じゅんこさんの変革 ~ 9日間の滞在を終えて

この年末、お料理を学ぶことと
鬱的な心を改善したいという目的で、
9日間ファミリーに滞在していたじゅんこさん。
滞在最終日の夜の大人会議で、
9日間の感想を皆にシェアしてくれました。

じゅんこさん:

わずか9日間でしたが、
感謝の気持ちでいっぱいです。
ここに来るちょうど1年前の12月、
私はもっと鬱でした。
死んでしまおうと本気で考えていました。
その時に、私は大変高額なお金を払って、
「心を学ぶ」というある施設で、
12月に1週間、
1月、2月、3月に2泊3日ずつ滞在しました。
そこに行く前に
その先生の本をいろいろと読み、
やはりその先生も玄米菜食を推奨していたので、
これは信じられるなと思って行きました。

そこでは、講義が沢山ありました。
ありがたいお話があったんですけれども、
「あれ、言っていること、本で書いてあることと
やっていることが違うんじゃない」ということが、
非常に沢山あったんです。
結果として私は、失望してしまいました。

そのあと、心が苦しくて苦しくてたまらなくなり、
もう1回、8月くらいに別のところに参加しました。
そこも素晴らしいなと思って行ったんですけれど、
言っていることとやっていることが
ちょっと違うということを感じました。

私は鬱で非常にネガティブになっているのに、
結局は、私のネガティブな心を受け取ってくれない。
いろいろなことを言っていても、
結局ポジティブな考え方の人しか
相手にしないようなところだったんです。

落ち込んだ気持ちを引きずって1年経ち、また12月。
どうしても心が収まらず、夫に怒鳴り散らし、
もうたまらなくなって医者にも行ったのだけれど、
医者はもともと嫌いなので薬を飲むつもりもなくて。

そして、また私はいろいろ探したんです。
日本全国いろいろなところに電話をして話をしました。
でも、納得できるところがなかったんです。

そんな時、
「そういえば1年前、
1回目の高額なお金を払ったところで、
木の花ファミリーという、
よくわからないのだけれども
皆で生活をしている
素晴らしいコミュニティがあるって聞いたことを
ふと思い出して、ホームページを見てみたんです。
そうしたら、
ホームページに自然療法というのがあって、
「もうこれしかない」と思って
電話をかけました。
本当にすがるような想いでここに来ました。
だから、私は木の花ファミリーについて
全然知らなかったんです。

最初のいさどんとの面接で、
いさどんに何度も言われたことは、
私にはネガティブなところがある。
私の考え方には癖があるということでした。
今まで2回高いお金を出して失敗した経緯もあったので、
ここを信じていいいのか、
またここも同じなんじゃないか、
ここでもだめならどうしようと、
不安で不安で仕方がありませんでした。

面接のあと、
いさどんから「読んでみるといいよ」と
ブログのコピーをいただき、
早速読んでみたら、
私の中にすとんと落ちるものがありました。
まさに私のことだ、と思いながら読みました。

それから皆さんと一緒に生活していたら、
何も講座があるわけでもないのに、
固くきゅっと縮こまっていた私の心が、
一日一日、何があるわけでもないのだけれど、
開いていったんです。

私は最初、
人が怖いと皆さんに申し上げたんですけれど、
それはここでも実際に同じでした。
正直に言うと、
一番最初に怖いなと思ったのは、
メンバーのゆみちゃんでした。
厨房で皆笑いかけてくれるのだけれど、
ゆみちゃんはコツコツやっていて、
「やはり料理のできない私が厨房なんかに入って、
この人には迷惑なのかな」と思っていたんです。

同室のまりちゃんに、
まりちゃんは私のケアの担当だと伺っていたので、
「実は、ゆみちゃんがね」と相談してみたんです。
そうしたら、まりちゃんは、
「じゅんこさん、それは違うよ。
あなたには癖がある。
あなたの観方がそうだからそう思うのであって、
皆があなたと同じようにひとに接するわけではないよ」
といろいろ話をしてくれたんです。

それで、きっと神様が与えてくれたのか、
まりちゃんに相談した次の日に、
たまたまゆみちゃんとお風呂が一緒になったんです。
最初、私は「どうしようかな」と思ったんですけれど、
ゆみちゃんが、「実はね」って、
どうしてゆみちゃんがここに来たのかを
話してくれたんです。

別にゆみちゃんは
私に対して悪い感情なんか何も持っていなくて、
あっけらかんと話してくれていた。
「そうか、これが私の癖なのか。
ゆみちゃんは私を嫌っているわけでも何でもないのに、
私が勝手にゆみちゃんの表情を見てそう思いこんでいる。
これが癖なんだな」ということがわかりました。

