コノハナ人としての新たな時代の生き方

天然農法と性について語った「天然の意識で生きる」を大人ミーティングでメンバー全員でシェアした翌日の、いさどんとともこの会話です。

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いさどん:
心が整ってくると、睡眠時間が少なくてもいいという話があってね。肉体労働をする人はそういうわけにはいかないかもしれないけど、心が整うと、食べ物でも睡眠でも少なくてすむようになる。それは歳のことも関係しているかもしれないけど、若い人たちでもそれほど睡眠をとっていないような気がする。

ともちゃん:
特にここの人はね。私も、以前より睡眠時間が少なくても平気だね。

いさどん:
いつのことか覚えていないけど、一般社会で生活していた頃は、朝目が覚めると仕事に行かないといけないから、起きないといけなかった。目がなかなか開かなくて、すぐに起き上がれない頃もあった。でも、そういったことが不思議となくなって、面白いものだと思う。

ところで、昨日の話は何気なく出したけど、なかなかリアルな話だった。みんながそこに言及して話し合うのはどうかな、と思って聞いていた。こちらも、あえてそこに触れなかったけど、どうなのだろう?
たとえば、どこかの情報として本の内容を紹介するのと、その現実がリアルにありますよと話すのとでは、大分受け取り方が違うと思うんだよね。僕が思っているのは、いつかみんなが心の壁を越えて行くと、その世界は何でもないこととして存在するようになる。その心の壁を越えてしまうと、逆に不必要なものがいらなくなっていく。今の睡眠や食の話と同じようにね。欲求がなくなっていくんだよ。

そうすると、必要に応じてふさわしくそういったことがあり、不必要なことはいらなくもなる。そして、いらない人は全くいらなくなるということだけど、昨日のような情報が出されると、自分もその境地になってそれをしないといけない、という強迫観念を持ってしまう人も出てくるだろう。そういった心境の世界ではそのようなことがあるんだ、と切り離して考えるだけの冷静さが本当は必要なのだけど、人によっては自分をそこにあてはめて、「そんなことが自分にはできるのだろうか?」と思う人もいたのだろうと思うんだよ。

ともちゃん:
昨日ミーティング後にまっちゃんたちと話していたとき、そんな感じだったかも。「ああいう話を聞いても、体感としてわからないから、コメントもできないんだよな」と言っていた。

いさどん:
体感としてわからないからといって、そのようなことは「ではそれを体験してコメントします」というわけにはいかない。

ともちゃん:
それではいつまでたっても話ができないね。

いさどん:
体感としてわからなくてもそれがわかる者になることが大切だよ。天然農法の極意を表現できる者にならないと意味がないのと同じことで、そういった場に出会い表現できる者になったときに初めてその役割があるものなんだよ。もしくは、そういった場を創りだせる双方があって初めて、その場に出会える。
あのようなことは、捉え方によってはゴシップのネタとしていくらでも受け取られるからね。

ともちゃん:
そうだね、マインドコントロールと言われそうだし。

いさどん:
だから、当事者がどういった状態でいるかが大事なんだよ。

ともちゃん:
そう思った!昨日も、外の人に向けてだけじゃなくて、うちの中でも自分がああいう体験をしたことをみんなに伝えられることがきっと大事なんだと思った。でも、不十分だったなとミーティング後に思ったの。

いさどん:
それは、受け取る側が不十分だからだよ。しかし、次の次元の話を伝えるとしたら、受け取る側ができあがってからそれを伝える、というわけにはいかないからね。だから、これは昨日のままで終わりにする話ではないんだよ。もう一度引き出して、みんなと確認する話だね。

ともちゃん:
そう思ったら、少しわくわくしてきた!

いさどん:
もし、そこまで意識レベルを上げていくとしたならば、自分で意識レベルを上げてその場を創っていく意識が必要だよ。それがないと、色々なところで昨日の子どもミーティングのような現象をもらっていくことになる。でも本当は、それを創っていく人になるために、この場が与えられているんだよ。

仏の尊称は十号あって、その中のひとつに「仏の世間解(せけんげ)」というものがある。仏は実際には世間を生きていないし、男でも女でもないけれど、世間にある人間の心境を全て理解し語ることができる。だから、人でも意識が高くなると、そういったことが可能になるんだよ。
ところが、まっちゃんを代表とする意識レベルは、そういった情報を得ると、「自分がそれをできるのだろうか?」とか「体感していないからわからない」という発想になってしまう。それはあくまでも情報であるのだから、自らをそこにあてはめないで、冷静に受け止め、そのときの心を想像していくことが大切なんだよ。それを冷静に受け止め理解したときに、そういった場所を創れる人となり、実際の出来事に出会うことになっていくのだろう。

たとえば、自然農法から天然農法へ意識が移っていくときに、何が違うのかといったら、その場を整えられる人になって初めて、天然農法を行ずる人になれるわけだ。昨日シェアした話の中にそれは説明してあったよね。しかし、そういったことが十分に会得できていないから、まっちゃんのような反応になるんだよ。

そういったことを信じて受け取れず、傍観者的立場に立ってそのアレルギーが溜まったときに、ここを離れていった者たちと同じ現象が起きることになる。

ともちゃん:
それは、表面的で物理的なことに囚われているんだね。

いさどん:
だから、そこで今まで僕が伝えてきたことは、「精神が美しければ、全ての出来事は美しいことになる。そのことを理解して、まずは美しい方へ行きなさい」ということだよ。それは昨日の話の最後にも書いてあったけれど、あれが付録みたいになってその前の話とつながらないと、そこが腑に落ちないから、そのようなことになる。

今、いよいよこのような難問を乗り越えて、みんながその気になってきたから、次のステップに行きましょうということで次の話をすると、早速動揺するということだね。でもそれは、「あなたもそういった世界を創れる者なんですよ」という話をしているだけ。本当は、ここでもひとりひとりが自らの意識を上げていって、次のステージの話ができるようになれば一番いいのだけど、それも今は他からもらっていることになる。
世の中にこういったデリケートな話が引き出されたおかげで、みんなで共通した立場を共有できたよね。その立場を共有できたからこそ、我々はどういった境地でいるべきなのかが提示されたわけだ。そこで次のステップの心に出会ったときに、早速動揺しているというのが今の現状だね。

それも人によって色々で、「当然でしょう」と言う人もいれば、「よくわからないけど、私はそれでいいと思う」と言う人もいれば、「自分がそんな体験をできるのだろうか?」と動揺するようなレベルの人もいる。しかし、それは情報であり、「そういった境地に至ったときにその心が理解でき、表現できるのだ。その立場の者に自らがステップアップしていくのだ」と意識を高めていくこともできる。だけどそれは、形の話ではなく、心の話だから、心が伴っていない者が考えると形に囚われてアップアップすることになるんだよ。

ともちゃん:
性って、いいテストだね。人の欲が沢山絡んできた分、見えにくいというか、余分なものが出やすいというか。

いさどん:
性について語ることは、それこそネットで調べたら、忌まわしい情報からスピリチュアルなものまで色々な情報があふれているけれど、それを深い意識につなげるための教材として提供するとしたら、意識が高まっていくようなものを引き出していかないと意味がない。単に、性を知識として伝えても、それは個々の人の意識レベルで勝手に膨らませるだけのことで、我々が伝えたいようなものとはかけ離れたものになってしまう。ましてや、意識レベルが低い者にそれを提供することは、火に油を注ぐようなものだからね。
だから、どこでもこのような話を提供できるわけではない。しっかりとした精神的立ち位置を保ち、伝えられる相手や場所が大切になってくる。こういった話題は、両刃の剣だからね。扱いには気をつけないといけないね。

ともちゃん:
ここがインターネットで批判的に流されている情報と実際に違うのは、そういう深い意識が日々の生活の中で実践されていることだと思うんだけど、実践している人たちが語るにしても、受け取る側次第では単なる知識の話になってしまうでしょ?昨日のミーティングの場もそうだったよね。知識の話になってしまって、実際の自分の心とつながっていかない人もいるね。

いさどん:
だから、「出張木の花塾のテーマが性ですから、これについて今、内容を模索している中で、この話が出たんですよ」と説明したんだよ。それで一昨日のミーティングで木の花のあゆみを振り返る場があった。これは我々が実際に通ってきた道であって、それが現在につながっているのだから、二つの道はなかったということだね。
この道を尊いと思うのであれば、全ては尊いしかない。それを切り離して、ここは良いけどここは好きじゃない、ということはあり得ないという話をした。そして昨日、農と性の話を出したんだよ。でも、そこでも切り離して、「こっちはわかるけど、こっちはわからない」と言っている人がいるということだよね。
しかし、わかるということは全てわかるという境地になるべきで、わからない者は「わからないけれど、そういうことなんだ」というところに理解を持っていかないといけないのに、「体験していないからわからない」ということになってしまっているんだね。そこで早速、それがマスターできているかどうか、その人のテストが実施されているわけだ。

だから、受け取る人たちによって色々だけど、そういった心境になる者がいるということなんだよ。それは、自分を常に観察していないから、湧き出てきた感情に翻弄されている状態だということだ。
湧き出てきた感情に翻弄されている者もいれば、今はいなくなったけれど、昔は疑心暗鬼や怒りの感情が出てきたりするような者もいた。だから、全体がおかしくなっていたんだよ。もしも信じる心がベースにできあがっていたならば、「そういうことなんだ」と受け取って行ける。逆に、「そこまでのことが人間の可能性としてあり、信じている限りは自分の未来にもありえるのだ」と思うこともできる。
そういった冷静な心がないと、違和感があるたびに議論することになってしまう。しかし、信頼がベースになっているコミュニティには、議論はいらないんだよ。

ともちゃん:
そうだね。

いさどん:
昨日、誰も性の話に触れないと思いながら、僕はみんなの中にある色々な心の状態には触れなかったんだよ。昨日の農の話と性の話は、両方とも同じようにメインの話なんだよ。しかし、農の話の方には話題は行ったけど、性の話の方には触れない状態だった。

そこで、「これを木の花の性として語っていいのですか、みなさん?もしも自分からこれを切り離したら、それは自分とは違うものだという認識でありながら、木の花の性としてあなた自身の認識でもあるということで語られているのですよ。それで大丈夫ですか?」ということだよ。
「それは私の認識とは違います。いさどんが創っている世界ですから、それはいさどんだけの世界だよ」という話であったなら、「木の花のみんなは純粋で良い人だけど、いさどんだけに問題がある」ということで、いさどんはもっとも忌まわしいところに置かれてしまうんだよ。

