本来、人間誰もが歩むべき道

木の花ファミリーでは、月に一度お誕生日会があります。今月は、いさどんのアイデアを元にして創った木の花劇団のオリジナル劇『貧乏神と疫病神』が上演されました。

IMG_5585
木の花劇団による『貧乏神と疫病神』

『貧乏神と疫病神』
うつ病を治すため、木の花ファミリーに「ケア滞在」をしにやって来た健一。実は健一には貧乏神と疫病神がついており、そのことを知った健一は、ある決心をして貧乏神と疫病神に会いに行きます ――――
こちらより、動画をご覧いただけます!
 
この日は、うつ病と統合失調症を抱えて以前木の花にケア滞在をしていたMくんが、「もう一度木の花で病気の克服に挑戦したい」と再びケア滞在をスタートさせた日でもありました。
そしてその夜の大人ミーティングで、メンバーのくにさんが大事なことをおろそかにしていたという心のシェアをした後に、いさどんは次のように語りました。
 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
今日のお誕生日会では、木の花劇団が「貧乏神と厄病神」の演劇を行いました。これは、以前から僕のイメージの世界にある真実です。それを何かの形で表現することが出来たらと思っていました。
今回こういった形で提案してそれが実現したのですが、この演劇を定番のものとしていきながら、観ている人にとって日常の中に落としてもらえるようなものにしていきたいと思っています。

ここではケア滞在される人の心の問題を取り上げ、それをあのような形で紐解き表現したのですが、これは大きな枠で捉えれば、国の問題、地球規模の問題であり、人間が持っている本質を個人という一番身近なところで捉えたものです。そして、今日からMくんがケア滞在をスタートしたように、ここには難しい問題を解決できる素養があるのです。
Mくんは、「僕は木の花であれば改善することができると思います」と言っていますが、医者には「あなたの病気は治らないので、これから一生薬を飲み続けていくのですよ」と言われたそうです。それは現代医療の視点から見るとその通りなのですが、そうではない視点、つまり元々人間は、天から降りてきた段階では完全なもののはずなのです。しかし、地上世界で色々なことに囚われていった結果、それが染みついて取れない状態になっていくのです。

今日、ヤマギシのFさんとTさんと、2時間ばかり話したのですが、彼らは長年の姿勢が染みついてしまっています。僕はこれと同じことをケアの人や準ケアの人たち、あるいは自らを立て直さないといけない人にも感じています。
僕はそういった人たちと日記でやりとりをしているのですが、良い感じになったとしても、人間は面白いもので、自らを越えていくところではすごく抵抗するのです。彼らはそこを越えていくと自らを失ってしまうと感じるほど、自分自身を所有しています。ヤマギシの人たちでも、問題を抱えている人たちでもMくんもそうですが、自らを大事にする心と自らに執着する余分な心が自分に何をもたらすのか、そのギャップに気が付かないといけないと思うのです。

執着がなくなれば、そこを越えることは簡単な話で、今まででも越えてきたのですからそこを大切にしていけばいいと思うのです。しかし、人というのは本質のところへ行くと、自らに囚われ、それを失ったら自分らしくなくなると思ってしまうのです。囚われの自分を持っていて、そのしょうもない自分が自分らしいと思っているようなところがあるのです。

今日、くにさんが「また同じ心が出ました」とシェアした話も同じことです。結局、一番ポイントのところへ行くと、自らを抱え込んでそこから抜け出そうとしない。ですから、そういった段階へ至ると、同じことを繰り返すのです。

ヤマギシに対しても、どれほど賢明な話を今までしてきたのでしょうか。そしてそれを受けて、Fさんも「ここまで言ってくれる人は他にはいない」と思って今日ここに来たのですが、結果として彼の姿勢を問うと、彼も自らのこととなるとそこを越えていこうとしないのです。
昨日の大人会議で、Tさんは「ファミリーになる」と言っていましたが、それがどういう意味なのかよくわかりません。彼女流のスタンスでそういった発言をしているのだと感じ、僕も疑心暗鬼の状態なのです。今日面談の時にTさんは、「来月は10日間来ます」と言っていましたが、その意図もよくわかりません。そういうふうに、人間はとても中途半端な状態で自らを守ろうとするのです。

(ヤマギシ会の創設者である)山岸巳代蔵さんは、心に濁りがあって駆け引きがあり、人間としてはそれほど美しい人ではなかったと思います。ただ、天とつながっていたことは確かでしょう。あとは時代が時代でしたから、方向性だけつけて後はヤマギシの村人に委ねたのです。その歴史の中で、後の人々は一番元の揺るぎなきものから外れてしまったのでしょう。だから、今は元が何であったのかを失ってしまっている状態なのです。
僕は山岸さんの元の志を復活させようという想いで、これまでヤマギシに関わってきました。それは、ここにいる皆に今、伝えていることと同じで、ヤマギシの人たちが目覚めて、山岸さんの精神を直感で継承していく。木の花の皆が僕にずっと頼りきりになるのではなく、ひとりひとりが直感に目覚め、僕がひいた道をひとりひとりが自らの意志で歩んでいくことと同じなのです。

僕は演劇の中で大神様役をやらせてもらいましたが、天から人間の世界を観て、「目覚めて上がってきなさい。そのように仕掛けはしてあるぞ」と伝えています。しかし、人間はそのことになかなか気が付きません。そして、上に上がってくる道があるにもかかわらず、下に落ちていく者がいるのです。
僕はそういった者がいることに対し呆れて、「好きにすればいい」という心境でもあります。ただ、ハードルは越えられるものですから、貧乏神と厄病神と仲良くしていた健一がそうでない健一に変身したように、それを誰にもやってもらいたいとも思っています。

事実、ここにいる皆は、ここの生活が何であるかを知っていると思うのです。外でここをおとしめようとしている人たちや、その情報を受けて週刊誌が書いた内容を鵜呑みにする人たちの現象とは違うものが、ここにはあります。それは簡単な言い方をすれば、全く別世界がここに表現されているのです。
しかし、「捉え方によっては全く別世界なのです」と伝えてもそれは通用しません。なぜかと言うと、人が伝えようとする心にのっとって聞こうとする心が、人にはなかなかないからです。つまり、自らの癖でしか受け取らないからです。人間はそういった性質を持っていて、頑なに自らを守ろうとするところがあるのです。

そういった自分に囚われている限り、人間は自らを超えて生きることができません。ここが「菩薩の里」という看板を揚げ、そこが越えられないようなことなら、ヤマギシの二の舞です。しかし、我々はヤマギシを知って、さらに世の中の色々な矛盾を知り、そこを越えていって、世の中が開かれるためにこういった生き方をしているのです。

今のくにさんの話でも他の人のことでもそうですが、自らを越えていくために人生をもらい、ましてやここの人として世の中の為に生きていることを考えたら、ここの人である自覚が足らないと僕は思うのです。僕は色々なケースを通じて同じことを語ってきているのですが、今日もそういったことについて、ヤマギシは看板を掛け違えて来たのか、それとも看板を忘れて全く別世界を生き世間以下になっているのか、と伝えました。
そういったことを考えると、木の花でも、いさどんがいなくなったらヤマギシ化する可能性があるのです。ただし、その前例があってそれを理解しているからこそ、我々はそうならない道を歩んでいるのです。ヤマギシがあるのも我々のためでもあるし、我々のためということは世の中のためでもあるのです。

今、ここの真実とは全く違うような表現でここの存在が社会に出されたことは、観方によっては我々を鍛えてくれています。そして、それだけ世の中に知らしめられたことによって、我々を鍛えてくれたあかつきに、「真実は何であるのか」をいつか世の中に示す下地ができたということでもあるのです。

先日、テレビの報道特集で、松本サリン事件が取り上げられていました。その中で河野さんのことが出ていたのですが、当時の警察は彼が犯人だと決めつけていたのです。しかし、今になって長野県警の責任者が捜査のずさんさを語っていました。結果、真実が明らかにされているわけです。ところが、彼は一時本当に犯人のように扱われていました。

我々も、ある意味今は、それこそ悪であり、犯罪者扱いです。しかし、実際ここで生活していれば、真実が何であるのかはわかることです。それは、我々が一番よく知っています。
その匂いを嗅ぎつける人を我々は安易に求めているわけではありませんが、Aさんのようにここのことを信頼して支援し続けてくださる方もいます。そうやって真実を観ようとする人はいるのです。我々が真実であることを確信していたら、そういった人たちは我々を社会のバッシングから守るために必ず存在してくれるのです。

人々の心の中には、人としての地上目線や、人智でものを考える価値観が当然あるのですが、人は元々天から降りてきた真理の元にある者です。そこに意識がつながっている者たちは、そこからここが本物であってほしいと願う心はあるわけです。そうしたら、我々はそれを受けて生きていくことが大切なのであり、中途半端に生きていたら意味がないのです。だからこそ、とことんやりきったときに、「私たちにはできないことをやってくれているのだ」といずれ理解され、ここが木の花(個の花)を咲かせることになるのです。

