ添っている関係が良くないのかなって、
最近思い始めているんです。

いさどん:

どの人と関係が良くないというよりも、
どの人とも良い関係を持てる
つきあい方というものがあります。
自分でわかって気付くということ。
何かマニュアルがあるわけではないから、
時々、こういうことでいいのかな、
とふと気付いて、
そこを冷静に見つめ直すことが出来さえすればいい。
この関係はいつもこの関係というわけではなく、
その日の気分や出来事の内容によっていろいろあるから、
やはりその都度新鮮に観ていくということですね。

ただ、気持ちが出たままということではなくて、
起きたことをいつも客観的に観て、
どこから出てきたのか、
どういうふうに考えたらいいのかを
観ていければ大丈夫です。

けいこちゃん父:

自分も気をつけないと。

いさどん:

気をつけるといっても、
家族の中で気を使ってばかりだと不健康ですからね。
自分の思い通りに相手をしたいというのではなく、
本当にお互いが自立しながら、
気持ちよく、相手のことを想って、
客観的にアドバイスできればいいですよね。
ついつい身内の関係だと、
思うがあまりに相手をこうしたい、
こうなるべきだとなってしまいます。

親しい関係でも、ちょっと一線を置いて、
客観的にお互いを見つめ合える距離でいられるといいですね。
逆に、お互い冷たすぎて、
それぞれということで交流が全くないのも、
身内としてはおかしな話ですから。

けいこちゃんも、臆病にならずに、
その都度やっていくということで、
先に、「またこうなるんじゃないか、
ああなるんじゃないか」って考えるのは、
余分なこころだからね。

けいこちゃん父:

つい、自分も取り越し苦労してしまうんですよね。
こういっては悪いかもしれませんが、
今までも、「良くなったかな」と思うと、
今までだとすぐに元に戻ってしまうことがありまして。
だからこちらでお世話になっても、
実はまだ半信半疑なんです。

いさどん:

でもここまで、
彼女が安定している状態というのは、
今までにはなかったですよね。

けいこちゃん母:

はい。良くてひと月くらいでした。

いさどん:

話し方やものの捉え方がしっかりしていますからね。
そこは大丈夫です。
そこは、お互い信頼しないと。自分のことも信頼しないと。
けいこちゃんはここでは優等生ですから、
こちらとしては感謝、感謝ですよ。

けいこちゃん母:

私たちも、本当に感謝、感謝です。
今まで、本当にいろいろとありましたから。

いさどん:

来た時と今では、全く別人のようですよね。
縁あってここと出会わなければ、
今でも病気のままかもしれませんし、
本当に良い出会いでした。
なにはともあれ、非常に順調でしたね。

けいこちゃん:

順調に行きすぎて、怖い…。
何か起こるんじゃないかって思ってしまって。

いさどん:

自分にも他人にも、信頼を持たないとね。
それと、良いイメージを持つことが大切。
悪いように想えば悪いようにものは展開するし、
良いように想えば良いふうに展開します。
必ずこの世界は、そういった仕組みですから。
結局、自分が種を播いているのですから。
やはり、いいふうになるように自分を信じていかないと、
そういう道は開かれないですからね。

僕なんて、
「何でもいいんだいいんだ」と思ってますから、
病気になったら、
「これがきっかけで、
今までのことが良くなるんだ!」と考えます。
何でも順調、順調ということですね。

終始、和やかな雰囲気で面談が進んだのも、
ひとえに、けいこちゃんのうつ病が
完全に良くなったからでしょう。
あとは、自分の心の癖をコントロールするために、
もうしばらくここで滞在し、
来月には社会復帰して
自分の可能性を試してみたいと語ってくれました。
けいこちゃんの卒業までラストスパート。
ファミリー皆で応援しています。


体に導かれて

木の花ファミリーでは、
これまでに様々な人をケアのために受け入れてきました。
しかし、うつ病の61歳のお母さんと
統合失調症の36歳の息子さんのお二人を
同時にお預かりするケースは、今回が初めてです。
本来ならお一人ずつ取り組んで
良くなってもらうことが理想ではあるのですが、
今まで二人で暮らしてこられて、
自分たちでは現状をどうすることもできないということで、
お二人同時にケアスタート、ということになりました。

