個々の思考からこの世界の元の仕組みに沿った生き方へ

人間には個々に思考があり、
その個々の思考から外の世界を観、
判断するようになっている。
その個々の思考から生まれてくる価値観に基づき、
人間は生きている。
それは一つの方向であり、
その視点からだけでこの世界を観ると、
一人一人の人間が独自に存在しているということになる。

それに対してもう一つの方向は、
自分を入れているこの世界という器があり、
器の側から自分とこの世界全てを観るという視点である。
この世界の方から自分を観ていくと、
この世界はずっとはるか彼方に生まれ、
そして今のような形になるために、
新陳代謝を繰り返しながら
ここまで進んできたことが観えてくる。

宇宙の原型が出来て、
銀河が、太陽系が、地球が出来、
そこに私たちの元となる生命が誕生しました。
地球自身も変化しながら、
その変化の中で生命が誕生し、
人間が生まれ、
その歴史の中で私たち一人一人がここにいる。

宇宙の始まりから、
この世界の原料は
新たなものを外から持ってきたのではなく、
ただあり続けるだけである。
つまり、特定のエネルギー、質量が
同じ量だけあり続ける世界で、
ぐるぐるかき回されるようにして
一つ一つが移り変わり、
この世界が変化してきた。
そうすると、私たち一人一人の存在は
この世界の新陳代謝にしかすぎない。

人間以外のものを観ると、
その法則の中で永久にあり続け、
そのことに不満を漏らさない。
人間も、自分の側に立って物を観るという
特別な能力を与えられさえしなければ、
愚痴を言ったり、争ったり、
差別したりはしなかっただろう。
しかし、そういった特殊な能力を得たがために、
人間は自分自身を自らの価値観の中に閉じ込め、
不自由になり苦しむという結果を与えられた。

人間以外の
元の世界からずっとその仕組みのままに存在してきたものには、
今の人間たちのような矛盾はないはずである。
この宇宙の天体の動きにしろ、
地球の中の自然の動きにしろ、
そういった仕組みのままにあり続けている。

自然を観ると自然はひとつらなりの命であり、
そこには不要なものが何一つない。
全てそこにあるべくしてある状態で、
お互いを生かし合うという命のつながり、
命の連鎖である。
それがこの世界の根本にある仕組みである。

この世界の中にあるものをぐるぐるかき混ぜ、
ひとつらなりの渦をつくり、
その中で変化させること。
それが進化である。
常にぐるぐる回っているわけだから、
変化は進化であり、
ある一定のサイクルによって
それが繰り返されている。
そして、人間もその渦の中にある。

しかし、最初に触れたように、
人間には個々の意識である自我があり、
他と自分を区別し観ることが出来る。
他と自分を区別するという能力は、
この世界と自分を区別することも出来る。
この世界と自分を区別出来た時に、
この世界と自分の関わりがわかり、
この世界の中の自分の存在、その意味、
そしてこの世界がなぜ創られたのか
ということがそこから観えてくる。

この世界が創られ、
ずっと変化し進化し続けてきた
その歴史の延長に自分がある。
この世界の原料も法則も全く変わることなく、
ぐるぐる回りながら変化してここまで来た。

この世界の元にある法則のままに、
人間も人間以外のものと同じように
自我を持たずに存在したら、
きっと対立もせず
今のような行き詰まりも
与えられずに存在できただろう。
しかし、それは人間以外の動物の種類が一つ増え、
それを人間と言うだけである。

この世界に人間のような特別なものを降ろされた。
宇宙の創造の過程のなかで
特別に出来た特殊な星、地球。
他にもあるかもしれないと言われているが、
まず同じようなものを発見することは不可能だろう。
この広大な世界の中で
不可能と言われるような可能性の中で、
この星は創られている。
これは意図的としか思えない。

この星は、そのもの自体が生命のつながりで、
命の宝庫、命の巣になっている。
そして、その中には無限なる生命の連鎖がある。
それもまた、他の天体とは全く違う特異な存在である。

この星は、
大気という薄いベールに包まれた
芸術とも言える仕組みによって維持されている。
その生命の宝庫、生命の海の中で、
私たち人間は存在している。
その膨大な数の生命の中でも
特異な存在として人間がいる。
さらに、沢山の人間の中の一人として自分がいる。