最も大切なことは、我々の心の中にある真実です。これは走馬灯のように思考が巡って忘れ去られるものではなく、真実としてあり続けるものなのです。そのもとに自らがあるとして、確固たる覚悟を持って日々を生きていったら、くにさんのように「また同じ心が出ました」と毎回似たような振り返りをすることはなくなるはずです。
その心に楔を打つ覚悟を持ってほしいと思います。そうやってひとりひとりが自らに楔を打っていったら、いさどんの力はいらないはずなのです。

今日僕は演劇の中で、「あってあるもの、なきてなきもの」という天の存在を演じましたが、それは僕が演じたようなフレンドリーな存在ではありませんよ(笑)。カタカムナ的に言えば、潜象界の存在なのですから、物理性なのです。しかし、それは本当に確固たるものです。その確固たるものが、楔を打つことによって自らの中に揺るぎのない形で現れてくるのです。
そうしたら、今日の大神様の最後のセリフ(『われわれ神とて道を行く者。神とて成長するものなのじゃ。その気になりさえすれば、道はいつでも誰にでも用意されておる。さぁ、二人ともわしと共に参るか?』)のように、皆でそういった心を持って生きていきましょう。そうすると、コメントは人からもらわなくても、ひとりひとり自らの中から湧き出てくるようになります。そうしたら、ここが過去の宗教や御利益をうたっているような団体や、ヤマギシのような存在になることはありません。時代がこれから道を開いていくときに、ふさわしい人々が集う場になっていきます。
これをユートピアと呼ぶのか、菩薩の里と呼ぶのか、いずれにせよ名前は何であれ、ここが掲げている看板通りの場所になっていくことが大切なのです。

そのためには、ひとりひとりが今日の自らの思考と付き合ってみて、それが何であったのかを自分でよく認識し、それを自由自在に自己コントロールできる人になっていくことです。それは強制するものではなく、自由自在に使い分け、そうやって自らの価値を高めていくことができるのです。そして、それを人様に見てもらって、世に示し、我々の役割を果たしていくことになるのです。

僕がこうやって皆に話し、皆がまた僕についていこうとなったら、これは元の木阿弥で何にもなりません。「私の魂はそれを目指して、このような特別な道を歩んでいるのです。あなたの意志に共鳴して、私は自立してこの道を歩んでいきます」とひとりひとりが自覚するきっかけに、くにさんの話も生かしてもらえたらいいと思います。このように自らにけじめある楔を打つ覚悟ができたときに、くにさんのような心のシェアはしなくてもよくなるのです。

今日の演劇のように、劇を通して、それからその背景にあるこの生活を通して、世の中の姿勢を問うていく役割ができます。今日の「貧乏神と厄病神」の劇も、一つの定番劇として今後もやり続けながら、我々の日常生活の姿勢をあの中に滲み出させることが大切だと思うのです。そして、ここだけではなく、色々なところであの劇を見てもらいながら、見た人たちが自らの日常を振り返るきっかけになるような実感のこもったものにこれから仕上げていきたいと思っています。

世の中を見ていると、先日放送されたNHKスペシャル「エネルギーの奔流」でも描かれているように、人間の愚かしさや馬鹿馬鹿しさにあふれています。今日、ヤマギシの調正所の話を聞いていても、本当に馬鹿馬鹿しいと思うのです。ですから、そういったものはたちどころに捨てて、本当に自らの魂が「これだ!」と思える生き方をしなければいけません。そういった時代がすでに来ているのです。何かに執着して囚われていては、いずれ人間は地球に見限られてしまうでしょう。

僕は皆を激励しているわけでも、叱咤しているわけでもありません。ただ、目覚めてほしい。ここにいる人たちが目覚めていくことによって、世の中に新たな時代の生き方のモデルを示していきたいのです。

これは僕の道です。しかし本来、人間誰もが歩むべき道だと僕は考えています。
  
  


STAP細胞からみるトキ・トコロ 〜ノーベル賞より大切なもの〜

STAP細胞問題で、理化学研究所は実験の不正を認定し、小保方さんの処分も検討しています。一時は小保方さん個人のプライバシーに踏み込むほど報道が加熱し、理研の改革にまで話が広がっているこのできごとは、私たちに一体何を教えてくれているのでしょうか。宇宙視点から見てみました!

140506-152821
*この座談会は、先月行われました。
*座談会には、ファミリーメンバーのようこ、まり姉、ともこ、ゲストのあわちゃん、しゅうくん、じゅんぞうが参加しました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
  
ともこ:
今日のテーマは、「STAP細胞からみるトキ・トコロ」です。一時の報道熱も冷めて、世間の注目度としてはいささか旬を過ぎた感もありますが。

いさどん:
旬を過ぎたと言っても、その結論が持ち越されているだけのことだよ。結論を出さない、もしくは出せないから。だから、その話題が収まった時に、改めてもう一度それが動き出すような考察を出すというのはおもしろいかもね。弦を引っ張って振動させて、振動が収まったからもう一度弦を引っ張るように。

STAP細胞は、僕の感覚で言えば、あります。科学者たちも、理論的にはあるというところで認識してるんじゃないかな。ただ、そのSTAP細胞をどのように作るか、というところで、今回の小保方さんのやり方があまりにも手軽で衝撃的だった。そこには、「そんな簡単にできるわけがない」という認識と、神秘のポケットは意外に身近なところにあるんだよ、という両面がある。
発見というのは、偶然のようにして、本当に身近なところから生まれるでしょう。神秘、つまり神の秘密は、とても身近な日常の中に常に隠されている。それを、科学の世界の人たちは一方通行に難しく考えすぎているんだよ。
逆に、身近にありすぎて近いからこそ、それを捉える視点が固まっていると、つかまえられないものでもある。だから、視点が変わらなきゃいけないんだよ。

ともこ:
今の科学の世界では、同じ条件のもとに実験すれば、「誰でも同じ」結果が得られることが前提になっているよね。STAP細胞は他の人がやっても再現されなくて、結局理研は実験に不正があったと認定した。

いさどん:
それは今の人々の発想だよね。しかし、今の三次元的な、有限な科学の中で、この世界が全てが解明できるだろうか。宇宙は、我々が解明できない仕組みによって創造されているんだよ。
価値観が変わらない限り、その秘密のポケットを見つけることはできない。視点が変われば、どこからでもその秘密は解き明かすことができるんだよ。
これから解き明かされるであろう神秘の扉は、視点を変えることによって生まれてくる。これまでの常識では「ありえへんこと」が起きてくる。その「ありえへん」視点を持つことが大切なんだよ。

ともこ:
科学者たちは彼女の実験を「“科学の常識”からかけ離れている」って言うんだけど、じゃあそもそもその“科学の常識”って何だ、ってことだね。それで全てが解き明かせるかな。

いさどん:
本来科学というのは、それまでの常識を突破することによって、新たな道が開けてきたんだよ。
見えるものと見えないもの、あるものと・・・

ようこ:
ないもの。

いさどん:
いや、そこへ行くと話が広がり過ぎちゃうからやめよう(笑)。

あわちゃん:
2時間はかかるね(笑)。

いさどん:
STAP細胞について考えてみると、まだ未熟な科学者がそんな大それたことをできるわけがない、という考えが周囲にはあると思う。だけどほんのちょっとした視点の変化で、どこにでもある神秘のポケットに出会ってしまった、ということでは、いくらでもあり得ることだよ。若いから、未熟だからということじゃない。
やっぱり「トキ」と「トコロ」、そして人によって扉が開く。そのトキ、つまり旬が来ると、必要に応じて神秘の扉が開いてくるんだよ。

トキというのは、この宇宙が始まって消滅するまで続いていくもの。宇宙は常に、「誕生」「維持」「破壊」そして「空(くう)」を繰り返している。誕生して、それを維持した後に、破壊があって消滅する。そしてある期間、「ない世界」、空がある。そしてまた誕生すると、そこでまたトキが発生する。
それは、トキの流れが、あって、なくなって、あって、なくなる、ということ。トキを過去から未来へ向かう一本のラインだとしたら、破線のようなものだね。

そしてその間にある空の「ない世界」というのは「ない」んだから、トキが終わったところと始まるところには間がある。しかし、「ない」のだから、トキはつながって見えるよね。実態は破線であるけれど、我々のような物質的な認識をする者にとっては、一本の実線として認識されている、ということかな。
この世界も、もしかしたらそうだよ。今この瞬間も、僕は言葉を続けて話しているけれど、その言葉と言葉の間に「ない世界」があるかもしれない。だけどそこを我々が認識してないから、つながっているように感じられる、ということだ。