今回のケアのポイントは、
まず、お二人の親子関係の改善にありました。
お母さんのきっこさんお一人なら、
うつ病もすぐに治る見込みがありましたが、
息子さんのあっくんといると、
きっこさんの姿勢が
冷静ではいられなくなる傾向にありました。
残念ながら、あっくんはケアの途中で木の花を去り、
自分の力でこれからの人生を歩んでいく決断をしたのです。
そして、いつの間にか、
それを受けても冷静でいられるきっこさんがいました。

「きっこさんは、子離れという点ではもう合格だね」と
ケアの主治医であるいさどんが言うように、
これからきっこさんは、
自分の病気を治すことに専念していかれることでしょう。
今回は、ここでの生活に慣れ、
朝から農作業にも出るまで心身が回復された、
きっこさんのケア途中経過レポートを紹介します。

「体に導かれて」

木の花ファミリーに来て1日目。
自ら睡眠薬を止める。一晩ウツラウツラ。
2日目。意識したわけではありませんが、
自然に体が薬を拒絶し、
一切薬を飲もうとする心になれず断薬。
2日間全く眠れず、深い痛みと苦しみにのたうつ。
その間、意識の記憶とは別の次元で、
無意識の次元の記憶が飛び交い、
ああそうだったのか、という深い気付きの体験をする。
輪廻転生の流れの幾億というDNAの運びのゆき先に、
永遠の安らぎ、至福の時に導かれ、
眠りにつく喜びの体験。こ
の時を実感するために、無意識体験が求められたのか。

3日目。
苦しみの中、布巾たたみが
こんなにも高いハードルの労働であるかを実感。
重度障害者、認知症の方々の気持ちを追感。
夕方、おフロを幼児グループの子どもたちに
ご本を読み聴かせながら待っている間に、
幼児のねだる本が金のがちょうであることを見るうちに、
フと小学校2年の時に聴きおぼえた、
ミュージカル金のがちょうの歌がとび出し、
たのしい、たのしい体験をする。

その中で夕食時、顔が少しあがり、
みなの姿をキャッチし、
そのうち、10年間うつ病にとらわれ苦しんでいた自分が、
あまりにこっけいに感じ、一人思い出し笑いがとまらない。
狂者の気味悪い思い出し笑いか。
笑い、この楽しみをここに来る前の晩、
あっくんと1晩以上笑いころげ、
植物状態でなくなった母へのとらわれが一挙に解消。
この一時の気付きがなぜおこったのか知らず。
大事な問題をクリアしてのファミリーへの参加であったが、
ここにおいても一挙の気付き体験。
ファミリーのみなさんの笑顔の中で喜びの体験。

翌日かその次か、長男の車で朝6時半、
木の花ファミリーを立ち、つくば市に向けて走る。
その中、3~4時間、1人で話し続け、
多少の話が飛ぶのを長男に指摘されながらも、
クリアな意識で楽しい楽しいドライブ。
しかし、午後3時から3時間の間、どん底におちいる。
自分の名前を書くことも、目をあけることもあまりに辛く、
しかし、その中、多くの書類に自筆で名前を書きつづける。
そしてまた意識があがり、長男とおいしい中華料理を食する。
夜12時すぎまで私一人のおしゃべりが続く。
こんなハイテンションのことばのほとばしりにただただ驚く。
その中簡単な算数に全く困惑する現実がのぞき、
ああそうなのだと納得。

次の朝、体が自然に動き、もみほぐりの体験をする。
夜、あっくんの旅立ちを見送る。
オレ、ハードロッカーになる最後のチャンスにかける。
あっくんの言葉と涙をたたえた瞳。
私のクリスタルチルドレン、はばたけ。
この世の見納めかもと思いつつ、グッドバイ。
また会おうね。あっくん。
いっくんの弟、あっくん。

ママは立ち直るからね。

いさどんより:

社会的にも高い地位で、
母親と両立されてこられたきっこさん。
健康を取り戻して、子離れ親離れを機会に、
あなたの高い能力を社会のためにも家族のためにも、
活かしていってほしいものです。

何よりもあなたのために、あなたらしく!!