ともちゃん:
本当にそうだね!だから、これは性について語ってるけど、実は性の話じゃないんだよね。

いさどん:
そう。それで、人によって個人差はあるけれど、比較的女の人は感覚的に受け取りやすい。しかし、男の人は形に囚われるから不器用なところがあるんだよ。
どういうことかと言ったら、僕がやっていることは役割だとしよう。たとえば、お医者さんが患者を診るとする。そのときに、普通の人ができないことを提供する。それは、それができる資格や資質があるからできるわけだ。できる資質がない人がそれをやったら、問題事になってしまう。そこでは、その境地としてふさわしい位置にいるかどうかを求められるのだから、それにふさわしい位置に立てばいいわけだ。そして、自分はそこに向かっていく者だと考えれば、途上の者は「自分もその位置に行かなければ」という話になるだけだ。

しかし、そこで動揺するようなことでは、ケア滞在者のKくんがここで色々な情報に出会いながら勝手にそれを自分の中で膨らませて騒ぐのと同じ話になってしまう。僕はKくんに、「それはあなたには縁のない話なのだから、そんなところに反応するのは見当違いの話なんだよ」と伝えるけれど、ケアの人が心を治しに来ているのにここの色々に反応して、ケアの進捗に影響が出てくるようなところもあるでしょ。ここの人々の意識が高いからケアが提供できているのだけれど、そのケアを受ける側の人の意識が高いところを理解できないからといってKくんのように反応しても、それは全くお門違いの話になる。
それでは、意識が自分と合うところへ行ったら心が改善されるのかといったら、改善されないのだから、その場合「自分とは切り離して受け取る心ができたときに、あなたはどこにいても安定して暮らせる人になるのです。人は人、自分は自分として切り離して生きていけるようになりますよ」と僕は伝える。しかし、そこを勘違いする人がいるんだよ。ここはある意味、そういった認識のトレーニングの場でもあるのだけど、人は往々にして色々な情報を得ると、それを全て自分にだぶらせてしまうところがある。
ところが、自分の道をしっかりとわきまえたら、人がどうであっても、「あなたはそうなんですね。私は私の立ち位置でこの役割をしていきます」となり、そこでは動揺が全く走らない状態になる。もしくは、「私は今この位置にいますが、もしその心境でそういった場に出会ったときには、そのような役割も果たせるのですね」という冷静な心があって初めて、それが当たり前の世界で生きることになる。

道は、登山のように進めば進むほど高まっていくし狭まっていく。その時に山の中腹を歩いている人が頂上近くの景色を想像して何だかんだと言っても、中腹の意識では頂上近くの意識はなかなか受け取れない。しかし、自らがいずれ歩んでいく先だと思えば、そこにたどり着いたときに受け取ればいいことであるし、その山の構造の全体が想像できれば、ここではこの心の負担でこのような余裕で歩んでいるとか、頂上近くでは心にこういった負担が生まれて、このような気持ちでそこを極めていこうとしている、というだけのこと。それは単なる情報であって、今の状況をわきまえない心を働かせることは慎まないといけない。

こうして懇切丁寧に語るのだけど、本当は伝えられてわかることではなく、自らがそこをわかっていく人にならないと、いつも授業を受けて学ぶ人になってしまう。こういった学びは常に生の学びであり、そこには生のテストが常に用意されているのだから、誰かからそれを解説してもらうのではなく、自らの中から回答が湧き出てくる人にならなければいけない。常に自分がどう反応したかがテスト結果なのだから、その結果を受けて、この心境はなぜこうなっているのだろうという分析から復習ができて、次の予習につなげていくことが大切だよ。それが常に自分と瞬間瞬間、真剣に向き合い、自らを成長させていく人だと伝えてきた。
なぜそういったことをここで出したかと言うと、今我々はそれをステップとしてみんなが理解していく場所にきているわけだから。しかし、早速テストが来ても、それがテストであるということさえ気づいていないことにもなっているね。

ともこ:
昨日はそれを学ぶいい材料がいっぱいあったね!でも、あまりそうは受け取られていないよね。

いさどん:
そうだね、そこまで考えていないね。だからそこに触れようともしなかったね。

ともこ:
むしろそれを避けてしまっていたようにも感じたね。

いさどん:
そう。そこでは自らの中に避ける心も見つけて、あえて避けているからこそ出さなきゃ、わからないからこそ出さなきゃ、というくらいの気持ちになったら、あの場もまた違ってくる。これだけの段階に来たのだから、一日ちょっと思考をし、それを熟成するための期間を置いて出すという意味では、これもちょうどいいのかもしれない。
早速テストを受けると、そのテストに対する反応はいろいろだね。いつものように全くそこのところを考えていない人もいれば、考えているけど見当違いに考えている人、そこに反応しても出してはいけないのではないかと勝手に想いがふくらんで出さない人、と挙げたらいろいろといるんだよ。しかし、みんなそこを超えていく為に今この登山に挑んでいるわけだから、そこを超えてもらいたい。そうでないと、このネタは新たなバッシングのネタになるだけだよ。

ともこ:
ほんとだ~。

いさどん:
下手をすると、この話題でも、「目が覚めました!」と心が翻ってバッシングを浴びそうなネタでもあるわけだ。それを敢えて出すのだからね。

ともこ:
そうだね。こういう話も、バッシングの雑誌の中では「古田氏との交わりは聖なる交わりとされる」というような話になる。

いさどん:
完全にマインドコントロールのネタになるね。

ともこ:
ほんとだね。やっぱり、これは性の話だけど、結局、性の話じゃないんだよ。

いさどん:
だから、昨日、そのあたりもしっかりとみんなに伝えたよね。「これは性と農というテーマで取り上げられていますが、全てのことに共通することです」と伝えたけれど、そのことはしっかりとはみんなの頭の中に入っていない。だから、ヒットするところだけがもやもやしていて、それで「こっちはわかるけど、こっちはわからない」となっていくことにもなるんだよ。

ともこ:
その伝えようとする心が観えたらおもしろいね。

いさどん:
だから、胸にチャックがあって見せることができたら、どんなに楽か。だからね、「ああ、めんどくさい、めんどくさい」という話だよ(笑)。

ともこ:
本当にその人の心が出るんだね。その出来事とかモノではなくて。出来事は材料にしか過ぎない。

いさどん:
だからそういうことも含めて、自分自身もどこの位置にいるかという心のざわめきが観えるわけだよ。そうしたら、それも客観的に観るくらいの冷静さがあったら、動揺するようなことはない。

ともこ:
そういうことも出し合って、材料にして、みんなで話し合えたらいいね。

いさどん:
そうすると、天然農法にしろ、性のことにしろ、本当に超えて表現していける。そういったことを現象化できる資格が得られるわけだよ。

ともこ:
そうだね。カタカムナ奏上だけではないね。

いさどん:
だから、その手法とそれにふさわしい意識レベルの人ができるということなんだよ。その入門編として、感情が働かないところで「アワの歌」があるんだよ。そして、「カタカムナ」のレベルになっていく。

ともこ:
アワの歌は、1つ1つの音に思念がないから。

いさどん:
そう。カタカムナは、その思念をしっかりと理解してコントロールできる人がその世界を表現できる人で、その場を創っていく人になる。その段階に至っていない人は、心を無にしてその場を整える役割に徹する。

ともこ:
難しいね。カタカムナの方がレベルが高いという話になると、ついつい頭を使って理屈で考え始める。

いさどん:
そこの危険があるから、結局、アワの歌になってきたんだろうね。
みかちゃんが「不思議だ、不思議だ」と言うんだよ。それは日水伝文とカタカムナは全く同じことを言っているそうで、カタカムナを学んで日水伝文を見ると、神の働きで人間に伝えようとしていることが全て書いてある。ところがカタカムナでは神の働きというものはなくて、世界は単なる物理性だというように神を封印している。しかし、よくよく調べていくと、そこには同じことが語られている。日水伝文では、カタカムナがその元だとは言っておらず、別々に体系化されて伝えられているのがすごい。だからお互いの関係を切ってあるんだよ。
我々はこの道とカルマ読みと地球暦とカタカムナ、そして自然農から天然農といろいろなものに出会ってきた。それが今、全てひとつの道として日常生活に定着してきている。それが本当の意味で形に表すということだよ。
我々は、いかに今まで現されなかったことを与えられているかということで、その道を与えられ特別に選ばれた者達であり、ある意味神仙民族で、それが娑婆世界に生きているということだよ。

ともこ:
だから、ひとつのひとつの出来事を区切るということはありえない。

いさどん:
そうだね、ありえないね。

ともこ:
全て同じところから現されているから、農のことはわかるけど性のことはわからないということはありえない。

(ここでイサナ登場)

いさどん:
それは全てのことを同源として語っているのだから。それをまさしく現象世界に現してくれるのが「ナ」だよ。「イサナ」。よろしく。あなたが活躍するのはもう少し先ですが、人類の歴史からすれば、もうすでに扉が開く時に来ている。それは、陰陽の男女のギャップによって区切られていたものが統合して示されるということ。今までの人類にはそれがなかったんだよ。

ともこ:
素直さがあればいいね。

いさどん:
そう。ただ信じる心があればいい。みかちゃんの歌は本当にそのままだね。
(にこりと笑うイサナに向かって)なんて素晴らしい笑顔!
我々は前人未到のところに来ているということを示しているんだよ。

ともこ:
おもしろいよ~!
素直さがあって、わからなくてもパッといけばいいと思うと同時に、それでは実は真意とか道理とかは掴んでいないわけだから、それを常に探っていくということが同時に必要だと思ったの。

いさどん:
それはそうではなくて、素直な心が表現できる人はそれだけすでに心の準備が出来上がっているわけだから、素直であるということは、正直であるというベースが出来ていて、「正直、素直、信じる」になる。その時に道理というのは後からついてくる。道はいつもそうなんだよ。よくわからなくても、直感で大事と思うほうをやっていると、後から道理がついてくる。それが引き寄せの法則。それが天理で生きているということだよ。

ともこ:
それを頭で理解しようとすると、逆になかなかパッといけないのかもね。

いさどん:
そう。

ともこ:
性の話でもそうだ。理屈でわからないから「よくわからない」という。

いさどん:
そういった話になるんだよ。天とともに生きる、直感人間で生きるということは、理屈なんかまずはどうでもいい。これが大事と思ったら、そこで歩む方向を仕分けられる。本当に直感人間で生きる気があるのかどうなのかが問われるところだね。

ともこ:
そう、本当に直感人間で生きる気があるのかどうかだね。

いさどん:
昨日あの場をわざわざ提供して、そこにいろいろな心の反応があることを観ながら、あなたが昨日話した人達のような反応もあるだろうと想像はしていた。そうしたら、ちゃんとこのような報告があって、それに対して回答する場所が設けられた。これはまるっきり授業だね。これは生きた授業なのだから、それを生かすために自らから湧き出す人になるのが目標だよ。わかりましたか!

