毎日がいのちの聖書物語

いさどん:

毎日同じ気持ちで、気分よく朝を迎えられたらいいんだろうけど。今日はね、気持ちが落ちている朝を迎えることもあるなって思っていた。でも、その原因は様々だよね。昨日のことを引きずって、気持ちが落ちていることもあるだろうし。今日の気持ちが落ちている原因は何かな?と思っていた。

ようこ:

何でだろうね。今、メンバーの中にも、大きな心の滞りがある人はいないよね。

いさどん:

いや、そういった身近なことではなくてね。今朝ちょっと早くに目が覚めたから、枕元にあった「聖書の描く地球の今と将来」という研究書を読んでいた。その中に、「聖書はなぜ真理の言葉と言えますか」というところがあってね。聖書の中での宇宙の成り立ち、人間が最初の二人から始まったとか、生物の起源は別々に創られたとか、そういうことが書いてあって、アインシュタインや天文学者の話、ガリレオ、ケプラ、ニュートンとか、そういった人たちの物理的な法則を引用して、聖書の中に書かれていることが真理であると表現されている。でも、その理論自体が無理に結びつけて書いてあるようにしか思えなくて。また、仏教を引用して、仏教は神を存在させない無神論者の考えだと書いてあったりね。そうすると、この書から受ける印象は、一つひとつが正しいか正しくないかということよりも、自分たちの側が正しくて、他の理論が間違っている、と書いてあるように受け取れる。

僕は、仏教もキリスト教もそれ以外の宗教も正しいと思う。それは、この世界が非常に多様性でできていて、見方によってどういうふうにも解釈できるから。でも、そういった表現をすると、これを読んでいる人や、不特定の人がこれに出会うとすると、もし自分が正しいと考える人が見るとしたら、きっとあれは間違いだって。その対立の対象にされるのかなって思うと、気持ちが暗くなってしまう。対立の対象になりたくてこれを思ったわけではないし、自分たちが正しいというわけでもない。

自分たちが正しいと思うのも真理だけど、違う側から見るとこちらこそ違うと思うことも真理である。そうやって、お互いを認めあうことによって、この世界ってできているんだよね。そして、お互いを認めあうことによって、つながるということができて、相手と自分が一緒の側にいるということになる。

僕は、自分で一つ一つ、あれはどうなんだろう、これはどうなんだろうって考えていって、こういう結論にいきついたんだけれど、聖書のような沢山の人たちを束ねている、沢山の人に影響のあるような書物が、なぜこういう姿勢をとるんだろうと。でも、それを言ってしまうと、聖書を批判してしまうことになってしまう。決して聖書やその側に立つ人たちを批判しているわけでも、間違いだって指摘するわけでもない。この多様性の世界の中で、どんなものも違うってことを認め合いながら、違いあるもの同士がつながって、さらに大きなものが出来上がり、その連鎖であり続けること。それがこの世界の仕組みだと思うんだ。

今見える景色というのは、そのもの、形あるものにも、形のないものにも、強く執着していなければ、正しいものの見方ができるんだよね。だけど、その正しいというのは、この世界は常に変化しているもので、結局、思考の中で、その時にある材料で見通しをたてるものであって決定ではない。だから、真理も、思考する延長線上にあり、そしてその思考する能力に合わせて、広い真理もあれば狭い真理もあり、近い真理もあれば遠い真理もある。そうやって変容していく中にある。

変化していくことを認めたときに、もうひとつ大きな真理がそこにあって、それは多様性というこの世界を表す。そして、無限の多様性であり、この世界がひとつだっていうところに行きつくことになる。

この聖書の解説書には、いろんなことがいろんな切り口で書かれている。そして、自分たちが正しくて他のものが間違っている。自分たちをこの宇宙や世界の本当を知っている側にして、他のものが間違っていると表現しているようにとれる。それが残念です。でも、それを違うと言うと、自分たちがまた対立の対象側になる。だから、それを言いたくない。だけど、どうしてそうやって、人は自分の側に立ってしまうんだろうと思うと、気持ちが暗くなる。

