一人ひとりの心の中にユートピアを

いさどん:
人間は理想を求めているのに、それを生きるのにふさわしくないものであることが多い。まずはそれを認識する必要がある。人間の中にはそういった矛盾が常にある。だから、まずはその矛盾に気付き、理想を生きる者になることが求められる。
多くの人間は人間らしい行動をしているのだが、それをしている限り理想の世界と出会うことはできない。人間の性(さが)を突破し、奥にある本質に目覚めないとその世界と出会えない。たとえば、宗教を熱心に信仰している人は、その信仰を持って夢見心地に生きていても、その夢は現実化しない。
結局、宗教の構成員としてその仕組みの中にいるだけのことで、その宗教が世の中を変えるような動きにはなってはいかない。その目的が個人の救済にあるか、もしくは真理を本当に求める気がないのかもしれない。だから、我々には理想郷を現象化してみせる必要がある。

木の花塾に来る人の中には何度か通ってくる人たちがいる。この人たちもどこかで理想を求めて、そこに身を置きたいと思っているのだが、結局いつ歩み出すのか。自らのエゴを未処理にしておきながら、理想が現れるのを待っている。そうやって受け皿を探しているのだが、常に受け身で、自らその世界をつくろうとはしない。

今、多くの人たちが現実の矛盾や生き辛さに疑問を持ちながら、それを持ったまま解決しないで毎日を過ごしている。
僕は朝目が覚めると、「いつまでこの毎日の延長が続くのか」と思う。この社会の矛盾を浮き上がらせている人たちがまだこの世界にい続けて、その人たちと時空をともにしている。僕はいつかすべてが溶け合って、このギャップがなくなればと思っているのに、現実にはギャップがあり続ける。
それは一方的にこちらの都合の良い世界になれということではない。本来この宇宙も地球も我々の体の構造もそれぞれ役割を持ちながら一体の世界なのだよ。それから考えると、今の人間たちはバラバラの意識を持って通じ合わないところがある。それがわからなくて外れることはいいとしても、せめてここにとどまり共に歩む人たちとだけでもそれを互いに考えて、ひとりひとりがその世界を現実化するための推進役になってもらいたい。その決意を示さないと、人間はいつまでたってもこういった生き物であり続ける。

神様は人間に特殊な役割と能力を与えたが、それは人間のために与えたのかどうなのか。このゲームを終わりのないゲームとして、矛盾を発生させ続けてこの世界の状態を表現し続けていくのか。
信じる、信じないは人それぞれであるが、神はたしかにいる。そして神の存在を知ると、この矛盾がなぜ創られているのかがわかる。それは人間の未熟さと神の仕掛けが表していることである。
神が仕掛けたその罠に人間の愚かしさが引っかかっている。人間はいつでも自分というものを捨てて、神様のつくったこの一体の中に入ることができる。だから、我々はそこに向かって進むだけだ。

一体世界を表現しようとするのが、本来の我々の集う目的である。それは地球と一体、自然生態系と一体であり、すでに自分自身は自らを構成しているものと一体で存在している。このように、我々はすでに一体である。
エコビレッジをつくろうとしている人は自らに都合の良い一体世界を考えているが、その前提として己をなくし、この世界を知って、地球生態系のように一体を表現していくことが必要だ。そのためには個がありながら、なくならないといけない。その境地に立たないと頭でっかちになって、理想は語るが現実が伴わない。
エコビレッジの精神は、人間が抱えているすべての問題を解決する。しかし、その認識を間違えると、エコビレッジは個の願いを満たしてくれるものだと思ってしまう。エコビレッジとは個の欲望を超えたところで自然にできるものなのだよ。

そうすると、理想郷はすでにどこにでもあることになる。その世界を木の花では実現していく。
木の花の「花」は、「桜」のいのちの美しさと潔さを表している。それは、美しく咲いて、潔く散っていく精神。それから、「梅」の健康と不老長寿。そして、「桃」の全体のための精神を持つことによって個の価値が生まれる。それは菩薩の精神。菩薩たちが暮らす桃源郷の世界。
その木の花の世界は、一人ひとりがオリジナルに、宇宙にたったひとつしかない個性の花を咲かせている姿。それがネットワークしながら、宇宙の大樹に花を咲かせる。来年はそれを完成形にして見せる年になる。

そういったことを希望として生きる人々がいることを世に知らしめる。それは、人生を生活に追われて、金に追われて生きていくような貧しい世界ではない。その理想を生きる一員として、個の花を咲かせる。
多くの人が本当の世界を求めているのに、それが信じられないから、大樹の満開を観ることができない。それを表現するために生きている。一人ひとりは、たったひとつの花にしかすぎない。だから、みんなが一体となって力を合わせることで可能となる。

ようこ:
一人ひとりが自分の心の中にユートピアがあるか、いつも確認しながら生きていくことが大事だね。

いさどん:
そうだね。

ようこ:
そうすれば、その一人ひとりの心が形となって表れてくる。最近のいさどんの話がユートピアのことばかりなのは、一人ひとりがその認識が薄いからだと思っている。一人ひとりの心の中にユートピアができていったら、確実に雰囲気が変わる。
木の花でも、今は人がそぎ落とされて少し雰囲気が変わってきたけれど、その心がみんなの中に浸透していったらさらに変わっていく。それが実際に形となってどう現れてくるのかを観ていくのは、楽しみだね。
  
 


不退転の決意を自らの魂に問う

新年明けましておめでとうございます!

今年最初のいさどんブログは、元メンバーが一部インターネット上で木の花ファミリーを批判し、それに端を発してメンバー数名が木の花を離れたことを受けて、昨年末にいさどんが語ったものです。

元旦の朝、初日の出に向かう木の花ファミリーメンバーたち
元旦の朝、初日の出に向かう木の花ファミリーメンバーたち

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
これまで、木の花は信頼をベースに維持されてきた。それが崩れるとすごく厄介だよ。
今回なぜ崩れたかを振り返ると、ここではまず『絶対に崩れない』というお互いの信頼がもとにあり、崩れそうになったときには、そこからまた再構築していくという約束があった。それが不退転ということでもあった。しかし、そうではないところへ行ってしまった、ということが現実でもある。
その現実を受けとめなければいけない面も確かにあるが、それは信頼をベースの場所ではルール違反だよ。しかし、そういうことが起こるのがこの地球上だということでもある。違う視点でみれば、“絶対”がない場所ということでもある。

ひとみ:
地球が?

いさどん:
そう。そうやってこの世界の法則がつくられている。だから、こうだと思い込んだことに保証はないぞ、ということになる。だからこそ、それを越えた揺るぎない場所を創ろうとしている。
そんなことを考える人はほとんどいないし、それを目指した人達はほとんど断念してきた。むしろ、今我々がやろうとしていることを成し遂げた人たちはいないのではないかと思うんだよ。例えばヒマラヤの奥地で精神性だけで営まれてきた村や中国のタオの世界などにはあるけれども、それは限られた環境の中でそういった精神性が保たれてきたのであって、それもラダックなどと同じように、今の文明の魅力やエネルギーが流れ込んで崩壊しつつある。だから幻の場所になってしまっている。色々なものを汚染してきた文明の側からその世界を発生させる作業は初めての試みであり、挑戦だと思う。

ひとみ:
そういうことはインディアンのような先住民族に伝わる予言にも出てくることだよね。白人たちの文明が流れてきて多くの仲間が道を失っていった。

いさどん:
我々の生き方を、20世紀型の価値観に慣らされている人々は、その大切さがわからない。

ひとみ:
その価値観にすっかり浸かってしまっているから。

いさどん:
そう。多くの人の中に、そこに理想世界があるのではないかと築こうとした動きはあったのだけれど、それが無理だという結論になってきたと思うんだよ。神さまから『難しいことを与えておるゆえ、心して行け』と言われるわけだよ。本当にその言葉通りだと実感している。でもその難しいということは避けて通れということではない。難しいのを覚悟してその自覚があればいける、との励ましでもある。誰もこのようなことに気が付かない斬新な視点だよ。

この視点は今の人類が抱えている問題点を解決する要素を秘めている。その視点で歩んだときに、今の人類の価値観がガラリと変わる。それには、今の人間たちが持っている幸福感などを自らの意思で捨てなければいけない。何が大切かをよく考えて、そこではどちらに価値があるかを汚染されていない心で見極めなければいけない。自らの内にある真我の叫びに問うて真の歩みに繋げなければいけない。

今、このように文明が発達して豊かな社会なのに、人々はそのことによって不安を取り去り幸せを享受することにはなっていない。相変わらず豊かさは経済を押し進めて政府は物理的に豊かになろうと提案し、そこに国民の支持が集まって極端に強い政府が出来上がっている。それはインフレを呼び、格差を拡大させ、競争社会の中で更に矛盾を発生させて病気や犯罪などの問題を生む原因にもなっている。
そういったものを自らつくりながら、今度はそういった矛盾を解決するための産業として、医療や警察で手を打たなければいけなくなり、お金がたくさんいる社会ができるわけだ。そしてこれは世界中で起きている。それは人類の問題でもある。

国はますますエゴになり、自らの国のことしか考えない。そして今、とてもきな臭い国家間の関係が現実に育ってきた。そのために、最も不必要な軍事力の整備にお金をかけるようになっている。これは統合的にものを考え、何が一番大切なのかの冷静な判断の視点を失っている状態である。人々やこの国のリーダーたちが、そのことを切り取って対処療法的に捉える視点の中で思考しているからこそ、このような状態になっている。
これはイタチごっこのように繰り返されているが、そろそろ宇宙の中の天の川銀河・太陽系の第三惑星地球は奇跡の星であることに気付くべき時が来ている。ところが、地球にいる人間の中でも優れていて能力の高い人の意識が、そこから外れている。これはまさしく生命の中でいう蘇生の仕組みから外れた癌細胞のようなものだよ。
生命の中にも癌細胞はいて、それにはそれの相応しい役割があるのだけれど、人類の癌細胞的な営みが何を意味しているのかを今考えて、人類自体の歩む方向を変える必要がある。自らが癌細胞であった時に、自らの存在に対して誇りを持って喜べるのか、誇りを持って進めるかということなんだよ。

木の花ファミリーが今まで歩んできた中で、確かに切り取ってみれば、トップダウン的なことも言ってきたし、厳しいことも言ってきた。そういうことだけを切り取って見て、理解しない人がたくさんいた。しかしその厳しく見える背景には、美しい心や美しい地球に相応しい者になるにはどうしたらよいかということを伝えていた。
そのことがわからないエゴを主張する人達がこのコミュニティの中にいたものだから、自らの意思でコミュニティに入った限りは不退転の決意で自らを磨いていくというルールの元にあるのだと言うことを伝える必要があったんだよ。

ひとみ:
このコミュニティはそういった目的を掲げていて、その目的を理解して本来は入ってきたはずということだね。

いさどん:
入ってきたこともそうであるし、それを継続していく約束の元にあった。そして、そこから外れようとする者に対して問うたわけだ。そのことが、ここに参加する意識を忘れて自分の主張をする者に対して厳しい結果になった。それが今回のある意味での禊(みそぎ)になったのだけれど、本当はどこに問題があったのか、ということなんだよ。それをもう一度我々は確認して、ここに参加する者たちの厳選をするべきであると同時に、改めてこのことの意味を問わなければいけない。

