多次元宇宙を生きる 〜人類の挑戦〜

3月21日春分の日、木の花ファミリーは創立から満20周年を迎えました。
その記念となるメッセージを、皆さまにお届けします。

3月21日 太陽が真東から昇る春分の日の朝日
3月21日 太陽が真東から昇る春分の日の朝日

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
想いが巡っていることを録画して、みんなが観ることができるといいね。言語にしたことしか人には伝わらないのは、とても不自由なことだ。
自分がどのような想いを持っていて、その心の色がどんな色か。それを伝えようと思っても、人はそれぞれその歩みに相応しい器と色を持って受け取ることになるから。想っているように相手に伝わらない胸の内を、パッと開けて見せたいものだ。伝わらないことに苛立ちを感じるわけではないが、気持ちは曇る。それは、与えるということではない。客観的に捉えれば、一人一人の歩みが尊重されるということでもある。

我々、肉体を持った人間は、他者とコミュニケーションをとる時に、肉体というバリアがあって、言語や音などの形を通じてしかコミュニケーションがとれないようにできている。面倒くさい仕組みだ。そういった余計なものを取り去ってしまえば、そのままの心が直接お互いを見て、すぐに相手の真実が見える。それは、人間が肉体から去った時の姿と同じ。そうであるとしたら、我々がこの肉体の中に入って、このような制約の中で生きるのは、この肉体の制約を超えた視点を持ちなさいという気づきのメッセージとも言える。
我々は今という瞬間を生きるようにできているが、今は過去の積み重ねで今に至っている。そして今の積み重ねが未来を創っていく。つまり、今の自分を観れば過去の自分が観えてくる。

そのような頭の中の想いを録画できたら、想いを直接見せあうことでコミュニケーションが取れる。そうしたら、人と人はどんなに解りあえることだろう。
想いを言語化して音で受け取り解釈する肉の体を介在する制約の為に、真実を伝え合うことがない。しかし、我々が肉の体から離れると、それが当たり前の世界になる。それを、肉の体を持っている状態のままでできないものかと思う。それが木の花の大いなる実験だ。

我々は肉体という衣をまとっているが故に、五感の刺激に捉われてしまって、過去から未来への無限なる宇宙の情報を自らの内から取り出せないで生きている。しかし、「我」のバリアを取り去ると、それを自由自在に取り出すことができるようになる。すると、他者のことが自らの内なる思考のようにわかるようになる。そこでは一切隠し事のない世界が生まれる。
我々はそういった世界を目指している。今の多くの人間は「個」を尊重し、その個を尊重した上でより良い世界を考えている。それは、個が尊重されなかった時代からすると、進んだ世界のように思われている。しかし、人間の歩みには次の段階がある。そこでは、個の個性がそのまま生かされつつ、積極的、発展的に調和し、生かされていくことによって、個がさらに巨大化してこの世界の実体のままに存在する世界になる。それは個が個の主張を取り払うことにより、個の限界を超えた個の姿になる。それが次の個の活かし方だ。

今の時代、その世界へ、木の花ファミリーはどこまで挑戦できるか。常に今を良しとする姿勢でいると、前も後も他者も間違いになる。宇宙は無限に連鎖し、変化変容を繰り返しながら輪廻している。それを理解するためには、自分という個を超えなければならない。その世界では、他者は自分であり、自分は他者である。表現を変えれば、自分は世界であり、世界は自分であるということだ。

個が尊重されない時代から個が尊重される時代へ行きつくと、個が尊重されることは良いことのように思える。しかし、個が尊重されることを良しとして、特定の価値観の中に縛られ執着することによって、善悪が発生する。今の人々はその状態になっている。
そもそも、特定の価値感に囚われるから次の世界が観えなくなる。特定の価値観に囚われることで、善悪に囚われる。肉体から発生した自我のバリアによって、人々は二次元的善悪のマインドコントロールにかかっている。三次元の世界にいながら、二次元的思考で生きている。それを解きたいと思う。そこで、「あなたを捨てなさい」と伝えると、今を良しとして変化を拒む二次元思考の人々は自らを否定されたと思うのだ。

常に今を生きることは大切だ。今を生きるとは、特定しないフリーな状態で今を生きるということ。そこで囚われの心がある者は、今を「所有」し続ける。しかし、今を所有し続けても、今は次から次へと訪れ、次から次へと過去へ行ってしまう。だから、この世界では所有はできない。
それでも、人々は所有しようとする。それは、この世界が常に変化、変態、変容しながら循環していることに、抵抗している状態。しかし、肉体をもらい、地球上に生命として生きることは、それを体感する為にある。そのことを今の人間達に伝えたい。
それがわかると、何も恐れることはなくなる。今出会うことは、そこから学び、変化成長するためにある。捉われがなくなると、そういった解釈の元に、有難く豊かに生きられる。

すべてのものはいずれ死を迎える。そして見える世界から見えない世界へと旅立って行く。それは、見える世界が終わり、見えない世界に生まれたということ。そして、それが我々の存在する「ある世界」の実相だ。いずれ全てが終わるとしたら、それは「ある世界」が「ない世界」に生まれるということ。そして「ない世界」から「ある世界」に生まれてくるということだ。

そのすべては、物語だ。宇宙物語の始まりから永遠に、その物語は縁によって紡がれ、ここまで来た。その無限なる情報は、この世界の法則として我々の中にすべて内包されている。その永遠に続く法則を理解するためには、自我の器から出て法則の循環の中に思考を置いてやる。そうすると、観えてくる。
そのような永遠に長く巨大なものを、我々のように微細で、思考の限界、物理的肉体の限界、そういった様々な制約のあるものが、どのように理解するかだ。

我々の実体は、想念という無限なるものだ。だから、肉体や思考の制約を自らの囚われとして、そこから解き放ってやれば、たちどころに無限の存在になることが出来る。そしてその無限の状態からこの世界を観てみると、この世界の仕組みが解る。それは永遠なるものの永遠が循環している世界。永遠に・・・
今の目の前にある事象に出会うことは、永遠に続いていく今に出会い、そして循環していく姿。永遠の目で観れば、それが簡単に解る。囚われることは何もない、多様で自由な世界だ。

しかし、それはそれだけの尺度のある思考を持って観ないと理解できない。まだこれからたくさんの時代を刻んで進化していくのに、今に囚われていては、その歩みが囚われの歩みになってしまう。人々が今に囚われれば囚われるほど、この世界とのギャップが生まれ、問題ごとの多い世界ができる。その世界ではいつも善悪が飛び交っていることになる。
21世紀は、その囚われのない、善悪のない、常に自由に変化する世界、そこに入る段階に来ている。しかし、それがなかなか人間世界に顕れて来ない。それを伝えようと思っても、この胸の内にある心を直接見る仕組みがないために、形に囚われている二次元思考の人々には伝わらない。三次元、四次元思考の人々は、その形を超えた世界を観ることができる。

二次元世界とは、平面の善悪思考のこと。それに対して三次元思考というのは、そこに天の視点が加わる。つまり、見えないものの思考が加わる。そうすると、形の見えるものがどんな背景によって現されているかがわかる。そこでは、善悪二元論では語らないことになる。
さらに、宇宙は四次元だから、三次元を見える世界とするならば、宇宙は「ない世界」から生まれて「ない世界」に還っていく。その「ない」ところの視点ができると、四次元思考になる。それは、解説のない世界。その世界に出会ったものが、ただ「ああそうなんだ」と納得するだけの世界。
21世紀を生きる人々は、その段階へ到達する。それを伝えようと思ってはいるが、肉体を持っている者が伝えようとすると、心の目で受け取る人にしかそれは伝わらない。つまり、肉体の制約があって心が直接伝わらないのだ。真実を伝えるのに言葉はいらない。その人なりに感じ取れば、本当は伝わる。それを言語を使えば使うほど伝わらなくなる。言語はとても便利がいいもの。しかし、便利が故に、真実が伝わらない不自由なものでもある。

わかるかな?この妙な苛立ちの気持ちを。そこの世界では細かい話はどうでも良くなってくる。直接その心と出会って、それが美しければそれで良しになる。形に囚われない世界。そしてその心が汚れていたら「汚れているよ」と伝えるだけでいい。

ひとみ:
それが四次元の世界。

いさどん:
いや、これは三次元の世界。

ひとみ:
三次元?大まかでわかるということ?

いさどん:
変な質問してくれたね?大まかではないの。何も吟味しなくても瞬間にわかるということ。それを阿吽というんだよ。

ひとみ:
阿吽だね。

いさどん:
それは三次元だからね。それはあるものを理解しようとする世界。

ひとみ:
四次元になるとどうなるの?