今、この一人の人間がこの世界を見て、
この世界を判断し、そこで思考が生まれ、
その思考の元に行動し、
自我というものの元に他と自分を区別している。
あるものはそこで思い悩み、
あるものは争うということをくり返している。

私たちは一体全体何ものなのか。
私たちを創り出したこの世界は、
一つのものから分かれ、
相変わらず一つの宇宙の中で
変化の連鎖、生命の連鎖が続いている。
命と命がバトンタッチしながら変わり続けていく。

しかし人間は、
もともとそういう仕組みの中から生まれてきて、
現在もその中であり続けているのに、
そのことに気づかず、
自我という個に執着し、思い悩み、
争い、対立し存在している。
それが人間の姿である。

では、この人間を特異なものとして悪と観た時に、
今の人間はこの世界の悪なのか。
そうではなく、
それはプロセスとしての一つの進化の過程であり、
そういった状況を生みだすような
何か目的があるのだろう。
この世界が変化し続けていく中で、
それもこの世界を表現するための一つにしかすぎない。

では、そういった場所を与えられた人間は、
何をここで気づいたらいいのか。
どの道この世界は、
特定の決まったエネルギーと質量が
ぐるぐる回ることによって変化し、
それを進化として存在し続けている。
それがまた元へと戻っていくとしたならば、
変化をすることによって
人間の中にある精神が変わっていく、
ということにここでは気づかないといけない。

もともとはひとつらなりであり、
全てが関連し合い、
お互いがお互いを存在させ合っている。
そういった関係性の中でこの世界があり、
全てはつながっている。
つながるということは善意であり、
つながらなければ自分と他が発生し、
つながると他は自分になる。
自分と他という区別が消え、
全て自分になる。

そうやってつながっていくと、
この世界が一つになり、
自分がこの世界そのものであり、
この世界が自分そのものである
ということに気づく。
逆につながらなければ、
自分とこの世界は対比するものとして区別される。

つまり、この世界を観た時に、
捉え方によって
この世界と自分を区別することも出来れば、
全てを一つとして観ることも出来る。
区別して観ることを私たちは悪意と呼び、
そこでは差別や対立が生まれる。
反対に全体を一つとして観れば、
そこには善意があり、
絆が生まれ愛が発生する。

この世界はもともと一つから始まり
ここに至っているのだとしたら、
私たちがこの世界の始めから
未来までの全体像を理解した上で、
自分とこの世界を対比させて観た時に、
この世界が一つであり、
善意であり、
善意から絆が生まれ、
それが愛であり調和であることに
気づくことが出来る。

しかし、全体像を捉えないで
自分とこの世界を見たら、
もともとこの世界から生み出され
維持されている自分が、
この世界と自分を区別していることになる。
そこにはつながりがなくなり、
悪意、差別、対立が生まれる。
しかし、この世界の全体像、
たったそれだけのことを理解するだけで、
この世界は善意であり愛であり調和になる。

元が一つのところから
この世界が出来ているのだから、
わざわざそれを切り離すということは
悪意の行為である。
悪意だから問題事が発生する。
しかし、全てが一つであるというだけでは、
こちらと向こうという区別がなくなり、
全てが自分であることを観ることが出来ない。
つまり、こちらと向こうと区別していった時に、
元が一つであり
全てが自分であるということが観えてくる。

そうすると、
わざわざ悪意や差別、対立をつくり、
この世界の奥にある元が
一つだということを理解させようとした
意図が働いていることが観えてくる。
それがこの世界をつくっているものの意志。
それを神としたならば、神。
それを法則としたならば、法則。
それを仕組みとしたならば、仕組み。

色々なものがあってこの世界が構成され、
その一つ一つの存在は認められる。
全てはこの世界の一部にしかすぎない。
だから、そこで対立する必要もなければ、
差別する必要もない。

5月に行われる「エコビレッジ国際会議」で、
自分は一体全体何を伝えたいのだろうと思った時に、
一番の根本的なところを伝えたいという想いがあった。
エコビレッジのエコにはつながる、命という意味がある。
だから、エコビレッジというのは、
つながる村、命の村。
私たちを生かしている自然や宇宙の
仕組みに基づいて生きている暮らしが、
エコビレッジである。