聖書やその他の宗教の経典には、他を批判する所は見られないが、それを解説する書物の中にそういった所を感じられることが多くある。これは、人間が、物事を道理で理解しないと納得できない、理屈の上に納得して理解しようとする所があるからで、これでは身近なことはそれで理解できるけれど、人の思考を超越したこの世界は理解できない。この世界を理解しようとすれば、まず、信じること。信じることから、信仰心が生まれて、理解できないことも見えてくる。そういった信心の心が起こると、身近なことももっと深くにあることが見えてきて、毎日の生活が深く充実したものになる。日々の中にある出来事の奥にあるメッセージを受け取り、信心の姿勢から気づきが生まれ、人は成長していけるようになる。

聖書というのは、この世界の中で一番ページ数の多い、内容の濃い書物で、これを私は過去に一部を読んだことがあるけれど、とても読み切れない。読んでみてもよくわからない。ただ、そこで聖書を読みながら、想像することはできるよね。そうすると、ここの記述は地球の歴史の中のこの部分を言っているなとか、ここは人間の思考の中のここを言っているなと想像することはできる。そこで、私の想像の中に当てはめていくと、聖書は真理が書いてあるなと。だけど、人によっては、全く逆の見解に至ることがあるんだよね。そうすると、聖書は真理だなという半面、危険だなと。

つまり、そうやって活字にしてしまって、最初はヘブライ語に降ろされ、それが世界中の言語に翻訳された。言葉ってすごく便利なんだけど、不自由なんだよね。本当の思いを十分に表現できない。それを文字という、この思いとは違う表現の仕方に表そうとすると、この思いをどうやって言語で表現するんだろう、と悩むことがある。この思いは、あなたが同じように、思いの旅の中でそこに辿り着いて、「ああ、あなたはこのことを過去に述べていたのですね。私はあれから思いの旅を歩んできて、ここまで来ました。そして今、あなたが以前に言葉で表現してくれたことが、やっと理解できました」ということがある。それは、言葉では、私たちの心の中にある思いの中身には十分到達できない。

そうすると、いつも言葉は不自由だなと思います。想いでその場を感じることはとても豊かだけれど、言葉でそれを表現しようとすると、すべてを表現したいという欲が出てしまって疲れる。言葉で想いを表現するより、例えば、言葉に近い音楽で表現すると、言葉の量も少ないし時間も短いのに深い意味が伝わるように、言葉ってとても便利がいいようで、不自由なものなんだ。だから、言葉や文字の表現を使って、その奥にあるものを感じとれるようにしていきたいと、いつも思っているんだよね。

ようこ:

そういった言葉の奥にあるイメージを、テレパシーで伝えられるといいんだけどね。

いさどん:

思いというもので、この世界はできていると言うけれどね。思いを、言葉で伝える手段を私たちは持っていて、それは大切なものだけれど、言葉の奥にある想い、言葉の出発点である魂。それを私たちはキャッチボールしているはずなのに、それが十分できていないと心の奥のものが伝わらない。聖書の中にある魂も、文字にしてしまうと、人間は聖書を読んでいるというよりも、文字を読みながら、奥にある魂を自分の色や形に染めてしまって解釈する場合がある。だから、いくつもの解釈が出てくるんだね。そういったことによって、いろいろな影響が表れてくると思うと、ひとつの真理で対立が生まれたり、僕の今朝のように気持ちが暗くなるなって。

それでね、僕が前から思っているのは、聖書ってどこにあるんだろうって。自然というものの中に法則があって、自然は何を表現しているんだろうと思ったら、神様の意思、絶対善なる絶対愛なる絶対調和。善なる愛なる調和を表現している。自然というものがひとつらなりのいのちとして、この世界を見えない法則でつないでいる。それが私たちが見える世界、そして観ることのできる世界。自分と対象のもの。自分と宇宙だよね。自分と一つ一つ、自分と出会ういろんな出来事を全部つなげてひとつだよ、と言っている。それが、善なる愛なる調和を原則にして、形成しているというふうに、僕は見ているんだ。

