この世界をつくっているのは

ヤマギシから木の花を訪れたお二人。3泊4日の滞在の中でいさどんと面談する時間が3回もたれたのですが、2回目の面談ではお二人のみならず、ヤマギシ全体に投げかける話がいさどんから語られました。

安美さん:ここで2日過ごさせてもらい、これからどう生きていくのかをはっきりさせていかないといけないと昨日の夜から思っていました。ここで生活している人たちを見ていると、毎日を本当に一生懸命生きていると思いました。「言葉で全人幸福と言わなくても、実際に菜食主義をしていることで世の中が平和になっていく」ということも、来たときから2日続けてこうちゃんが御飯のときに一緒に座ってくれて伝えてくれました。「今の村の暮らしというのがぬるま湯につかっている状態」というのは確かにその通りで、全人幸福を想い考えながら生活している人は、本当に少ないのではないかと思うのです。では、私がこれからどう暮らしていくのか。その答えはまだ出ていないのですが、もう一度よく考えたいと思っています。実際私と仲が良かった人で、ヤマギシが嫌だったというわけはなくても色々な事情で村を離れていった人が結構います。今でもその人たちとは時々会ったりしているのですが、本当に親しい人が村を出ていって、あるいは亡くなったりしていて、今村に残っている人で話したい人があまりいないという状況です。自分はここを出たいとは思わないのですが、今のままで村が良いとは全然思っていない、というのが今の私の心境です。

いさどん:今のままで良いとは思っていなくても、そういった日々を繰り返していくことにもなってしまいます。人によっては年齢が来ていますので、その人たちが臨終を迎えたときに、「私はこの理念に共鳴して参画したのに、いつになったらその理想世界に出会えるのか。それに出会う前にいのちが切れてしまう」と言う人もいたりします。理想世界、宇宙の真理は無限ですからあり続けるにしても、少なくともひとりひとりの中に達成感を持って旅立ちたいものです。それはここの生活のように日々が探究であり、活性し続けることであると思うのです。そのことによって、「やり遂げた」という人生の満足に出会い、旅立てるのだと思います。「この一生を生きていて良かった。悔いなし」と生きられると思うのです。すべての目標を達成するということは、代々受け継いで人類が地球に存在し続ける限り、追及し続けるものだと思うものですから。何かしらそこに私たちがひとりひとりの立場として、目指すべき姿があると思うのです。

哲さんはどうですか?昨日の大人会議に出席されている姿を見て、この人は理屈ではなく肌でここのリズムを感じていらっしゃると思っていました。そこにはしっかりと神経が行渡っている状態でやっている場所があると思うのです。そういうものをこの人は感じておられるな、と思いました。明日帰られるということですから、今夜の大人会議の場ではぜひ、この3泊4日の滞在の感想をみんなにもシェアしてもらいたいと思っております。そのあたりのことはどう思っておられますか?安美さんがおっしゃられたように、今までの自分も含めて今後どう村で生きていくのか、ということをお尋ねします。

哲さん:ここに来る前に2週間研鑽学校Ⅱに行ってきました。その中で、本当の世界というよりは自分の世界で全部見てきている、自分の世界に本当の世界を合わせ、結局自分の世界を見ているだけなのだと気づきました、前から自分にはそういう癖があるとは思っていたのですが、自分が発言してもそういう世界で生きているので他の人に伝わりにくい面が自分にはあると思いました。研鑽学校も昔は振り出し寮という研鑽機会もあって、そのときに自分の気持ちが本当にすっきりと出せ、そのことにみんなが反応してくれて一方通行ではないやりとりを感じたことがありました。自分はそこをやりたくて参画したはずなのに、いつも自分の世界にとどまってしまう自分の傾向がずっとありました。今回も研鑽学校でそういうふうになりやすい自分を感じ、今お話を聞いていても、そういう自分から脱却していきたいと思いながらも、どういうふうにしたらいいのか自分の中ではいまひとつ描ききれていないという状態です。2週間研鑽学校にいて気づいたのは、ただ自分の中で思っているだけではなく、それを実践していくということが大事だということです。聞くにしても見るにしても、どうしても自分の見方が入ってしまうので、そのときに自分から出すことで、自分の思惑を外していけるという実感が今回の研鑽学校ではありました。そのときに違ったものが見えてくると思います。今まで実践、実践と言葉では言ってきましたが、これからはそれを日々の中でやっていきたいと思っています。

提案と調正というのがあるのですが、私の右耳は参画する少し前から聞きづらく、難聴のようにじーんと耳鳴りがすることがあります。それを自分の中ではずっと置いてきたのですが、今回研鑽学校に行く前に補聴器を買うことを提案したのです。それで研鑽学校から帰ってきたら、私の提案に対して「こういうものではどうですか」という返事をもらいました。今まででしたら、自分はこういうことに関しては「こういうふうに言われたからそれでやろうか」とやってきたのですが、今回は自分の中でもっとこういうふうにしたいとか、自分でも調べてこうなんだということ、つまり「私意尊重公意行」の私意をもっとはっきり出していくということがありました。調正所からの返事をメールでもらったときには向こうの意図が漠然としか感じられなかったのですが、たまたまその人と直接出会って話してみたら「この人はこういうことを伝えたかったんだな」ということがお互いにわかりました。今までならよくわからなくてもそのままにしてきたのですが、今はそこをどういうことなのかと出してみることで、相手の意志が以前よりもわかるようになってきました。つまり、自分が取り違えをしていたことや相手も具体的ではなく漠然とした形で伝えていたということがあったのですが、出会ってお互いに出し合うことでそのことが明瞭になったのです。自分が受け入れるという点では、その人の言わんとしていることをまずは受けて、自分としては何をしたいのかということを自分に問いかけてみる。まずはその人の提案をやってみた上で、自分がこうしたいということがさらに出てくれば、また自分のほうからそのことを再度提案していく。今までは受けてそのままということが大半だったのですが、これからは自分のほうからもっと提案していこうと思った一件でした。今まで私は想いの世界では結構やってきたのですが、実践していくということが自分の中ではっきりしていなかったのかな、と思いました。これからは自分の想いだけにとらわれずにやっていきたいと思っています。

いさどん:研鑽学校はいつ終わったのですか。

哲さん:先月の30日です。

いさどん:その研鑽学校が終わって今、1週間が経ったところですね。研鑽学校が終わったときの自分の意識と1週間経った今の意識は変わってきていますか?

哲さん:そうですね。。。

いさどん:これを車にたとえると、研鑽学校が終わると問題があったところがオーバーホールされて出てきたということですね。整備されて出てきたという感じがするとしたら、研鑽学校に入って意識が変わったのと1週間後の今の意識は変わっています。変わってきているというのは、研鑽学校に行って変わったことに対して、行く前の自分が変わり続けているのか、それとも行く前の自分に戻ってきているのですか。

哲さん:自分は戻っていなくて、日々変わってきていると思っています。

いさどん:その日々変わりつつあるというのが今の話ですよね。ということは、哲さんの今の状態をもとにして研鑽学校の実態を読み解くと、今の話の中には「自分と相手」「自分と調正所」の対話しか出てこなかったですよね。村全体とか世の中とか、ましてや全人幸福などというものはどこにもない状態です。自分という枠の中に視点を取り過ぎたために、我執を取り去るどころか我執が増えている状態で研鑽学校が終了している状態ではありませんか。つまり、自分に興味があり過ぎるのです。誰でも自分に興味があるのは当然のことですし、あってもいいのですが、それは沢山の情報、多様なものの見方の中の自分というものであれば、全体性の中から自分を観るということですから、他者と自分を区別せずに見ることができるのです。それが我執がない状態です。研鑽学校Ⅱが何を目的にしているのかということです。Ⅰの目的、Ⅱの目的、Ⅲの目的が何であるのかは知りませんが、人が目覚めていくときにこの研鑽学校で受講者に特定の目的を提供するということは、その奥にある目的を明らかにしないといけません。特講でも研鑽学校でも、受ける人たちを前もってこういうところにいざなっていこうという目的があること自体がいかがなものでしょう。それをヤマギシの人たちに投げかけると、「目的はありません。その都度その場でつくっていくものです」と言いながら、現実にはしっかりと目的があるのです。そういう矛盾がありながら、やっている矛盾を理解できていない状態です。なぜそういう状態を続けているのかというと、自らを離れてしっかりと客観的に見ることができる人がいないので、そういうことが起きるのです。今の話を聞いていても、自分というものにとらわれた状態から視点が外に広がっていない状態です。それに対して「こうしなさい」とは言いませんが、客観的に見るとそんなふうにとらえられます、というひとつの情報提供です。

そうすると、ひとつここで今の捉え方を突破する方法があります。今、あなたは自分と調正所を分けて考えています。自分の想いや願いを叶えてくれる対象としての調正所なのです。ところが、ヤマギシの人たちはそういう認識がないかもしれませんが、私のほうが本来の調正所の在り方をとらえていると思います。それはどういうことかというと、自らが調正所なのです。調正所が自分なのです。しかし、現実にはそういった捉え方はありません。調正所は自分の提案を審査してやめておきましょうと言うのか、それはこのように受けましたと答えてくれるのか、という対象と見ているのです。しかし、あの調正所の世話係には自分もなる可能性があるのです。それから、自分たちの考え方の延長に調正世話係の姿勢があって、それが返ってきているとも言えます。ですから、本来は自分が考える賢明な提案は調正所に持っていけば、すべて通るはずです。それこそ、一部の人たちが好き勝手にやるような調正所であるわけがないのです。賢明な発想を調正所に提案すれば、賢明な発想に対して賢明な回答が返ってくることは当り前です。そこで、調正所やヤマギシの村の都合で答えが返ってくるのもおかしな話です。それから、自分の都合だけを求めた答えが返ってこないことに対して、こちらが不満を言うのもおかしいのです。本来それは、どちらも一体の状態であって、全体のことを考えた個人の動きであるべきなのです。個人が個人で勝手にやったら共に生きている意味がないのですから、一体社会を実現するために、自らが提案したことに対して自らが回答するという役割分担を調正所と村人という関係の上で、わざわざ分離してつくっているだけです。本来は一体社会を体感するための場所であるはずが、今の話は完全に自分と調正所を分離している状態になっているのです。

さきほど、安美さんにも哲さんにも「どうですか?」と聞いたのは、まずは自分の考えを他者に共有することが大切だからです。ですから、一番身近な、ここで言う毎日の大人会議に参加したらどうですか、と提案しました。それは仲良し研であったり、一番身近である職場で自分というものを裏表なく出すということです。調正所に提案するときにも、自分のためではなく、この個人の願いはヤマギシのため、全体のために有効であるという視点で提案していく。そうすると、調正所はそれを受けて、個人の望みを叶えることはヤマギシのために大事なことになるのです。そして、その提案が通っていくようになるのです。そういった姿勢をお互いに持つことが大切だと思います。そうすると、提案と調正というものが全体を健全にするためのものになるのです。そこには拒否するとか、ならないことに対して不満を言うということがなくなるはずです。その意識が分離してしまい一体社会になっていないから、物事がスムーズになっていかないのです。本来それを理解するための研鑽学校であるべきなのに、我執が増幅してきている状態です。それがさきほど私が言っていた、研鑽学校という場は個人を振り返りなさいというところにいざなっておいて、全体に対する批判をなくして、全体を運営しやすいようにしているところということです。簡単に表すと、組織を運営しやすくするためのマインドコントロールの場所になっているのです。だから、研鑽学校に対して拒否反応を示す人が出てくるのです。しかし、本来はそういう場所ではなかったはずなのです。個人が目覚めてイズムにふさわしい人になり、一体社会を実現することによって、組織と個人が表裏一体のネットワークの中でイズムが繁栄していく、それが本来のヤマギシズムです。ところが、現実にはヤマギシの中にいても、どこにヤマギシズムが表現されているのかわからない状態になっています。外からヤマギシズムを伝えられても、中にいる人たちがそのことに気づいていないのです。そこに目覚めてもらうことが大切です。

まず、あなたは仲良し研に出ていませんよね?興味も持っていませんよね。安美さんはそういった理想を他者に投げかけてきたのですが、全く反映されないことから嫌になって出ていない。哲さんはそういうことを意識してないから出ていない。しかし、そういったところにみんなが出て、そこにある情報が共有され、その情報が調正所や運営研に反映されて全体が運営されていくこと、それが主権在民であり民主主義の世界です。ところが、末端の人々はそのことを忘れてしまっていて、組織運営は組織に都合の良い民衆をつくることによって、運営を楽にしているのです。それが今のヤマギシの実態です。本当は中心的な人たちにもこのことに気づいてもらいたいのです。中心的な人たちも本来単なる村人で、平民であるべきです。ところが、そのわけがわからないところで調正所世話係になったり、世話係に関係なく影響力のある人たちがそこの意識を理解しないで存在していることが問題の元なのです。それをさせている一番の原因は、ひとりひとりがイズムに目覚めていないところにあるのです。「私はあなた あなたは私」、「私はヤマギシでありヤマギシは私なのだ」という意識になったときに初めて、あなたという個人が生かされるのです。あなたは何のためにヤマギシの村人でいるのか、ということが生きてくるのです。外からこういうことを私が言うのはおかしいですが、山岸さんが天から今のヤマギシを見ていてためいきをついているのか、50年は長かったがそろそろ次のステージに行こうよ、と言っているのか。天からの何かしらの投げかけがあって、木の花との出会いがあったと思うのです。私はヤマギシの村に行き、座談会や交流会の場で伝えたいのは、「私はいさどんの考えを伝えているわけでも、木の花のイズムを語っているわけでもありません(そんなものは元々ありません)。私はヤマギシに来たらヤマギシズムを語ります。法華経を学んでいるところに行けば法華経を語ります。表現は色々あっても、真理はひとつしかないのです」ということです。

ヤマギシの中にいてなかなか木の花詣が難しくなってきた時代に(笑)、おふたりは3泊4日もしてこれたのですから、ぬるま湯の村の生活やマインドコントロールの2週間の研鑽学校に時間をかけるよりも、はるかに有効な木の花の3泊4日の滞在を村に帰って日々の形の中に顕わしてみんなに示してもらいたいと思います。それで、「哲さんや安美さんはなぜそのように変わったのですか」と問われたら、「木の花に行って、本来の自分の在り方に目覚めたのです」と言ってもらいたい。これは私の株を上げるためではありません。しかし、結果として今は木の花の在り方に気づいてもらいたいし、私の言葉に耳を傾けてもらうことが大切です。それを中には、「私たちには理想の教えがあるのだから、外の人の言うことは聞かなくてもいい」と木の花を訪れたことがない人がそんなことを言っていたり、かじってみたら、「どうもあれは木の花菌に汚染されそうだから、なるべく避けていったほうがいい」と言う人もいます。真理はひとつであるのに、狭量な精神の人がまだ沢山いるのです。

安美さん:彼が「研鑽学校に行く」と言うものですから、「それは研鑽学校に行くように言われたの?」と聞いて、「行くのであれば、木の花に行ったらいい」と言いました(一同、笑)。「研鑽学校に行っても同じことだから、やめたら」と伝えたのですが、結局行くことになったのです。それで、帰ってきてからもまたぐちゃぐちゃと言うものですから、私がまた突っこんで話をしたのですが。。。

