この世界を宇宙として生きる者は

これからあなたが年を取り、80歳になったら、外観は今と変わるだろう。しかし、その中の本質は歳をとらない。そしてそこには死はないということも言える。
私たちはいずれ肉の体を離れる時が来る。仮に、肉体を持って生きる期間が80年だとしよう。それは我々の地上の時間で考えると長いようだけれど、一度宇宙空間へ出て、その宇宙空間的スケールで考えたら、地球が太陽をたった80回(29200自転)周っただけなのだ。

私たちは、この生活を始めて、鶏を飼うようになった。養鶏は来年終了を迎えることになったが、麹を作り始めた時も、味噌や醤油の仕込みも、菌の培養も、ミツバチの飼育も、初めてやる時にはいつも僕が関わっていた。鶏を飼う時にも全く未知なることだったので、色々な参考書を手引きにしながら雛から育てていた。その過程の中で、雛を健康に成鶏まで育てていける術を確立していくのはとても難しいことだったが、それでも薬を使わずに、いろいろな工夫を凝らしながら今の安定した木の花養鶏法が確立されてきた。
雛を育てる時に一番大切にしてきたことは、雛を「観察する」ことだった。しかし、それは雛を育てるための観察ではない。雛は毎日大きくなっていく。雛の年齢は、日齢とか週齢という単位で数えていくのだが、1日1日育っていくのを観ていると、雛の行動が変わってくるのがわかる。雛を1週間育てると、人間で言えば幼稚園に上がった段階。その雛を育てていって、大体60日か70日経つと、羽毛がとれて、しっかりした羽が出てくる。それが小学校高学年くらい。そして、70日、80日くらい経つと、雄鶏と雌鶏の違いがはっきりしてくる。
90日から100日くらいになると、雄鶏と雌鶏の違いがよりはっきりしてきて、雄鶏が時々太い声を出すようになり、交尾行動で雌鶏の背中の上に乗ろうとする。70日に至る前は雄鶏と雌鶏の違いはほとんどなく、雄鶏が雌鶏に乗っかろうとすると、雌鶏は逃げていく。ところが100日くらいになると、雌鶏がその行為を受け入れるようになる。ただ、まだ交尾の練習のようなもので、今の若者たちが中学から高校くらいにかけて興味を持ち、そういったことを始めかけるようなものだと思われる。そして120日くらいになると、初卵といって雌鶏が初めて卵を産み出す。この頃になると交尾は成立するが、まだ未熟な段階である。もしそれが有精卵になってかえしたとしても、あまり良い雛は育たない。人間でも若くてまだ未熟な時に子供をもうけると、その後の夫婦(男女)関係が壊れたり、環境が良くないということで子供に問題が起きることもある。大体140日から150日くらいで成鶏として一人前の卵を産むようになり、その段階でとった卵で雛をかえせば良い雛となる。

鶏を健康に育てようと鶏を観察していたら、1羽1羽個体は別々でも、その成長の変化が日齢と一致していて、個体差はあっても全体が同じような過程をたどることがわかってきた。そして雛を1日という単位で観察していくと、単純に雛が育つという捉え方ではなくて、地球の回転と何回付きあうかによって、その鶏の雛の様子や行動が変わってくることに気が付いた。

人間もまた、生まれて歳を重ねていくと、感情が変化していき、最初は男女の意識すらなかったものが、意識して遠ざけるようになったり、どうしようもない衝動に駆られて惹かれ合うようになったりする。それは、鶏の成長具合と同じではないのか。
つまり、我々が生きて、年齢と共に感情や行動が変わっていくということは、地球の回転に何回付き合ったかということ。そこに思考が生まれては消えていき、それによって成長していく。そして人生の終末を迎えた時に、それに相応しい塊となって旅立っていく。地上意識・人間の感情で考えると、思考は自分の意思のように思えるが、実は地球の回転数によってそれが生まれていくということに気付いたのだ。
1日1齢と考え、80年生きるとしたら、29200齢となる。つまり、地球が1回転することに付き合うたびに、我々の体が変化し、それにふさわしい感情が生まれてくることになるのだ。

