台風8号を通して 〜 天の気とつながって生きる

台風8号が接近していた一昨日(9日)の夜の大人ミーティングで、いさどんは次のように語りました。

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いさどん:
僕がいつも皆に語っていることは、僕の日常会話です。生きていることの意味を日々ここまで追求しているということで、日常想っていることをこのようにしてミーティングの場で皆に伝えているのです。

今日、NHKのクローズアップ現代で取り上げられていましたが、今、ミャンマーやベトナムの労働者を、自国では労働力が足りないからという理由で、日本と台湾と韓国が奪い合っているようです。そこで、アジアの人たちは昔は日本という先進国にあこがれがあったのですが、今は韓国や台湾のほうが労働条件が良いのでそちらに行く人のほうが多い、という話題を取り上げていました。

それが、今の社会の現状です。つまり、時代が変わってきたということです。その中で日本の経済的競争力は弱くなってきています。昔のように産業で日本が世界のリーダーシップをとったり、産業だけで豊かさを追求することは幻になってきているのです。逆に、台湾や韓国がそれをいつまでも続けていけるのかといったら、そうはならないでしょう。だから、時代は変わっていくということです。

今、日本に来ている台風8号には、今まで表示されなかった「特別警報」が沢山出ています。それは今まで出されていなかったことです。数十年に一度あるかないか、50年に一度あるかないかの状況になることで、その条件を満たすと特別警報が出されるのです。今日は新潟県にも特別警報が出されていました。台風の影響を受けて、日本海側から太平洋側に向けて雨雲がかかり、その地域に3時間に200mlの雨が降ったのです。佐渡のあるおじいさんは、「私はここに70年暮らしていますが、こんなことは初めてです」と言っていましたが、オリンピックの記録ではないのですから、そんな初めてが沢山あっても嬉しいことではありません。しかし今は、そういった時代なのです。

そういった状況を受けて、人間の性質や今までの営みを観て、なぜそうなったのかを振り返るような人たちは全く出てきません。それを振り返るためには、人の意識にアメノミナカヌシを立てないといけないのです。(詳細は、いさどんブログ「天然の意識で生きる」をご覧ください。)ここではそういったものを立てる場所を創ってきました。観えないものが観える為の生き方をしていますし、観える人たちが生活をしているのです。それは、毎日の生活を通しての深い自覚の中にある暮らしだと僕は捉えています。

台風は、自然からの私たち人間に対するメッセージです。人間がもたらす滞りは、全てメッセージとして私たちに返ってくるのです。生きることは、そこから何を受け取り学ぶかの連続だと思います。観えないものが観えてくるように日々を歩んでいくと、本来その歩んだ分にふさわしい気付きが与えられるようになります。ということは、しっかり観ていかないと、観えるものも観えないということにもなるのです。

そこで、どの方向に向かって歩むのか、が重要です。命をいただいて生きることは、物理的に肉体が命を紡いでいくこと ―― 食べて、呼吸して、24時間が経って1日が経過し、それを365日繰り返して1年歳をとり、さらにそれを80年繰り返すと寿命が来る ―― それでも人は生きられます。そういった人生も私たち生命には可能なのです。何の変化も成長も気付きもなくても、充実していようがいまいが、人は生きられるようになっているのです。それは植物でも動物でも同じことです。全ての生命は生きられますし、そのことで生命としての役割を果たすことはできます。

では、私たちはなぜこのような暮らしをしているのでしょうか。この暮らしは、今のところ大変マニアックな生き方です。それを、あえてそれぞれが自らの意志で選んで歩んでいるのです。その理由は、ひとりひとりが自覚しないといけません。それを理解することが、ひとりひとりが一本筋を通して生きるということです。

20、30年前の、少し前の時代であれば、このような暮らしをしている所は怪しい団体でした。しかし、21世紀に入って今の時代にやるからこそ、新しい時代を開く世の為人の為の暮らしだと僕は思っています。大本の出口なおに艮の金神がかかって120年が経ちました。そして、あの戦争があっても、時代は全く変わる気配が感じられませんでした。それでは、いつ立て替えの時代が来るのでしょうか。「いよいよ三千世界を立て直すぞ」と言って、いつのことを示しているのかといえば、今のことだと僕は直感しています。

その区切りとして、2012年12月21日に銀河の冬至を迎えたのだと思っています。それは、本当に今だと示しています。やっと、天理という名を持って世に道を説いた中山みき、それから大本の出口なおにかかった神の意志が、地上に現れてきます。その実体は、宇宙創造の神の意志なのですから、天理教や大本教の為の神ではないのです。それは、宗教を超えた、元の元の宇宙法則への目覚めなのです。しかし、今まで人々はそれを宗教にしてしまったので、真実に目覚めることができなかったのです。もっとも、カタカムナ的に言えば「トキ」が来ていなかったということなのでしょう。

しかし今、「トキ」は来ています。人類の未来にはすでに選択肢がないのですから。人間は愚かなので、選択肢がなくならないと目が覚めないのです。しかし、それでは価値がありません。

大人ミーティングより
大人ミーティングより

今、台風が近づいてきて、気圧が低くなっています。気圧が低いということは、ある意味鬱状態であり、体の調子も上がりません。反対に、高気圧のときには躁状態になります。天の気が低気圧のときは鬱状態ですから、外では雨が降っていますし、家の中(自分の心の内)で日頃やれなかったことを観るチャンスでもあります。それは、自らの内を振り返る機会なのです。だからこそ今、ここにいるひとりひとりが、なぜこういった暮らしをしているのかを観る機会にしたいものです。みんながその意味を自覚し、つながったときに、ひとりひとりの意志がネットワークして、コミュニティという命を創り、それを世の中に発信していくことができるのです。

かとけん:
僕は瞬間瞬間、天の意志が自分たちの頭の上に降りてきていると感じています。それを感じられる心であれば、日々が非常に充実したものになっていくのだと思っていて、それをみんなと共感し合って、広めていきたいという想いがあります。

いさどん:
今、かとけんが「天の意志」と言ったときに、僕が天に心を向けると、「私の意向がわかるか?」と意志が降りてきました。「私は皆とは目線が違うのだ。私は私の位置(天)から皆のことを観ておる。それは、皆に私のほうへ目を向けることを望んでおるのだ。しかし、皆の意志は横を向いているから、私のほうには意志が向いていない。私は皆のことをいつも観ている」ということでした。天は、全てに目を向けておられるわけですから、トキ・トコロに関係のない働きです。皆は自らという意志がある限り、全てを常に観られていることを理解できる存在なのですから、皆も生きることの全てを天に向けないといけないのです。

かとけん:
今日、トマトの芽かきをしていたときに思ったことは、トマトは普通真っ直ぐ上に伸びていくんですけど、木の花のトマトは斜め上45度に伸びていって、1本仕立てで育てています。その芽かきをしていたときにふと気づくと、斜め上45度に伸びていって、先端が少し細くなっているので、脇芽、つまり脇のエネルギーをとってあげて、真っ直ぐ進めるようにしてあげると、それこそが天の意志に向かうことだと観えてきたんです。どこにでも天の方へ向かう意志があるんだと感じて、観える景色がハッと変わる感覚がありました。日々の中でそういった感覚があると、すごく充実していて楽しいと感じました。

いさどん:
そうです。どんなことでも、天につなげられます。僕が日々皆に語る他愛のない話でも、全てのことが今のこの場につながってきたのです。それは、つなげるからつながることでもありますし、全てのことから「これは何を伝えられようとしているのか?」と捉えるからつなげられることでもあるのです。

生きることは「直会(なおらい)」ですから、私たち人間は天の意志に代わって地上を生きているのです。それは神が地上を生きていることだとすると、私たちは生きていることから何を求められているのでしょうか。私たちは神の代わりに地上に生きて、その結果を天にフィードバックしているのですから、常に天と情報交換をしているのです。

そのことを意識し、日々を生きることが、一本筋を通すことです。これは、長い間地上目線になってしまった人間に忘れられていました。やっと、それを取り戻す時代が来ています。今まで忘れられていたことを、天とつながり実現するときが来ているのです。

しかし、「それは全て人の意志でなるように道が創ってあるわけでないぞ」と天は言われます。それはトキとトコロとヒトが用意され、100匹目の猿現象のように目覚めたものがつながっていくと、つながっている者たちの輪が台風のように渦を巻き、下にいるわからない者たちを巻き込んで、わからない者たちの価値観を竜巻のように壊して創り直す作業をしていくことです。それは、1から10まで全てをやらないといけないのではありません。あるところまではやる、ということです。