そうしたら、ツꀀ私たちは人生というものを地球上にいただいて、旅をしている。それは、毎日の生活という旅。想念の旅。自分という肉体が毎日自然のつながりの中でいのちをもらいながら、いのちの世界に自分を返していくいのちの旅。それから、自分という一番身近にある魂の旅。そういうものをもらいながら、この世界の自分の役割を果たしながら、魂の成長を続けていく旅をしている。

今の人間たちが、80年生きるとするでしょ。1日1日がオリジナルで同じ日がなくて、聖書の1ページだと思っている。そういう1ページをもらって生きているなと。今日の1ページが始まって、それが終わって、明日を迎える。毎日、1日という一生をもらいながら、生の1ページという聖書をもらいながら生きている。私たちの感情は、移り変わっていく。魂が成長していく。時には紆余曲折があって、気持ちが落ちていく人もいるけれど、そういったそれぞれの個性的な人生という生きる旅は、1日1ページのいのちの世界でもらっている聖書。これを本当にしっかりと見て、それに目を背けないで学んでいくこと。それが大事かなって。

文字を読んで理解することを進めていくと、どうしても奥にある魂を感じられない。どうしても、人間たちは、自分たちの中にある色や形を投影してしまって自分流に見てしまう。私たちがそうであるように、自然は自然の奥にある色や形、メッセージをもっている。私たちは、自分の色で自然を染めるのか、自然の色を私たちが感じるのかというと、自然のほうが確実に私たちを生かす側にいるからね。私たちは、どちらかと言うと、自分で自然を染めてみるというよりも、自然に染まって学んでいく。そちらのほうが大切だと思うんです。

そういった目をもって、1日1日を聖書の1ページとして、80年を今の時代の人の寿命とすると、29200ページの聖書をもらっているなと。ツꀀこの聖書のもとに生きていきなさいと、この地上に生をくれた神様が示されている。だから、毎朝自分を見て、1日を神聖な1日として迎え、1日の終わりに今日1日が自分にとって何だったのか振り返る。

自分の色や形で解釈しないために、沢山の人たちでお互いを見合って、色のついて偏っている自分に気づいていく。そうやって、自然の力やみんなの力をかりて自分を正していく。それこそが、みんなでひとつだねって。木の花で営まれている生活、まさしくそれなんだ、そう思うとこの生活の大切さがわかる。

でも、これが正しいよと言うと、そう思えていない人は否定されているように感じる。そこで、僕は暗くなるんだよね。決して他のものを否定するために、これを思っているのではなくて、実際にやってみて、ただ夢物語のようにつくったのではなく、続けてきてそこに行き着いただけだから。

それを伝えようとしたとき、これもまた文字にすると限界があるんだよね。人は、ついついその言葉の表面や自分の理解の範囲の中で理解してしまう。でもいつかね、僕が今こうやって窓から西の空をベランダ越しに眺めながら語っている、この心の旅のこの所まで、この文字や言葉で伝えた人たちが、僕が今観ている景色、今感じている心の旅の所まで来てくれたら、みんなそうだったんだって思ってくれるんだろうって思う。これが正しいと言うことを言っているわけではないんだよっていうふうに思っても、なんとなく物悲しい。この世界は動いていて、あせらなくてもね。僕の中に「早く」という心がどこかに残っているから、今日のような思いになるんだろう。こうやってその思いを分析していくと、そうではないんだよと。この世界を動かしているのは、そのことに気づいた自分が動かしているのではなく、この世界をつくってその気づきを与えてくれているものが動かしている。だから、ただいただいていきなさいということなんだよね。

ようこ:

やっぱり、いつもおきまりの「ゲームじゃ、ゲームじゃ」だから。

いさどん:

でも、このゲームは一喜一憂するということよりも、もうちょっととろーんとした、悠久のこの世界の中に浸っていきなさいという感じだよね。決してゲームのように競争しない。

ようこ:

人の数だけ聖書があって、同時にみんなでもうひとつの大きな聖書をつくっていると思うと、悠久の中でとろーんとしていられるよね。どこまでも続くから。

いさどん:

だから、1カ所で切って、そこで結論を出そうとすると、正しいとか間違っているとかそういうことが発生するんだよね。私たちが存在する前から、この世界はあった。そして、その中から私たちは生み出された。始まりから今まで一刻も途切れることなく続いて、今がある。そして自分がある。自分の意志や望みすらこの大きな流れの中にある。

追記

ようこ:

私は、毎日同じような気持ちで朝を迎えるけれど、私の場合、メンバーやここに滞在してくる人のことを主に想うだけで、いつも同じように幸せに生きている。でも、いさどんは、私よりももっともっと深くいろんなことを想っているからこそ、気持ちが暗くなることもあるんだよね。そう考えると、毎日同じ気持ちで朝を迎えることが一概にいいとも言えないよね。

いさどん:

人それぞれ、魂の色や形があるからね。多様性の世界だから、いろいろあっていいんだよ。


館主からのお知らせ

いさどんです。いつも「いさどんブログ」をお読みいただきまして、ありがとうございます。皆様から頂戴したコメントも、ひとつひとつありがたく読ませていただいております。

「おひさまハウスひまわり」と「木の花庵」の用務員の仕事、そして新たな本づくりに向けた準備など、いろいろ忙しくしておりまして、コメントへのご返信ができなかったり、遅くなってしまったりすることもございますが、容赦いただければと思います。今日は、この場を借りて皆さまに感謝の気持ちをお伝えしたいと思い、改めてご挨拶させていただきました。

読者の皆様とともに創り上げていく「いさどんブログ・おやじの館」を、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

いさどん


瑞穂の国

いさどん:

今日の言葉は、「瑞穂の国」。この国は、瑞穂の国といってね。瑞というのは水、穂は稲穂の穂。瑞穂というのは、お米のこと。瑞穂の国というのは、お米によって成り立つ国。お米は主食でしょ。木の花には、「愛とお米があれがいい」という言葉がある。神様の絶対である愛と、私たちのいのちのもとであるお米があれば、人は豊かに暮らしていける。つまり、この世界は愛の世界であり、お米、いのちの世界。

ツꀀ今、窓から外を眺めていたら、そこにある田んぼのお米が実ってきて、収穫の季節になったなと。瑞穂の国だな、農の国だな、そしていのちの世界だなって。あっという間に一年が経って、収穫の時がやって来て生きていくんだな、そうやって、ぐるぐる回っているんだなと。その中で、一喜一憂して悩んでいくこともすれば、淡々と生きていくこともできる。

ツꀀようこ:

「瑞穂の国」っていい言葉だね。初めて聞いた。

ツꀀいさどん:

これは、神話の言葉だよね。

ツꀀようこ:

神話物語を生きている私たちに、ぴったりだね。

ツꀀいさどん:

そしてね、こういった神様の物語は、どんな切り口で話していっても、すべてのことにつながるんだよね。だから、政治、経済、教育とか、国際問題、環境など、世界にはいろんな切り口があるけれど、それを一つひとつ別々に考えてはいけない。この世界にあるものは、すべてつながっていて、関連性があるのだから。それが、この世界の仕組み。

ツꀀ「瑞穂」というたった一つの言葉が、人間の人生であったり、喜怒哀楽であったり、経済であったり、はたまた循環ということ、最後は宇宙の成り立ちであったり、すべてつながっているということ。今日はそんなことを思って、窓の外を眺めていました。