外から見る人は、物事を切り取っては本当の意味やその奥にある善意を受け取れないでいる。そして形だけに反応している。そうすることで大事なことを見失ってしまっている。今こうして木の花の矛盾が出たことについても、ただ部分的に切り取ってバッシングするのではなく、本当はどうだったのかを振り返るチャンスだと思うんだよ。
我々は大事な歩みをしてきた者として、ここは外すことはできない。そうであるならば、世の中は安易に判断するのではなく、深くそのことを見直して世の中そのものが変わっていかないといけない。このことが統合的に冷静にものを捉えるチャンスでもあるし、今の社会通念や法律がなんであっても、ここは絶対譲ってはいけないことだと思う。おかしいものはおかしいのだよ。人類自体に問題があるとしたならば、その人類がつくっている慣習を変えなければいけないのに、未熟な慣習をつくってそれをかざし、「これは間違いである」とか「これは正しい」などと言うこと自体がおかしいんだよ。
そういった広い視点にこの世の中や人々がなれるかどうかの狭間に来ているのだと思う。だから、我々はそこを曲げてはいけない。昔、天理教の中山みきさんが『世法を恐れて神の道は行けぬ』と言われたけれど、決してこんなものは神の道と言わなくても、宇宙の法則に基づいた生命の価値を表現することだよ。

今こそ人類は宇宙の奇跡である地球の生態系の法に合わせた思考を持ち、己を捨てて絶対調和の中にあることの自覚と共に、その調和の表現の推進力にならなければいけない。そこはどんなことがあっても外せない。
そこの視点に立てない者はこのことがわからないんだよ。だから、それを理解する側に立っている者の責任として、これを進む。観えている者の責任としてそこを進んで、いつか人々がそれを必要としたときに伝えられるように、常に日の出となって行くことを決意する。そういった覚悟が大切である。その大事に気づかない者たちに、もう一度自らの魂に問いかけてみることを勧めたい。

ひとみ:
大事な話だね。
 
 


お年寄りは肉を食べるべき?

今、高齢者の栄養状態が悪化しているとして、厚生労働省が13年ぶりに国民の健康作りの指針を見直し、高齢者が肉などのたんぱく質をしっかり食べるようにと指導に乗り出しています。
はてさて、それではお肉を食べて元気になったら人は幸せになるのか?!いさどん、大いに語ります!

*高齢者への肉食のすすめについては、下記番組にて特集されています。
 クローズアップ現代 11月12日放送
「高齢者こそ肉を?!〜見過ごされる高齢者の栄養失調〜」

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

ともこ:
国が65歳以上の高齢者に肉食を勧めるのは、年を取ると自然と筋力や免疫力が落ちるけど、肉食はそれを補うことができる、というのが理由のようです。

いさどん:
実際に、沖縄では豚肉を食べるよね。豚肉はビタミンBが豊富で、沖縄では長寿の後押しになっていると言われている。肉と野菜のバランスはとる必要があるけどね。
一時期、肉を食べることが、高齢者にとっては悪のように言われていた時期があったでしょ。それが今、戦後間もない時代よりも高齢者のカロリー摂取量は下がっていて、5人に1人が栄養失調気味で問題が起きている、という話があるんだよ。
うちでも食養生(生野菜と玄米が中心で油や砂糖を使わない食事をとる)に取り組む人がいるけど、精神が伴わない食養生は栄養失調気味になる場合がある。マクロビのような健康法でも、かえって気力が生まれないこともあるから、肉食を一概に否定することはできないね。
僕は、もう少し違う切り口から話したいと思います。

年を取ると、脂っこいものやカロリーが高いものを自然と受け付けなくなるでしょう。人間の一生の中で、青年期が春だとしたら夏は壮年期、秋は初老、そして冬は枯れていく。その年代にふさわしい食事というのがあるんだよ。
日本人は今、栄養過多になっているよね。それがいろいろな問題を引き起こしている。過去になぜ肉食が悪のように言われたのかというと、そこには実際に問題があったから。肉食をすることによる利点だけを取り上げて肉食を勧めるのは、過度に肉食を悪者扱いした結果、その反動で過度にそれを復活させようとしているという、言わば躁鬱の人に薬をやっているような、とても安易な発想だね。健康のことを考えたら、食事だけでなく運動とのバランスも必要だし、もっとも大切なのは心のバランスなんだよ。

人は本来、年を取るにしたがって、いい意味で欲がなくなって、体と共に枯れていくもの。昔ゲートボールが流行り出した時に、対戦者のプレイをわざと邪魔して競うようなゲームだったために、心ができていない人たちがやるとケンカが起きて、確か死亡事故まであったんだよ。それでグラウンドゴルフというものに変わった。
老人ホームが始まり出したころには、男女が出会って老いらくの恋が流行って、判断力のないお年寄りたちが結婚すると言い出して一族の問題になったり、嫉妬から殺人事件まで起きたりして、それはもういろんな問題があった。それも、心ができていない人が集まるとそうなるんだよ。若い人に恋愛感情を抱いたりね。それがはたして微笑ましいことなのかどうか。

心を作らずただお年寄りの体だけを健康にしていくと、きっとこれまでとは別の、いろいろな問題が起きてくるだろうと思う。肉食によって生命エネルギーが供給されれば、それはどこかに使われることになる。心が伴えば社会に貢献するエネルギーにもなるけれど、心ができていなければ欲望にもなっていく。それが何をもたらすかは、実際にいってみないとわからないね。少子高齢化の中でお年寄りがいつまでも現役でいることを良いこととして、それが社会貢献につながればいい社会になる。これは大いなる実験だよね。

まり姉:
若い世代が新しい社会を創るのを邪魔することにもなるかもしれない。

いさどん:
そうだね。若い人にいつまでもバトンタッチしないのを良しとするかどうか。社会は、年寄りはお金を持っているからそれを利用するためにエネルギッシュにした方がいいと、利用することを考えている。
しかし逆に、時代ごとの問題もあってね、それは時代ごとに整理されて終焉を迎えないといけないものでしょう。だけど年寄りが肉体的に偏って元気でいるということは、その問題も一緒に復活することにもなるのだから、そこの心のところも考えていかないといけないよ。

ともこ:
淘汰されないわけだね。

いさどん:
そうそう。心の教育がされて、そして健康で長生きするならば、良いことだろうと思うんだよ。それが今の医療のように、病気になった心の原因を観ないでただ症状だけを治していくと、結局は病気の種類が変わるだけで、病気になり続ける人間が社会に蔓延するんだよ。そして莫大な医療が必要になり、問題も蔓延する社会ができる。その轍をもう一度踏むのか、ということを、このことから僕は感じるんだよ。

まり姉:
お年寄りの栄養不足は、肉不足だけが原因じゃないよね。一人暮らしの人なんかは、わざわざしっかり食事を作って食べる気がしないということもあると思う。

いさどん:
食べる意欲がないということは、生きる気力もなくなってるということ。その人にただ肉を食べさせたらものごとが解決するのかというと、それは安易な発想だと思うけどね。それは食生活ではなく、心の問題だよね。

あき:
冒険家の三浦雄一郎さんは80過ぎても肉食で生き生きしてる、という話があったけど、彼は目的を持って生きている人。心が生き生きしてるから、何を食べても生き生きしてる。

ともこ:
「心の教育」が必要ってこと?

いさどん:
いやいや、僕は教育をすればいいということを言いたいのではなくて、それは無理だという話なのよ(笑)。

みんな:
そうだよね(笑)。

いさどん:
そんなことは無理だよ。肉だって、食べたいと思っていない人たちに食べさせたら無理強いになって、そこにさらに矛盾が起きるよ、ということも言っているのよ。

ともこ:
肉は硬いから食べたくないというお年寄りたちに、やわらかくする調理法を教えたりしてね。

あき:
うちの母親でも、「肉がいい」と聞くとすぐに「肉がいいんだって」っていうふうになっちゃって、何でそんなに単純なのって思う。

いさどん:
その部分だけを切り取って見てるからね。ライオンがシマウマを食べるのを見て、可哀そうだからライオンとシマウマを仲良くさせよう、と言っているようなものだよ。
肉食を推進するメディアも、政府の方針も、何か食肉業界の息がかかっているのだろうね。

ともこ:
お年寄りの5人に1人が栄養失調という話も、日常問題なく過ごしている人の血液を検査して、何々の値が低いからあなたは栄養失調ですよ、と言っている。だけど年と共に値が低くなることが自然な流れだとしたら、何を持って栄養失調としてるのかもよくわからない。これは、人間の生き方とか老い方についての話だよね。

いさどん:
そこなのよ。何でも長生きすればいいとか、健康であればいいということなんだろうか。僕は、老いに相応しい生き方、そして相応しい終末の迎え方というのがあると思うのよ。教科書があるわけじゃない。人それぞれに、いい終末だったね、という人生の終わり方があると思うのよ。

まり姉:
三浦雄一郎さんはあれで幸せなわけだよね。

いさどん:
そうだね。彼は彼でいいんだよ。それを、ああいう風になろう、と右へならえでやろうとするのは乱暴だよね。

ともこ:
うちのおばあちゃんは、もういつ死んでもいいってよく言ってるよ。

いさどん:
いつ死んでもいい、というのは、ある意味完熟した人の話でしょ。それはどちらかと言うと、モデル的なお年寄りの話だよね。でも世の中には、不幸な人もいっぱいいるわけだよ。そうすると中には、早く死にたいという人もいるわけだよ。そういう人にさらに肉を食べさせて、ただ長生きさせるのかね。難しい問題だよね。
人はある程度の年齢が来たら面談をして区切りをつけて、もう医療は施さずに、枯れるのを待つというのはどうだろうね。

ともこ:
そうだね。世の中の価値観は、死ぬのはいけないとか、病気にならない方がいいということが前提になってるね。

いさどん:
いや、元気でいるのはいいことなんだけど、心も健全で元気であるべきだと思うんだよ。
で、本日は宇宙視点の話ですから。これは食の問題じゃなくて、命の問題なんですよ。寿命を長くすることを良しとする風潮があるでしょう。それは、死というものの理解が十分に得られていないから、死を恐怖に感じたり、忌み嫌って遠ざけようとするんだよ。
死というものは、生の終点でもあるけど、新しい生の出発点でもあるのだから、この終末の迎え方はすごく大事なんだよ。肉食で健康になって医療も少なくなるのなら、それはそれで良しとして、同時に、死とは何であるかを知り、受け入れていくことが必要なんだよ。なぜかというと、必ず人は死ぬからさ。

みんな:
そうだよね~!(笑)

いさどん:
これは百発百中、外れる人はいない。そしてこれは年寄りだけの話じゃなくて、若い人だって、生きているということは常に死と隣り合わせということなんだよ。だから、若いころからそういう教育をしていくべきなんだよ。70、80になってから教育って言ったって難しいでしょう。だからこそ、若い頃から生と死に対する概念をセットにして教育していって、その結果、不自然なエネルギーを使わない、自然に冬を迎えていける心が育つのだろうと思うんだよ。

これまで、生に対する教育はされてきたかもしれない。けれど、死に対する教育はされてこなかったんだよ。本来は宗教がそれをするべきだったんだけれど、宗教は生きている人間をいかに組織化してお布施をまき上げるかというご利益宗教になってしまったからね。自然に枯れて死を迎えるという、死へのソフトランディングは語られてこなかったんだよ。そんなアンバランスな心の状態では食欲もわかないから、食べないお年寄りがいる。それも、栄養失調のお年寄りたちを作っている原因になってるんじゃないかと思うんだよ。希望が湧かなければ食欲も湧かないからね。
今年は天候がおかしかったから、紅葉が美しくない。日光でも、突然葉っぱに黒い斑点ができて、紅葉する前に落ちちゃったんだって。どうもそれと同じことが、人間にも起きるんじゃないかと思うんだよ。