そしてトキというのは、時代を刻むものでしょう。宇宙は、「誕生」「維持」「破壊」「空」と常に時代を刻む。その中に地球創世の歴史があり、生命が誕生し、進化の過程で人類が生まれ、人類の中で時代はさらに刻まれていく。そして、その時代その時代に相応しい出来事が紡がれていく。
その、時代のあるトキに、ふさわしい出来事が起きる。トキが、その出来事が起きるにふさわしいトコロと出会って、トキとトコロが一致した時に、出来事が起こる。そこを「場」と言うんだよ。
場とは環境だから、起きるにふさわしい人の状態が必要になる。低い意識レベルでは低い現象が起きるし、高い意識レベルには高い現象が起きる。

ようこ:
おなじトキ、同じトコロでも、場は一人ひとり違うものね。

いさどん:
それぞれに相応しいことが起こるんだよ。

ようこ:
ここにトキ・トコロを同じくしている7人がいるけれども、場は一人ひとり違うってことだよね。だからSTAP細胞も、トキ・トコロを同じくしていても場が違うから、できる人とできない人がいる。

いさどん:
そう。トキとトコロは同じでも、意識レベルが違うと、観るものが違う。だから、この場を共有していても、全く違うものを観る場合があるんだよ。
ものごとを起こすのがトキとトコロ、場ということだとしたら、それは一体誰がどうして仕組んだものなのか・・・という話はやめておこう(笑)。

ともこ:
これ、「木の花ファミリー通信」用のインタビューですから(笑)。

ようこ:
その領域を超えちゃうよね(笑)。

いさどん:
それはあったんだからしょうがない、ということにしておこう。

みんな:
そういうことだ!(笑)

いさどん:
最近、新しい扉を開く若い人たちがいるでしょ。ああいった人たちがいっぱい出てくるようになった。それはね、やっぱり時代と共に、そこに生きる人々の視点が変わるから、それにふさわしい人が生まれてくる。
ただ、それはまだ、時代をひっくり返すような大きな枠組みとしてではなくて、部品のように部分的に出て来てるでしょ。スポーツの世界でも科学の世界でも。それは、前兆だよね。それが少しずつ現れてきて、だんだん既存の枠組みが壊れていくと、もっと大きく世界の価値観を逆転するような視点が生まれてくるよ。

先日、2060年に国の債務が8000兆円になるという発表があったんだよ。財務省の審議会がそれを報告したんだけど、すごく馬鹿な計算してるなあ、と思うんだよ。
と言うのは、今の価値観のまま対応をしていって、その延長で債務がたまっていくと8000兆円になるというんだよ。それって、視点が全く変わらないまま、あと50年行くって考えてるのよ。すごく安易でしょ。
今回のSTAP細胞騒動から見えてくるのは、今の科学の世界をリードしている人たちの考え方もそれと同じだということだよ。視点を変える、ということがないんだよ。これからも自分たちの発想の延長に、解明されていくと考えているわけだ。ところが、全く新しい視点がすでに若い人たちの中に現れ出している。

ものが壊れていく時に、予定通り壊れるのか、思いもよらないところから壊れてくるのかと言ったら、思いもよらないところから壊れていくことがあるでしょ。固まってしまっているから、そういう発想ができないんだよ。ものごとの捉え方がフリーじゃない。STAP細胞がたまたまこういう形で現れたというのは、既存の科学のものの捉え方を打ち破るチャンスでもあるんだよ。
アインシュタインの相対性理論は、今では誰にでも理解できるかもしれないけど、じゃあ誰もがそれに気付けたかと言ったら、それはトキ、トコロ、そして人によってもたらされたんでしょう。それはアインシュタインにしかできなかった。でもその神秘のポケットは、日常の中のどこにでもあるんだよ。

ともこ:
ねえねえ、アインシュタインまではさ、そのトキ、トコロの条件がそろって気付きが得られた結果、その結果を誰もが再現できたんだよね?最初は理論だけで、実験で再現できるまでにはタイムラグがあったかもしれないけど、条件が整えば誰でも再現できた。

あわちゃん:
それでも、世間に理解されるまでに確か10年以上かかってるんだよね。

いさどん:
だからね、「わからないけれど生きている~♪」(木の花楽団の歌『信じる心』の一節)ということが、本来の科学のもとにあるわけだよ。そして最終的には、アインシュタインは志村けんにも証明されたわけだよ。

ようこ・まり姉・ともこ:
アイ~~~~ン(笑)。

あわちゃん:
俺、今まじめに考えちゃった・・・。

しゅうくん:
俺も、めっちゃ考えた(笑)。

ともこ:
STAP細胞がおもしろいのは、今の段階では実験で誰もが証明できるものではない、ってところだよ。

いさどん:
だけど、トキとトコロがちゃんと用意されれば、誰でも証明できるようになるはずだよ。そういう概念がこの世界に降りるためには、この今のつまづきが必要だと思うね。

しゅうくん:
今の人からすると「ありえない」ってことだよね。

ともこ:
小保方さんは未熟だったからこそ、STAP細胞を作ることができたんだろうね。変に常識に囚われていなかった。

いさどん:
そう。自分が賢いと思っている人たちは、それ自体がブレーキになってるんだよ。だから、STAP細胞が世に出るのを遅らせた。
こんな言い方をしたら失礼かもしれないけれど、彼女はどこか抜けてるところがあるんだよね。科学者としては未熟。でも、抜けてるところがあるからこそ、その抜けてるところに入ってきたんじゃないかと思うんだよ。隙間があるから風邪を引くようなものでね。完璧に既存の科学のルールに則ってやっているところには、神秘が入ってくる隙間がないんだよ。
歴史上の偉大な発見と言われるものも、みんなそうじゃない?こうなるだろう、とやってみたら、予想とは全く違う思いがけないものが生まれたりするわけでしょう。

ともこ:
そうだよ!過去の偉大な科学者と言われる人たちも、日常のささいなところから発見してるよね。例えば、アルキメデスがお風呂の水があふれるのを見て浮力の原理を発見したとか、ニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有引力は月や惑星にも働いていることを発見したとか、実は私たちが毎日過ごしている日常そのものが、偉大な発見へのメッセージだらけなんだよ。
発見と言っても、それは新しく生まれたものじゃなくて、ただずっとそこにあり続けたものに気付いたってことだよね。だけど普通の人は枠に囚われているから、そこにあるのに気付けないだけなんだよね。

いさどん:
そうだよ。日常の中にあるんだよ。
ただし、目の前のことだけに一生懸命になって他のことを一切考えない人には、そういうことは浮かんでこないよ。きょうこちゃん(ファミリーメンバー)みたいに集中力があって、勉強がバッチリできる人はダメね。一点に集中しすぎて隙間がないから、神秘が入ってこない。
僕はいろいろなことを常に考えているんだよ。何かを見ながら、これってこういうふうにも考えられるな、こういうふうにも考えられるな、って。だから常にダジャレを考えてるんだよ。余分な枝をいっぱい張りながら、本筋を見てるんだよ。

ともこ:
えー、でもそれって人によるんじゃないの。そういうのが得意な人もいれば、一点集中型の人もいるでしょ。

いさどん:
だから、人によるって言ってるのよ。
今、新しい世代が台頭してきてるでしょ。そしてこれから、宇宙視点を持った人たちが現れてくる。その前兆として、この騒動もあると思うんだよ。

ともこ:
小保方さんは天然でSTAP細胞を生み出しちゃった。私たちは、日常の中にひそんでいるメッセージをスルーしまくっちゃってるんだよね。

いさどん:
チャンスは無限にあるんだよ。

あわちゃん:
でも、スルーするー。(チーン)

いさどん:
今のその発想!瞬間に出てきたんでしょ。

あわちゃん:
うん。俺、ダジャレばっか考えてるから。

いさどん:
それは直感の領域だよ。松果体(しょうかたい)が揺れてるんだよ。やっぱり目覚めるためにはダジャレを言うことだよ。

みんな:
しょうか~~(笑)。

いさどん:
そうやって、心を常にやわらかくしておくことだよ。やわらかいということは、その場に留まらない。いつでもトキ、トコロに応じて柔軟に変化できる。風が吹いたら柔軟になびいて、止んだらピッと元へ戻る。
時代はすでに、宇宙時代だからね。地上目線ではなくて、もっと三次元、四次元の立体的で複雑な、目に見える「ある世界」の奥にある「ない世界」を感じていくことだよ。

まり姉:
カタカムナの勉強も、脳の眠っている85%を活性化するきっかけにはなるかもしれないけど、それだって既存の15%の中で解釈をしようとする人にとっては、15%の範囲内での知識になるだけだよね。