いさどん:ふたりだと、その話には決着がつかないですね。

安美さん:彼が気づいたと言っていることは、今まで私がそばから見ていてずっと言ってきていることなのです。しかし、それを言っても、「そういうことではない」という感じで、「それはあなたの見方でしょ」といつも返ってきていました。そういうやりとりがあったものですから、「それは私が言ってきた通りで、あなたが今頃気づいたことではないでしょ」と伝えるのですが、実際にはそういう感じなのです。最初、みんなが木の花に行き出したときに私が行かなかったのは、これはヤマギシを動かしている人たちが今実顕地がどうしようもない状態になっているから何とかしようとして、みんなの意識が参画したときのような気持ちにもう一度なれば村が変わるのはないかということで、そういうふうに変えさせるために行かせようとしていると私は思ったからです。

いさどん:それは実際にそうです。

安美さん:だから、私は行かないと反発したのです。どういうところで行かせようとしているかは知らないけれど、私は乗らないぞと思ったのです。それで、様子を見させてもらっていたのですが、実際に議事録もメールで読ませてもらって木の花は本当にやっていると思ったので、ここに来てみようと思いました。実際に言われてみて、実顕地の中で全人幸福を掲げていても、研鑽学校ですら世界中の人たちがみんな幸せになるように、あるいは実顕地のひとりひとりが幸せになるというところでは、そういうものが一切出てこないのです。だから、言っていることとやっていることが全然中味が違うというか、いさどんのおっしゃる通りだと思います。私たちの前に出てくる持ち帰りコーナーの野菜はかなり日にちが経ってますしね。昨日、私は木の花の厨房に入らせてもらって、「すごく元気な野菜だな」と思ったのです。

いさどん:それは見てわかるかというと、感じてわかるということなのでしょうね。

安美さん:そうですね。昔は愛和館はおいしいと言われていましたが、はっきり言って、今は実際本当に美味しくない時が多いです。普段全然文句を言わない人でも「本当に美味しくない」と言うくらいなのです。だから、「今日のこのメニューで若い人や子どもたちは果たして食べるだろうか」というような状態のときもあります。お金をかけないということで、金銭的にも削っているということもあると思いますが、私はずっと前からビタミンI(愛)が入っていないということを言ってきました。

いさどん:私もそう思います。気持ちがこもっているか、こもっていないのか。それは作業としてやっているということだと思います。

安美さん:自分が本当に子どもやおじいちゃん、おばあちゃんのためにと想ったら、もう少し手を加えると思うのです。しかし、それがないと私は思うのです。

みかこ:ヤマギシの中に「一体」という言葉がありますよね。しかし、「自然との一体」ということが欠落していると感じます。

いさどん:地球とともに生きているということとかね。

みかこ:人にばかり意識が行っていて。。。

いさどん:人というよりもヤマギシにだよ。

みかこ:ヤマギシを存続させるというところに意識が行っているから、地球みんなで一体、しかも人間だけではなくて、あらゆる生命との一体という感覚が欠落しているから、ああいった動物をあのように育てて食べていくということをし続けているのだと思います。ヤマギシの中に固執しているから、やる人とやられる人とか、リーダーとついていく人とか、そういう分け隔てがあるところが随所に表れていますよね。

いさどん:それは今、体制を守ろうとする人と変えようとする(不満を言う)人に分かれているのです。

安美さん:実際に自然と調和していないのは、今までヤマギシは経済優先だったと思うのです。それがヤマギシを守ろうということにもつながっているのだと思います。だから、排水を垂れ流しても、そこにお金をかけないとなったら、そこを指摘する人のことは黙殺、そういう人を排除する、何もやらない。だから、農薬をばんばん撒いていて近所の住民から苦情があっても、文句を言わせないようにするとか、夜隠れて撒くというようなことでやってきました。それで世間に対しては無農薬ですとか、有機栽培ですと言っていて、昔は神戸生協とも大分やりとりがあったようなのです。

みかこ:そうやってあちこちに嘘があるけれど、研鑽というのは自分の中の嘘を見ていくものであるはずです。

いさどん:美しい心というのは、嘘のない自分がベースにならないといけない。

みかこ:嘘が自分にあると、嘘をずっと続けていかないといけないので、嘘の辻褄を合わせるためにまた次の嘘をつかないといけなくなってしまうのです。そういう意味でも、研鑽してないですよね。

安美さん:研鑽というのが、本当のところの研鑽(心を磨く)でなかったから、こうなっているのだと思います。

みかこ:そうですね。体制に順応する人をつくるための研鑽になっています。しかし、本当に目覚めていくというのは、人も含めたこの世界の仕組みに目覚めていくことです。ヤマギシの立ち上げ当初は、産業もある意味必要だったでしょうが、さきほどいさどんがうさぎと亀の話をしたように、それでは時代のほうが追い抜いていってしまいますよね。新聞やテレビも見ないと浦島太郎状態になってしまって、進んでいたはずが取り残されてしまいます。今だと若い人も残っていないから、消滅する方向に向かっていると思います。

いさどん:実際に、かろうじて残っている人たちに受け継がせようとしているのですが、そういう人たちよりも一般社会にいる若い世代の人たちのほうがはるかに意識が進んでいます。ですから、その人たちが共鳴して入ってくるような受け皿をつくるべきなのです。ところが、閉鎖的でそういう人たちが入ってくるような体制にはなっていません。木の花に若い人たちがどんどん入ってくるのは、私たちが常に変化することを恐れないからです。今を所有せず、常に新たなものを取り入れる意識を持っている人たちが共鳴する場をつくっているからです。

みかこ:やはり時代は進化しているので、地球全体で見たら、人間も先に生まれた人たちが変わっていかなければ、次に生まれてくる進化した世代に置いていかれてしまいます。だから、時代とともに変化していくことが大切です。ヤマギシはそれをやっていないから、若い人たちも来ないのです。

いさどん:やっていないというのは、無所有と謳いながら、これほど所有している人たちがいるだろうかというくらいです。何のための特講や研鑽学校なのかということです。無所有を利用しているのは、組織運営のために都合の良い人をつくるために個人を手放すというだけで、全体というものの所有を完成させているのです。そういう世界になっています。だから、哲さんの話を聞いて、あなたがこういう状態になっていくというのは組織としてはやりやすいのです。本当はもっとNOはNOとして言える人があり続け、そういう人たちがとことん出し合って、本当に風通しの良い活性化された場所をつくっていく、それを恐れないことが大切なのです。

安美さん:ヤマギシは変革を恐れるのです。変革させたくないのです。研鑽する、研鑽できるということは、研鑽できると目されている人たちが「こうです」と言ったことに対して「はい」でやる人が研鑽できるということなのです。

いさどん:その通りですね。

みかこ:ヤマギシの改革は、その構成員ひとりひとりが束となってつくっているものだから、ひとりひとりの心の変革がなかったら起こらないのです。その牛耳っているという人をつくっているのは、牛耳られている人たちがつくっているわけです。調正世話係になって人格が変わるような、誰があれを決めたのだろうというと、誰だろうね、なんかそうなっていっちゃったんだよね、というようなところで動いていたりすると思うのです。それはひとりひとりが自分でつくっているという自覚がないままに、「なぜこうなってしまったのだろう?」という世界を無意識につくっているのです。だから、自他を分けないことが大切だと思います。木の花では、「木の花のこういうところが嫌だな」とメンバーのひとりが言ったときに、それは自分と木の花を分けているからであって、嫌だなと思えばまずは自分がそこを背負って変えていく側になればいいのですということになります。

いさどん:そして、自分が全体を変える気持ちになったら、それをみんなが聞いてみんなのものとして協議します。

みかこ:文句を言う側ではなくて、自分が常につくっていく側になればいいのですよね。

いさどん:しかし、ヤマギシの場合は末端にいる人たちが変えるための提案をすると、今度は組織側の人がそれを排除しようとする力が働くという世界ではないですか。これは組織としては一番危険なことなのです。木の花ではそういうことは絶対ありえません。そういった不満を聞いて、全体としてあなたはどういう考えを持っているのか、逆に言えば、みんなはその人に対してどういう対処をしていくのか。ひとりは全体に対して自分をどう観ていったらいいのか、ということをすべて吟味した上で、ひとつの解答を出していくという方法をとっています。そうすると、体制側と個人という区別がなくなってきます。

安美さん:今までは、「これはおかしい」と実際に言う人も少なかったです。

いさどん:それは少ないのではなくて、思っているのに言わない人、それから言えないところだったということです。だから、ここに来ると沢山話が出てくるのです。誰もが、「おかしい、おかしい」と言うのです。ひどい話になると、自分たちの中では「おかしい、おかしい」と言うのですが、たとえば木の花とヤマギシが出会った初期の段階では、Tさんやいさどんに言われるとか、木の花の議事録で言われると、自分たちが日頃そうだと思っていることでも、外から言われると腹が立つというのです(一同、笑)。そのくらい、ヤマギシを所有しているのです。「よく考えてみると、これは私たちが日頃言っていることだ」と言いながら、「外から言われると、いさどん、腹が立つのよ」と言ってきた人がいます。そのくらい、自分の姿が見えていないということです。そういう人たちがだんだん自分に目覚めてくると、「これではいけない。そういう狭い心ではなくて、自分を客観的に見る目をつくらなきゃ」ということで変わってきています。

みかこ:あとは、「10年このことをずっと思っていたのです」とか、「20年思っていたのです」とか、思っていながらそれを言わないというのは木の花では考えられないです。

いさどん:木の花でもし、言わない人がいるとしたら、みんなはその雰囲気を見てほっておきません。実際に私のところにヤマギシの人が訴えてきた話で、あまりにも過激で刺激的で公開できない資料があります。面白いのは、「個人の話を出して誰かというのが特定できると、村にいられないからやめてくれ」という人が何人もいます。本人が覚悟を決めたら出しますが、多くの人は覚悟ができていません。逆に、そういうものを出したら体制も批判的だと受け取るので、これもヤマギシ全体の意識レベルからしたら時期尚早だということで、こちらで封印しているものがあります。ですから、最近私が思うのは、ヤマギシと付き合うと木の花のような正直なところでも、正直を出せない場所になっているというのを感じています。

みかこ:だから、議事録でも、今のヤマギシの部分に関しては議事録に載せないように、とすごく気を遣って情報公開しないようにしています。

いさどん:本当は何でも出せるヤマギシとの関係でありたいのです。

安美さん:それは昔から、話したことがすぐに調正所関係者に伝わり、実顕地を変えられたり職場を変わることになったりして、それを出すと実際危ないというのがあります。みんなもそういうことを聞いたり、無意識にみんなで抱えてきたので言えなくなっています。

いさどん:そういう体質が染みついてしまっているのです。それは病気で言えば、結構症状が進んでいる状態です。

安美さん:ですから、病気にはならなくても、そういう人も結構いますしね。それはやはりおかしいと思います。今はないですけど、「ヤマギシ社会に病気はない」ということで、昔は病気になっても病気ということを言ってはいけないというような緘口令が敷かれていました。

いさどん:そんなことも言うのですね(笑)。それは本音と建前の違いが甚だしい話で、嘘の世界です。

安美さん:昔、仲の良かった友人にしばらく会わなかったのでどうしたのだろうと思っていたら、「長いこと入院していたのだけど、病気のことは人に話すなと言われて言えなかったんだ」ということでした。手術の日にご主人以外付き添いもなく、かなり精神的に厳しい状態だったみたいで、そのことも村を出る要因の一つと聞いています。

いさどん:みかちゃんのガンはブログにして出していますよ(一同、笑)。

みかこ:ヤマギシは問題事を悪いこととしているけれど、ここでは問題事はそこから学ぶために神様がわざわざそういう世界をつくったという捉え方をしています。たとえば、怒ってはいけないとか病気はダメということではなく、病気が出たらその奥にある問題は何だろうと解明して学んでいきます。怒るということについても、なぜ自分が怒るのか、それにヒットするのかを見ていきます。そうやって、奥の根本を探ることで超えていくということをしています。そもそも問題は歓迎というか、そのように学ぶためにつくられたものと思っています。

いさどん:問題は歓迎といっても、わざわざ辛いことが起こるようにとは思いませんが、起きてしまったことに対して排除してしまうのではなくて、それは素直にいただいてそこから学んでいこうとする前向きな姿勢が大切なのです。それはやはり、同じ理念だとは言うものの、現実に落とすときには随分歩みが違います。そこを学ばないといけないのですが、まず、学ぶという姿勢がないのです。

みかこ:必ず人間にはハードルが与えられます。私がガンだと言われたときもうっとしました。何かというと、私個人のことというよりも、ここはガンや病気をつくらない場所であったはずなのに、ここのメンバーがガンになるということは困ったことだと思ったのです。いさどんブログ「充実した人生を生きるために」にも詳しく書いてありますが。しかし、なったものはなったこととして、これは私の心の構造がつくったものであるし、それが木の花に表れたというのも事実だと受け止めました。

いさどん:それを認める潔さが大切です。

みかこ:そこをどう振り返り見つめて、どう未来に次の種として撒いていくのかということですよね。今までと同じ種をまた撒くのか。そうすると、今までと同じような問題を起こす未来が待っているのは明らかです。それを学んだときに、未来にどんな種を撒いていくのか。日々、私たちは常に種を撒いているのです。

いさどん:みかちゃん、ここで1曲歌わないといけないね。それしかないよ。

みかこ:昨日のコンサートでは「あなたは私 私はあなた」という「いのちの泉」を歌いました。これは理想の世界ではあるけれど、それをするためにはその前にこの歌が必要なのです。

いさどん:すごく豊かだなと思うのは、日々の生活があって、それを読み解く地球暦があったり、それを表現する音楽があったり、それを表現する生活そのものとしての子育てがあったり、精神性があるというのは豊かです。精神性と生活が本当に一体となって日々がある。そうすると、休みがほしいとか、お金がほしいとか、あれが食べたいとか、そういうことはどんどん消えていきます。

安美さん:穏やかな生活だと思います。

いさどん:そうです。それと、誰も日々の生活の中に不安や不満を持っている人がいません。本当に淡々とそこで事が進んでいきます。だから、木の花で理想を見たということで帰ってもらいたいと思います。ヤマギシと木の花を比べての違いというよりも、「私たちもあれを目指していたんだね」と。気づいた人からその旅を始めるというところにつながったらいいと思います。別に木の花になれ、と言っているのではありません。それに最終的には、最初にヤマギシから木の花を訪れたりっちゃんが言っていた、「ヤマギシも木の花もない、地球ファミリーだから一緒にやっていく」ということです。私たちは常にその心がありますが、ヤマギシの人たちはまだまだ区別しているのです。今回、ヘリオセンターを建てるにあたって、大工さんの応援をヤマギシにお願いしたのですが、今までヤマギシからの提案を私たちが拒否したことはありません。それどころか、難しくても、どうやったら実現できるだろうと考え、実現できるように努力してきたのですが、ヤマギシの人の中にはいかにそれを断るかということを考えるような人もいます。努力している人がいても、大切なこととしてつなげていくという意識が薄いと思います。だから、流れの悪い一体を表現しようとすると、出来あがったものが良くありませんから、もうやめましょうということで私たちだけでやっていくことになりました。それはこちらに都合が悪いということではなくて、ヤマギシが徳をなくすということです。損得だけ考えているから、徳を積み上げることができません。私たちは慈悲や愛のベースになっている徳を考えていますが、ヤマギシのベースは損得の得になっています。そこに気づかないといけません。さあ、みかちゃん、歌ってください。