あき:
きれいに紅葉して、美しく散っていくのではなく。枯れまいとするものだから。

いさどん:
きれいにならないで、その前にボソッと散る。

ともこ:
自然からしたら、枯れなきゃいけないんだもんね。

いさどん:
だから僕は、元気で長生きということの中に、美しく散っていくことを大事にしなければいけないと思うんだよ。それが、その人の価値を高める。長生きしたところで見苦しく散っていったら、次にまたそこからスタートしなきゃいけない。完熟死やピンピンコロリのように、美しく散ることができれば、少子高齢化の歯止めにもなるよ。早く死ねということではなく、美しく散ってもらいたいのよ。

まり姉:
枯れるしか選択肢がなかった時代とは違って、今は枯れないで済むような技術や誘惑が山ほどあるでしょう。その中で枯れるという選択をするのは、意志の力がいるよ。

いさどん:
いつまでも元気でいられるという錯覚を持っていると、あれもしたいこれもしたい、まだやり残しがあると言って死んでいくことになる。それは仏としてはあまり美しくない姿だね。

ともこ:
肉を食べるよりも、死の意味やこの世界の真理を知ることの方が、本当の意味で人が元気になるんじゃないの。

あき:
何となくみんな根底に不安があるよね。病気になりたくないとか。

いさどん:
病気というよりも、死に対するイメージが良くないんだろうね。

ともこ:
良い老い方とは何なのかという話を聞きたい人はたくさんいると思うんだけど、そういう話ってあまりない。テレビから流れてくる情報は、もっと肉を食べましょうとかいうことばかりで、じゃあとりあえず食べてみるかってことになる。

まり姉:
自分が10代のころを思い返してみると、テレビから流れてくる情報を見てなんかおかしいと思ってたけど、何がおかしいかわからなくてもやもやしてた。

いさどん:
それは多くの人に共通してるよね。でも「多く」と言っても3分の1もいないかもしれない。ほとんどの人はおつむを使ってないよ。直感が働いていない。テレビなんてノーチェックで一方通行に情報が入ってくる。

まり姉:
例えば肉の話でも、何となくもやもやしていたものが、そうか、業界が絡んでいたのかということがわかるとスッキリする。

いさどん:
それも、業界が人々をマインドコントロールしているんだ、と言うと、今度はその反対にマインドコントロールする人が出てくるんだよ。

まり姉:
両極端のものがあるおかげで学べるんじゃないの?

いさどん:
人間が安定していなければ、極端から極端に振られるだけだよ。しまいには戦争になるよ。だからお釈迦様は中庸を行きなさいと説いたんだよ。

ともこ:
それって、実はみんなの中にあるものだよね。

いさどん:
それは誰の中にもあるよ。陰も陽も中庸も、一人の人の中にも全てがある。ただ、魂が刺激を求めていて、その求める方向が陰を向いているのか陽を向いているのか、それとも刺激じゃなく冷静に情報としてそれを求めているのか、という違いがあるだけのこと。
世界観が大きくなればなるほど、それを全て情報として取り込んで、観て判断するから、振られることはなくなるね。大人サミットで言う「大人」の視点に立つということだよ。視野が狭ければ狭いほど情報に振り回されることになる。その人の心のクセに応じて、右に振られる人もいれば左に振られる人もいる。或いはどっちも違うと真ん中に居座る者もいるけど、それは中庸ではなく単なる頑固だったりする。

大事なのは、カラクリを解き明かすことだよ。情報というのは人を惑わす材料でもあるんだよ。心が不健全だと、偏った方に見える。しかし我々の魂には真実が織り込まれているのだから、そこから湧き出てくる判断ができるはずなんだ。
 
 


見えない人は、何を信じたらいいのですか? 〜 ある大学生のインタビュー

あきのちゃんは、広島の大学で国際関係について学んでいる学生です。もともと世界の貧困や格差の問題に関心があり、大学を休学してガーナでボランティア活動をしたり、インドや東南アジアの国々を旅していましたが、「それでは根本的な解決にならないことを感じて、こういう暮らしに興味を持った」と言います。そこで、エコビレッジを卒論のテーマとすることを考え、今年7月に初めて木の花ファミリーを訪れました。「すごくカルチャーショックを受けました。自分はエコビレッジという“形”を見ていたけれど、ここではそれ以上に“心”を大切にしていたから」。
当初は複数のエコビレッジを回ることを考えていましたが、「ここをじっくり見た方がいい」と感じて、現在、午前中はみんなと家事や農作業、午後はメンバーへのインタビューや執筆などの研究活動という形でファミリーに長期滞在をしています。
今日は、そのあきのちゃんによるいさどんへのインタビューをご紹介します。

*インタビューには、アナウンサーとしてテレビ局への就職が決まったばかりのゆきちゃんと、ファミリーメンバーのひとみちゃんも同席しました。
*あきのちゃん了承のもと、インタビュー全文をほぼそのまま掲載しています。臨場感あふれる生の声をお楽しみください。

農作業中のあきのちゃん
研究と畑仕事を両立中のあきのちゃん

 *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   * 

あきの:
今日聞きたいのは、「信じる」ということについてです。
いさどんは天からメッセージをもらったりとか、宇宙の法則が分かっちゃったりっていう霊的な体験をしていると思うんですけど、それができるのはほんの一部の人ですよね。私たちは頭で考えても分からないし、目で見ようとしても見えないものだから、結局は信じることしかないと思うんですよ。私もこういう精神の勉強をしていて、「そうなんだろうな」という感覚はあるので、疑うつもりはないんですけど、ただ、それが見えない人たちは何をもって信じればいいのかっていうことを聞いてみたいです。

いさどん:
見えない人たちが信じるためには、といっても、僕でもただむやみに湧いてきたことを信じているわけではないのよ。これは確実に科学することが大切であるし、その答えが出ることによって信じるっていうことが深まってくのね。
よく宗教なんかで「これは良いことだから信じなさい」と言われて「きっと良いことがあるんだ」って信じたりするでしょ。それは信じてるんじゃなくて、良い事を期待しているだけなのよ。それってギブ&テイクの信仰だから、御利益宗教になってしまうのね。「信じる」ってことの本当の意味は、信ずる心が起きる時に、信じられる何かに出会うってことなのかな。

それでね、僕がやってきたのは、まず最初は信じられないことに出会うわけ。天から言葉が降りて来たとか、光を見たとか、身体に何かが起きたとかいうようなことが起きるわけ。その時には信じられませんよ、そんなのは。信じられないってのは、その事を疑ってるってことではなくて、その起きたこと自体がなんなのかが分からないってことなのよ。
始めのころは、そういった分かんない事が起きたことに対して、僕は常に、それがあったことだけは事実だと捉えるわけ。例えば何か言葉が降りて来た。それは何だか分かんないし、もしかしたら自分は精神分裂のような病気かもしれない。そういう想いも持ちながら、でもそれがいったい何なのかを確認したい好奇心があって、その答えが出るまで待ってる。そして、いつか出るだろうと思っている。それは、この世界には目には見えない流れがあって、その流れを観ていくということなんだよ。

そうすると、現象を通して何かに出会う。人と出会うとか、ものと出会うとか。その時に「あっ、あの言葉はここにつながっている」とか「あっ、あれはこういうことだったんだ」というふうに、気付きにつながるのね。それを何回か繰り返していくと、そのうちに、あっ、と思う事があると「これは何かの前兆だね」っていうことになって、もうそこでは、それがどうなっていくかを待ってみましょうという心になる。そこで疑う心はなくなって、自然に信ずる心がおきているわけ。
それがどんどん進んでいくと、起きた事と結果が、法則化されてくるのね。「こういうことが起きたから、これはこうなる」というように、データとして積み重なっていく。それは、出来事を通してその奥にある流れを感じ、学んでいくということでもあるんだよ。

みんなは、信ずる心が強い人っていうのは、心がしっかりしていて明快に答えが出ているから、確信を持ってやっていると思うかもしれないけど、僕の場合はデータに基いて判断しているんですよ。
ここに、ケア滞在でうつ病とかアル中の人が来るじゃない。今まで何人もそういう人を見てきた中で、だいたい、この人はこういう傾向を持っている、この傾向とこの傾向がくっついてこうなっているっていうのが見えてくるんだよ。それで、そのデータに基づいて、このケースはこうしたらいいね、と判断し、伝える。それが的を射ていくと自信になるから、それが信ずる心につながるんだよね。

あきの:
じゃあそういう経験とか出会いが今までになかった人がそうするためには?

いさどん:
それは思考の問題で、例えば何かに出会うとそれは嫌な事だってまず否定的に見る癖の人がいるじゃない。あるいは何でも都合のいいように捉えていく人もいる。
何かに出会うってことは、必ず過去に何かがあって出会っていて、その出会いが原因となって次に何かを起こすもとになっている。そこで、今ここで見ている現象を自分はどんなふうに捉えているかをまず見るんだよ。これは嫌だとか、好きなことなら実際より良く見えているとか、色をつけて見るでしょ。そういう色付けをしないで、目の前の現象を客観的な情報として捉えていく。それがどう展開していくかは行ってみて判断すればいいのだから、ポジティブにとりすぎる必要も、ネガティブにとりすぎる必要もない。自分の心の癖もよくつかみながら、それをいかに冷静に、情報として観るかが大事なんだよ。

この間市川で『確固たる居場所』の上映会を主催してくれた人たちの中の一人が、「木の花は今、ある意味創設以来の危機にいます」って言うんだよね。そうとも言えるけどね、僕らの感覚だと、これは神様ごとなんだよ。
僕も生身の人間だから、目の前の事を見て、何とも感じないってことはないよね。そりゃ心も身体も反応する。事実疲れているから、危機といえば危機なんだけど、木の花ファミリーが始まった時から、我々は天から降りて来たことを実行していて、途中でいろいろ言われても、それは全部そこで必要なことだと信じてやってきたわけだよ。
ということは、僕のデータの中では、今危機に見えるような事も、実はチャンスなのね。つまり、次の事が生まれるチャンスなわけだ。そこでネガティブに反応したら、それは無駄なエネルギーじゃない。だからこそ、この顛末がどうなるか見せてもらいたいと思ってる。

僕の考えているこの世界の構造について話します。
人間って個があるでしょ。あなたも、あなたも、たくさんの個があるでしょう。個は自分の意識を持ってこの世界を見ている。そして、自分の考えで善し悪しを決めている。
ところが、実はそこに個を持っているからそうなっているだけで、実際の構造は個が巨大に集まって、大宇宙があって、そこから自分に近づいてきて、自分の身体になっているだけのこと。どこで区切るかによって、見えるものは変わってくるんだよ。

自分というものをどれだけ思い通りにできるかって言ったら、まず呼吸も、心臓も、コントロールできないでしょう。睡眠もコントロールできないでしょう。食欲も実はコントロールできないんですよ。ましてや排泄なんて、コントロールできないでしょう。
暑い時に汗を自分でコントロールできないでしょう。今はたくさん出せとか、かっこわるいから汗出ないでとか思っても、そうはいかないじゃない。そういうことを人工的にやると病気になっちゃう。命は自然の中にあるのだから、それは違いますよってことなのね。

われわれ人間は、この全体のシステムの掟の中で、自らの個性を活かすように役割をもらっているわけね。何かに出会った時に、自分というものの概念で「こうなってほしい」と思惑を持っても、結構はずれる。それよりも、何か出来事に出会ったら、この世界は、この出来事を通して私に何を求めているのか、この出来事を通して私に何を教えているのか、というふうに、僕は逆に観るわけ。
それで、その視点で世界をずーっと分析していくと、調和なんだよね。調和っていうのは絆がないと生まれない。植物でも動物でも空気でも太陽でも全部調和している。いろんなものがネットワークして、この生命世界をつくっている。宇宙の星と星の関係もそうなっている。
で、その絆とか調和っていうのは、愛というもので初めて成立するわけ。そこには、絆とか調和とか愛とか善意しかない。とすると、この世界は根本的に善意でできているということになる。

しかしこの世界には、被害妄想だったり対立があったり、悪意があるじゃない。それは何のためにあるのかといったら、愛を増幅させるためにあるのね。じゃない?つまり、辛いな、苦しいなと思って、それが越えられた時にすごく楽が待っているじゃない。でも楽ばっかりだったら、ちょっと楽があったって、なんだそれだけのことかってなるよね。
神様は、「私は光である。光の中で私の存在は見えないのだ。だからわざわざ闇をつくって、私が見えるようにした」と言うのね。そういうふうにできているのよ、この世界は。

あきの:
そういうのが見え始めたのは30歳の頃ですか?