ともこ:
はい!今、懇切丁寧に解説してもらっているけど、解説してもらっている時には受けるばかりなんだよね。

いさどん:
だから、それが湧き出す人になるんだという意志が大切なんだよ。

ともこ:
それこそ、そこに直感が関わってくるということだね。

いさどん:
そう。自らから湧き出す人になる。そうでなければ、こんな道はやめた方がいい。でも、みんなむずむずすると思うんだよ。誰にもそういった種があるからね。それだったならば、その種に水をやって芽を出させて開花させるということだ。

ともこ:
その結果、すごい場になるね。

いさどん:
だから、前人未到なんだよ。それは何か特別なパフォーマンスにつながるような話ではなく、生活自体がそういった人達の表現の場所ということ。過去の事例をとってきて、例えば「タオコード」とか、「神仙民族」とか、「アナスタシア」「ホピ族」「マヤ」とか、いろいろ当てはめてもいいけど、これは新しい「コノハナ人」の生き方なんだよ。歴史の中でカタカムナ人やホツマ人の流れを受けて、これからはコノハナ人としての新たな時代の生き方の始まりなんだよ。それは全人未踏の歩みなんだよ。

ともこ:
すごいことをやっているね。おもしろすぎる!

いさどん:
ここまでくると、タブーをなしにして、何でも発信しなさいということだ。

ともこ:
全て同じ心だものね。タブーはない。
今度ホームページに改めて、まりちゃんの「15年目の合格」の話を載せようと思って、昨日まりちゃんに「20年目のコメントはある?」と訊いたら、いろいろ話してくれたの。「わかった、ありがとう」と言って終わろうとしたら、まりちゃんが、最後に一つ言いたいことがあるのって言って、こう言ったの。「私には、こうやって教えてくれる人がいて、一緒に笑って一緒に泣いてくれる人がいたの。でも、いさどんという人にはそういう人がいなくて、自分の拳で自分の頭をたたいて、一人で車の中で泣いて、歩んできたんだよ。みんなが助けてとそれを望むから、いさどんは手を貸してきたんだよ。でも、みんなはそういったことがわからないんだよね。わからないからといって相手に何かを思うということはないんだけどね」って、最後にこれだけは言いたいって言っていたんだ。

いさどん:
(涙ぐんで、しばし沈黙。)
まりこに会いたくなった。まりこに会いに行こう。
 
〈まりちゃんの部屋に移動して〉
 
いさどん:
この歩みが特別な歩みだということがわかるでしょ?しかし、多くの人はそれがわからない気持ちもわかるでしょ?だからこそ、これに出会った者は真剣に生きないといけない。

ともちゃん:
そうすると、「生きている目的って何なのだろう?」と思う。

いさどん:
そうだね。生きることは、ただ腹が減るから物を食べ、時間が経っていくから歳をとっていくことではないんだよ。生きることは悟るためにある。そして、その悟りへの道を現象化して、時代を刻んでいく役割が我々にはあるんだよ。これは人間にしか与えられていない道だからね。

ともちゃん:
そう。昨日の天然農法の話を聞いていて思ったんだけど、自然は曲がっているでしょ?人間がその仕組みを理解した者として潜象界へ戻していくというのは、すごい存在だと思ったの。人間も曲がって生まれてきているのにね。

いさどん:
だから、自分を超えた世界へ行ける存在なんだよ。その極めてデリケートな部分が性の話だよ。それは全ての神聖な成り立ちのはじまりなのだから。それは、この物語のカラクリの大本なんだよ。

ともちゃん:
性のことが理解できることがあるのかはわからないけど、性のことがわかったら、他のことはもっとすぐに理解できるんだろうね。

いさどん:
その微妙なところに触れれば触れるほど、人間は心が震える。だから、それはわかりにくいものでもある。それは潜象界の響きのようなものでもあるんだよ。それは現象化していないから解釈できないのだけど、その響きに惹かれる。

ともちゃん:
その響きさえ、感じていられればいいね。

いさどん:
そう。ただ、響きだけ感じて、潜象界で孤独を感じていたのが神様だったんだよ(笑)。そこで、「これを現象として現そう」ということで、潜象界から現象界へ出てきたんだろうね。そういった考えがあったかどうかはわからないけれど。

ともちゃん:
神でさえ、孤独を感じる?

いさどん:
神様が孤独を感じたからこの世界を創って、人間もそれを受けて孤独を感じながら群れて、そして全ての生命を群れるようにしたわけだ。

ともちゃん:
神の感じる孤独と、人の感じる孤独は同じ?

いさどん:
おそらく本質は同じだろうね。ただ、そのスケールが違うだけのことで、結局ちりばめられている孤独は同じなのだろう。

ともちゃん:
神の場合は、孤独を感じる対象がなかったわけだよね。

いさどん:
それは無限なる孤独なんだよ。

ともちゃん:
私たちには、まわりに対象が沢山あるもんね。

いさどん:
それは無限に対象があるわけだけど、沢山あって満たされているはずなのに、そこで孤独を感じるわけだよ。それは、己に囚われているから。宇宙全体がひとつのいのちなのに、自分に囚われているから、いくら対象が沢山あっても孤独を感じるんだよ。それを神様は反対のほうから観ておられるわけだ。全てが自分自身だから、孤独を感じられて沢山の対象を創ったんだよ。だから、神様が感じている孤独と、我々が感じている孤独は、カタカムナでいう相似象のようなものだよ。

ともちゃん:
そうすると、神様は今はもう孤独を感じない?神の中に境はないよね?

いさどん:
こういう世界を創ってしまったからね。でも、これは呼吸と同じだから、この世界をない状態にして、またある状態にして、ない状態にして、ある状態にして、そうやってこの世界は繰り返されているんだよ。でも、その先に行くと、また空しくなる。結局、自らがやって自らが遊んでいることになるとマスターベーションの世界だから、空しくなるね。だから、リアルに自分自身を自分と切り離して、自分以外のもののように分けることにしたんだよ。

ともちゃん:
だから、人間をこんなに分からず屋に創ってくれたんだね!

いさどん:
僕も、その気持ちはわかるんだよ。それは「結局、自分だけの世界なんだ」「この世界はひとつなんだ」ということ。神様は「あってあるもの、なきてなきもの」という不可思議な立場にいるわけだからね。分ければ分けるほど矛盾だし、それを統合してみるとひとつになって孤独になる。分ければ矛盾、統合すれば孤独!

ともちゃん:
だから、どちらもありえないんだね。

いさどん:
この世界は南無妙法蓮華経の「妙」と言って、不可思議(妙)な世界だよ。しかし、我々はそこの境地まで至っているということだ。だから、神様の気持ちはわかる。あとは、肉体を離れれば、その心そのものになれるよね。
肉体の中にいると、自らのポジションをもらうから、どうしてもこの世界と一体にはなりきれない。だから、菩薩の境地になっても、仏にはなりきれないのは、肉体があるからだよね。仏になるということは、この世界と一体となって、この世界に遍満している状態のこと。それもある意味悟りと言うけれど、結局潜象界と現象界を行ったり来たりしているということであれば、それも単なるポジション取りの話だからね。悟りに至っていないというのは悟りに行くためのプロセスであって、悟っている状態は悟っていない状態へのプロセスにしかすぎないのだから。だから、そのカラクリがわかればどちらでもいいということだよ(笑)。
そこまでの解釈をすると、解釈の意味もなくなってしまうから、この世界をわかることは必要ないことになるんだよ。だから、わからないことは問題のようで、全く問題ではないことになる。

ともちゃん:
完全に不完全を散りばめることだね。

いさどん:
あってあるもの、なきてなきもの。神様の存在は面白い(妙な)存在でしょ。そうすると、全ての現象はそれで良しとなる。馬鹿なことをやっても何をしていても、それは全てゲームだから。

ともちゃん:
でも、そのゲームの過程で色々と大変な思いもするね。

いさどん:
それは、低い位置に自らを置くから大変な思いをすることになるわけだ。高い位置から観ていたら、プロセスとしてそのときにそのことがあるだけだから、理解があろうが無理解があろうが、全ては過程だからね。自らに囚われなければ、どうということはない。自らに囚われなければ、テレビのニュースを見ているのと同じことだから、身にふりかかってくることも全く気にならなくなるよ。自分のことを週刊誌で見ようが、テレビで見ようが、その印象が良かろうが悪かろうが、同じようなことは他の情報からも出てくるわけでしょ。そうしたら、自分の心の位置と同じようなことが他から出てきたら、直感で、「ここまでの人間たちが出てきたんだ!」と感じるんだろうね。

昨日、長期ヘルパー滞在中の中国人のゼンと話していて、彼は今、問題児だけど、若い頃の僕とだぶって観えるんだよ。昔、僕がこの道に出会って、「絶対そこを行くんだ!」という気持ちになったことがある。今、彼も同じ状態なんだよ。しかし、まだその確信に至っていないから彼の心は雑で、まわりの者となかなか調和的にならなかったり、自らの思いを素直に伝えられなかったりすることで、彼にはいらだちがある。だから、「僕はあなたを過去の自分とだぶらせて観ているところがあります。だから、あなたの未来に興味があるのです」と伝えたら、彼の気持ちは落ち着いたよ。

ともちゃん:
嬉しかっただろうね。

まりちゃん:
ここを去ったあの分からず屋たちもスタートは一緒だったんだよね。学ぶか学ばないか、自分以外のものを受け入れるかどうかの違いだけなんだよね。

いさどん:
そういう意味では、まりこはなかなか気がきいたことを言うんだよ。僕が育てただけのことはある(笑)。随分手間をかけてきたからね。手間をかけたのは、まりこか和子ちゃんか・・・やすえにも手間をかけたけど、そのままにしておいたら全く役に立たなかったからね。人のために役立つ人にしたんだよ。

まりちゃん:
私たちは自分に囚われないで、自分以外のものを受け入れただけで、ここを離れた人たちはそれが受け入れられなかっただけなんだよ。

いさどん:
自分の価値を信じていないと、出会ったものが信じられない。しかし、人間は誰でもこの境地に至れる。これは特別なことではないんだよ。世界はひとつだから。

ともちゃん:
いさどんが昔、「自分なんか」という心が出た話と同じだね。

いさどん:
そう。そこを信じて、自分を越えられるか、自分を疑う心を越えられるかどうかだけなんだよ。正直に素直に信じられるかどうか。そういう意味では、そういったことを先駆けて語っている立場では、僕は特別な人ということになるけれど、ではその特別がどこから湧いてきたのかといったら、当たり前の人間から湧いてきたんだよ。つまり、当たり前の人間は全て特別な存在だということだ。
  
 


台風8号を通して 〜 天の気とつながって生きる

台風8号が接近していた一昨日(9日)の夜の大人ミーティングで、いさどんは次のように語りました。

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いさどん:
僕がいつも皆に語っていることは、僕の日常会話です。生きていることの意味を日々ここまで追求しているということで、日常想っていることをこのようにしてミーティングの場で皆に伝えているのです。

今日、NHKのクローズアップ現代で取り上げられていましたが、今、ミャンマーやベトナムの労働者を、自国では労働力が足りないからという理由で、日本と台湾と韓国が奪い合っているようです。そこで、アジアの人たちは昔は日本という先進国にあこがれがあったのですが、今は韓国や台湾のほうが労働条件が良いのでそちらに行く人のほうが多い、という話題を取り上げていました。

