あなたの場所で地球づくり

今日は、いさどんがブログを読んでいる皆さんに問いかけます。

昨日までのブログが大人会議で読まれているのを聞いていて思ったのは、みんな言葉を聞いているときには「その通りだ」って思うんだろうなって。だけど、いざ自分の日常となると、「そうは言ってもなあ」って心が働くんだろうなって。

その延長線上に人生を送って、旅立っていくときに、何を持っていけるのか。成功した、お金がいっぱいあった、地位が高かった。そういった現世的な価値観を求めたとしても、それは自分の魂を磨くための材料だから、全部置いていかなくてはならない。

だから、やっぱり魂磨きだけに専念することが大事なんだろうけど、きっと人それぞれにふさわしい魂の形や大きさを持っているんだろう。だから、あとはそれを磨いていく。内から出る光が美しくほとばしるように。

こういった考え方や生き方に共鳴する人たちが、たくさんいるよね。今まではその人たちがここへ来ないと、こういうことが伝えられなかった。魂に投げかけて、共鳴してもらうということができなかった。だけど、このネットの時代で、ブログを通じて呼びかけられるようになった。

面と向かって語ると、恐れおののく人もいるんだよね。自分流に解釈して、自分流に受け取っていきたいという人たちもいるし。確かに、その人なりの歩幅とか、歩みの進め方のかたちがあるから、ブログを通じて覗けるのはいいなと思うけど、目的は、覗いてもらいながら共鳴してもらうこと。共鳴してもらって、この国づくり、地球づくりにみんなに参加してもらうこと。それは、「あなたのその場所で国づくりができますよ。あなたのその場所で新しい社会、未来づくり、そして地球づくりができますよ。同時にあなたづくりができますよ」ということなんだからね。

それは、特別にボランティアをやりなさいとか、自分の持っているものをどこかに施しなさいということではありません。それなら、世のため人のために何をしたらいいのかというと、まず、自分を健康にしましょう。そのために、自分を正しく見ましょう。自分を振り返って、自分の身のまわりをきちんとしましょう。自分が自分に対して何をもたらしているのか、よく把握しましょう。それだけのことだからね。

自分の身のまわりを整理整頓して、いい風が吹くようにすれば、そしてそのことの大切さをネットワークで広めれば、世界中がよくなる。そこでは、「自分が何かをしたい」とか「大きな仕事をしたい」というようなことも、実はいらないんだよね。そういうことに気づいてほしいと思う。

政治で国をよくしようと思ったり、健康法で健康になろうとしたり、宗教によって道をいただこうとしたり、まだまだそういうことも必要だけれども、究極は、ひとりひとりが目覚めること。そこにすべての解決策がある。一人ひとりが目覚めるための教育であったり、人と人の出会いであったり、家庭であったり、世の中をよくするための企業であったり、政治であったり。一人ひとりの目覚めを支援していくための人間の活動、つながり。

この国を司る人たちがこのことの大切さに気づくのは、まだしばらく先になる。それまで、この大切な道を生きていく。でも、それは、イライラガミガミと「これを分かれ!」ということではなくて、「いいんじゃないの、それぞれの歩みがあるのだから。歩みの中で、それぞれが気づいていけば。決して手遅れということにはならないんだから」というふうに見ていきたいね。

天上の世界から人間の在りようを見て、神様は「ゲームじゃ、ゲームじゃ。楽しめ、楽しめ。ゲームなんじゃから、むきになるな」って。まったくその通りだね。

いさどん曰く、「『おやじの館』の『おやじ』はね、面白いとか、滑稽なというのが一応のイメージなんだよね。いいんじゃない、いいんじゃない、って。」

皆さんも、私たちと一緒に神様の視点からゲームに参加しませんか?まずは、あなたの場所で地球づくりからスタートですよ。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~番外編

いさどんブログは、出るたびに毎回大人会議でシェアされ、メンバーの心磨きの材料として、大事を確認する場として活かされています。昨夜の大人会議で、「真釈天技場という文字が下りてきて~後編」をみんなでシェアしたあと、いさどんがみんなに問いかけました。

自分で自分に問うてもらいたい。この稀にみる大事な生き方に自分が出会って、そこからみすみす離れていくのか。

僕は、この心をいただくようになって、辛くて仕方がなかった。それは、自分の愚かな部分を捨て切れなかったから。でも、僕が辛い心を上に向けたら、お釈迦様は、「ならば、その心をやめるか?」と言われた。「この道を行くのをやめるか?」と言われた。