川の流れのように

「川の流れのように」という歌があるよね。美空ひばりがこの最高の歌を日本という国に残して旅立っていったけれど、人生という川はあの歌のように流れている。

自分の意思でああしたい、こうしたいと思う人は、川の中で立ち止まろうとする。流れの中で立ち止まると、水の抵抗があるから不安がよぎって、自分の力でなんとかしようとする。

流れの中で立ち止まると鍛えられるから、人が育つという意味では、それも悪いことではない。しかし、川はいつもとうとうと流れているわけだから、何か問題ごとが起きてもそれを思い悩むのではなく、川の流れに身を任せてみると、状況が変わって解決へのヒントが生まれてくるようになっている。それなのに、人間は、身を任せることをよしとせず、「すぐに答えを出したい」「すぐに実行したい」と思って自分から行動する。

そういうことをやめて流れに身を任せると、何もしていないのに自分は流れていく。そして、流れる水との抵抗もまったくない。さらさらと流れながら、起こるべきことはすべて起きて、一番エネルギーのかからない状態で世界が変化していく。

それを「流されている」と思う人は、流されるのが嫌だから、流れに逆らって自分の意思で上流へ行こうとする。上流へ行こうとすると、立ち止まっているよりももっとエネルギーがいる。それでも「頑張れ!頑張れ!」と気合いを入れながら、なんとか上流へ行こうとする。

上流へ行こうとすることは、流れの一番最初に戻ろうとすること。それは、「自分はこうだから、こうありたい」と自分のあり方、やり方に執着しているからだけれど、この世界は常に変化し、循環して巡っている。この循環というところに秘密があって、実はまた戻ってくる仕組みになっている。流されるのが嫌だと逆らって、立ち止まろうとしたり、流れに逆らって上流へ戻ろうとすると、すごく大変なんだけれど、その流れ自体も循環しているということに気づけば、逆らわなくても、いつかまた戻っていく。

川に身を任せていくと、下流へ流れる。どんどん下流へ行って、海にたどり着く。海では、太陽の光が当たって、水が自然に天に向かって昇っていく。そして、雲を形成して、雲は風によって運ばれ、雨が降る。そうすると、始まりの山に雨が降って、また川に流れていく。つまり、下流に流されるということは、循環の中で上流へ行くということ。だから、身を任せて、流されればいい。

なのに、抵抗しようという心が起きるのが人間。でも、結局、自分の力で上流へ行く仕組みはないのだから、流れに身を任せれば、それで上流に戻れる。

ただただ、川の流れのままに抵抗せず流れていきたいものだね。


人生って何のためにあるんですか?

いさどんブログ読者の方、お久しぶりです。というのも、実は「いさどん人生読本」(仮題)出版プロジェクトが4日前から始まり、そのテープ起こし、原稿をまとめておりました。この本のねらいは、世の中の人が持っている様々な疑問や課題に、いさどんが順番に答えていき、「大切なこと」を伝えていくこと。生きること、人間関係、パートナーシップ、健康という個人的なことから、仕事、社会、宇宙、神様という大きなテーマにまで話題は広がります。木の花流“人生のヒント集&参考書”。別名「スピリチュアルな哲学書」。

今日は、その一つ目の質問、「人生って何のためにあるんですか?」にいさどんが答えます。生原稿を皆さんともシェアすることで、一緒に本づくりをしていければと思っております。では、出来立てほやほやの原稿、第1弾をお楽しみください。

ツꀀ

第1章 生きること
1、人生って何のためにあるのですか?