では、今来ている台風を受けて、これから人間の思念の大きさを立証するために、皆でカタカムナを奏上し、今日のミーティングを終わりにしましょう。

(ここで、ミーティング終了の意識合わせとしてカタカムナのうたいを奏上。その後、再びいさどんが語り始めました。)

いさどん:
さきほど、今日カタカムナを奏上する目的について皆に伝えましたが、それはとても勘違いしやすい話ですので、皆が勘違いしないために次の話をしようと思います。

僕がお釈迦様と出会って9年後、お釈迦様との別れがありました。その後に日の本の神との縁をいただいて、最終的には「あってあるもの、なきてなきもの」の存在に出会いましたが、その途中の段階で、神様事で色々な場所を訪ねることがありました。そういった中で、天候が自由自在になる体験をしました。自由自在になるということは、「こうしてほしい、ああしてほしい」ということではなく、私たちの予定に合わせて天候が変わっていった、ということです。

ある時、台風が中国地方へ上陸するときに、僕たちは広島へ向かいながら傘を持っていかなかったことがあります。そして、広島で目的の場所(神社)へ行き、そこで夜中の丑三つ時に神事を行ったのですが、その神事の際には風も吹かず雨も降りませんでした。
不思議だったのは、そこら辺りに杉の枝や木の葉が散らばっていて、ついさっきまで天候が荒れていたはずなのに、僕たちがそこに到着したときには天候がおさまっていたことです。そこで神事が終わってバスに乗って出発すると、激しく雨が降り出してくるようなことがありました。つまり、僕たちの行動は、天の気に通じていたのです。当時はそのようなことは珍しくもなく、当たり前に思っていました。

ある時、僕の生まれの地である岐阜県にある瀧神社に皆で集まりました。そのときにも天候が変わって、「自分たちのやっていることは天候すら自由に変化できる」と有頂天になっていたことがありました。そこからが人間の間違いの始まりです。地上に生きている者の都合で天を想うようになると勘違いが起きて、間違いが始まります。そして、ご利益宗教のようになっていきます。当時、そのことに気付いたのです。

だから、天に、人間目線の都合を求めてはいけないのです。天気は、天の気であり、私たちは天の気をいただく立場なのです。
天の気と人の気が合っていないと、人間にとって都合の悪いことが起きます。しかし、その都合の悪いことすら、いただきものなのです。その都合の悪いことをいただくようになって初めて、天の意志を受け取って人は成長します。つまり、自らの気が勝っていて、人々は天の気を忘れていたのです。
天の気を忘れた人間は、天に心を向けることをせず、横の目線(人気取り)や下の目線(欲気)に心が向いてしまい、正しい人の道を踏み外します。ですから、自らの気を天に向け、天の気と合わせ、努めていくことが大切なのです。

今日この話をして、皆と一緒にカタカムナを奏上した目的は、この世界の構造を知るためです。だから、これから台風が起きるたびに、台風方向がそれるように、勢力が弱まるようにと願って、カタカムナを奏上していくのではありません。今まで人間は天の気の存在を忘れ、生きることを自分たちの都合のいいように変えてきたのです。今回は、僕たちの中で確認をするためにこういったことを行いましたが、これも正しく理解していないと、皆の中に御利益的な心が育っていく可能性があるので、それを訂正するためにこの話をしています。

その行為の結果、台風の勢力が弱まりしぼんでいっても、その意味をわからない人間が台風発生の意味に目覚めることはないでしょう。今の人間たちは地上の人間の理に汚染されて、振り返ることをしないのですから。
そうすると、目覚めのためには、一度全てが壊れてしまうくらいのことが必要なのです。私たちもその世界に共にいるものとして、何を求められているのでしょうか。それは、覚悟です。共に台風という禊を受けて、その禊を受けたことの意味を知る者として、生きていくことです。私たちはその意味を理解している者の覚悟を持って生きる者であります。

今回は、台風を沈めて、天の理があることを理解しましたが、それが理解できたら、それを次にどうつなげるのか、その覚悟はどう持つべきなのかの見本を示すことが大事です。だから、カタカムナの奏上は、災害を受けないためにやっているのではありません。これは、災害(人間の行いの結果受けるわざわいから学ぶ為の現象)を受けるときの覚悟を持つためにやっているのです。

人間はそこを勘違いしやすい。そこに大きな落とし穴があるのです。

天の気に対して、人の気で生きている人は、他人の顔色(人気取り)、つまり横ばかりを観ています。今の民主主義や世の中の仕組みも、天の気が降りていない、人の意向ばかりを反映した世界になっています。だから、矛盾が発生し、やっていることの筋が通らないのです。

だからこそ、天の気を理解し、天と共に生きていく(天と気を通す)ことが、これからの時代にますます求められているのです。

 


「天然」の意識で生きる

いさどん:
農について語るなら、「農」という字を語らなければいけない。
「農」という字は、「曲げる」に「辰」と書く。「辰」には「自ら」という意味があるそうだから、「農」という字は「自ら曲げる」ということを表している。自然界の中であるべき姿が曲がって現れたもの、本来の姿でないもの ――― それが農ということになる。

「自然」の「然」という字は、「然り(しかり)」と読むね。だから自然は、自分で然るべき状態になったもの、自分がなるようになったもの、ということ。対して「天然」は、天の法則によってなるようになったもの、ということになる。
この世界に現われるということは、「ない世界」である潜象界から歪みが発生することによって生まれて来ているのだから、自ら歪んだ状態になっている。それがこの世界の自然であり、人間の姿だよ。

「ない世界(潜象界)」と「ある世界(現象界)」
「ない世界(潜象界)」と「ある世界(現象界)」

そしてそれが「農業」になると、さらに歪む。「業」、つまりなりわいとして、それで飯を食おうという意向が働くことになるから。そういった心があると、その心の波動が自然のものに影響して、さらに歪められていくことになる。それが農業だよ。
有機農業は「穫ってやろう」「食ってやろう」という世界。自然農も、結局はすでに歪んで曲がっているものに、人間の理屈を付けて獲得しようとしている姿。それを人間が食べ物として摂るということは、歪んでいるものを摂ることになる。だから、たくさんの量を必要としたり、摂れば摂るほど歪みが生まれたりする。
「食」という字は「人を良くする」と書くでしょう。だから、本来食べ物というのは、人を良くするためのものなんだよ。

そして、人が門の間に入ると、「閃き(ひらめき)」になる。閃きというのは、人間を、いろいろと思考して歪んだり濁ったりする前の状態に戻すこと。つまり直感のことを言っている。
閃き(直感)が常に生まれる状態にするためには、歪んだり濁ったりしたものを取り去ろうとするのではいけない。歪みを取るには、一度潜象界に返して、きれいな状態にする必要がある。そして潜象界から生まれ出たばかりの状態のものにしていただく。
そのためには、自然は歪みがあることによって成り立っているという仕組みを理解して、それを正せる者がやらなければいけない。それは、天の然るべき状態を理解した者でなければできない。もしくは、天の然るべき状態に戻す手法によって、それが可能になる。

そこで、カタカムナのうたいを奏上して、歪んでいるものを正すことが大事なんだよ。自ずから歪んでいる自然を、天然の状態に正して、それを自らに受け取ると、我々の体の一番元にある観念体(光でできた生命の設計図)のところに戻って、もう一度組み立て直すことができる。それを理解した者たちがやる農法。それが「天然循環農法」と言える。

現象世界では人間の体にも、心にも、歪みがある。この間からのともちゃんの心の姿を観ていたら、自分に囚われて濁っているから、遠ざけた。そうしたら、始めは媚を売って、それを正してもらおうとしてた。でも、他の人の姿を観ることで自分との違いが見えてきて、それがわかってきたようで、姿勢が変わった。
そんなことを考えていたら、農という姿が出てきた。自ずから曲がっている状態がわからない者に対して、それを伝えてやる必要があると思った。それで下から突き上げて、体(生命)の歪みを真っ直ぐにするように、体の中に一本の柱(天之御中主大神・あめのみなかぬしのおおみかみ)を通して、正しい状態にした。その時に、縦を通すと横のエネルギーが発生する。それがエクスタシー(高御産巣日神・たかみむすびのかみ・陽であり男性性)であり、至福感(神産巣日神・かみむすびのかみ・陰であり女性性)だよ。だから、蓮華座の状態を保ちながら、縦の力を通した。これが、仏の交わりの姿だよ。