いさどん:
三次元が、あってあるものの世界。それに対して、その「ある世界」を存在させているのが「ない世界」だよ。「ある世界」は、常に変化し続ける世界。その世界を特定して固定することはできない。それは変化し続けているから特定されない。しかしあり続けるもの。
それはその奥にある「ない」世界から「ある」ものが生まれているということ。この世界の実体は、我々が認識するからあるんだよ。認識なんてものは瞬間にしか過ぎず、特定するからあるのであって、本当はないものなんだよ。特定することはできない世界。だから、世界は「ない世界」でもあるんだよ。この世界の実体、「神」は、あってあるもの、なきてなきものと言える。

ひとみ:
その「ない」という世界が四次元なの?

いさどん:
四次元とは言わない。高次元というんだよ。

ひとみ:
層になっている?もっと上まで。

いさどん:
そう(層)。チーン(笑)。

ひとみ:
三次元世界(現象界)に対して、潜象界はなんなの?

いさどん:
ない世界だよ。

ひとみ:
だからそれが層になっているの?

いさどん:
そうだよ。それが神々の存在する世界。それは今ここにもあるんだ。

ひとみ:
なるほど。

いさどん:
それが21世紀に人間が想念で理解する世界。その世界では制約が何もない。

ひとみ:
今の脳では解析ができない。

いさどん:
今まで使っていた脳で解析するものではないんだよ。今まで使ってきた脳で解析していては、二次元的思考でしか理解できない。つまり、解析しない脳、感じる脳で解析する必要があるんだよ。それは解析することではない。ただ感じるだけ。脳で感じる。そして、心で感じる。

ひとみ:
でも理解じゃないんだね。

いさどん:
理解というのは自分の中で解析した状態。だから、解ろうとするのではない。事実がそこにあるだけ。情報に出会って、それを受け取るだけの世界。そうすると人間は二次元思考の世界から解放される。

ひとみ:
まだやってない。

いさどん:
それはどうかな。あなたは、既にしているよ。

ひとみ:
気がついていないだけ?

いさどん:
あなたは今、多次元の宇宙を生きているんだよ。この世界を生きるということは、無限の事象に出会って、無限の選択をしていくことになっている。人間は、一日に3,000回の選択をしているそうだよ。認識していないでしょ?つまり、理解しないところで我々は生きているということ。その中のどれだけの分を認識しているか。
人体の細胞から始まって、無限の選択の中で今を生きているということ。理解を超えたところで生きているわけでしょ?この世界は、昔からそうなんだよ。それは生かされているということでもある。しかし、多くの人は自分を特定したと理解して生きている。その時点でマインドコントロールされている。目が狂っているんだよ。

ひとみ:
すごい!面白い!今までこんな話に出会ったことがない。でも、こういう話が聞きたくて生まれてきたんだな。

いさどん:
あなたは「いさどんが生きている間に、いさどんからどれだけ学ぶか」と言っていたでしょう。まだまだ情報は沢山(無限)にある。

ひとみ:
私はこういう話を聞きたかった。まだ、自分が解らないところを・・・ああ、嬉しいなぁ!(涙)

いさどん:
その心は、その喜びは、誰もが持っているんだよ。すべての人々にそこに到達するだけの種があるんだから。

ひとみ:
今まで余分なものがあるから、いさどんからこれを引き出せなかった。もっといっぱい詰まっているのに。

いさどん:
この世界の実体だね。
我々は人類のために生きている。人類の目覚めのための大いなる実験をしている。

ひとみ:
ひとつに溶け合うことが大事だよ。

いさどん:
あなたと私に差はない。

ひとみ:
そしたらこういう世界が展開されていくんだね。

いさどん:
そしたらさ、「ゆるいつながりがいい」なんて言わなくても、思いっきり一つになれる。

ひとみ:
すごい自由な楽しい世界だよね。

いさどん:
こうやってハグするでしょ。ハグすると体の限界を感じるんだよ。
男と女でも引き合って、一つになろうとするでしょう。でも、ほんの一部分しか一つになれない。それは肉体の限界。気持ちが相手を愛していると心は一つになろうとする。しかし、体の制約があってそれがならない。
そこを突破することはできる。もっと大きな枠組みでこの世界を抱えている宇宙は一つだから。その次元(高次元)に意識が到達すれば、誰でもこの世界(宇宙)と一体になれる。

ひとみ:
それが、理解ではなくて感じることだね。
 
 


この世界を宇宙として生きる者は

これからあなたが年を取り、80歳になったら、外観は今と変わるだろう。しかし、その中の本質は歳をとらない。そしてそこには死はないということも言える。
私たちはいずれ肉の体を離れる時が来る。仮に、肉体を持って生きる期間が80年だとしよう。それは我々の地上の時間で考えると長いようだけれど、一度宇宙空間へ出て、その宇宙空間的スケールで考えたら、地球が太陽をたった80回(29200自転)周っただけなのだ。

私たちは、この生活を始めて、鶏を飼うようになった。養鶏は来年終了を迎えることになったが、麹を作り始めた時も、味噌や醤油の仕込みも、菌の培養も、ミツバチの飼育も、初めてやる時にはいつも僕が関わっていた。鶏を飼う時にも全く未知なることだったので、色々な参考書を手引きにしながら雛から育てていた。その過程の中で、雛を健康に成鶏まで育てていける術を確立していくのはとても難しいことだったが、それでも薬を使わずに、いろいろな工夫を凝らしながら今の安定した木の花養鶏法が確立されてきた。
雛を育てる時に一番大切にしてきたことは、雛を「観察する」ことだった。しかし、それは雛を育てるための観察ではない。雛は毎日大きくなっていく。雛の年齢は、日齢とか週齢という単位で数えていくのだが、1日1日育っていくのを観ていると、雛の行動が変わってくるのがわかる。雛を1週間育てると、人間で言えば幼稚園に上がった段階。その雛を育てていって、大体60日か70日経つと、羽毛がとれて、しっかりした羽が出てくる。それが小学校高学年くらい。そして、70日、80日くらい経つと、雄鶏と雌鶏の違いがはっきりしてくる。
90日から100日くらいになると、雄鶏と雌鶏の違いがよりはっきりしてきて、雄鶏が時々太い声を出すようになり、交尾行動で雌鶏の背中の上に乗ろうとする。70日に至る前は雄鶏と雌鶏の違いはほとんどなく、雄鶏が雌鶏に乗っかろうとすると、雌鶏は逃げていく。ところが100日くらいになると、雌鶏がその行為を受け入れるようになる。ただ、まだ交尾の練習のようなもので、今の若者たちが中学から高校くらいにかけて興味を持ち、そういったことを始めかけるようなものだと思われる。そして120日くらいになると、初卵といって雌鶏が初めて卵を産み出す。この頃になると交尾は成立するが、まだ未熟な段階である。もしそれが有精卵になってかえしたとしても、あまり良い雛は育たない。人間でも若くてまだ未熟な時に子供をもうけると、その後の夫婦(男女)関係が壊れたり、環境が良くないということで子供に問題が起きることもある。大体140日から150日くらいで成鶏として一人前の卵を産むようになり、その段階でとった卵で雛をかえせば良い雛となる。

鶏を健康に育てようと鶏を観察していたら、1羽1羽個体は別々でも、その成長の変化が日齢と一致していて、個体差はあっても全体が同じような過程をたどることがわかってきた。そして雛を1日という単位で観察していくと、単純に雛が育つという捉え方ではなくて、地球の回転と何回付きあうかによって、その鶏の雛の様子や行動が変わってくることに気が付いた。

人間もまた、生まれて歳を重ねていくと、感情が変化していき、最初は男女の意識すらなかったものが、意識して遠ざけるようになったり、どうしようもない衝動に駆られて惹かれ合うようになったりする。それは、鶏の成長具合と同じではないのか。
つまり、我々が生きて、年齢と共に感情や行動が変わっていくということは、地球の回転に何回付き合ったかということ。そこに思考が生まれては消えていき、それによって成長していく。そして人生の終末を迎えた時に、それに相応しい塊となって旅立っていく。地上意識・人間の感情で考えると、思考は自分の意思のように思えるが、実は地球の回転数によってそれが生まれていくということに気付いたのだ。
1日1齢と考え、80年生きるとしたら、29200齢となる。つまり、地球が1回転することに付き合うたびに、我々の体が変化し、それにふさわしい感情が生まれてくることになるのだ。