それが、今の社会の現状です。つまり、時代が変わってきたということです。その中で日本の経済的競争力は弱くなってきています。昔のように産業で日本が世界のリーダーシップをとったり、産業だけで豊かさを追求することは幻になってきているのです。逆に、台湾や韓国がそれをいつまでも続けていけるのかといったら、そうはならないでしょう。だから、時代は変わっていくということです。

今、日本に来ている台風8号には、今まで表示されなかった「特別警報」が沢山出ています。それは今まで出されていなかったことです。数十年に一度あるかないか、50年に一度あるかないかの状況になることで、その条件を満たすと特別警報が出されるのです。今日は新潟県にも特別警報が出されていました。台風の影響を受けて、日本海側から太平洋側に向けて雨雲がかかり、その地域に3時間に200mlの雨が降ったのです。佐渡のあるおじいさんは、「私はここに70年暮らしていますが、こんなことは初めてです」と言っていましたが、オリンピックの記録ではないのですから、そんな初めてが沢山あっても嬉しいことではありません。しかし今は、そういった時代なのです。

そういった状況を受けて、人間の性質や今までの営みを観て、なぜそうなったのかを振り返るような人たちは全く出てきません。それを振り返るためには、人の意識にアメノミナカヌシを立てないといけないのです。(詳細は、いさどんブログ「天然の意識で生きる」をご覧ください。)ここではそういったものを立てる場所を創ってきました。観えないものが観える為の生き方をしていますし、観える人たちが生活をしているのです。それは、毎日の生活を通しての深い自覚の中にある暮らしだと僕は捉えています。

台風は、自然からの私たち人間に対するメッセージです。人間がもたらす滞りは、全てメッセージとして私たちに返ってくるのです。生きることは、そこから何を受け取り学ぶかの連続だと思います。観えないものが観えてくるように日々を歩んでいくと、本来その歩んだ分にふさわしい気付きが与えられるようになります。ということは、しっかり観ていかないと、観えるものも観えないということにもなるのです。

そこで、どの方向に向かって歩むのか、が重要です。命をいただいて生きることは、物理的に肉体が命を紡いでいくこと ―― 食べて、呼吸して、24時間が経って1日が経過し、それを365日繰り返して1年歳をとり、さらにそれを80年繰り返すと寿命が来る ―― それでも人は生きられます。そういった人生も私たち生命には可能なのです。何の変化も成長も気付きもなくても、充実していようがいまいが、人は生きられるようになっているのです。それは植物でも動物でも同じことです。全ての生命は生きられますし、そのことで生命としての役割を果たすことはできます。

では、私たちはなぜこのような暮らしをしているのでしょうか。この暮らしは、今のところ大変マニアックな生き方です。それを、あえてそれぞれが自らの意志で選んで歩んでいるのです。その理由は、ひとりひとりが自覚しないといけません。それを理解することが、ひとりひとりが一本筋を通して生きるということです。

20、30年前の、少し前の時代であれば、このような暮らしをしている所は怪しい団体でした。しかし、21世紀に入って今の時代にやるからこそ、新しい時代を開く世の為人の為の暮らしだと僕は思っています。大本の出口なおに艮の金神がかかって120年が経ちました。そして、あの戦争があっても、時代は全く変わる気配が感じられませんでした。それでは、いつ立て替えの時代が来るのでしょうか。「いよいよ三千世界を立て直すぞ」と言って、いつのことを示しているのかといえば、今のことだと僕は直感しています。

その区切りとして、2012年12月21日に銀河の冬至を迎えたのだと思っています。それは、本当に今だと示しています。やっと、天理という名を持って世に道を説いた中山みき、それから大本の出口なおにかかった神の意志が、地上に現れてきます。その実体は、宇宙創造の神の意志なのですから、天理教や大本教の為の神ではないのです。それは、宗教を超えた、元の元の宇宙法則への目覚めなのです。しかし、今まで人々はそれを宗教にしてしまったので、真実に目覚めることができなかったのです。もっとも、カタカムナ的に言えば「トキ」が来ていなかったということなのでしょう。

しかし今、「トキ」は来ています。人類の未来にはすでに選択肢がないのですから。人間は愚かなので、選択肢がなくならないと目が覚めないのです。しかし、それでは価値がありません。

大人ミーティングより
大人ミーティングより

今、台風が近づいてきて、気圧が低くなっています。気圧が低いということは、ある意味鬱状態であり、体の調子も上がりません。反対に、高気圧のときには躁状態になります。天の気が低気圧のときは鬱状態ですから、外では雨が降っていますし、家の中(自分の心の内)で日頃やれなかったことを観るチャンスでもあります。それは、自らの内を振り返る機会なのです。だからこそ今、ここにいるひとりひとりが、なぜこういった暮らしをしているのかを観る機会にしたいものです。みんながその意味を自覚し、つながったときに、ひとりひとりの意志がネットワークして、コミュニティという命を創り、それを世の中に発信していくことができるのです。

かとけん:
僕は瞬間瞬間、天の意志が自分たちの頭の上に降りてきていると感じています。それを感じられる心であれば、日々が非常に充実したものになっていくのだと思っていて、それをみんなと共感し合って、広めていきたいという想いがあります。

いさどん:
今、かとけんが「天の意志」と言ったときに、僕が天に心を向けると、「私の意向がわかるか?」と意志が降りてきました。「私は皆とは目線が違うのだ。私は私の位置(天)から皆のことを観ておる。それは、皆に私のほうへ目を向けることを望んでおるのだ。しかし、皆の意志は横を向いているから、私のほうには意志が向いていない。私は皆のことをいつも観ている」ということでした。天は、全てに目を向けておられるわけですから、トキ・トコロに関係のない働きです。皆は自らという意志がある限り、全てを常に観られていることを理解できる存在なのですから、皆も生きることの全てを天に向けないといけないのです。

かとけん:
今日、トマトの芽かきをしていたときに思ったことは、トマトは普通真っ直ぐ上に伸びていくんですけど、木の花のトマトは斜め上45度に伸びていって、1本仕立てで育てています。その芽かきをしていたときにふと気づくと、斜め上45度に伸びていって、先端が少し細くなっているので、脇芽、つまり脇のエネルギーをとってあげて、真っ直ぐ進めるようにしてあげると、それこそが天の意志に向かうことだと観えてきたんです。どこにでも天の方へ向かう意志があるんだと感じて、観える景色がハッと変わる感覚がありました。日々の中でそういった感覚があると、すごく充実していて楽しいと感じました。

いさどん:
そうです。どんなことでも、天につなげられます。僕が日々皆に語る他愛のない話でも、全てのことが今のこの場につながってきたのです。それは、つなげるからつながることでもありますし、全てのことから「これは何を伝えられようとしているのか?」と捉えるからつなげられることでもあるのです。

生きることは「直会(なおらい)」ですから、私たち人間は天の意志に代わって地上を生きているのです。それは神が地上を生きていることだとすると、私たちは生きていることから何を求められているのでしょうか。私たちは神の代わりに地上に生きて、その結果を天にフィードバックしているのですから、常に天と情報交換をしているのです。

そのことを意識し、日々を生きることが、一本筋を通すことです。これは、長い間地上目線になってしまった人間に忘れられていました。やっと、それを取り戻す時代が来ています。今まで忘れられていたことを、天とつながり実現するときが来ているのです。

しかし、「それは全て人の意志でなるように道が創ってあるわけでないぞ」と天は言われます。それはトキとトコロとヒトが用意され、100匹目の猿現象のように目覚めたものがつながっていくと、つながっている者たちの輪が台風のように渦を巻き、下にいるわからない者たちを巻き込んで、わからない者たちの価値観を竜巻のように壊して創り直す作業をしていくことです。それは、1から10まで全てをやらないといけないのではありません。あるところまではやる、ということです。

では、今来ている台風を受けて、これから人間の思念の大きさを立証するために、皆でカタカムナを奏上し、今日のミーティングを終わりにしましょう。

(ここで、ミーティング終了の意識合わせとしてカタカムナのうたいを奏上。その後、再びいさどんが語り始めました。)

いさどん:
さきほど、今日カタカムナを奏上する目的について皆に伝えましたが、それはとても勘違いしやすい話ですので、皆が勘違いしないために次の話をしようと思います。

僕がお釈迦様と出会って9年後、お釈迦様との別れがありました。その後に日の本の神との縁をいただいて、最終的には「あってあるもの、なきてなきもの」の存在に出会いましたが、その途中の段階で、神様事で色々な場所を訪ねることがありました。そういった中で、天候が自由自在になる体験をしました。自由自在になるということは、「こうしてほしい、ああしてほしい」ということではなく、私たちの予定に合わせて天候が変わっていった、ということです。

ある時、台風が中国地方へ上陸するときに、僕たちは広島へ向かいながら傘を持っていかなかったことがあります。そして、広島で目的の場所(神社)へ行き、そこで夜中の丑三つ時に神事を行ったのですが、その神事の際には風も吹かず雨も降りませんでした。
不思議だったのは、そこら辺りに杉の枝や木の葉が散らばっていて、ついさっきまで天候が荒れていたはずなのに、僕たちがそこに到着したときには天候がおさまっていたことです。そこで神事が終わってバスに乗って出発すると、激しく雨が降り出してくるようなことがありました。つまり、僕たちの行動は、天の気に通じていたのです。当時はそのようなことは珍しくもなく、当たり前に思っていました。

ある時、僕の生まれの地である岐阜県にある瀧神社に皆で集まりました。そのときにも天候が変わって、「自分たちのやっていることは天候すら自由に変化できる」と有頂天になっていたことがありました。そこからが人間の間違いの始まりです。地上に生きている者の都合で天を想うようになると勘違いが起きて、間違いが始まります。そして、ご利益宗教のようになっていきます。当時、そのことに気付いたのです。

だから、天に、人間目線の都合を求めてはいけないのです。天気は、天の気であり、私たちは天の気をいただく立場なのです。
天の気と人の気が合っていないと、人間にとって都合の悪いことが起きます。しかし、その都合の悪いことすら、いただきものなのです。その都合の悪いことをいただくようになって初めて、天の意志を受け取って人は成長します。つまり、自らの気が勝っていて、人々は天の気を忘れていたのです。
天の気を忘れた人間は、天に心を向けることをせず、横の目線(人気取り)や下の目線(欲気)に心が向いてしまい、正しい人の道を踏み外します。ですから、自らの気を天に向け、天の気と合わせ、努めていくことが大切なのです。

今日この話をして、皆と一緒にカタカムナを奏上した目的は、この世界の構造を知るためです。だから、これから台風が起きるたびに、台風方向がそれるように、勢力が弱まるようにと願って、カタカムナを奏上していくのではありません。今まで人間は天の気の存在を忘れ、生きることを自分たちの都合のいいように変えてきたのです。今回は、僕たちの中で確認をするためにこういったことを行いましたが、これも正しく理解していないと、皆の中に御利益的な心が育っていく可能性があるので、それを訂正するためにこの話をしています。