カムミムスヒとタカミムスヒの働き
縦と横のエネルギーの仕組み

縦に天之御中主大神、横に高御産巣日神と神産巣日神のエネルギーが発生して、現象界の歪みやひずみを正していくことの理屈をわかった人間が、自然という「自らが然るべき状態」になっているものから「自ら」を取って、大本の「天の然るべき状態」に正すことができる。そうすると、現象界の歪みや濁り、汚れたものが一度潜象界に還り、大本の姿に戻り、現象界に還ってくる。それは、この現象界でつくられた歪みを解消することになる。
これは宇宙創造の造化三神の働きから、宇宙の成り立ちのエネルギー源であり、銀河に星が生まれる構造と同じなんだよ。

「天然」と「自然」
「自然」から「天然」へ

ともこ:
木の花は、「農業」をやっているわけじゃないんだね。

いさどん:
農業をやっている人たちは自然を科学して、そのメカニズムを解明し、自らの目的を達成しようとしてきた。そして、それを世の中に認めてもらおうとしていたんだよ。
道は天から降りてくるもの。そして天に還っていくもの。ところが、現象界に現れて歪んだものに媚を売っていては、昇る道も見えなければ、降りてくるものの受け皿にもなれない。
人間は地上に降りて、自我の意識に囚われ、天の存在を忘れてしまっている。だから、天に向かってもう一度、我々の存在が本来何であったかを思いださなければいけない。その道理は、歪んだ世の中に媚を売っているようなことではわからない。ましてや、世の中に今現在通用している現象を分析しているようなことでは、囚われの中で表面を分析しているだけだから物事の本質が観えてこないんだよ。

この世界にすでに現れている歪みや濁り(人工的現象・自然的現象)を受けて、そこから天に向かって一本の柱を立て、天に意識を向ける。もしくは天の意識を降ろし、受け取る。この縦の道が必要なんだよ。しかし、長い間地上目線・人間意識で生きてきた人々は、横の働き(損得・善悪)の陰陽の意識だけでこの世界を創ってきた結果、縦の働き(宇宙創造の大本の働き)を忘れてしまっている。それが、性の奥に隠されている神秘なんだよ。

縦の柱のない世界
縦の働きがなく、無秩序な世界 = 現代の社会
縦の柱が立つことで、全てが整然と活性化する
縦の柱が立つことで、全てが整然と活性化する

「農」について考えていたら、「性」ということが浮かんできた。
今現在の人々の意識の中には、人間(生命)の原点である性が歪んでいる。それは、縦の意識なしに、男と女の横のエネルギーだけで行われると、農と同じように自ずから歪むものになる。自ら然るべき状態になる、つまり、自らの中から湧き出る欲求や歪み、濁りによって曲がっていってしまう。それを正すのが、縦(天之御中主大神)の力だよ。

ともこ:
私、今、何だかよくわからないけど、体の中がすごく違う感じがするんだよ。まさに、一本筋が通ったような感じ。

いさどん:
それは、そういった意識を持ったものが提供できることだよ。
考えてごらん。あなたの中に、何かが歪んでいたから僕は遠ざけていたんだよ。そしてあなたは迷いの状態から、自らを正さなければ、と意識をこちらに向けて、その意志が伝わった時に、そのための行為に出会い、歪みが正された。つまり、自ずから歪んでいる状態を理解したものが、自ずから正さなければ、と思った時に、初めて元の状態、天に通じる縦の力が働くんだよ。

だから、この出来事をありがたくいただきなさい。これを、今まであなたが味わってきたものと一緒にしてはいけないよ。あなたが今まで味わって来たものと同じ意識でこの言葉を聞くと、世の中の人々のように忌まわしいものに思えるんだよ。

ともこ:
うん。本当にそう思う。

いさどん:
これは農も同じだよ。その心がわかった者が表現できる世界。天の然るべき状態に自らを戻す。それが「天然」。
自然には常に我があって、自らの然るべき状態になろうとしているんだよ。自然農や自然農法は、まだそこの状態で、そこからさらに「獲ってやろう」「食ってやろう」という意識で生業にしているのが有機農業や一般の農業だということだ。そこでは、その順番に歪みやひずみが大きくなっていく。

コミュニティでは、調和の意識がなければ成り立たない。そこに、自分が自分がという心が自然に働いていったら、バラバラの世界ができる。木の花は、はじめから天の意志によって成り立ってきた。
それでも初期には未熟な者たちがいたから、それを育ててきた。やがて「エコビレッジ」を語って自らの好き勝手をやりたい者たちが、その延長に調和の世界を創ろうとして入ってきた。そして、その心を調整する段階に入っていった。
そこでは己の歪みによって表された問題を抱えた者たちを正す時に、一本の線を縦方向に通すために厳しい対応が必要だった。道理のわからぬ者に対応するには、そういった作業が必要だったんだよ。

そこで大事なことは、その縦の線、つまり天から降りてくるものと天に向かう流れを理解して、自ずから天に向かって然るべき意識になることなんだよ。全ての者がその縦の道に目覚めればいいわけだ。そのようにここは進化してきた。そして今がある。
今の社会の人々は横しか向いていない。天の存在を忘れてしまって、欲(自我)の世界を展開している。グローバル化された世界の価値観も、みんな同じような意識が横に広がってなっているんだよ。

しかし、本来は歴史の奥に、時代を刻む目的(縦の意識)がある。それはひとりひとりの個性そのものが天とつながり、それぞれのポジションで役割を果たしながら、横のネットワークでつながっていくことなんだよ。
ところが、縦がなくなって横だけのネットワークになると、我が広がって、天がなくなるから、自分の位置を忘れてしまってけじめがなくなる。誰もが同じような価値観を求めるようになって、バラバラの状態になってしまう。縦の意識が目覚めると、自らの個性的な立ち位置がわかるから、横にぶれてもすぐに元へ戻れるんだよ。それが、天然の意識で生きるということだよ。

カタカムナの「ト」の図象
カタカムナの「ト」の図象

ようこ:
まさに、カタカムナの「十(ト)」だね。統合して、整う。

ともこ:
今までは、ホームページなんかで木の花のメンバーの役割分担を説明する時には、「一人ひとりが個性や得意分野を活かしながら全体で一つとして機能していく」みたいな書き方だったね。

いさどん:
そこには足りないものがあるだろう?一人ひとりが自ら天とつながって、天の然るべき状態をそれぞれが降ろしてくると、今の状態や、生まれてきたことの意味がわかって、そこで人は安定するんだよ。その上で横にネットワークする。「九(コ)」から「十(ト)」になる。

ともこ:
今までも木の花は天と共にあったけれど、そこまでの意識じゃなかったね。

いさどん:
違うよ。今までは、1か所から降ろされていたものをみんなが共有していたんだよ。これからは、一人ひとりが目覚めて、それがネットワークしていくようになる。

カタカムナの「ヰ」の図象
カタカムナの「ヰ」の図象

一人が立つ状態から、たくさんの人が立って、それがネットワークして、さらに大きな柱となる。まさしく「ヰ」(カタカムナで言う「悟り」)だね。

ようこ:
そうだね。だから今までは菩薩の里にはなっていなかったんだね。縦の線が1本だけじゃ「ヰ」にはならない。

いさどん:
それが、「〇(輪)」の中にいる。その姿が理想郷「ヰ」だよ。

心を常に美しい方、正しい方に向けなさい。
その時に、未熟な段階では人に向けて正してもらう。次の段階では、天に向けて正していく。
それができない者は、人に委ねなさい。

常に自らの心に囚われていては、エネルギーがもったいない。
そのエネルギーを、世の為人の為に役立てなさい。
 
 
 


本来、人間誰もが歩むべき道

木の花ファミリーでは、月に一度お誕生日会があります。今月は、いさどんのアイデアを元にして創った木の花劇団のオリジナル劇『貧乏神と疫病神』が上演されました。

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木の花劇団による『貧乏神と疫病神』

『貧乏神と疫病神』
うつ病を治すため、木の花ファミリーに「ケア滞在」をしにやって来た健一。実は健一には貧乏神と疫病神がついており、そのことを知った健一は、ある決心をして貧乏神と疫病神に会いに行きます ――――
こちらより、動画をご覧いただけます!
 