そして、食べ物や気候など、その人がどういった環境で育ったかも、その人の感情や人格の形成に大きく影響している。人間は、内に意識が向き過ぎて、個で世界を意識しているが、実は自らの人格すら、自らを取り巻く環境の側から与えられていることになる。地球暦では、生まれた瞬間の太陽と惑星の配置から、その人の人格や人生を読み解く。星と星の対話や地球の生態系の中で織りなす環境が我々の人生を表わしているとしたら、我々はそういった外からのものを受け取って、内に映し、また外への表現として返している、とも言える。我々と世界はそういった鏡同士の関係だとしたら、私というものは私を特定した認識の位置の外の世界、すなわち時と環境を表現しているということである。
その外からの目線を、人間は忘れてしまったのか、封印してしまったのか。内から出ている自らの感情に対して、それが外から来ていることを意識すると、内から一方通行に出ている自我の心が消えていく。そして、自らの感情や、人生が自分のものなのかどうかということが、不確かになっていく。
しかし、自分の内から外へ観ているだけの一方通行の思考をしていると、半分しかものが観えていないことになる。外の世界は無限に広がっているのに、ほんの一点しか見ていないことになる。それが私たち人間の実態だろう。
今の自分の感情は、星と星との関係や、周りの環境によって生まれている。例えば女性なら、生理が来て体調が思わしくなく、感情が落ちているとしたら、それは月と地球(自分)の関係から現われてきている。性的欲求や食欲が現われるのも同じ事で、それを自分の意思と捉えたり、それを表現することが自分の自由のように思っているが、そういった感情が歪んでくることすら、周りの環境や、星と星の配置の関係により微妙な不完全や歪みが生まれることによって起こっている。
それを自らという「個」から捉えると、特定したくなるものだが、その全貌を客観的に観ていくと、この世界を生きることは宇宙の表現を個々に托されているということなのだと気付くことができる。

そんな捉え方ができることに、鶏の雛が育っていく過程を眺めていて気付いた。
そういった視点で出来事に出会っていくと、現象に出会うことは世界の仕組みに出会うことになる。人間は、日々の生活を自分の枠の中で、自己主張もしくは自己表現として生きているが、それはそういった自分目線から見た世界にしか過ぎない。それは自意識という色を付けて見ているだけのことであって、そこでは対象を見ているのではなく、自らの意識の色を見ていることになる。そこから自意識を取り除けば、宇宙の情報と出会うことになるのである。

そこから何が観えてくるか。
我々は、今こうして一般の社会とは違う生き方をしており、時代もそれを刻もうとしている。新しい領域に視点を向けて、その視点から生まれる価値観と現象を表現しようとしている。まさしくこれこそが地球の意思を生きることであり、時代を刻む最先端を生きることである。
時代が刻まれていく時、時代に生きることに気付いていない者達は、自意識から価値観を見出そうとして、時代に抵抗する。しかし時代は徐々に移行していき、最後には抵抗する者達も移行していくことになる。
これはまさしく時であり、時代であり、流れであり、宇宙の働きである。そして、瞬間瞬間を確実に、過去から未来へと永遠に変化し続け、進化していく。この世界に同じ瞬間は二度と来ない。

自我に捉われている者達は、特定の位置に自らを縛り、変化することを恐れたり執着したりする故に、この世界の出来事を善悪で見たり裁いたりする。この世界を宇宙として生きる者は、自我から離れ、変化することを一切恐れない状態に自らを解き放ってやる。それが宇宙を生きるということであり、神(天)の道を歩むということになる。神の道を歩むということは、天の法を生きること。そこでは、個は薄くなり、消えていく。そして、宇宙という絶対な私が観えてくる。

人間がこれから真実を観ていく時に、無限なるフロンティアが開かれてくる。だから、「知っている」と思わずに、常に学ぼうとする心が大切なのである。
人は年齢を重ねていって死を必ず迎えるが、体は衰えても脳は成長し続けていくことができる。その脳の成長は魂の成長なのである。私たちは地球上に降り立ち、死を迎える時には物理的なものはすべてこの世界に還していく。しかし、脳の中に蓄積された記憶や世界観はすべて魂に刻まれて、次の自らの歩みに持っていくことができる。これが唯一、私たちがこの世界に生きて、次につなげられるものなのです。
  


85%の脳が新しい時代の扉を開く

いさどん:
今、多くの人が本物を探し求めている。世の中には中途半端が横行していて、その程度のものを求めている者はそれでいいのだろう。しかし、本当に妥協しない本物を探している人たちは、ここに出会わなければいけない。

今日相談に来た親子には、3時間も話をした。親は息子のことを心配していたけれど、その心配がどこから来るのかを紐解いていくと、実は何も心配する必要がないことがわかった。親は自分を変えなければいけないことを伝えられ、息子は息子で親の心を理解し、自分が本当に活かされていくためには自分を変えなければいけないことを伝えられ、本当に二人は目からウロコという感じだった。
もっともらしいことを言ってたくさんの人を感動させることは、講演でもコンサートでもできる。けれど、特定の人間に対してその人の魂に特化した目覚めを与えられる場所は、そうはない。僕は忙しかったので面談を1時間くらいで済まそうと思っていたのが、結果的に2時から5時まで話すことになった。「ああ、時間を惜しんではいけない、こんなに大切な場所があるのだから」と思った。
そんな時、本当に大切な、他に代えられない生き方をしているといつも思っている。本物を探し求めている人がその匂いを感じ取れるような発信の仕方をしていくことが、これから我々に必要になってくる。その匂いを感じる力は直感なんだよ。そしてその人たちの心に響くためには、ここのみんなが本当にこの生き方が大切なんだということを心から感じて、日々生活していくことだよ。

ともこ:
この生き方がどれだけ大切かということについて、まだまだ私たち自身のわかり方が弱いのかもしれない。

いさどん:
そこなんだよ。

ともこ:
ここで育った子どもたちと一緒だね。ここの中にいると逆にその価値がわからなくて、外から来た人の方が「わあ、これだー!」と熱心に求める感じがする。

いさどん:
子どもたちはこれから社会に出ていろいろなものに出会って、その価値を理解していくだろう。大人のメンバーは社会での経験も積んで自らの意志でこの生き方を選んだのだから、その自覚ができるだけの下地はすでにあるはずなんだよ。
今日はなぜ3時間も話したかというと、向こうがそれだけのものを引き出したからだよ。僕はいつでも、相手の器に合わせてしか話せない。

ともこ:
逆に、ここのメンバーの方が学ぶことに対して受け身の姿勢になっているのかも。

いさどん:
現代の人間は脳全体の15%以下しか使っていないと言うでしょう。今のみんなは、日頃使っている脳の中だけで理解しようとして、残りの脳を使わずに良しとしている状態なんだよ。
僕は、何かを質問されてそれに答えようとすると、内容によってはいろいろなことが付け加えられて新しいバージョンで話すことになり、新しい脳が使われていくことがある。だけどみんなには、そういうことがなかなか起きない。普段と違うことをやってみんなで考えた結果、使われていなかった部分が活性化されていくような世界になるといいのだけれど、やっぱり多くの人は口を開けて待っている状態で、誰かがやってくれるだろうという感じなんだよ。

ともこ:
この場に満たされているのかな。

いさどん:
そうだね。すごくいい環境だからね。とても豊かで何も不安がないから、なかのんがいくら決算報告をしようが「へえ~」と言っているだけで何も考えなくていい。

ともこ:
すごい矛盾が発生するんだね。安心な世界を創ろうとして、でもその安心の世界にいるとボケてくる。

いさどん:
安心の世界を得られているということは、安心だからこそ、新たな世界へエネルギーを向けて探求していけることにもなるんだよ。それが安心の世界に浸ると、新しいところに向かうのではなく、そこに安楽を見つけてそれでいいんだとボケてしまう。生きるということは常に活性し続けることだよ。

ともこ:
そこがあまりよくわかっていないんだと思う。安心の世界にいても、さらにもっと先に未知の世界があるんだということを知ると、ボケてる場合じゃなくなるのかな。

いさどん:
みんな先があるとは思っている。だからここに集っているわけだよ。しかし、それを人からもらおうと思っているんだ。それは自分から湧き出てきてもいいものなのに、そこを考えない。この先があるだろうと、誰かの後について行ってる状態なんだよ。

今日相談に来た親子は、摂食障害を治すための施設に娘さんを預けているそうだよ。やっていることはここと似たような感じだから、病気を治すためならどちらに行ってもいいと思う。しかし、世界観の大きさで言うと、ここは異次元だね。それは別世界のものであり、その別世界に出会えるチャンスと、単なる病気の改善とは全く異質なものなんだよ。
だけど人によっては、ただ病気を治すという目的が果たせればどちらでもいいわけだ。つまり、人間が目的を果たすということは、自分の考えている範疇の答えが欲しいということ。それは学校で勉強をして資格を取るとか、卒業してふさわしい就職先を探すとかいうのと同じことなんだよ。

しかし、本来人間が学習するということは、自分の枠を越えて成長していくこと、つまり、自分が今まで持っていた概念が壊れて新しい概念に変わっていくことなんだよ。自分の概念の範囲内の目的を達成するためにやるのは本当の学習ではなく、現在の自分を守ろうとする知識の学習であって、本来の学習とは、智慧が湧き出てきて、自らの枠を越えた新しい世界がもたらされること。智慧の学習でも高いレベルと低いレベルがあって、当たり前の社会のニーズに応えていくレベルから、高次元世界を体感するようなレベルまであるんだよ。
21世紀は、1000年から2000年の10世紀が終わり、新しい1000年単位の価値観が湧き出してくる智慧の時代に入った。そういったことを実感して、そこに対応する脳を使う。今までの意識レベルでは使っていなかった脳があるんだよ。だから、21世紀は脳の時代。今まで休んでいた部分を使うようになれば、そこがちゃんと働くようになる。その部分は使わないでこの為にとってあったのだから。

ともこ:
それが自分の中にいっぱいあるんだ、という感じは、すごくする。

いさどん:
それをみんなが使うようになれば、みんないさどん的になる。いさどんになるのではなくて、いさどん的脳の使い方になる。

ともこ:
おもしろい!みんないさどん的だけどいさどんではないから、全然違う個性が発揮されることになる。すごいことになるね(笑)。

いさどん:
そうしたら、新しい発想がいっぱい生まれてくるよ。もっと縛られない、自由な発想が生まれてくる世界が広がる。それってわくわくしない?