その行為の結果、台風の勢力が弱まりしぼんでいっても、その意味をわからない人間が台風発生の意味に目覚めることはないでしょう。今の人間たちは地上の人間の理に汚染されて、振り返ることをしないのですから。
そうすると、目覚めのためには、一度全てが壊れてしまうくらいのことが必要なのです。私たちもその世界に共にいるものとして、何を求められているのでしょうか。それは、覚悟です。共に台風という禊を受けて、その禊を受けたことの意味を知る者として、生きていくことです。私たちはその意味を理解している者の覚悟を持って生きる者であります。

今回は、台風を沈めて、天の理があることを理解しましたが、それが理解できたら、それを次にどうつなげるのか、その覚悟はどう持つべきなのかの見本を示すことが大事です。だから、カタカムナの奏上は、災害を受けないためにやっているのではありません。これは、災害(人間の行いの結果受けるわざわいから学ぶ為の現象)を受けるときの覚悟を持つためにやっているのです。

人間はそこを勘違いしやすい。そこに大きな落とし穴があるのです。

天の気に対して、人の気で生きている人は、他人の顔色(人気取り)、つまり横ばかりを観ています。今の民主主義や世の中の仕組みも、天の気が降りていない、人の意向ばかりを反映した世界になっています。だから、矛盾が発生し、やっていることの筋が通らないのです。

だからこそ、天の気を理解し、天と共に生きていく(天と気を通す)ことが、これからの時代にますます求められているのです。

 


「天然」の意識で生きる

いさどん:
農について語るなら、「農」という字を語らなければいけない。
「農」という字は、「曲げる」に「辰」と書く。「辰」には「自ら」という意味があるそうだから、「農」という字は「自ら曲げる」ということを表している。自然界の中であるべき姿が曲がって現れたもの、本来の姿でないもの ――― それが農ということになる。

「自然」の「然」という字は、「然り(しかり)」と読むね。だから自然は、自分で然るべき状態になったもの、自分がなるようになったもの、ということ。対して「天然」は、天の法則によってなるようになったもの、ということになる。
この世界に現われるということは、「ない世界」である潜象界から歪みが発生することによって生まれて来ているのだから、自ら歪んだ状態になっている。それがこの世界の自然であり、人間の姿だよ。

「ない世界(潜象界)」と「ある世界(現象界)」
「ない世界(潜象界)」と「ある世界(現象界)」

そしてそれが「農業」になると、さらに歪む。「業」、つまりなりわいとして、それで飯を食おうという意向が働くことになるから。そういった心があると、その心の波動が自然のものに影響して、さらに歪められていくことになる。それが農業だよ。
有機農業は「穫ってやろう」「食ってやろう」という世界。自然農も、結局はすでに歪んで曲がっているものに、人間の理屈を付けて獲得しようとしている姿。それを人間が食べ物として摂るということは、歪んでいるものを摂ることになる。だから、たくさんの量を必要としたり、摂れば摂るほど歪みが生まれたりする。
「食」という字は「人を良くする」と書くでしょう。だから、本来食べ物というのは、人を良くするためのものなんだよ。

そして、人が門の間に入ると、「閃き(ひらめき)」になる。閃きというのは、人間を、いろいろと思考して歪んだり濁ったりする前の状態に戻すこと。つまり直感のことを言っている。
閃き(直感)が常に生まれる状態にするためには、歪んだり濁ったりしたものを取り去ろうとするのではいけない。歪みを取るには、一度潜象界に返して、きれいな状態にする必要がある。そして潜象界から生まれ出たばかりの状態のものにしていただく。
そのためには、自然は歪みがあることによって成り立っているという仕組みを理解して、それを正せる者がやらなければいけない。それは、天の然るべき状態を理解した者でなければできない。もしくは、天の然るべき状態に戻す手法によって、それが可能になる。

そこで、カタカムナのうたいを奏上して、歪んでいるものを正すことが大事なんだよ。自ずから歪んでいる自然を、天然の状態に正して、それを自らに受け取ると、我々の体の一番元にある観念体(光でできた生命の設計図)のところに戻って、もう一度組み立て直すことができる。それを理解した者たちがやる農法。それが「天然循環農法」と言える。

現象世界では人間の体にも、心にも、歪みがある。この間からのともちゃんの心の姿を観ていたら、自分に囚われて濁っているから、遠ざけた。そうしたら、始めは媚を売って、それを正してもらおうとしてた。でも、他の人の姿を観ることで自分との違いが見えてきて、それがわかってきたようで、姿勢が変わった。
そんなことを考えていたら、農という姿が出てきた。自ずから曲がっている状態がわからない者に対して、それを伝えてやる必要があると思った。それで下から突き上げて、体(生命)の歪みを真っ直ぐにするように、体の中に一本の柱(天之御中主大神・あめのみなかぬしのおおみかみ)を通して、正しい状態にした。その時に、縦を通すと横のエネルギーが発生する。それがエクスタシー(高御産巣日神・たかみむすびのかみ・陽であり男性性)であり、至福感(神産巣日神・かみむすびのかみ・陰であり女性性)だよ。だから、蓮華座の状態を保ちながら、縦の力を通した。これが、仏の交わりの姿だよ。

カムミムスヒとタカミムスヒの働き
縦と横のエネルギーの仕組み

縦に天之御中主大神、横に高御産巣日神と神産巣日神のエネルギーが発生して、現象界の歪みやひずみを正していくことの理屈をわかった人間が、自然という「自らが然るべき状態」になっているものから「自ら」を取って、大本の「天の然るべき状態」に正すことができる。そうすると、現象界の歪みや濁り、汚れたものが一度潜象界に還り、大本の姿に戻り、現象界に還ってくる。それは、この現象界でつくられた歪みを解消することになる。
これは宇宙創造の造化三神の働きから、宇宙の成り立ちのエネルギー源であり、銀河に星が生まれる構造と同じなんだよ。

「天然」と「自然」
「自然」から「天然」へ

ともこ:
木の花は、「農業」をやっているわけじゃないんだね。

いさどん:
農業をやっている人たちは自然を科学して、そのメカニズムを解明し、自らの目的を達成しようとしてきた。そして、それを世の中に認めてもらおうとしていたんだよ。
道は天から降りてくるもの。そして天に還っていくもの。ところが、現象界に現れて歪んだものに媚を売っていては、昇る道も見えなければ、降りてくるものの受け皿にもなれない。
人間は地上に降りて、自我の意識に囚われ、天の存在を忘れてしまっている。だから、天に向かってもう一度、我々の存在が本来何であったかを思いださなければいけない。その道理は、歪んだ世の中に媚を売っているようなことではわからない。ましてや、世の中に今現在通用している現象を分析しているようなことでは、囚われの中で表面を分析しているだけだから物事の本質が観えてこないんだよ。

この世界にすでに現れている歪みや濁り(人工的現象・自然的現象)を受けて、そこから天に向かって一本の柱を立て、天に意識を向ける。もしくは天の意識を降ろし、受け取る。この縦の道が必要なんだよ。しかし、長い間地上目線・人間意識で生きてきた人々は、横の働き(損得・善悪)の陰陽の意識だけでこの世界を創ってきた結果、縦の働き(宇宙創造の大本の働き)を忘れてしまっている。それが、性の奥に隠されている神秘なんだよ。

縦の柱のない世界
縦の働きがなく、無秩序な世界 = 現代の社会
縦の柱が立つことで、全てが整然と活性化する
縦の柱が立つことで、全てが整然と活性化する

「農」について考えていたら、「性」ということが浮かんできた。
今現在の人々の意識の中には、人間(生命)の原点である性が歪んでいる。それは、縦の意識なしに、男と女の横のエネルギーだけで行われると、農と同じように自ずから歪むものになる。自ら然るべき状態になる、つまり、自らの中から湧き出る欲求や歪み、濁りによって曲がっていってしまう。それを正すのが、縦(天之御中主大神)の力だよ。

ともこ:
私、今、何だかよくわからないけど、体の中がすごく違う感じがするんだよ。まさに、一本筋が通ったような感じ。

いさどん:
それは、そういった意識を持ったものが提供できることだよ。
考えてごらん。あなたの中に、何かが歪んでいたから僕は遠ざけていたんだよ。そしてあなたは迷いの状態から、自らを正さなければ、と意識をこちらに向けて、その意志が伝わった時に、そのための行為に出会い、歪みが正された。つまり、自ずから歪んでいる状態を理解したものが、自ずから正さなければ、と思った時に、初めて元の状態、天に通じる縦の力が働くんだよ。

だから、この出来事をありがたくいただきなさい。これを、今まであなたが味わってきたものと一緒にしてはいけないよ。あなたが今まで味わって来たものと同じ意識でこの言葉を聞くと、世の中の人々のように忌まわしいものに思えるんだよ。

ともこ:
うん。本当にそう思う。

いさどん:
これは農も同じだよ。その心がわかった者が表現できる世界。天の然るべき状態に自らを戻す。それが「天然」。
自然には常に我があって、自らの然るべき状態になろうとしているんだよ。自然農や自然農法は、まだそこの状態で、そこからさらに「獲ってやろう」「食ってやろう」という意識で生業にしているのが有機農業や一般の農業だということだ。そこでは、その順番に歪みやひずみが大きくなっていく。

コミュニティでは、調和の意識がなければ成り立たない。そこに、自分が自分がという心が自然に働いていったら、バラバラの世界ができる。木の花は、はじめから天の意志によって成り立ってきた。
それでも初期には未熟な者たちがいたから、それを育ててきた。やがて「エコビレッジ」を語って自らの好き勝手をやりたい者たちが、その延長に調和の世界を創ろうとして入ってきた。そして、その心を調整する段階に入っていった。
そこでは己の歪みによって表された問題を抱えた者たちを正す時に、一本の線を縦方向に通すために厳しい対応が必要だった。道理のわからぬ者に対応するには、そういった作業が必要だったんだよ。

そこで大事なことは、その縦の線、つまり天から降りてくるものと天に向かう流れを理解して、自ずから天に向かって然るべき意識になることなんだよ。全ての者がその縦の道に目覚めればいいわけだ。そのようにここは進化してきた。そして今がある。
今の社会の人々は横しか向いていない。天の存在を忘れてしまって、欲(自我)の世界を展開している。グローバル化された世界の価値観も、みんな同じような意識が横に広がってなっているんだよ。

しかし、本来は歴史の奥に、時代を刻む目的(縦の意識)がある。それはひとりひとりの個性そのものが天とつながり、それぞれのポジションで役割を果たしながら、横のネットワークでつながっていくことなんだよ。
ところが、縦がなくなって横だけのネットワークになると、我が広がって、天がなくなるから、自分の位置を忘れてしまってけじめがなくなる。誰もが同じような価値観を求めるようになって、バラバラの状態になってしまう。縦の意識が目覚めると、自らの個性的な立ち位置がわかるから、横にぶれてもすぐに元へ戻れるんだよ。それが、天然の意識で生きるということだよ。