いさどん:
ちょっと待って。それは見え始めたんじゃないんですよ。今、この世界と自分との関係を科学してったじゃない。
みんなは大きな世界を考えてないんだよ。つまり、自分が入れられている器(身体)がシステムとして機能しているっていう考えを持たないで、自分の側からものを見ているだけなのよ。損か得かとか、この部分は気に入ったとか気に入らないとか、これは忌まわしい出来事だとか美しいことだとかって、区切って心が反応しているのよ。
だけど実際の世界は、全てがつらなって一つの世界としてできていて、自分が反応している感情ですら、その中の一つの役割なんだよ。つまり、良いとか悪いとかっていう世界じゃなくて、それは情報とメッセージなんだよ。今、自分の目の前に何か出来事が起きているとしたら、それはこの世界の意志として提示されているわけだから、僕もそれが何であるかを観てみたいのよ。

何でかって言うとね。今起きていることが苦痛だとしよう。でもこの世界全体は、善意なのよ。善意なのに今苦痛が起きているとしたら、この苦痛の結果どんな善意が示されるのだろうと思う。そこに行きたいと思う。
普通の人は目の前に苦痛が現れると、苦痛が嫌だからって、その苦痛から逃げようとする。僕は苦痛は嫌だからこそ、その苦痛を理解しようとする。するとそこから学べて、その結果が何であるのかがわかると、それは善意だったんだってことになる。全てその延長なの。大きな苦痛がきたら、大きな喜びがある。

そう考えるのは、僕が信じる心が強いからだという事もいえるでしょ。だけど僕は、科学しているんだよね。このでっかい世界も、でっかいっていう形で区切っているし、もっとちっちゃく例えば太陽系の構造だとか、地球の生態系の構造だとか、国家のあり方とか家族のあり方とか自分の個人のあり方ってのを、科学している。そうやって今まで積み重なってきたものなんだよ。

あきの:
それは知識として何か本とかから入れているとか・・

いさどん:
ないです。本とかの知識は、湧き出してくるものの確認としてあったものです。

あきの:
やっぱりそれは自分の中から・・

いさどん:
湧き出してきたのです。もし、僕がこれを本に書いて出したとしよう。結構そういうのを求めている人はいると思うんだよ。だけどそれを読んだところで、それは知識にしかすぎないんだよね。知識はその人の本質を変えるものではない。着ている服のようなもので、着替えたら終わりなのよ。
その本質を変えるものは、智恵の湧き出し口を広くするってこと。我々の中に泉があって、そこから智恵が湧いてくるんだけど、それは無限に湧き出てくる。その無限の泉は誰にもあるんだけど、こんこんと湧き出してくる人もいれば、ちっとも湧かなくって詰まっている人もいるわけよ。

あきの:
なぜ詰まっているんですか?

いさどん:
詰まっているのはつまんないね。つまんないのに詰まってる。(笑)
それちょっと考えてみて。聞くばっかりじゃなくて。

あきの:
えー・・・私が思っていたのは、みんな詰まっているというか、みんな分からないんだと思っていたんですよ。

いさどん:
でも、結構分かりだしている人たちが増えている。
例えばね、分かんなくても、世の中のあり方をみて、「変だな」と思う心がある。なんとなく会社に行って働いて給料もらって家庭をつくって過ごしている。でも何か、会社や夫婦関係のストレスでぎくしゃくしたり、子どもも不安定になったり、その中で自分の気持ちもざわざわして、何か変だぞ、と思う心が湧いてくる時があるでしょ。
それは、僕は智恵が湧き出そうとする波紋なんじゃないかなと思う。そこでただイライラして喧嘩して終わりっていうんじゃあ、いつまでたっても泉は開かないよね。そこからその扱いをどうするかっていうところが、信じられる道に進む一歩かな。

あえて全部答えを言いたくないのは、やっぱ考えてもらいたいからだね。お釈迦様はこう言われた。「ガンジスの河の砂のごとく衆生はおる。」
衆生というのは人々のことだよ。そして、「そのすべてに仏性あり」と言われた。すべての人に智恵の泉、智恵の湧き出す仏になる要素があると言われた。
そこでお釈迦様の言葉は終わりなんだけど、僕にはその後、もう一言足して言われたのよ。「ただし、その道を生きた者にだけある」と。つまり、すべての者に仏性はあるんだけど、そこを開こうとする者、そこに向かって歩んでいった者にだけあるって言われた。

だから今あなたが言うように、今の時代の人たちはなかなかそれをしないのよ。これは「末法の世」といって、知識とか豊かさとかそういう事をいっぱい求めてできた時代ね。知識が豊富な時代だから、もうほとんど読み書きができないような人はいないでしょ。みんな賢くなったのね。
で、賢くなればなるほど人間っていうのは、自分というものが強くなるのよ。私の考え、好み、そういったものが優先されるようになるのね。だから、物理的には豊かな世界はつくったけど、結果として「私が」が強くなった。「私が」ばっかりだと「私が」「私が」ってぶつかりあうでしょう。
そして、人は多くいるのに、絆がない。絆がなければ愛がないから、本当の豊かさがないんだよね。お金があるのに豊かさがない。そういう世界をつくってしまったのね。
それは、自分が賢いと思うからよ。実際に、いろんな事を勉強して知っているから賢いんだよね。でも賢いということの良さと、賢いことの愚かさっていうのがある。

賢いだけではリスクがあって、自分が賢いと思った時に、「頂く心」がなくなる。自分は能力が高いと思っているから、自分で達成してやろうと思うわけ。これが他の生命とちがう、人間の特徴なのね。
それが強くなっていくと、自分で何でも納得しよう、獲得しようと思うわけ。競争してでも勝ってやろうと思うようになって、今のような世界ができあがってくる。「自分の願いを叶えるのは自分の努力だけだ」と思っていて、そこには「頂く」とか「信じる」心がなくなってしまう。自分の能力だけで生きていくことになるんだよ。
信じること、信仰心というのは、この世界にある仕組みとか、自分を命として存在させているもの。自分であって自分でないもの。そのバランスが良くなった時に、初めて信仰心って生まれるんだと思うんだよね。仏性があるのになぜ仏性が表れないのかといったら、その「自分が」という我が優先されて、邪魔しているのね。

僕はこういうことに出会って、頂いたことすら疑っていたし、頂いたことを自分流に考えたわけよ。分かんなきゃ悩むし。それで結果として、自分がどんなに悩んでどんなに考えても、答えは結局なるようにしかならないのよ。それで、自分流に考えても無駄だなってことに気付いた。
自分がああなったらいい、こうなったらいいと考えるんじゃなくて、起きた出来事をよく観て、それをしっかり自分の中に留めておいて、やるべきことをやっていれば答えは出る。その時に起きた目の前にあることをやっていけば、答えは出る。こうなってほしい、ああなってほしいと、先にエネルギーを使わないのよ。
そのエネルギーは、次の出来事が起きた時にそれを分析する力、そしてそれに対して行動する力に使う。そうするとエネルギーが少なくて済むよね。出来事は次々と起こるから、現場合わせってことを常にするね。
それができない人は、二段階も三段階も先まで読んで、自分の中で結論を決めてしまって、不安になったりする。先に読んで勝手に思い込んで検討違いをやって、いってみたら全然違ったという無駄をやる。そうすると、心のエネルギーはざわざわしながら無駄遣いばっかりするんだよね。
前者の方は、必要な時に必要な分だけ使うという落ち着いた状態でしょう。そうすると、どっしりと安定して見える。

あきの:
木の花は、社会の2歩先をいく生き方を今されていると思うんですけど、つまりこの木の花のような精神がそのうち広がっていくだろうっていうことだと思うんですけど、今これを信じられない人もたくさんいるじゃないですか。それでここを出ていってしまう人もいるじゃないですか。これがみんなに信じられるようになるには、どうしたらいいと思いますか。

いさどん:
それが人間の考えなんだよね。この問題が起きているから、私たちはどうしたらいいかっていうことではなくて、もうちょっとそこから一歩引いて見てみよう。

その問題が起きているということは、時代がそれを刻んでいるわけだよね。そうしたら、この問題を通して、時代は何を求めているんだろう、私たちは何をしたらいいんだろうってことを考えればいいんだよ。
もしもこの生き方がいらないんだったら、無駄なエネルギーだからやめたほうがいいよね。面白いのは、一方に非難する人や去っていく人がいて、一方では待ってましたとばかりに求めてくる人たちとの出会いがあるのね。つまり、この非難して去っていく人たちは、今は出会いの旬ではないんだよ。だから去っていくことも、進んでいくためには必要なんだよ。
今まで共にあった者が去っていくことも、今まで共にあったということは、事実として、今までは共にあることが必要だったんだよ。でも今は、さらに先の段階へ進もうとしている。

例えば富士登山でも、だいたい8合目まではみんなで行こうねというのよ。でも8合目から上は、その人の体力とか意欲とかによって、個人個人でまったく条件が違うのよ。だから8合目から上は、一人一人の在り方に合わせていきましょうねってことになる。そこからはどんどん狭くなっていくけど、それは一人一人の決断の道なんだよ。
そうしたら、それでもやっぱりみんなで一緒に来たんだから一緒に頂上へ行こうよって無理に抱えていたら、全体が頂上に行けないことになる。志同じくした者は、一人一人の歩みだから頂上で会おうねって言いながら、一緒の人は一緒に行けば良いんだし、そうでない人はそうでなくていいんだよ。だってゆっくり行かなきゃいけない人もいるんだから。
そのゆっくり行く人にサポーターとしてついていく人は、そういう役割だったらそれでいい。でも自分も頂上に行かなきゃいけない人だったら、無理に合わせていたら自分のリズムに合わないから、その人も頂上に行けなくなっちゃう。

そういう意味で言ったら、僕は今、良い事が起きているんだなあというふうに考えているんだよ。だってもともと全て善意なんだから。その考えで分析していくと、そこが観える。
今までは共にあることが必要だったんだけど、ここからはその人の心に合わせた道を行くべきだったんだねと。
その時に、ここまでは共通していたものの見方が別れて、別の発想になっていく。それは、「今まで一緒だったのに、どうしてそんなに変わっちゃったの」ということではないんです。つまり、その人にとっては同じ道ではもう先へ進めないからこそ、他の道で進むために、違う目線が育ったということなの。それを無理矢理一緒に行きましょうって言ったら、無理がある。