腹が立った。自分に対して腹が立ったというよりも、お釈迦様に対して腹が立った。

「この貴き道を知らずに行かぬものは、世の中にいっぱいおります。けれど、ひとたびこの貴き道に出会って行かぬものがおりましょうか。私は、そんなことは絶対に信じられません。今、自分が辛いのは、愚かな自分がいて、それをとっていくのが辛いだけです。けれども、私は絶対にこの道を貫き通します。どんなに辛くともやり通します。ただ、今、私が愚かであるがために辛いことは、このような自分の姿を見てご理解下さい。言わずとも、あなたはすべてお見通しだけれども。だから、私は弱音は吐きますが、この道は生き切ります。」

その意思があったなら、どんなに出来が悪くても行ける。その決意があれば、闇の中にいても真理に向かって歩んでいける。

この貴き道を貴いと思うならば、行ったほうがいい。でも、自分の欲望を叶えていくこと、自分の中に湧き出てくる心の迷いに魅力があるのならば、そちらに行ったほうがいい。その人にとって、この貴き道は貴くないのだから。

何人(なんびと)であろうと、それまでどんな生き方をしていようと、たちどころに優れた生き方、誇りある人生に変わることができる。でも、それはその人の心次第である。

『仏の悟りは、仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにある』と言って、優れた生き方は、その人のためにあるのではなく、世のため人のためにある。それを悟った人には、人々に伝えていく責任がある。それこそが優れた生き方。それが、ブッダとして、キリストとしての生き方である。

そして、その素質はすべての人に備わっている。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~後編

それで今日思っていたのは、僕の父親は政治家だったし、田舎だけれど代々、村会議員や市会議員をやっていて、子供の頃から政治のことを身近に語る父親のもとに生まれてきたから、政治についてずっと昔から興味があった。でも、父親は政治家になってから人間性がすごく変わって、表面的に理想を語るわりに、駆け引きや自分の欲望を叶えていく姿を見て、自分はそういった世界には行かないでいこうと思った。

ツꀀ政治家は、人々の総意、一票というものによって選出され、政治を司らなければならない。つまり、人々の意見、考えの代表である。それは、民主主義ということで、一見非常によいことのように見えるけれど、ここで一番の問題点は、人々があれもしたい、これもしたいという自分の欲を叶えてくれる政治家を選んで、その代表が政治をやっていくということ。

ツꀀこの世界を治めるにあたって、いろんな制度がある。まず、王がいて、優れた王のもとに、人々が幸せに暮らすような制度。次に、共産主義のような、人間を仕組みで統率すること。その優れた仕組みの中に人間が入って、理想社会をつくる。それから、今のような資本主義。人々が切磋琢磨しながら技術革新し、世の中を物理的にも経済的にも豊かにする。そういった社会を築くこと。

ツꀀでも、その王の治める国は、王の質にかかっていて、独裁者になってしまうと、人々が虐げられ貧しい国になってしまう。また、共産主義はその制度は優れていても、人間は部品ではないから、人間の心の中にあるエゴ、怠慢によって、国が立ち行かなくなる。制度が勝ってしまって、人間を無視した社会ができてしまい、壊れていく。残った資本主義からくる民主主義。これは、非常に優れて勝ち残ったように見えるけれど、今、社会にはこれほどの問題を抱えている。それは、人々の願いを叶えていくこと、人々の心の中にはエゴというものがあって、このエゴの願いを叶えるということになると、今のような社会ができる。

ツꀀ人々は、食べ物をたくさんあるからと言って食べ過ぎて、自分の体を壊してしまったり、自由だからと言って何でもやって、他人との調和を乱し、家庭すら崩壊していく。そして、テクノロジーが進化し、それがビジネス化されることによって、人々は自分が理解できないような高度な機械技術に操られ、お金がそういったものを得るために使われ、人々がお金を使うのではなくてお金に使われるようになる。さらにお金を得ようとして、競争の果てにストレスが起きて、ストレス社会の中では、いろんな病気や問題が発生し、それがまたさらにビジネスチャンスとなって、それを解決する策として企業の思惑が反映されていく。それが今の豊かさを支えている世界。

