いさどん:
毎日同じ気持ちで、気分よく朝を迎えられたらいいんだろうけど。今日はね、気持ちが落ちている朝を迎えることもあるなって思っていた。でも、その原因は様々だよね。昨日のことを引きずって、気持ちが落ちていることもあるだろうし。今日の気持ちが落ちている原因は何かな?と思っていた。
ようこ:
何でだろうね。今、メンバーの中にも、大きな心の滞りがある人はいないよね。
いさどん:
いや、そういった身近なことではなくてね。今朝ちょっと早くに目が覚めたから、枕元にあった「聖書の描く地球の今と将来」という研究書を読んでいた。その中に、「聖書はなぜ真理の言葉と言えますか」というところがあってね。聖書の中での宇宙の成り立ち、人間が最初の二人から始まったとか、生物の起源は別々に創られたとか、そういうことが書いてあって、アインシュタインや天文学者の話、ガリレオ、ケプラ、ニュートンとか、そういった人たちの物理的な法則を引用して、聖書の中に書かれていることが真理であると表現されている。でも、その理論自体が無理に結びつけて書いてあるようにしか思えなくて。また、仏教を引用して、仏教は神を存在させない無神論者の考えだと書いてあったりね。そうすると、この書から受ける印象は、一つひとつが正しいか正しくないかということよりも、自分たちの側が正しくて、他の理論が間違っている、と書いてあるように受け取れる。
僕は、仏教もキリスト教もそれ以外の宗教も正しいと思う。それは、この世界が非常に多様性でできていて、見方によってどういうふうにも解釈できるから。でも、そういった表現をすると、これを読んでいる人や、不特定の人がこれに出会うとすると、もし自分が正しいと考える人が見るとしたら、きっとあれは間違いだって。その対立の対象にされるのかなって思うと、気持ちが暗くなってしまう。対立の対象になりたくてこれを思ったわけではないし、自分たちが正しいというわけでもない。
自分たちが正しいと思うのも真理だけど、違う側から見るとこちらこそ違うと思うことも真理である。そうやって、お互いを認めあうことによって、この世界ってできているんだよね。そして、お互いを認めあうことによって、つながるということができて、相手と自分が一緒の側にいるということになる。
僕は、自分で一つ一つ、あれはどうなんだろう、これはどうなんだろうって考えていって、こういう結論にいきついたんだけれど、聖書のような沢山の人たちを束ねている、沢山の人に影響のあるような書物が、なぜこういう姿勢をとるんだろうと。でも、それを言ってしまうと、聖書を批判してしまうことになってしまう。決して聖書やその側に立つ人たちを批判しているわけでも、間違いだって指摘するわけでもない。この多様性の世界の中で、どんなものも違うってことを認め合いながら、違いあるもの同士がつながって、さらに大きなものが出来上がり、その連鎖であり続けること。それがこの世界の仕組みだと思うんだ。
今見える景色というのは、そのもの、形あるものにも、形のないものにも、強く執着していなければ、正しいものの見方ができるんだよね。だけど、その正しいというのは、この世界は常に変化しているもので、結局、思考の中で、その時にある材料で見通しをたてるものであって決定ではない。だから、真理も、思考する延長線上にあり、そしてその思考する能力に合わせて、広い真理もあれば狭い真理もあり、近い真理もあれば遠い真理もある。そうやって変容していく中にある。
変化していくことを認めたときに、もうひとつ大きな真理がそこにあって、それは多様性というこの世界を表す。そして、無限の多様性であり、この世界がひとつだっていうところに行きつくことになる。
この聖書の解説書には、いろんなことがいろんな切り口で書かれている。そして、自分たちが正しくて他のものが間違っている。自分たちをこの宇宙や世界の本当を知っている側にして、他のものが間違っていると表現しているようにとれる。それが残念です。でも、それを違うと言うと、自分たちがまた対立の対象側になる。だから、それを言いたくない。だけど、どうしてそうやって、人は自分の側に立ってしまうんだろうと思うと、気持ちが暗くなる。