♪この世界をつくっているのは

毎日 毎日 たくさんの出来事の中で
いろんな感情が 私たちの中にやってくる
どこからか やってくる このたくさんの感情を通して
私たちは 心という 宇宙を学びつづけている
もしそこに 不幸や対立が あったとしたら 1人1人が
その種を自分の中に見つけて とり除いてゆくならば
この世界は 変わってゆくだろう
それが この世界の仕組み 宇宙の仕組み

あなたと 関係のない 誰かが この世界をつくり
あなたから 自由や創造を うばい続けて いるのではなくて
宇宙の光の分身である 私たち1人1人が
この世界をつくっている そのことに みんなが気付いたならば
自分につながる 全てのいのちのつながりを傷つけない その為に
あなたが発する想いの全てを 今から変えてゆく それだけで
この世界は 変わってゆくだろう
それが この世界の仕組み 宇宙の仕組み

まいた種をかりとるのは 1人1人の責任
みんなでまき続けた種が 今もこの世界をつくっている
心の中に いろんな想いの種をみんなかかえている
何もかも 誰かのせいにすることはできない
ならば 

あなたはこの世界にどんな想いの種をまきますか
そして この世界に どんな花を咲かせますか
この世界をつくっているのは この世界をつくっているのは 私たち

いさどん:今日は歌があるといいなと思っていて、曲はこれだと思っていました。そうしたら、打ち合わせはしていないのに、みかちゃんがこの歌を歌ってくれました。これが以心伝心、一体ということですね。

安美さん:そうですね。私は昨日の朝起きてから頭が痛くて、これからどのように生きていったらいいのかを考えていました。今日の面談ではすぐに姓名判断に入るのかなと思ったのですが、はじめに色々と話してもらって良かったです。ありがとうございました。

いさどん:個人を読むということはすごく大切なことで、地球歴や家系図など色々な方法がありますが、とかく人は自分の都合の良い世界を求めるために読んでもらいたいと思うものです。しかし、個人というものを指標として読むことはいいのですが、その目的は自分の本当に目覚めて、世の中のために生きることです。それを歩み始めたときには、個人というものを知らなくても、逆にその純粋な心が理想の道に導いてくれるのです。何でもそうですが、使い方を間違えると有効なものが問題になり、問題でもその奥にあるメッセージをしっかりと受け取れば、問題事が私たちに素晴らしい道を与えてくれることになるのです。ですから、いつでも学ぶという姿勢が必要なのです。あとは、私たちが何のために生きているのか、という自らの存在を常に問うことが大切です。できれば、胸を張って真理に向かって真っすぐ正攻法で歩んでいきたいと思います。

安美さん:私もこの年になりましたから、どう死ぬかということも少しは考えますね。これでいいのか、と最近考えます。

いさどん:同じ世代として、ぜひやってもらいたいと思います。やはり世のため人のためになりきることだと思います。

みかこ:私はいさどんから、「こういう歌を歌っているということは、そういう世界に気づいているということ。しかし、その生き方をしないということは、知らなくてやらないより、知っていてやらないというほうが罪が大きいんだよ」と言われたことがあります。

いさどん:知らなくてやらないのは罪ではないのです。それは段階が低いだけのことですから。しかし、知っていてやらないのは罪です。それは全く違うのです。ですから、ヤマギシの村人として参画して意識を持っているのにやらないのは、罪人なのです。そこを意識してやらないと、道を歩む人は歩んだだけ、自分のためではなく社会に責任があるのです。「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり。」だから、尊い道は自分のために生きる道ではないのです。

みかこ:木の花の人たちはわざわざ自分の垢を大人会議で出して、「こんなことを学びました」とか「自分ではわからないので、みんなのアドバイスをください」と言い、それを議事録にまでして配信しています。それは自分ひとりだけの学びではなく、そういう世界を知らなかったり、そこで同じ問題を抱えて立ち止まっている人たちのためにもやっているのです。

いさどん:ここの大人会議は議事録を通して、ヤマギシをはじめ、沢山の外の人たちにも参加してもらっているのです。プライバシーのような情報まで出しているのですから、ヤマギシでは絶対ありえない話です。運営研や調正所の話をオープンにしているようなものですから。しかし、調正所はそこでの話をオープンにしていません。ここでは個人のことすらオープンにしています。それは覚悟ができているし、気持ちの良い世界を目指しているからです。

みかこ:だから、晴れの日ばかりではないし、雨の日や嵐の日も公開するのです。しかし、日は続いていくので、それがまた解決されていく様子もすべて見てもらうことで、「こういうふうにして超えていけるんだ」ということを議事録を読んでいる人たちも味わえるじゃないですか。常にオープンなので、その日限りのゲストでも発言は許されています。

いさどん:ここのことがよく理解できていない人でも、それこそ発言することを許されているのです(笑)。

みかこ:話の流れがわからなくて、ぽっとその場に居合わせた人でも発言はできるのです。

いさどん:それはヤマギシの中では考えられない世界です。

安美さん:考えられないですよ。全員が参加ということもないですし、一部の人しか参加できないですし。

いさどん:それこそ、いきなりゲストが来て、それもここのことをよくわからず、知り合いに連れてこられた人がここの過激な大人会議を見て反応していても、発言できるのですから。それはものの見方として多様性を認めるということでもあります。それすらもみんなが受け取って、それをどうとらえていくのか、という学びにします。その覚悟はオールメンバーの域に達しています。

みかこ:それは私たちが木の花を所有していないからです。ここがどう思われるのかということではなく、私たちが学んでいる姿をオープンにして共に学びましょうということなのです。だから、私のガンのことでも世の中ではガンの人が沢山いますよね。それはメッセージにあふれていて、それをどう受け取るのかということをオープンにしていったら、そのことで何人かの人のためになると思うから、こうやってオープンにしているのです。

いさどん:ということで、これを機会にまた新しい年が来ようとしていますし、意識を新たにしてやっていきましょう。これは私たちのためではなく、それぞれ自分のためであり、世の中のためであり、そういうネットワークをつくるという意味で、改めてまたよろしくお願いします。

ようこ:最後にひとこといいですか?最近私は涙もろくて、今日もいさどんの話を聞いたり、みかちゃんの歌を聞きながらほろっと来ていました。最近は自分の中で、宇宙の始まりから今にいたるまでとか、人類が誕生してから今にいたるまでが、自分がこの世界を創造した側になって走馬灯のように駆け巡る瞬間があります。この面談中もそうだったのですが、ようやく人類はここまで歩んできたんだ。この歴史の積み重ねひとつひとつに、私は人間として地上にいるばかりではなかったのですが、それがさーっと流れてきて、こうやって高い能力を与えられた人間が、その知恵や能力を心磨きやみんなとつながってこの世界の側に立って生きていくというステージにようやく立ちつつあるんだな、と感慨深くなっていました。

いさどん:そうだね。その高い能力を生かすということ、その道に歩み出すということです。今まではその高い能力を人間の側に使ってきたのだけれど。

ようこ:人類史上初のこれだけの数の人間が地球上にいて、これからつながっていくというのは、本当にドラマチックな宇宙劇場を生きていくのだと思っています。そして、それは苦しむためにあるのではなく、楽しむためにすべてはあるのだと思うと、どんな問題事も喜びに変えていけるから、面白い時代を皆さんと過ごさせてもらっているなと思います。縁あってつながった人たちと共に歩めることを楽しみにしています。

いさどん:その時その時が出発点ですから、ここをまた新しい道の出発点にしましょう。今日はどうもありがとうございました。新しい年にあたって、心新たに歩んでいきましょう。

★後日、安美さんから以下のようなメールが来ていました。

私は木の花から帰ってきてから、私が頑なな心になり周囲の人たちと垣根を作っていたなと気づきました。ある日、お風呂の前の廊下の椅子に座っていたとき、出てきた2人の人たちににこっと笑いかけたら、その一人が「あらっ、安美さんって笑ったらいい顔をするのね。黙っているときは怖いけど」と言いました。そうだな、私の笑顔は素敵と昔よく言われたなと思いだし、自分を振り返ることが出来ました。その後、家研にも出て、ふりかえり研には努めて行くようにしています。先日、愛和館にも何年ぶりかで入りました。(持ち帰りコーナーから貰ってくるのを忘れたので。今までなら、もう無しで済ませていました。)私がこの実顕地の重たい空気を作る一役をやっていたと気づいたのです。これからはいつも笑顔の私でいられるように、心を開いて生きたいです。


目覚めよ

★この投げかけは、できればヤマギシの村人全ての人に伝えたいメッセージです。これに共鳴する人は、村人、会員さんなどの関係者にできるだけ多く伝えられるよう努力して下さい。

この1年のヤマギシのみなさんとの出会いを通して、今朝目覚めたときに、自分は何を伝えたいのだろうか、と思っていました。私は基本的におせっかいはしたくありませんが、何かの縁があって互いの関係がそこにあったわけです。今から10年以上も前に、ヤマギシで生まれ育った増田望三郎くんがここへ訪ねてきました。それまではどちらかと言うと、評判の悪いヤマギシというのが私たちの頭の中にありました。愛知県の尾張一宮の真澄田神社の商店街の通りに、ヤマギシの移動販売車が止まっているのを見かけたことがありました。その車を見て、お客さんに直接届けたり、定期ルートをまわりながら販売するということをやっている人たちもいるんだ、と思った記憶があります。それがヤマギシというところという情報はありましたが、全体像はわかりませんでした。聞こえてくるヤマギシの情報、たとえばバスで子どもが亡くなったとか、学園の申請が反対運動のため却下されたとか、そういったことは一般の情報としては来ましたが、私は一般の情報を鵜呑みにする人ではないので、自分が出会わってみないとわからないと思っていました。

そのようなときに望三郎くんが木の花を訪れ、ヤマギシの情報を伝えてくれました。しかし、それよりも、木の花のことを彼が自分のホームページで発信したものですから、それにヒットしたのがヤマギシの会員さんたちでした。今ここのメンバーであるヤスエさんもそのひとりですし、ここのNPO法人青草の会の仲間であり静岡に住んでいる忠さんという人もヤマギシの会員さんであり、よく村人にならなかったねというくらいとても熱心な人です。それから、青草の会初代の副会長をしていた藤本さんという歯医者さんや、会員でも有名な戸隠そばの津村さん、東京方面では道越さんなど、会員さんでも10数名の人たちがここに集まってきていました。彼らは、「ヤマギシの村に会員が投げかけても、ヤマギシの人たちは会員の提案を聞かない」と言っていました。彼らはヤマギシの村人にはなりきれない人たちですが、全人幸福運動を広めたいという心はあるので、自分たちも関わりたいという人たちでした。それで木の花と出会い、「菩薩の心を持った人たちが集まって村づくりをする」という考えを聞いたわけです。私は30年ほど前にはその村のことを「菩薩の里」と呼んでいました。それはヤマギシの青本で示されている、オールメンバーの精神を持った人たちが暮らす村ということです。青本では10人のオールメンバーと言われていますが、本来10人と限定する必要はなく、全ての人がオールメンバーであるべきなのです。木の花で言うと、全員が菩提心を持った菩薩であるということです。そういう考え方でここが成り立っていたものですから、会員さんたちはその在り方に共鳴して、青草の会というNPO法人が立ち上がることになりました。そこに集まって多くの力を注いでくれたのがヤマギシの会員さんたちだったのです。

当時、会員さんの中からもヤマギシの矛盾について話が出ていました。共鳴するところとできないから一緒にやれないところ、それから会員の賢明な提案を取り入れないヤマギシの体質がありました。それで、私はヤマギシの村の人たちに会ってそういったことを問うてみたいと思い、ヤマギシのリーダーにコンタクトを取ってほしいと言ったのです。今から10年以上も前のことです。そうしたら、会員さんたちは「ヤマギシにはリーダーはいません。全体で動いているから、リーダーという人がいない体制です」と言うのです。しかし、そういうふうに建前では言いますが、「実態は、何かを表明するときに誰かが代表して語らないような組織は社会的にはないのですから、いるはずじゃないですか」と言った記憶があります。それで、よくよく聞いていくと、「実はいないわけはなくて、います。その人は北大路という人です」と聞きました。当時の私が受けた印象としては名前が北大路だから、巨大な人間というふうに受け取りました。また、会員さんから言わせると、「雲の上の人で、私たちが声をかけて話ができるような人ではありません」というような印象だったようです。何とか彼とコンタクトが取れないかということで、何人かの会員さんが呼びかけはしてくれたようです。しかし、まったく反応が返ってこないという状況でした。

それから10年が経ち、昨年の11月15日に初めてヤマギシの村人が木の花を訪れるに至ったのです。(私が村人でそれまで出会ったのは望三郎くんと彼と一緒に来た二人の男の子だけで、それ以外で村人に会ったことがありませんでした。)それから、よりどんと寛ちゃんという実質的にヤマギシのトップがここに来ました。二人と話をしたときに、「こういう特殊な生き方をしているもの同士として色々と苦労がありますよね」という話をしました。そのときに、「木の花さんの苦労は、私たちの苦労に比べたら小さいですよ。ただ、これが100人、200人になったら、ヤマギシの苦労もそのうちわかるでしょう」と言うので、「それはわかりませんよ。なぜなら、ヤマギシが先にあるということは良いにしろ悪いにしろ見本であり、それを私たちは無駄にしないからです。ヤマギシの轍を私たちは踏みません。それよりも、私は10年も前からあなたたちにラブコールを送っていましたが、その反応が返ってきませんでした。ということは、あなたたちがすべて正しくて、他者は受け入れない。全人幸福と謳っているわりには排他的な世界をつくり、批判を受けることになって、それで警戒心が強くなっているのかもしれませんが、私たちはあなたたちの追い風です。追い風と言っても、変わりもの同士で理念が合うから、と自分たちのために手を取り合っていくのではなく、やはり世の中に理想をもたらすための追い風でありたい。ヤマギシ、木の花を抜きにして、世の中で理想が成っていくときに、それをやりきったものとして見本となっていけば、それがヤマギシの価値であり、私たちの価値になります。そういう意味で、結果として追い風になるということですよ」と話をしました。二人は大変共鳴してくれました。その気持ちに私たちは今でも変わりはありません。

ところが、1年前に話し合ったその共鳴は、1年を振り返ってみると、ヤマギシにとっての都合の良い出会いにしたいところがあり、本当の全人幸福のための出会いには今のところ育っていません。ヤマギシズムに目覚めていないヤマギシの体質が見えてきました。個々の人たちには共鳴している人たちが多くいますが、その人たちもまだまだ世界観が狭いのです。だから、個々の人たちでヤマギシの体制に対して批判的な人たちの中には、自分が生き辛いから批判的になって、木の花と共鳴している人もいるのです。それから、自分は今のままで良いと思っているから外のことはどうでもいい、だから木の花について無関心だったり、批判的になっている人もいます。さらに、リーダー的な人はどうなのかというと、現状のヤマギシに対してこれではいけないという賢明な発想を持っているからこそ、木の花から色々と刺激をもらいながら、ヤマギシを本来の姿に改革していこうとしている人もいます。しかし、ヤマギシを自分たちの都合良く保っていきたいから、都合の悪い人を全体のために動く人にしてもらい、ヤマギシの体制づくりに利用したいという人もいます。それぞれの思惑の中で動いているのですが、残念ながら青本の一番大きな看板である「全人幸福」を意識して日々を生きている人はほとんどいません。私としては木の花においでになる人たちに対して、引きこもっている人や鬱病の人など優先順位が高い人から声をかけているのですが、その最終的な目的はひとりひとりを健康にすることです。ヤマギシズムは高い理想のもとにあるのですが、その解釈が違っていると、現実がそれに伴ってこないことになります。霊的に私が山岸さんの存在を感じてみても、青本の表現からしても、山岸さんの個性は隋所に表れていますが、目的は私たちと同じです。イズムでも法華経でも、世の中に全人幸福をもたらすための精神を広げていければ何でもいいのです。世の中にオールメンバーを広げていく、村から町へ、というのも考えとしては立派ですが、現実が伴っていなければ意味がありません。