皆さんは、
食事の後の片付けも皆で率先してやっている。
厨房に入っていっても、
皆、何をどう指図するわけでもないのだけれど、
何か楽しく、
「ありがとう」と自然に声を掛け合っている。
本当に私にとって生まれて初めての調和、
「ひとと調和して心地いいというのは、
こういうことなんだな」というのを、
心と体で実感した9日間でした。

あんべちゃん
(注:11月11日からケア滞在中。
詳しくは木の花ファミリーブログをご参照ください。
外食産業で長いキャリアを積んできた彼は、
じゅんこさんのお料理の先生を自ら買ってでてくれました)は、
私にとって都合のいい人としていたわけなんですけれど、
厨房の方、厨房以外の方も
絶対にあんべちゃんから料理の技を学びたいんじゃないかなと。
私だったらそう思うよなって思っていました。
毎日毎日私は、
実は厨房の皆さんに悪いな悪いなと思いながら、
あんべちゃんにお料理を教わっていました。

でも、厨房の皆さんが、
「じゅんこさん、これができてよかったね」って
いつも声をかけてくれていました。
私は本当に今恥ずかしいし、
稚拙な表現しかできないんですけれど、
そうやってひとのことを喜んでくれるんだというのが、
すごく嬉しくなりました。

また、私がここに来て2日目にまさちゃん
(注:ファミリーメンバーになりたいと
お試し滞在をしていましたが、
4日目にここを離れました)のことがあって、
それも大きな発見でした。
まさちゃんは、
まさにちょっと前の自分を見ているような感じでした。

そして昨日のさのっち。
「メンバーでいるか迷っている」と言うさのっちに
皆があんなにいろいろ伝えていたのに、
今日さのっちが、
「改めてメンバーとしてやっていきたいと思いますので、
皆よろしくお願いします」と言ったら、
そのさのっちを皆が拍手で受け止めた。
今までの私の考えだと、
「人ってこうだ」っていう先入観を持ったら、
なかなかそれを変えられなかった。
だから、人が怖いなと思っていたんですけれど、
たった一日でさのっちが変わって、
皆さんもそれを素直に受け止めて拍手をした。
その心に非常に感動しました。

わずか9日間ですが、
あいちゃんもはるちゃんもやすえどんも、
皆みんな、「実は私もこうだったんだよ」と、
私の近くにいた人たちが話をしてくれて、
私とあまり関わりがなかった人たちも話をしてくれて。
本当に幸せに包まれて、
「優しさってこういういいものなんだな」って思いました。

講座を受けたわけでもないのに、
こういう心地よさなんだな、
これをひとに返していけばいいんだな、
っていうことがわかった9日間でした。
キャサリンもいつも英語で話しかけてくれてありがとう(笑)

私はこれから俗世間に帰ります(笑)。
そこでは皆がこんなに優しく、
前向きな気持ちを持っているわけではないです。
私が住んでいるところは、
3時半くらいになったら暗くなって、
4時になったら真っ暗です。
雪もすごく降り積もっているところで、
私はひとりぼっちです。
そこにいったん帰ります。

そこで私の気持ちがどうなるか、
まだわからない。
でも、暖かい炎が私の胸に灯りました。
それと、ちょこっとだけ料理の基礎を学びました。
あったかい味噌汁を今日は習いましたし、
夫にちょっとずつ作ってあげたりして、
少しずつやっていきたいと思います。

46年間、私はこの癖を持って生きてきました。
まさか9日間でこの癖が治るとは、
そんなに調子よくいかないんじゃないかなとも思うので、
また学びに来たいと思っています。
私は信じられる木の花に巡りあえた。
これからも、どうぞよろしくお願い致します。
本当に今回は短い時間でしたけれども、
ありがとうございました。

(皆の心からの暖かい拍手がじゅんこさんを包みました)

ちなっぴー(キャサリン):

You make me happy!!

じゅんこさんが変わっていく姿を見て、
私たちはありがたいなと思うし、
勲章をもらった、宝をもらったなというふうに思いました。
ありがとう!

じゅんこさん:

こっちもありがとう!
みんな、すごい!みんながすごい!