ともこ:
するする。そうすると、うちの自然療法プログラムはただのケアプログラムじゃないんだね。病気が治るということもそうだけど、全然違う世界に出会うことになる。

いさどん:
体の病気もそうだけれど、特に精神的な病気は、人の本当の使い道が間違っているから起きるのだと思う。例えばオウム真理教は犯罪を犯したけれど、彼らがなぜそうなったのかと言ったら、社会がその人たちにに正しい使い道を提示できなかったからだよ。しかし本来、どんな人でも、その人にふさわしく活かされる場所があるはずなんだよ。それがそうなるためには、本人がそのことに気付くと同時に、社会にそのポジションを与えるだけの余裕があるかどうかの、双方の条件が必要になってくる。

ともこ:
それは、脳の15%しか使っていないということときっと関わってくるんだよね。

いさどん:
15%の狭い世界で考えていては不可能だったことが、もっと多様な脳を使うことで可能になっていく。しかし、一人がそういった発想になって伝えたところで、それを取り巻く社会や家族がそうならないことにはどうしようもない。

ともこ:
難しいね。

いさどん:
難しいけれど、それを少しずつ浸透させていく為にも、ここの歩みが見本となることがまず必要なのではないかな。
今ここでは、これまでわからなかった様々なことがどんどん解き明かされているでしょう。新しい何かに出会うと、それは新しい何かであると同時に今まであったものにつぎ足されていき、世界が広がっていく。それは天と共同作業をしているということであり、天との共同作業である限り、時代や世の中の動きと我々は連動しているということなんだよ。そしてこうして解き明かされていくということは、時代の扉を開いていることでもある。その自覚が必要なんだよ。
それは、世界に対してとても大事な仕事をしていることになる。その自覚があるかどうか。その自覚があったら、揺るぎなく生きることができるよ。常に時代の先端で扉を開けている自覚があると、人は時代に流されなくなる。

ともこ:
それがわかると、揺るぎなくなるし、楽しいし、安定した中にいてもボケないね。
私ね、自分がモドキだってことを忘れないようにしてる。自分にとらわれている限り、立場が変われば自分を正当化しようとしていつでもここを攻撃する側になるってことを、忘れないようにしてるんだ。

いさどん:
モドキであることを忘れると、自分の中のモドキが蘇ってきても、それでいいことになるからね。だから常に自己チェックが大切なんだよ。
自分を美しい心にしようと思ったら、まず自分がどういったものであるか、自分の素性を理解する。そこでは自らに対する欲目があってはいけない。客観的な目線で自分を捉える。もしくは他者の目線を借りて自らを捉える。そして、客観的かつ冷静な判断のもとに、自らを分析して、不要なものは取り去り、不足のものは足していく作業がいるわけだよ。
そういった覚悟が今の人にはない。ノーチェックの状態で、自分から見える景色や、それに反応する自分の感情で生きてるだけの人がほとんどだよ。何かを社会的に成し遂げたような、いわばこの世界で優秀とされるような人は余計にそういった傾向がある。そして、自分を所有するばかりで、その大事なポイントに気付かない。そういった人は、本当に綺麗にはなれない。

ともこ:
でもそういう人たちも、自分は変わりたいとか、変わらなくてはいけないって言ってたりするよね。

いさどん:
そう。ではどう変わりたいのかと言うと、自分の心が許せる範囲内で変わりたいんだよ。それでは変わらないのと同じで、変わりたいモドキというか、変わりたい症候群みたいなものになる。

ともこ:
本当に「変わる」ということの意味がわからないんだね。

いさどん:
わかってないね。変わるということの意味を勘違いしている。何か、理屈や知識を身につけて、今までと違うことを言って、「変わった」と思っている。

ともこ:
せめて、使ってない脳があるってことを意識できるといいんだけどね。
自分の中に眠っている85%の脳を起こしたら、その分、時代の扉が開かれることになる。

いさどん:
眠っている・・・か。確かに目覚めるという意味では、眠っているとも言える。ただ、それは「使っていなかった脳を使っていく」とも言える。本当は、使われていない85%の脳はいつでも起きていて、使われるのを待ってるんだよ。「自分の方に意識を向けろー!」と言っているのだけど、今の人はその手前の15%までしか意識が行っていない。
「寝ているのを起こす」と言うと、その脳はそんなに欲求していないみたいでしょう。だけど実際は脳は起きていて、こっちを向け、こっちを向けと言っている。だから人の意識がそちらを向くと、脳は「やっと来たか!」と言うんだよ。

ともこ:
おもしろいね!(笑)

いさどん:
それが目からウロコの世界だよ。もしも脳が寝ていたら、人の意識がそちらに向いた時に寝ぼけまなこで「はあ、来たの。じゃあ起きるか」という感じでしょ。それでは目からウロコにならないじゃない。だから、脳は起きていて、ギンギンしながら人間の意識がそちらへ向くのを待ってるんだよ。つまり、脳の方が先に時代と連動していて、天とつながっているんだよ。あとは人間の意識がそこへ向くかどうかだ。
言葉は言霊だから正確に表現するのが大切だよ。脳は眠っているのではなく、起きて待っている。そこに意識が向くということは、三次元思考になるということだよ。そこから四次元、高次元思考につながっていく。

ともこ:
いさどんにとっては、ものごとを三次元的、四次元的に捉えるのが普通になってるかもしれないけど、私たちはまだまだ、こういった話を聞く時も自分の二次元的な思考の枠の中で聞いてるよね。それが染み付いちゃってる。

いさどん:
そういった人は、人から「聞く」だけという状態になっているんだよ。僕は聞いて、「調べる」というふうにしている。つまり、まず相手が何を言っているのかを聞きながら、その背景にある人格や環境など、今現在相手が言っていることの奥にある原因を探っていく。そして相手の話に答える時には、その人自身が自分の言葉の背景にあるものに気付くように話をしていく。それは相手が聞きたいと思っていることや、こういった答えが返ってくるだろうと予測していることを超えた話になるわけだよ。
そうすると、相手はある意味自分の考えを否定されることにもなる。否定された上で、「その話はこのように解釈できるんだよ」と別の視点が提供される。すると、その人が今まで考えてきたこととは違う捉え方が観えてくる。それはその人本人よりも、話を聞いただけのこちらの方がよく理解しているという状態でもある。それが次元が違うということ。それを受け取ってもらえれば、その人の意識転換の役に立ったことになる。

ともこ:
それは、いさどんだったら相手より高い次元にいるからそういう捉え方ができるけど、そうでない人が高い次元で話を聞くにはどうしたらいいのかな。

いさどん:
それは「髙い」ではなくて、「広い」と言った方がいい。幅を広く捉えて聞くことだよ。今の例えで言うと、相手がついて来られる範囲で「あなたの今言っていることはここまでの解釈での見方であり、その背景にこういったものがあることが観えますよ」と伝えて、「ああ、そういうことか。では、このように受け取ればいいのですね」と感謝するというように、相手が受け取る話になる。それは思考範囲が「広く」なると、自然になっていく。
「高い」というのは、それをさらに宇宙視点で観て、我々はそこから何を得てどのように進化していくべきなのかや、その事を通してこの世界の仕組みを紐解いていく、ということだよ。

しかしまだ、そういった視点を持てない人間の姿があって、人間はなぜまだこのような状態にいるのかの思考の機会を与えられている。そして、それを今後どうしていったらいいのか。その道筋を与えているものがいるはずで、それはどういった存在なのかという話になっていく。それがこの世界の存在する意味でもあり、今考えているようなことはどこで起きているかといったら、我々の存在する宇宙空間で起きている。そこと我々は本来連動しているはずで、宇宙全体はこのことを通して我々に何を伝えているのか、我々に関係なく宇宙は何をしようとしているのか、というように、いくらでも世界は広がる。

そんな、普通の人が考えないようなことを僕は考えているわけだ。そこで、人と話をする時はどこまで伝えたらこの人にはちょうどいいかなと考えて、伝えているんだよ。

ともこ:
でもきっと、自分の枠より広くて高い話を誰もが聞けるはずなんだよね。

いさどん:
聞けるよ。意識をフリーにしたら聞ける。
それを「わからない」と言って否定するのは、日頃から自分の解釈できる範囲内だけで思考していて、そこに自分を閉じ込めているからさ。その枠を壊せる人は、火事場の馬鹿力と同じように、普段では考えられないような能力が発揮されるんだよ。脳の15%しか使っていないとしたら、その自分の常識の枠を壊してやれば、いつでも85%の方を使い出すことができる。