結局、とことんこの道をいく、信ずるということは、僕は科学することだと思う。科学する事によって細かく理解して、それをちゃんと順序に沿ってつないでいくと、全体が観える。すると、科学した事も法則の中にあって、法則が理解できたら、ひとつの情報で右往左往もしない。
この法則の中の、一つひとつのパーツがあるじゃない。例えばある部分を切り取ってみた時に、これはこれだけで判断してもいいものだなあとか、これはこれだけではいけない、もっと5つぐらいを見てみて結論が出るものだなあとか。
僕の信ずる心ってそんな感じです。

あきの:
他の木の花のメンバーだとどうだと思いますか。

いさどん:
僕はみんなにそうなってほしいと思っているんだけど、やっぱり今までの木の花のあり方をつくって来たというか、導いて来たのは僕なんだよね。そうすると、これは木の花の歩みであり、僕の歩みだったんだよね。

8合目まではそれでよかった。でもここからは、一人一人が今まで学んで来た事を生かして、8合目以降の意識になって歩む必要がある。だから、依存的な人はもっと自らに明快なものを提示して、自分たちの先を観られるようになってほしいと思うのね。ある人は自分は悟りたいんだとか、ある人は愛いっぱいで安心したいんだとか、そういう人たちがいるとするでしょ。そういう人たちも、もう自分で判断して歩みなさいって。今、僕はそういう段階だと思う。
そうするとそういう人たちは、これまでとても深く関わってきて、そしてこの生き方を大事に思っていても、「なんだ、もうくれないのか」と離れていく人もいる。僕はそんなふうに思っているつもりはないんだけど、そういった体質もあるんだよ。良い答えが出ないんだったらやめだと、現状を切り離そうとしているわけでしょう。

8合目以降は一人ずつで行く道。そうしたらそこには当然個人差が起きるわけだ。
大丈夫?って声を掛け合って、それでも行こうよって言ったとしても、今の状態しか見えなくて信じられない人は、この先に行っても良い世界なんてないじゃん、と思うんだよ。しかし、この右往左往を乗り越えた先に、みんなが成長して、答えがあるんだよって、それは行ってみないとわからないじゃない。でもそれが信じられない人は、現状がずっと続くと思っているわけよ。だからこんなところにはいられない、と。自分の都合のいいところを求める心が強くなって、信ずる心がないから、抜けていくことになるわけよ。

今離れていく人は、みんな信ずる心が足りない人。自分の安心を求めているのよ。でも安心とか信じる心は、自分がそういう人になるってことでしょう。そのためには、自分がその心で歩まなきゃいけないわけよ。今は、そういう段階の選別にきているなあと思うんだよね。
例えば、8合目までは半袖でもオッケーだった。でもそれ以降は冬の装備が必要だよ。雨も降るかもしれない。そうなった時に、当然厳しいから、今までの心構えと装備では通用しない。

これは心の話だから、心の問題だけなのね。自分に何かが起きたら、それをいただいて、自分の内を観ていく。いただいていくっていうプロセスを繰り返すわけだよ。
8合目まで来て、わー雨が降ってきた、装備が十分じゃない、もう先が見えているからこれ以上行くのはやめよう、と思ったとしても、実は先がどうなるかは行ってみないとわからないじゃない。ちょっと先に行ったら、それまでは雲が立ちこめていたけど雲の上に出て天気がよくなるかもしれない。それは行ってみることによって初めてわかる。そして行くためには、信ずる心が必要なんだけよ。

さっき、科学して情報を整理して法則性がわかった時に信ずる心が生まれるという話をしたね。それが足りない人が、今の現状を憂いて、これ以上良いところは求められないんだって終わっていくんだと思うのよ。
その山を越えれば、越えた分だけの価値がその次にあるってことを僕は言いたい。でも行かない人に行けとは言えない。それは一人一人の意志だから。
質問への答えになったかな?

あきの:
はい。

いさどん:
これは木の花の生活だけではなくて、普通の人も同じだと思う。ただ、普通の人はそんな風に分析しない。科学して、分析してそれが何だったのかって考えて振り返らない。だから、毎日が感情の垂れ流し。湧いて来た思考をただ出して、感情で反応している人が多いね。喧嘩すりゃ痛いとか、自分本位でやると人間関係が壊れていって社会的にも通用しない、っていう条件反射的な学びをしているだけなのね。
もっとホリスティックに、この世界を自分の感情と照らし合わせて分析していったら、たぶん自分の感情には振り回されないで行けるようになるね。この宇宙は法則で成り立っていて、それがふっと湧いてくる。これが智恵なの。そこのところに到達すると、僕みたいな話をするようになる。

あきの:
面白いですね。

いさどん:
僕も話してて面白かった。人類はそろそろその時代に行くと思うよ。
この間NHKで2回ばかり特集をやってたんだけど、2050年代に世界の潮位は80㎝上がるんだって。あと40年くらいしたらです。あなたたち、生きているでしょう。

あきの&ゆき:
はい。

いさどん:
80㎝上がるって大変なことよ。潮位が上がるってことは氷が溶けるってことだから、それだけ暖かいってことでしょう。2070年代にはスーパー台風が発生するって言うんですよ。この間スーパー台風が一つ起きたよね。フィリピンでは風速90mだったんだよね。竜巻級の台風が起きたんだよ。
でも2070年になると、風速100m、910ヘクトパスカルの台風が来るんだって。これはスーパーコンピューターで計算しているからほとんどまちがいない。それが60年後よ。生きている?

あきの&ゆき:
かもしれない。

いさどん:
可能性があるでしょう。潮位が80cm上がって気圧が910ってことになると、さらに潮位を上げるでしょう。それに風速100mの風が吹いたら、当たり前に5mの高潮がくるよ。日本中の海岸にそれに備えるだけの防波堤を作るか?できないですよ、そんなこと。
それどころか、今は地震も心配されていて、富士山も噴火するって言われているでしょ。富士山がもし中規模の噴火を起こすと、富士山の上空8000m以上いったらジェット気流の影響があるから、沼津から東京、京浜工業地帯まで、大量の火山灰が降りますよ。そうしたら今の携帯とかコンピュータって全部壊滅ですよ。
これって現実的な話ね。21世紀の前半にそれが起きる可能性があって、それは今の福島の原発のようなものじゃないと思うのよ。これから人類はどうやって生きていくかなのよ。もう20世紀型の文明は全て壊滅。あとは不便だけどみんなで助け合って生きるしかないんじゃないの、と思うんだけど。食料も問題になってくるね。いろんなものの価値観が変わってくるね。僕はこれが、20世紀までの人間のやって来たことに対する答えだと思うの。

じゃあ21世紀になったのだから、そろそろ20世紀型を改変する必要があるんだけど、人間って痛い目しないとわからないんだよね。最近の人間は我が強くなり過ぎちゃって、自分を過信している。もう痛い兆候はいっぱい現れているのよ。地球温暖化だって、今の時点で温暖化要因を止めても、もうすでに空気中にある分だけで危機的な状態なわけよ。それでもまだ、やり続けているのよ。経済発展だとかなんだってそんな事ばっかり言ってるのよ。人間の住む環境は悪くなるのに、まだ景気を良くすることばかり考えてる。

何で不景気になるかといったら、人間の中には自然のセンサーがあるんだよ。子どもが野菜を食べないのはなぜかって、あれは食べ物が毒だから。子どもは身体がちっちゃいから、自分の中のセンサーが働いてて、自らを守っているわけ。だから、本当に健全な野菜は子どもも喜んで食べるの。
それと同じように普通の人間にもそういうセンサーが残っていて、世の中を見て「なんか変だね」と感じてる。それで具体的に区切って見てみる。しかし問題がない。だけどなんか変だな、こんなことでいいのかなーって考えて、会社に行ったら競争ばっかりでやだなーって、ニートになるとかね。親がそのことにああだこうだ言うと、引きこもっちゃうとかね。
これをその部分だけを切り取って見てみると、問題に見えるでしょう。でもつなげて観ていくと、社会がそういう風に愛や絆のない貧しい人間をつくろうとしている事に対して、今起きているこの問題は何なのかと考える良い機会になる。社会の現象は神様が起こしていて、それが善意だとしたら、これを乗り越えたらもっと良い次の世界があるということなんだよ。

今のまま変わらなかったら地獄だよ。だけどこれを乗り越えたら素晴らしい世界がある。今の若い人たちって、その素晴らしい世界を生きる人たちなんだよ。でも古い人たちは、その前の競争社会を若い人たちに提供しようとしているのよ。だから、そこでニートや引きこもりやうつ病になるのは、センサーが正常に働いているということなんだよ。
アトピーや癌も、全部センサーであり、気づけ気づけっていうメッセージなのよ。だから病気だってすごく大事なことなんだよ。それを、学ばないで対処療法で治そうとするもんだから、いつまでたってもメッセージが終わらないのよ。
全てはメッセージ、という風に捉えたら、我々がどうしていったらいいのかが簡単にわかる。愛と絆の社会をつくるだけだよ。みんなで助け合っていったら、無駄がなくなって原発がいらなくなって、ものを大切に使うからゴミが出なくなって。そして地球と持続可能に暮らす社会ができる。わかりやすいよね。

こんなに簡単なことなのに、なんで人間たちはそれができないのか。それは、賢すぎるからだと思う。つまり過信しているの。自分が正しいと思って、自分が望む世界を求めているの。
でもね、自分が望む前に、我々はこの宇宙の法則、地球生態系の法則の中に役割をいただいて生まれてきているの。自分が生きるという事は、この全体の法則によって、ネットワークの中に生かされているんだから、自分はまず意識を持ち役割を果たすこと。宇宙の意に沿うこと。それが「いただきます」って心なんだよ。そして生きていることが「ありがとうございます」ってことなのよ。
普通の人は、病気になって「ありがとうございます」なんてことは言わないと思うけど、今の考えだったら「ありがとうございます」って言えるよね。問題ごとに出会って「ありがとうございます」って言えるよね。だって、それは自分に対するメッセージだもん。そこで学んで次に生かしていく。それができる人間が地上に降りてくると、僕は地上天国になると思うんだよ。

「ありがとうございます」をちょっと分析するね。
「ありがとうございます」っていうのは、「ありがとう」と「ございます」の二つになっている。「ありがとう」っていうのは、「有り難い」、つまり「有ることが難しい」ってことよ。それが「ございます」だから、「あるわけのないような難しいことが起きている」ってことを言っているわけよ。
我々が生きているということは、すごい有り難いこと、ものすごい奇跡のような難しいことが起きているわけ。例えば病気になるということも、健康な者がわざわざ病気になるということは、何かこの宇宙の法則から外れていて、病気を通してそれを教えてもらっているんだよ。そんな難しいことを今与えられている。有り難いことが起きているのよ。
「ありがとうございます」っていうのは、その智恵が湧いてきてそれを理解できたときに、有り難いなあ、ということなのよ。