いさどん:

これからここがやっていこうとすることに、
また確信が持てた。
じゅんこさんの場合は、
最初の面接の段階でいきなり癖が出てきた。
でも面接の中で解決したからね。
今日の発表も聞きながら、
笑顔が本物になったなと思ってね。
今までいろいろあっただろうけど、
悪いことじゃなかったね。

じゅんこさん:

はい!全部必要だった。

いさどん:

ぜひ、高い料金ではなくて
安い料金で心を治すところをつくりたいな(笑)
ここでは、講義をするわけではないし、
一緒に生活するだけだよね。
私たちは一緒に生活して、作業しながら、
おしゃべりをして、よくなっていくんだから、
こんな簡単なことはないよね。

じゅんこさん:

理屈ではないんです。
すごいことをいくら言われたって、
そんなのは机上の空論。
そうじゃなくて、やはり経験している人。
実践している人の姿が一番大きい。
それが一番納得できました。

私は心の中では、
今まで決して幸せではなかった。
でも、この9日間で今、すごく幸せなんです。
だから、今の私の笑顔は本物。
今までは、職業柄、
ひとに不機嫌な顔を向けるのは礼儀じゃないな、
と思ってやっていました。
でも自分はハッピーではない、
だから作り笑いだったんだ。

今は幸せだから、
自分の笑顔が本物になったんだということがわかりました。
人と接してこなかったから、
そう指摘してくれる人との出会いもなかった。
だから、心が暖かくなることもなかった。

皆さんの貴重なお時間ありがとうございました。
ご清聴ありがとうございました。

ファミリーに来たばかりのときは
人が怖いと緊張していたじゅんこさんですが、
昨夜の大人会議では、持ち前のユーモアで
皆の笑いをとるまでに明るい心を取り戻しました。
翌朝、皆に見送られる中、
晴れやかな笑顔でここを出発していったじゅんこさん。
本当に短期間で
ここまでひとの心は変われるということを、
身を持って実証してくれました。

さあ、「変革の年」がスタートしました。
じゅんこさんの変革に、皆で続いていきましょう!


個性と多様性が同時に成り立つ世界

音楽は、個性的な楽器が
それぞれのパートで楽譜に沿って、
別々の表現をしながら、
束ねられることによって
ハーモニーを奏でていく。

道具の機能を果たすためにも、
いろいろなパーツが個性的に役割を果たしながら、
それがひとつながりになることによって、
ひとつ大きな「道具」という機能を果たしていく。
この世界の仕組みは、
どこを区切っても、そういうものである。

人間の社会でも、
一人一人は個性的でありながら、
他のものとつながり、
全体の中で
しっかりと役割を果たしていくことによって、
もうひとつ大きな世界が営なまれていく。

個人の表現であると同時に、
もうひとつ大きなものの表現である。
そうやって徐々に大きくなっていき、
この世界全体になっていく仕組みである。

自然はまさしくその状態で、
それぞれがしっかりと自分の役割を果たしながら、
全体を創っていく。
これは、万物に共通して言えることである。

個々の意識と肉体で独立している人間たちが、
ばらばらでいることによって、
環境破壊や対立を生んでいる。
それは人間の特徴であり、
能力の高さの表われではあるが、
使い方を間違えると
この世界の成り立ちから外れてしまう。
だから、今、
それが修正されようとしている。

今までの木の花の役割は、
自然のように存在すること。
心の調和が音楽のように奏でられること。
心の調和の場として成り立ち、
役に立つこと。
心の調和の絵として完成し、
人々に観賞してもらうこと。

その絵や音楽は
いつも同じ形をしているのではなく、
その音楽に新たに音を加え、
より高度なものになったり、
絵に新たに登場人物を加えることによって、
より充実していく。

それがわかっていないと、
自分の個を重要視するがあまり、
不調和な行動をするようになってしまう。
誰もがそういった仕組みの中にいるわけだから、
木の花の中どころか、
社会でも通用しない。

ことは単純で、
わかりやすい仕組みである。

万物がその仕組みで成り立っている。
素粒子、原子レベルから銀河に至るまで、
自分を主張する単位ごとに個性的に連なっている。
どんなに大きなものも、
どんなに小さなものも、
個性的であると同時に、
ひと連なりである。
これは絶対法則である。
たったそれだけのこと。
何も難しい話ではない。

しかし、現実にこの地球上で、
そのことを理解して生きている人間が
どれほどいるのだろうか。
人間以外の自然は、
皆、その法則の中であり続ける。
人間はすごく高度な生き物なのに、
そのカラクリを理解せず、
自己主張を目的としてしまっている。

ひとつ大きな枠の目的、
さらにもっと大きな枠、
というところに意識を持っていけば、
そこには自分があり、
同時に自分がなくなる。
その意識がないばかりに不安が生まれ、
対立が生まれてくる。