そうしたら、
私たちはこの世界に生み出されたものとして、
そろそろ自分の側から自分を観るという時代から、
この世界の側から自分を観て生きることを
選択する時代が来ているだと思う。

だから、何も特定の場所に
エコビレッジという場所をつくらなくてもいい。
私たちは地球という命の星に生み出され、
その一部分としてこの一つの家、
一つの村に暮らしている。

そのことに気づいたら、
地球がエコビレッジであり、
それこそが神がこの世界をつくって
私たちを降ろした目的なのではないか。
そういった意識のもとに生きていけば、
他と自分を区別せず、
全てのものとつながり、
全てのものが自分自身であることに気づく。
そうしたら、今の沢山の問題はたちどころに消え、
差別のない平等な世界が訪れる。

その元の仕組みに皆が気づけば、
自分だけが何かを抱え、
その抱えたものによって自分が縛られ、
さらにもっと不自由になって
抱え続けないといけないようなことはやめるだろうし、
自分の願いが叶わないからといって、
卑屈になり、心貧しく生きることもない。
皆一人一人が尊厳を持ち、
平等で対等な世界を生きていける。

そういう世界をつくるのが、
エコビレッジの目的だと思う。
私たちが新たに誰かと共に暮らそうとした時に
その暮らしが理想のように進まないのは、
他の誰のせいでもない、
自分の心の中にある区別や差別が原因である。
この世界が一つであるということを
まだ十分に理解出来ていない
自分たちの心を見直す必要がある。

そういったことに気づき、
私たちは学ぶために、
今身近な人たちとつながり
エコビレッジとして
生活を始めていくことが大切である。
そういう生活の仕方を学んでいくために、
また人類がそのように進化していくために、
私たちはこの運動を進めていかないといけない
ということを国際会議で伝えたいと思っています。


木の花と社会の架け橋として

今回のブログでは、
9年間のうつ病を克服するため
11月3日から2月8日までケア滞在をしていた
「きっこさん」とのインタビューを皆さんともシェアしたいと思います。

ようこ:
3ヶ月のケア滞在を振り返ってみていかがでしたか?

きっこさん:
ここは自分が願えば叶ってしまう
ミラクルなところだと思っています。
例えば、自分の想っていることが
そのままいさどんの口から出てきて、
まるで自分の頭の中を読みとられているような不思議な体験をしたり、
『ここではシュークリームは絶対食べられないんだ』となぜか思った時に、
4時のおやつになんとシュークリームが出てきたり
というようなことがよく起こるのです。
でも、その願いというのは
知的なレベルで「何かをしたい」とお願いするようなものではなく、
そういったレベルを越えた想いが
そのまま実現するように感じています。

私はここに来る前10年以上薬を飲んでいましたが、
ここに来た翌日には
自然に体から薬が離れていきました。
自分の意志で断薬したという感じではなかったですね。
1週間くらい眠れない日々が続いたにもかかわらず、
眠れなくてもかまわないんじゃないか、
必ず眠れる時が来るのだからと思えたのは、
ここの場の力だと思っています。

ようこ:
きっこさんは順調にケア滞在を過ごしていき、
そのまま薬を一切飲むこともなく、
規則正しい生活リズムを取り戻していきましたね。

そしてここの生活にも慣れてきた頃、
自分の中に根深く残っていた
今までの職場の人間関係やご家族に対する
ネガティブな感情をメンバーとシェアし、
手放すことによって、
きっこさんの心も安定してくるようになりました。

その頃、もともと言語病理学(言語障害学)の研究者であり、
言語聴覚士と臨床心理士の資格を持っていたきっこさんに、
「臨床の仕事を再開したい」という想いが
湧き上がってきたと話してくれました。

きっこさん:
「ここで与えられる仕事は全て自分のリハビリになる」と思って、
就職に向けて前向きに心身を整えていきました。
そうしたら、2月には
臨床のお仕事の話が舞い込んできました。

ようこ:
心身ともに健全になったきっこさんは、
2月8日にはケアを卒業し、
今後は一般の生活体験に切り替えてここで生活することを決めましたね。

きっこさん:
4月からは週2日東京で働き、
残りの5日間は木の花で暮らすという生活をスタートさせる予定です。

ようこ:
このケア滞在を今後のお仕事にどう活かしていきたいですか?