ツꀀしかし、本当に人間が理想としなければならないのは、一人一人の人間がこの世界の仕組みを会得して、自分の欲望を叶えるのではなく、社会の健全、人々一人一人の幸せのために役割を果たしていくこと。一人の王が理想をもって人々に幸せを与えるのではなく、一人の救世主が現れてこの世に理想を築くのではなく、制度が人々に理想をもたらすのではなく、一人一人の人間の中にある愛、調和の心から生まれる善意の心。それによってつくられる社会ができなければならない。欲が勝ちすぎてしまってこういう世の中になったことをしっかり見て、謙虚に改めることは改めて、そして自然の中で生かされていることに感謝しながら、自然の仕組みに基づいた社会をつくること。それが、宇宙のすべてをつなげておられる神様の意思。それにのっとった政治が、最終的には行われる時が来るでしょう。

ツꀀ今回の選挙で、戦後初めて一党でこれほどたくさんの議席を得た民主党ではあるが、では人々のどういった心によってその議席をもらったかというと、まだまだ欲を叶えたい、もっといい生活がしたい。そういった人間の欲の心の上で票をもらったのであるから、理想郷を築いていくのは大変なこと。願いが叶わないと思えばすぐにまた、反対に回る人たちであること。

ツꀀそうすると、菩薩の里を自分の故郷でつくることは断念したけれど、この富士山麓に来て、まさしく心を学び、自然と調和し、その自然の奥にある精神とともにこの世界に理想郷を築いていこうという志のもとに開かれた木の花ファミリー。そして今、新たな歩みとして京都の綾部の地に、みろくの世を再現するということで“みろくビレッジ”。みろくとは、弥勒菩薩のことで、まさしくそれが菩薩の里である。その雛型は、この富士山麓、聖地富士のもとに開かれた木の花という菩薩の里が見本であって、15年かけてこの理想を築いてきた。行く先が見えないで、ただただ導きのままに、闇の中を突き進むかのように、闇の中で本当に一筋の光を見るだけで、その結果を考えずに歩んできた。今ここまできて、その理想が見えてきたことによって、今度は本当の意味での雛型として降ろそうというのが、みろくビレッジである。これは、誰かの指導のもとにすることではなく、たくさんの人々の志を結集して行われる場所。そういった生活に根ざした理想の場所が必要になってくる。

ツꀀその目的は、いつか、この国を司る人々が本当に素晴らしい国をつくろうと思って政治を行ってきたんだけれど、どうにも理想が開けない、何でだろうと思っていたら、理想の村づくりをしている人々がいるってことを聞いた。ぜひ、そこで国づくりのヒントをいただきに行こうということで訪ねてくる。その日まで、我々はこの理想の暮らしを続けて、この国を司る人々にこの国づくりの型を伝え、バトンタッチするまで、役割として果たしていかなければいけない。

ツꀀ昔、富士の山に登れと言われ、日の出前に富士の山の頂上で神の命を受けよと言われて、そこでいただいた言葉は、「これからは、その心、日の本の国全体に説くがよい」と伝えられた。「だけど、とてもとても自分の力では、そんな日の本の国になんてできません」と思っていたけれど、日の本の国というのは、日本のことではなく、この地球のことであると。その型が日本であって、だから日本は太陽を国旗にいただいて、日の本という国の名をもらっているのだと。新たな人類の国づくりの方向が、この日本という国から表わされて、それがこの地球の理想である。その生き方は、人々が助け合って生きる暮らしにある。そして、自然と調和し、人々は自分の欲を叶えていくのではなく、宇宙の総意に託された国づくり、地球づくりをする。それは、善意に基づいた愛と調和の世界。人々が生かされていることに感謝して生きている生活。

ツꀀそれに向かって、今、着々とことが進んでいることを感じます。今回の民主党の大躍進もその始まり。始まるということはまた新たな問題が起きて、抵抗勢力が出てきたり、紆余曲折があるけれど、一番大切なことは、一人一人の人々が本当にブッダとしての自分に目覚め、キリストとして生きていくこと。そのために、我々は、決して自分のことを優先せず、木の花の精神、「己を忘れて、他人のために生きる。世のため、他人のために生きていく」、そういったことをひしひしと感じていた今朝でした。