いさどん:
もちろんそうだよ。だから、85%の意識レベルに到達しないといけないわけだよ。そうすると、思考の次元が変わってきて、今までの思考の概念が壊れて、新しい視点が生まれてくる。これから、この世界を覆っている古いものが、ガタガタと崩れていくよ。

コノハナ人の考え方は、型や枠を全部取っ払ってしまって、トキ・トコロが来るのを待っている。いつでも、変身できる柔軟性を持ってる。これが宇宙時代を生きる考え方だし、これからますますそうなっていくんだよ。
だから、STAP細胞はあるかないかなんて議論に捉われてる場合じゃないんだよ。そんなの抜きにして、ふっと心を未来に送って観てみれば、あるに決まってるんだよ。その現れ方に対して囚われている人たちが、理屈をこねて、正しいだの正しくないだのって言ってるだけで、大局的な視点から観てみたら、出てくるための産みの苦しみみたいなものだな、と理解することができる。

ともこ:
そうなの。核心のところに議論が行かずに、不正があったとかなかったとか、小保方さんのプライベートなことまでゴシップ的に騒ぎ立てられたりしてて、話し合うべきとこってそこ??って思う。

まり姉:
どうでもいいやんね。

しゅうくん:
でもそういう話題に人は食いつくんだよなあ。

ようこ:
そして小保方さんがうつ病になっていく。世の中がうつ病を生み出してるね。

いさどん:
でも僕は逆に、万能細胞が発見されることがいいとは思わないんだよ。そういったものは人間の悟りにふさわしく現れてくるべきで、もしも人間が悟ってしまえば、あんな画期的な治療方法はいらなくなる。なぜかというと、人間はいずれ生死を超えるものだから。そちらの方が重要なのよ。生きてる、死んでるということは、そんなに重要なことじゃなくなってくるんだよ。

ともこ:
そう。バッシングをする人たちがいる一方で、それの誕生を待っている患者のために一刻も早く研究を進めてほしいという人たちがいるんだけど、実はそれも同じレベルの話だと思うんだよ。病気の治療が目的になってるんだけど、たとえ表面的に病気が治っても、それを生み出す根源的なものから開放されるわけじゃない。

いさどん:
大事なのは、この「生きている」ということを、どう捉えていくか。そして死というものをどう捉えるか。
STAP細胞でも、iPS細胞でも、医療に革命をもたらして、ノーベル賞までもらったりしているよね。だけどね、どうして長生きしたいの?生きる目的は何なの、ということなんだよ。
大切なのは、充実した人生を送るということでしょう。人生の中で、例えば病気に出会ったとしても、充実した人生であれば短い命でも生に未練はないはずだよ。死を通して、とても重要な役割をして死んでいく人もいる。

ただ、STAP細胞のような画期的なものが発見されることによって、命の神秘が説かれる、という効果もあるよね。それで治療すること以上に、命の尊さやメカニズムを知ることによって、生きることの意味を人々が悟ることにもなる。だから全面的に否定するものでもないね。

大切なのは、ものごとの捉え方だよ。死を歓迎しない、忌み嫌う、そういう思考があるから、こういう発見も単なる治療目的や経済効果としてしか考えられない。そして相変わらず、病気になるのは悲しいこと、悪いことのままになっている。
だけど、人は必ず死ぬんだよ。そうしたら、生まれてきたことの意味、生きることの意味、死ぬことの意味を分かることの方が大事じゃない?
その過程の中で、病気の治療というのは、その意味をより深く知るためにあるわけだよ。でも今は、経済効果を上げるネタのように医療が扱われている。
死んでみたらいいんだよ。その先があるから。そして死の先には、また生があるんだよ。この世界は永遠で、高次元の世界には生死の境すらないんだよ。

人々が、生きること、死ぬことの意味を理解すれば、そのことで騒ぐ必要はない。
大切なのは、ノーベル賞を取ることよりも、死生観を悟ること。悟るってことは、人生のノーベル賞を得るってことだよ。全ての人に、ノーベル賞の可能性があるんだよ。
  
  

※「チーン」とは:
木の花ファミリーでは、誰かがダジャレを発した時に「チーン」とベルを鳴らしています。
ダジャレには、凝り固まった場のアイスブレイク、視点の多角化、ゆとりの創出など様々な効能があります。最近では、誰か(主にいさどん)がダジャレを発する前に空気で察して構えてダジャレが発されると同時に「チーン」を鳴らすという、阿吽の呼吸探求のツールとしても注目を集めています。また、大人ミーティングでうたた寝をしてしまうメンバーの眠気覚ましとしての効果もあります。

大人ミーティングや座談会に欠かせない存在・「チーン」
大人ミーティングや座談会に欠かせない存在、「チーン」

  
  


危機を感じられない人間たちへ ~直感を働かせるには?~

いさどん:
今の社会の人々は、起きた出来事に追われている。起きた出来事を処理しようとして、それに追われ続けているんだよ。

たとえば、今ニュースになっている集団的自衛権。圧倒的多数の与党は、このチャンスに集団的自衛権を行使できるようにしようとしているのだけれど、自民党と公明党では立場が違う。自民党は、軍事力を維持し他国との軍事バランスをとることが、国を守って平和を維持することになると考えている。公明党は、支持母体が創価学会だから、戦争を容認するような立場に立つことには宗教上、反対の立場を取っている。それでは信者からの支持が得られないからね。そこには、立場のせめぎ合いがあるんだよ。
集団的自衛権が必要だという言う人たちは、外に脅威の勢力があると考えている。北朝鮮とか、中国とか、ウクライナのことがあって中国と近付いているロシアとかね。それで対抗勢力のアメリカにごまをする。そうやって起きていることへの対処ばかりして、もぐら叩きのようなことをやっている。

しかし、なぜ人間は争わなければいけないのか。どうすれば争う必要がなくなるのか。それにはどういう視点を持つことが必要なのか、ということを考える方が先決だと思うんだよ。

国家を個人に例えると、アメリカでも中国でも、どこの国もすごく性格が悪いでしょ。自らの国益ばかりを考えている。そうやって考えていくと、明快に問題点が見えてくるのに、それに対処ができない、だから僕は、手応えがないことを感じて、むなしくなる。

そのような人間たちが創っている今の地球は、明らかに気候もおかしくなってきているのに、人々はあまり危機を感じていない。しかし、じわじわとその危機は迫ってきている。それは「いつ来るのかな」というものではなく、すでに来ているのに、こういう状態なんだよ。

ともこ:
やっぱり、鈍いんだね。

いさどん:
鈍い・・・それは鈍いとも言えるけど、何だろうね、やはり、ものが観えていない。何かに汚染されているような、観るべきものが観えていない状態。目が、意識が、何かに囚われている状態だよ。
よくあるでしょう。お酒が欲しくて仕方のない人は、頭の中にお酒しかなくて、生活そのものがお酒になっている。お酒に関することしか考えないし、お酒に関するものしか見えない。他のものが目に入っても、そこに意識が行かないんだよ。
お金にしろ欲望にしろ、それと同じことが言える。自分に近いものに執着して、意識がフリーになっていないんだよ。意識がフリーになったら、全体を冷静に観ることができて、おかしな部分に気付くようになる。

これだけ危機的な状況についての情報がたくさんあるのに、人々は危機感を持っていない。それは、直感が働いていないんだよね。
直感というのは、思考を超えたもの。危機を感じると、直感が働くようになるでしょう。場合によっては火事場の馬鹿力が出ることもある。しかし、それが働かないのは、何かに汚染されて麻痺している状態だから、危機が感じられないでいる。それは何か麻薬のような価値観に、汚染されているんだよ。

そこで、どうするか。
これほど麻痺してしまっている状態を危機と感じない人たちがいるのは、どうしてそうなってしまったのか。

木の花の暮らしの中では、協同することが実現していて、調和が実現しているでしょう。個人の欲求や血縁など、いろいろなものを超越することもできている。
それは今の社会が抱えている危機を乗り越える、もしくは危機を生み出さないための要素で、それがここに実現しているんだよ。だからそれを大切にしなければいけないのに、社会はボケている状態でその価値がわからないから、場合によっては社会と違うということでバッシングして来るんだよ。
すごくボケているでしょう。週刊誌は「こういう生き方があるんだよ」とそれを大切にしなければいけない。ましてやエコな暮らしを大切にしようという業界の人たちは、自分たちがやれないことをここがやっているのだから、これを見本として世の中に広めていかなければいけないのに、逆のことをやっているんだよ。
これってすごく鈍いと思わない?何か人間の中に、人工的なことをやり過ぎてしまって、麻痺してしまっているものがあるんだよ。だから、情報網は高度に発達したのに、そのたくさんの情報の中から何が大切かを読み取れない状態になっている。

ともこ:
なぜだろうね?