この日は、うつ病と統合失調症を抱えて以前木の花にケア滞在をしていたMくんが、「もう一度木の花で病気の克服に挑戦したい」と再びケア滞在をスタートさせた日でもありました。
そしてその夜の大人ミーティングで、メンバーのくにさんが大事なことをおろそかにしていたという心のシェアをした後に、いさどんは次のように語りました。
 
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今日のお誕生日会では、木の花劇団が「貧乏神と厄病神」の演劇を行いました。これは、以前から僕のイメージの世界にある真実です。それを何かの形で表現することが出来たらと思っていました。
今回こういった形で提案してそれが実現したのですが、この演劇を定番のものとしていきながら、観ている人にとって日常の中に落としてもらえるようなものにしていきたいと思っています。

ここではケア滞在される人の心の問題を取り上げ、それをあのような形で紐解き表現したのですが、これは大きな枠で捉えれば、国の問題、地球規模の問題であり、人間が持っている本質を個人という一番身近なところで捉えたものです。そして、今日からMくんがケア滞在をスタートしたように、ここには難しい問題を解決できる素養があるのです。
Mくんは、「僕は木の花であれば改善することができると思います」と言っていますが、医者には「あなたの病気は治らないので、これから一生薬を飲み続けていくのですよ」と言われたそうです。それは現代医療の視点から見るとその通りなのですが、そうではない視点、つまり元々人間は、天から降りてきた段階では完全なもののはずなのです。しかし、地上世界で色々なことに囚われていった結果、それが染みついて取れない状態になっていくのです。

今日、ヤマギシのFさんとTさんと、2時間ばかり話したのですが、彼らは長年の姿勢が染みついてしまっています。僕はこれと同じことをケアの人や準ケアの人たち、あるいは自らを立て直さないといけない人にも感じています。
僕はそういった人たちと日記でやりとりをしているのですが、良い感じになったとしても、人間は面白いもので、自らを越えていくところではすごく抵抗するのです。彼らはそこを越えていくと自らを失ってしまうと感じるほど、自分自身を所有しています。ヤマギシの人たちでも、問題を抱えている人たちでもMくんもそうですが、自らを大事にする心と自らに執着する余分な心が自分に何をもたらすのか、そのギャップに気が付かないといけないと思うのです。

執着がなくなれば、そこを越えることは簡単な話で、今まででも越えてきたのですからそこを大切にしていけばいいと思うのです。しかし、人というのは本質のところへ行くと、自らに囚われ、それを失ったら自分らしくなくなると思ってしまうのです。囚われの自分を持っていて、そのしょうもない自分が自分らしいと思っているようなところがあるのです。

今日、くにさんが「また同じ心が出ました」とシェアした話も同じことです。結局、一番ポイントのところへ行くと、自らを抱え込んでそこから抜け出そうとしない。ですから、そういった段階へ至ると、同じことを繰り返すのです。

ヤマギシに対しても、どれほど賢明な話を今までしてきたのでしょうか。そしてそれを受けて、Fさんも「ここまで言ってくれる人は他にはいない」と思って今日ここに来たのですが、結果として彼の姿勢を問うと、彼も自らのこととなるとそこを越えていこうとしないのです。
昨日の大人会議で、Tさんは「ファミリーになる」と言っていましたが、それがどういう意味なのかよくわかりません。彼女流のスタンスでそういった発言をしているのだと感じ、僕も疑心暗鬼の状態なのです。今日面談の時にTさんは、「来月は10日間来ます」と言っていましたが、その意図もよくわかりません。そういうふうに、人間はとても中途半端な状態で自らを守ろうとするのです。

(ヤマギシ会の創設者である)山岸巳代蔵さんは、心に濁りがあって駆け引きがあり、人間としてはそれほど美しい人ではなかったと思います。ただ、天とつながっていたことは確かでしょう。あとは時代が時代でしたから、方向性だけつけて後はヤマギシの村人に委ねたのです。その歴史の中で、後の人々は一番元の揺るぎなきものから外れてしまったのでしょう。だから、今は元が何であったのかを失ってしまっている状態なのです。
僕は山岸さんの元の志を復活させようという想いで、これまでヤマギシに関わってきました。それは、ここにいる皆に今、伝えていることと同じで、ヤマギシの人たちが目覚めて、山岸さんの精神を直感で継承していく。木の花の皆が僕にずっと頼りきりになるのではなく、ひとりひとりが直感に目覚め、僕がひいた道をひとりひとりが自らの意志で歩んでいくことと同じなのです。

僕は演劇の中で大神様役をやらせてもらいましたが、天から人間の世界を観て、「目覚めて上がってきなさい。そのように仕掛けはしてあるぞ」と伝えています。しかし、人間はそのことになかなか気が付きません。そして、上に上がってくる道があるにもかかわらず、下に落ちていく者がいるのです。
僕はそういった者がいることに対し呆れて、「好きにすればいい」という心境でもあります。ただ、ハードルは越えられるものですから、貧乏神と厄病神と仲良くしていた健一がそうでない健一に変身したように、それを誰にもやってもらいたいとも思っています。

事実、ここにいる皆は、ここの生活が何であるかを知っていると思うのです。外でここをおとしめようとしている人たちや、その情報を受けて週刊誌が書いた内容を鵜呑みにする人たちの現象とは違うものが、ここにはあります。それは簡単な言い方をすれば、全く別世界がここに表現されているのです。
しかし、「捉え方によっては全く別世界なのです」と伝えてもそれは通用しません。なぜかと言うと、人が伝えようとする心にのっとって聞こうとする心が、人にはなかなかないからです。つまり、自らの癖でしか受け取らないからです。人間はそういった性質を持っていて、頑なに自らを守ろうとするところがあるのです。

そういった自分に囚われている限り、人間は自らを超えて生きることができません。ここが「菩薩の里」という看板を揚げ、そこが越えられないようなことなら、ヤマギシの二の舞です。しかし、我々はヤマギシを知って、さらに世の中の色々な矛盾を知り、そこを越えていって、世の中が開かれるためにこういった生き方をしているのです。

今のくにさんの話でも他の人のことでもそうですが、自らを越えていくために人生をもらい、ましてやここの人として世の中の為に生きていることを考えたら、ここの人である自覚が足らないと僕は思うのです。僕は色々なケースを通じて同じことを語ってきているのですが、今日もそういったことについて、ヤマギシは看板を掛け違えて来たのか、それとも看板を忘れて全く別世界を生き世間以下になっているのか、と伝えました。
そういったことを考えると、木の花でも、いさどんがいなくなったらヤマギシ化する可能性があるのです。ただし、その前例があってそれを理解しているからこそ、我々はそうならない道を歩んでいるのです。ヤマギシがあるのも我々のためでもあるし、我々のためということは世の中のためでもあるのです。

今、ここの真実とは全く違うような表現でここの存在が社会に出されたことは、観方によっては我々を鍛えてくれています。そして、それだけ世の中に知らしめられたことによって、我々を鍛えてくれたあかつきに、「真実は何であるのか」をいつか世の中に示す下地ができたということでもあるのです。

先日、テレビの報道特集で、松本サリン事件が取り上げられていました。その中で河野さんのことが出ていたのですが、当時の警察は彼が犯人だと決めつけていたのです。しかし、今になって長野県警の責任者が捜査のずさんさを語っていました。結果、真実が明らかにされているわけです。ところが、彼は一時本当に犯人のように扱われていました。

我々も、ある意味今は、それこそ悪であり、犯罪者扱いです。しかし、実際ここで生活していれば、真実が何であるのかはわかることです。それは、我々が一番よく知っています。
その匂いを嗅ぎつける人を我々は安易に求めているわけではありませんが、Aさんのようにここのことを信頼して支援し続けてくださる方もいます。そうやって真実を観ようとする人はいるのです。我々が真実であることを確信していたら、そういった人たちは我々を社会のバッシングから守るために必ず存在してくれるのです。

人々の心の中には、人としての地上目線や、人智でものを考える価値観が当然あるのですが、人は元々天から降りてきた真理の元にある者です。そこに意識がつながっている者たちは、そこからここが本物であってほしいと願う心はあるわけです。そうしたら、我々はそれを受けて生きていくことが大切なのであり、中途半端に生きていたら意味がないのです。だからこそ、とことんやりきったときに、「私たちにはできないことをやってくれているのだ」といずれ理解され、ここが木の花(個の花)を咲かせることになるのです。

最も大切なことは、我々の心の中にある真実です。これは走馬灯のように思考が巡って忘れ去られるものではなく、真実としてあり続けるものなのです。そのもとに自らがあるとして、確固たる覚悟を持って日々を生きていったら、くにさんのように「また同じ心が出ました」と毎回似たような振り返りをすることはなくなるはずです。
その心に楔を打つ覚悟を持ってほしいと思います。そうやってひとりひとりが自らに楔を打っていったら、いさどんの力はいらないはずなのです。

