ようこ:
今日は、“感情”というテーマです。まずは、感情の波にのみこまれないコツという切り口で始めてみましょう。
ツꀀいさどん:
感情というのは、人間のもっている特徴だよね。喜怒哀楽、それをもっているから人間だと言えるようなもの。その喜怒哀楽があることによって、痛みが発生したり、幸せを感じたり、それできっと成長していくんだと思う。だけれど、人間のように思考がいっぱい働いてものを考える生き物にとっては、喜怒哀楽がなくなってしまったら、無味無臭で何も楽しくない。喜怒哀楽に全部の感情が入っているのだから、喜怒哀楽、それこそが楽しくて人生そのもの。逆に、それがなくなったら、感情の波に翻弄されることがなくなり、楽なんだろうね。それは喜怒哀楽の楽とは違うよね。きっとまだ、自分たちが人間である間には、喜怒哀楽がなくなるということを、考える必要がないってことなんだろうね。
ツꀀそうすると、さっきの質問にある、心の中にある感情の波にのみこまれるということは、心のくせだよね。そのくせを個性として活かすか活かさないかというところにコツがあって、自己コントロールできるものと自己コントロールできなくて勝手に出てくるものの違いによって、コントロールできれば意欲も湧いてくる。でも、くせとして出てくれば、全く自分が意識しないで出てくるものだから、その結果出てくるものが喜びならいざしらず、問題事が発生するようでは、なんでこうなるんだろうということになってしまう。よく、ひとから相談事を受けると、その状態になっている人が多い。多少は、自分のくせをわかっている人もいるけれど、完全にわかっていても繰り返す人もいるし。自分のくせを知り、コントロールして、それを場所に応じて使い分けられるようになると、その人の個性になって味になる、というところにもっていけたらいいよね。
ツꀀようこ:
そうだよね。感情表現豊かともいえるし、感情の波にのみこまれるともいうしね。感情にふりまわされるとか。
ツꀀいさどん:
豊かというのは、感情に強弱をつけて表現するという、劇場で役者が劇を演ずるようなもの。感情に強弱をつけないで、ただとろんとしている人もいるし、相手の言ってることを理解しないでとろんとしている人もいる。それは全くコントロールなしでいる状態だけれど、それが自分の個性となると、「あの人はとうとうと語るよね」ということにもなる。
ツꀀようこ:
感情を押し込める、抑制しようとするタイプもいるよね。
ツꀀいさどん:
それは、過去に自分から発した何かによって、トラウマをもってる人はそうなるんだろうね。トラウマをもっているということは、逆に、こちらから何かを発していた結果、それに対してふさわしい反応が返ってきているということを考えないといけない。大体トラウマをもっている人は、被害者的意識をもっていて、こちらから発したものはほとんどチェックしないで、向こうからきたものだけによってトラウマができていると思っているケースが多いね。100:0はないからね。いつだって、50:50の関係で、自分の発していることを見ることができたとしたら、トラウマというものはすごく少なくなるはず。
ツꀀだから、しっかりとそこでは、自分の感情の流れとか波とかを振り返って、あなたの想い、感情があなたにとって何をもたらしているのか。まわりにとって何をもたらしているのか。さらに、地球にとって何をもたらしているのかを見ること。まあ、地球からトラウマをもらっている人は少ないけどね。地球と感情のやりとりをしている人は少ないから。
ツꀀようこ:
感情のテーマでよくあるのは、人に何かを言われてむっとする。こういうことは条件反射のように出てしまうものだから、これについても、自己観察、自己コントロールで、自分の感情とうまくつきあうということに尽きるのかな?