それをここでは修正したり、
伝えたりしている。
それを強制されていると感じる人もいる。
確かに、
人間は個性的で能力が高いから、
その人が自分の意思で気づいていくことは大事である。
その人その人の歩みを与えられているから、
それを大事にすることはもちろん大切である。

しかし、
もうひとつ大きな枠の中に自分がいて、
役割を果たそうとする時にそんなことを言っていたら、
もうひとつ大きな目的が達成されなくなってしまう。
もうひとつ大きな個、
全体の目的を達成していくためには、
自己主張で不調和を生むようなことでは成っていかない。

社会に当てはめてみても同じことで、
本当に必要とされる自分がそこにいないと、
不必要になってはじき飛ばされてしまう。
同じことがどこでも成立しているのに、
人間はそれをわからず、
個だけを主張し、
不調和や対立の種を心の中に保っている。
何とも奇妙な生き物である。

ここ数日、
深夜に「スターウォーズ」の映画を観ている。
そこで思ったのは、
人間が宇宙へ進出していったら、
また宇宙で戦争をしかねない。
宇宙に人間以外の生命がいたら、
今の延長に同じことをやりかねないだろうと思った。

スターウォーズでは、
地球上での国家の対立と同じように、
聖なるグループと邪悪なグループが対立する。
おかしなことである。
対立に聖なるも邪悪もないのである。
どちらも己の側の正義をかざして対立する。
そういう構図である。

そういったことを理解し、
人間が地上に理想郷を創ったとして、
その先の目的は何かといったらよくわからない。
きっとこの世界を動かしている神が、
知っておられるだろう。
その心が大切である。
わかるかな!

とりあえず今は、
そろそろ人間が
自分というものの存在が何ものであるのか、
を知ること。
個から湧き出してくる欲望を超え、
自分の想いからくる行いが
自分に何をもたらしているのか、
この世界に何をもたらしているのかを知り、
もうひとつ大きな目的に気づいて
生きていく時代に来ている。
それが、地球意識や宇宙意識なのである。

人間たちが対立した結果起きている、
病気も戦争も環境破壊も、
実は人間をどこかへ導こうとしている現象である。
人間たちも含めた地球世界が、
次のビジョンへ行こうとしている
意思の表われだとも言える。

問題事もその意思の表われである。
地球の次の在り方へ行こうとするものと、
それに対して抵抗するもの、
そして模様眺めしているものとが、
今、この世界にいる。
一人一人が自分はどの位置にいるのか、
知ることが大切である。

次のビジョンへ行くことはいとも容易いことで、
価値観が変わりさえすれば、
たちどころにできることである。
しかし、古い価値観に執着しているがために、
なかなかできない。
それだけ人間の能力が高いから、
執着することさえ強くできるのである。
他の生き物なら、草でも動物でも、
環境が合わなければあっという間に死を迎え、
潔く新たなものに変化していく。

今、地球の意思が次の次元に移行しようとして、
大きな変化がもたらされている。
地球の意思がその方向に向いている。
私たちも地球の一部として、
霊的にウエイトの高い部分を占めているのだから、
これからは地球の意思に沿って
生きていくことが大切である。
地球がそう考えているから、
そういう考えも私たちの中に
湧いて出てきているのだと考えられる。

過去に地球上で起きていることは、
すべて地球の意思であり、
その延長に人間も存在している。
すべては地球の自己表現である。
人間社会の対立や問題事も、
地球レベルの自己表現なのである。

そのことに気づくと、
この世界の全体像が観えてくる。
だからこそ私たちは、
地球が進もうとする次のステージへと、
新たな役割を果たしていける。

それならば何でもいいじゃないか、
と思う人もいるかもしれない。
人間たちが個々の単位に執着しすぎて、
個を表現することが快感のようになってしまっていると。
なかなか次に進めない状態であり、
生みの苦しみが今起きている。

時期が来ると、どの人も気づいてくる。
ある時期では大変なことも、
新たなものに生まれ変わるのだとしたら、
真剣に粘り強く捉えなければいけない。

地球が自己表現をしていることは、
同時に個々が自己表現をしていることである。
大きな自分と小さな自分の表現が個性的に表わされ、
この世界ができている仕組みをわかり、
しっかりと自己表現をし、
多様な働きをしながら、
全体が成り立つ働きをいただいていく。

この宇宙表現のドラマであったり、
大きな絵画であったり、交響曲のようなもの。
私たちは、その表現の中の一部分である。
そのうねりが今起きていて、
それを理解することが、
悟るということである。