宇宙国大統領として

昨夜、「7月4日に生まれて」という
ベトナム戦争の映画を観ていて、
人間はどうしてこういう生き物なんだろうと
改めて思いました。
人々には、そこのところだけはぜひ、
気づいてもらえたらと思っています。
(この映画について解説したいのですが、
この場ではできませんので、
皆さんもぜひ一度観てみて下さい。
レンタルショップ等にあると思います。
木の花でも上映会の予定をしています)

今、国会で民主党と自民党が、
戦争のような対立的立場を取っている。
双方とも豊かな国、
調和のとれた国を目指しているはずなのに。

平和運動家たちも
世の中の平和を願っているはずなのに、
自分たちの考え方が通る
平和な世の中をつくろうとしている。
みんな平和を求めているのに、
自分たちの考えが通る平和を求めて
他の考えを潰してしまったら、
それは平和ではない。

自然を観たら、
それぞれの役割を果たしながらつながり、
調和している。
私たちはそこから生み出されている。
現在も、その仕組みの中で活かされている。
私たちが今存在しているのは、
宇宙の中の点である狭い地球上であって、
地球の外の広大な世界は全く違うのに、
なぜそこに気づかないのかと思う。

そんなに難しい話でも、
大学で勉強するような話でもない。
子供だってふっと考えたら、
どっちが大事かわかるようなこと。
どんな子供でも、
「あなたが幸せになるためには、
友達を大切にして、
友達も幸せにならないとだめでしょ。
それがみんなで仲良くということでしょ。
みんなは一人一人のことを大切にしていこうね。
一人はみんなのために。
みんなによって自分がこうやっていられるのだから、
みんなに感謝して、
みんなのために日々を送ろうね」
と言えば、ちゃんとわかる。

One for All, All for One.
たったこれだけの、すごく簡単なこと。

あなたは、その富を自分だけのものにして、
何が満足なんですかと言ったら、
きっと脳の中に欲望を叶えた時に
分泌される物質があって、
その快感に麻薬みたいに
とりつかれているようなものだと思う。

もっと大きな声でこのことをみんなに広げ、
いさどんが言っていることに
「そうだ、そうだ」と言っているだけじゃなくて、
その人も「そうだ、そうだ」と行動するべきだ。
政治勢力だろうが、市民勢力だろうが、
国家勢力だろうが、
こういう動きを皆でつくらないといけない。

アメリカは、国益国益と愛国心を国民にたきつけ、
若者たちに愛国心の証を示せといって戦争に行かせる。
今までどれほどの爆弾を地上に落として、
どれほどの人を平和の叫びのもとに殺してきたのか。
そして、それは今も続いている。
そのルールが世界中のルールになり、
それと対立するルールが相手側に仕組みとして育ち、
対立の世界が成り立っている。

これほど幼稚で馬鹿げたことも、
宇宙の法則なのである。
それはどういうことかと言うと、
幼稚だという法則。
馬鹿げているという法則。

神様はそれも学びとして与えてくださっている。
そこまでのことを通して、そこまでの痛みを持って、
そしてそこまでの辛さの上に学んでいけば、
これを二度と起こさない場所ができるだろう。
けれども、私たちがその学びを達成できるまで
いつまでも待っているのではなくて、
自分たちから気づいて、
自主的にやめていかないといけない。

先日のテレビ中継で、
名古屋市長の川村たかしさんが、
「世襲の議員やお金がある議員ではなく、
お金がなくても、大事なことを
この国に対して語ったり行ったりできる人が
政治家になれるような制度を、
なぜつくらないのか。
それこそ、そういう人たちを
国がお金を出して支えていくということが
あってもいいのでは」と言っていた。

そういう国をつくろうと思えば、
私たちにはつくれる。
主権は私たちにあるのだから。

大本教の出口王仁三郎が、
人類愛善会をつくっていろいろな活動をした。
彼は、この国の制度、
世界の人々を変えていこうとした。
それが「愛善」ということ。
今、鳩山首相は、友愛政治を掲げている。
友愛を掲げて総理大臣になろうとする人は、
そんなに沢山いやしない。
どちらかと言うと、
利権の上に政治家になる人が多いのだから。