そういったことを日々誰もが意識して暮らしながら、外とのネットワークの中にもヤマギシズムがあるという意味では、木の花と出会うということは大きな意味があります。大人会議に参加していただけばわかると思うのですが、私たちが一日一日をいかに大事に生きているか。そういったことからしたら、私はよく一般社会の人やここの子供たちにも伝えるのですが、携帯電話が欲しい、ゲームがやりたいと生きていくことはいいけれど、ただ感情を垂れ流しのように出るに任せて一日が終わってしまった、1ヶ月が経ってしまった、1年が経ってしまった、10年が経ってしまったでは生きている意味を忘れてしまっている状態です。それは自分を磨くとか、この世界のために自分が生かされているとか、それが本当の大事に目覚めるということですが、我執にとらわれてしまい、我執の流れに溺れている状態なのです。「それではダメだよ」と私は子どもたちにも伝えます。ところが、ヤマギシの村人を見ていると、そういう人たちが沢山いるのです。あの高い理想のイズムに共鳴して参画したという意識は、どこへ行ってしまっているのでしょう。それどころか、そんなことは忘れて外で生きていくことに自信がないから、ヤマギシでだったら不満を持っていても、多少不自由でもぬるま湯だから、というような人まで現われてくるようになっているのです。「そういった人も含めてみんなが暮らせていければ、それもある意味社会の見本だ」とある人は言うのです。しかし、それは全人幸福という理想の看板からしたら、見本にも何にもなりません。山岸さんは、ヤマギシが世の中のモデルとなって、時代が理想になっていくための推進役としての位置づけや村人の立ち位置を示したはずです。ところが、意識があろうがなかろうが、ただ飯が食べていければいいということになれば、産業が優先されるばかりになりますから、イズムの理念はどこかに行ってしまいます。そういう大人たちが研鑽学校や特講に人を集めたとしても、若い人たちにイズムが定着していかないことになります。ただ、親がやっていたからそこに残っているだけになります。ですから、意識の高い若者の多くは外に出て行ってしまうのです。新しい時代に沿って扉を開こうとする人たちは出ていくことになります。そうすると、残るのは親がいるからとか、食べていけるからとか、そういう意識の人が多くなってしまいます。そういう意識から脱却できない人たちにイズムを受け継がせるというようなことでは、とても新しい風が吹いて、全人幸福のための実践の場は現われてきません。

私の中にはそういったヤマギシの現実と出会って、どこかいらだたしい心があります。反応が鈍いというか、覚悟がないというか、往生際が悪いというか。しかし、それも私自身の人間性からしたら、そんなところでいらだつような人間ではいけないものですから、そこではしっかりと自らをチェックします。そのいらだたしいという心は自分のスタンスを優先して、ヤマギシというスタンスを尊重していないということですから。私たちは押しつけはしません。縁があったのだから、縁があったように情報を伝えて刺激役に徹します。みなさんの歩みを尊重しますというスタンスを常に取っていますし、現実にそういう姿勢でいるわけです。しかし、だからといって、鬱病や引きこもりの人たちのように、「あなたのペースでいいですよ」とそのまま任せておいたら、ずっとその人のペースになってしまい、それで10年も20年も不健全な状態でいくわけですから、時には刺激を与えたり、「それではダメですよ」と伝えもします。そういう意味でも、ヤマギシと木の花は縁があったわけです。いわば引きこもりなのか鬱病なのか、それとも病気は出ていないがへそ曲がりで人間関係が難しいのか。人間の肉体的な病気で例えれば、ヤマギシはある意味糖尿病みたいなものです。精神的な意味でも、肉体的な意味でも、病んでいる状態です。自らが病気であるという認識は少しはあるかもしれませんが、それに対してしっかりと対処していこうという意識が足りない、だらしのない状態です。ただ、心を病んでいるとしたら、病んでいる分だけ意識は高いとも言えます。心を病むほど、そこに向ける意識があるのですから。それから、体が病むほど豊かであるとも言えます。ある意味、ぜいたく病ですから。そういうことに自覚を持って目覚めてもらいたいと思います。ヤマギシと接するということは、アル中やニコチン中毒、引きこもりや鬱病の傾向のある人と接しているようなものですが、個人と接するよりヤマギシの中には色々な人がいるものですから複雑になってくるという状態です。それについては、私がこういった話を投げかけて共鳴する人もいれば、そうでない人もいて、時間もかかるのでしょう。では、今何が必要なのか、と考えたときに、その人たちが己の本来の健康の仕組みを持っているのに、それを忘れていたり実践しないでいるということですから、こちらの概念を押しつけずに関わりながら、どのように自らの本分に目覚めていくのか、という役割をさせていただいているのだと思っています。これは長期ケアプログラムのようなものです。そのために、ひとりひとり出会った人に、「何のためにヤマギシの生活を村人としてやっているのですか。もともとあなたはどうして参画したのですか。あなたの中にイズムに共鳴して高揚したときがあったはずです。しかし、それはもう色あせてしまって『私には関係ない』ということなのですか。それなら、あなたは何のために色あせてしまった日々を過ごしているのですか」と問いかけるのです。

人間本来生命ですから、生き生きと活性しながら日々を生きていくことが健康ということです。活性するということは、古いものを捨て新しいものを取り入れ、常に変化し進化し続けるということです。「生」き生きと「活」性するということが「生活」というものであり、日々のいのちの姿です。それが本当の宇宙生命として顕現した人の在り方なのです。宇宙は大調和で成り立っていますから、他者とつながり、「あなたは私 私はあなた」と自他を区別しないということです。そこでは我執が消えてしまった菩提心、慈悲の心、キリスト教で言う愛が表現されることが、本来のヤマギシズムの村人としてあるべき姿なのではないでしょうか。それが一部分の人たちに操られているようなことでは、不健康体を生きることになります。ひとりひとりが全体の細胞ですから、その細胞一個一個が健康になり、そのネットワークが実顕地でありヤマギシという村であるのです。地球上にあるひとつひとつの細胞はつながり、とても重要な役割を果たしています。特に人間という細胞は、他の生命よりも全体に対して影響が大きいのです。場合によっては、人間というものは両刃の剣であり、優秀であるがゆえに問題の発生源にもなってしまうのです。今の人間は地球にとってガン細胞状態であるとも言えるのです。しかし、私たちは元々正常細胞であり、生命の単体としては地球のリーダーなのです。他の生命が健康でいられるためのリーダーシップをとるべきものが、今ガン細胞化しているのです。そのリーダーシップのひとつの見本として、ヤマギシズムという仕組みや村人という一個一個の独立した意志であり、それが菩提心を持ったオールメンバーということです。そういうことに本来共鳴したからこそ参画していたことをひとりひとり思い出してもらい、村の中で目覚めの人たちのネットワークを構築して村が変わっていくことが今、求められているのではないでしょうか。

ヤマギシズム一体生活の場は主権在民であり、民主主義の場であるべきです。ところが、時々民主主義の場を感じられないことがあります。多面的には民主主義だというのですが、一部の民衆が腐ってしまって不満分子になり、閉塞感すら感じられる人がいます。(ヤマギシの村人の中には、自分のことを平民と言う人もいます。)その不満の人たちに目覚めてもらい、そのネットワークを構築していくことが大切なのです。民衆の心が離れた組織や国家は絶対に成り立ちません。そうすると、民衆が蜂起し、ひとりひとりが目覚めることが健康になるコツなのです。アラブの春という革命が今年ありましたが、今、時代が変わっていく流れにあるのです。マヤの暦が来年終わり、次の新しい暦(地球暦)が生まれて来ているぐらいの時代ですから、リーマンショックや震災、原発事故や世界的な金融システムも今、崩壊しようとしています。そして、エネルギー革命も今、起きようとしています。国内のみならず世界中で色々な革命が起きようとしているときに、50年も前に先人としてヤマギシズムの旗を持って先頭を切った人たちが、今頃になって本分を忘れているようではいけません。みなさんがやっと世の中の見本となれる、あなたたちの時代が来ようとしているときに、その波に間に合わないようなことでは本末転倒です。うさぎと亀でいったら、うさぎのようなものです。早く走り出したかもしれませんが、自分たちだけが優秀で余裕があるからといって、そこで寝ていたら、世の中に追い抜かれてしまいます。「ヤマギシの人たちは、まだそんなことをやっているのですか?」と逆に世の中から言われることになりそうではありませんか。

今、どちらかというと腐って批判的な人たちがヤマギシの中にはいます。腐っている人たちは興味がない、批判的である、そしてヤマギシの中に希望を見出せない人たちです。しかし、その人たちがなぜそのようになってしまったのかといえば、ヤマギシの中に理想を見出せないからです。さらに、見出せないどころか、そこにいなければいけない事情があるのです。縁であり、その人の個人的な問題も色々とあり、そこにいないといけないときに余計腐っていくのです。自分が村にいながらにして村を腐らせている元になるのか、意識が変わり当初の精神に戻ることができれば、これは新しい風を吹かせる元にもなるわけです。その人たちが意識革命を起こすことによって、体制は必ず変わっていくのですが、そのことにみんなが気づいていません。それは希望がないからです。横のネットワークがないからです。ですから、私は木の花を訪れる人たち、特に「本当のことを言うとね、いさどん。村の中では言えないけれど、内情はこうなんです」と言う人たちには、「そうすると、あなたは普段本当のことを言わないで生活しているのですか。それが仲良し社会なのですか」と問います。そして、「まずは自分から目覚めましょう。勇気を持って本当のことを言う人になり、それを言っていくことによって共鳴する人たちが集い、ネットワークが構築され、本当がまかり通る、何でも言い合える、そしてみんなが納得できる世界をつくっていきましょう。何だかわからないところで、個人的に影響を与えているもののせいにしないことです。そういった空気があること自体、それもあなたたちのせいなのですから。それは互いのせいであるということです」とひとりひとりに伝えていくことが私の役割だと思ってやってきました。

私は今まで村人に対して色々なアプローチをしてきました。その際、ヤマギシの中でどちらかというと影響力の大きい人たちにもアプローチしましたが、まったく影響力がなくて卑屈になっている「平民」と言われる人たちにもこまめにアプローチしてきました。今ここまでを振り返ってみると、影響力のある人たちは共鳴するとすごく大きな力になるのですが、そういった立場の人たちのほうがヤマギシを所有しています。ヤマギシズムというのは、まず全人幸福、一体社会、無所有です。それが三種の神器のようなものです。そうすると、このヤマギシズムの三本の柱はどの柱も立っていません。無所有と言いながらこれほど所有している矛盾を抱えた世界は、一般社会でもなかなかありません。そのためには、影響の大きな中心的立場にいる人たちに対して、平民と言われる村人たちが目覚めて、そのネットワークの中から今までの苦労をねぎらい、「これまでは私たちがあなたたちをそのような形で必要としてきましたが、これからはみんなでやっていきますから、あなたたちもひとりの村人としての立場に立ってください」と提案する必要があります。みんなの無関心が、そういう人たちをその立場に置いているわけですから。少し時間はかかるかもしれませんが、勇気を持ってやっていくことです。確実なのはひとりひとりがそのことに目覚めていくことです。

こういった内容をヤマギシの誰と共鳴するのかというと、こうやって出会ったひとりひとりにそのことを根気よく伝えていくことが大切だと思うのです。そうやって、時代と共に社会も変わっていくのです。私が愛しているヤマギシに私が執着してこういった話をしているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。真理というものが世の中に開かれるためには、それにふさわしい道をもらっているところがそれにふさわしく見本となっていくことが大切です。時代は変わらないといけませんし、変化していくものです。変革の波が今、色々な形で大きな津波となって押し寄せてきています。それに対して何をモデルとして進んだらいいのか、となったときにヤマギシズムの中にその大事はしっかりとありますし、木の花の生き方の中にもあります。そこのところにみんなが気づいてくれるかどうか、というのが私が今考えていることです。ヤマギシの目覚めはヤマギシの歩みに任せるとしても、目覚めないからといって知らないというのではなく、いただいた縁の分だけはやりきりたいと思っています。気が長いところは長いように、短いところは短いように、付き合わせてもらっています。

私がある人と出会ったときに、「この人は村の中にいながら、ヤマギシに対してこれだけの不満や反発がある。しかし、この人の中にあるエネルギーを本来の目的に向けることによって、本人のためにも村のためにも有効なものになる。しかし、それが村に対して不満を言うだけであるならば、ヤマギシズムから外れて『あなたは私、私はあなた』の一体になっていない」と思いました。そういった人をヤマギシではどのように扱ってきたかというと、それこそそんな人は研鑽学校に行ってもらい、村の都合の良い人にして、村を運営しやすくすればいいということになります。結局、今は研鑽学校がある意味そういうところにもなっているのです。だから、研鑽学校に行けば全体ではなく自分のほうに心を向けさせて、体制の問題には批判的にならないように利用していることにもなります。そういった人の多くは、研鑽学校に行くことを拒否する人もいます。しかし、そういう方法ではなく、恐れずに全体の批判をどんどん出して、問題事を総括していかなければなりません。今のままでは風通しの良い場所ではありません。一部の個人は、研鑽学校に行って気分が良くなるからそれで良くなったと思うようですが、その賞味期限は短いようです。ですから、また元に戻るようなことになってしまいます。そういう構造がヤマギシの中にあることをまず、村人が気づかなくてはいけません。それには外からの目線を取り入れることが大切です。私はそういう人たちに気づいてもらう役割ということで、投げかける立場だと思っています。

ここを1泊2日で訪れたり、中には様子見ということで日帰りで来る人もいますが、それではここの本当はわかりません。2泊3日や3泊4日でもわかりきれませんが、こうやって何回も時間を持つことによって少しずつ理解が深まっていきます。私がヤマギシに対してどれほどの情熱を持っているのか。それはオールメンバーどころか、山岸さんと同じ気持ちでヤマギシのことを見ています。ところが、ヤマギシの人たちはそのことがよくわかっていないのです。自分たちにイズムの意識が足りないということがわからないのです。ここでは「意識の足りない木の花は解散する」と言います。もし私がヤマギシの村人であるならば、大改革を提案するか、それとも解散を提案します。何だかわけのわからない社会の中にいて、不満を言いながらそこに居続ける人たちが何なのかは知りませんが、その人生に何の意味があるのでしょう。この言葉は私たち流に表現すると、「神の計らい」ということになるのです。こうやって出会いをいただき、その役割を果たしながら、ヤマギシに対してというよりも、神様の意志をいただいて神に対してお応えしているということなのです。今朝、そのようなことをみなさんにお伝えしたいと考えていました。