「真釈天技場」という文字が下りてきて~前編

「選挙が終わった。」今朝、開口一番いさどんから出た言葉です。そのあとに、「選挙のことで一つ思い出したことがある」といさどんは続けます。

僕が、30歳のときに、お釈迦様からこの道をいただいて、こういった宇宙の真理、人があるべき生き方を世の中に広める場所をつくろうと思っていた。自分の生まれた土地で、うちの先祖の土地があいていたから、父親にその土地を自分にくれないかと頼んだ。当時、僕は親にとっては大変孝行息子で、物心ついたときからずっと親孝行を考えていたから、親は僕が何をするかわからないけれど、僕がやりたいことに対していいよ、と言ってくれた。毎週日曜日になると、田舎のその土地に行っては、北側の山を削っては南側に足して、石垣を積んで、それを丸い土地にしようとしていた。その目的は、本当に人々があるべき生き方を伝えるための道場をつくるということ。丸い土地ができたら、そのまん中に八角形の建物をつくって、そこでみんなで一緒に宿泊することもできる、合宿所だよね。

そして、その道場にどんな名前をつけたらいいのか、と思っていたら、真釈天技場という文字が下りてきた。真実の生き方を解釈して、その技を表す場所。ただ、その道場はきっかけの場に過ぎず、つまり、「真釈天技場というのはどこの場所を指すのですか」と尋ねると、「それは地球のことである」と。肉体を与えられた人間が、自分たちが地上に降ろされた本当の意味を知り、地上を理想郷にしていく。そして、そういったことから外れてしまって道を歩めないものに対して、真実を伝えて、どう生きたらいいかを伝える場。それが、真釈天技場だと。

僕には、他にもその田舎の場所に対してビジョンがあって、その地域はいずれ、住んでいる人たちが高齢化でいなくなってしまう。そのときに、その土地を全部使って、治外法権のような村づくりをしよう。杉やヒノキだけで埋まっている山を、もっと緑豊かな自然の山に変え、もともと田んぼや畑だった棚田をもう一度開墾して、人々が本当に自然とともに生きていく場。僕らが子供の頃のように、田んぼも小さいけれど棚田になっていて、その一番上から眺めると、春にはれんげがいっぱい咲いて。その段々畑をみんなで、上から駆け下りてくる。それをすごく楽しみにしていた。時々野壺があるから、落ちないように気をつけないといけない。そういったのどかな風景。そして、山がおい茂ってしまって川には光が入らず、自然の山ではないから虫もいなくなってしまい、やまめもいなくなってしまった川の生態系が戻って、山の動物たちも里に下りてこなくてもいいようにして。そういったところで、動物と人間、自然と人間がにこにこ笑って生きている。そういった里づくりをする。そして、その里を自分は眺めて微笑んで、満足しているというイメージがある。そんな場所で生きていく人々の心、それを学ぶ場所が真釈天技場なんだと。

その理想を僕の中でイメージしていたら、自然と人が調和して生きている。そして、そこには今のようなハイテクはないけれど、人々が笑って生きている。それを眺めている僕のところへ、お客さんがやってきた。この国を司る役割を持っている人たちが何人か訪れて、僕に問いかける。

「私たちは、一生懸命この国を豊かな国、本当に人々が幸せになれるように、この国を治めようとやってきましたけれど、これはと思うことをいくらやっても、それがどうにも上手くいかない。本当に国を正しく豊かに治めるにはどうしたらいいのでしょうか、良い案が出ず考えあぐねています。どうしたら、正しくこの国を導くことができるのでしょう」と問いかけてくる。それに対して、僕はこう答える。

「それはね、制度やしくみをつくることではないんですよ。ここにある自然を見てください。そして、そこに生きている人々を見てください。このような心や考え方、それで人々が暮らせるような国づくりをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。」

そして、僕が40歳になってから、いよいよそれを実現しようということで、両親の住んでいる田舎に行って、農業を勉強し、両親の面倒をみながら、人々にもそういった心を伝えていこうと、自分の生まれた土地に移り住んだ。でもこれは、半年くらいで断念して終わるという結果となった。それは、僕が思っていた親孝行と、両親が考えていた親孝行にちがいがあって、両親は息子が商売でもっとお金を得て、豊かな生活をすること、そういう一般的な価値観をもって、それを自分たちの喜びとしている。僕は、世の中がよくなって、みんなが助け合って暮らせる、そういった幸せな社会づくり、そしてみんなが競争しない、平等な世の中をつくりたい。そのために、その場所として、自分が生まれた土地、先祖の土地を活かしていこうと考えていた。だけど、両親が自分の理想を理解できなくて、悩むことになってしまった。