それを、自らの意志で進んで壊せるかどうかだ。
  
 


木の花ファミリーはどこへ向かっているのか

ある日のいさどん、ひとみ、ともこの会話です。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
これまで、歴史上には多様な価値観があったね。それをここに生きる者が、今の時代からさかのぼって体験することはできないけれど、歴史上の記述を振り返って想像すると、時代は多様な価値観を変遷しながら紡がれて、今に至っている。これからも、時代と共に価値観は変わって、歴史が紡がれてゆく。
そういった中で、今、時代が移り変わろうとしていることは間違いない。それはどういうことかと言うと、20世紀型の価値観から21世紀型の価値観に変わろうとしている。

21世紀はどういった時代か。19世紀、20世紀は、モノや、モノが高じてカネの価値が優先された時代だった。だから、人の質はあまり問われることはなかった。むしろ、モノやカネが基準となって人の質をはかってきたんだよ。
そういった時代を振り返ってみると、その20世紀型の人々のあり方が、結果として、時代に負の遺産をたくさんもたらした。結果を見る前の段階では、多くの人が「これでよし」としてやってきたけれど、今その結果を見てみると、たくさんの行き詰まりが様々な方面に表れている。
しかし、ある方面の人たちは、相変わらず今の価値観や社会制度の延長に次の時代を模索しようとしている。そこでは、視点の違う者同士が対立する現象も見られる。それは、同じ土俵の上で方向が違うから対立しているともいえる。現状を守ろうとする者も、新しい社会の突破口を開こうとする者も、思考の次元は同じところにいる。どちらにしても、それに対する画期的な回答は生まれない。

ともこ:
今の原発反対運動もそうだね。賛成か反対かという立場の違いで対立しているけど、ベースになっている精神性は一緒。

いさどん:
そうだね。例えば福祉を充実させるということでも、すべてお金に頼らなければいけない。すると経済を大きくしなければいけないでしょう。経済を大きくするってことは地球に負荷をかけるわけだけど、時代はもう、それを望んでいないんだよ。
若い人々は、時代の意志を受けて、もうガツガツ働こうとはしていない。働くのではなく、楽して得ようとすることの延長にいる。戦後のような、貧しさを満たそうとするエネルギーは生まれてこないんだよ。

ともこ:
今の人は、「傍(はた)」を「楽(らく)」にするという、本当の意味での「はたらく」ということをやっていないんだね。

いさどん:
社会を創るという意味での「働く」ということだね。しかし、そう言い切ってしまうのは雑だよ。
まずおおまかに形を作る時代があり、それを整えようとする時代があり、それが仕上がると今度は維持する時代になる。しかし、時代に合わなくなったものは、維持することが困難になってくる。それを維持する意欲が湧かないということは、維持し続けていく必要があるかどうかを問われているということだよ。過剰に形を求めてきた結果、それをシンプルにそぎ落としていく時代に入った、ということでもある。

ともこ:
人間はすごく能力が高いはずなのに、結果を見て学ばないんだね。今までやってきたことの結果が目の前に行き詰まりとして現れているのに、まだ今までのやり方でやろうとしてる。しかも、自分がそうであるってことに気付いてない。

いさどん:
結果を見て学ばないというか、「流れ」を読めていない。目の前にあることに追われて、翻弄されて生きている状態。だから、長期的な視野が持てないんだよ。
これまでの社会や個人が大事にして来たものは、視点が変われば魅力的なものではなくなるわけだよね。人間たちが、ある意味一方に偏った価値観を追い求めてきた結果、今の社会がある。そして、19世紀、20世紀の産業優先型の時代が終わろうとしているのに、次に行くための新しい価値観を、人々はまだ見出せずにいる。価値観が見出せないから、人々は、時代が変わろうとしていることに対して迷っている状態なんだよ。景気が良くならないのも、人の感情がそういったものを求めていないんだよ。景気は人の感情に左右されるものだから。

では、これからの時代をどう読んでいくか。
20世紀までよりも、これからの時代の方が、前の時代のツケが顕著に表れる時代になるだろう。だから、環境は厳しくなる。
そして、今までのような産業優先型の社会を望まない人々の時代が来る。それには共同の時代が来なければいけない。その時に、どの程度の共同が必要か、ということなんだよ。

ともこ:
なるほど。

いさどん:
今木の花で行っているのは、人がとことん共同していくと、そこではどんな世界が表現されるのか、ということの大いなる実験のようなものだね。それは何を目的にしているかと言ったら、個人の概念をどこまで捨てられるか、エゴを超えて社会を創るということはどういうことなのか、ということなんだよ。
それに対して、エゴを捨てないで次の時代に行こうとする人たちがいる。それは多様性だから、いろいろあっていいけどね。

ひとみ:
エゴを捨てないで次の世界があるかな?

いさどん:
エゴというのは、永遠にあり続けるものさ。この肉体を個別に持って生きる限りは、エゴはあり続けるものだよ。
ただ、それがどこを向いているかだよね。これまで人間は、個を表現して、個の満足を求めてきたわけだよ。その個の概念が変わってくると、個は全体の中の一部であり、全体は個の集合体であると捉えられる。すると、個が大きくなっていくんだよ。究極的に個が大きくなっていくと、この世界と個が同一のものとなる。
それは悟りの境地だね。この世界と自分が合一するのだから。この世界を・・・

ひとみ:
この世界を?

いさどん:
・・・説明するのがめんどくさくなってきた。

ともこ:
宇宙の言語を人間の言葉に翻訳しないといけないから?

いさどん:
人にわかりやすく伝えようとすれば、そこに注文をつける人間がいる。それを大きい枠で捉えて伝えられても、「わからない」と言う。
ここでみんなは、この価値観の中で暮らしているでしょう。そこで個が大事な人は、自分は何のためにここに暮らしているんだろう、と考えるようになるんだよ。この世界に自らが溶け込んでいき、そして個が消えていくことを目的としていれば、この生活は充実したものになっていくわけだよ。だけど、自分は何のためにいるんだろう、私の求めるものはどこにあるんだろう、私の幸せをつかむにはどうしたらいいんだろう、という個の願望を満たしたい方向に考えれば考えるほど、ここにいることが矛盾になってくる。

それでも、人間は面白いものでね、個の欲求をどんどん叶えながら年を取っていくと、「私はこのままでいいんだろうか」「これで人生を終わっていいんだろうか」と思うようになるんだよ。

ともこ:
おもしろいね。

いさどん:
それなのに、個をなくす方向へ行こうとすると、私はどこへ行ってしまうんだろう、私の願いはどこにあるんだろう、と考えるようになる。そこで、究極的に個の欲を求め続けて破綻する人間と、それを上手くやり続けて破綻しない人間と、そして、個の欲望を満たしながら、その先に起きることへの自責の念も感じて、破綻しないように妥協点を見出そうとする人たちがいるんだよ。

ともこ:
エコ活動しているような人たち?

いさどん:
そう。それは中途半端な“モドキ”の状態。
では、我々はいったい何をしようとしているのか。この目的をとことんやり切ろうとしているわけだよ。昔ならば出家者として、俗世から離れてそれを求めた。それを我々は、世間にいながらにしてやっている。つまり、生活は世間を生きているが精神は出家者。それがここの在り方だと思う。

ともこ:
今、ここのやり方に問題があると言って攻撃的なメールを送ってくる人がいるけれど、なんで攻撃するのかな?彼らには彼らの考えがあって、ここにはここの考えがあって、それは多様性でいいんだ、ということにはならずに攻撃してくるのは、何か自分たちが脅かされるような感じがするのかな?