あなたのエネルギーを向ける方向を、ぜひイズム復活のために、世のために「私意尊重公意行」でやっていってもらいたいと思います。そういったものを実際の生活の中でみんなが定着させていくようにしてもらいたいと思います。それは牛に対しても豚に対しても、日々の生活に対しても、大切なのは善意や愛、調和の精神です。それがベースにあるからこそ、健康な産業が育っていくものなのです。養鶏法と言いますが、世の中にすべての実態をあからさまにできないようではいけません。現実には牛や豚の問題でも隠しながら産業優先でやっているわけです。物事の奥にある大事な精神性を反映させていないというのは、ひとえにイズムが浸透していない表れです。こういった実態を通して山岸さんは、「情けない話だが、イズムはそこにはない」と私に言われます。もし今、山岸さんが生きていれば、みんな謙虚に山岸さんの言葉を聞くだろうと思うのです。私が言う言葉だって、山岸さんの言葉と同じです。真理は誰からでも出てくるものです。そういう真理の匂いを嗅いで、やはりそのもとに生きていこうとするのが参画した人たちの本来の目的であり、喜びであるはずです。それが道を歩み出した人々の責務なのです。それが高い精神というものであり、そこまで到達すると、青本で言われるオールメンバーという人たちです。それを仏教では菩提心を持った菩薩、ブッダと言います。表現の仕方は違いますが、同じことを言っています。ただ、今のヤマギシと木の花では実態は違うのです。木の花では未熟ながら、まさしくそれを日々理解しようと努めています。そして、それを生活の中に落とそうと日々専念しているのです。しかし、ヤマギシの人々はそのことを忘れていました。私はここの高校生たちに「日々をだらだら生きていたら、だらだら依存症だよ。ゲームをやり続けて、それで当たり前に毎日が過ぎていったら、それはゲーム依存症だよ」と言います。アルコールでもタバコでも何でもそうですが、依存症になってしまってはいけません。それを自分でコントロールし、健全に表現できて初めて健康につながるのです。それが全体に生かされて組織の健康になり、社会の健康になるのです。すべての人間が他者と自分を区別せずに健全につながることによって、地球の健康があるのです。私たちは人類として、それを担う立場にいるのです。

これをヤマギシとの出会いの1年の区切りにして、新しい年に向けてヤマギシの人たちに目覚めてもらうための投げかけにしたいと思います。


充実した人生を生きるために

木の花楽団のメインボーカルとして、深いメッセージの込められた数々の歌を生み出し、歌い続けてきたみかちゃん。先月初め、そのみかちゃんが子宮癌であることがわかりました。ファミリー全員が集まる大人ミーティングでその報告があった時、いさどんの口から出た言葉は、「更に充実した人生を生きるための扉が開いた」というものでした。今みかちゃんは、それまでと変わることなく、穏やかに日々を過ごしています。
今回は、改めて大人ミーティングの場で、この出来事から思うことをみかちゃんといさどんに語ってもらいました。
 
*   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
みかこ:
夏の間に、不整出血が続く、ということがありました。
それをいさどんに話したら、それが何であるのかをはっきりさせるために病院へ行った方がいいね、と言われました。自分一人だとものぐさな私だけど、そうだな、と思い、病院に行きました。
3度通って、検査の結果は、癌でした。
やっぱり、という思いもどこかにありました。12年ほど前に流産をして、その時に手術した病院でも、私の細胞が限りなく癌細胞に近いということを言われていました。さらに、その後に龍音(11歳)を妊娠した時にも同じことを言われていたのですが、それでも大丈夫だろうと放っておいたんです。そして、癌かもしれないという思いをどこかうっすらと持ちながらも、ここまで何となくやってきました。

今回、癌という結果をもらい、これは私の心がつくったものだ、と、思いました。

全ては心の結果ということを、私たちは毎日学んでいます。大きなショックを受けることはなかったけれど、空を流れる雲のように、表面上はいろいろな思いがよぎりました。食養生担当なのにガンになっちゃったなあとか、欲が深く物をたくさん集める人はガンになるとプレゼンの時に話していたので、自分は物を集めすぎかなあとか(笑)。そんなふうにいろいろと思ったのですが、それでもそのもっと奥に、何か新しい挑戦をもらったような感覚がありました。そして、パニックにならないのは、みんなと共にいるからだとも思っています。

昔なら、癌は死に至る病で、本人には告げずに家族が聞いて、それこそガーンというような(笑)病気でしたが、今は直接本人に伝えられることが多いようです。そしてしっかり事実と直面し、そこを超えて生きている人もいる。自分がそこにどう立ち向かっていくのかを観てみたい、と思っています。
癌になったことをきっかけに、普段あまり話すことのなかった人が、ちょっと話しかけてみようかな、と声をかけてくれるようにもなりました。そんなふうに癌が取り持つ縁を、ありがたいな、と思っています。

いさどん:
それが本当の癌縁(岩塩)だね。:

みかこ:
固そうだね(笑)。
私の血縁の家族の話をします。私の実家は岩手で、東北大震災の時には大津波にあいました。防波堤があったので難を逃れましたが、その後、母が脳血栓で倒れました。手術をしたけれど、それ以来、、植物状態に陥って、今もそのままです。
9歳上の兄は、北海道で結婚して子どもが生まれました。子供とそりで雪の上を滑っていた時に転倒して、ただそれだけなのに大怪我をして、松葉杖状態になっています。
4歳上の姉は、生まれつき体が弱く、子宮も未発達で、成人女性としては未熟な体を持ったまま大人になった人です。体も小さく、いろんな器官が弱くて、高校卒業後に精神病院に入ったこともあります。母親と一体化して生きていたので、母親が植物状態になったことでまた精神状態が悪化し、自ら精神病院に入れてほしいと言って、今は病院に入っています。それも、向こうから連絡をくれるのではなくて、私の方から電話をしてそういう状態だということがわかりました。
父は、母と姉の両方の病院に通っています。特に母の方には毎日通っているので、医療費だけでなく交通費もかかり、お金がどんどん減っていくそうです。悪循環の中にあるけれど、それを何となく、流れなんだなと冷静に見ている自分がいます。父と母は仲が良かった記憶がありますが、今は父が母の悪口を電話で話すようになりました。そんな感じで、家族が壊れていっています。その一家の中の私も癌ということで、ぼろぼろだな、と思いました。

だけど、そんな中で、壊れていく心地よさを感じている自分がいます。時代の流れにのって、壊れるものは壊れていくんだな、という感覚がある。捉えようによっては悲壮にも思えるかもしれないけれど、私の中にはそんな感覚があります。神様は光も闇も全部見せてくれる。うまく言えないけれど、自分の中に、どこかで、癌を恐れる心と、なった自分を見てみたい心があったように思います。そして今、それを観ている。そんな感覚があります。

いさどん:
まず、みかちゃんに限らない話をします。
我々は生きています。生きているということは、生き続けたいという思いが働いている、ということです。そのためには健康でありたい。だから病気を怖れます。生きるということは、常に死と隣り合わせなのです。そして、死にたくないから健康でありたい、と願うものです。

「生老病死」という言葉があります。生きているということには、「生きる」「老いる」「病気になる」「死ぬ」、この4つのことが付いて回ると、仏教では説いています。それは生命の宿命であり、生きることで心に湧いてくる最初の捉われの原因のようなものです。病気は、問題事の代表事例。それ以外にも、その人の中にある感情的なものが現象化されて、日常の中でいろいろな出来事に出会います。怒るとか、悩むとか、愚痴るということが、結果として自分に現象をもたらしてくるわけです。
こういったものが、長い人生の中で、病気の原因として蓄積されていきます。ですから、突然病気になるわけではないのです。人との対立も、突然そこに起きるのではありません。全ては物語として繋がっていて、それが現象として起きてくるのです。それを「因果の法則」といいます。原因があって結果がある、ということです。

ある日、病気に出会った。その病気を自分の目の前から消したい、ということで、今の医療の対処両方を受けることになるのです。多くの人は、目の前に起きている問題事を解決すること、問題事が問題事でなくなることを願い、日々を生きています。しかし、この世界はそんなに単純なものではありません。問題事はただ問題事としてそこにあるのではなく、因果の法則に基づいて現れてきています。問題事を結果とすると、そこには必ず、そのもととなった原因があるのです。

例えば、問題事の花が咲いているとします。そこには種があったはずです。その種が何かの形で人生という畑に蒔かれ、芽生えた。そしてそれを確実に育ててきた日々があったはずです。自分に降りかかっている問題事の花ならば、それは自分が育てたのでしょう。しかし、種があった時点でも、育てている時点でも、それに気付けなかった。その結果花が咲いて、実を結んで、収穫の時にきたのが、現象としての問題事です。収穫になって初めてその存在に気付くのですが、それが芽生えた時も、日々の中で育てていた時も、花が咲いた時も、実をつけた時も、何度もそれが育っていることに気付くチャンスはあったはずなのです。

今回、みかちゃんは癌を収穫をしました。しかし、まだどういうものかはよくわかっていません。最終の検査を先日やりましたので、次に結果を聞きに行った時にどの程度のものかがわかるという段階です。検査の結果には大いに興味のあるところですが、ガンであることは事実です。検査の結果は、人によっては軽いものだったり、末期であったります。それは、近い未来が答えを出してくれるでしょう。繰り返しますが、今みかちゃんは癌に出会っているということです。

癌であったことを通して、私たちは何を学べばよいのでしょうか。

癌は、突然出てきたわけではありません。それは自らが育ててきたのです。ということは、そこには発生の物語があります。結果をもらったならば、振り返って、その物語をさかのぼることができます。自分の中に置き換えて観て、周りの環境に置き換えて観て、癌が育っていくのを再確認する必要があります。なぜならば、今もらっている結果がまた次への原因となって、未来に新たな結果を生むからです。未来の結果をどういうものにするかは、今起きているこの現象を未来への種としてどう捉えていくかで変わるということです。

普通の人は、癌のような問題事に出会ったら、即座に自分から切り離したいと思うでしょう。そして形だけの対策を取ろうとします。医療も対処療法的に、癌という症状の部位を取り除いたりするだけです。
今回みかちゃんが身体の不調を訴えた時に、僕は「それが何であるかわからないまま日々を送っていては、気持ちが悪い。日本には最新の医療テクノロジーがあるのだから、それが何であるか調べてくるといいよ」と伝えました。人はわからないものに怯えるものです。実態をわかって、理解し、そこから冷静に事を進めることが必要ですから、現代医療を否定することはありません。それも人類の進化なのですから大いに活かせばいい、ということで、みかちゃんに受診を勧めました。
最初に検査結果を持って来た時に、僕はみかちゃんに、「今までの心と、生き方の表れだよね」と伝えました。そしてそのことで、僕には、とても明るい未来が観えてきたのです。
 
みかちゃんと初めて出会ったのは13年前。その時にみかちゃんは、今ここで歌われている歌を持って、来てくれました。

出会った日は、ちょうどクリスマス・イブでした。和子ちゃんが散歩中のみかちゃんに偶然出会い、その夜のクリスマスパーティーに招待したのです。そこでみかちゃんは、自分の持ち歌を歌ってくれました。その時に僕はみんなの前で、「神様からのプレゼントが来た」と言いました。それは、僕が長年持っていた心、そして木の花の生き方が、その歌に表現されていたからです。
それからしばらく、付き合いがありました。でもみかちゃんの生き方をみると、その歌の中に秘められているメッセージと、彼女の人格が一致していない。歌に表現されてるメッセージと、生活が一致していないのです。ある時僕は、「あなたは自分の歌っている歌のように生きられるといいね」と言いました。これは当時のみかちゃんには大変きつい言葉だったでしょう。この気性の激しい人にそれを言ったら怒るだろうということは僕もわかっていました。しかし僕は正直な人間ですから、そう伝えたのです。
その後、木の花との付き合いの中でいろいろなことがありました。その一つに、みかちゃんのパートナーは、みかちゃんとの暮らしの中でみかちゃんにいじめられていると訴えて、うちに救済を求めに来ていました(笑)。みかちゃんをたしなめるのは難しいかもしれないけれど、少なくとも、パートナーが涙して訴えていることは伝えてあげられる。どちらの味方というわけでもなく、二人の関係をよくするためにみかちゃんを呼んで話をしましたが、それが縁の切れ目になりました。みかちゃんは、こんなひどいところとは付き合えないと離れていったのです。助けを求めて来たパートナーにも、あなたにも問題があるよと言ったら、自分を振り返る心がないので、結局彼も離れていきました。

まだ付き合いが切れる前に、僕は彼女にこう言ったことがあります。「僕が話をして、あなたが歌を歌う。そしてこの生き方を世の中に広めていこう」と。けれど返事は、イヤだ、アッカンベーというものでした(笑)。口でそう言ったかどうかは別として、態度や表情はそう語っていました。ああこれはダメだ、と思いました。その後も二人の噂は耳にしながらも、付き合いはありませんでした。それでも僕の中には、みかちゃんの存在は大きくありました。

そして6年が過ぎました。

みかちゃんがここに戻ってくる時の話は、みかちゃん自身もいろいろなところで話しているので、多くの人が知っていると思います。彼女は完全に行き詰まって、誰かに救いを求めなければならないという事態に追い込まれていました。その時に、いさどんさえいなければ木の花は素晴らしいところなのに、と思っていた、あのもっともイヤな親父の顔が頭に浮かんできたのです。そして、この難局を乗り切るためにはあの人の力がないと乗り切れない、と決断したのでした。

昼休みに、僕が本宅の居間のテレビの前に寝転んでうたた寝をしているところへ、みかちゃんが入ってきました。その時、みかちゃんは不思議な感覚だったそうです。木の花の玄関を入ったら、自分の歌を歌ってる人がいるのです。それはちなっぴーでした。みかちゃんにとって、自らの歌を人が歌ってるのを聴くのはすごく新鮮だったようです。つまり、みかちゃんは離れていたけれど、みかちゃんの歌の魂は、木の花で生きていたのです。

みかちゃんは、玄関から居間に入って、いくつも並べてある座卓の向こう側で寝ている僕のところまで、その座卓をぐるりとまわって来ました。みかちゃんは、その時間が随分長い旅のような気がした、と言うんですね。僕は、やっと来たな、と思いました。彼女は僕の前に来て、「いさどん、助けて欲しい」と言いました。僕はなんと答えようか考えました。僕が世の中のために共に生きようと言ったのを蹴って、パートナーの涙ながらの訴えを聞いて仲裁に入ったことも蹴って、後ろ足で砂をかけて振り返って石を投げつけていったみかちゃんが帰って来たのです。

みかこ:
それだけでも充分癌になるよね(笑)。

いさどん:
そうだね、ここらあたりで既に癌の種ができてたんだね。ガンガン投げてたから(笑)。
それだけではなく、みかちゃんはいろいろなところで重宝されてイベントに引っ張り出されていましたが、そこで何となく“反木の花運動”をやっていたのです。無言で砂をかけられているようでした。
それでも、僕は何となく、それで縁が切れるものではないと感じていました。ミーティングでも、みかちゃんのことは時々話題に上がっていました。正しい道を見つけられない人の行く末を思うということもありましたし、だからこそ、大事な道がある人とは縁があるよ、という話をみんなでしたこともありました。それがやっと、帰って来たのです。僕はそこで、「やっと来たか、待っていた」、と言いました。そこで積年の恨みはどこかへ消えてしまって、ハグをしました。そして助けて欲しいという事で、その時にあったいくつかの難題を解決するために早速乗り出したのです。