いさどん:
それは一言で言うと、欲に汚染されてしまっているということだよ。違う言い方をすれば、自らの中の価値に執着してその欲に汚染され、冷静かつ客観的な目線が麻痺しているということだろう。
自由というのは、自らの思考の位置を、自分に取り込まれずに客観的な視点から見て、どこにも取り込まれない状態ですべてを情報として観ることなんだよ。
自由という概念は、生きる上で得るものでしょう。生きているから表現できる。例えば、死ぬことは絶対で、そこに自由はないよね。生まれることも、気が付いたら生まれているのだから、そこにも自由はない。でも、その生まれてから死ぬまでの間に自由があるんだよ。

その自由を、どう解釈して、どのように使い切るか。自由は、不自由と不自由の間にあるものでしょう。生まれることと死ぬことの間にある自由を、どのように自由として表現するか。
自由でない状態、つまり不自由というのは、囚われている状態でしょう。では、何に囚われているのかというと、視点に囚われている。価値観に囚われている。一番囚われるのは、自分という存在(立場)だよ。
生きている時に何が不自由かといったら、この世界はこれほど多様なのに、自分という肉体に封印されているわけでしょう。そうしたらまず、思考をする時に自分という肉体から出た視点を持つことはできるんだよ。
その、自分の枠から外れたところに視点を持って、自分と他者を平等に観るってことさ。平等に観ることは、一つひとつの出来事を情報として観て、それぞれの立ち位置から来る価値も情報として捉えるということ。そうやって眺めてみると、自分という殻の中から見て囚われていた時の目線から離れることができるでしょう。そうすれば、全ての出来事、価値観を平等に現象(物理性)として捉えることが出来る。次への選択をする時に、自由がある。実は、自由にできるのはそこだけなんだよ。つまり、自らに囚われない自由な視点を持つことが、本当の自由なんだよ。

それ以外は、政府の話も、企業の話も、個人の話も、全てそれぞれの自らの立場を守ろうとして、それで不自由をやっている。それでは冷静な判断ができないし、立場ごとの違いを見て対立するから、対立が起きる。その危機は何のために起きるかと言うと、つながっていくことの大切さを示すために起きているのだよ。
例えば、環境だったら人間の行いと自然のあり方とか、戦争だったら国家と国家の立場ごとの価値観の違いが自由に観られていないから、国益の主張の元にそれが起きている。

今回のバッシングにしても、まず「エコビレッジの概念はこうだ」というものがある。木の花は、自由に世界を展開してきて、ある意味、執着や囚われという不自由から解放して自由な人間をつくるために、それを手助けしながらやってきた。あれがしたい、これがしたい、というのは囚われで、自由ではないのだから、それをやめなさい、ということを伝えてきた。そうしたら、「木の花は自由にさせてくれない」と反対のことを言うんだよ。
自らの立場から見える価値に執着して、自由をはき違えている。そしてその自由を奪われることを恐怖に思って、怒ったり攻撃したりする。

ともこ:
その心が全然自由じゃないね。

いさどん:
この間週刊誌の記者と話していて、この人たちの仕事は不幸だなあと思ったんだよ。社会の攻撃の対象を見つけて、それを掘り起こして、賢いから法律上攻撃されないように巧妙に、人の興味をそそり、汚らしく仕立てて表現しようとするんだよね。より良い社会を築くとか、人の心が調和していくようにということを目指してやっていないんだよ。本当は、出来事の奥にある本質を読み解いて、それをより良い社会に生かしていけば、その人の精神から雲が取れ、晴れてくる。
それをずっと職業としてやっていくと、人間が汚れて自己矛盾が発生する。だけど彼らは、仕事だから仕方がない、という顔をしているんだよね。だから、これは本当じゃない、という思いは、どこか彼らの中にもあるんだよ。だけどそれをやり続けている。
そして、彼らに情報を提供している人たちは、それが正義だと思って情報を提供しているんだよね。しかし、それは表面的な出来事の捉え方で、本質を観る目は麻痺している状態だよ。

そういったことを考えた時に、こんなに情報があって、賢明な選択がいくらでもできるのに、むなしくなるのは、人々の中に賢明な選択をする自由が育っていないんだよ。

ともこ:
私ね、もともとすごく不安定で何かあるとすぐ泣いていたのに、何で今こんなに穏やかで確信を持って生きていられるんだろうかって考えたら、いさどんを通して、その自由自在さに触れたからだと思うの。

いさどん:
あなたも、自分に囚われていたからね。それも、自分の考え方に囚われていたんじゃなくて、トラウマのように、考える前に染みついてしまっている色に汚染されていたから、自分はそういうつもりじゃなくても、何かを思考しようとする前に涙が出てくる。それが染みついている状態だったね。

ともこ:
その染みついていたものを、何の色もない無色透明の世界に触れることで、いったんバラバラにしてもらったんだと思うんだよ。
本物の愛は、無色透明の世界なんだよね。何かを「やさしい」というのは「やさしくない」何かがそこにあるから。やさしいとかやさしくないとかいう判断も人間による色付けで、全てがニュートラルな愛そのものの世界ではそんな判断すらいらなくなる。そういう透明な世界に触れたことで、自分自身の色が浮き出て、知らない間にバラバラにしてもらった。

いさどん:
あなたは、自由な心に触れたんだよ。自由な存在というものが持つ爽やかさを感じた。その風に触れた、ということだよ。

ともこ:
ここを離れて行った人たちは、バラしていく途中で出て行ったんだね。

いさどん:
バラす作業をしている時は、本人もバラされて納得していた。だけどしばらくすると、また自分流に組み立ててしまう。バラしても、その奥に、元へ戻ろうとする力が働いていたんだと思うんだよ。結局その力が勝ってしまった。

ともこ:
それって、ここを出て行った人たちだけじゃないよね。外から来るゲストでも、ここに触れている間はバラされることに心地良さを感じていても、離れればまた元に戻ってしまう。

いさどん:
ヤマギシの人も、ここに来てバラされるのだけど、元に戻るとまたヤマギシ流に組み立て直される。
だから、1度完全に切れなきゃいけないね。ゴムみたいに伸ばして、つかんだつもりになっても、力を緩めるとゴムはぴゅっと戻って離れてしまう。そうじゃなくて、その価値観を一度切ってしまわないといけない。それを「壊す」と言うんだよ。それができていなかった。
そのときに、自分を壊す勇気が、あるかどうかだけどね。

ようこ:
地球を壊す前に、まずは自分を壊す勇気があるかどうかだね。

いさどん:
自我の根っこのところに、ゴムのヒモがくっついているんだよ。
では、どこにそのヒモをくっつけたらいいのかと言ったら、自我ではなく、視点をこの世界全体や天など、できるだけ広い方に持っていけばいい。自我という自らの価値観に縛られている世界観から、家族、会社、国家、人類、地球生態系、太陽系、銀河、宇宙全体へ。世界の中にも現象界と潜象界があり、一番奥に神々がいる。それがこの世界の実態だよ。だから、自我をつなぎとめる鎖というか、ヒモの先をどこへつなげるのか。
自我が発生するところに持っていったら、自我だけで生きてしまう。自我を、家族のために、国家のためにというようにだんだん広げていくと、その自我は、そのもとになるところから来る風によって、どんどん広がっていく。この構造、わかる?

ようこ:
わかる。それが天につながったら、もう直感人間だよね。

いさどん:
そうだよ。だから、それが狭ければ狭いほど、立場や欲に捉われてしまうんだよ。そして、それが広く大きくなればなるほど、それは自我が大きくなったというだけのことだからね。恐れることはないんだよ。
自由と言ったって、肉体を持って生きていることは、結局宇宙の中の存在でいるしか仕方がないんだよ。それも不自由なことだけどね。

だから最終的には、肉体はこの地球生態系の中に、微細にして還元する。これが死だよね。そして魂は、超微細になって、アマハヤミ(思念の速度、光の速度の10の64乗倍)の力に乗って、宇宙全体に完全にちりばめられる。それが、もとの状態に戻るということ。
そして、それがまた縁によって集まって、満つって、それが限界まで来ると、成って、この世界、つまり現象界に戻ってくる。

今の地球世界には、もうすでに危機が迫っているのに、それが感じられない世の中や、自らの愚かしさや矛盾に気付けない者たちへのメッセージは、その前の段階の話だよね。

ようこ:
私は今日の話を聞くまで、直感人間になるには、直感が内から湧いて来たり外から降りてくるように、日々の心磨きが大切だと思っていて、それはそうだと思うんだよね。でも、今のいさどんの話を聞いていたら、自分を天というところまで一体化すれば、天の思考がそのまま自分の思考になって、それ自体が直感だと思ったの。それはある意味、一瞬にしてできることだ!と思った。

いさどん:
そうだよ。悟りは隣にあるのだから。だから、直感人間になることは、実は一瞬にしてできるんだよ。
 
  