「働く」って字は人が動くと書くでしょう。人が動くってことは生命として生きているということです。(※9月4日いさどんブログ「宇宙視点の働き方」をご参照ください。)生命は生きる命。命は「みこと」ですから、神が生きているということ。我々も、生きる神なのね。生命は循環して巡り巡って変化して進化していく。すべてが循環しているのだから、これは絆の象徴なんですよ。地球の生態系も宇宙のネットワークも。そしてすべてのものを生かしている。
だから、地球にはゴミが出ない。人間は区切って損得勘定するから、人間社会だけがゴミを出す。そのゴミが出ない地球生態系システムが生命の姿で、それはまるっきり我々の身体の中の構造と一緒なの。その中で人が動くってことは、健康なネットワークを健全につなげていくって事ですよ。それが「はた(傍)」を「らく(楽)」にする、「はたらく」ことの本当の意味です。人間には特にそのことを、この世界の中で託されている。
それは何でかっていうと、人が動くとね、動き方によっては災いをもたらすわけね。でも本来人間は、この世界に良いものをもたらすために生きているわけですよ。今、大きく行き詰まった問題があるとしたら、それを学び活かした先に、それを越えた社会があるってことなのよ。そこを生きる者たちは、今の社会に疑問を感じて「NO」と言っているのよ。それは今の社会では問題児だけど、それが生かされる時が来るだろうと思うよ。それも「はたらく」ということだね。

あきの:
そういう人たちがこれからどんどん増えて、それが多数派になると思いますか。今はそうやって問題ごとから学ぼうとする人たちは少数派だと思うのですが。

いさどん:
そうそう。時代は過去から未来へ進んでいるよね。そうすると、その先端を行く人はほんの一部の人たちなのよ。大部分の人は日和見ね。そしてその後ろに抵抗勢力がいる。今は抵抗勢力がすごく大きくなってる。なぜかっていうと、五感で豊かさを感じちゃって、その魅力に取り付かれている人が多いんだよ。
それで、今「何かちょっと変だぞ」って感じて、新しいところへ移行しようとしている人は全体の一割いないね。1%かもしれないね。でもね、今までの時代はこういうことを人類に表現させる時代だったのよ。

人間は変わらないからいつまでたってもずっと一緒と思うかも知れないけど、地球が自転して、毎日僕らは朝をもらって、夜をもらって、年をとっていくでしょう。地球が自転しているから、経験を積んで進化しているわけでしょう。すると、これは人間の歴史なのか、地球の歴史なのかっていったら、地球の歴史なのよ。年代は確実に刻まれていくわけよ。それは地球暦でいう、他の惑星との絡みもあって刻んでいくわけだ。

今、人類はこの時代の表現をしている。その前は戦争時代だったよね。そして今も戦争の名残が残っている。だって社会は平和じゃないもんね。個人の心も、家庭の中も、会社同士もみんな対立しているんだから。平和もどきだから、孤独死が起きたり、うつ病が発生しているんだよ。
今地上に降りて来ている人間たちは、この時代の役割を託された人たちなんだよ。上の世界には魂がいっぱいいて、地球へ降りる順番を待っている。この時代はこういう表現をする魂に託します、と言って、自分の番が来るのを待っているんだよ。
だから今ここに降りて来ている子ども達は、次の時代を担う魂たち。だから、それが多数になるかならないかっていったら、地球は時代とともに進化していくのだから、そうなるに決まっているのよ。でも、それが不安に思えるのは、今の現状しか見ていないから、現状がずっと続くと思っているんだよ。

例えば木の花で長年やって来て、もうここでは限界だと思っている人がいる。それは今のこの部分だけを区切って見るからそう見えるのであって、木の花は確実に進化するところです。ではなぜその人がここにいられないかって言ったら、自分は先進的な考えをしていて、もっと素晴らしいところを自分がつくっていけると思っている。それが落とし穴なんだよ。
道は地球が刻むのであり、法則が与えるものであって、我々はそれを頂く者なんだよ。シナリオも監督も、見えないところにいるわけ。我々はこの地球の舞台の中でそれを演ずる役者だから、見えない側から台本を頂いて演じなきゃいけないのに、自分がつくる側になっている。謙虚さがないからそうなっちゃう。だから安易に結論を出して、離れていってしまう。ここにいたら、確実に次の時代の木の花に出会う。確実に今を善意に受取っていたら、次の時代の地球に出会える。
というふうに僕は考えるんだけど、どう?

あきの:
そうですね。

いさどん:
こうやって聞くとなるほどなと思うのに、それを聞かないと信じられない。こうなるんじゃないか、ああなるんじゃないかって悪く考える。
たとえばさっき、地球環境が人間の暮らしを脅かすって話をしたね。これは地球自身が今のあり方の人間を好まないからよ。当たり前だよね。自分の体にガン細胞が発生したら、我々だってなんとかしてとろうと思うじゃん。その時に、人間の姿勢が変われば、僕は地球に起きる現象も変わると観ているんだよ。だから心が大事なのよ。生きることの上で、何よりも一番に心が大事なのよ。
ところが、今の人間は体主霊従といって、形を先にして霊(心)を後にしているんだよね。本来は霊主体従、霊が先に来なきゃいけないんだけど、それをやらないで形ばっかり求めている。それは、今の人間達が知識豊富になって自分の願いを叶える、我を優先させるってことをやってる結果だと思う。

さて、これからあなたは、どう生きますか?他に何か質問ありますか?

あきの:
いろいろあるんですけど・・・

いさどん:
今の事がわかるとね、だいたい他の事も自ずと答えを出せるようになる。そういう仕組みが分かったら、不安定要因って消えるのよ。そう考えるとこれも不必要だな、あれも不必要だなって、自然に疑問が消えていくのよ。そういう捉え方を持つと、病気でここに来た人が治っていくんだよ。
地球に物語を刻んでいくために魂がいて、その地球と連動して人間が生きていくと、地球に対して人間が有益なものになるわけだよね。それがこれからの時代だと僕は考えている。人間はいかに地球の声を聞いて、そして地球と共に存在し続けていくのかということが、21世紀の人類の命題かなあと思う。
さてそれがあきのちゃんからすると、「どうやって人を目覚めさせるんですか」ということになるんですよ。僕は「それは神様が握っておられるんじゃないですか」と思うんだよ。

ゆき:
人を変えたいとかじゃなくて、私もこれから伝える仕事をする上で、こういう本当に自分の魂がわくわくすることとか、これからは本当にみんなが調和する時代なんだよってことをテレビから伝えていければいいなと思うんですけど、ただ、それって本当に受け取る人の心とかタイミング次第というか、神様が決めるところみたいなところもあるのかと。

いさどん:
神様が決めるところって言っちゃうと、すごい受動的っていうかね、それじゃあ人間は単なるマリオネットになっちゃうでしょう。神様は天の法則を司っていて、それを受けて人間は地上で具現化していくんだから、やっぱり人間がそういう広い世界観を持つってことが大事だね。
で、確実にそういう人たちは増えているけど、その増えていくための働きが、一人一人の中の気付きってことでしょう。まず最初の「なんか変だぞ」というセンサー。その「変」をどのように育てていくかっていうことが大事だと思う。それは一人一人の意志ね。そういう大きなスケールに基づいた人生を生きた人って、いい死の迎え方をするよね。ああ、良い人生だったなって、完熟死で旅立っていく。もう悔いはないって。

本来、人間は魂が進化、成長するために生まれて来ているのよ。肉体は二十歳からはどんどん衰える。魂の成長のために生まれて来ているのに、それをやらないで、形だけを求めて欲ばかりでいくと、欲の虜になって、死ぬ時にあれはどうしようこれはどうしよう、あれはやってない、これもやっていないと、そういう事ばかりを考えて見苦しい死に方になるから、意識レベルは低いままになる。そうすると、次の人生ではまたそれにふさわしい修行が与えられて、それを繰り返すことになる。

あきの:
最近の大人ミーティングがすごく面白いですね。

いさどん:
あの大人ミーティングを見て、ここでやっていく意欲がなくなった人もいるんだよ。だから、どこを見ているかということ。僕はますます、この方向へ進むべきだなと思ってる。

ゆき:
じゃあ、最後。いさどんは、こういうふうにいろんな人に何か伝えるときに、気をつけていることってありますか?

いさどん:
これが正しいという伝え方はしない。正しいは人間の数ほどある。だからあなたが考えてそれをYESと思えば行けばいいんだし、思わなければ行かなくていいんだよ。それが今のあなたにふさわしいことだから。そしてそれぞれのプロセスを踏んでいくんだから。
ただし場合によっては、あなたの今の心の状態を知りたいと求められれば、情報として分析して提供することはできます。それをどのように受け取るのかは、相手の問題です。僕は常に情報として伝えている。これが正しいということではなくて、こういう捉え方がここではできますよ、でも違う切り口でやるとこういう捉え方になりますよという、情報発信をしている。

だってこの世界は、情報の洪水なんだもん。それを個人の欲だとかいったもので汚染して、偏った情報が正しいことになってしまう。実はこの世界は情報の連鎖だから、正しいも間違いもないのよ。どこの位置に立ったらこれが悪に見えて、どこの位置に立ったらこれが善になるか。悪と捉える事もできれば、これってこのおかげでこうなるんだねって善にもなる。それが宇宙の構造だよ。アナウンサーとしてこんな話をするのは、ちょっと難しいね。

ゆき:
難しいですね。だから本当に、それこそ情報としていろんなことを伝えていくしかないかな。

いさどん:
テレビ局では、自分の言いたい事を言えるわけじゃないのよ。例えばあなたが、アナウンサーという立場でもらった原稿を語る人からキャスターになったら、そこは変わるでしょう。

ゆき:
たぶんどっちもやる。

いさどん:
あなたの個性がそこで何を受け取っているかによって、魂の入っている言葉、言霊を発するのか、それとも単なる棒読みの魂のない言葉を話すのかが変わってくる。アナウンサーはどちらかというと言霊は要らない立場に立つことになるね。機械でいいんだから。でもキャスターになって、言霊を発したら、その人は社会にとても大きな影響を与えるよ。
言葉って正しく使わないとだめだしね。どの言葉をそこに使うかによって、そこに魂が全部表れる。そして世の中にそれが発せられると、それがずーっと人に広がって、社会がつくられていく。
だから、僕はどんな事があっても神様の善意を信じている。この世界は善意なんだ。ほら、あそこに神様がおいでになるじゃない。斜め45度上を見れば、神さまがおいでになって、なんか言ってるなあと。それは言葉で返ってくる。まあカルトの世界ですな。見る人によっては、カルトの世界。

あきの:
どう違うんですかね?