今日僕は演劇の中で、「あってあるもの、なきてなきもの」という天の存在を演じましたが、それは僕が演じたようなフレンドリーな存在ではありませんよ(笑)。カタカムナ的に言えば、潜象界の存在なのですから、物理性なのです。しかし、それは本当に確固たるものです。その確固たるものが、楔を打つことによって自らの中に揺るぎのない形で現れてくるのです。
そうしたら、今日の大神様の最後のセリフ(『われわれ神とて道を行く者。神とて成長するものなのじゃ。その気になりさえすれば、道はいつでも誰にでも用意されておる。さぁ、二人ともわしと共に参るか?』)のように、皆でそういった心を持って生きていきましょう。そうすると、コメントは人からもらわなくても、ひとりひとり自らの中から湧き出てくるようになります。そうしたら、ここが過去の宗教や御利益をうたっているような団体や、ヤマギシのような存在になることはありません。時代がこれから道を開いていくときに、ふさわしい人々が集う場になっていきます。
これをユートピアと呼ぶのか、菩薩の里と呼ぶのか、いずれにせよ名前は何であれ、ここが掲げている看板通りの場所になっていくことが大切なのです。

そのためには、ひとりひとりが今日の自らの思考と付き合ってみて、それが何であったのかを自分でよく認識し、それを自由自在に自己コントロールできる人になっていくことです。それは強制するものではなく、自由自在に使い分け、そうやって自らの価値を高めていくことができるのです。そして、それを人様に見てもらって、世に示し、我々の役割を果たしていくことになるのです。

僕がこうやって皆に話し、皆がまた僕についていこうとなったら、これは元の木阿弥で何にもなりません。「私の魂はそれを目指して、このような特別な道を歩んでいるのです。あなたの意志に共鳴して、私は自立してこの道を歩んでいきます」とひとりひとりが自覚するきっかけに、くにさんの話も生かしてもらえたらいいと思います。このように自らにけじめある楔を打つ覚悟ができたときに、くにさんのような心のシェアはしなくてもよくなるのです。

今日の演劇のように、劇を通して、それからその背景にあるこの生活を通して、世の中の姿勢を問うていく役割ができます。今日の「貧乏神と厄病神」の劇も、一つの定番劇として今後もやり続けながら、我々の日常生活の姿勢をあの中に滲み出させることが大切だと思うのです。そして、ここだけではなく、色々なところであの劇を見てもらいながら、見た人たちが自らの日常を振り返るきっかけになるような実感のこもったものにこれから仕上げていきたいと思っています。

世の中を見ていると、先日放送されたNHKスペシャル「エネルギーの奔流」でも描かれているように、人間の愚かしさや馬鹿馬鹿しさにあふれています。今日、ヤマギシの調正所の話を聞いていても、本当に馬鹿馬鹿しいと思うのです。ですから、そういったものはたちどころに捨てて、本当に自らの魂が「これだ!」と思える生き方をしなければいけません。そういった時代がすでに来ているのです。何かに執着して囚われていては、いずれ人間は地球に見限られてしまうでしょう。

僕は皆を激励しているわけでも、叱咤しているわけでもありません。ただ、目覚めてほしい。ここにいる人たちが目覚めていくことによって、世の中に新たな時代の生き方のモデルを示していきたいのです。

これは僕の道です。しかし本来、人間誰もが歩むべき道だと僕は考えています。
  
  


STAP細胞からみるトキ・トコロ 〜ノーベル賞より大切なもの〜

STAP細胞問題で、理化学研究所は実験の不正を認定し、小保方さんの処分も検討しています。一時は小保方さん個人のプライバシーに踏み込むほど報道が加熱し、理研の改革にまで話が広がっているこのできごとは、私たちに一体何を教えてくれているのでしょうか。宇宙視点から見てみました!

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*この座談会は、先月行われました。
*座談会には、ファミリーメンバーのようこ、まり姉、ともこ、ゲストのあわちゃん、しゅうくん、じゅんぞうが参加しました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
  
ともこ:
今日のテーマは、「STAP細胞からみるトキ・トコロ」です。一時の報道熱も冷めて、世間の注目度としてはいささか旬を過ぎた感もありますが。

いさどん:
旬を過ぎたと言っても、その結論が持ち越されているだけのことだよ。結論を出さない、もしくは出せないから。だから、その話題が収まった時に、改めてもう一度それが動き出すような考察を出すというのはおもしろいかもね。弦を引っ張って振動させて、振動が収まったからもう一度弦を引っ張るように。

STAP細胞は、僕の感覚で言えば、あります。科学者たちも、理論的にはあるというところで認識してるんじゃないかな。ただ、そのSTAP細胞をどのように作るか、というところで、今回の小保方さんのやり方があまりにも手軽で衝撃的だった。そこには、「そんな簡単にできるわけがない」という認識と、神秘のポケットは意外に身近なところにあるんだよ、という両面がある。
発見というのは、偶然のようにして、本当に身近なところから生まれるでしょう。神秘、つまり神の秘密は、とても身近な日常の中に常に隠されている。それを、科学の世界の人たちは一方通行に難しく考えすぎているんだよ。
逆に、身近にありすぎて近いからこそ、それを捉える視点が固まっていると、つかまえられないものでもある。だから、視点が変わらなきゃいけないんだよ。

ともこ:
今の科学の世界では、同じ条件のもとに実験すれば、「誰でも同じ」結果が得られることが前提になっているよね。STAP細胞は他の人がやっても再現されなくて、結局理研は実験に不正があったと認定した。

いさどん:
それは今の人々の発想だよね。しかし、今の三次元的な、有限な科学の中で、この世界が全てが解明できるだろうか。宇宙は、我々が解明できない仕組みによって創造されているんだよ。
価値観が変わらない限り、その秘密のポケットを見つけることはできない。視点が変われば、どこからでもその秘密は解き明かすことができるんだよ。
これから解き明かされるであろう神秘の扉は、視点を変えることによって生まれてくる。これまでの常識では「ありえへんこと」が起きてくる。その「ありえへん」視点を持つことが大切なんだよ。

ともこ:
科学者たちは彼女の実験を「“科学の常識”からかけ離れている」って言うんだけど、じゃあそもそもその“科学の常識”って何だ、ってことだね。それで全てが解き明かせるかな。

いさどん:
本来科学というのは、それまでの常識を突破することによって、新たな道が開けてきたんだよ。
見えるものと見えないもの、あるものと・・・

ようこ:
ないもの。

いさどん:
いや、そこへ行くと話が広がり過ぎちゃうからやめよう(笑)。

あわちゃん:
2時間はかかるね(笑)。

いさどん:
STAP細胞について考えてみると、まだ未熟な科学者がそんな大それたことをできるわけがない、という考えが周囲にはあると思う。だけどほんのちょっとした視点の変化で、どこにでもある神秘のポケットに出会ってしまった、ということでは、いくらでもあり得ることだよ。若いから、未熟だからということじゃない。
やっぱり「トキ」と「トコロ」、そして人によって扉が開く。そのトキ、つまり旬が来ると、必要に応じて神秘の扉が開いてくるんだよ。

トキというのは、この宇宙が始まって消滅するまで続いていくもの。宇宙は常に、「誕生」「維持」「破壊」そして「空(くう)」を繰り返している。誕生して、それを維持した後に、破壊があって消滅する。そしてある期間、「ない世界」、空がある。そしてまた誕生すると、そこでまたトキが発生する。
それは、トキの流れが、あって、なくなって、あって、なくなる、ということ。トキを過去から未来へ向かう一本のラインだとしたら、破線のようなものだね。

そしてその間にある空の「ない世界」というのは「ない」んだから、トキが終わったところと始まるところには間がある。しかし、「ない」のだから、トキはつながって見えるよね。実態は破線であるけれど、我々のような物質的な認識をする者にとっては、一本の実線として認識されている、ということかな。
この世界も、もしかしたらそうだよ。今この瞬間も、僕は言葉を続けて話しているけれど、その言葉と言葉の間に「ない世界」があるかもしれない。だけどそこを我々が認識してないから、つながっているように感じられる、ということだ。

そしてトキというのは、時代を刻むものでしょう。宇宙は、「誕生」「維持」「破壊」「空」と常に時代を刻む。その中に地球創世の歴史があり、生命が誕生し、進化の過程で人類が生まれ、人類の中で時代はさらに刻まれていく。そして、その時代その時代に相応しい出来事が紡がれていく。
その、時代のあるトキに、ふさわしい出来事が起きる。トキが、その出来事が起きるにふさわしいトコロと出会って、トキとトコロが一致した時に、出来事が起こる。そこを「場」と言うんだよ。
場とは環境だから、起きるにふさわしい人の状態が必要になる。低い意識レベルでは低い現象が起きるし、高い意識レベルには高い現象が起きる。