ひとみ:
恐れがあるんだよね。

いさどん:
やはり自分たちがやっていることを良しとしたいから、それを社会正義のようなつもりでやっているのだろうね。

ともこ:
自分たちのやっていることに絶対の自信があったら、「ああ、木の花の人たちは馬鹿なことやっているなぁ」って思って放っておけばいいのに。

いさどん:
そうだね。
僕には、たとえどんなに抵抗があろうとも、この道、この生き方が大事だという、損得の思考を超えた、本能的なものがある。それは、形が変わろうとどうしようとやり続ける。
そこにとことん共鳴する者が集まって共に行くことはいいのだけれど、これまでは“モドキ”がその中に入っていたから、今のように無理解なバッシングが起きることになった。だけど今は、モドキはいないと思うんだよ。ここに生きる上で、モドキとモドキでない者の立場の違いがはっきりした。それである程度の抵抗力が付いたから、外からのバッシングが始まったんだよ。その抵抗力がない時に外からバッシングされたら、ひとたまりもない。

ともこ:
内部崩壊だ(笑)。

ひとみ:
ちょっとは成長した、ということなのかな。

いさどん:
成長したというか、段階が進んだということだね。

ひとみ:
今は別の課題で鍛えて貰っているんだね。絆は、以前より強固になったよね。結束力がある。

いさどん:
そこで、ふと思うんだよ。個人の願望を叶えたい人がもしここに来た場合、このマニアックな出家者の生活をしたら、それは疑問も持つだろう。しかし、元々ここのみんなはそこを目指して参加したはずなんだよ。だからこそモドキに対しても、モドキでなくなるようにすすめたのだけれど、結局はそこに無理があったから、それに対する無理解がバッシングを生んできた。
それは我々の力不足でもあるけれど、モドキ自身のせいでもあるんだよ。モドキは本来の自分にふさわしい場所に戻るのだけど、やはり自らの名誉とエゴの主張が欲しいんだよ。要は、自らの問題点と向き合いたくないわけだよ。

彼らは、ここでは自分のやりたいことを表現出来なかった、と言っている。ここでは自分のやりたいことを聞いて貰えなかったとか、自分とは考え方が違うから酷い所だと言っているんだよ。
しかし、元々ここは、そんなものを表現する場所ではないんだよ。そのような約束の元にあり、一貫して「個を捨てなさい」と言ってきた。

ともこ:
そうだね。今バッシングをしている人たちは、みんな個を優先しているから、そういう人たちから個をなくそうとする木の花を見たら、そりゃあとんでもない所に見えるよね。

いさどん:
だから、個人のエゴを大事にして緩く繋がっているところが素晴らしいコミュニティということになるんだよ。
元々ここは、個の壁を超えた世界を創ろうとしているのだから、個を大事にしたい人には無理があるんだよ。それなのに、そこに共鳴したモドキの人たちがいたから、矛盾が生じた。元々、彼らが求めているような世界は、ここには在りはしないんだよ。だけど自分たちの見ているもの、求めているものだけを良しとして、その正義の元にバッシングをしているんだよ。
そのことを客観的に捉える必要があるね。自分がどの位置にいるかによって、正義なんていくらでも変わるのだから。

ともこ:
不思議だよね。彼らは、ここが人を虐げている場所だという風に捉えているでしょう?でも実際にここに虐げられている人はいなくて、むしろそのエゴを超えることを目指してやっているんだよ。

ひとみ:
直接、聞けばいいのに。

いさどん:
聞いてはいけないんだよ。聞いたら自分たちとは違う世界を認めてしまうことになるから。

ともこ:
でも、ここには実際に自分を被害者だと思ってる人がいないのに「被害が出ている」って言ってくるのって、普通に考えてもおかしな話じゃない?被害はありませんよと言っても「それはマインドコントロールされているからそう思うんだ」ってことになっちゃう。
そもそも私たちがなぜこの生き方を選んでいるのかというところには目を向けずに、うわさ話を聞いて自分の枠内の価値基準で判断しているから、それ以上世界が広がらない。いろいろ言う割には、本当のところに関心がないんだと思うよ。

ひとみ:
それで遠くから「ワンワン!」と言っている。

ともこ:
でも言うだけで、実際に自分たちは何かをやっているのかな?物理的な行動はしているのかもしれないけど、本当にこの世界のために、自分自身を根底から変える、ということに取り組んでいる人っているのかな。
この間、いさどんはこんな風にバッシングを受けてこの道を行くのをやめたいと思ったことはないかとひとみちゃんが聞いたら、「全くない」って答えてたね。

いさどん:
これが僕の道だから。矛盾のある言い方かもしれないけど、一人でもやる。

ともこ:
それを聞いた時に、バッシングしている人たちも順を追って考えていったら、いさどんが自分のエゴのためにやっているのではないということがわかるだろうと思ったの。だってもしも自分のエゴを満たすためにやってるとしたら、こんなバッシングを受けてまでやって、割に合わないよ。もっと簡単な欲望の満たし方がいくらでもあるのに。自分が逆の立場に立ってみたら、こんな大変な思いまでしてやらない、ということがわかると思う。だけどバッシングする側の人たちは、そこに考えが至らない。ものを考えていないんだろうなと思うし、相手を本当に見ていない。そもそも、本当を知ろうという気がないんだよ。

いさどん:
そうだね。なぜかと言うと、自分の都合で白黒をつけたいという考えがあるからね。

ともこ:
真剣じゃないんだね。その人なりには一生懸命考えているのかもしれないけど、同じ平面上で思考が巡っていて、発展性がない。つまりそれって、考えてないんだよね。

いさどん:
自分が今、人に対して何をやっているのかも見えていない。

ともこ:
それによって何がもたらされるのか、ということも見ていない。

いさどん:
僕は、人がやっていることに対してそれなりの批評はするかもしれないが、相手にベクトルを向けて攻撃しようなんてことは、絶対にない。そこではそれなりの判断は必要になるだろうけれど、それはその人たちの歩みの問題だから、常に尊重するよ。

ともこ:
みんな、それがわからないんだよね。正確に相手を見ているんじゃなくて、自分をかぶせて「こうだろう」と決めつけて見てる。

いさどん:
ここはマイペースに自分たちの道を歩んでいるだけだけれど、そこに合わずに出て行った人は、自分が脱落者になりたくないから、元いた場所を攻撃して自分の判断は正しかったと思いたいんだよ。それならば自分の道を歩んで極めればいいわけだけど、自らの立場を擁護したいから、ここを何らかの形に特定したいんだよ。

ともこ:
人間って恐ろしいね。自分が生み出したものを、自分が未熟なことを認めたくないばかりに他人のせいにして攻撃する。

いさどん:
そう。それでその延長に平和だとか調和だとかを語ることもあるだろう?

ともこ:
おかしいよね。だってそれじゃあ平和も調和も来ないよ。ずっと20世紀型の価値観で生きてきて、その結果矛盾がたくさん発生して目の前に現れているのに、それを生み出した価値観を変えるということをしないで、今までの価値観の延長のまま生きていて、都合の良いところだけ変えようとしている。
だけどそれって、いくらその矛盾を言葉で説明しても、本人が「こういうことか」と身体で感じない限りわからないんだよね。

いさどん:
みんな気分だけ納得させようとしているけれど、どうしたって自らの意識を変えなければいけない時代が来ているんだよ。中途半端に変えていい時代を作ろうとしているけれど、それは「タバコを止めなさい」と言われたら「タバコの本数を半分にします」というような話だよ。

ともこ:
そうだよね。私たちがやっていることは、そもそもタバコがいらない価値観になるということだよね。

いさどん:
そう。

ともこ:
でも、自分を振り返ってもそうだけれど、こういう話に「そうだよ」と納得しながら、実際の生活の中では「ああ、タバコ喫いたい!」と思っているような、根深いエゴが人にはあると思う。個の喜びを優先したがることから、なかなか抜けられない。

いさどん:
エゴが沁みついているんだよ。

ともこ:
そっちじゃないよ、とわかっているはずなのに。

いさどん:
たちが悪いのは、とことんそれをやって破綻している者ではなくて、中途半端にやってこれが正しいと思いこんでいる方だよ。つまり、理屈を捏ねて理想を語っている者がいる。
すべての者はいずれこの世界から旅立つから、その時には真実が何であるかがわかる。我々は今を観ているだけではなくて、いずれこの生を全うしたその先までを観ている。時代も含めてね。時代はもう宇宙時代だから、意識も宇宙時代に移行していかないと。

ともこ:
またEDEの期間にもいろいろ波が起きそうだね。

いさどん:
いや、EDEに限らず今年一年、それからこれからの時代は、毎年毎年いろいろなことが起きるよ。それが人生というものだし、何も考えないで毎日無難に生きてそれが幸せかといったら、それでは魂が磨かれないから、結局死ぬ間際に「何の為に生きていたのだろう?自分の人生とは何だったろう?」と思うことになってしまう。

ともこ:
どんな人でもいつかはそうなる。そういうふうになっていることがすごいね。

いさどん:
みんな、確実に死ぬ。その時に、人生で何をやってきたのかが、必ず問われる。どういう位置で何をしたか。心が狭かったか広かったか、高かったか低かったか。どの位置で何を求めていたかということだよ。自らの望む世界ばかりに走っていると、結局磨かれない。
人間がこの世界を知っていくこと。それが目覚めであり、“悟る”ということだよ。それはいつの世も変わらない。宇宙は不動のものとして無限に在り続け、人間はそこに降ろされてそれを悟り、宇宙にまた戻っていく。そのために、まずは自らの本当を知ることが大切なんだ。
宇宙の法を知った者は、今度は宇宙を運営する側に立つことになる。しかしまだ宇宙が何であるかということを学んでいる間は、この世界を創ることは出来ない。それはこの世界を認識する為にある個を、エゴのために使っている状態ということだよ。
さて、この捉え方について来られるかどうかだ。あなた、ついて来られますか?