21世紀の悟りへ ~直感と共に生きるコツ~

中国人のゼンとファンは中国でコミュニティを創る夢を実現する為、5月中旬から木の花に長期滞在しています。先日、いさどんに質問があるということで、ゼンとファンといさどんが話す場がもたれました。その中で、ゼンから「直感について教えてください」という質問がいさどんに投げかけられました。

農作業をするゼン(右)とファン(左)
農作業をするゼン(右)とファン(左)

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
僕は、全ての現象を「情報」として捉えています。その情報の結果起きる出来事は、単なる物理性なのです。そのように捉えていくと、非常に冷静な目で出来事を観ることができます。そして、そこには正邪・善悪はないのです。それは、ただ現象が発生している状態です。ですから、情報が沢山ある中で、その中から何を選ぶのがベストなのか、というだけのことなのです。

ゼン:
その通りです。私たちにはベストのものを選ぶという自由があります。

いさどん:
そうです。それが冷静な生き方のコツです。そのときに、情報がいくつかあるとしますよね。その中でどれが自分にとって有利なのか、と考えるのが人間的思考です。できれば、思考の次の段階は、その自らの損得を外し、判断をフリーにして、「直感」を受けてパッと選ぶことです。それはフィーリングのようなものです。そうすると、地上目線は地上に近く低いところにあって、視界が狭く、今まで自らが歩んできた個性のもとにできています。それを、そういった低い価値基準で選ばず、「自然の法則」や「流れ」に沿ってパッと選べるようになるといいのです。

ゼン:
私は、いさどんが言う「直感」をきちんと理解していないかもしれないので、そこをもう少し詳しく説明していただけませんか?

いさどん:
直感を得るためには、エゴを超越する必要があります。エゴは自らの目線で観た情報に執着することです。ですから、それが少なくなればなるほど、直感は自動的に湧いてくるようになるのです。直感も思考の中から湧いてくるのです。

たとえば地球暦で言うと、水星、すなわち自らの内から湧き上がってくる直感があり、それは潜在意識から来るものです。その潜在意識の一番奥には、生命としてのもっとも健全で美しい人間の設計図があります。それは全く汚れていないものです。地球暦で言うと、太陽の意志を水星が受け取って、出すということです。そのときに、地球という個人の意識や、金星の愛の意識、それから木星や土星のような社会性の意識は、水星から湧いてくる直感には全く入っていない状態です。

これは内から湧いてくる直感であり、そのほかに上から降りてくる直感があります。

それは地球暦で言うと、太陽系の中の惑星の一番外側にある冥王星の働きです。私たちは地球生態系に生きているのですが、その地球生態系の外側、つまり地球の外から色々な働きがあって、地球生態系が営まれ、私たちが生きています。その仕組みで生命が維持されているのです。つまり、生命の法則はとても緻密で、広大なものです。その法則や流れが入ってくるのがもう一つの直感です。

ですから、直感は常に内からも上からも来ており、そうやって私たちのいのちは維持されています。

ところが、人間は自らに執着しています。それがエゴです。しかし、そのエゴを個性として、自らの存在をコミュニティに反映させ、さらに地球生態系の中に反映されている人であれば、個人には執着がない状態になっていきます。そのようにエゴを個性として、大きな枠に反映させればさせるほど、エゴはあり続けながら、執着のない状態になるのです。それは、情報としてあるだけなのです。

そうすると、内なる直感と、天なる直感が生きる状態ですから、その状態では思考を働かせなくても、「はい、これ!」「はい、あれ!」と次々と決断できるようになるのです。その精度は高いのです。それはスタンスが広いので、一見そこで区切ってみると無謀な選択のように見えても、広いスタンスで捉えていくと、最終的にはその決断が最終到達地点につながっていくことが理解できます。そのひとつとして、今回木の花が色々とバッシングを受けたのですが、僕にはそれが良いことにしか観えないのです。ただ、「何でも良いことだ」と言っていると、まわりの人たちにはそれが理解できないので、目の前にあることに対しては直感を使って対処していきながら、今起きている出来事を大きな目線で理解していくことが大切です。

あなたもそういった生き方ができるようになりますよ。そのためには、いかに物事を情報として冷静に捉えていくか、にかかっています。その状態になるためには、おそらく人によって歩みが違うのでしょう。それは、瞑想法やヨガの手法のような歩み方で行けるものではないと僕は思います。特にこれからは、ひとりひとりが目覚める時代です。ですから、ひとりひとりに手法があるのではないかと思うのです。ひとりひとり、直感の受け方も違えば、それは個性的であっていいと思います。

過去には、自己啓発セミナーのようなインスタントにそれを与えるようなものがありました。しかし、それは結果として、人をその人らしく目覚めさせることにはならなかったのだろうと思います。

これからの目覚めとして、私たちは明らかに宇宙から承認されている結果、ひとりひとりが成立しているのです。全宇宙の中で自分という存在はたったひとりしかいません。そして、今の自分は、この瞬間にしかいないのです。

ですから、自らが天に向かって(天はどこでも天なのですから)、自らの意志を語りかけ受け取る作業をすることが、直感が降りてくるコツなのです。

今までの宗教の世界では、神様は人々を救済するためにおいでになるように語られてきました。ところが実際には、全ての現象が神の存在の現れ(物理性)なのです。ですから、全ての現象を神の存在として捉え、自らを全ての現象の側に最終的に同化させることが、人生の旅なのです。

エゴという小さな檻の中に自らを閉じ込め、囚われてしまうところから解放し、その檻のスケールを大きくしていって、最終的には肉体を超越し、地球上に自らの全てを散りばめる――それが死ぬということです。それから、その状態で宇宙全体に「アマハヤミ(思念の速度)」、すなわち光の速度の10の64乗で、魂を微細にして無限に宇宙に反映させていくと、自らがこの世界全体となるのです。その前の段階では、悟りとは、自らとこの世界の対比により、自らの世界が狭いと親や家族など、とても狭い枠の中で対比(執着)することになります。そして、それがさらに狭くなると、自分対自分の執着になるのです。それは自らの中にいくつも自分がいたり、そのバランスを欠くと心の病気になることもあります。しかしその反対に、自らが大きくなればなるほど、世界が広がって、意識は高くなり、全体のために役割として生きるようになるのです。

他者の為、世の中の為というと、とりあえず人間の世界では「ブッダ」と言われます。さらにそれが宇宙規模になって、全宇宙にまで広がると、それは「悟り」の状態です。悟りの完成は、肉体という形の存在する状態では成立しないのですから、肉体を返上した後(死後)、肉体は微細になって地球上に散らばっていくということになります。そして、これまで自らと世界を対比させていた意識から、自らを解き放って、全てを無限に微細にして、この宇宙に解き放つこと――それが悟りの完成です。

これはカタカムナで言うと、「現象界(ある世界)」から「潜象界(ない世界)」へ還ったということです。潜象界でバラバラになったものが、何かの目的に則ってムラが生まれ、何かの目的に則って現象界へまた生まれ出てきます。そうすると、次のあなたがまた生まれてくるという構造になっています。

仏教で悟りが説かれていますが、その時代の情報では、宇宙の構造はもっと小さく不明朗なものでした。ですから、同じ精神ではあっても、21世紀の悟りはさらに無限なるものなのです。違う言い方をすると、悟りというものがもっと明快に解明されていくということです。

あなたたちは、中国でコミュテニィを創りたいのですから、中国人の中でも特殊な人たちですね。現在の中国では、今僕が話したようなスケールのことを考えていない人が多いと思いますが、あなたたちは14億人いる中国人の中でも貴重な存在だと思いませんか?

ゼン:
そうですね・・・よくわかりません(笑)。

ファン:
私のような存在は私だけだと思います(笑)。

いさどん:
それは、地球規模でもそういった時代に移行していますので、へりくだらずに、「そういう人であるべきだ」と思うことが大切だと思います。

ゼン&ファン:
はい、わかりました。今日は大切な時間を私たちのために割いていただき、ありがとうございました。
  
 


菩薩とは?