まず、「人生は何のためにあるのでしょう」という質問に答える前に、人生というものをどう捉えたらいいのか、ということを考える必要がある。人生を「人が生きる」と解釈するのか、それとも、「人が生かされている」と解釈するのか。それによって、大きな違いがある。

ツꀀ人が生きていると捉えるとしたら、人は自分の意思を持って生きているということ。それは、現代社会の人たちをイメージすることができる。人が、生きるために働く、家族を持つ、生活をする。目的を達成するために、いろいろと考え、行動する。目的を達成するために、いろいろな仕組みをつくり、社会をつくっていく。その結果、この現代社会ができている。

ツꀀ同様に、人生を人が生かされていると考えたときに、宇宙の始まりから、銀河、太陽系、そして地球の創造。ここで、考えておかないといけないのは、すべて「創造された」ということです。何かによって、創られたということ。そして、地球が創造されていく中で、宇宙空間にあったアミノ酸が細胞として変化し、地球上に生命が現れる。それがどんどん複雑な生命に進化し、植物から動物へ、魚類から両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、そして人類という生命の歴史、つまり宇宙の歴史がある。

ツꀀこのように、人生を人が生きていると解釈すると、現代の社会、日常の身近な生活をイメージできます。それは、人生を自分の意思で生きているとイメージできるからです。でも、私たちは生きているのか、それとも、生かされているのか。人生を生かされていると見たときに、この宇宙の始まりから今まで、さらにこれから先ずっとこの世界があり続けること、そこまでイメージできるということ。このように、非常に大きな違いがある。

ツꀀ私は過去に、「人生とは何だろう」「自分とは何だろう」「この世界とは何だろう」と考えることがたくさんありました。考えるということは、常にそこに自分がいるということ、自分がいるからこそ考える。これは、お釈迦様が仏教を説くときに、最初に立った位置で、自分は確かにいる。確かにいるから思考する。思考の上にこの世界を解釈する。そして、自分に見えて解釈できるところから、見えずに解釈できないところまでをこの世界として、その世界も、そして自分自身も理解できる、というところに行き着いて、その法則や仕組みを語ったのが仏教である、と解釈しています。

ツꀀそういった解釈の仕方を通して、人は生きているのか、はたまた生かされているのか、ということをずっと考えてきました。私が、今回生まれてきた使命に目覚めて、生きる目的、生きる意味について考えてきた結果、結論は、人は生きているのではなくて、生かされているということです。どんなふうに、どんな切り口で考えても、人が生きているという結論に至ったことがない。

ツꀀ例えば、人は、何かをする予定があるから朝起きて、朝食をとる。そうすると、自分の意識で朝食をとったということになる。それは、生きているか、生かされているかといったら、生きているということになります。

ツꀀけれど、違う解釈をすると、食べるということは、お腹が空くからです。お腹が空くということは、人間は食べ物をエネルギー源にして活動しているので、そのエネルギーが切れたということです。エネルギーが切れたという指令のもとに体の中のセンサーが働いて、脳に信号を送ります。それを脳は感知して、朝食をとろうとする意識が働く。その意識は、体の機能、仕組みからうまれている。

ツꀀさて、仕組みを抜きにして、自分の意志で朝食をとることを考えているのか、それとも、仕組みがその思考を働かせているのか、どちらでしょう。厳密に言うと、仕組みが先に働いて、思考が後からくる。これを、考えていると呼ぶのか。そして、その延長線上に行動したと言うのであるならば、人は生きていると言えるでしょうか。

ツꀀまた、私たちは生きていくために、ほかの生き物を必要としている。それは、食べ物のみならず、食べ物を得るための大地、大地に降り注ぐ光、水、空気、そういった自然の作用、生態系の中に食べ物というものがある。そして、私たちがいのちを取り入れるときに、必要な分だけ吸収して、不必要な分は排泄するという仕組みがある。排泄することによって、その排泄物が次のいのちにバトンタッチされるという仕組みになっている。こうして、いのちが伝承され、いのちがつながり続けている。

ツꀀそうすると、私たちが排泄するということは、自分の意思で排泄するのかと言ったら、これもいのちの伝承の上での役割であったり、この世界の仕組み、機能である。この宇宙が創造され、巡り巡って回っている中のある時点が今だとしたら、そういった仕組みの中で、私たちのいのちがあるということ。この現代社会に生きていると、自分の考えや意思、自分の目的を持って行動していると、仕組みの中で生かされていることに気づけない。けれど、この世界にあるものを細かく分析していくと、思考すらこの仕組みの中で湧き出ていることがわかる。