ツꀀいさどん:
感情が出るということは、自分を学習していることだからね。だから、それが出るということはいいことで、それを押し殺すというのは、学習しないことになる。嘘をついていることにもなる。だから、自分自身をよく理解しない形で、自分を表現している人がいる。そのことによって、結果起きたことに出会って、何でだろう?と思い、相手のせいにしてしまう。それは、自分を振り返る、自分や人をよく観察するということをしてないからだよね
確かなことは、感情が出るということは、自分の中にある思いの種が、全くまわりに関係なく出てくるということはない。自分は相手に対して、相手の感情にふさわしく反応している。さらに、自分が出すものに対して、相手は相手流の反応をしている。そうすると、お互いの感情に対して、お互いの反応である両方のケースを見ている。
ツꀀそれは、自分を見る機会であったり、こうするとこの人はこういう反応をするんだって相手を見る機会だったり、自分を含めた人間ウォッチングだよね。学習の場。それが、対象がたくさんあればあるほど、たくさんの機会を得る。相手が変わることによって、自分から出てくるものが違うわけだから、たくさん機会を持てば、自分の中の要素を多角的に見ることができるともいえる。
ツꀀたくさん人と出会うことによって、自分が対象に対して自分の中のいろいろな部分を出す機会にもなる。さらに、相手に対して学習の場を与えるということもある。だから、人間関係が多かったり、たくさんの人と語り合うということは、自分の内面をいろんな機会で知ることとなり、たくさんの人に自分を使ってお互いを学習し合うという、大切な関係になる。一般の社会で生活していると、そういった機会はなかなかもてない。
ツꀀそう考えてみると、今の木の花の大人会議は、自分の思ったことを、一人ひとりに対して、全体に対して、自分に対して出すことによって、そこから冷静で客観的な判断がいくつもうまれてきて、学ぼうとする人にとっては、非常に有意義な場所である。ある人は、トラウマのようなものをもっていて、自分の中からそれが出てくるのを恐れている人もいるけれど、それを冷静に見ることができれば、トラウマを取り去って、もっと自由になることができる。結果として、自分がもっている問題事の解決という意味では、ものすごくいい治療、修繕の場。さらに、問題事を解決したのちに、今度は魂を向上させるような心の磨きの場所となる。
ツꀀ人間は、ほぼそれが目的で生きている。結局全部、最初の喜怒哀楽という感情表現の中に入っていて、ならば、人間は感情を表現するために生きているのか、というとそうではない。感情表現は、一つの機能のようなもので、そうした機能が働くことによって、人間の中にある感情のもと、魂の形であったり、色であったり、そういったことが刺激を受けて、それによって痛みや喜びが出てきて、人の奥にあるものを見ることになる。そこから、人は自分自身を学ぶことができる。そうすると、人間が生きている目的がそこに隠されているということなんだよね。
ツꀀ今のこの話からとれるのは、喜怒哀楽があって豊かなのか?というと、喜怒哀楽のままに感情のままに流されているということは、この世界の中で勝手に湧いてきた感情によって縛られているということにもなる。自分の中にあるものによって縛られている状態。だけれど、喜怒哀楽も、個性としてコントロールしていくと、悲しみや怒りすら楽しいものであって、コントロールしていない状態の喜怒哀楽と比べたら、非常に楽しいものであり、有益に使いこなすこともできる。
ツꀀようこ:
そうだね、一般的に、怒りや悲しみがだめで、楽しいことや喜ぶことはいいとなっているけれど、コントロールしていない喜びがいいのか?というとそうでもないよね。
ツꀀいさどん:
コントロールしていない喜びは、極端なことをいうと、病気にもつながる。それから、自分にも世の中にも害をもたらすよね。人間の欲望ばかり叶えていくと、この世界は自然のバランスを壊して、環境問題やいろんな問題を引き起こす。やっぱり、コントロールして、自分をしっかり把握することによって、喜怒哀楽、喜びや楽しみはもちろん、悲しみや怒りすら有益なものになるということだよね。これは、コントロールできていない人にとっては、深刻な問題であるから、この物の見方を採用すれば、様々な人のもっている問題に対する大きな解決策ということにもなるね。
ツꀀようこ:
今1歳のゆうとうやひみも、感情を出すことによって心の垢だしをしているのかな?