出口王仁三郎は、愛と善。
鳩山さんは、友愛。
そして、木の花の三色旗は、
善と愛と調和である。

この世界の仕組みを見て、
その仕組みの中で自分の役割をしっかりと果たし、
ゲームのように楽しみながら生きていく。
これが本当の進化した先の、地球上の姿である。

そして、この宇宙の仕組み、法則、
神様の心、自然の意思。
そういったものを理解した人たちを、
神人(かみびと)や覚者と言う。
そういった人たちがつくる
世の中、地上は、楽園になる。

ユートピア運動というのが昔あったそうだけれど、
それを達成した所はないという。
ユートピアを掲げて
現実は違う所で生きるのではなくて、
私たちは本当にそういう場所に立つべきなのではないか。

宇宙国大統領になろう。
自分が宇宙人だと認識し、
そして自分がこの世界の代表であることを自覚して、
その意思にふさわしい
善意と愛と調和の精神を発信していこう。
そういう人は全て、宇宙国大統領になれる。
そして、その人が宇宙のことを想っている場所が、
その人の執務室になる。
宇宙国大統領の執務室。

僕は、ものごとを語っている時や語った後に、
これを聞く人や読んでくれる人のことを想う。
時々、お釈迦様のことを想ったり、
出口王仁三郎のことを想ったりするように。

私たちは臆病にならないで、
そろそろ立たないといけない。
もう一度純粋に、この世の中をつくるという
その心で立たないといけない。
善意と愛と調和の精神で。

宗教は悪いもののように言われることがある。
何かよくわからないものを見ると、
それって宗教なんじゃない、とか、
実際それに問題を見つけると、
やっぱり宗教でしょうと表現される。

しかし、宗教はそんな愚かなものではない。
本来、宗教は尊いものである。
愛と善を掲げて教えを説いているはず。
それなのに、宗教人であることを
組織の中に抱え込んでしまって、
人々に広げないなんて。

ならば、宗教を捨ててしまえばいい。
宗教を捨てて、本当の善なる心の上に、
その精神を持つということ。
それこそが宗教である。

何の側にも立たない。
「神」という言葉が通じないなら、
違う言葉を使えばいい。
この世界の仕組みでも法則でも。

そうやって特定のものにすがるような発想ではなくて、
冷静にものを分析したら、
この世界に流れている法則や、
この世界の出来事の奥にあるメッセージが見える。
それはすべて、
統一された法則によって成り立っている。

その心で立ちあがる準備をしてほしい。
若者たちが畑を耕す農的生活を実践するというのなら、
次の世代の人たちは、
心を耕す生活の場をつくらないといけない。
壊れてしまった人たちの
心の癒しの畑をつくらないといけない。

人生の終末を無意味に消耗し余生を送るのではなく、
心を若く持ち、人生の再スタートとして
世の中のために我々は役に立つぞ、
と生まれ変わって
新たな人生の始まりを迎えるくらいのつもりで
人生を送りたいものです。

以上、宇宙国大統領兼
「おやじの館」の主の演説でした。


我が友よ

僕が三十歳でお釈迦様から道をいただき、
「千日の業をいたせ」と言われ、
瞑想をしていた頃の話。

千日の業が進むにつれて、
自分の損得でものを観たり、
語ることをしなくなっていった。
ある時、部屋の隅の高い所から自分を観た直後、
宇宙空間に飛び出て地球を観るという体験をした。

地球を観ている時には、
感動の中に懺悔の心が入り混じっていて、
強い自責の念を覚えた。
この美しい奇跡の愛すべき星が、
このような状態にあるということは、
確かにその中にいる人間の仕業である。

大きな捉え方で言えば誰が悪いということはなく、
この星の成長の過程なのだという見方もできる。
しかし、紛れもなく自分は、
そのような場所でそれを見る立場にいる。
そして、自分には地球をその状態にしている原因がある。
もっと自分が優れていれば、
そして自分がその在り方を
沢山の人々に伝えられるようなものであるならば、
この現象はないはずだと。
そのように自分に戒めとして伝えながら、
全ての人間に
人間にはそういう素質があるのだからと
伝えていかなければ、と思った。

僕がお釈迦様から道をいただいた初めの二年間は、
自分がいただいた言葉に対して、
自分が全くそぐわない日々を送っていることが辛くて、
自分で自分の頭を殴るような日々もあった。
誰でも、そういうふうにそぐわない、
ふさわしくない所から育っていくものであるのだが。