いさどん:
カルトかカルトでないかは、そこの世界に価値観があるとするでしょう。そこの中で限定されて、他に一切通用しないもの。それがカルトですよ。そこにあるものが少なくとも周りを巻き込んで、そして社会の中に反映されていくなら、それはカルトと言えないものです。
過去から未来へ進むときに、最先端の思考を行く人は少数派で、大部分の人からは見えない。一歩先のものを見てすごいとは言っても、2歩先のものは見えないから、あれは自分たちにはわからないし、何の役にも立たないよって、カルトだと見る時がある。しかし、そこには実際にカルトもいるんだよ。その見分けは難しいねえ。

あきの:
難しいですね。

いさどん:
それは、心で感じるものだよ。市川での『確固たる居場所』上映会の運営スタッフの何人かは、(メンバーをやめた)よしどんが木の花のことをめちゃめちゃに書いているブログを見ていた。それで、上映後の質疑応答でその話が出るのかと思ったら、もっとこの生き方を広げようという話になった。
それは、よしどんのやっていることの悪意を感じて、じゃあ真実は何だろうって思ったときに、僕は何も話さなかったけど、あの映画を観て、そして上映後の話し合いを聞いて、「あ、これは本物だぞ」と思ったんじゃないの。何かを観たってことだと思う。そこでは言葉や説明はいらない。
人にそれだけの力がつくと、何も聞いてなくても、あ、これは本物だって分かるようになる。これは臭いとか、これはいい雰囲気だねって、人間は仕分けられるようになる。それが今、僕たちが目指している「阿吽」というもの。僕は阿吽を20年間求めて来たけど、なかなか難しかったね。ずっと言ってきたけどね。これが一番省エネなんだよね。真理が湧いてくる。今、ひまわりに阿吽の書が飾られたのは、ここが阿吽の場所になってくってこと。次の進化に入ってきた。

あきの:
楽しみですね。

ひとみ:
またすぐ来ないと変わっちゃうよ。

あきの:
そうですね。いまも激動の渦の中にいるって感じですね。

ひとみ:
そうだね。今は一番大きいかもね。変化がね。

いさどん:
来年は「うねりの年」だから、来年が一番変化が大きいだろうね。今は無駄をなくしてきっちり土台をつくって、その上に新しく構築していく時だね。

ひとみ:
それが個人個人の中でもおこなわれているし、全体でも行なわれているね。

いさどん:
ここはある意味ひな形だから、世の中に起きることが先に起きているんだよ。これから世の中でも、天変地異や経済システムの破たんなど、人間が右往左往することが起きてくる。そして波紋がたくさん起きる。池に石がたくさん投げられるってことだよ。
でも波紋が起きたら、そこにサーフボードを持っていって波乗りすればいいのよ。
だって、これは神さまとのゲームなんだから。
 
 
 


「家族」って何だろう

先月、結婚をせずに生まれた「婚外子」への差別を定めた民法の規定は憲法違反だとする判決を、最高裁が下しました。一方、生殖補助医療の発展により、精子提供によって子どもを持つ親が増えていますが、現在の法律では親子とは認められていません。9月30日放送のNHK「クローズアップ現代」では、家族の形が多様化する中で法律が追いついていない現状を取り上げ、「家族」とは何か、ということを投げかけています。
この番組を見て、木の花ファミリーでも「家族とは?」をテーマに座談会の場を持ちました!

★「クローズアップ現代」内容詳細は、下記サイトにて公開されています。
 『家族とは?親子とは?揺らぐ法制度』

*   *   *   *   *   *   *   *   *   * 

いさどん:
この番組では婚外子に焦点を当てているけれど、そもそも、婚姻制度はいつごろ始まったのかな。

ともこ:
今のような婚姻制度が確立したのは、明治に入ってからみたいですね。もともと、今の家父長制的な家族観というのは日本の一般庶民の間にはなかったのだけれど、明治になって新政府が国民を統治していく手段として、一夫一婦制の家族制度を普及させたようです。ここ百数十年程度の新しい価値観ですね。

いさどん:
よく、平安貴族の話には通い婚の様子も出てくるけれど、一般庶民はどうだったのだろうね。

こはる:
コミュニティで暮らしていた、というイメージがありますね。

いさどん:
今、若い世代でシングルマザーが増えているなど、家族に対する意識が変わってきているよね。番組には、(婚外子は財産の相続が嫡出子の半分になるという民法の規定を違憲とした)判決を喜ぶ50代の女性が出てきたけれど、彼女はおそらく昔のお妾さんの子どもとして生まれた人で、今のシングルマザーの子どもたちとは背景が違うだろうと思うんだよ。
彼女が判決に喜んでいる姿を見ていると、お金のことが目的のようで、時代的なメッセージはないと僕は観ています。家父長制が大事だった時代には、彼女のような立場の人たちは当然のように差別されてきた。それは差別というよりも、当時の人々の意識では当たり前のことになっていて、その時代の価値観の中でその立場に相応しい扱いを受ける、という意味では、平等だったとも言えると思う。ところが、時代が変わって家父長制が崩壊し始めた。だからこそ、過去の価値観の中では当然とされてきたことが、今差別として浮き彫りになってきているんだよ。
一方、今のシングルマザーの増加は女性の意識の自立によるもの。同じ婚外子でも、昔のお妾さんの子どもとは背景が違うから、そこは分けて考える必要があると思います。

では、その背景を変えたものは何か。
今、若い世代、特に女性の間で、結婚を望まない人が増えてきているね。フランスでは(同棲していれば結婚と同等の社会保障が得られるPACS婚が1999年に制定されたことにより)婚外子の割合が全体の55%になっている。若い世代が結婚を選ばなくなった理由の一つに、一度結婚をしてしまうと離婚が面倒ということがあるようだね。関係がいいうちは一緒に暮らして、合わなくなったら次の相手を選ぶ。そういった考えが、これまでの家族の概念にとって代わってきたんだよ。
僕は長年人生相談を受けてきた中で、親の不仲を見て育ってきたことで結婚に積極的になれない人たちにたくさん出会ってきた。私も結婚したらあんな風になるのか、と思うと、結婚したいとは思えないのだろうね。逆に、私はあんな風になりたくない、という想いから、理想の家庭像を描いて結婚する人もいるけれど、そのようなケースの場合ほとんどは離婚します。本来、結婚してから新たな関係を築いていくべきものを、先に自分目線のイメージを持っていてそれを実現しようとするので、それが家庭崩壊の種になっていくんだよ。
昔は女性に生活力がなかったから、我慢して結婚生活を送っていた。しかし今は所得も男性とそれほど変わらなくなって、離婚という道も選べるようになった。僕はこれまでいろんな家庭を見てきたけれど、「結婚=幸せ」なんていう絵に描いたような家族にはほとんど出会っていません。というか、ないかもしれないです(笑)。

いさお:
「結婚=シワ寄せ」とか(笑)。

ともこ:
番組では、コメンテーターが「法律婚は子どもが安定して育っていく上で大切な受け皿」と言っていたよね。実際に、日本が発展してくる過程で、1対1で結婚して「家族」という単位を形成することは便利がよかったのかな、と思いますが。

いさどん:
便利がいいって、誰にとって便利がいいの。

ともこ:
社会かな。

いさお:
国家とかね。

ともこ:
明治になって富国強兵を推進していく時に、妻が安定して家庭を守ると夫は安心して戦争に専念できる、という狙いもあったって聞いたことがあります。

いさお:
戦後は、それが高度経済成長にすり替わった。

みほ:
夫はがむしゃらに働いてお金を稼いで、妻は家で子どもを育てて、それが日本の経済成長を支えていたんだよね。

いさどん:
それが崩れたわけか。つまり婚外子の発生は、今の社会的構造から来る人々の意識の変化から、婚姻制度に対する価値観が変わってきたことによって、今の現象が起きているとも言えるね。

ともこ:
そういう制度があって日本社会はここまで発展をしてきたんだけれども、そのままの価値観では進めない段階になってきているのでは。

いさどん:
だから、何かが変わろうとしているんだよ。
ここで宇宙視点で、時代を1000年単位の移り変わりで観ていくと、日本は平安時代までは母系社会だったよね。そこから封建制度が始まって、男性中心の社会になった。それが、2012年12月21日、太陽系の冬至を境にして、新しい時代の幕が明けた。
それがどのようなことを意味しているのかというと、男性性、すなわち陽が主とされていた時代から、女性性、すなわち陰が大切な時代になっていく、ということです。競争して獲得していく時代から、調和して共にやっていこう、という時代に変化していく。女性は男性に帰属することなく、一人の人間として自立して生きていく。ある意味、婚姻制度に対する反乱とも言えるかもしれないね。

この間、こんな話を聞いたよ。動物でも人間でも、若いころは精力的だから、パートナーを見つけて一生懸命子作りをする。ところが子どもがある程度の数になると、本能的なものから、種を多様化させようという力が自然に働くんだって。同じパートナーとだけだと種が均質になり多様性が失われるから、多様性をもたらすための意志が自然に働いて、他の相手と新しい関係を作る。それが自然の理にかなっている、と言うんだよ。今はそれを、婚姻制度で縛っているとも言えるね。

みちよ:
国によっては、今も複数の妻を持つ文化のところもあるよね。

ともこ:
だけど、一夫多妻制と女性の自立ってどのように捉えたらいいのかな?

いさどん:
複数の奥さんがいるというと、男性が女性を多数支配しているように見えるけれど、実は自然界では、メスがオスを選んでいるんだよ。ではオスは何をしているのかというと、動物の世界の価値感にそって、自分が価値あるものとなるように磨いているんだよ。人間も、男性は男磨きをするべきなのよ。するとそのオスは、たくさんのメスに支持される。それは、優秀な種を残すという意味では有益なことだし、それが本来の自然の姿なんだよ。それが人間の世界では、誰でも一律にパートナーを持つようになったことで、自ずと優秀な子孫が生まれる確率も低くなった、とも言えるね。
もう一つ、今の社会に大きく欠落しているものがある。女性が自立していくのはとても良いことだと思うけれど、その反面、家庭から父性がなくなってきているんだよね。リーダーシップを取れる、たくましい父親像が消えてしまって、男が男らしくなくなり、家族の秩序が失われ、調和が取れなくなってきている。そこも問題の種の一つだよね。

ともこ:
でもそれも、人類が次の段階に進むためのプロセスと捉えられますね。

いさどん:
そうだろうね。これから父性というものがどのようになっていくのかは、興味深いところだね。父親の存在が、たくましい子供たちを育てるとか、家庭の秩序を保つという役割を果たしていた時代が終わり、「家庭」というものに縛られない子どもたちが育っていくとか、特定の人間がリーダーシップを取らなくてもみんなが知恵を持ち寄ることによって成り立つ社会になるとか。それは今の木の花のような社会だね。まだ途上だけれど。

ともこ:
今のところ木の花には父性があるよね。いさどんがいるから。

いさどん:
でも僕の他にいないじゃない。だから、この僕がやっているような父性の役割がいつまでもあり続けるべきなのか、それともこの父性がもっと違う形で表現される時代になるのかといったら、後者の方でなくてはいけない、と僕は思うんだよ。

ともこ:
それがどんなものかは、先に行ってみないとわからない。

いさどん:
そうだね。新しい世界だからね。だから、そこへ向かうプロセスとして秩序が変わっていくことに抵抗しない、ということじゃないかな。
どちらにしても、これは難しいテーマだよ。いくらでも可能性がある話でしょ。いろいろなスタイルがあっていいものなのに、それを無理やり一つの形に閉じ込めてきたことに問題があるんだよ。今はある意味、そこに対しての反動が起きてきているのだと思います。だから一見無秩序になっていくように見えたとしても、そこからまた新しい突如が生まれていくのだから、その時に、それを恐れないことだよ。時代は常に移り変わっていくのだから。

ともこ:
質問です。男性が男磨きなら、女性は何をするべきですか?

いさどん:
女性は、価値あるものを観る目を育てることだよ。いかにいいものを選ぶか、ということ。女性に観る目がないと、ろくでもない種を次の世代に残すことになるでしょう。それは女性の責任ですね。

ともこ:
今の発言は、聞く人によっては誤解を生みそうですが。

いさどん:
そんなことないよ。僕は今のことを言っているのではなく、自然界や、未来について語っているんだよ。自然界で成っていることが、人間だけがそうではないルールを創ってきた。その結果、また自然界へ戻っていくのではないか、という話をしているだけなんだよ。その方がみんなも気持ちが活性化されるでしょ?
今は、特定の相手を自分のものとしたらそれで良しとして、心も磨かずにのほほんとしているわけだよ。でもそこに緊張感があれば、人は学んで成長していくようになる。学びながらその相手と一生を添い遂げることもできるし、失ってそこからまた次の可能性を探求していくこともできる。それは夢のあることだと思うよ。

ともこ:
でも観る目を養うだけでは、男性に依存することにならないですか?