それからいろいろあって、みかちゃんは木の花のメンバーになりました。今は、うちの一番の心臓です。心臓はいくつかありますが、ここでの歌は本当に大切です。それを担ってくれている。僕はこの人生を、この心と共に生きていますが、それを見事に表現してくれるのがみかちゃんの歌です。みかちゃんが作詞する時も作曲する時も、僕に相談することはありません。けれどその歌は、見事にここの精神性を表している。そして僕が湧き出てくる想いを表現する時に、それに合わせて彼女が歌を歌ってくれる。それは、大いなる意志のもとに、道が共通する者の出会いなのです。

昔、僕が話し、みかちゃんが歌って、この生き方を世の中に広めていこうと伝えました。そこには運命の出会いという縁があるのでしょう。僕は皆さん一人一人と、運命の出会いをしています。そしてその一人一人とパートナーシップを組んで、天から頂いた大事な道を共に歩んでいる。その中でも、みかちゃんとは特に印象の深いパートナーシップだと思っています。
 
僕は30年前から、カルマ読みといって、人のカルマを見ることをしてきました。人の名前から人格を読みとるという道を頂いたのです。これは現世に師匠がいるわけではなく、天から降ってきたものです。そして今まで沢山の人たちの行き詰まりの相談に乗ってきました。これには実績があったからこそ、ここまで続けて来られたのだと思っています。独りよがりの話では人は相談に来ません。それが、この生き方と共に、この歩みを支えてきました。それに歌が加わって更に深いものになり、木の花という歩みが確立されてきました。

そして今年になって、また一つ、神様からのプレゼントを頂きました。それが地球暦です。
僕が人のカルマを読むのは、その人の魂の状態を観るということです。それはその人が内から発する心の種であり、それが原因となって日常の生活の現象をもらい、それが結果となります。その結果が原因となって、また新たな結果と出会う。そこには常にカルマが関わりながら人生が循環していくわけです。そしてカルマが物語を紡いで、人生がつながっていくのです。

人は生きることにより、自ら原因の種を蒔いていきます。人生の畑に蒔いていくのです。畑とは、この世界のことであり、最終的には全宇宙を意味します。我々は種を蒔きながら、その畑の側から表す目的を、充分に理解しないでいたのです。
それをひも解いてくれたのが、地球暦です。宇宙、太陽、地球と月の関係、そして太陽系の兄弟である他の惑星との関係、その生命の営みを表現してくれている。そこに表されている仕組みが、この世界と我々を創っている。我々の生命活動を表現しているのです。この時空、風土、そういったものを与えてくれる宇宙の事情、そして地球の事情、生命としての事情、それをグラウンドとして与えられ、その魂が自らを表現する結果、魂の種が芽生え、育ち、花が咲いて、実を結んで答えを頂く。それをこの世界が私たち一人一人と一緒にやっている、そのステージを見ることを、地球暦が教えてくれています。一人一人のカルマを読み、人がそのカルマを学ぶことにより、生かし健全になっていくという道に対して、この宇宙は、私たちに何を求めてこの世界のステージを与えてくれているのか。そこを読みとることに出会ったのです。

不思議なことに、僕がその話をすると、みかちゃんは歌だけでなく絵でも表現してくれるようになりました。同時に、地球暦の惑星配置を読みとることが、彼女の中に湧き出てくるのを僕は感じたのです。これまで、歌と話で共に世の中のために生きようと歩んできたのが、これからさらにもう一つ、新しいパートナーシップが生まれていくことを感じています。
それは大変大きな役割であり、大きなエネルギーがいります。それは我々が日常を生きている時に使われるようなエネルギーではありません。日常のエネルギーというのは、物理的生命エネルギーに多くを使っています。そういったものではなく、自らを静かに落ち着けて、この宇宙ステージに置いてやると、この世界の奥から湧き出てくるものなのです。そこから湧き出てくるエネルギーは無限なのです。その力を使って、みかちゃんは絵を描いたり、地球暦を読み取っています。ただ、今はまだ充分ではありません。それには、もう一対のカルマ読みが重なって、さらに精度が高くなるのです。地球暦との出会いは、みかちゃんとの距離を特に近くに感じさせてくれています。本人もきっと、以前より身近に感じていることでしょう。

そんな事を感じていた時に、彼女の身体の不調を聞きました。その時僕は、以前みかちゃんが行き詰まってここに戻ってきた時と同じように、そうか、やっと来たか、随分待っていたよ、という感じがしたのでした。そしてその実態を理解するために病院に行ってくるように伝えました。その答えは、癌でした。しかし、それはさらなる明るい未来が始まる予感につながっていったのです。
 
人間は、身体生命が生きていると捉えている人が多いと思います。しかし、本当は、魂が生きるのです。
命の危険を感じた時に、人間は人生が変わるでしょう。何か不摂生をしていた人は命の危さと引き換えに心が変わる。この世界に生きる目的が残っている人は、そうなるものです。このことが、みかちゃんにこれからの大切なものを与えるきっかけになる。そしてこのパートナーシップが更に深まると感じています。

癌になることがいいこととは言えません。これは明らかに、過去のみかちゃんの生き方の結果です。因果の法則が表した、宇宙の道理です。しかしその結果は、そこで終わってしまうわけではないのです。その結果が原因となって、更に未来の結果へと繋がるのです。
この結果をもらったことが不愉快で、それを即座に無しにしようと思うなら、その未来には新しい不愉快が起きるでしょう。しかしこの不愉快は、新しい喜びにつなげることが出来るのです。それは次の結果への種であり、全ては物語としてつながっているのだから。今それをどう受け止めるかで、その答えはいくらでも変えられるのです。

二人の運命的な出会いと、大きな役割を想い、そのためにこの病気が与えられたと捉えた時に、明るいものを感じます。単なる明るさではなく、意味深い明るさです。命の長さはどうでもいいのです。長く健康でいられたら幸せなのか、命が短かったら不幸なのか、それははかれません。それは、生きることの目的に基づいた生き様と結果なのです。そう考えた時に、いよいよ来るべきものがきた、と思いました。

しかし、それだけのことで、クライマックスを迎えたなんて思ってはいけません。人生を生きていると、まだまだいろいろなことに出会います。それは命の海を生きていく中で出会う、波のようなものなのです。
人が生きるということには、生老病死という定めが常に付きまとうものです。しかし、そういった仏教的な教えすら、これからの時代には古いのです。何故かというと、不幸は、不幸の種の存在を教えてくれているのであり、その種を発見し、どう読み取るかによって、いくらでも変えていくことができるからです。不幸とは喜びの種なのですから、不幸などというものは、この世界にありはしないのです。宗教は人々にこの世界を特定し、一方通行の教えを説いてきました。確かに一方通行ですが、その先は、最初に戻ってつながり円になって、回っているのです。その仕組みが分かったら、この世界に不幸などありません。この世界がそれを人々に伝える時代が来ている、というだけのことなのです。
 
もうひとつ、話したい話があります。
 
みかちゃんは、みかちゃんの人生で、癌という病気に出会いました。そしてそれは彼女の心がつくったものです。人生という畑に種を蒔いて、それが実を結んだのです。
そしてもう一つ。みかちゃんの癌は、実は、僕が作ったということです。
このことについてこれから話します。もう少し時間がかかりますが、お付き合いください。

僕はこの生活をしながら、この生き方こそ、病気を治し、問題ごとを解決して、人々を幸せにすると思ってきました。今のような行き詰まりがいっぱいの時代に新しい方向を示し、人々を真実に目覚めさせる、その道しるべとしてこの道があると思い、この生き方を歩んできたのです。するといつの頃からか、「全ては良きことのためにある」と、そのことがわかるところに立っていたのです。

「癌」という漢字は、品物を山のように抱える病気、と書きます。以前、僕はプレゼンの中で、癌は欲深い人がかかる病気だと言っていました。しかし、プレゼンでは世の中に理想の世界を発信するべく語っていても、例えばミーティングでぐだぐだ言っている人がいたり、日々の生活の中で不調和が見えると、日頃そういった理想を語っている僕は詐欺師になってしまうことになります。だから、ここの人たちは、病気になって治療するのではなく、病気にならない生活をしていくこと。ましてや欲深な癌にはならない生活をしていくこと。それが賢明な生き方だと言っていたのです。

そういう自分が癌になったらどうするか。この雄弁な僕が、どうやってうまいことを言って、それをごまかすか(笑)。しかし、僕は道を頂く人ですから、その時にはその時のように、神様が上手く屁理屈を教えてくれるから大丈夫、と思っていました。

一般社会では、癌や鬱などの問題がたくさんあります。そして肉食に偏った食生活をしています。環境のことを考えると、今の世の中の人々は、その生き方によって、自分から災いを世の中に撒き散らし、そして自らに提供している。それは物語の連続ですから、その途中で気付くチャンスはいくらでもあるのです。しかしなかなか気付けない。それは日々を振り返らないからであり、自らに捉われて、正しく客観的に物事を観るということをしていないからなのです。

では、それを実践している木の花の生き方の中で癌が発生した時は、どう捉えたらよいのか。
僕はある意味、単純な考えをしていました。それは困る、どうやって説明しようか、と。ところが、実際にみかちゃんがそうなった時に、僕の中のどこか奥の方にずっとあり続けたその思いが、消えていったのです。そして、この癌の原因は何だろう、と、思いました。

僕は、癌のない、問題ごとのない世界をここは目指し生きている、と語ってきました。そして、もし癌が起きたらどう解釈するだろうと思っていました。そうしたら、みかちゃんが癌になった。僕はそれを、神様からのプレゼントかもしれない、と思ったのです。

神様が僕を導くために、みかちゃんの癌をプレゼントしてくれた。

(涙で、いさどんの言葉が詰まる。)
 
13年前のクリスマス・イブの日、みかちゃんと初めて出会いました。そしてみかちゃんは、歌を歌ってくれました。僕はその出会いを、神様のプレゼントだと言いました。
そして今度は、みかちゃんの癌という形で、神様はプレゼントをくれたのです。
それは僕のためであり、みんなのためであったのです。

昔、僕はこういう生き方の歩みの中で、その裏付けが欲しいと思っていました。
そうしたら、歌が来ました。
そしてまたいつの頃からか、この生き方が正しい側でありたい、そうでない側でありたくない、という想いを持っていました。
そうしたら神様が、その心をどう持つかを、みかちゃんを通して、癌と共に教えてくれたのです。
そして僕の心が、次のステージに行くことが出来た。
 
全ての出来事は、プレゼントです。そしてそれをどう生かすかが、未来のプレゼントにつながるのです。僕は、問題ごとが起きた時に自分がどう思うかを想像していました。困ったな、これをどうやって正当化しようかと考えるのかと思っていたら、そんな屁理屈なんて全く出てこなかった。

このことは、命は身体で生きるのではなく、魂で生きるということに気付くためにあった。そして、共にもっと深いものに気付いていくために、みかちゃんの精度をさらに上げることで僕の精度を上げてくれることでもあった、と気付いたのです。

本当を言うと、命の長い短いはどうでもいいんです。それは永遠に続いていくものだから。死は生への出発ですから、怖れることはないのです。ただ、生きているものたちが、命を無駄にすることがいけないのです。

「生老病死」を四苦と言います。それに、愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦(あらゆる精神的な苦しみ)の四つを足して、四苦八苦と言います。そのどれもが、原因の種なんです。それがあることによって結果が生まれて、我々に、この世界で生きていることの意味を教えてくれるのです。ですから、全てが尊いのです。愚かなものは何もないと気付いた時に、我々は初めて、生きることの本当の意味を知るのです。
 
充実した人生を生きるとは、どういうことか。
「人生」は、「人が生きる」と書きます。その命の秘密は、この世界の命の連鎖の秘密、それは宇宙生命物語です。自分というものが生きている、その内に心を向けて、その秘密を解き明かしていく。それが人生の目的です。

生きているといろいろな出来事に出会います。一つ一つを区切ると、それは時には問題ごとです。そして一つ一つは、その問題ごとから喜びとなります。問題ごとで悲しみ過ぎてはいけません。喜びで有頂天になってもいけません。それらは全て、物語の連続なのですから。

その物語を知って、それを表しているものの意図を理解すること、それは、何故自分が生まれてきたのか、何故ここにいるのか、そしてどこへ行くのか、その目的が何であるかを知ることになります。それが、人として生まれてきた最大の目的です。それを探求し、一つ一つ自分の中に解き明かしていく。これが、充実した人生を生きるということなのです。
 
長く話しましたが、何が伝えたいのかというと ――――

みかちゃんがみかちゃんとして生きて、癌と出会った。みかちゃんには癌が必要だった。
癌は悪いもののようですが、大きなメッセンジャーでした。
 
本当に、この世界に生きているということは、ありがたいものなのです。
 
 


豊里講演会を振り返って

昨年11月に出会って以来、数多くの交流を重ねてきたヤマギシ会と木の花ファミリー。去る9月29日、ヤマギシ会で最も多くの人が住む「豊里実顕地」で、「世界のしくみを知り、そこで暮らす心のあり方を見つめよう」と題するいさどんの講演会が行われました。

世界最大の農的コミューンとして50年の歴史を誇るヤマギシ会に、いさどんはこれまで多くの投げかけをしてきました。その集大成ともいえる今回の講演を終えて、一つの節目を迎えた今、いさどんにその思いを語ってもらいました。

出会う前、僕はヤマギシ会をもう少し凝り固まった人々の集団だと思っていた。ところが実際に出会ってみると、ヤマギシ会はそれまでの歩みを超えた、新たな世界を求めていた。自分たちだけが正しいと主張するような要素が全くないとは言えないが、これまでの歴史の中でさまざまな挫折を味わった結果として、新たな歩みを求める時に来ていた。

ヤマギシ会の中には、内部に矛盾を感じている人もいれば、相変わらず自らが正しいという思いにとらわれて外に意識を向けない人もいて、いろいろな思惑が混在している状態。

僕らは、ヤマギシ会を意識してこの生活を始めたわけではない。ただただ、世のため人のための道を歩んできた。そんな時、仏教の経典である法華経に僕らの生き方を見る時がある。ヤマギシ会の成り立ちにも同じ精神があり、それは僕らとの共通点でもある。ただ、ヤマギシ会と木の花との違いは、高い理念が掲げられていても、それを生活の中に定着させることを徹底していないところにある。木の花もまだまだ未熟ではあるが、生活の中にその理想を表していこうと日々実践を積み重ねている。そこのところに、ヤマギシ会の人々は注目すべきである。

しかし、木の花もヤマギシ会も、本来の目的は同じところにある。そしてこれからの時代、社会がこうした生き方を必要としてくるのは明らかである。改めてこの生き方の大切さを実感すると同時に、僕らだけでなく、より多くの人々が社会の見本となり、そのネットワークを広げていくことが必要だと感じている。ヤマギシ会は「全人幸福」というスローガンを掲げているのだから、彼らがそれにふさわしい生き方をすることが、僕らの喜びであり、世の中のためでもある。