ようこ:
今年から木の花ファミリーのホームページ上に「富士の麓のユートピア・菩薩の里」と銘打つようになったでしょ?「菩薩とは他者の喜びを自らの喜びとする存在」だといさどんはよく説明するけれど、ここで改めて、初めて菩薩という言葉を聞く人にとってもわかりやすく説明してもらえたらいいと思う。

いさどん:
菩薩は仏教的用語で、広辞苑で調べると、「成仏を求める(如来になろうとする)修行者。後に菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象となっていった」と書いてある。ただ、概念的に菩薩を捉えると、小乗仏教で言われる菩薩は、人間がある境地まで悟った状態のことであるとしている。そのためには、まず、自らの欲や我、執着から離れること。
木の花流に言うと、この世界はいのちの世界であり、いのちとは循環して巡り巡って変化するもの ―― その仕組みは、自他の区別なく巡っている状態。そうすると、そこにある己とは全体を循環させる役割のためにあるのであり、自己意識とはその構造を認識するための意識であって、本来そこに自他の区別がなくなった状態であることが望まれる(菩薩意識)。
だから、「菩薩とは、この世界の仕組みが健全であることや、そこに存在する人々が健全であり健康であることを喜びとする」ということになる。そして、その精神を世の為・人の為に生きることは菩薩道を歩んでいることになる。それを大乗仏教的菩薩道と言うんだよ。

だから、菩薩の状態は喜びを持っていることになる。喜びを持つということは、欲があり、感情が動く状態だということ。つまり、人間としての感情が残っている状態なんだよ(詳細は、いさどんブログ「全ては善への旅」「神の食べ物は喜びである」をご覧ください)。

ようこ:
いさどんが地獄界・人間界・菩薩界・仏界の心のランキングの話をするでしょ?一番上の段階である仏界ではなく、その下の菩薩界、すなわち「仏の里」ではなく、「菩薩の里」を私たちが表現することに意味があるのだと私は感じている。

いさどん:
菩薩とは地上に理想郷(地上天国)をもたらす境地のものたちで、それが完成されて天に昇ると、仏の役割に入っていくわけだ。地獄でも、人間界に近い地獄もあれば、無間地獄といって救いようのない世界もある。

ようこ:
そうだね、底なし沼のような世界もある。今日、いさどんに菩薩について改めて聞いてみたいと思ったのは、一番上のレベルの仏界ではなく、その下の菩薩界の境地がこの暮らしのポイントだと思っていたからなの。

いさどん:
菩薩界で生きることは天に通じている状態だが、人間界で生きることは天に通じていない。だから、菩薩界で生きることが神人和合の境地であり、世の為人の為に生きている状態なんだよ。

ようこ:
では、地上で生きている人間で、仏界の境地、つまり仏の心で生きている人はいないのかな?

いさどん:
仏の心で生きている人は・・・ほとんどいないね。

ようこ:
いさどんは仏?それとも仏と菩薩の間に位置する?

いさどん:
何だろうね・・・時々自分の精神状態を振り返るのだけれど、人間をやっているものだから変化・変容するんだよね。そうすると、この世界を憂いて悲しく思うときもあれば、この世界を喜んでいるときもある。
悲しいときを分析すると、その心は愚かしいものを観て救いたいとか、人々が健全に目覚めることを願う心から発している。喜びの心を分析すると、そういった愚かなものが健全になった(真実に目覚める)ことを喜ぶ心から発している。だから、世の中や他者の健全を常に願っていることは確かなんだよ。そこには揺るぎがない。
ただ、怒りも出てくることがある。それも分析していくと、汚れたものが美しくなってほしいと願う心であり、それも他者を想う心から出ていることが確認できる。

では、自分の為にという感情がどれほど働いているかというと、感情を色で言ったら七色で出てくる。その感情の色によって表現が違ってくる。それはどれも人を想う心であり、人が健全であることを望んでいる心であることは自分で確認できている。だから、どこかで、「この心でいいのだ」と思っている。
ただ、心が曇るときもあるのは、それが通じないことがあると、心が揺れることにもなるが、世の中や人の健全を常に願っているという意味では、菩薩界の段階にいるのだろうと思う。

肉体を持ってこの世界でいろいろな刺激をもらう状態で仏の境地にあることは、ほとんどありえない。それは生きていないような状態だから。仏の境地はすべて超越して、この絶対なる宇宙の法のままになっている状態だから、肉体を持って極めることは菩薩の状態の高いか低いか、ということなのだろうね。
現象界に仏が存在するとしたら、それこそ木や銅で創られるような単なる偶像崇拝の対象物になってしまう。そこに魂が入っているとして、何かしらの利益があったとしても、そのような対象になってしまうことだろう。

ようこ:
それでは新たな社会のモデルを創る存在ではないね。

いさどん:
そう。だから、人間がブッダの境地、つまり菩薩の境地に至ってこそ、人々に見本が示せるのだから、あの「菩薩の里」という表現はまさしくぴったりの表現だよね。
それで、菩薩にもランクがある。法華経で言うと上行菩薩とか、上行菩薩があるということはそこに至らない菩薩段階もあって、菩薩でもまだ初期の段階にいるものもいることになる。

ようこ:
菩薩にも色々なランクがあるということで、ここのメンバーもそれぞれオリジナルな菩薩を表現していければいいね。

いさどん:
そうだね。今の時代によく観られる人間の姿は、ある意味知識的に豊富になってすべてをわかったつもりになっている。それがお釈迦様の弟子の中で最も優秀であった「舎利弗」の状態であり、これは菩薩界に到達していないものが知識が豊富になって、自分が優れていると思い込んでいる状態だよ。

ようこ:
それが「もどき」だね。

いさどん:
そう。今の時代には、そのような人々が多い。彼らを冷静に分析していくと、自らの願いや考えに囚われ、自らを肯定しようとしている。それから、自らの考えを正しいとして、自らを肯定したいがための理屈を展開している。だから、大切なことは、その内容が万人に通じるものなのか、それとも個人だけのものなのかを客観的に分析してみる必要がある。

時代は確実に進んでいて、昔はいきなり刃物や武器を持って戦う時代があった。しかし、今の時代の人々は逆に、良い世の中にしようとして自らの囚われの中で生きているものもいる。

ようこ:
そうだね、原発反対の人たちとかね。

いさどん:
そう。それは社会を良くしようという心であることは確かなんだよ。ただ、自意識が強いばかりに、結局対立を生むことになってしまっている。だから、世界観を広めて、自らと他者・この世界との区別がなくなってくると、そこは解消されるだろうと、特に最近は世界観について語っているんだよ。そこが認識できれば、自らに対する囚われが少なくなる。
それを理解できればできるほど菩薩に近くなるし、世の中が良くなっていく道なのだけど、中には自らの都合が良くなることを目的にしているものもいる。「優れた人間になりたい」とか「悟りたい」とか。そこにはまた落とし穴があり、「自分が」ではなく、「世の中が良くなるために生きる」「他者のために生きた結果、自らの価値が高まる」ところに行かないと、結局利益のための道になってしまったり、自らの救済のための宗教になってしまう。しかし、そこでは結果として、自らが救済される境地にならないといけない。

それで、自らの願望を叶えるために生きている人は、ここでは生きられない。ここで生きる者は、自らを超えて社会や他者のために貢献することに共鳴している者たちだから。それが不十分であってもね。
それを道理として理解できている者もいれば、理解できないけれど大事だと思って共にいる者もいて色々だけど、他者のために役割を果たしていこうという自覚のある者が残っていることはたしかだよ。その自覚があるからこそ、ここにいるということ。しかし、自らに執着する心が優先する者は、「自分は正しい」と理屈をこねる。

ようこ:
そうだね、菩薩は理屈をこねない。

いさどん:
そう。菩薩は何を語るかというと、情報として観える景色を淡々と伝えるだけ。理屈をこねるということは、自らを正しいとしたいがために言葉を使うということ。

ようこ:
菩薩は結果も所有しないしね。

いさどん:
そうだよ。だから、いつも自らを正しい側に置いておきたい心を超えると、正しい・正しくないではなく、ただ道に沿って歩む安定した心の状態になる。不安定な心が出てきたら、それを安定させるために鍛えられているぐらいに思っているといいよね。不安定は安定するための指針をもらっているということだから。そうやって、人は元にある心が揺らがない状態になっていく。

ようこ:
菩薩は心が揺らがない?