地球の姿を見ると、
その姿を見るだけの立場にいるものとして、
それを自分の罪として懺悔した。
誰かに対して、何かに対して、
懺悔するというわけではない。
目の前にあるもの。
それが自分自身であったり、
奇跡であったり、
そういう美しく尊いものに対して、
それが侵されている。
そのことに対して、
自然に懺悔という感情が湧き出してきた。

宇宙空間から地球を眺めながら、
地球が何ものかということを確認すると同時に、
地球の真実を伝える活動をしよう。
そういう心が出来上がってくると、
だんだん宇宙空間から解き放たれて、
地球に戻ってきた。
そして、瞑想している自分に戻った。

そんなことがあった頃、
僕は「真釈天技場」づくりといって、
僕の田舎に心の学びの道場を創るために、
毎週、田舎の土地へ通っていた。
行きと帰りの車の中で、
僕は自分の想いに浸ったり、
一種の瞑想状態になっていた。
僕の家から田舎まで1時間半くらいの行程を、
そんな時間として使っていた。

その頃、僕はこの道をいただくお釈迦様の存在は、
自分にとって何なんだろうと考えていた。
確かに自分は、インドに縁がある魂。
しかし、お釈迦様そのものとは違う。
そうすると、自分はこの方の弟子なんだろうか、と。

それまでは自分が想わなかったことを、
少しずつ想うようになって、
この方と自分の関係は何なんだろう、
その関係を知りたい時期があった。
そんなことを考えながら、土地の開墾に行っていた。

ある日の夕方5時頃から6時頃の間、
家に帰る車の中。
その日の天気は良かったから、
あの頃だと夏の季節だったのか。
5時から6時の間で、
あたりはちょっと暗くなりつつ、
あたりは夕日の色でちょっと赤っぽい。
そんな時間帯に
「お釈迦様にお尋ねしたいことがあります」と聞いた。

「私は、あなたから道をいただいて、
今このような生き方をしていますが、
かつて私はあなたのことを親のように、
親でも母のように慕っておりました。
その時に私は、赤子でした。
そして、私はあなたを父として、
心の道をいただくようになりました。
そしてそののちに、
私はあなたを自分のこの道の師として、
道をいただくものというふうに思っております。
ここで師というのは、
血縁である父、母を超えるもの(魂の親)と言える。
そういって私の中で変わっていくあなたを思って、
私にとってあなたは一体全体何者なんでしょう、
という想いが湧いてきました」
と運転しながら尋ねた。

答えが返ってきた。
「かつて私は、そなたの母であった。
かつて私は、そなたの父であった。
かつて私は、そなたの師であった。
そなたがそなたという立場を保っていた。
そういうものであるから、そういう関係であった。
しかし今そなたは、己を離れて己を観る。
そういうものになった。
だから、そなたは我が友である」
というふうに言われた。

褒められたり、何かを託されると、
僕の癖でいつも、
「そんな、滅相もない」という心が湧いてくる。
そういう心が湧きながら、
「そうですか。
ではそのように自覚していきます」
と言ったことを覚えている。

この世界はぐるぐるぐるぐる回って、
増えもせず減りもせず、
循環して巡り巡るものである。
増えもせず減りもせず、
同じことを繰り返していても、
一循環、二循環、三循環とそれ自体進化している。

そういう意味では、
この世界は常に進化し続けている。
進化しながら進み続けている。
今の自分に捉われて、
成長するということを忘れてしまったものには、
無意味な循環に観える。
それこそ、退化するように捉える人も中にはいる。

しかし、この仕組みの大切さに気づいたものには、
確実に意味ある循環、進化の循環を与えられる。
一つの循環の中で、
低い所から高い所へ見事に成長する。
それを楽しむ。
そして、また元に戻って、
低い所から高い所へ成長する。
一回やったこと、二回やったことで、さらに成長する。

そういう進化の仕組みがここにあるとしたら、
私たちは今の世界の在り様を観て、
そのことを自分の中にしっかりと戒めて、
日々を送っていかないといけない。
自分の日々の欲望を満たすだけで
日々を生きていくようでは、
私たちはとても宇宙から観たら素晴らしい星、
地球の一部と言えるだろうか。