ようこ:
おなじトキ、同じトコロでも、場は一人ひとり違うものね。

いさどん:
それぞれに相応しいことが起こるんだよ。

ようこ:
ここにトキ・トコロを同じくしている7人がいるけれども、場は一人ひとり違うってことだよね。だからSTAP細胞も、トキ・トコロを同じくしていても場が違うから、できる人とできない人がいる。

いさどん:
そう。トキとトコロは同じでも、意識レベルが違うと、観るものが違う。だから、この場を共有していても、全く違うものを観る場合があるんだよ。
ものごとを起こすのがトキとトコロ、場ということだとしたら、それは一体誰がどうして仕組んだものなのか・・・という話はやめておこう(笑)。

ともこ:
これ、「木の花ファミリー通信」用のインタビューですから(笑)。

ようこ:
その領域を超えちゃうよね(笑)。

いさどん:
それはあったんだからしょうがない、ということにしておこう。

みんな:
そういうことだ!(笑)

いさどん:
最近、新しい扉を開く若い人たちがいるでしょ。ああいった人たちがいっぱい出てくるようになった。それはね、やっぱり時代と共に、そこに生きる人々の視点が変わるから、それにふさわしい人が生まれてくる。
ただ、それはまだ、時代をひっくり返すような大きな枠組みとしてではなくて、部品のように部分的に出て来てるでしょ。スポーツの世界でも科学の世界でも。それは、前兆だよね。それが少しずつ現れてきて、だんだん既存の枠組みが壊れていくと、もっと大きく世界の価値観を逆転するような視点が生まれてくるよ。

先日、2060年に国の債務が8000兆円になるという発表があったんだよ。財務省の審議会がそれを報告したんだけど、すごく馬鹿な計算してるなあ、と思うんだよ。
と言うのは、今の価値観のまま対応をしていって、その延長で債務がたまっていくと8000兆円になるというんだよ。それって、視点が全く変わらないまま、あと50年行くって考えてるのよ。すごく安易でしょ。
今回のSTAP細胞騒動から見えてくるのは、今の科学の世界をリードしている人たちの考え方もそれと同じだということだよ。視点を変える、ということがないんだよ。これからも自分たちの発想の延長に、解明されていくと考えているわけだ。ところが、全く新しい視点がすでに若い人たちの中に現れ出している。

ものが壊れていく時に、予定通り壊れるのか、思いもよらないところから壊れてくるのかと言ったら、思いもよらないところから壊れていくことがあるでしょ。固まってしまっているから、そういう発想ができないんだよ。ものごとの捉え方がフリーじゃない。STAP細胞がたまたまこういう形で現れたというのは、既存の科学のものの捉え方を打ち破るチャンスでもあるんだよ。
アインシュタインの相対性理論は、今では誰にでも理解できるかもしれないけど、じゃあ誰もがそれに気付けたかと言ったら、それはトキ、トコロ、そして人によってもたらされたんでしょう。それはアインシュタインにしかできなかった。でもその神秘のポケットは、日常の中のどこにでもあるんだよ。

ともこ:
ねえねえ、アインシュタインまではさ、そのトキ、トコロの条件がそろって気付きが得られた結果、その結果を誰もが再現できたんだよね?最初は理論だけで、実験で再現できるまでにはタイムラグがあったかもしれないけど、条件が整えば誰でも再現できた。

あわちゃん:
それでも、世間に理解されるまでに確か10年以上かかってるんだよね。

いさどん:
だからね、「わからないけれど生きている~♪」(木の花楽団の歌『信じる心』の一節)ということが、本来の科学のもとにあるわけだよ。そして最終的には、アインシュタインは志村けんにも証明されたわけだよ。

ようこ・まり姉・ともこ:
アイ~~~~ン(笑)。

あわちゃん:
俺、今まじめに考えちゃった・・・。

しゅうくん:
俺も、めっちゃ考えた(笑)。

ともこ:
STAP細胞がおもしろいのは、今の段階では実験で誰もが証明できるものではない、ってところだよ。

いさどん:
だけど、トキとトコロがちゃんと用意されれば、誰でも証明できるようになるはずだよ。そういう概念がこの世界に降りるためには、この今のつまづきが必要だと思うね。

しゅうくん:
今の人からすると「ありえない」ってことだよね。

ともこ:
小保方さんは未熟だったからこそ、STAP細胞を作ることができたんだろうね。変に常識に囚われていなかった。

いさどん:
そう。自分が賢いと思っている人たちは、それ自体がブレーキになってるんだよ。だから、STAP細胞が世に出るのを遅らせた。
こんな言い方をしたら失礼かもしれないけれど、彼女はどこか抜けてるところがあるんだよね。科学者としては未熟。でも、抜けてるところがあるからこそ、その抜けてるところに入ってきたんじゃないかと思うんだよ。隙間があるから風邪を引くようなものでね。完璧に既存の科学のルールに則ってやっているところには、神秘が入ってくる隙間がないんだよ。
歴史上の偉大な発見と言われるものも、みんなそうじゃない?こうなるだろう、とやってみたら、予想とは全く違う思いがけないものが生まれたりするわけでしょう。

ともこ:
そうだよ!過去の偉大な科学者と言われる人たちも、日常のささいなところから発見してるよね。例えば、アルキメデスがお風呂の水があふれるのを見て浮力の原理を発見したとか、ニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有引力は月や惑星にも働いていることを発見したとか、実は私たちが毎日過ごしている日常そのものが、偉大な発見へのメッセージだらけなんだよ。
発見と言っても、それは新しく生まれたものじゃなくて、ただずっとそこにあり続けたものに気付いたってことだよね。だけど普通の人は枠に囚われているから、そこにあるのに気付けないだけなんだよね。

いさどん:
そうだよ。日常の中にあるんだよ。
ただし、目の前のことだけに一生懸命になって他のことを一切考えない人には、そういうことは浮かんでこないよ。きょうこちゃん(ファミリーメンバー)みたいに集中力があって、勉強がバッチリできる人はダメね。一点に集中しすぎて隙間がないから、神秘が入ってこない。
僕はいろいろなことを常に考えているんだよ。何かを見ながら、これってこういうふうにも考えられるな、こういうふうにも考えられるな、って。だから常にダジャレを考えてるんだよ。余分な枝をいっぱい張りながら、本筋を見てるんだよ。

ともこ:
えー、でもそれって人によるんじゃないの。そういうのが得意な人もいれば、一点集中型の人もいるでしょ。

いさどん:
だから、人によるって言ってるのよ。
今、新しい世代が台頭してきてるでしょ。そしてこれから、宇宙視点を持った人たちが現れてくる。その前兆として、この騒動もあると思うんだよ。

ともこ:
小保方さんは天然でSTAP細胞を生み出しちゃった。私たちは、日常の中にひそんでいるメッセージをスルーしまくっちゃってるんだよね。

いさどん:
チャンスは無限にあるんだよ。

あわちゃん:
でも、スルーするー。(チーン)

いさどん:
今のその発想!瞬間に出てきたんでしょ。

あわちゃん:
うん。俺、ダジャレばっか考えてるから。

いさどん:
それは直感の領域だよ。松果体(しょうかたい)が揺れてるんだよ。やっぱり目覚めるためにはダジャレを言うことだよ。

みんな:
しょうか~~(笑)。

いさどん:
そうやって、心を常にやわらかくしておくことだよ。やわらかいということは、その場に留まらない。いつでもトキ、トコロに応じて柔軟に変化できる。風が吹いたら柔軟になびいて、止んだらピッと元へ戻る。
時代はすでに、宇宙時代だからね。地上目線ではなくて、もっと三次元、四次元の立体的で複雑な、目に見える「ある世界」の奥にある「ない世界」を感じていくことだよ。

まり姉:
カタカムナの勉強も、脳の眠っている85%を活性化するきっかけにはなるかもしれないけど、それだって既存の15%の中で解釈をしようとする人にとっては、15%の範囲内での知識になるだけだよね。

いさどん:
もちろんそうだよ。だから、85%の意識レベルに到達しないといけないわけだよ。そうすると、思考の次元が変わってきて、今までの思考の概念が壊れて、新しい視点が生まれてくる。これから、この世界を覆っている古いものが、ガタガタと崩れていくよ。