カタカムナの「ト」の図象
カタカムナの「ト」の図象

ようこ:
まさに、カタカムナの「十(ト)」だね。統合して、整う。

ともこ:
今までは、ホームページなんかで木の花のメンバーの役割分担を説明する時には、「一人ひとりが個性や得意分野を活かしながら全体で一つとして機能していく」みたいな書き方だったね。

いさどん:
そこには足りないものがあるだろう?一人ひとりが自ら天とつながって、天の然るべき状態をそれぞれが降ろしてくると、今の状態や、生まれてきたことの意味がわかって、そこで人は安定するんだよ。その上で横にネットワークする。「九(コ)」から「十(ト)」になる。

ともこ:
今までも木の花は天と共にあったけれど、そこまでの意識じゃなかったね。

いさどん:
違うよ。今までは、1か所から降ろされていたものをみんなが共有していたんだよ。これからは、一人ひとりが目覚めて、それがネットワークしていくようになる。

カタカムナの「ヰ」の図象
カタカムナの「ヰ」の図象

一人が立つ状態から、たくさんの人が立って、それがネットワークして、さらに大きな柱となる。まさしく「ヰ」(カタカムナで言う「悟り」)だね。

ようこ:
そうだね。だから今までは菩薩の里にはなっていなかったんだね。縦の線が1本だけじゃ「ヰ」にはならない。

いさどん:
それが、「〇(輪)」の中にいる。その姿が理想郷「ヰ」だよ。

心を常に美しい方、正しい方に向けなさい。
その時に、未熟な段階では人に向けて正してもらう。次の段階では、天に向けて正していく。
それができない者は、人に委ねなさい。

常に自らの心に囚われていては、エネルギーがもったいない。
そのエネルギーを、世の為人の為に役立てなさい。
 
 
 


本来、人間誰もが歩むべき道

木の花ファミリーでは、月に一度お誕生日会があります。今月は、いさどんのアイデアを元にして創った木の花劇団のオリジナル劇『貧乏神と疫病神』が上演されました。

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木の花劇団による『貧乏神と疫病神』

『貧乏神と疫病神』
うつ病を治すため、木の花ファミリーに「ケア滞在」をしにやって来た健一。実は健一には貧乏神と疫病神がついており、そのことを知った健一は、ある決心をして貧乏神と疫病神に会いに行きます ――――
こちらより、動画をご覧いただけます!
 
この日は、うつ病と統合失調症を抱えて以前木の花にケア滞在をしていたMくんが、「もう一度木の花で病気の克服に挑戦したい」と再びケア滞在をスタートさせた日でもありました。
そしてその夜の大人ミーティングで、メンバーのくにさんが大事なことをおろそかにしていたという心のシェアをした後に、いさどんは次のように語りました。
 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
今日のお誕生日会では、木の花劇団が「貧乏神と厄病神」の演劇を行いました。これは、以前から僕のイメージの世界にある真実です。それを何かの形で表現することが出来たらと思っていました。
今回こういった形で提案してそれが実現したのですが、この演劇を定番のものとしていきながら、観ている人にとって日常の中に落としてもらえるようなものにしていきたいと思っています。

ここではケア滞在される人の心の問題を取り上げ、それをあのような形で紐解き表現したのですが、これは大きな枠で捉えれば、国の問題、地球規模の問題であり、人間が持っている本質を個人という一番身近なところで捉えたものです。そして、今日からMくんがケア滞在をスタートしたように、ここには難しい問題を解決できる素養があるのです。
Mくんは、「僕は木の花であれば改善することができると思います」と言っていますが、医者には「あなたの病気は治らないので、これから一生薬を飲み続けていくのですよ」と言われたそうです。それは現代医療の視点から見るとその通りなのですが、そうではない視点、つまり元々人間は、天から降りてきた段階では完全なもののはずなのです。しかし、地上世界で色々なことに囚われていった結果、それが染みついて取れない状態になっていくのです。

今日、ヤマギシのFさんとTさんと、2時間ばかり話したのですが、彼らは長年の姿勢が染みついてしまっています。僕はこれと同じことをケアの人や準ケアの人たち、あるいは自らを立て直さないといけない人にも感じています。
僕はそういった人たちと日記でやりとりをしているのですが、良い感じになったとしても、人間は面白いもので、自らを越えていくところではすごく抵抗するのです。彼らはそこを越えていくと自らを失ってしまうと感じるほど、自分自身を所有しています。ヤマギシの人たちでも、問題を抱えている人たちでもMくんもそうですが、自らを大事にする心と自らに執着する余分な心が自分に何をもたらすのか、そのギャップに気が付かないといけないと思うのです。

執着がなくなれば、そこを越えることは簡単な話で、今まででも越えてきたのですからそこを大切にしていけばいいと思うのです。しかし、人というのは本質のところへ行くと、自らに囚われ、それを失ったら自分らしくなくなると思ってしまうのです。囚われの自分を持っていて、そのしょうもない自分が自分らしいと思っているようなところがあるのです。

今日、くにさんが「また同じ心が出ました」とシェアした話も同じことです。結局、一番ポイントのところへ行くと、自らを抱え込んでそこから抜け出そうとしない。ですから、そういった段階へ至ると、同じことを繰り返すのです。

ヤマギシに対しても、どれほど賢明な話を今までしてきたのでしょうか。そしてそれを受けて、Fさんも「ここまで言ってくれる人は他にはいない」と思って今日ここに来たのですが、結果として彼の姿勢を問うと、彼も自らのこととなるとそこを越えていこうとしないのです。
昨日の大人会議で、Tさんは「ファミリーになる」と言っていましたが、それがどういう意味なのかよくわかりません。彼女流のスタンスでそういった発言をしているのだと感じ、僕も疑心暗鬼の状態なのです。今日面談の時にTさんは、「来月は10日間来ます」と言っていましたが、その意図もよくわかりません。そういうふうに、人間はとても中途半端な状態で自らを守ろうとするのです。

(ヤマギシ会の創設者である)山岸巳代蔵さんは、心に濁りがあって駆け引きがあり、人間としてはそれほど美しい人ではなかったと思います。ただ、天とつながっていたことは確かでしょう。あとは時代が時代でしたから、方向性だけつけて後はヤマギシの村人に委ねたのです。その歴史の中で、後の人々は一番元の揺るぎなきものから外れてしまったのでしょう。だから、今は元が何であったのかを失ってしまっている状態なのです。
僕は山岸さんの元の志を復活させようという想いで、これまでヤマギシに関わってきました。それは、ここにいる皆に今、伝えていることと同じで、ヤマギシの人たちが目覚めて、山岸さんの精神を直感で継承していく。木の花の皆が僕にずっと頼りきりになるのではなく、ひとりひとりが直感に目覚め、僕がひいた道をひとりひとりが自らの意志で歩んでいくことと同じなのです。

僕は演劇の中で大神様役をやらせてもらいましたが、天から人間の世界を観て、「目覚めて上がってきなさい。そのように仕掛けはしてあるぞ」と伝えています。しかし、人間はそのことになかなか気が付きません。そして、上に上がってくる道があるにもかかわらず、下に落ちていく者がいるのです。
僕はそういった者がいることに対し呆れて、「好きにすればいい」という心境でもあります。ただ、ハードルは越えられるものですから、貧乏神と厄病神と仲良くしていた健一がそうでない健一に変身したように、それを誰にもやってもらいたいとも思っています。

事実、ここにいる皆は、ここの生活が何であるかを知っていると思うのです。外でここをおとしめようとしている人たちや、その情報を受けて週刊誌が書いた内容を鵜呑みにする人たちの現象とは違うものが、ここにはあります。それは簡単な言い方をすれば、全く別世界がここに表現されているのです。
しかし、「捉え方によっては全く別世界なのです」と伝えてもそれは通用しません。なぜかと言うと、人が伝えようとする心にのっとって聞こうとする心が、人にはなかなかないからです。つまり、自らの癖でしか受け取らないからです。人間はそういった性質を持っていて、頑なに自らを守ろうとするところがあるのです。

そういった自分に囚われている限り、人間は自らを超えて生きることができません。ここが「菩薩の里」という看板を揚げ、そこが越えられないようなことなら、ヤマギシの二の舞です。しかし、我々はヤマギシを知って、さらに世の中の色々な矛盾を知り、そこを越えていって、世の中が開かれるためにこういった生き方をしているのです。

今のくにさんの話でも他の人のことでもそうですが、自らを越えていくために人生をもらい、ましてやここの人として世の中の為に生きていることを考えたら、ここの人である自覚が足らないと僕は思うのです。僕は色々なケースを通じて同じことを語ってきているのですが、今日もそういったことについて、ヤマギシは看板を掛け違えて来たのか、それとも看板を忘れて全く別世界を生き世間以下になっているのか、と伝えました。
そういったことを考えると、木の花でも、いさどんがいなくなったらヤマギシ化する可能性があるのです。ただし、その前例があってそれを理解しているからこそ、我々はそうならない道を歩んでいるのです。ヤマギシがあるのも我々のためでもあるし、我々のためということは世の中のためでもあるのです。

今、ここの真実とは全く違うような表現でここの存在が社会に出されたことは、観方によっては我々を鍛えてくれています。そして、それだけ世の中に知らしめられたことによって、我々を鍛えてくれたあかつきに、「真実は何であるのか」をいつか世の中に示す下地ができたということでもあるのです。

先日、テレビの報道特集で、松本サリン事件が取り上げられていました。その中で河野さんのことが出ていたのですが、当時の警察は彼が犯人だと決めつけていたのです。しかし、今になって長野県警の責任者が捜査のずさんさを語っていました。結果、真実が明らかにされているわけです。ところが、彼は一時本当に犯人のように扱われていました。

我々も、ある意味今は、それこそ悪であり、犯罪者扱いです。しかし、実際ここで生活していれば、真実が何であるのかはわかることです。それは、我々が一番よく知っています。
その匂いを嗅ぎつける人を我々は安易に求めているわけではありませんが、Aさんのようにここのことを信頼して支援し続けてくださる方もいます。そうやって真実を観ようとする人はいるのです。我々が真実であることを確信していたら、そういった人たちは我々を社会のバッシングから守るために必ず存在してくれるのです。

人々の心の中には、人としての地上目線や、人智でものを考える価値観が当然あるのですが、人は元々天から降りてきた真理の元にある者です。そこに意識がつながっている者たちは、そこからここが本物であってほしいと願う心はあるわけです。そうしたら、我々はそれを受けて生きていくことが大切なのであり、中途半端に生きていたら意味がないのです。だからこそ、とことんやりきったときに、「私たちにはできないことをやってくれているのだ」といずれ理解され、ここが木の花(個の花)を咲かせることになるのです。