きっこさん:
3ヶ月間のケア滞在で、
大きく2つのことを学んだと思っています。
まず1つ目は、精神性、魂の領域なくして、
自閉や重度の知的障害のような、
ある意味で治ることのできない
脳障害を持った人たちを救うことはできない
という確信を持つことができたことです。
以前からそういったことは
大切なこととして捉えていましたが、
それはここで言う精神性と比べると
非常に浅いものだったと感じています。

今までは重い障害児を見ていると、
辛くなって胸が痛くなり
こちらが先に絶望してしまって、
無力感で自分を責めてしまうことがありました。
また、自分の専門が活かされないという
ジレンマもありました。

今思うのは、
自分の持っている知識や科学的なものは、
もちろん勉強することによって
磨いていくことはできるけれども、
そこには限界があるということ。
やはり魂の領域の問題だというスタンスを持たない限り、
私は彼らに何もできないし、
親御さんを支えることはできないということに気づきました。

それを全面に出すことはしないけれど、
私自身自分を責めず、
そういう心で接していくことによって
親御さんが変わっていくことはできるんじゃないか。
そういう支えになら私はなれるんじゃないか、
と思うようになりました。

私の兄弟たちは
「重い障害のある子たちと関わったら、
またうつ病になるわよ」と心配していますし、
きっと、以前の私なら
同じことの繰り返しだろうと私も感じています。

でも、魂というものを
心の奥で実感している今の私なら、
親御さんがどんなに錯乱しようが、
私は混乱せずに必要なことを伝えることができる、
という確信をここで持つことができました。
ただ、私も強い人間ではありませんし、
心がだんだん擦り減っていくこともあると思うんですよね。
だから、木の花とのつながりは
ずっと持っていたいと思っています。

もうひとつ、精神性以外に私がここで学んだことは、
その精神性を支えている日々の体験の大切さです。
黙々とみんながやっている
毎日の金品に捉われない単純な作業が、
人間をどれくらい救っているか
ということを実感しました。
だから、東京で働くようになっても、
まず自分はトイレの掃除をして
部屋を拭いてまわるところから始めようと思っています。
偉そうな顔をして、
「はい、診断してあげます」というスタンスは絶対取らず、
そういうところから自分のスタイルを
しっかりつくっていこうと思っています。
そのことを仕事先の方にも伝えたら、
すごく喜んでくださいました。

この臨床のお仕事はお金のためではなく、
自分が木の花と社会の懸け橋になるために
するのではないかと思っています。
かつての物が見えなかった自分のような人が
世の中には沢山いるわけですよ。
自分はここにいることによって
自分を高められるかもしれない。
でも、世の中には以前の自分のように
苦しんでいる人が沢山いると思うんです。

だったら、自分だけがきれいになるのではなくて、
自分がその苦しさを味わってきたからこそ、
そういった人たちとの懸け橋になれればと思っています。
本当にそういうことが出来るのかは別にして。
そうすると、自分が一番必要とされていることが
見えてくるような気がしています。

ようこ:
もう1つ、きっこさんの中に湧いてきたのは、
「ここで色々なことを教えていただいた感謝の気持ちから、
本を出したい」という想いでしたね。

きっこさん:
幼児を含めたここの人たちの素晴らしさを
素朴に描いてみたい、と思っていたところ、
実はいさどんも
『本を誰か書いてくれないかな。
きっこさんしかいないかな』と
思っていたのだと話してくれました。
以前自分が何冊か本を出したことのある出版社に
企画書を提出したところ、
非常に前向きなお返事をいただきました。
これから色々な人のお力が
必要になってくると思いますので、
皆さんよろしくお願いします。

ケア卒業から一般の生活体験に切り替えた時に、
呼び名も「きっこさん」から「エリー」に変え、
社会復帰に向け順調に日々を送っています。
そんなエリーに、ケアの「主治医」である
いさどんはこう語りました。

いさどん:
エリーは、ここの生活や存在を世の中に伝えるために、
神様より私たちのもとに派遣された方だと思っています。
エリーと話をしたのは、
エリーがこういった職業にいること、
そこで病気になったこと、
良いことも悪いこともあったけれど、
そのどちらもここで私たちとつながるために
あったことだと思うと、
そのどちらも大切でありがたいことだと確認をしました。