ツꀀいさどん:
子供は、感情的な自己表現はまだ少なくて、その時そのままの自然な状態の反応をしているだけ。1歳の子供が感情を出しているというよりも、ただ条件反射をしていて、まわりで接するものが自分のくせを見せてもらって学びをいただいているということだよね。木の花の子育ては、みんなで子育てをするから、自分の子供というふうに見ないで客観的に見える条件になっている。でも、場合によっては、自分のくせが強くて、相手から受ける反応を冷静に見れないような人だと、自分の子供を育てているような感じで、育児ノイローゼみたいに気持ちがいらいらすることにもなり、心を学んでいるような人もいる。
ツꀀ小さい子供と接することは、複雑な心をもたない練習をするようなものだよね。それこそ、1歳児や幼児にむきになっている人がいるけれど、それはむきになっている人が幼稚だということ。大人同士だと、幼稚な心は出せないから、ふさわしくちょっと大人っぽく表現してみるので、中にある幼稚が見えにくいんだけど、1歳児や幼児とむきになっているようでは、これは幼稚に決まっているんだから。たまに僕はね、そこでむきになっている人を見て、「同じ土俵にいるね」って言うと、本人はふっと我に返って、自分に呆れかえっている人もいる、まさしく鏡だねっていう。
ツꀀようこ:
何でも自分の鏡として見るならば、感情も神様から与えられた贈り物だなと。何でも自分を磨いて学んでいくための材料としていければ。
ツꀀいさどん:
それはスタンスとしてはそうなんだけれど、“神様から与えられている”というと、人間は、ついつい感情が起きていることすら与えられている。自分の感情に対して、相手からの反応があって、そこに対立や調和の場ができる。それすら、与えられているというと、全部神様が介在してコントロールされていると思うことにもなってしまう。人には自由が与えられ、自らの意志で学んでいくという場として、人生が与えられている。すべてがコントロールされていることになってしまうと、そこには学ぶということや自由もなくなってしまう。
ツꀀところが、喜怒哀楽そのものが害になってしまって、何でも辛いという状態で生きている人もいる。そういう人たちは、神様ありがとうありがとうと言って、願えば神様から何でも与えられるというようなご利益的な発想では、とてもとてもそのしくみを理解し、喜びに変換していくことはできない。
ツꀀそのしくみをより深く理解していけば、素晴らしくて、悲しみも喜びもありがたいものだというところにいくんだろうと思う。そこでは、ありがたいの重みも全く違うということになる。
ツꀀようこ:
そのしくみの中で、どう使うかは任されている、その自由が与えられているということだよね。
ツꀀいさどん:
人間によっては、浅かったり深かったり、いろんな人生がある。だけど、生まれもってのその人の性質を変えることはできないのか、と言ったらそうではない。自分のもっている出発点、今回生まれてきたときにもっている出発点は、過去にもずっとそれをもって旅をしてきていて、旅をするたびに変わってきているんだよね。学べば学ぶほど、人間は変わって、成長し進化することができる。自分の心のくせというものを学んで超えていくと、浅くも深くもものを見ることができるようになる。広い解釈が誰にでもできるようになる。そのためには、自分の枠を広げていくこと。それによって、いくらでもその可能性は広がっていく。
ツꀀ今日は、個人の学び、個々へのアドバイスというアプローチで、どちらかというと、個が自分を内省して、自分の内に向かい学んでいく方法について語りましたが、もうひとつは、外に向かうアプローチで、それは個がこの世界で、どういう役割を果たしているのか、何をもたらしているのかという、個から全体へ、未来に向かうアプローチ。そのどちらのアプローチでも、この感情という切り口で見ることができる。それは、この世界が、感情からくる想念でつくられているということになる。後者の話は、またいつかということで、予告編でした。