来年に向けて、「変革」の時を迎え、
ますますその動きが強くなっていく。
今年から来年を見通してみると、
方向性は見えてくる。

私たちは恐れることなく、
自然界の仕組み、命の仕組み、
人間社会の仕組みの中で、
私たちの存在が
地球の自己表現であるということに気づき、
しっかりと自己表現をしながら、
全体の役に立っていくことが大切である。

個性と多様性というのは、
一見対立するように見える。
しかし、個性と多様性がしっかりと発揮されながら、
次の大きな仕組みを同時に成立させることは可能である。

今までは、それが難しかった。
しかし、なぜそれが可能かと言ったら、
この世界が個性と多様性で
全体ができているからである。
個性と多様性と全体が
同時に成り立つ世界であることを認識する必要である。

新たな年に向け、それを表現する。
今までは理解しないで、表現していた。
理解しないと、そこで抵抗する心が出てくる。
全体のために、個性や多様性が壊れるのが嫌だと思う人もいたが、
それは違う。
それは同時に成立することだから。

それが成立する世界で何が起きてくるのかというと、
皆で喜べる世界。愛ある世界。
善意でことが動いていく世界が生まれる。
それが私たちが求めているユートピアである。

制度や仕組みを変える必要はない。
人の心がそれに気づくだけでいい。
真実に気づくことによって、悟りに至る。
たったそれだけのこと。
その一番の根本にある真実に気づくということだけ。

気づきは、
人間が思考を巡らせた結果
生み出すものではない。
気づきは思考を超えて、湧き出てくるもの。
自分の中にある神性から出てくるもの。
私たちが自然を観ていて気づくこと。
私たちの思考を超えて、
ふっと何かが湧き出すこと。
それは、自分の中の
もうひとつの自分から湧き出てくる。
自分のもうひとつと密接に自分がつながることによって、
この世界の仕組みが湧き出てくる。
それが、私たちのもとにある神様の意思。

そういった人間たちの営みが
これから地球上に現れてくる。
誰に言われなくても、
個々が気づき、
つながっていくことによって、
この地球が動いていく。
そういった時代が来る。
その生活モデルが私たちの生き方であり、
エコビレッジ運動である。
そして、
それはユートピアにつながるものである。