ただし、彼らには彼らの歩みがあり、意思がある。それを尊重して、僕らの理想を押し付けるのではなく、彼らの歩みを認めることが大切だと思っている。しかし、ただその歩みを待っているだけでは、僕らの役割は果たせない。彼らが外の世界に疎く、目覚めの時が来ているのにそれを十分に果たせていないのならば、僕らには彼らに刺激を与える役割がある。

今回、豊里実顕地での講演が実現した。結果がどうなるかは、ただ頂く姿勢でいるだけだから、特に考えていない。しかし、結果として、ヤマギシ会の人々の中に大きな心の変革が起き始めている。それは今回の講演会もひとつのきっかけだったが、それよりも僕はこれまでにたびたびヤマギシ会を訪れて、多くの人々と直接対話をしてきた。中でも、不満分子と言われているような人たちと多く話してきた。そこで見えてきたことは、彼らがもともと理想に燃えてヤマギシ会に参画したものの、夢破れた人たちであるということ。その彼らが、木の花と出会ったり、僕と話をすることによって、もう一度目覚めて、参画の時の志を取り戻そうとしている。これはとても大きなことであり、今後のヤマギシ会の変革にとって大きな力となるだろう。また、そうなるべきである。これまで、彼らは一時的とはいえそうした志を忘れて諦めの境地に陥っていたのだから、ずい分いい風が吹き出したと思う。

そして今、僕らはヤマギシ会のあり方を尊重し、期待しながらも、あくまで彼ら自身が動くのを待っている。そういう立場に徹して、見守っていくことが大切だと思っている。

講演では、世界観や宇宙観について話した。ヤマギシ会はもともと高い理想を掲げてはいるが、その理想が日常の中で忘れられている。一般社会の人たちと同じように日常の些事にとらわれて、大きな世界観を持てないでいる。高い理想を目指すには、日々の確かな生活と大きな世界観がつながっていなければいけない。また、人が生きている本来の目的に目覚めるには、多様性を認め、広い視野を持つことが必要である。そういうことを踏まえて、僕らが普段から大切にしている世界観を伝えた。

地球の生態系の中で、人間は大きな役割を果たしている。人類にはその頂点に位置するものとしての役割があり、義務がある。そういったことを意識して生きることが、彼らの掲げる「全人幸福」の実践につながる。

ヤマギシ会の理念で語られていることと、今回の講演で僕が語ったことは同じである。それはヤマギシズムという思想に封印してしまうようなものではなく、世界人類に共通する普遍的なものとして、世の中のために広げていくべきものである。これまでヤマギシ会という組織のためにあった学びを、本来の全人幸福に向けた活動として実践していく必要がある。そういうことに気付いてもらうための講演だった。世界観の表現の仕方や枠の広さに違いはあるものの、ヤマギシ会も同じようなものをベースに持っている人たちだから、僕の話すことを理解できる人はたくさんいた。

特に伝えたかったことは、ヤマギシズムに共通する概念は世の中にたくさんあり、ヤマギシ会の中だけにあるのではない、ということ。この世界には、いろいろな歩み方がある。ヤマギシ会の人たちは、自分たちで考え、自分たちで答えを出していくと言う。しかし、それは創設者である山岸巳代蔵さんがヤマギシ会の発足から3年間しか生きていなかったことの結果なのである。もしも彼がもっと長く生きていたら、聖者としての巳代蔵さんがヤマギシ会の道しるべになったはず。しかし、結果として彼は3年しか生きていなかったために、残された人たちはそれぞれの裁量の中でヤマギシズムを表現してきた。そして、それは残念ながら、巳代蔵さんの深い精神性から少しばかり外れて、わかりやすい答えを出すことを優先してしまった。言わば、戦後の日本社会の縮図のような歩みが展開されたのである。

ヤマギシ会の人たちは、自分たちで答えを出したい、という思いが強い。しかし、それは「無所有」という概念を唱えながら、所有の心が強いということである。この世界を多様性という視点で捉えると、人にはそれぞれ役割があることがわかる。大切なことを語って人々を導いていく役割を持った者が、この世界には必ずいる。巳代蔵さんは、たまたまヤマギシ会の運動に3年しか関われなかった。それには何か大きな意味があるのだろうが、巳代蔵さんがその役割を十分に果たさなかった結果、ヤマギシ会の人たちは、物事をいただく精神や、「湧き出てくる人」に出会わなかった。それでは、本当の「無所有」に至ることはできない。そう言われるとヤマギシ会の人たちは違和感があるかもしれないが、湧き出ない人たちが10人集まろうと、100人集まろうと、それは烏合の衆なのである。そういう時には、湧き出てくる人からヒントをもらって方向を見つけながら道を切り開いていけばいい。ただし、そのときに僕らがよく言う「いただく姿勢」にならないと、大切なものを受け取ることはできない。

もし彼らが「全人幸福」をどんなことよりも大切にしていたら、どこから出てきたものであろうと、優れた考えは優れた考えとして、そのまま受け取ることができるはずである。しかし、実際には「自分たちで答えを出したい」という思いが先に立って、そうはならない。それは、彼らが自らの生き方を所有していることの表れである。

しかし、ヤマギシ会の長い歴史の中で、そのように自分たちで考えて歩んできた結果、さまざまな矛盾が発生してきた。その中で、少しずつそのことに気付く人たちが現れて、雪解けが進んでいくのだろう。共に歩みながら、彼らの歩みを見守っていきたいと思う。

ヤマギシ会で面白いのは、実顕地ごとに空気が違うこと。それぞれ独立しているとはいっても、何となく歩調が合っていない。それが、今のヤマギシ会を象徴している。それは、それぞれの実顕地を尊重しているとも言えるし、理念を共有できていないとも言える。誰も全体のリーダーシップを取らないから、まとめるのに時間がかかる。しかし、だからこそ民主的な場になる可能性もある。ヤマギシ会の人たちの考え方次第で、どちらにも行ける。

出会った者の役割として、僕はヤマギシ会に時には挑発的な投げかけをしてきた。それは、本来のあり方に目覚めてもらうためにしただけのこと。巳代蔵さんが生きていたらきっとしたであろうことを、代わりにしているだけである。

しかし、それを無理強いはしない。我々には今、外からのアプローチがたくさんある。そして、これからそのアプローチに応えていくという大きな役割があるのだから、それに専念していくだけ。ヤマギシ会の中で、今は時期ではないという結論が出されたとしても、我々は木の花の歩みとしてやっていくのである。常に世の為人の為。そこに冷めた思いもなく、熱い思いもない。

ともこ:でもいさどんは、ヤマギシのためにものすごく労力をかけているよね。

労力をかけることはいい。それが僕の人生だから。労力をかけたからといって、それに見合う結果を求めては、恋愛と同じになってしまう。どんなに労力をかけようと、それは自分の人生だから、相手には関係ない。相手がそれを受けてどうするかは相手の価値観の問題なのである。

ともこ:相手にこうなってほしいという思惑を持たなければ、疲れることもない?

思惑がなければ、疲れないとも言えるし、乱れない。道が違ったとしても、認められる。

ともこ:だけど、いさどんはいつも真剣でしょう。大切なところからずれている人に対して、すごく真剣に伝えている。

ずれていることを伝えるのは、こちらの役割だから。例えば、ある人が苦痛のところにいる。その人は苦痛の延長に喜びを求めようとしている。そうすると、そこにまた苦痛が生まれる。そういう喜びの求め方ではなく、本当の意味での喜びを見出すこと、それはこちらの喜びでもある。苦痛のもとになるような喜びを、喜びとしていてはいけない。

相手がわかっていなくても、こちらがわかっていたら、それは伝えるべき。それがわかっている者の役割。しかし、それが自分の思惑であってはいけない。こちらの目的ではなく、あくまでも相手の喜びのためでなくてはならない。だから、相手に聞く気のあるうちはこちらも一生懸命やるが、一たび相手にやる気がなくなったら、即座にこちらもそのエネルギーを使うのをやめる。これは冷たいからではなく、相手を尊重し、大切にしているからである。

ともこ:いさどんは相手に与えながらも、そこに思惑を持たない。神様もそんなふうに私たちを見守っているのかな?

神というのは、法則だからね。そこに情がからむことはない。

人間が執着するのは情があるから。自分の家族だから、妻だから、子だから、という情がある。情とは「なさけ」。しかし神には、そういうものはない。法則そのものなのである。

情のあることを、「愛情」といって深いもののように思うけれど、「愛」に「情」というなさけが付くと、それが執着となる。神の愛というのは、約束通りに現象をあらわして、約束通りの事を表現すること。だからこそ我々は、その中で安心していられる。特別なえこひいきがあるわけでもないから、安心して、ルール通りに表現していくことができる。この世界の仕組みそのものが、神の愛。本当の爽やかさと奥の深さがないと、それは表すことができない。しかし人間流に「できない」と言ってしまうと、本質から外れることになる。それはできるできないではなく、流れそのものなのだから。

ともこ:それでも、人間の気付きとか喜びを、神様も喜びとしているのですか?

それは、エネルギーだから。つまり、喜びのエネルギー。

エネルギーには、例えば悔やみのエネルギーや怒りのエネルギーもある。悔やみのエネルギーというのは、萎縮していく。怒りのエネルギーは、破壊していく。怒った時に、その怒りというのは、人間の中だけに発生しているもの。ところが、人間はその怒りを、別のものに表現する。茶碗を割ったり、相手に暴力という形で表現する。しかし、それは単に、自分の中にある怒りのメカニズムと、怒りのエネルギーが現れただけ。それがいろんなところに連鎖していく。すると、その怒りのエネルギーというのは、そういうふうに物を壊したり、病気をつくったり、対立を生んだりする。

喜びのエネルギーというのは、人をリラックスさせ、微笑ませる。同じ喜びでも、宝くじに当たったとか、会社が成功したなどというものは、いずれ不調和を生む原因にもなる。喜びにも、他者と共有できる永遠の喜びと、瞬間的に発生する極めてエゴ的な喜びとがある。神様が喜ばれる喜びのエネルギーというのは、自分の根本存在が善意であり愛であり調和であるとすると、そこが循環していくような喜び。単なる喜びとまとめて言ってしまうと、人間的な喜びを神様にだぶらせてしまうことになるが、喜びのエネルギーは大きさや深さに違いがあるという事なのである。

神は、人間がこの世界の神秘、真理に目覚めていく、深い悟りに結びつくような喜びを喜ばれる。人間が本当の存在の意味を理解することで初めて、人間と神が手を結ぶことができる。自分から離れていったものが、そのことを知って、再び手を結ぶ。そこで喜び合える。

喜びには種類があると言ったが、低い喜びが喜びではないのかというと、そうではない。低い喜びでも、初歩段階ではあるが、それも喜びなのである。それはプロセスとして繋がっており、エゴ的な喜びも、その過程の中にあることになる。多くの人間はその低いレベルに目的を置いてしまって、本当の目的を見失っているのである。しかしそれとて、神の魂の旅というところから考えると、プロセスではある。結局すべては神の手の中にあるということになる。

無知であることは、罪である。本来、人間はこの宇宙の法則に基づいて、神秘のもとに生きている。そのことに気付こうと思えば、いつでも目覚めることができる。その証として、人間にはこの複雑な世界を生きることが与えられ、様々な現象を通して目覚めていくように道が与えられている。それが、人間の生きている目的である。

ところが、そういった配慮のもとにありながら、いつまでも本来の目的を見出さない者は、霊的には低くなっていく。特に、宗教のように真理を語り、世の中のためにある立場を取りながら、その逆の状態になっている者たち。それは、言行不一致の歩みであり、罪の歩みなのである。

ただ、それは一つの見本でもある。真理のそばには、魔の扉がたくさん用意されている。だから、いつでもまっすぐな道を歩んでいくことが大切である。そうでないと、本当のことに気付けない。それは無知であり、罪である。

ともこ:よくわからないです。以前、この世界に存在するもの全てが尊いという話があったけれど、霊的に低くなるというのは罪なのですか。

そうやって頭で考えを巡らせて、質問する。そこに回答を出せば出すほど、真理から遠ざかっていく。僕も今、こういう風にあるべきだ、それをやらないと真理に目覚めない、それは罪である、という話をしたが、そういう風に伝えれば伝えるほど、道から外れていく。

法華経の教典があり、その解説がある。そこには解答が記されている。しかし、それ自体はあくまでもその法華経次元の解説であって、真理は一人一人が歩んで気付いていくもの。正しいとか正しくないというのは、ないのである。

あなたは質問をして、こうしたらOKという答えを求める。それを聞かれて、僕は答えを出すけれど、答えを出せば出すほど、それは答えから遠ざかっていく。誰かが一つの解答を出して、これが正解、ということではない。一人一人が自分で歩んで、確認していくことが大切なのであり、そして全ては一つの答えにつながっていくのである。

信念を持って歩めば、結果としてその信念のように答えが出る。この世界の流れに沿いながら、その法が開いていくと、そのようになる。

僕はただ、神様がこの一連の出会いを通して、どのような目的を示されて、どのような結論をもたらされたいのか、それを見せていただくのを待っている。僕の思いは、それだけなのである。


個人と社会の病理をホリスティックに捉える

ただいま、ファミリーでは「心を耕す家族の行く手」に続く「木の花ファミリー本」第2弾の出版計画が進行中です。
出版社は「心を耕す」に続いてロゴス社です。同社は、「いたるちゃん」こと村岡到さん主宰の出版社で、社会主義的な視点からの雑誌や書籍を多く出版されています。
先日、いたるちゃんから「ファミリーの心のケアの現場から見える精神医療の実態について原稿にまとめてほしい」との依頼があり、いさおが執筆を担当することになりました。
現在、ファミリーにケア滞在しているMくんの経歴が精神医療の現状を端的に表していると考え、まずMくんの治療歴についてインタビューしました。そして、それを踏まえていさどんに語ってもらいました。
以下は、そのふたつのインタビューをまとめたものです。これに加筆編集したものをいたるちゃんにお渡しする予定ですが、ブログ読者の皆さまには、ぜひ原文を読んでいただきたく、いたるちゃんの了承のもとで、ここに公表したいと思います。