聖書やその他の宗教の経典には、他を批判する所は見られないが、それを解説する書物の中にそういった所を感じられることが多くある。これは、人間が、物事を道理で理解しないと納得できない、理屈の上に納得して理解しようとする所があるからで、これでは身近なことはそれで理解できるけれど、人の思考を超越したこの世界は理解できない。この世界を理解しようとすれば、まず、信じること。信じることから、信仰心が生まれて、理解できないことも見えてくる。そういった信心の心が起こると、身近なことももっと深くにあることが見えてきて、毎日の生活が深く充実したものになる。日々の中にある出来事の奥にあるメッセージを受け取り、信心の姿勢から気づきが生まれ、人は成長していけるようになる。
聖書というのは、この世界の中で一番ページ数の多い、内容の濃い書物で、これを私は過去に一部を読んだことがあるけれど、とても読み切れない。読んでみてもよくわからない。ただ、そこで聖書を読みながら、想像することはできるよね。そうすると、ここの記述は地球の歴史の中のこの部分を言っているなとか、ここは人間の思考の中のここを言っているなと想像することはできる。そこで、私の想像の中に当てはめていくと、聖書は真理が書いてあるなと。だけど、人によっては、全く逆の見解に至ることがあるんだよね。そうすると、聖書は真理だなという半面、危険だなと。
つまり、そうやって活字にしてしまって、最初はヘブライ語に降ろされ、それが世界中の言語に翻訳された。言葉ってすごく便利なんだけど、不自由なんだよね。本当の思いを十分に表現できない。それを文字という、この思いとは違う表現の仕方に表そうとすると、この思いをどうやって言語で表現するんだろう、と悩むことがある。この思いは、あなたが同じように、思いの旅の中でそこに辿り着いて、「ああ、あなたはこのことを過去に述べていたのですね。私はあれから思いの旅を歩んできて、ここまで来ました。そして今、あなたが以前に言葉で表現してくれたことが、やっと理解できました」ということがある。それは、言葉では、私たちの心の中にある思いの中身には十分到達できない。
そうすると、いつも言葉は不自由だなと思います。想いでその場を感じることはとても豊かだけれど、言葉でそれを表現しようとすると、すべてを表現したいという欲が出てしまって疲れる。言葉で想いを表現するより、例えば、言葉に近い音楽で表現すると、言葉の量も少ないし時間も短いのに深い意味が伝わるように、言葉ってとても便利がいいようで、不自由なものなんだ。だから、言葉や文字の表現を使って、その奥にあるものを感じとれるようにしていきたいと、いつも思っているんだよね。
ようこ:
そういった言葉の奥にあるイメージを、テレパシーで伝えられるといいんだけどね。
いさどん:
思いというもので、この世界はできていると言うけれどね。思いを、言葉で伝える手段を私たちは持っていて、それは大切なものだけれど、言葉の奥にある想い、言葉の出発点である魂。それを私たちはキャッチボールしているはずなのに、それが十分できていないと心の奥のものが伝わらない。聖書の中にある魂も、文字にしてしまうと、人間は聖書を読んでいるというよりも、文字を読みながら、奥にある魂を自分の色や形に染めてしまって解釈する場合がある。だから、いくつもの解釈が出てくるんだね。そういったことによって、いろいろな影響が表れてくると思うと、ひとつの真理で対立が生まれたり、僕の今朝のように気持ちが暗くなるなって。
それでね、僕が前から思っているのは、聖書ってどこにあるんだろうって。自然というものの中に法則があって、自然は何を表現しているんだろうと思ったら、神様の意思、絶対善なる絶対愛なる絶対調和。善なる愛なる調和を表現している。自然というものがひとつらなりのいのちとして、この世界を見えない法則でつないでいる。それが私たちが見える世界、そして観ることのできる世界。自分と対象のもの。自分と宇宙だよね。自分と一つ一つ、自分と出会ういろんな出来事を全部つなげてひとつだよ、と言っている。それが、善なる愛なる調和を原則にして、形成しているというふうに、僕は見ているんだ。
そうしたら、ツꀀ私たちは人生というものを地球上にいただいて、旅をしている。それは、毎日の生活という旅。想念の旅。自分という肉体が毎日自然のつながりの中でいのちをもらいながら、いのちの世界に自分を返していくいのちの旅。それから、自分という一番身近にある魂の旅。そういうものをもらいながら、この世界の自分の役割を果たしながら、魂の成長を続けていく旅をしている。