新たな年を迎えるにあたり、
神様と皆さんと共に歩んでいきたいと願っています。


平等で愛あり調和のとれた世界へ

DSC_0185

12月24日のクリスマス会で、
いさどんはこのような格好をして登場しました。
さて、今日は、どんな話をしてくれるのでしょうか。
今日はクリスマスイブです。
世界中でイエス・キリストの誕生日を祝う日です。
でも、日本で定着したクリスマスは、
どちらかと言うとプレゼントをもらったり、
おいしい食べ物を食べたりといった行事になっています。
本来、キリストの誕生日を祝う儀式はもっと厳粛で、
私たちにこの世界に生まれてきた意味を
思いおこさせるためのものです。
だからと言って、
こういった楽しいクリスマス会が
いけないと言っているわけではありません。
ただ、そういった深い意味があるということも、
心の中に留めておいてほしいと思います。
この世界ができた時に、
始まりはひとつのものから生まれました。
ひとつのものがいくつかに分かれ、
複雑な世界ができました。
そして、今でも私たちは、
命の仕組みの中でひとつのものとしてあり続けます。
それは、始まりがひとつで、
それが分かれていっただけで、
常にお互いに関係し合って
ひとつであり続けているからです。
今は、人間たちの中に
いろいろな価値観や生き方が生まれて、
対立するものもいます。
人々にこの世界がひとつであるということを
教えるような役割の宗教も、
今はその宗教がもとになって争うようになりました。
その中のひとつの宗教、
キリスト教の元になった教えを広めた人が、
イエス・キリスト。
今日は、その人の誕生日です。
キリストの教えが、
この世界の唯一の教えではありません。
この世界には、いろいろな聖者が現れました。
例えばインドのブッダ(お釈迦様)。
イスラム教のもとであるムハンマド。
中国にも沢山の聖者が現れました。
世界的に大きな宗教のもとになった人たちだけではなく、
私たちにこの世界の真実を
降ろし伝えてくれた聖者たちが今まで沢山いました。
それは、皆、別々の教えのように見えるかもしれません。
しかし、この世界は最初にひとつのものから始まって、
そのひと連なりの中で今もあり続けているのですから、
対立したり、違いを持って
お互いを主張し合うことは本来おかしなことです。
そういったことが沢山の問題として、
影を落としていることも事実です。
今日は、イエス・キリストという方が生まれたことを
世界の多くの人がお祝いしています。
しかし、宗教が違うからと全く無関心の人たちもいます。
そういったことはありがちなことですが、
尊いものは誰が見ても尊いはずです。
つまり、全ての宗教が尊いということです。
過去にはいろいろな聖者たちがいましたが、
今の時代の私たちからは離れていて、
遠い過去の時代の人たちが多くいました。
千年も二千年も前の人たちがいます。
実在すらわからない人もいます。
その人たちがそういうことを言ったかどうかもわかりません。
しかし、身近な時代にも沢山の聖者がいます。
インドのマザーテレサやガンジーといった人たちです。
日本にも沢山の宗教を下ろしてきた尊い人たちがいます。
そろそろ、そういった教えや生き方を
ひとつにしないといけないと思います。
なぜなら、この世界はもともとひとつで、
ひとつのところから生まれてきたものが争い合ったり、
手を結べないでいることは、本当ではないからです。
今日は、クリスマスの記念に
数日前から何かしようと思っていました。
今、テロリストのような格好をしています。
理由があってこうしています。
僕が最近思うのは、宗教をなくしたいということです。
宗教をなくすということは、
尊い教えをなくすということです。
この世界には尊いものが沢山あって、
沢山あるからこそ尊いことすら対立しています。
だから、それをひとつにしたい、そう思っています。
皆平等で、平等というのはインドのお釈迦様の教えです。
皆愛の中で、愛はキリストの心ですね。
そして、全てのものが調和して、
調和はイスラム教のマホメッドの教えですね。
そういったものが本来ひとつのものでなくてはいけません。
平等で愛あり調和すること。
そういった世界が来るために人生を生きていこう。
ここの生き方もそのためにあるんだと思っています。
先日皆で映画を観ました。
インドには沢山の宗教があって、沢山の考えがあります。
それをひとつにして、
理想の国家を創ろうと生きた人がいます。
それを成し遂げる途中で、
テロリストによって命を絶たれた人がいます。
ちょうど、今の僕のような格好をしたテロリストに。
それは、ガンジーです。
僕もガンジーのようになりたいと、
先日久しぶりにガンジーの映画を観た時に思いました。
平等な世界、誰もが手をつないで喜び、愛のあふれた世界。
そういった世界を創りたいと思っていたら、
来年に向けての抱負が出てきました。
来年は、「変革の年」。
本当に平等で愛ある調和のとれた世界を創るために、
ガンジーのような志を持ってそれを実現していきたい。
それで、こんな恰好をしてきました。
ガンジー思想をアメリカで実現しようとした、
キング牧師という人がいました。
その人もテロリストによって亡くなりました。
世の中に愛、平等、平和をもたらそうとする人たちが、
殺されていくような世の中ではいけません。
そういった人たちが本当に良きリーダーとして、
そして一人一人が心のリーダーとして生きていく時代を
これから創っていくイメージが僕の中にあります。
皆で暮らしながら、
ここの生活がそういった
新しい世界の見本だということを示していきたい。
そのためには、自分のことと他人のことを区別しない。
なぜかと言えば、最初は全てひとつだったから。
最初はひとつのように、
他人のことも自分のことのようにして生きていける。
それをこれからもやり続けたいと思っています。
今日はクリスマス。
イエス・キリストという人の誕生日。
それにちなんで、ガンジーのように生きたいと思って
お話をさせていただきました。
話の途中で、頭に巻いていたスカーフを外したいさどん。
そこには頭を丸め、どこの国の人とも言えない
雰囲気を漂わせているいさどんがいました。
今年も残すところあとわずか。
地球人、宇宙人としての新しい生き方を
あなたも始めてみませんか。