そして、食べ物や気候など、その人がどういった環境で育ったかも、その人の感情や人格の形成に大きく影響している。人間は、内に意識が向き過ぎて、個で世界を意識しているが、実は自らの人格すら、自らを取り巻く環境の側から与えられていることになる。地球暦では、生まれた瞬間の太陽と惑星の配置から、その人の人格や人生を読み解く。星と星の対話や地球の生態系の中で織りなす環境が我々の人生を表わしているとしたら、我々はそういった外からのものを受け取って、内に映し、また外への表現として返している、とも言える。我々と世界はそういった鏡同士の関係だとしたら、私というものは私を特定した認識の位置の外の世界、すなわち時と環境を表現しているということである。
その外からの目線を、人間は忘れてしまったのか、封印してしまったのか。内から出ている自らの感情に対して、それが外から来ていることを意識すると、内から一方通行に出ている自我の心が消えていく。そして、自らの感情や、人生が自分のものなのかどうかということが、不確かになっていく。
しかし、自分の内から外へ観ているだけの一方通行の思考をしていると、半分しかものが観えていないことになる。外の世界は無限に広がっているのに、ほんの一点しか見ていないことになる。それが私たち人間の実態だろう。
今の自分の感情は、星と星との関係や、周りの環境によって生まれている。例えば女性なら、生理が来て体調が思わしくなく、感情が落ちているとしたら、それは月と地球(自分)の関係から現われてきている。性的欲求や食欲が現われるのも同じ事で、それを自分の意思と捉えたり、それを表現することが自分の自由のように思っているが、そういった感情が歪んでくることすら、周りの環境や、星と星の配置の関係により微妙な不完全や歪みが生まれることによって起こっている。
それを自らという「個」から捉えると、特定したくなるものだが、その全貌を客観的に観ていくと、この世界を生きることは宇宙の表現を個々に托されているということなのだと気付くことができる。

そんな捉え方ができることに、鶏の雛が育っていく過程を眺めていて気付いた。
そういった視点で出来事に出会っていくと、現象に出会うことは世界の仕組みに出会うことになる。人間は、日々の生活を自分の枠の中で、自己主張もしくは自己表現として生きているが、それはそういった自分目線から見た世界にしか過ぎない。それは自意識という色を付けて見ているだけのことであって、そこでは対象を見ているのではなく、自らの意識の色を見ていることになる。そこから自意識を取り除けば、宇宙の情報と出会うことになるのである。

そこから何が観えてくるか。
我々は、今こうして一般の社会とは違う生き方をしており、時代もそれを刻もうとしている。新しい領域に視点を向けて、その視点から生まれる価値観と現象を表現しようとしている。まさしくこれこそが地球の意思を生きることであり、時代を刻む最先端を生きることである。
時代が刻まれていく時、時代に生きることに気付いていない者達は、自意識から価値観を見出そうとして、時代に抵抗する。しかし時代は徐々に移行していき、最後には抵抗する者達も移行していくことになる。
これはまさしく時であり、時代であり、流れであり、宇宙の働きである。そして、瞬間瞬間を確実に、過去から未来へと永遠に変化し続け、進化していく。この世界に同じ瞬間は二度と来ない。

自我に捉われている者達は、特定の位置に自らを縛り、変化することを恐れたり執着したりする故に、この世界の出来事を善悪で見たり裁いたりする。この世界を宇宙として生きる者は、自我から離れ、変化することを一切恐れない状態に自らを解き放ってやる。それが宇宙を生きるということであり、神(天)の道を歩むということになる。神の道を歩むということは、天の法を生きること。そこでは、個は薄くなり、消えていく。そして、宇宙という絶対な私が観えてくる。

人間がこれから真実を観ていく時に、無限なるフロンティアが開かれてくる。だから、「知っている」と思わずに、常に学ぼうとする心が大切なのである。
人は年齢を重ねていって死を必ず迎えるが、体は衰えても脳は成長し続けていくことができる。その脳の成長は魂の成長なのである。私たちは地球上に降り立ち、死を迎える時には物理的なものはすべてこの世界に還していく。しかし、脳の中に蓄積された記憶や世界観はすべて魂に刻まれて、次の自らの歩みに持っていくことができる。これが唯一、私たちがこの世界に生きて、次につなげられるものなのです。
  


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です