コノハナ人の考え方は、型や枠を全部取っ払ってしまって、トキ・トコロが来るのを待っている。いつでも、変身できる柔軟性を持ってる。これが宇宙時代を生きる考え方だし、これからますますそうなっていくんだよ。
だから、STAP細胞はあるかないかなんて議論に捉われてる場合じゃないんだよ。そんなの抜きにして、ふっと心を未来に送って観てみれば、あるに決まってるんだよ。その現れ方に対して囚われている人たちが、理屈をこねて、正しいだの正しくないだのって言ってるだけで、大局的な視点から観てみたら、出てくるための産みの苦しみみたいなものだな、と理解することができる。

ともこ:
そうなの。核心のところに議論が行かずに、不正があったとかなかったとか、小保方さんのプライベートなことまでゴシップ的に騒ぎ立てられたりしてて、話し合うべきとこってそこ??って思う。

まり姉:
どうでもいいやんね。

しゅうくん:
でもそういう話題に人は食いつくんだよなあ。

ようこ:
そして小保方さんがうつ病になっていく。世の中がうつ病を生み出してるね。

いさどん:
でも僕は逆に、万能細胞が発見されることがいいとは思わないんだよ。そういったものは人間の悟りにふさわしく現れてくるべきで、もしも人間が悟ってしまえば、あんな画期的な治療方法はいらなくなる。なぜかというと、人間はいずれ生死を超えるものだから。そちらの方が重要なのよ。生きてる、死んでるということは、そんなに重要なことじゃなくなってくるんだよ。

ともこ:
そう。バッシングをする人たちがいる一方で、それの誕生を待っている患者のために一刻も早く研究を進めてほしいという人たちがいるんだけど、実はそれも同じレベルの話だと思うんだよ。病気の治療が目的になってるんだけど、たとえ表面的に病気が治っても、それを生み出す根源的なものから開放されるわけじゃない。

いさどん:
大事なのは、この「生きている」ということを、どう捉えていくか。そして死というものをどう捉えるか。
STAP細胞でも、iPS細胞でも、医療に革命をもたらして、ノーベル賞までもらったりしているよね。だけどね、どうして長生きしたいの?生きる目的は何なの、ということなんだよ。
大切なのは、充実した人生を送るということでしょう。人生の中で、例えば病気に出会ったとしても、充実した人生であれば短い命でも生に未練はないはずだよ。死を通して、とても重要な役割をして死んでいく人もいる。

ただ、STAP細胞のような画期的なものが発見されることによって、命の神秘が説かれる、という効果もあるよね。それで治療すること以上に、命の尊さやメカニズムを知ることによって、生きることの意味を人々が悟ることにもなる。だから全面的に否定するものでもないね。

大切なのは、ものごとの捉え方だよ。死を歓迎しない、忌み嫌う、そういう思考があるから、こういう発見も単なる治療目的や経済効果としてしか考えられない。そして相変わらず、病気になるのは悲しいこと、悪いことのままになっている。
だけど、人は必ず死ぬんだよ。そうしたら、生まれてきたことの意味、生きることの意味、死ぬことの意味を分かることの方が大事じゃない?
その過程の中で、病気の治療というのは、その意味をより深く知るためにあるわけだよ。でも今は、経済効果を上げるネタのように医療が扱われている。
死んでみたらいいんだよ。その先があるから。そして死の先には、また生があるんだよ。この世界は永遠で、高次元の世界には生死の境すらないんだよ。

人々が、生きること、死ぬことの意味を理解すれば、そのことで騒ぐ必要はない。
大切なのは、ノーベル賞を取ることよりも、死生観を悟ること。悟るってことは、人生のノーベル賞を得るってことだよ。全ての人に、ノーベル賞の可能性があるんだよ。
  
  

※「チーン」とは:
木の花ファミリーでは、誰かがダジャレを発した時に「チーン」とベルを鳴らしています。
ダジャレには、凝り固まった場のアイスブレイク、視点の多角化、ゆとりの創出など様々な効能があります。最近では、誰か(主にいさどん)がダジャレを発する前に空気で察して構えてダジャレが発されると同時に「チーン」を鳴らすという、阿吽の呼吸探求のツールとしても注目を集めています。また、大人ミーティングでうたた寝をしてしまうメンバーの眠気覚ましとしての効果もあります。

大人ミーティングや座談会に欠かせない存在・「チーン」
大人ミーティングや座談会に欠かせない存在、「チーン」

  
  


危機を感じられない人間たちへ ~直感を働かせるには?~

いさどん:
今の社会の人々は、起きた出来事に追われている。起きた出来事を処理しようとして、それに追われ続けているんだよ。

たとえば、今ニュースになっている集団的自衛権。圧倒的多数の与党は、このチャンスに集団的自衛権を行使できるようにしようとしているのだけれど、自民党と公明党では立場が違う。自民党は、軍事力を維持し他国との軍事バランスをとることが、国を守って平和を維持することになると考えている。公明党は、支持母体が創価学会だから、戦争を容認するような立場に立つことには宗教上、反対の立場を取っている。それでは信者からの支持が得られないからね。そこには、立場のせめぎ合いがあるんだよ。
集団的自衛権が必要だという言う人たちは、外に脅威の勢力があると考えている。北朝鮮とか、中国とか、ウクライナのことがあって中国と近付いているロシアとかね。それで対抗勢力のアメリカにごまをする。そうやって起きていることへの対処ばかりして、もぐら叩きのようなことをやっている。

しかし、なぜ人間は争わなければいけないのか。どうすれば争う必要がなくなるのか。それにはどういう視点を持つことが必要なのか、ということを考える方が先決だと思うんだよ。

国家を個人に例えると、アメリカでも中国でも、どこの国もすごく性格が悪いでしょ。自らの国益ばかりを考えている。そうやって考えていくと、明快に問題点が見えてくるのに、それに対処ができない、だから僕は、手応えがないことを感じて、むなしくなる。

そのような人間たちが創っている今の地球は、明らかに気候もおかしくなってきているのに、人々はあまり危機を感じていない。しかし、じわじわとその危機は迫ってきている。それは「いつ来るのかな」というものではなく、すでに来ているのに、こういう状態なんだよ。

ともこ:
やっぱり、鈍いんだね。

いさどん:
鈍い・・・それは鈍いとも言えるけど、何だろうね、やはり、ものが観えていない。何かに汚染されているような、観るべきものが観えていない状態。目が、意識が、何かに囚われている状態だよ。
よくあるでしょう。お酒が欲しくて仕方のない人は、頭の中にお酒しかなくて、生活そのものがお酒になっている。お酒に関することしか考えないし、お酒に関するものしか見えない。他のものが目に入っても、そこに意識が行かないんだよ。
お金にしろ欲望にしろ、それと同じことが言える。自分に近いものに執着して、意識がフリーになっていないんだよ。意識がフリーになったら、全体を冷静に観ることができて、おかしな部分に気付くようになる。

これだけ危機的な状況についての情報がたくさんあるのに、人々は危機感を持っていない。それは、直感が働いていないんだよね。
直感というのは、思考を超えたもの。危機を感じると、直感が働くようになるでしょう。場合によっては火事場の馬鹿力が出ることもある。しかし、それが働かないのは、何かに汚染されて麻痺している状態だから、危機が感じられないでいる。それは何か麻薬のような価値観に、汚染されているんだよ。

そこで、どうするか。
これほど麻痺してしまっている状態を危機と感じない人たちがいるのは、どうしてそうなってしまったのか。

木の花の暮らしの中では、協同することが実現していて、調和が実現しているでしょう。個人の欲求や血縁など、いろいろなものを超越することもできている。
それは今の社会が抱えている危機を乗り越える、もしくは危機を生み出さないための要素で、それがここに実現しているんだよ。だからそれを大切にしなければいけないのに、社会はボケている状態でその価値がわからないから、場合によっては社会と違うということでバッシングして来るんだよ。
すごくボケているでしょう。週刊誌は「こういう生き方があるんだよ」とそれを大切にしなければいけない。ましてやエコな暮らしを大切にしようという業界の人たちは、自分たちがやれないことをここがやっているのだから、これを見本として世の中に広めていかなければいけないのに、逆のことをやっているんだよ。
これってすごく鈍いと思わない?何か人間の中に、人工的なことをやり過ぎてしまって、麻痺してしまっているものがあるんだよ。だから、情報網は高度に発達したのに、そのたくさんの情報の中から何が大切かを読み取れない状態になっている。

ともこ:
なぜだろうね?