エリーの高い能力が社会の中で活かされ、
エリーがさらに生き生きと輝けるよう、
みんなで応援しています。

幼児たちにピアノを教えるエリー
幼児たちにピアノを教えるエリー

約束の場所へ

うつ的な心の改善のため、
2月16日からケア滞在をしている
21歳のみずほちゃんは、
積極的に大人会議で
自分の心の報告をしています。
今回のブログでは、
最近のみずほちゃんの
大人会議での報告を
皆さんともシェアしたいと思います。

昨日の大人会議では、
自己主張をくり返してしまって
いさどんさんに注意されたので、
今日は自分がどれくらい
自己主張をしているのか見つめていました。

そうしたら、言おうとすることのほとんどが
自己主張や自分アピールで、
話せることがなくなってしまいました。

お昼はそのことで気分が暗くなり、
のんちゃんに「感情が動いてないみたいに見えるよ」
と言われたりしました。
それでストレスが溜まったのか、
お昼休みに無性にチョコが食べたくなり、
コンビニに行こうとしました。

そうしたら、シーツを持ったまり姉に会って、
「ちょっとシーツを運んでくれる?」と言われました。
時間がなかったので、
「今コンビニに行こうと思ってて」と言うと、
「えっ、コンビニに行くの?!」と驚かれました。
私も驚きました。
「コンビニなんていつでも行っていいんだよ」
と言われたと思っていたので、
とても軽い気持ちでいたんです。

「行ってもいいけど、行かん方がいいと思うでー。
おやつやってあるんやし。
チョコ食べたいってどんな気持ちから来てるん?」

「いやぁ、チョコを食べたいって気持ちで。。。
我慢してもストレス溜まるのかなと思うし。。。」

「それやって先のことを決めてんねやろ?」

「んーー。。。」

「じゃあ、私がいなかったら、黙って行ってたん?」

「はい」というやりとりがいくつかあって、

「別に行くなと言っているんじゃないんやで。
行きたかったら行ってき」と言われて、

「はい。。。じゃあ行ってきます」
という感じでコンビニに向かいました。

向かう途中で、
話が違うよーという反発の気持ちや、
めんどくさいなぁという気持ち、
そんなに気軽にコンビニに行けないんだと残念に思う気持ち、
これって恥ずかしいことなんかなぁという気持ちが出てきました。

そうしたら、車に乗ったクララとスズケンに
「本宅に行くなら送ってくよー」と声をかけられ、
「コンビニ行くだけなんで大丈夫です」
と言うはめになってしまい、
あーあと思いました。

コンビニに着くと、
もうなかなか来れないだろうし、
とまとめ買いをもくろむ私が出ましたが、
これが私の不安ぐせなんだなぁと思いなおし、
ガーナチョコを一箱買って帰ってきました。
それで部屋で2つ食べてみたんですが、
なんだか美味しくないし、
落ち着きません。

それでお風呂でようこちゃんに話してみました。
そこで教えてもらったのが、
また人の話を自分に都合の良い風にとる
くせが出ているねということ。
「1日3000円の滞在費をかけてここにいるのに、
チョコレートに逃げていたら
お金を貸してくれたご両親や彼の了さんも悲しむよ、
60人みんなが応援しているからね」と言われ、
これを機に変わろうと思い、
ようこちゃんにチョコレートとお金を預かってもらうことにしました。

それでいくぶんスッキリしたんですが、
今度はそのことを大人会議で話すのが怖くなりました。
でも、それをキャサリンとゆみちゃんに話していて、
私の強い自己主張の元には
人から愛されたい気持ちがあることに気づいたのです。
人から認められたりほめられたりしないと愛されない、
と思いこんでいたのです。

ほめられたいだなんてエゴだ、
と頭ではわかっているのに、
心では認められないと安心せず、
ほめられないことが明るみに出るのをとても怖がっていました。

そして父のことを思い出しました。
仕事から帰ってきたら
成績が良いと時々ほめてくれて、
家で居場所が無かった私には
それがとても楽しみで、良い子を演じてきたこと。
それから、勉強のできない弟には冷たい父のこと、
高校で落ちこぼれて父からそっけなくされたこと、
弟につきっきりの母が
私が寝込んだ時だけ猫かわいがりしてくれたことなど、
色々なことを思い出しました。