結果、それまで住んでいた愛知県の小牧へ戻って、そこで考えたのは、富士山麓へ行こう、兼ねてより自分の憧れの地であり、神様から啓示をいただいた地である富士山麓へ行こうと、考えたのでした。ツꀀそういったことをいつか伝えるために、僕は富士山麓に理想郷をつくろうと。そして、その里の名前は「菩薩の里」でした。人々が、自分の願いを叶えていくのではなく、世のため他人のために生きて、世の中がよくなっていくこと。人々が幸せになって生きていくこと。それを見て喜びとする人々。それを菩薩と言う。菩薩は、自らの喜びを喜びとせず、世の中や人の喜びを喜びとするものだ。菩薩の里の建設が自分の目的なんだと。

自分の田舎にそれを夢見て、その土地を開墾して、八角形の建物を建てて、そこで真釈天技場の精神を世の中に広めて、理想郷をつくる。もともと、僕の両親、僕の先祖のそのもとにつくるというビジョンではあったが、すべての親はすべての子の親。すべての先祖はすべての子孫の先祖としたならば、たまたま肉体の縁をもらった自分の両親だからといって、特定の人を大切にするということではなくて、すべての人を大切にするという心につながるためのきっかけをいただいたにすぎない。自分の生まれた家の先祖や、自分をこの世に出してくれた親に執着するためにそれらが与えられたのではない、ということがわかって、もっと広い世界に向けてこの心を伝えようと。真釈天技場というのは地球のことである。だから、特定の場所ではなくて、もともと聖地であるこの星を理想郷にするということが目的であることをのちに教えられて、富士山麓に来ることになった。 ~後編につづく


喜怒哀楽すべてを楽しめてしまう物の見方

ようこ:

今日は、“感情”というテーマです。まずは、感情の波にのみこまれないコツという切り口で始めてみましょう。

ツꀀいさどん:

感情というのは、人間のもっている特徴だよね。喜怒哀楽、それをもっているから人間だと言えるようなもの。その喜怒哀楽があることによって、痛みが発生したり、幸せを感じたり、それできっと成長していくんだと思う。だけれど、人間のように思考がいっぱい働いてものを考える生き物にとっては、喜怒哀楽がなくなってしまったら、無味無臭で何も楽しくない。喜怒哀楽に全部の感情が入っているのだから、喜怒哀楽、それこそが楽しくて人生そのもの。逆に、それがなくなったら、感情の波に翻弄されることがなくなり、楽なんだろうね。それは喜怒哀楽の楽とは違うよね。きっとまだ、自分たちが人間である間には、喜怒哀楽がなくなるということを、考える必要がないってことなんだろうね。

ツꀀそうすると、さっきの質問にある、心の中にある感情の波にのみこまれるということは、心のくせだよね。そのくせを個性として活かすか活かさないかというところにコツがあって、自己コントロールできるものと自己コントロールできなくて勝手に出てくるものの違いによって、コントロールできれば意欲も湧いてくる。でも、くせとして出てくれば、全く自分が意識しないで出てくるものだから、その結果出てくるものが喜びならいざしらず、問題事が発生するようでは、なんでこうなるんだろうということになってしまう。よく、ひとから相談事を受けると、その状態になっている人が多い。多少は、自分のくせをわかっている人もいるけれど、完全にわかっていても繰り返す人もいるし。自分のくせを知り、コントロールして、それを場所に応じて使い分けられるようになると、その人の個性になって味になる、というところにもっていけたらいいよね。

ツꀀようこ:

そうだよね。感情表現豊かともいえるし、感情の波にのみこまれるともいうしね。感情にふりまわされるとか。

ツꀀいさどん:

豊かというのは、感情に強弱をつけて表現するという、劇場で役者が劇を演ずるようなもの。感情に強弱をつけないで、ただとろんとしている人もいるし、相手の言ってることを理解しないでとろんとしている人もいる。それは全くコントロールなしでいる状態だけれど、それが自分の個性となると、「あの人はとうとうと語るよね」ということにもなる。

ツꀀようこ:

感情を押し込める、抑制しようとするタイプもいるよね。

ツꀀいさどん:

それは、過去に自分から発した何かによって、トラウマをもってる人はそうなるんだろうね。トラウマをもっているということは、逆に、こちらから何かを発していた結果、それに対してふさわしい反応が返ってきているということを考えないといけない。大体トラウマをもっている人は、被害者的意識をもっていて、こちらから発したものはほとんどチェックしないで、向こうからきたものだけによってトラウマができていると思っているケースが多いね。100:0はないからね。いつだって、50:50の関係で、自分の発していることを見ることができたとしたら、トラウマというものはすごく少なくなるはず。