ともこ:
うん。ついて行ける。

いさどん:
本当(笑)?

ともこ:
本当(笑)。面白いのは、その捉え方をする人はそれで行けばいいし、しない人はしないで行けばいいんだけど、みんなでこの世界を創るでしょう?だから、自分だけその捉え方をしていればいいというわけでもないんだよね?

いさどん:
そうだね。それが、我々が生まれてきたことの一つの使命でもあるからね。時代が表現しようとしていることとリンクしているかどうかだよ。その時代に合わない者としていることは、矛盾として表れてくるからね。
モドキでやっている者も過激にやっている者も、ポジションが違うだけで一緒の線の上にいるということなんだよ。だけど、自分の正義を振りかざしたい人はそれが許せない。我々はいろいろな生き方を認めるでしょう。それを多様性と言うんだよ。ところが、自信がないのか、自分たちがやっていることだけを正義だと認めたい人々がいるんだよ。
ここでは何故厳しいことを言うことがあるかというと、モドキをやろうとする者に「ここにいるのならそういうことでは駄目だよ」と言っているだけなんだよ。「やりたくないのなら別の生き方があるよ」と提案しているだけであって、ここから外れて行くのなら別にそれでいいわけだよ。わかりやすい話だろう?

ともこ:
うん。そういうモドキがいることも、時代と言えば時代?

いさどん:
それは勿論そうだよ。それを否定する必要はない。我々から観るとモドキだけれど、モドキにしてみたら自分はモドキではないんだよ。それぞれが自分のポジションをわきまえて、自分の歩みを粛々と行けばいい。

ともこ:
でも攻撃してくるね。

いさどん:
だからそれは自分の歩みだけが正しくて、他の歩みを許さない心があるんだよ。

ともこ:
ということは、攻撃の対象は別にここでなくてもいいのかもね。今はたまたまここになっているだけで。

いさどん:
それはそうだよ。対象はここでなくてもいい。いろいろなものを攻撃するんだよ。
我々は、オウムでもヒトラーでも、何でも認めるでしょう。それはその時代が形成されていく中で、ある意味必要な材料だったのだから。だからこそ、ホリスティックに観て、いろいろな材料がある中で我々はどう生きるべきなのか、ということを捉えていく。自分たちに与えられたポジションを全うしようとしているだけなんだよ。それこそが本来の多様性というものだよ。自らの概念に捉われてそれを満たしたいと思う者は、他の概念を認めないから、結局は不自由な狭いところで生きていかなければいけないことになる。

ともこ:
なんか、いつも怒ってなくちゃいけないよね。あれが違う、これが違うって。

いさどん:
そうだよ。そこを解放して、自分の概念から外れたところに本当の自由があるんだよ。その時に、この世界の実体が観えるんだよ。
そういうスタンスが取れない人たちは、今ここではそれでいいと思っているかもしれない。この三次元物質世界は、ある意味特定の概念を持つ場所だから。しかし、この物質の殻を脱ぎ捨てて肉体を離れ、魂の本質の場に戻ると、それはないものであるから、そうするとその考え方は問われることになる。そこは自分というものに捉われる場所ではなく、魂の位置とか概念のポジションがあるだけのものだから。自分という肉体を貰って、それに捉われているのが、そういった人々の意識の世界なんだよ。

ともこ:
うん。

いさどん:
そういった概念を思いつかないでしょう?

ともこ:
うん。

いさどん:
それで、理解不能だから否定するんだよ。

ともこ:
わからないと否定しちゃうんだね。

ひとみ:
わからなくても否定しない人はいるでしょう?

いさどん:
そう。そこが大切なんだよ。わからなくても否定しなければ、その先があるのだけれど、わからないから否定する。それは意識が成長しない、貧しい世界だね。

ひとみ:
そういうのって対立型の世界だよね。

いさどん:
そう。対立を創りだす元になる。

ひとみ:
対立や分離や、さっき言っていた古い概念だね。

いさどん:
ところが自分たちはそういったものを求めていないと思い、矛盾に気付かないんだよ。

ともこ:
逆だと思っているよね。自分たちは調和的で平和な世界を作るんだと。

いさどん:
そこの矛盾に気付けないんだよ。それがからくりだから。
個の概念に縛られている時には、それを求めることを自由だと思っている。しかし実は個の概念を捨てて行くことで、自らの概念から解放されて、無限へと解き放たれていく。それこそが本当の自由なんだよ。それはこの宇宙と合一していく世界だけど、それが観えるようになるには、人生を修行と捉えないと難しいね。

ともこ:
この前、私が自分のエゴを超えられなくて苦しんで泣いてたでしょ。ああいう状態はそういう人たちの恰好の攻撃材料だね。その苦しみは自分で作り出したものなんだけど、外から見ると「ほら、ああやって苦しめられている人がいる」と見える。

いさどん:
しかし逆に捉えれば、あなたの状態というのはその攻撃してくる人たちと同じ状態ということにもなる。

ともこ:
そうか。

いさどん:
自分に囚われているということでは、同じなんだよ。あなたはここにいるから、それを改めようとする側に立っているだけであって、その概念がぷつんと切れて外の視点に立ったら、ここは私をマインドコントロールして苦しめていた場所だ、と攻撃する側にも立つことになる。もしくは「もう見たくない」と言って目を塞いで見ようとしなくなるか、どちらかだよ。

ともこ:
恐ろしい〜〜。そうだね。私もそうなんだね。自分に囚われているという点では、どこにいても同じなんだ。だから立場が変われば、自分を正当化するために考えも変わってしまう。

いさどん:
自分と違うものを、人の歩みとして認めてあげたくないんだよ。
ここでは、人それぞれの歩みを認めている。そして「私は自分を捨てて、ここが求めている世界に行きたいのです」という者を、共に歩むものとして応援している。けれどもそこに行ききれなかった時、「強制された」「何も言えなかった」というように、この世界の評価が変わるんだよ。それは本来、自分に向けるべきことなんだ。
そういった自己矛盾の意識は、真実を観ようとする者にとっては最も気を付けなくてはいけないことだね。そのためには、常に自らの姿勢を客観的に捉え、自分の姿を正しく認識していくことが大切だよ。印象の良い自分を求めていくことよりも、自らの問題点をいさぎよく振り返る覚悟が必要になってくる。

それが、この世に生を受けて、常に変化成長し、世のため、人のために生きる者の最も求められる姿勢だと思うよ。
 


何億年もの時をこえて

この世界は、非常に単純な構造をしている。陰陽という相反するもので成り立ち、それが相似形(フラクタル)になっている。そうすると、大きいものも小さいものも同じ構造であり、コンピューターの二進法、すなわち0、1、0、1の繰り返しと同じものである。逆に、それが単純だからこそ、微妙な違いも表現できる世界である。少しの違いは区別できるのだが、大きな単位の違いは少しの違いで区別するのにはわからない。微細で単純にするからこそ、小さな違いもよくわかる。

だから、この世界は非常に単純な構造であると同時に、無限なる多様性で成り立っている。同じものは何一つ存在していない。そういった多様性が微細なものから全宇宙まで表現されている。そうすると、違いは単なる違いではなく、全て連なった多様性の表現ということになる。この宇宙や自然はそれを全て認め合って共同している世界である。

人間はその中で唯一自らを認識し、自己肯定感を持つ存在である。その世界では、自分自身から始まって自らに近いものを守ろうとする。極端なことを言えば、脳を取るか腕を取るかと聞かれたら、脳を優先するだろう。心臓を取るか目を取るかと聞かれたら、やはり心臓を優先するだろう。そのように、人間には生存欲から来る優先順位がある。それは自らが生きる上での本能である。
しかし、そのような本能は自然界の生き物でも持っているのだが、強い自我という形で生存本能を持っているのは人間だけである。そして、無意識の間に自分自身のために生きるようになっている。それに対し、自然界では、この無限なる生命の連鎖の中で、自らに与えられたポジションを本能として担うことが自分自身のために生きることになる、という仕組みになっている。人間だけが、自我のために生きることが優先している。

昔は、人間の能力は自然に対して無力であった。だから、その自我は自然からいただく精神によって満たされていた。ところが、現代の人間は、自分から湧き出てくる感情や思考を巡らせ、自我の自己実現を果たすために欲求を満たしてきた結果、自己実現を果たすことで脳内物質の分泌を促し、それを快感にして追い求めてきた。これは人間が自ら快楽を求めるがためにそうしたのか、それとも快楽物質を分泌させて人間にそれを追い求めさせたのかはわからない。それは、人間の意志なのか、神の意志なのかはわからないとしておこう。

そして、人間は自らに近いものや考えに合うものを良しとするようになったのである。そして、人間は群れをつくるようになった。個が群れをつくり、群れが全体をつくって、それがネットワーク化されていくのは生態系の姿であるが、それに対し個が群れをつくり、そして群れが他との違いから対立するようになったのが人間の姿である。それも、同じ種である人間同士で対立するようになった。これは自然界ではありえないことである。自然界では多種多様のものがいる。そして、時代や環境とともに進化し、変態変容することも常に容認されている。