私は16歳から19歳までうつ病だったんですが、
母にかまってほしくて
自分からうつ病になっていったんだろうし、
治るのを遅らせたのも自分だったんだと思います。

自分に甘くしていって
自分をダメにして同情されたい、
という意識が私には根強くあり、
それが自分に都合の良い風に話を受け取る
今のくせにつながっているのかなぁと思いました。

明日からは人に好かれようとするんじゃなくて、
愛されていると信じて
人を愛していこうと思いました。

みずほちゃんが今の気持ちを
明るく正直に報告してくれた後、
みんなからは暖かい拍手が湧き上がりました。
ちょっと恥ずかしそうなみずほちゃんに、
みんなからは、「素晴らしいね」
「勝手に良くなっていく見本のような事例だね」
「感動しました!」「いい報告だったね」
と沢山のコメントが続きました。

ケアの「主治医」であるいさどんが、
「ここがどんどん『約束の場所』になってきたなと感じます。
こういったことをみんなで共有するいい時間は、
そうそうできることではないよね」と発言すると、
みかちゃんが「では、歌います!」と
『美しいいのち』を歌い出しました。

♪美しいいのち♪

野に咲く花々 何て美しい
けれど その上を嵐が通ることもある
来る日も来る日も 雨に打たれて
風に吹かれて それでも生きている
いつしか 嵐も終わりを告げて
何もなかったかのように 青空が広がる

空を見上げれば 太陽に向かって
二羽の鳥たちが はばたいてゆく
まるで 私の心 解き放つように
自由に弧を描き そして燃えて消えた

美しいいのち 美しいいのち
いつか約束した地へと 私も歩き出す
野に咲く花のように 空飛ぶ鳥のように
過ぎゆく嵐のように 私も生きている

美しいいのち 美しいいのち
やがて この星全てが輝き出し
美しいいのち 美しいいのち
やがて 全てのいのちが響き合うだろう


月や星、太陽に話しかけたらPARTⅡ

先日の大人会議では、
月や星、太陽に語りかけたら」のブログを
みんなでシェアしました。
今回はその時の様子を紹介します。

なかのん:
僕がまだここのメンバーになる前に
ゲストで来ていた頃、
いさどんが僕にこんな話をしてくれました。
それは「実現しないことに感謝する」という話です。
願いが叶うと、願い通りの狭い世界に入り、
どんどん狭くなっていってしまう。
でも、願いが叶わないことによって、
自分の願い通りではなく、
与えられたことに眼が向いていく
ということを話してくれたんですよね。
このブログを読んで、
そんなことを思い出していました。

あと、自分に湧き出る想いや感情というのは、
始めは全て神様から与えられたものなんだな
と最近思っています。
そこに自分のこだわりや捉われが加わっていくと、
自分だけの考えになっていってしまうのだと考えています。
始めの神聖なものだけ
持っていられたらいいのかなと思ったりもします。

たっちゃん:
「自分で考えると狭い世界に
自分を閉じ込めてしまいます」というのは、
まさにそうだなと思います。
とかく自分で考えてしまうなと思っています。
だからこそ限界があるなと思っているんですけれど、
僕自身もっと大きなものに委ねていくということを意識して、
かつ考えることは徹底的に考えていく。
使えるものは使って、委ねていく。
そういうことをやっていこうかなと
このブログを読んで思いました。

いさどん:
最近ここを訪れる人の中に、
「ここを科学的に分析して
みんなにわかるようにしないといけない。
そうしないと世の中に伝わらない」
とおっしゃる人もいるのですが、
僕は相変わらず神様の話ばかりしている(笑)

昨日ここを訪れた人の中にも、
「神様って聞くだけでだめなんです。
光って言ったらなおさらですよ」
と言っていた人もいました。
しかし、私たちは納得いかないところで
生かされているんです。
どんなに自分が納得したいと思っても、
実はわけがわからない世界に生かされている。

そして、わけがわかった時には、
もう言葉では表現できないような世界にいるってことです。
これは先の先の話なんです。
だから、どんなに伝わらないと言われても、
やはりこれは語り続けないといけないなと思っています。