いさどん:
それは一言で言うと、欲に汚染されてしまっているということだよ。違う言い方をすれば、自らの中の価値に執着してその欲に汚染され、冷静かつ客観的な目線が麻痺しているということだろう。
自由というのは、自らの思考の位置を、自分に取り込まれずに客観的な視点から見て、どこにも取り込まれない状態ですべてを情報として観ることなんだよ。
自由という概念は、生きる上で得るものでしょう。生きているから表現できる。例えば、死ぬことは絶対で、そこに自由はないよね。生まれることも、気が付いたら生まれているのだから、そこにも自由はない。でも、その生まれてから死ぬまでの間に自由があるんだよ。

その自由を、どう解釈して、どのように使い切るか。自由は、不自由と不自由の間にあるものでしょう。生まれることと死ぬことの間にある自由を、どのように自由として表現するか。
自由でない状態、つまり不自由というのは、囚われている状態でしょう。では、何に囚われているのかというと、視点に囚われている。価値観に囚われている。一番囚われるのは、自分という存在(立場)だよ。
生きている時に何が不自由かといったら、この世界はこれほど多様なのに、自分という肉体に封印されているわけでしょう。そうしたらまず、思考をする時に自分という肉体から出た視点を持つことはできるんだよ。
その、自分の枠から外れたところに視点を持って、自分と他者を平等に観るってことさ。平等に観ることは、一つひとつの出来事を情報として観て、それぞれの立ち位置から来る価値も情報として捉えるということ。そうやって眺めてみると、自分という殻の中から見て囚われていた時の目線から離れることができるでしょう。そうすれば、全ての出来事、価値観を平等に現象(物理性)として捉えることが出来る。次への選択をする時に、自由がある。実は、自由にできるのはそこだけなんだよ。つまり、自らに囚われない自由な視点を持つことが、本当の自由なんだよ。

それ以外は、政府の話も、企業の話も、個人の話も、全てそれぞれの自らの立場を守ろうとして、それで不自由をやっている。それでは冷静な判断ができないし、立場ごとの違いを見て対立するから、対立が起きる。その危機は何のために起きるかと言うと、つながっていくことの大切さを示すために起きているのだよ。
例えば、環境だったら人間の行いと自然のあり方とか、戦争だったら国家と国家の立場ごとの価値観の違いが自由に観られていないから、国益の主張の元にそれが起きている。

今回のバッシングにしても、まず「エコビレッジの概念はこうだ」というものがある。木の花は、自由に世界を展開してきて、ある意味、執着や囚われという不自由から解放して自由な人間をつくるために、それを手助けしながらやってきた。あれがしたい、これがしたい、というのは囚われで、自由ではないのだから、それをやめなさい、ということを伝えてきた。そうしたら、「木の花は自由にさせてくれない」と反対のことを言うんだよ。
自らの立場から見える価値に執着して、自由をはき違えている。そしてその自由を奪われることを恐怖に思って、怒ったり攻撃したりする。

ともこ:
その心が全然自由じゃないね。

いさどん:
この間週刊誌の記者と話していて、この人たちの仕事は不幸だなあと思ったんだよ。社会の攻撃の対象を見つけて、それを掘り起こして、賢いから法律上攻撃されないように巧妙に、人の興味をそそり、汚らしく仕立てて表現しようとするんだよね。より良い社会を築くとか、人の心が調和していくようにということを目指してやっていないんだよ。本当は、出来事の奥にある本質を読み解いて、それをより良い社会に生かしていけば、その人の精神から雲が取れ、晴れてくる。
それをずっと職業としてやっていくと、人間が汚れて自己矛盾が発生する。だけど彼らは、仕事だから仕方がない、という顔をしているんだよね。だから、これは本当じゃない、という思いは、どこか彼らの中にもあるんだよ。だけどそれをやり続けている。
そして、彼らに情報を提供している人たちは、それが正義だと思って情報を提供しているんだよね。しかし、それは表面的な出来事の捉え方で、本質を観る目は麻痺している状態だよ。

そういったことを考えた時に、こんなに情報があって、賢明な選択がいくらでもできるのに、むなしくなるのは、人々の中に賢明な選択をする自由が育っていないんだよ。

ともこ:
私ね、もともとすごく不安定で何かあるとすぐ泣いていたのに、何で今こんなに穏やかで確信を持って生きていられるんだろうかって考えたら、いさどんを通して、その自由自在さに触れたからだと思うの。

いさどん:
あなたも、自分に囚われていたからね。それも、自分の考え方に囚われていたんじゃなくて、トラウマのように、考える前に染みついてしまっている色に汚染されていたから、自分はそういうつもりじゃなくても、何かを思考しようとする前に涙が出てくる。それが染みついている状態だったね。

ともこ:
その染みついていたものを、何の色もない無色透明の世界に触れることで、いったんバラバラにしてもらったんだと思うんだよ。
本物の愛は、無色透明の世界なんだよね。何かを「やさしい」というのは「やさしくない」何かがそこにあるから。やさしいとかやさしくないとかいう判断も人間による色付けで、全てがニュートラルな愛そのものの世界ではそんな判断すらいらなくなる。そういう透明な世界に触れたことで、自分自身の色が浮き出て、知らない間にバラバラにしてもらった。

いさどん:
あなたは、自由な心に触れたんだよ。自由な存在というものが持つ爽やかさを感じた。その風に触れた、ということだよ。

ともこ:
ここを離れて行った人たちは、バラしていく途中で出て行ったんだね。

いさどん:
バラす作業をしている時は、本人もバラされて納得していた。だけどしばらくすると、また自分流に組み立ててしまう。バラしても、その奥に、元へ戻ろうとする力が働いていたんだと思うんだよ。結局その力が勝ってしまった。

ともこ:
それって、ここを出て行った人たちだけじゃないよね。外から来るゲストでも、ここに触れている間はバラされることに心地良さを感じていても、離れればまた元に戻ってしまう。

いさどん:
ヤマギシの人も、ここに来てバラされるのだけど、元に戻るとまたヤマギシ流に組み立て直される。
だから、1度完全に切れなきゃいけないね。ゴムみたいに伸ばして、つかんだつもりになっても、力を緩めるとゴムはぴゅっと戻って離れてしまう。そうじゃなくて、その価値観を一度切ってしまわないといけない。それを「壊す」と言うんだよ。それができていなかった。
そのときに、自分を壊す勇気が、あるかどうかだけどね。

ようこ:
地球を壊す前に、まずは自分を壊す勇気があるかどうかだね。

いさどん:
自我の根っこのところに、ゴムのヒモがくっついているんだよ。
では、どこにそのヒモをくっつけたらいいのかと言ったら、自我ではなく、視点をこの世界全体や天など、できるだけ広い方に持っていけばいい。自我という自らの価値観に縛られている世界観から、家族、会社、国家、人類、地球生態系、太陽系、銀河、宇宙全体へ。世界の中にも現象界と潜象界があり、一番奥に神々がいる。それがこの世界の実態だよ。だから、自我をつなぎとめる鎖というか、ヒモの先をどこへつなげるのか。
自我が発生するところに持っていったら、自我だけで生きてしまう。自我を、家族のために、国家のためにというようにだんだん広げていくと、その自我は、そのもとになるところから来る風によって、どんどん広がっていく。この構造、わかる?

ようこ:
わかる。それが天につながったら、もう直感人間だよね。

いさどん:
そうだよ。だから、それが狭ければ狭いほど、立場や欲に捉われてしまうんだよ。そして、それが広く大きくなればなるほど、それは自我が大きくなったというだけのことだからね。恐れることはないんだよ。
自由と言ったって、肉体を持って生きていることは、結局宇宙の中の存在でいるしか仕方がないんだよ。それも不自由なことだけどね。

だから最終的には、肉体はこの地球生態系の中に、微細にして還元する。これが死だよね。そして魂は、超微細になって、アマハヤミ(思念の速度、光の速度の10の64乗倍)の力に乗って、宇宙全体に完全にちりばめられる。それが、もとの状態に戻るということ。
そして、それがまた縁によって集まって、満つって、それが限界まで来ると、成って、この世界、つまり現象界に戻ってくる。

今の地球世界には、もうすでに危機が迫っているのに、それが感じられない世の中や、自らの愚かしさや矛盾に気付けない者たちへのメッセージは、その前の段階の話だよね。

ようこ:
私は今日の話を聞くまで、直感人間になるには、直感が内から湧いて来たり外から降りてくるように、日々の心磨きが大切だと思っていて、それはそうだと思うんだよね。でも、今のいさどんの話を聞いていたら、自分を天というところまで一体化すれば、天の思考がそのまま自分の思考になって、それ自体が直感だと思ったの。それはある意味、一瞬にしてできることだ!と思った。

いさどん:
そうだよ。悟りは隣にあるのだから。だから、直感人間になることは、実は一瞬にしてできるんだよ。