人間は自我から自己実現を良しとしてきたことによって、自らが得ようとする快感のほうを正義とする。そして、それを主張するために群れをつくって、他の群れと対立する生き物になってきたのである。歴史上、どれほど多くの人間がその対立の結果、殺されてきたことか。それでは、この世界に平和が訪れない。未だに、人間の社会は多数決や力が強い方が支配することになっている。この手法では真理は生まれにくい。

なぜ、このような話をするかというと、木の花では、心を磨き綺麗にして、そして他者との違いを認めることで、他者と自らの区別をしない一体の世界の実現を目指し、取り組んできた。そうすると、もう一つ大きな群れである木の花ファミリーという生命生態系ができて、それが自然と健康体になるのである。そこには、独自の世界観や価値観が生まれる。だから、そこでは自己完結するのである。それはある意味、人類の自己完結であったり、地球生態系の自己完結のようにその都度完成されながら連鎖していく。それは木の花ファミリーが巨大になったものではなく、多種多様のものが連鎖しネットワークすることによって、人類や地球生態系を担っていく一体社会の一つの雛形なのである。

しかし、目指すところはそうであっても、多様性の探求ということで、今までそれと馴染まない者も受け入れてきた。これは自然と他に属するものだから、ここで生きることが合わなくなる。そこで、入ってきた者も受け入れる側もそれが合うものかどうかの選別をしていく。それはここでなくて別のところでも、それが属するべき場所であるかどうかの選別があるのは自然なこと。もしくは何かに属さなくても、社会全体の中にはその人にふさわしい受け皿がある。だから、木の花のような明快なところで人が役割を果たすためには、そこにふさわしい選別は不可欠である。

そうすると、ここで問題が起きるのは、ここにそぐわないのにここにいたいとか、そぐわないからここを自らの考えのほうに変えようとする者がいる時である。しかし、木の花ファミリーのメンバーはあくまでも木の花ファミリーの目的(宇宙・自然生態系を表現する)のために集っているわけだから、メンバーは常に共通の概念でなくてはならない。だから、これは当然のこととして、木の花ファミリーが社会に必要であるならば、そのまま役割として成っていけばいいのである。そして、そこに合わないものは違う世界をつくってネットワークしていけばいい。それはどことネットワークするかしないか、それぞれの価値観でやっていけばいいことである。

それは多様性という意味で、次の時代に新たな人々のあり方としてなっていけばよい。しかし、それを外の世界のものたちが木の花ファミリーを観て、自分たちの思想・信条と違うからといって、どうこうするものではない。外のものたちは自らの自我にふさわしいネットワークをつくって、それを良しとして結果を社会に示せばよいのである。そして、もしもそこに心の広さがあれば、それを多様性としてお互いに認め合ってネットワークすれば、なおさら良いことである。
ところが、自我が強すぎると、自らの考えが正しいと思い、違いを尊重しなくなり、そして自らの考えのもとに同じ考えの者たちが集まってくるとそれが絶対となって、他の価値観の者を攻撃する。そこに対立が生まれるのが人間の常の構造である。

それに対して、自然界では同じ種のものが引き合って受粉し、自分たちの種を増やしていく。同じ種のものが引き合って交尾し、自らの種を増やしていく。そしてそれが全体の中に拡散しながら、生態系をつくっているわけだ。そういった世界に倣えば、何も違うからといってそれを間違いだとか、対立する必要は全くないのである。

では、なぜ人間はこういったことをするかというと、自らの世界を正しいとしたいからだ。自らの世界が正しいのだからそれが正義であり、そのもとに世界を支配したがる。それが大きくなって、世界の多様性を壊していく構造になっていることが、理解できないでいる。
個が自我に意識が行き過ぎてしまって、自我の欲求を満たそうとした時に、個が強くなって個が対立することもあれば、それが群れになって群れ同士が対立することもある。これが地球上にいつまでも平和が訪れない原因である。だから、相手に矛先を向ける前に自らの姿勢を観て、その目に色が付いてないのか、歪みがないのか、客観的に捉える姿勢が必要になるのだが、自我が勝ってしまっていると、その真実がわからないのである。そのような人は常に自らが正しい側になり、冷静さを失うことになる。

そこで、人間の個が強くなって対立が起きた時に、個がどういった性質をしているのかに明快に気付けば、「自分はこういった原因で対立を起こすのだ」と自らを振り返ることができる。人間はとかく、自らを観ないで相手に問題があると観てしまう。そこでは相手を観ているのではなく、自らの姿を相手にオーバーラップさせていることになる。
相手を観ても、同時に自らも観て、冷静で客観的に全容をつかむ目線があれば、全ての出来事は情報であり、その本質に善悪がないことがわかる。そして、そこで対立する必要はなくなる。それはプロセスであり、違いは個性の違いなのだから、互いに認め合うことができるのである。

そうすると、群れを集めたとしても、その群れは世界の中の一つの群れとしての個性であり、ネットワークの一つにしかすぎない。だから、群れ同士で相手を観て否定するのではなく、認め合うための次のネットワークができるのである。

そのために、そういった世界を目指している木の花に、個人の自我を特定する「カルマ読み(名前からその人のカルマを読み解く)」や「己読み(生まれた時の惑星配置からその人の天命を読み解く)」が提供されているのである。なぜそういったものが木の花に芽生えたのか。それは他にないものである。そして、なぜ木の花が今、この個性を表現していくプロセスの中で他からバッシングを受けるのかと考えたら、21世紀を迎え、新たな価値観が地球人類に必要な時が来ているから、それを明らかにしていく道と、同じように考えているモドキとの微妙な仕分けの時が来ているからなのである。

だから、人間がこれからの時代をどのように生きていくか、微妙な真実の見分けが必要になってくる。今まで人間が生きてきた進化はエゴによってもたらされた。しかし、これ以上人間が人間に特化したエゴを発揮していくと、地球と折り合いがつかなくなる。そして、人間の中でもいつまでたっても対立がやまない。
人間の本質が問われる時が来ている。その本質は、今までの価値判断の思考の延長には生まれてこないのである。それは、観えないものにとっては観えないのである。世界は常に進化し、変化していくのに、自我の善悪にとらわれているようではわからないのだ。

だから、人間はここで、今までのあり方の区切りを経て、学習しなければならない。もともと人間は、生態系の姿、そして宇宙の星々の関係をモデルにして顕現され、進化・発展してきたのである。だから、そこにもう一度リセットする時が来たのである。
生態系の中で人間が自我を持って、唯一自己実現できるものとして進化・発展してきた結果、その自己実現がエゴを満たすことで偏ってしまい、自らの性質をコントロールできない状態になっているだけのことである。適度にあればいいものが、異常にありすぎる状態になって、害をもたらしている。そのことに気付けば、人間の尊い能力はこれから人類に、そして地球生命に、宇宙にさらに貢献していける。

21世紀は「脳の時代」である。今の人間は、脳の85%を使っていないと言われる。21世紀にはその使っていない脳を使い、新たなフロンティアを内に求める時代なのである。

だから今、1000年単位の区切りを持ってもう一度リセットして、人間は自らの性質を学び直す時が来ているのである。私たちのもとはどこから発生したのかを学び直し、そして人間社会の立て直し、自然生態系との付き合い方の立て直し、新たに宇宙意識としての人間の役割に目覚めていくのがこれからの時代なのである。

これからは宇宙意識時代だから、新しい科学テクノロジーなど色々な価値観が多様性として人間の内から生まれてくる。それがネットワークする時代である。そして、自然にその中から必要なものと不必要なものが淘汰され、発展・進化していく。それは自然でなくてはいけない。これからは主義・主張から来る対立によってそれが淘汰されていく時代であってはならない。これからは真の共同・協働の時代が訪れる。それにふさわしい覚悟と信念がなければ、これから訪れる天変地異を人々は乗り越えていけないだろう。

その流れに最も抵抗するのが我先のエゴの心である。これからの人類に与えられる困難は、そのエゴから解放されるための救いなのかもしれない。

全ては善きことの為に。ありがとうございます。
 

~ 何億年もの時をこえて ~

何億年もの時をこえて この星の上でめぐり合えた

一緒に日々を過ごすことが 一緒に歌を歌ったことが

みんなの中に流れている 真実のときを想い出させ

たくさんの幻の奥に やっと見えてきた真実を ただ歩んでゆく

闇の時代には真実が 見えなくなって手探りで

みんなで幻を作り上げて それが正しいと思い歩んできた

幻が少しずつ壊れてゆき 真実が光り照らされる

たくさんの幻の奥に やっと見えてきた真実に ただ飛び込んで

やっと出会えたね 新しい時代をつくるために

長い長い銀河の夜を それぞれ旅してやって来た

あなたがいて わたしがいて みんなが一つにつながって

闇の時代は終わりを告げて 光の時代へと向かってゆく