最も大切なことは、我々の心の中にある真実です。これは走馬灯のように思考が巡って忘れ去られるものではなく、真実としてあり続けるものなのです。そのもとに自らがあるとして、確固たる覚悟を持って日々を生きていったら、くにさんのように「また同じ心が出ました」と毎回似たような振り返りをすることはなくなるはずです。
その心に楔を打つ覚悟を持ってほしいと思います。そうやってひとりひとりが自らに楔を打っていったら、いさどんの力はいらないはずなのです。

今日僕は演劇の中で、「あってあるもの、なきてなきもの」という天の存在を演じましたが、それは僕が演じたようなフレンドリーな存在ではありませんよ(笑)。カタカムナ的に言えば、潜象界の存在なのですから、物理性なのです。しかし、それは本当に確固たるものです。その確固たるものが、楔を打つことによって自らの中に揺るぎのない形で現れてくるのです。
そうしたら、今日の大神様の最後のセリフ(『われわれ神とて道を行く者。神とて成長するものなのじゃ。その気になりさえすれば、道はいつでも誰にでも用意されておる。さぁ、二人ともわしと共に参るか?』)のように、皆でそういった心を持って生きていきましょう。そうすると、コメントは人からもらわなくても、ひとりひとり自らの中から湧き出てくるようになります。そうしたら、ここが過去の宗教や御利益をうたっているような団体や、ヤマギシのような存在になることはありません。時代がこれから道を開いていくときに、ふさわしい人々が集う場になっていきます。
これをユートピアと呼ぶのか、菩薩の里と呼ぶのか、いずれにせよ名前は何であれ、ここが掲げている看板通りの場所になっていくことが大切なのです。

そのためには、ひとりひとりが今日の自らの思考と付き合ってみて、それが何であったのかを自分でよく認識し、それを自由自在に自己コントロールできる人になっていくことです。それは強制するものではなく、自由自在に使い分け、そうやって自らの価値を高めていくことができるのです。そして、それを人様に見てもらって、世に示し、我々の役割を果たしていくことになるのです。

僕がこうやって皆に話し、皆がまた僕についていこうとなったら、これは元の木阿弥で何にもなりません。「私の魂はそれを目指して、このような特別な道を歩んでいるのです。あなたの意志に共鳴して、私は自立してこの道を歩んでいきます」とひとりひとりが自覚するきっかけに、くにさんの話も生かしてもらえたらいいと思います。このように自らにけじめある楔を打つ覚悟ができたときに、くにさんのような心のシェアはしなくてもよくなるのです。

今日の演劇のように、劇を通して、それからその背景にあるこの生活を通して、世の中の姿勢を問うていく役割ができます。今日の「貧乏神と厄病神」の劇も、一つの定番劇として今後もやり続けながら、我々の日常生活の姿勢をあの中に滲み出させることが大切だと思うのです。そして、ここだけではなく、色々なところであの劇を見てもらいながら、見た人たちが自らの日常を振り返るきっかけになるような実感のこもったものにこれから仕上げていきたいと思っています。

世の中を見ていると、先日放送されたNHKスペシャル「エネルギーの奔流」でも描かれているように、人間の愚かしさや馬鹿馬鹿しさにあふれています。今日、ヤマギシの調正所の話を聞いていても、本当に馬鹿馬鹿しいと思うのです。ですから、そういったものはたちどころに捨てて、本当に自らの魂が「これだ!」と思える生き方をしなければいけません。そういった時代がすでに来ているのです。何かに執着して囚われていては、いずれ人間は地球に見限られてしまうでしょう。

僕は皆を激励しているわけでも、叱咤しているわけでもありません。ただ、目覚めてほしい。ここにいる人たちが目覚めていくことによって、世の中に新たな時代の生き方のモデルを示していきたいのです。

これは僕の道です。しかし本来、人間誰もが歩むべき道だと僕は考えています。
  
  


STAP細胞からみるトキ・トコロ 〜ノーベル賞より大切なもの〜

STAP細胞問題で、理化学研究所は実験の不正を認定し、小保方さんの処分も検討しています。一時は小保方さん個人のプライバシーに踏み込むほど報道が加熱し、理研の改革にまで話が広がっているこのできごとは、私たちに一体何を教えてくれているのでしょうか。宇宙視点から見てみました!

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*この座談会は、先月行われました。
*座談会には、ファミリーメンバーのようこ、まり姉、ともこ、ゲストのあわちゃん、しゅうくん、じゅんぞうが参加しました。

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ともこ:
今日のテーマは、「STAP細胞からみるトキ・トコロ」です。一時の報道熱も冷めて、世間の注目度としてはいささか旬を過ぎた感もありますが。

いさどん:
旬を過ぎたと言っても、その結論が持ち越されているだけのことだよ。結論を出さない、もしくは出せないから。だから、その話題が収まった時に、改めてもう一度それが動き出すような考察を出すというのはおもしろいかもね。弦を引っ張って振動させて、振動が収まったからもう一度弦を引っ張るように。

STAP細胞は、僕の感覚で言えば、あります。科学者たちも、理論的にはあるというところで認識してるんじゃないかな。ただ、そのSTAP細胞をどのように作るか、というところで、今回の小保方さんのやり方があまりにも手軽で衝撃的だった。そこには、「そんな簡単にできるわけがない」という認識と、神秘のポケットは意外に身近なところにあるんだよ、という両面がある。
発見というのは、偶然のようにして、本当に身近なところから生まれるでしょう。神秘、つまり神の秘密は、とても身近な日常の中に常に隠されている。それを、科学の世界の人たちは一方通行に難しく考えすぎているんだよ。
逆に、身近にありすぎて近いからこそ、それを捉える視点が固まっていると、つかまえられないものでもある。だから、視点が変わらなきゃいけないんだよ。

ともこ:
今の科学の世界では、同じ条件のもとに実験すれば、「誰でも同じ」結果が得られることが前提になっているよね。STAP細胞は他の人がやっても再現されなくて、結局理研は実験に不正があったと認定した。

いさどん:
それは今の人々の発想だよね。しかし、今の三次元的な、有限な科学の中で、この世界が全てが解明できるだろうか。宇宙は、我々が解明できない仕組みによって創造されているんだよ。
価値観が変わらない限り、その秘密のポケットを見つけることはできない。視点が変われば、どこからでもその秘密は解き明かすことができるんだよ。
これから解き明かされるであろう神秘の扉は、視点を変えることによって生まれてくる。これまでの常識では「ありえへんこと」が起きてくる。その「ありえへん」視点を持つことが大切なんだよ。

ともこ:
科学者たちは彼女の実験を「“科学の常識”からかけ離れている」って言うんだけど、じゃあそもそもその“科学の常識”って何だ、ってことだね。それで全てが解き明かせるかな。

いさどん:
本来科学というのは、それまでの常識を突破することによって、新たな道が開けてきたんだよ。
見えるものと見えないもの、あるものと・・・

ようこ:
ないもの。

いさどん:
いや、そこへ行くと話が広がり過ぎちゃうからやめよう(笑)。

あわちゃん:
2時間はかかるね(笑)。

いさどん:
STAP細胞について考えてみると、まだ未熟な科学者がそんな大それたことをできるわけがない、という考えが周囲にはあると思う。だけどほんのちょっとした視点の変化で、どこにでもある神秘のポケットに出会ってしまった、ということでは、いくらでもあり得ることだよ。若いから、未熟だからということじゃない。
やっぱり「トキ」と「トコロ」、そして人によって扉が開く。そのトキ、つまり旬が来ると、必要に応じて神秘の扉が開いてくるんだよ。

トキというのは、この宇宙が始まって消滅するまで続いていくもの。宇宙は常に、「誕生」「維持」「破壊」そして「空(くう)」を繰り返している。誕生して、それを維持した後に、破壊があって消滅する。そしてある期間、「ない世界」、空がある。そしてまた誕生すると、そこでまたトキが発生する。
それは、トキの流れが、あって、なくなって、あって、なくなる、ということ。トキを過去から未来へ向かう一本のラインだとしたら、破線のようなものだね。

そしてその間にある空の「ない世界」というのは「ない」んだから、トキが終わったところと始まるところには間がある。しかし、「ない」のだから、トキはつながって見えるよね。実態は破線であるけれど、我々のような物質的な認識をする者にとっては、一本の実線として認識されている、ということかな。
この世界も、もしかしたらそうだよ。今この瞬間も、僕は言葉を続けて話しているけれど、その言葉と言葉の間に「ない世界」があるかもしれない。だけどそこを我々が認識してないから、つながっているように感じられる、ということだ。

そしてトキというのは、時代を刻むものでしょう。宇宙は、「誕生」「維持」「破壊」「空」と常に時代を刻む。その中に地球創世の歴史があり、生命が誕生し、進化の過程で人類が生まれ、人類の中で時代はさらに刻まれていく。そして、その時代その時代に相応しい出来事が紡がれていく。
その、時代のあるトキに、ふさわしい出来事が起きる。トキが、その出来事が起きるにふさわしいトコロと出会って、トキとトコロが一致した時に、出来事が起こる。そこを「場」と言うんだよ。
場とは環境だから、起きるにふさわしい人の状態が必要になる。低い意識レベルでは低い現象が起きるし、高い意識レベルには高い現象が起きる。

ようこ:
おなじトキ、同じトコロでも、場は一人ひとり違うものね。

いさどん:
それぞれに相応しいことが起こるんだよ。

ようこ:
ここにトキ・トコロを同じくしている7人がいるけれども、場は一人ひとり違うってことだよね。だからSTAP細胞も、トキ・トコロを同じくしていても場が違うから、できる人とできない人がいる。

いさどん:
そう。トキとトコロは同じでも、意識レベルが違うと、観るものが違う。だから、この場を共有していても、全く違うものを観る場合があるんだよ。
ものごとを起こすのがトキとトコロ、場ということだとしたら、それは一体誰がどうして仕組んだものなのか・・・という話はやめておこう(笑)。

ともこ:
これ、「木の花ファミリー通信」用のインタビューですから(笑)。

ようこ:
その領域を超えちゃうよね(笑)。

いさどん:
それはあったんだからしょうがない、ということにしておこう。

みんな:
そういうことだ!(笑)

いさどん:
最近、新しい扉を開く若い人たちがいるでしょ。ああいった人たちがいっぱい出てくるようになった。それはね、やっぱり時代と共に、そこに生きる人々の視点が変わるから、それにふさわしい人が生まれてくる。
ただ、それはまだ、時代をひっくり返すような大きな枠組みとしてではなくて、部品のように部分的に出て来てるでしょ。スポーツの世界でも科学の世界でも。それは、前兆だよね。それが少しずつ現れてきて、だんだん既存の枠組みが壊れていくと、もっと大きく世界の価値観を逆転するような視点が生まれてくるよ。