ツꀀだから、しっかりとそこでは、自分の感情の流れとか波とかを振り返って、あなたの想い、感情があなたにとって何をもたらしているのか。まわりにとって何をもたらしているのか。さらに、地球にとって何をもたらしているのかを見ること。まあ、地球からトラウマをもらっている人は少ないけどね。地球と感情のやりとりをしている人は少ないから。

ツꀀようこ:

感情のテーマでよくあるのは、人に何かを言われてむっとする。こういうことは条件反射のように出てしまうものだから、これについても、自己観察、自己コントロールで、自分の感情とうまくつきあうということに尽きるのかな?

ツꀀいさどん:

感情が出るということは、自分を学習していることだからね。だから、それが出るということはいいことで、それを押し殺すというのは、学習しないことになる。嘘をついていることにもなる。だから、自分自身をよく理解しない形で、自分を表現している人がいる。そのことによって、結果起きたことに出会って、何でだろう?と思い、相手のせいにしてしまう。それは、自分を振り返る、自分や人をよく観察するということをしてないからだよね

確かなことは、感情が出るということは、自分の中にある思いの種が、全くまわりに関係なく出てくるということはない。自分は相手に対して、相手の感情にふさわしく反応している。さらに、自分が出すものに対して、相手は相手流の反応をしている。そうすると、お互いの感情に対して、お互いの反応である両方のケースを見ている。

ツꀀそれは、自分を見る機会であったり、こうするとこの人はこういう反応をするんだって相手を見る機会だったり、自分を含めた人間ウォッチングだよね。学習の場。それが、対象がたくさんあればあるほど、たくさんの機会を得る。相手が変わることによって、自分から出てくるものが違うわけだから、たくさん機会を持てば、自分の中の要素を多角的に見ることができるともいえる。

ツꀀたくさん人と出会うことによって、自分が対象に対して自分の中のいろいろな部分を出す機会にもなる。さらに、相手に対して学習の場を与えるということもある。だから、人間関係が多かったり、たくさんの人と語り合うということは、自分の内面をいろんな機会で知ることとなり、たくさんの人に自分を使ってお互いを学習し合うという、大切な関係になる。一般の社会で生活していると、そういった機会はなかなかもてない。

ツꀀそう考えてみると、今の木の花の大人会議は、自分の思ったことを、一人ひとりに対して、全体に対して、自分に対して出すことによって、そこから冷静で客観的な判断がいくつもうまれてきて、学ぼうとする人にとっては、非常に有意義な場所である。ある人は、トラウマのようなものをもっていて、自分の中からそれが出てくるのを恐れている人もいるけれど、それを冷静に見ることができれば、トラウマを取り去って、もっと自由になることができる。結果として、自分がもっている問題事の解決という意味では、ものすごくいい治療、修繕の場。さらに、問題事を解決したのちに、今度は魂を向上させるような心の磨きの場所となる。

ツꀀ人間は、ほぼそれが目的で生きている。結局全部、最初の喜怒哀楽という感情表現の中に入っていて、ならば、人間は感情を表現するために生きているのか、というとそうではない。感情表現は、一つの機能のようなもので、そうした機能が働くことによって、人間の中にある感情のもと、魂の形であったり、色であったり、そういったことが刺激を受けて、それによって痛みや喜びが出てきて、人の奥にあるものを見ることになる。そこから、人は自分自身を学ぶことができる。そうすると、人間が生きている目的がそこに隠されているということなんだよね。

ツꀀ今のこの話からとれるのは、喜怒哀楽があって豊かなのか?というと、喜怒哀楽のままに感情のままに流されているということは、この世界の中で勝手に湧いてきた感情によって縛られているということにもなる。自分の中にあるものによって縛られている状態。だけれど、喜怒哀楽も、個性としてコントロールしていくと、悲しみや怒りすら楽しいものであって、コントロールしていない状態の喜怒哀楽と比べたら、非常に楽しいものであり、有益に使いこなすこともできる。

ツꀀようこ:

そうだね、一般的に、怒りや悲しみがだめで、楽しいことや喜ぶことはいいとなっているけれど、コントロールしていない喜びがいいのか?というとそうでもないよね。

ツꀀいさどん:

コントロールしていない喜びは、極端なことをいうと、病気にもつながる。それから、自分にも世の中にも害をもたらすよね。人間の欲望ばかり叶えていくと、この世界は自然のバランスを壊して、環境問題やいろんな問題を引き起こす。やっぱり、コントロールして、自分をしっかり把握することによって、喜怒哀楽、喜びや楽しみはもちろん、悲しみや怒りすら有益なものになるということだよね。これは、コントロールできていない人にとっては、深刻な問題であるから、この物の見方を採用すれば、様々な人のもっている問題に対する大きな解決策ということにもなるね。

ツꀀようこ:

今1歳のゆうとうやひみも、感情を出すことによって心の垢だしをしているのかな?