やはり大きな視点に立ち、
この特別な星が何ものかということに気づいて、
そこにいる自分がふさわしいものなのかをしっかりと見ながら、
それを自覚して、感謝し、喜びとする。
その喜び、感謝を人々に伝え、分かち合い、
そういった自分の存在を表現する場所を
いただいていることを喜びとする。
そういうものでありたいと思う。

最近僕の話は、
一般の人々の日常から離れ気味になっている。
それは、この精神をしっかりと日常の中で持ちながら、
それぞれの役割、ご飯を作ることでも、
また会社へ行くことでも、政治をやることでも、
日々の自分の生業に臨んだら、
エゴ的な生き方ではなく、
世のため他人のために生きていることになる。

過去に聖者が沢山現れて、
この道を説いている。
その人たちが特別なのかと言ったら、
当たり前に目が二つ、鼻が一つ、
口が一つ、耳が二つ、手が二つ、
それに五感というものをいただいて、
それを兼ね備えた肉体を一ついただいて、
この世界に生きていただけである。

私たちと同じ器をもらって、
何が違っていたのかと言ったら、
宇宙観、世界観、自然観。
そこから観た自分自身であったり、
人々の姿を語っただけの違いだと思う。
それこそ、人間とチンパンジーのDNAが99%同じなのに、
なぜこれほど違うのかというくらいで、
ほとんど同じなはず。

メシア達も怒りもしたし、
嘆きもしたし、愚痴りもした。
だけど、怒りや嘆きや愚痴が、
己の損得のためだったのか、
それとも世を観て、人々を観て、
嘆き悲しみ憂いて、
その幸せを想うがあまりに、
怒り、嘆き、愚痴った。
その違いは、同じ現象と言えども大いに違う。
そういうことに人々がそろそろ気づく必要がある。

今、僕は風邪のリハビリ中に
3日間この部屋で休みながら、
世間の情報収集の機会をもらっていた。
テレビでは、ほとんど国会中継を観ていた。
確かにこの国のために、皆、一生懸命やっている。
ニュースでは、非常に残虐なニュースが流れていた。
世の中にはいろいろな犯罪や
そこからくる悲しみがあって、
世間の情報を受け取りながら進化していく
自分の姿を感じ取ることができる。

自身の磨き方、歩み方を、
被害者も加害者も全てを神様の代理として、
私たちに見せてくれている。
自分も皆の代理として、自分の姿を皆に見せている。
他の人たちも、神様からいただいた役割を果たしながら、
この世界の在り様を人々に見せてくれている。

それぞれの役割を果たしながら、
皆がこの世界を創っている。
こうやって、
私たちは密接にこの世界でつながっている。
区別できないものとして。

最後にお釈迦様は、
「そなたは、己を離れてものを観るようになった。
己の肉体すら離れて、己を観るようになった。
そなたは赤子であったり、子であったり、
弟子であったりしたものが、
私の友であると言われた。
私と同じなんだ。
友というのは、上下関係のないものである」
と言われた。

生きとし生けるものが対等の世界。
お釈迦様の言う平等な世界。
そういうことを示しておられると思っている。

実は、その時にはそこまでの深い意味は
わかっていなかった。
いただいた言葉に涙しながら、
暗くなってきた町を車を走らせて
家へ帰っていった覚えがある。

今語ってみると、すごく深い意味がある。
あれから、25、6年は経っていると思う。
あの時の学びは、
今もっと深くなってこうやって出てくる。
学びというのは、
一回学んだら忘れるように自分のものにするけれど、
学びというのは、いつもその人の中で生きている。

そして、その学びを次の学びにつなげ、
細胞が分裂するように大きくなって、
私たちの中から湧き出てくる。
そういう生きた学びをすることが大切である。
そして、学びというものが知恵につながっていく。

お釈迦様と出会い、
知らない間にそういう立場をもらい、
役割を果たし、そして生涯を終わる。
知らない間に赤子から一人前に育っている。
だから、誰もが自分が進化する、
成長する場所にいるということを信じて、
学ぶということを大切に生きていかないといけない。
捉われて、昨日と今日と同じ生き方を繰り返して、
生涯の終りを迎えることではいけないのである。