こちらからは神様を通して観ていて、
向こうからは科学的分析で観ているだけのことであって、
その真ん中には真実があるのだから。

みかちゃん:
私たちがこういった精神性を
世間に向けて発信し始めたのは
つい最近のことで、
ちょっと前までここは「木の花農園」だったんだよね。
ここは農園です、あやしい所ではありませんって
世間にとってわかりやすい形でやってきた。
それが今や、
ブログでこういった話をどんどん発信していく時代になってきた。

でこちゃん:
「自分で考えるのをやめにしました」という所がいいね。
私もこれ以上世界を狭くしたくないので、
自分で考えるのをやめにします(笑)

みかちゃん:
歌います!
皆がコンサートで毎回聞いている歌です。

♪むかし むかし♪

むかし むかし 人と自然に 
境はなくて 友として支え合っていた
むかし むかし 人とけものに 
境はなくて 友として尊敬し合っていた

いつの頃からか 私たちが
心通わなくなってしまったのは
いのちを小さな小さな箱に
閉じ込めてしまったのは

私は確かに 空であり 星であり 月であり
太陽であり 雲であり 雨であり 土であり
木々であり けものであったのに

いのち脈々と 空と地を自由に
かけめぐってた かつての日々へ
私たちは 又還ってゆく
心で全ての いのちたちと自由に
話していた かつての日々へ
私たちは 又 還ってゆく

カトケン(2ヶ月の農業体験滞在中):
いさどんのブログとみかちゃんの歌で
この場がすごくいい空間になったなと感じました。
僕も、「自分の考えを置いて
出会うことを優先にして生きようとした時に、
この自由な世界と広い世界が観えてきました」
という文章に本当に共感できるなと思いました。

僕はここに来る前から
学校の先生になりたいという
目標を持っていたんですけれど、
やっぱりそういう目標や自分のやりたいことを持っていると、
どんなにエネルギーをかけても
なかなか思うように進んでいけなくなるという感覚がありました。

でも、木の花ファミリーに来てからは、
カーリングのストーンのように
少ないエネルギーで良い方向に進んでいき、
さらにそれを手伝ってくれる人たちが沢山いる。
今まで体験したことがないくらい自分が軽くて、
どんどん良い方向に進んでいくのを感じています。

いさどん:
やはり、こういった文章を裏付る
ここの生活があるからこそ、
人の心に響くものがあるんだろうな
ということを改めて思いました。


牛にまたがってまで

最近はファミリーを訪れる多くの方が、
プレゼンテーションを希望されています。
プレゼンテーションでは、
創立者であるいさどんがファミリーの歴史、
農業から精神性までの全体像を訪れた方に伝えます。
昨日は4時間もの内容の濃いプレゼンテーションが行われ、
ゲストのお一人は以下のような感想を終了後にシェアして下さいました。

ゲスト:
お話を聞きまして、
大体、理屈ではなく感覚で理解できるような内容でありました。
その中で木の花ファミリーはベジタリアン
ということが言われていたのですが、
私はやっぱり肉が好きだと思っているんですよね。

だけど、私が本当においしいと思っている肉を食べるのに、
自分で牛にまたがって屠殺して、
その血を抜いて解体し自分のところへ持ってきて、
本当に食べられるのかと自分に問うた時に、
「私にはできないな」と思いました。
もしそうしなければ肉が食べられないのだったら、
私は肉を食べなくてもいいなと思ったんです。

今日もプレゼンテーションの前に
見学に行かせていただいたのですが、
その時に鶏舎で鶏を撫でたんですよね。
あれを殺して食べてもいいよと言われても、
自分は殺せないですよ。

だから、私はベジタリアンではないのですが、
いのちを殺していただくというのはできないなと思いました。
それに、ここであんなにおいしいお食事をいただけるのなら
あれで満足だなと思ったんです。

今日はベジタリアンであるということが
非常にリアリティを持って感じられました。
色々と気づきをいただきまして、
本当にありがとうございました。

いさどん:
素晴らしい!
「いのちの食べ方」という映画があるのですが、
いのちがまだ生きていこうとしている途中で殺されると、
その無念が肉に移ってしまうのです。

さらに肉だけではなく、
その無念が昇天できずにこの世界に漂い、
実は霊的にこの星を見ると、
この星は青い星ではなく、
暗いグレーの星になっていると言われています。
そういった魂が
この星に暗い影を落としているという見方もあります。

さあ、皆さんは今夜何を食べますか?