いさどん:
揺らがないわけではないんだよ。喜びがあったり、憂う心もあるのだが、その奥は、他者やこの世界を想う境地になっているということ。

ようこ:
そこは揺らがないということだよね。

いさどん:
そう。だから、菩薩の状態だと揺らがない心になっているとも言える。

ようこ:
感情が出てきたとしても、元の心は揺らがない。

いさどん:
人間は揺らぎっぱなしだよ。自分のために生きているのが人間界の者たちだから。

ようこ:
自らの損得や思惑があるから、そこは大きな違いがある。

いさどん:
だから、己を捨てないと、人間界から菩薩界には行けない。

ようこ:
それが一番のポイントだね。

いさどん:
そこは明快なことで、多くの人は己のために生きているんだよ。それで、人間には知識的な能力の差があるものだから、賢ければ賢いほど、それを理屈で使って自らのために生きている状態が人間界の姿だ。そちらへ行くと、優秀でもやっかいだよ。ただ、人間的優秀さが菩薩につながっていけば良い世の中になるのだが、結局人間の欲や執着のほうに使われるようになると、良いことを主張しているようで、どんどん地獄が形成されていくことにもなる。だから、人間界で成功することは喜ばしいばかりではない。

ようこ:
ちゃんと後でそのツケが返ってくる仕組みになっているから。

いさどん:
それは確実に返ってくる。だから、意識が菩薩界に到達することが大切だよ。

ようこ:
そのためにも、ここが「菩薩の里」となって世の中に表現していくことが重要だね。

いさどん:
菩薩の世界は今の地上世界にはなかなかないからね。個がそこまで至ったものは過去にはいるけれど、その結果、みんな宗教などになってしまって、生活の中にそれが落とされていることは、僕が認識している限り、なかったのではないかと思う。

人間は生命であるから、生命を生み育むということは、そこに性が関わってくる。そうすると、生活の中に菩薩の心が反映されて、そこに菩薩の性が表現されるということ。性の世界はとても重要で、菩薩の性がそこに表現されると、天上人が降りてくるようになる。つまり、神の魂が降りてきて、菩薩として地上を生きるようになる。
しかし、未熟な人間がそこにいると、天上人ではなく、未熟な人間の魂が降りてくるようになる。だから、地上はなかなか良くならない。神聖なる性が愚かしいものに汚染されてしまうと、地上がなかなか優れた世界にならない。そうやって人間の意識によって、次の時代が決まってくるんだよ。
先祖から子孫への代々の継承がある中で、そこに優れたものを継承していくのか、それとも愚かな因縁を継承していくのか。その結果、コミュニティができ、社会ができてくるわけだから、そこでも大切な世の中づくりをしていることになる。

ようこ:
大分、「菩薩とは何か?」が観えてきたね。

いさどん:
常に他者や世の中を意識して、そこでは己が後に控えている状態でないといけない。だから、この生き方は己が勝っているものにとっては苦痛にもなる。

ようこ:
自分にとって苦痛だから、違う存在をバッシングしたりするんだよね。

いさどん:
そう。ただ、そこでバッシングされる側にも理由があるのだが、そのときにその理由にはいろいろあって、世の中が未熟であればあるほど、その世界では聖なるものに対して違和感を感じるんだよ。そして、その愚かしさがゆえにバッシングするのは、たとえばキリストでもそうだし、お釈迦様でもそういったことがあったのだろう。日蓮さんでもそうだけど、みんな聖なるものであるがゆえに、そして天の法で生きるがゆえに、地上ではそれが法難(バッシング)になってしまうわけだ。しかし、それは禊(みそぎ)であったり、心を創るための追い風でもある。

ようこ:
そうやって鍛えられている。

いさどん:
それは未熟から尊いものに育っていく過程の中で、負荷をもらって鍛えていく必要があるんだよ。たとえば筋肉がたくさんついて、仕事ができるようになるためには、筋肉痛が起きるわけだ。そういった段階での追い風的苦痛がある。そこはそれを客観的に理解して、自らの追い風にしていけばいい。それが理解できていれば、全て超えられる。

ようこ:
そうやって分析できていれば、問題事も学びとして生かされる。

いさどん:
そうなんだよ。出来事を学ぶと、こちらの愚かがなくなって、そこですべて益に変わる。そうすると、対象の愚かだけが残るから、もう向こうの問題だけになる。それは「愚かをやってくれてありがとう」という世界だよ。

ようこ:
だから、何も恐れず、進んでいけばいいだけ。

いさどん:
そこで「恐れずに」とひとくくりにしてしまうと、それは中身を知らないでただ信ずることにもなる。その心は大事だけれど、やはり中身がわかって信じていくという双方がないといけない。法と信じる心の両方があり、信じる心があるから法がわかるのであるし、法がわかるからこそ信じる心が育っていくのだから、その両方が常に開かれているということだ。

ようこ:
そうだね、道理と信仰心が両刃の剣ということだね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
木の花の流れを簡単に振り返ると、創立メンバーは信じる心だけで木の花の土台を創ってきたけれど、そこに理屈をこねる人たちがメンバーに加わってきた。だけど、ここが新たなステージに移行する段階ではそういった人たちがそぎ落とされ、今は道理と信仰心の両方のバランスが求められている。

いさどん:
だから、常に冷静で客観的にものを観る眼があって、それを分析した上で道理の通った真実のところへ行かないといけない。

ようこ:
だから、ひとりひとりがよく考えるということだね。

いさどん:
そう、考えないといけない。自分の道なのだから。

ようこ:
何も考えずにただ信じる、ということもあるけどね。

いさどん:
いきなり何も考えずに信じることをやり切れてしまえば、それはそれでいいのだが、そこへ行くために道理が必要な場合があるんだよ。だから、最終到達地点は、真理がここにあるのだから、それになりきることが目的なんだよ。しかし、そこへいざなってくれるために道理が必要になる。
何も考えずに信じられる人がいたら、それはそれでいい。ただ、そういったものは地上に降りてくる必要がないんだよ。地上は因果応報の道理の上に事が成っているわけだから、やはりその道理の上に信じる心をつくっていく。しかし、信じる心が先に強い人は道理を超えて理解していく。いずれにしろ、最終的にはその両方をマスターしている状態になるということだ。

「種がある人が集まってくる」と言うでしょ?それは信じる心がすでに備わっているということ。

ようこ:
それが共鳴するのだものね。

いさどん:
そして、後から道理が観えてくる。その精神の人々の生活では、余分なエネルギーがかからないし面倒くさくない。

ようこ:
私も、信じて後から道理がついてくるタイプだな。

いさどん:
そうだね。だから、わからないことでもさっとやれる。やはり信じる心の種があることが大切だよ。それがないと、時間がかかる。道理の心が優先してしまうと、結局時間ばかりかかって、かけた時間が無駄になってしまうこともある。

ようこ:
そうだね、「阿吽」は信じる心だし。

いさどん:
「阿吽」は、完全にそれがマスターできている人たちの世界だよ。だから、心が通じている状態で、自らと他者の区別がなく、瞬間にお互いの心が読める状態だよ。これは相当高い境地だね。

ようこ:
菩薩の生活の中でも高い段階だね。

いさどん:
そう、菩薩が仕上がった人たちの世界だよ。「阿吽」の世界では知識的に豊富だとか、そういったことは関係ない。

ようこ:
ひとえに心が美しいとか、清らかだということ。

いさどん:
だから、これからは「美しい」とか「通じる」とか、もちろん「流れ」もそうだけど、そういうことが大切な世界だよ。そうすると、人々の関係に裏表がなくなり、美しい世界になる。

ようこ:
スムーズに事が進むし、気持ちが良い。

いさどん:
とても気持ちが良く、心地良い世界が展開される。

ようこ:
そういった安心感の中で、今まで心の病があった人たちも健全になっていく場ができる。

いさどん:
そう。そういった場を創れば創るほど、病んでいる人たちを癒す力が出来ていくわけだ。場で癒せるんだよ。

ようこ:
これまでも木の花はそういった場ではあったけれど、これからさらにそれがパワーアップしていく。

いさどん:
今までは世間とは違う場を提供するとともに、心が病んでいった背景を分析していって相手の悟りを促すということで、自然療法をやってきた。しかし、これからは場が優れているから癒されていく湯治場的要素が強くなる。それはそこにいる者たちがその世界を創って、目的を達成するだけではなく、社会を癒していく場になるということでもある。

ようこ:
そうすると、役割としていさどんがその人に伝えることはあるだろうけど、そういった機会が少なくてもいい場になりそうだね。全体でそういった場が完成されたら。

いさどん:
そうなんだよ。ここ全体がケアを引き受けている自覚がますます重要になってくる。今までもそうだったが、その精度が高まるということだ。

ようこ:
言葉で伝えるよりも、空気で癒していく。

いさどん:
それは、「人間たちが創る世界としてここまで可能ですよ」と社会に示すことが最終目的だから、ケアを提供しているというよりも、理想世界の可能性を提示しているということである。もし、ここがユートピアであり、「菩薩の里」と呼ばれるものであるならば、そこまでの可能性が表現できるということ。だから、ひとりひとり自覚して、その場創りをしないといけない。
これは「人々が創る精神の交響曲」だから、芸術の境地に到達することが大切だよ。美術館を訪れて素晴らしい作品に触れると心が癒されるように、そういった場を創っていく。「菩薩の里」と銘打った限りは、そこを目指して実現していくということだよ。

ようこ:
日々、みんながそれを心にとめて生きていく。

いさどん:
それは簡単なことだよ。「己を忘れて、他者のために生きる。社会や人々の健全を一番の喜びとする。」そこに尽きる。木の花(桜・梅・桃)を形成する個がまず花開き、それが全体でひとつの大輪となって花開き、美しい状態を表現する。それが人のいのちの美しさ(桜)や、健康・健全である美しさ(梅)であり、理想郷の美しさ(桃)を表している。
だから、「木の花」という名前にはとても重要な意味がある。それこそが「菩薩の里」なんだよ。