先日、2060年に国の債務が8000兆円になるという発表があったんだよ。財務省の審議会がそれを報告したんだけど、すごく馬鹿な計算してるなあ、と思うんだよ。
と言うのは、今の価値観のまま対応をしていって、その延長で債務がたまっていくと8000兆円になるというんだよ。それって、視点が全く変わらないまま、あと50年行くって考えてるのよ。すごく安易でしょ。
今回のSTAP細胞騒動から見えてくるのは、今の科学の世界をリードしている人たちの考え方もそれと同じだということだよ。視点を変える、ということがないんだよ。これからも自分たちの発想の延長に、解明されていくと考えているわけだ。ところが、全く新しい視点がすでに若い人たちの中に現れ出している。

ものが壊れていく時に、予定通り壊れるのか、思いもよらないところから壊れてくるのかと言ったら、思いもよらないところから壊れていくことがあるでしょ。固まってしまっているから、そういう発想ができないんだよ。ものごとの捉え方がフリーじゃない。STAP細胞がたまたまこういう形で現れたというのは、既存の科学のものの捉え方を打ち破るチャンスでもあるんだよ。
アインシュタインの相対性理論は、今では誰にでも理解できるかもしれないけど、じゃあ誰もがそれに気付けたかと言ったら、それはトキ、トコロ、そして人によってもたらされたんでしょう。それはアインシュタインにしかできなかった。でもその神秘のポケットは、日常の中のどこにでもあるんだよ。

ともこ:
ねえねえ、アインシュタインまではさ、そのトキ、トコロの条件がそろって気付きが得られた結果、その結果を誰もが再現できたんだよね?最初は理論だけで、実験で再現できるまでにはタイムラグがあったかもしれないけど、条件が整えば誰でも再現できた。

あわちゃん:
それでも、世間に理解されるまでに確か10年以上かかってるんだよね。

いさどん:
だからね、「わからないけれど生きている~♪」(木の花楽団の歌『信じる心』の一節)ということが、本来の科学のもとにあるわけだよ。そして最終的には、アインシュタインは志村けんにも証明されたわけだよ。

ようこ・まり姉・ともこ:
アイ~~~~ン(笑)。

あわちゃん:
俺、今まじめに考えちゃった・・・。

しゅうくん:
俺も、めっちゃ考えた(笑)。

ともこ:
STAP細胞がおもしろいのは、今の段階では実験で誰もが証明できるものではない、ってところだよ。

いさどん:
だけど、トキとトコロがちゃんと用意されれば、誰でも証明できるようになるはずだよ。そういう概念がこの世界に降りるためには、この今のつまづきが必要だと思うね。

しゅうくん:
今の人からすると「ありえない」ってことだよね。

ともこ:
小保方さんは未熟だったからこそ、STAP細胞を作ることができたんだろうね。変に常識に囚われていなかった。

いさどん:
そう。自分が賢いと思っている人たちは、それ自体がブレーキになってるんだよ。だから、STAP細胞が世に出るのを遅らせた。
こんな言い方をしたら失礼かもしれないけれど、彼女はどこか抜けてるところがあるんだよね。科学者としては未熟。でも、抜けてるところがあるからこそ、その抜けてるところに入ってきたんじゃないかと思うんだよ。隙間があるから風邪を引くようなものでね。完璧に既存の科学のルールに則ってやっているところには、神秘が入ってくる隙間がないんだよ。
歴史上の偉大な発見と言われるものも、みんなそうじゃない?こうなるだろう、とやってみたら、予想とは全く違う思いがけないものが生まれたりするわけでしょう。

ともこ:
そうだよ!過去の偉大な科学者と言われる人たちも、日常のささいなところから発見してるよね。例えば、アルキメデスがお風呂の水があふれるのを見て浮力の原理を発見したとか、ニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有引力は月や惑星にも働いていることを発見したとか、実は私たちが毎日過ごしている日常そのものが、偉大な発見へのメッセージだらけなんだよ。
発見と言っても、それは新しく生まれたものじゃなくて、ただずっとそこにあり続けたものに気付いたってことだよね。だけど普通の人は枠に囚われているから、そこにあるのに気付けないだけなんだよね。

いさどん:
そうだよ。日常の中にあるんだよ。
ただし、目の前のことだけに一生懸命になって他のことを一切考えない人には、そういうことは浮かんでこないよ。きょうこちゃん(ファミリーメンバー)みたいに集中力があって、勉強がバッチリできる人はダメね。一点に集中しすぎて隙間がないから、神秘が入ってこない。
僕はいろいろなことを常に考えているんだよ。何かを見ながら、これってこういうふうにも考えられるな、こういうふうにも考えられるな、って。だから常にダジャレを考えてるんだよ。余分な枝をいっぱい張りながら、本筋を見てるんだよ。

ともこ:
えー、でもそれって人によるんじゃないの。そういうのが得意な人もいれば、一点集中型の人もいるでしょ。

いさどん:
だから、人によるって言ってるのよ。
今、新しい世代が台頭してきてるでしょ。そしてこれから、宇宙視点を持った人たちが現れてくる。その前兆として、この騒動もあると思うんだよ。

ともこ:
小保方さんは天然でSTAP細胞を生み出しちゃった。私たちは、日常の中にひそんでいるメッセージをスルーしまくっちゃってるんだよね。

いさどん:
チャンスは無限にあるんだよ。

あわちゃん:
でも、スルーするー。(チーン)

いさどん:
今のその発想!瞬間に出てきたんでしょ。

あわちゃん:
うん。俺、ダジャレばっか考えてるから。

いさどん:
それは直感の領域だよ。松果体(しょうかたい)が揺れてるんだよ。やっぱり目覚めるためにはダジャレを言うことだよ。

みんな:
しょうか~~(笑)。

いさどん:
そうやって、心を常にやわらかくしておくことだよ。やわらかいということは、その場に留まらない。いつでもトキ、トコロに応じて柔軟に変化できる。風が吹いたら柔軟になびいて、止んだらピッと元へ戻る。
時代はすでに、宇宙時代だからね。地上目線ではなくて、もっと三次元、四次元の立体的で複雑な、目に見える「ある世界」の奥にある「ない世界」を感じていくことだよ。

まり姉:
カタカムナの勉強も、脳の眠っている85%を活性化するきっかけにはなるかもしれないけど、それだって既存の15%の中で解釈をしようとする人にとっては、15%の範囲内での知識になるだけだよね。

いさどん:
もちろんそうだよ。だから、85%の意識レベルに到達しないといけないわけだよ。そうすると、思考の次元が変わってきて、今までの思考の概念が壊れて、新しい視点が生まれてくる。これから、この世界を覆っている古いものが、ガタガタと崩れていくよ。

コノハナ人の考え方は、型や枠を全部取っ払ってしまって、トキ・トコロが来るのを待っている。いつでも、変身できる柔軟性を持ってる。これが宇宙時代を生きる考え方だし、これからますますそうなっていくんだよ。
だから、STAP細胞はあるかないかなんて議論に捉われてる場合じゃないんだよ。そんなの抜きにして、ふっと心を未来に送って観てみれば、あるに決まってるんだよ。その現れ方に対して囚われている人たちが、理屈をこねて、正しいだの正しくないだのって言ってるだけで、大局的な視点から観てみたら、出てくるための産みの苦しみみたいなものだな、と理解することができる。

ともこ:
そうなの。核心のところに議論が行かずに、不正があったとかなかったとか、小保方さんのプライベートなことまでゴシップ的に騒ぎ立てられたりしてて、話し合うべきとこってそこ??って思う。

まり姉:
どうでもいいやんね。

しゅうくん:
でもそういう話題に人は食いつくんだよなあ。

ようこ:
そして小保方さんがうつ病になっていく。世の中がうつ病を生み出してるね。

いさどん:
でも僕は逆に、万能細胞が発見されることがいいとは思わないんだよ。そういったものは人間の悟りにふさわしく現れてくるべきで、もしも人間が悟ってしまえば、あんな画期的な治療方法はいらなくなる。なぜかというと、人間はいずれ生死を超えるものだから。そちらの方が重要なのよ。生きてる、死んでるということは、そんなに重要なことじゃなくなってくるんだよ。

ともこ:
そう。バッシングをする人たちがいる一方で、それの誕生を待っている患者のために一刻も早く研究を進めてほしいという人たちがいるんだけど、実はそれも同じレベルの話だと思うんだよ。病気の治療が目的になってるんだけど、たとえ表面的に病気が治っても、それを生み出す根源的なものから開放されるわけじゃない。

いさどん:
大事なのは、この「生きている」ということを、どう捉えていくか。そして死というものをどう捉えるか。
STAP細胞でも、iPS細胞でも、医療に革命をもたらして、ノーベル賞までもらったりしているよね。だけどね、どうして長生きしたいの?生きる目的は何なの、ということなんだよ。
大切なのは、充実した人生を送るということでしょう。人生の中で、例えば病気に出会ったとしても、充実した人生であれば短い命でも生に未練はないはずだよ。死を通して、とても重要な役割をして死んでいく人もいる。

ただ、STAP細胞のような画期的なものが発見されることによって、命の神秘が説かれる、という効果もあるよね。それで治療すること以上に、命の尊さやメカニズムを知ることによって、生きることの意味を人々が悟ることにもなる。だから全面的に否定するものでもないね。

大切なのは、ものごとの捉え方だよ。死を歓迎しない、忌み嫌う、そういう思考があるから、こういう発見も単なる治療目的や経済効果としてしか考えられない。そして相変わらず、病気になるのは悲しいこと、悪いことのままになっている。
だけど、人は必ず死ぬんだよ。そうしたら、生まれてきたことの意味、生きることの意味、死ぬことの意味を分かることの方が大事じゃない?
その過程の中で、病気の治療というのは、その意味をより深く知るためにあるわけだよ。でも今は、経済効果を上げるネタのように医療が扱われている。
死んでみたらいいんだよ。その先があるから。そして死の先には、また生があるんだよ。この世界は永遠で、高次元の世界には生死の境すらないんだよ。

人々が、生きること、死ぬことの意味を理解すれば、そのことで騒ぐ必要はない。
大切なのは、ノーベル賞を取ることよりも、死生観を悟ること。悟るってことは、人生のノーベル賞を得るってことだよ。全ての人に、ノーベル賞の可能性があるんだよ。
  
  

※「チーン」とは:
木の花ファミリーでは、誰かがダジャレを発した時に「チーン」とベルを鳴らしています。
ダジャレには、凝り固まった場のアイスブレイク、視点の多角化、ゆとりの創出など様々な効能があります。最近では、誰か(主にいさどん)がダジャレを発する前に空気で察して構えてダジャレが発されると同時に「チーン」を鳴らすという、阿吽の呼吸探求のツールとしても注目を集めています。また、大人ミーティングでうたた寝をしてしまうメンバーの眠気覚ましとしての効果もあります。

大人ミーティングや座談会に欠かせない存在・「チーン」
大人ミーティングや座談会に欠かせない存在、「チーン」