今の人間たちが、80年生きるとするでしょ。1日1日がオリジナルで同じ日がなくて、聖書の1ページだと思っている。そういう1ページをもらって生きているなと。今日の1ページが始まって、それが終わって、明日を迎える。毎日、1日という一生をもらいながら、生の1ページという聖書をもらいながら生きている。私たちの感情は、移り変わっていく。魂が成長していく。時には紆余曲折があって、気持ちが落ちていく人もいるけれど、そういったそれぞれの個性的な人生という生きる旅は、1日1ページのいのちの世界でもらっている聖書。これを本当にしっかりと見て、それに目を背けないで学んでいくこと。それが大事かなって。
文字を読んで理解することを進めていくと、どうしても奥にある魂を感じられない。どうしても、人間たちは、自分たちの中にある色や形を投影してしまって自分流に見てしまう。私たちがそうであるように、自然は自然の奥にある色や形、メッセージをもっている。私たちは、自分の色で自然を染めるのか、自然の色を私たちが感じるのかというと、自然のほうが確実に私たちを生かす側にいるからね。私たちは、どちらかと言うと、自分で自然を染めてみるというよりも、自然に染まって学んでいく。そちらのほうが大切だと思うんです。
そういった目をもって、1日1日を聖書の1ページとして、80年を今の時代の人の寿命とすると、29200ページの聖書をもらっているなと。ツꀀこの聖書のもとに生きていきなさいと、この地上に生をくれた神様が示されている。だから、毎朝自分を見て、1日を神聖な1日として迎え、1日の終わりに今日1日が自分にとって何だったのか振り返る。
自分の色や形で解釈しないために、沢山の人たちでお互いを見合って、色のついて偏っている自分に気づいていく。そうやって、自然の力やみんなの力をかりて自分を正していく。それこそが、みんなでひとつだねって。木の花で営まれている生活、まさしくそれなんだ、そう思うとこの生活の大切さがわかる。
でも、これが正しいよと言うと、そう思えていない人は否定されているように感じる。そこで、僕は暗くなるんだよね。決して他のものを否定するために、これを思っているのではなくて、実際にやってみて、ただ夢物語のようにつくったのではなく、続けてきてそこに行き着いただけだから。
それを伝えようとしたとき、これもまた文字にすると限界があるんだよね。人は、ついついその言葉の表面や自分の理解の範囲の中で理解してしまう。でもいつかね、僕が今こうやって窓から西の空をベランダ越しに眺めながら語っている、この心の旅のこの所まで、この文字や言葉で伝えた人たちが、僕が今観ている景色、今感じている心の旅の所まで来てくれたら、みんなそうだったんだって思ってくれるんだろうって思う。これが正しいと言うことを言っているわけではないんだよっていうふうに思っても、なんとなく物悲しい。この世界は動いていて、あせらなくてもね。僕の中に「早く」という心がどこかに残っているから、今日のような思いになるんだろう。こうやってその思いを分析していくと、そうではないんだよと。この世界を動かしているのは、そのことに気づいた自分が動かしているのではなく、この世界をつくってその気づきを与えてくれているものが動かしている。だから、ただいただいていきなさいということなんだよね。
ようこ:
やっぱり、いつもおきまりの「ゲームじゃ、ゲームじゃ」だから。
いさどん:
でも、このゲームは一喜一憂するということよりも、もうちょっととろーんとした、悠久のこの世界の中に浸っていきなさいという感じだよね。決してゲームのように競争しない。
ようこ:
人の数だけ聖書があって、同時にみんなでもうひとつの大きな聖書をつくっていると思うと、悠久の中でとろーんとしていられるよね。どこまでも続くから。
いさどん:
だから、1カ所で切って、そこで結論を出そうとすると、正しいとか間違っているとかそういうことが発生するんだよね。私たちが存在する前から、この世界はあった。そして、その中から私たちは生み出された。始まりから今まで一刻も途切れることなく続いて、今がある。そして自分がある。自分の意志や望みすらこの大きな流れの中にある。
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追記
ようこ:
私は、毎日同じような気持ちで朝を迎えるけれど、私の場合、メンバーやここに滞在してくる人のことを主に想うだけで、いつも同じように幸せに生きている。でも、いさどんは、私よりももっともっと深くいろんなことを想っているからこそ、気持ちが暗くなることもあるんだよね。そう考えると、毎日同じ気持ちで朝を迎えることが一概にいいとも言えないよね。
いさどん:
人それぞれ、魂の色や形があるからね。多様性の世界だから、いろいろあっていいんだよ。