いさどん:
どうして?女性がしっかりした意志を持って、未来を決めていくということでしょ。男は女性たちに採用してもらうために自分磨きをするってことだよ。常に女性が主導権を持っている世界なんだよ。自然界はそうなっているし、人間社会でも、平安時代までの日本はそうだったよね。今の人間界は、オスがうまいことを言って、お金のように自然界のものとは違うものを魅力にして、メスがそこにへつらうようなかたちになっているでしょう。そこが自然界と違うところだよね。
これまでは、個人個人が自分の欲望を叶えて、その結果として今のような社会をつくってきた。その社会の中で経験を積んだ人たちが木の花ファミリーに集まり、現代社会の行き詰まりを超えた世界を表現しようとしているんだよ。
木の花では、気持ちの合う人とカップルにはなっても、結婚してお互いを縛り合う必要はないし、生活のために誰かに養ってもらう必要も、養う必要もない。必然的に、男女の関係性から結婚についての必要性が変わってくるんだよ。

ともこ:
昔ほどではないけれど、今も世間では、婚姻制度のもと1人の人を想い続けることが美徳とされている面があるでしょ。その、本来の自然の姿から離れたことを美徳として、それが価値だと思って生きているとしたら、それって一体どこから来てるんだろう?

いさどん:
その背景を考えないといけないね。

ひろっち:
宗教的な影響も大きいんじゃないかな。キリスト教でも儒教でも、一人の人と生涯を共にするのが美徳とされてるよね。そしてその方が統制しやすい。

いさどん:
僕は多くの人の相談にのってきた立場から答えるけれど、一生その人だけを想い続けられるような相手に出会ったことのある人なんて、ほとんどいないですね。僕は問題ごとの相談にのってきた立場だから、そういった人に多く出会ったとも言えるかもしれないけれど、社会全体を見ても、やはりそういった人の方が多いんじゃないかと思う。すると「美徳」という認識は、ある意味強迫観念のように人々の中にあるものだとも言えるよね。
時代は常に移り変わっている。今だって、僕が子どもの頃とはずいぶん価値観が変わってきている。僕はどんなことがあっても「おお、新しくなったなあ」という感じで受け取るけれど、人によっては自らが育ってくる中で植え付けられた「正しさ」をなかなか手放せないんだよ。だけどそれは、進化するためには囚われずに手放していくべきもので、手放せない人ほど苦労をすることになるんだよ。
シングルマザーが話題になっているけれど、ではまともと思われる夫婦の家庭の子どもはまともに育っているのか、ということも問われるね。

みかこ:
ここに相談に来る人のほとんどが、親から受けたトラウマを持っているよね。

いさどん:
両親がそろっている家庭でも、家庭の中は不安定で父性や母性が喪失していることも多く、その中で育った若い世代は、そのトラウマから、結婚願望を持てなかったり、自らが子どもをもうけて社会責任を果たしていくような大人になりきれていないことが多い。そういった人たちは、家庭を持っても、もっと遊びたいとか、自分の欲求を優先させる傾向があるんだよ。そういった様々な要因により、婚姻制度によって保たれてきた家庭に魅力がなくなってきた、とも言えるね。
かつて鳩山さんが、子どもは社会の子だから社会で育てていこう、ということをやり始めたでしょう。これはとても進歩的な話だと思ったのだけど、結局立ち消えになった。それは、社会がまだ他人の子どもを自分の子どもだと思えていないからだよ。そして自らの子どもを、次世代を担う社会にとって大切なものとは考えずに、所有している。そういったことも、そろそろ崩壊していくといいよね。
おそらく将来は、男女の縁のもとに子どもが生まれたら、それを社会が育てていくような仕組みに移行していくのでは、と僕は考えているんだよ。その時に、父性愛や母性愛が欠如した環境で子どもが生まれてくることを考えると、こういったコミュニティのように、子どもを社会全体の子として分け隔てなく育てる仕組みは、新しい社会にとって有効だろうと思うんだよ。

いさお:
子どもを社会のものだと考えた時に、相続制度はどうなっていくんでしょうね。

いさどん:
多くの富を得た人は、それだけ社会を担ってきて、それだけの価値を築いたわけだよね。だけど次の時代は、その人の能力で創られるわけじゃない。だから、自分の代で得たものは自分の人生の中での表現として完結させて、新しい世代はゼロからスタートさせるべきだと思うよ。
だけど今の現実は、そうはなっていない。働かなくても親の遺産でお金が入ることもあるわけだよ。最初からそういうものはないことになっていれば誰もとらわれないのに、遺産をめぐって血縁の人間関係がドロドロしたりするわけだから、本当はない方がいいよね。そして、自分の実力でみんな生きていく。
財産は国のものとして、国家が生かしていけばいいと思います。共産主義の国では私的所有権を認めないよね。日本もこれから時代が進んでいくと、なるべく個人がものを持たないようになっていくのが理想だと思う。ただ、そういうことを言うと、多くの人は「自分のものが取られる」と考えるんだよ。例えば税金にしても、「税金を取られた」と言う人がいるでしょう。しかし、所得があるということは、その分だけ環境に負荷をかけたり社会の恩恵を受けている、とも言えるわけだよ。だから、生きてるうちは個人の財産として持っていてもいいけれど、亡くなった時には子どもじゃなくて社会に還元する心が大切だと思うよ。もともと我々は、生まれてくる時には何も持っていないのだから。
そういった心が自然に出てくるような精神性になればいいよね。法律を作って強制的に徴収するようでは、精神のレベルは低いと思うよ。そんな社会では豊かにならない。それができる精神性であることが大切だと思います。

ともこ:
そういった精神性になった時に、親が子供にしてあげられることは何でしょうか。

いさどん:
それは、子どもに欲をかけるのではなくて、愛をかけて育てるということだよ。そしてその子どもが社会へ出て、社会に貢献することを喜ぶ。子どもは社会の子だから、社会も手厚く面倒を見るべきだし、お年寄りも社会に貢献した人の最後の姿なのだから、やはり社会が面倒を見ていく。その社会を支えていくのが、社会に育てられて大きくなった人々なんだよ。

ともこ:
そもそも、血縁て何なんでしょう?なぜ人はそれに執着するのかな?

みかこ:
うちで人生相談を受けるときはその人の家系図を見るんだけど、あれを見ていると、家系というのはカルマの流れだなって思う。血縁とカルマとお金がセットになって、それがいろんな問題の発生源になっているんだけど、こういうコミュニティで暮らしたり、心の仕組みを学んでいくと、人の価値観が変化していくんだよね。

いさどん:
血縁というのは、「身内」と言って「身の内」と書くでしょう。自分を愛するように自分の身近なものを愛するという、エゴ的な愛の対象になるものだよね。
それが、他者へ愛を向けたり、社会に対して貢献していって、内と外の区別がなくなれば、何も自分に近いものだけを大事にするという必要はなくなっていくよね。すると、今の家族制度は自然と必要がなくなっていくだろうと思うんだよ。
今の社会の問題は、そういった連綿と受け継がれてきたものに魅力がなくなってきたことから生まれてきている。それは、何らかの新しいかたちが生まれてくる前兆であるとも捉えられるわけだよ。たとえば木の花のようなスタイルが世界中で存在していることや、都市の方へ行くとシェアハウスのように年齢や性別を超えて共に住むということが流行ってきているでしょう。若い人たちがこれから創る世界では、そういった新たな価値観のもとに秩序が生まれてくるのだろうね。

ともこ:
それは、人の意識が変わっていくから?

いさどん:
そうだろうね。例えば、夫が働いて妻や家族を養うということもだんだん崩壊してきているし、家長制度も、長男に全てを譲っていたものが、兄弟に平等に遺産を渡すようになったでしょ。代々を継続していく意味がなくなってきたんだよ。

ともこ:
それによって、どこに向かうんでしょうか。

いさどん:
それは行ってみないとわからないよね。ただ、どちらかというと封建的に観える制度だったものが、もっと多様性を認める社会になることは確かだよ。実際に、フランスでは嫡出子よりも婚外子の方が多い。それでもフランス社会は成り立っている。そのまま続くかどうかは別としても、現実にそういう国が現れてきている。その先がどうなるかは行ってみないとわからないけれど、仕組みが変わっていくことは確かだよ。

ともこ:
私は単純に、血縁というものを超えた方が、より社会全体が調和的になっていくだろうと思いました。

いさどん:
それは、一概には言えないよね。普通の婚姻制度によって保たれてきた有益な面もあるわけだから、それがなくなる時に、そのギャップから生まれるデメリットもたくさん現れるだろうと思うんだよ。
どちらにしても、新しい秩序が生まれるという意味では、歓迎すべきことだよね。

ともこ:
その「新しい秩序」は、人がそういうものを築こうと意識してもしなくても、自然と生まれてくるということですか?

いさどん:
そうだろうね。これはすごく大きなことだよ。おそらくこれは、時代の波だろうと思うんだよ。一面から見た人間の倫理観の欠如とか、そういったことだけでは捉えきれない。それは倫理観の欠如から壊れていくのではなくて、今までの制度が古くなって形骸化している。家父長制度も形だけになっている。昔のように、結婚や葬式の時に人も集まらなくなってきた。これは、個人個人の生き方の多様性が尊重される時代になってきたことの表れだと思うんだよ。
古いものが壊れることに間違いはない。大切なのは、壊れた後に何ができるかということです。その中の一つの事例として、木の花のような生き方があることは確かだと思うよ。
だけど、これ一つがあればいい、という話でもないからね。そこは、他にもいろいろな価値観のもとに新たなスタイルが生まれていったらいいと思います。

ともこ:
木の花の暮らしは、未来の人々の生き方のモデルとなることを目指して始まったと思うんだけど、いさどん自身はこれ一つがそうだと限定しているわけではないということですね?

いさどん:
感覚的に、これは新しい時代の指針となる大切な生き方だという確信はあったよ。だけど、我々は意図的に集まって、こういった暮らしを組織的につくろうとしたわけではないんだよ。今もそこは変わらないけれど、ある程度、ここのメンバーはこういう人、というように特定されたタイプの人が集まってきているよね。
しかしそのようなスタイルとは違い、誰でもおいでと言って、一見無秩序に見えるような秩序を作って生きていく人たちも現れるだろう、ということなんだよ。どのようなスタイルであっても、そこに秩序がありさえすれば、それはそれで良いと思うし、そのようなところは続いていくだろうね。

ともこ:
木の花ファミリーは、ある意味すごく厳選された世界だよね。

いさどん:
そう。どう生きたら理想郷ができるだろうかということを、厳選して、研ぎ澄ました状態のモデルとして存在しているんだよ。完成形のモデルだと思うよ。
だけど、その特定の完成形が全てのモデルになるのかというと、そうとは限らない。いろんな生き方がある方が、社会は豊かだよね。
これからはライフスタイルにしても何にしても、ますます個人が尊重される時代だから、いろいろな形態が出てくるという意味では、未来の形はこれだけ、ということはないんだよ。

いずれにしても、これは答えの出ない話。銀河の周りを、太陽が惑星と共に渦を描きながら周っているでしょう。その中に我々はいて、あの渦の中に我々が表現されている。人類が誕生してから今までの期間は、太陽系が銀河を1周する間の1%にしかならないんだよ。そういった中で、これからは特定の価値観にとらわれる必要はないでしょう。