その報酬は、平等で愛あり調和のとれた美しい世界です。
12月24日のクリスマス会で、
いさどんはこのような格好をして登場しました。
さて、今日は、どんな話をしてくれるのでしょうか。
今日はクリスマスイブです。
世界中でイエス・キリストの誕生日を祝う日です。
でも、日本で定着したクリスマスは、
どちらかと言うとプレゼントをもらったり、
おいしい食べ物を食べたりといった行事になっています。
本来、キリストの誕生日を祝う儀式はもっと厳粛で、
私たちにこの世界に生まれてきた意味を
思いおこさせるためのものです。
だからと言って、
こういった楽しいクリスマス会が
いけないと言っているわけではありません。
ただ、そういった深い意味があるということも、
心の中に留めておいてほしいと思います。
この世界ができた時に、
始まりはひとつのものから生まれました。
ひとつのものがいくつかに分かれ、
複雑な世界ができました。
そして、今でも私たちは、
命の仕組みの中でひとつのものとしてあり続けます。
それは、始まりがひとつで、
それが分かれていっただけで、
常にお互いに関係し合って
ひとつであり続けているからです。
今は、人間たちの中に
いろいろな価値観や生き方が生まれて、
対立するものもいます。
人々にこの世界がひとつであるということを
教えるような役割の宗教も、
今はその宗教がもとになって争うようになりました。
その中のひとつの宗教、
キリスト教の元になった教えを広めた人が、
イエス・キリスト。
今日は、その人の誕生日です。
キリストの教えが、
この世界の唯一の教えではありません。
この世界には、いろいろな聖者が現れました。
例えばインドのブッダ(お釈迦様)。
イスラム教のもとであるムハンマド。
中国にも沢山の聖者が現れました。
世界的に大きな宗教のもとになった人たちだけではなく、
私たちにこの世界の真実を
降ろし伝えてくれた聖者たちが今まで沢山いました。
それは、皆、別々の教えのように見えるかもしれません。
しかし、この世界は最初にひとつのものから始まって、
そのひと連なりの中で今もあり続けているのですから、
対立したり、違いを持って
お互いを主張し合うことは本来おかしなことです。
そういったことが沢山の問題として、
影を落としていることも事実です。
今日は、イエス・キリストという方が生まれたことを
世界の多くの人がお祝いしています。
しかし、宗教が違うからと全く無関心の人たちもいます。
そういったことはありがちなことですが、
尊いものは誰が見ても尊いはずです。
つまり、全ての宗教が尊いということです。
過去にはいろいろな聖者たちがいましたが、
今の時代の私たちからは離れていて、
遠い過去の時代の人たちが多くいました。
千年も二千年も前の人たちがいます。
実在すらわからない人もいます。
その人たちがそういうことを言ったかどうかもわかりません。
しかし、身近な時代にも沢山の聖者がいます。
インドのマザーテレサやガンジーといった人たちです。
日本にも沢山の宗教を下ろしてきた尊い人たちがいます。
そろそろ、そういった教えや生き方を
ひとつにしないといけないと思います。
なぜなら、この世界はもともとひとつで、
ひとつのところから生まれてきたものが争い合ったり、
手を結べないでいることは、本当ではないからです。
今日は、クリスマスの記念に
数日前から何かしようと思っていました。
今、テロリストのような格好をしています。
理由があってこうしています。
僕が最近思うのは、宗教をなくしたいということです。
宗教をなくすということは、
尊い教えをなくすということです。
この世界には尊いものが沢山あって、
沢山あるからこそ尊いことすら対立しています。
だから、それをひとつにしたい、そう思っています。
皆平等で、平等というのはインドのお釈迦様の教えです。
皆愛の中で、愛はキリストの心ですね。
そして、全てのものが調和して、
調和はイスラム教のマホメッドの教えですね。
そういったものが本来ひとつのものでなくてはいけません。
平等で愛あり調和すること。
そういった世界が来るために人生を生きていこう。
ここの生き方もそのためにあるんだと思っています。
先日皆で映画を観ました。
インドには沢山の宗教があって、沢山の考えがあります。
それをひとつにして、
理想の国家を創ろうと生きた人がいます。
それを成し遂げる途中で、
テロリストによって命を絶たれた人がいます。
ちょうど、今の僕のような格好をしたテロリストに。
それは、ガンジーです。
僕もガンジーのようになりたいと、
先日久しぶりにガンジーの映画を観た時に思いました。
平等な世界、誰もが手をつないで喜び、愛のあふれた世界。
そういった世界を創りたいと思っていたら、
来年に向けての抱負が出てきました。
来年は、「変革の年」。
本当に平等で愛ある調和のとれた世界を創るために、
ガンジーのような志を持ってそれを実現していきたい。
それで、こんな恰好をしてきました。
ガンジー思想をアメリカで実現しようとした、
キング牧師という人がいました。
その人もテロリストによって亡くなりました。
世の中に愛、平等、平和をもたらそうとする人たちが、
殺されていくような世の中ではいけません。
そういった人たちが本当に良きリーダーとして、
そして一人一人が心のリーダーとして生きていく時代を
これから創っていくイメージが僕の中にあります。
皆で暮らしながら、
ここの生活がそういった
新しい世界の見本だということを示していきたい。
そのためには、自分のことと他人のことを区別しない。
なぜかと言えば、最初は全てひとつだったから。
最初はひとつのように、
他人のことも自分のことのようにして生きていける。
それをこれからもやり続けたいと思っています。
今日はクリスマス。
イエス・キリストという人の誕生日。
それにちなんで、ガンジーのように生きたいと思って
お話をさせていただきました。
話の途中で、頭に巻いていたスカーフを外したいさどん。
そこには頭を丸め、どこの国の人とも言えない
雰囲気を漂わせているいさどんがいました。
今年も残すところあとわずか。
地球人、宇宙人としての新しい生き方を
あなたも始めてみませんか。
その報酬は、平等で愛あり調和のとれた美しい世界です。