□ Mさんの通院歴

Mさんは40歳。8月の上旬からファミリーに滞在して、心のケアに取り組んでいる。
滞在前、一年程前から通院していたメンタルクリニックでMさんが一日に処方されている薬剤は、計9種類、22錠にもなる。分類してみると、以下のようになる。
まず、薬の袋には「不安や緊張、興奮などの精神症状を改善する」と説明されている「非定型抗精神病薬」。統合失調症などの治療に使われる薬で、これが「インヴェガ」「エビリファイ」「セロクエル」の3種類。不安を抑える、いわゆる精神安定剤が「コンスタン」「デパス」「ベゲタミン」の3種類。睡眠導入剤が「ネルロレン」「フルニトラゼパム錠」「ベゲタミン-A配合錠」の3種類。また、「ふるえや筋肉のこわばりをほぐす」パーキンソン病の治療薬「タスモリン」、「けいれんを予防する」てんかんの治療薬「リボトリール」も処方されている。
これほどの種類、量の薬が必要な彼は、いったいどれほど重篤な精神疾患なのか。本人に現在の病名を聞いてみると、驚くべきことに「知らない」という。
Mさんは、19歳のときに初めて精神科を受診した。元々は社交的な性格で、高校時代も楽しんで過ごしたが、家庭事情の悪化や、住み込んだ予備校の寮に馴染めなかったりしたことから、少しずつ精神状態が悪くなっていった。電車に乗ることがしんどくなり、大学入試も震えながら行った。なんとか受かった大学にも行けそうになく、「家庭の医学」を読んでようやく病気であることを確信、精神科の門を叩いた。そこで「神経症」と診断さされて処方された精神安定剤が「バッチリ効いて」、大学生活を普通に送ることができた。ただ、2年生で留年が決まったことをきっかけで大学を中退。その後は親に仕送りを受けながら、適当にバイトをしながら遊んでいた。
本格的に歯車が狂いだしたのは、27、8歳のとき。処方されていた精神安定剤が効かなくなった。なんとか元気だった頃の自分に戻ろうと、あちこちの精神科を転々とした。いわゆるドクター・ショッピングだ。
その後の受診遍歴は多彩だ。Tクリニックでは、医師が「君は病気ではないから、薬は無意味。行動でしか治らない」と断言した。その医師は、先輩が営んでいる有名な全開放病棟のA診療所をMさんに紹介。「入院」という言葉を使わず、外出も完全に自由という開放的な雰囲気の中で「承認欲求が満たされた気がして」、3ヶ月間の「入院」後は一人暮らしを始めたりもした。ただ、A診療所は自由に外出を認める一方で、大量の薬を処方された。現在通院しているクリニックの処方は、その処方が引き継がれているのかもしれない、とMさんは言う。結局、一人暮らしは一年で終わり、実家に戻ってA診療所への通院を続けるが、次第にひきこもりがちになる。
「医者の不養生」なのか、A診療所の医師は娘が摂食障害を患っており、彼女が通っているということでN診療所を勧められた。宿泊施設に滞在して、デイケアを利用しながら治療するフリースクール的な施設だ。サポート担当者が付き、被害妄想的な考えに悩まされたときは、辛抱強く事実を伝え続けてくれた。薬に頼り過ぎない方針を取っており、Mさんも医師に叱咤されながら減薬に成功。4ヶ月後に滞在を終了したときには、二度と病気に戻らないと確信した。
しかし、実家に戻って介護の仕事についたものの、すぐに辞めることになり、結局は元の状態に戻ってしまった。かつて「君は病気ではない」と言ったTクリニックを受診すると、「辛いかもしれないが、仕事を探してそれをするのが君の治療」と言われる。
その後は、厚生省がひきこもり解消に推進していた自立塾に行ったりするが長続きせず、近所のメンタルクリニックを受診するようになった。その結果が、冒頭に述べた通りである。
始まりは決して重篤な病気ではなかったのに、実に20年を超える期間、Mさんは精神科と縁が切れることがなかった。その21年に渡る「多彩な」通院遍歴から、何かが浮かび上がっては来ないだろうか。

□ 「主治医」役をつとめるいさどんの見解

Mくんは、もともとデリケートな気質の人。しかし、今の社会はそういった人が適応できる幅を狭めている。ここからここまでが適応できる人で、ここから先が落ちこぼれ、と枠を作っている。
そういう価値観の中で、社会自体が狭い世界を作っているわけだから、Mくんに限らず、社会に適応できているように見える人も、狭いところでストレスをためて生きている。彼のように引きこもりや精神疾患を発症しなくても、それにつながるような、もしくは類似するような症状を表している人は多くいる。言わば社会全体が彼の病的な症状と同じようなものを表していて、アルコールやタバコといった、健康な社会では必要とされないようなものまで必要としているところがある。それどころか、経済そのものがそういうもので担われているという現状がある。特に先進国にはそのような傾向がある。
人間は個性的で多様なものなのに、現代社会は多様性の幅を狭めて、その枠の中で落ちこぼれを作っている。まず、それがひとつの要素。
もうひとつは、そういった社会の中で、Mくんをとりまく人間関係にも社会の価値観が影を落としている。子育てしかし、教育しかし、本来はその人が持っている個性を伸ばすことで、その人らしく社会に貢献できるように育てるという目的がある。しかし、家庭や学校などで、本人の資質を無視した子育てや教育が行われている。Mくんの親も、彼の資質をきちんと見て、というよりは、親や社会の価値観のままに彼を育ててきた節がある。
たとえば、Mくんは自己を表現するのが苦手で、自らの目的を見出しにくいタイプなのだけど、それが外からの価値観を押し付けられると、いったんは応えようとはする。しかし、それが自分の資質から外れていれば、当然、不適応が起こる。その結果、自信を喪失していく。
人間には個々に持っているエネルギー量というものがあって、それは生命力と表現することもできるが、Mくんのような人はそれが弱い。エネルギーをうまく使いこなす能力が乏しい、つまり不器用ということ。その不器用なところから、社会に出ることを拒否するような感情が生まれてくる。そしてそのときに、理由がないとだんだん拒否しづらくなるから、それを口実として病的なことを発症させる、ということも起こる。
家庭では、そういうことを客観的に分析できない。安易な親はそれを叱責する場合もあれば、Mくんの親のように、本人の言うことを鵜呑みにしてしまって、要求することをすべて叶えてしまったりする場合もある。そして、それによって混乱した状態を続けていく。
そういった人々を待ち構えているのが産業としての医療で、その現場では生産性を上げることが目的になっている。そこには医療の本来の役割である病気をなくすとか、予防医学的に病気を発生させないという発想はほとんどない。それどころか、顧客のニーズにこたえて投薬したり、更には顧客の状態を発展させて、病気の世界に誘っていくことまで行われている。Mくんのケースは、まさにそういう構図を表している。そして、その経済効果によって業界が維持されている。
こうしたことを総合的にとらえると、Mくんは社会の構造的な矛盾をつくる当事者であり、犠牲者でもある。こうした矛盾の構造をホリスティックにとらえて、総合的に物を見ていく必要がある。個人としてのMくんの症状を治していくというのは、ある意味で対症療法。本来は、社会の病理としてホリスティックに捉えていく必要がある。本来、それは国の役割だけれど、政治家たちにはまだそういう考えが浮かんできていない。さらに物理的で、対症療法的な方向に向かっている。

Mくんのケアの過程で、僕らは彼に改善に向けたアドバイスをするが、本人はなかなかそれを受け入れられない。もちろん、本人に治す意思がないと判断したときはケアを受け入れないのが僕らの原則であり、アドバイスを完全に拒絶する状態ならケアは成り立たない。しかし、Mくんには今の状態が不健全であるという認識があるし、治したいという希望もある。ただ、改善に向けて積極的に取り組んでいくことがなかなかできない。そこで僕らのサポートが必要なのだけど、僕らが差し伸べている手を、彼がなかなかつかまないという現状がある。
そういう人には多少のプレッシャーをかけてそれをつかむように誘導することもあるが、Mくんの場合はまだその段階ではなくて、ある程度静観して、自分の現状は健全ではないという認識や改善したいという気持ちが彼の中に自然に育つのを待っている。そのときに、親が今まで家庭の中で示してきたような姿勢ではなく、けじめやリズムのある姿勢を示して、その中で彼の自覚が育っていくのを見守ることになる。そしてその自覚が生まれてきたら、少しずつ自分をコントロールすることを身に付けながら、薬を減らして、健康な意識を作っていくためのアドバイスを提供していく。
サポートする側は、本人に多少のプレッシャーを与える必要はある。親のように本人の言いなりではいけないし、社会のように無関心であってはいけない。そして、医者のようにそれを飯の種にしてもいけない。常に当事者とのキャッチボールの中で、必要なものを提供していく。そのときに、サポートする側が「改善したい」という感情を強く持ちすぎると、それを押し付けることになる。そうなると、本人の取り組みではなく、サポートする側の望みを実現する場になってしまい、良い結果には結びつかない。
だから、サポートする側は、自らにストレスがたまっていないかを常にチェックする必要がある。それが、サポーターとして適切な領域を守っているかどうかのバロメーターになる。そうすると、サポーターは役割を果たすことによって自己コントロールを学ぶことになる。
ここで大切なのは、サポートする側は何かを提供するのと同時に、ひょっとすると与えた以上のものをもらっている、ということ。病気という現象に向きあう中で、本人も、それに関わる人も、大切なことを学んでいく。本来、医療もそういうものであるべき。社会全体としても、さまざまな問題事をいただく中で、そこから学んでいく。そのような捉え方をする謙虚さが必要。どんな場所であれ、どのような学びであれ、学ぶときには、常に謙虚さがなければいけない。

Q. 今の社会には負の循環があるように思う。多くの人々は、社会にとって良かれと思って目の前のことを一生懸命やっているが、やればやるほど社会の負の側面を助長させていってしまうところがある。その社会システムに乗っかっている人に何かが足りないのだと思うが、それは何だろう?

人間の歴史の中で、人々はまだ現象を表面的にしか捉えていない。つまり、現象の奥にあるメッセージにまで目が届いていない。それは、目は見えているが、心の目は観えていない、ということ。
僕たちもいろいろな出来事に出会うけれど、主に意識しているのは、不幸だったり、歓迎できないような出来事。もちろん、いいことは嬉しいし、そこに喜びが生まれるのだけど、喜びがあるとさらにそれを求めるような心の構造が人間にはあって、「腹八分目」「足るを知る」と表現されるような、適度で満足するということがなかなかない。
これに対して、問題事であっても、その現象の奥にはメッセージがある。そのメッセージを見出すことによって、問題事から学べるし、それで満足できる。もちろん、喜びからも満足は得られるが、問題事から学ぶ喜びや満足の方が大きいし、深い。生きていくことはすなわち問題事に出会うことのようなものだから、そこに気づくと、生きることの意味や喜びが大きくなって、表面的なストレス解消型の欲求が消えていく。すると、Mくんのような症状を呈するものもなくなってくるし、そういった人たちを改善する医療もずっと健全な構造になる。そのようにして、Mくんにプレッシャーを与えるような社会構造もなくなってくる。
このように、Mくんという人を通して、より広い世界、家族や地域社会、国家、そして人類のテーマが見えてくる。その人類はさらに大きなもの、つまり生態系や地球、そして宇宙によって生かされ、維持されているわけだから、それを学んでいく機会になる。ただ、今の人類はまだその扉を開ける段階のちょっと前にいる。

Q. これはいたるちゃんに依頼された原稿のための話だけど、読者の人たちは社会主義に関わっている人たちが多い。その人たちに、これは良いメッセージになると思った。その人達は、あるいは時代遅れとも見られがちなのかもしれないけれど、社会の問題の奥にあるメッセージをとらえて、自分たちのできることをしていきたい、という真摯な想いを持った人たちだろうと思うから。

それは、まったくそうだろう。ただ、ある問題事に対して、特定の思想から答えを導き出そうとするのは、もう無理があると思う。そうではなくて、現象をいろいろな視点から科学的に分析していって、今度はそれを逆につなぎ合わせてホリスティックな全体像を見ていく。そうすると、この世界を維持している「意識」が働いていることがわかる。これからは、その意識を大前提においた思想を作っていく必要がある。
これまで、人間がこの社会を共同でつくることによって理想の世界を創り上げようという共産主義のような考え方と、個人の喜びを切磋琢磨しながら創り上げていくという資本主義の考え方があった。そうしたら、個人の存在を尊重する個人主義と、個人は全体の一部分であるという共産主義を合体させればいい。しかし、大切なことは、それを人間がつくってはいけない、ということ。宇宙や地球の生態系の仕組みをもっと科学して、その構造を知ったうえで、そこで個々の役割を果たしている生命として人間をとらえていく。自然界は個を尊重してネットワークしている。だから、社会もそのような形に持っていければ、資本主義と共産主義の合理性や有益さを合体させて、人類の次の目的を達成することができる。
そこでひとつ気づいてほしいのは、たったひとりの、ある意味で落ちこぼれとも言える40歳のMくんの症状を見ても、そこからは家族が見えるし、社会が見えるし、国家が見えるし、人類の今の状態が見える。そのように、ある問題ごとをホリスティックにとらえると、その病巣が大きなもので、人類に対して訴えかけるメッセージを持っていることがわかる。そういうことを見抜いていく目を、人々はこれから養っていく必要がある。

Q. そのために必要なことは何だろう。

それは、自分を正しく知るということ。必要なものと不必要なものが自分の中に入り混じっているのを整理して、社会や自分に健全なものをもたらすことのできる個人に自らを磨きあげていく、ということ。僕らはそれを「魂磨き」といって、個という我にとらわれない人間性を築き上げる作業をしている。それによって、さまざまな問題が解決されるだけでなく、同じ問題が起きなくなっていくし、まして病気は非常に少なくなってくる。病気も悪いものではなく、前向きにとらえられるものになる。社会の問題事も同じで、人々にネガティブな感情を発生させるものは、ポジティブにとらえることによって学びとなる。そして、それは個人や社会が進化していくことの材料となる。
大事なことは、我々がどういった社会をつくるか、ということの前に、我々はなぜ存在な目的に気づいたら、人間の存在が社会に負をもたらしていくようなことはありえない。 だから、まず自らがなぜ存在しているのか。もうひとつ言えば、自らを包含しているこの世界がなぜ存在しているのかを理解する必要がある。

Q. 共産主義は、人間の意識というのは社会構造によって規定される、と捉えた。

理想の仕組みを作れば、人間はそこにすべて当てはめられる、ということだよね。人間を物のように考えたのだろう。
それについては、対論を言わなくても、今まで共産主義や社会主義がやってきたことの結果が、答えを出している。ひとりひとりがオリジナルな生命であって、心の形もすべて違う。類似するものはいくつかに分類できるけど、個々は独立したオリジナルなものであって、それを尊重したときに自然の生態系のような多様性ある豊かな世界ができる。そのことに、そろそろ気づく必要がある。
制度を先に作りたい人たちは、人間の側から考えた理想や調和、バランスを考えるが、実は、宇宙や地球、生態系という形ですでに完璧な制度が存在する。その中にわれわれが生み出されているわけだから。人々はそのことをよく理解していないし、我々がその仕組みの中で生かされているということを十分に理解して、意識の中に取り入れるということをしていない。しかし、それをやっていく時代がようやく来ようとしている。人間意識から理想を作るという視点から、まずは我々は地球生命の中の一部分として存在しているのだから、地球意識から次の社会を作っていく、という視点に移るときがきている。
これからは、先に社会構造やシステムを変革しようとするのではなくて、個々が目覚める時代。自分が社会を作っている、自分から社会の変革が始まる、という新しい個人主義の時代。それは同時に、自然の仕組みのような個人のネットワーク、新しい共同の時代でもある。

こうして、Mくんの病気からはじまって、人類の抱える壁が見えてきた。人類にとってはたいへん大きな節目を迎えているということで、21世紀はそこを突破して次の社会をにらんでいるという状態。現代は本当に物質的には進化した時代でありながら、人々はたくさんの問題を抱えて、人類だけでなく地球の未来を憂いている。それほどの暗い時代であり、個々にも病気や自殺という現象が蔓延している時代にあって、負が大きければ大きいほど、次の時代には新たな価値観によって光がもたらされる。その夜明け前にいる、ということでもあるから、この世界を大きく、ホリスティックにとらえて、希望をもって歩みたいものです。