ツꀀいさどん:

子供は、感情的な自己表現はまだ少なくて、その時そのままの自然な状態の反応をしているだけ。1歳の子供が感情を出しているというよりも、ただ条件反射をしていて、まわりで接するものが自分のくせを見せてもらって学びをいただいているということだよね。木の花の子育ては、みんなで子育てをするから、自分の子供というふうに見ないで客観的に見える条件になっている。でも、場合によっては、自分のくせが強くて、相手から受ける反応を冷静に見れないような人だと、自分の子供を育てているような感じで、育児ノイローゼみたいに気持ちがいらいらすることにもなり、心を学んでいるような人もいる。

ツꀀ小さい子供と接することは、複雑な心をもたない練習をするようなものだよね。それこそ、1歳児や幼児にむきになっている人がいるけれど、それはむきになっている人が幼稚だということ。大人同士だと、幼稚な心は出せないから、ふさわしくちょっと大人っぽく表現してみるので、中にある幼稚が見えにくいんだけど、1歳児や幼児とむきになっているようでは、これは幼稚に決まっているんだから。たまに僕はね、そこでむきになっている人を見て、「同じ土俵にいるね」って言うと、本人はふっと我に返って、自分に呆れかえっている人もいる、まさしく鏡だねっていう。

ツꀀようこ:

何でも自分の鏡として見るならば、感情も神様から与えられた贈り物だなと。何でも自分を磨いて学んでいくための材料としていければ。

ツꀀいさどん:

それはスタンスとしてはそうなんだけれど、“神様から与えられている”というと、人間は、ついつい感情が起きていることすら与えられている。自分の感情に対して、相手からの反応があって、そこに対立や調和の場ができる。それすら、与えられているというと、全部神様が介在してコントロールされていると思うことにもなってしまう。人には自由が与えられ、自らの意志で学んでいくという場として、人生が与えられている。すべてがコントロールされていることになってしまうと、そこには学ぶということや自由もなくなってしまう。

ツꀀところが、喜怒哀楽そのものが害になってしまって、何でも辛いという状態で生きている人もいる。そういう人たちは、神様ありがとうありがとうと言って、願えば神様から何でも与えられるというようなご利益的な発想では、とてもとてもそのしくみを理解し、喜びに変換していくことはできない。

ツꀀそのしくみをより深く理解していけば、素晴らしくて、悲しみも喜びもありがたいものだというところにいくんだろうと思う。そこでは、ありがたいの重みも全く違うということになる。

ツꀀようこ:

そのしくみの中で、どう使うかは任されている、その自由が与えられているということだよね。

ツꀀいさどん:

人間によっては、浅かったり深かったり、いろんな人生がある。だけど、生まれもってのその人の性質を変えることはできないのか、と言ったらそうではない。自分のもっている出発点、今回生まれてきたときにもっている出発点は、過去にもずっとそれをもって旅をしてきていて、旅をするたびに変わってきているんだよね。学べば学ぶほど、人間は変わって、成長し進化することができる。自分の心のくせというものを学んで超えていくと、浅くも深くもものを見ることができるようになる。広い解釈が誰にでもできるようになる。そのためには、自分の枠を広げていくこと。それによって、いくらでもその可能性は広がっていく。

ツꀀ今日は、個人の学び、個々へのアドバイスというアプローチで、どちらかというと、個が自分を内省して、自分の内に向かい学んでいく方法について語りましたが、もうひとつは、外に向かうアプローチで、それは個がこの世界で、どういう役割を果たしているのか、何をもたらしているのかという、個から全体へ、未来に向かうアプローチ。そのどちらのアプローチでも、この感情という切り口で見ることができる。それは、この世界が、感情からくる想念でつくられているということになる。後者の話は、またいつかということで、予告編でした。