ツꀀ自分がああしたい、こうしたい、また人生が思うようにならないと思う人は、自分の過去を振り返ってみて下さい。きっと、自分の思考が、行き当たりばったりのようにころころ変わりながら、一定していないことでしょう。もし、自分の意思で自分が生きられるのだとしたら、強い信念の延長線上に生きることが可能なはずです。しかし、自分が生きていると考える人には、そういったことができない仕組みになっている。

ツꀀ反対に、私たちは、仕組みによって生かされているという発想を持ったときに、その仕組みは、宇宙の始まりから今まで、そして未来まで、ずっと変わらず、進化し、変化し、あり続けるのですから、安定したものです。生きている目的を変更する必要は、全くないのです。同じ延長線上に、同じ目的のもとに、同じ役割のもとに生きている、非常に安定した景色が見えてきます。

ツꀀしかし、この世界の仕組みから意思が外れて、自分の中で独立した心を持って、人間の思考が勝ってしまった状態で生きていると、この世界の役割から自分を切り離して、自分の意思で行動するようになる。そうすると、仕組みから外れているわけですから、病気になったり、人と対立したり、問題事が起こったりする。問題事が起きて、自然に修正するという仕組みが働く。だから、自分で生きていると考えている人は、常に修正を余儀なくされ、その修正をされていることが、外れているのを元へ戻してもらっていると考えるのか、外れてしまった、失敗した、思うようにならなかったと考えるかは、大きな違いです。果たして、私たちが単独で、この世界で自分の目的を達成して生きていくという仕組みがあるのかというと、実はそんな仕組みはないのです。

ツꀀ人生が何のためにあるのかを考える前に、人生というのは、私たちを生かしている仕組みの中にある人生と、その仕組みがあるにも関わらず、それに気づかないで無視して生きる人生の両方がある。前者は、生かされて生きているという安定した生き方。後者は、自分が生きているという意識のもとに不安定な人生があるということですね。

ツꀀでは、ようやくここで、「人生は何のためにあるのでしょう」ということですが、自分で生きているという人たちにとっては、自分の目的がある。勉強して一流大学に入る、会社を経営する、贅沢な暮らしをする、それが豊かさであると、自分の目的を達成しようとする。でも、その思考というのは、この現代社会の価値観の中にあって、非常に近い世界の話である。逆に、自分が生かされているという人にとっては、この仕組み、宇宙の始まりから、いのちの伝承の中で自分の役割を果たす、自らを向上、成長させるということが目的となる。

ツꀀとなると、「人生は何のためにあるのでしょう」という質問は、人によって全く答えが違ってくる。だから、私が皆さんに、人生とはこういうものですよ、と言うことはできません。ただ言えることは、自分だけの目的を持っている人でも、この宇宙が始まってからずっと途絶えることのないこの仕組みの中に今、生きている。そして、未来へもずっとつながっている。始まりはこの世界がひとつであって、今現在もひとつです。これからもそのひとつの中で未来へ、また始まりに戻ってあるのだとしたら、私たちは独立して、自分の意思でこの世界を生きているのか、ということはあなたが判断することです。答えは皆さんの中にあります。

ツꀀ人生は、自分の物語です。自分と宇宙という自分の物語。だから、何のために人生があるのかということは、自分が紐解いていく。小さく自分の人生をみるのもいいし、大きくこの世界の仕組みを見るのもいい。自分が生きていると見るのもいいし、生かされていると見るのもいい。

ツꀀでも、明らかなことは、私たちの思考を超えて存在するこの世界の中に自分がいるのは事実ですから。そうすると、理解するということは、その思考を超えた彼方まで理解する道があるということ。しかし、人によっては、全く身近の自分が考えられる行動範囲、思考の届く範囲、その中に自分の人生がある。どちらを選ぶのも、あなたの人生の旅。