三度目の正直からユートピアへ

先日みんなでNHKの「坂の上の雲」の一回目を観た。
いつもNHKの大河ドラマを観る時には、
娯楽としてではなく
日本の歴史が成り立ってきた秘密や
メッセージが隠されていると思いながら観ている。
過去を振り返って、
今の時代を人々に見つめなおさせるような働きが、
一部の番組の中にあると思っている。

「坂の上の雲」は年末だけ、
3年がかりで放送するという。
この番組をづくりの奥に、
何か大きな意図が隠れているように感じる。
その時代を顕微鏡で観るように一点に集中して、
意図的に表現している。
創られたものだから、
当然大げさに表現されているところもあるが、
史実を織り交ぜて、私たちがどういうところを通って
ここまで来たのかが表現されている。

とりあえず今までのところを観終わって、
今後も続けて観てみようというのが皆の感想である。
僕が思ったのは、
「この番組はテンションが高い」ということ。
この国を支えてきた人々。
優秀で国の中で特別な地位を務めてきた人たち。
そういった人たちの物語。
学問ができて、志が高く、
国のためになろうとする人たちが
取り上げられた物語である。

一般の社会には、
学問ができるだけで志は高くない人たちが沢山いる。
学問もできないけれど、志も高くない人たちもいる。
今の社会ではこのような英雄的な人は
なかなか現れてこない。

物語は明治維新に始まって、
大正、昭和の時代へと続いていく。
今年の大河ドラマは「天地人」。
上杉謙信が「義」を捉えて生きた。
その財産をもって世を生きた人々の物語が
美しく描かれている。
戦いの中で人が死んでいく世界の話である。

この世界での勝者は、
滅ぼされたものにとっては悪である。
しかし、その悪も新たな時代になると、
それが法律になっていく。
それに歯向かったものには死があって、
生きることを選択したものは、
新たな正義に取り込まれ、それを取り入れていく。
そういった選択をしたものが生き残っていく。
しかし、残ったものが正しかったのかといったら、
そうとは限らない。

大河ドラマでは、
兼継が家康に仕えるようになり、
最後に兼継がこの戦国の武将の中で
誰が一番優れて志が高かったかということを語る場面で、
新たに仕えた家康ではなく
石田光成だと語るところがある。
それは、あの物語の中で最も表現したかったところであろう。
実際の出来事がどうであったかはわからないが、
一つの方向に時代が流れることに対して、
視点を変えていくつかの見方や
価値観を観ることの提案をしてくれている。

優れたものたちが
国の中心的な役割を担っていき、
ふさわしい人間たちが
ふさわしい場所で国を支えている。

一回目の「坂の上の雲」を観た時に、
日本にとって開国が正義であったかのごとく、
番組がテンション高く作られてしまっていると感じた。
あの番組がテンション高く作られていればいるほど、
正しい開国と捉える人たちが多いのだろう。
しかし、テンション高くどころか
忘れていた怒りを増幅させ、
違う感情を生みだす人たちもいるということを
同時に忘れてはいけない。

信長の時代には、既に日本の心は世界に向いていた。
日本だけではなく、
もっと世界中のことを知ってみたいという願望が
彼にはあった。
彼の性質だったら、
生きていれば外国を侵略に行っただろう。
それを受けて秀吉は朝鮮に行って、
極悪非道を行い、敗北して戻ってきた。
日本は島国だから外の侵略を受けにくかった。
他方、日本は他国への侵略者である。
そういった見方をすれば、
秀吉は悪党の頭領みたいなものである。

家康は、300年間
鎖国の中に日本を閉じ込めてきた。
多分、信長や秀吉が外に野望を向けて歩んでいった結末を、
家康は教訓にしたんだろうと思う。
自分の支配する世界の足場を固めることで、
江戸時代は長く続いた。
鎖国をしたがために、
世界の近代的な歩みからは遅れてはしまったが、
日本独特の文化が花開いた。

しかし、この国は日本国である前に
世界の中にあるという波が押し寄せて、
鎖国を解き、世が開かれることになる。
そして、明治維新となる。

新しく事が起きるということは、
古いものにそれがとって変わるということ。
新しいものができ、それが続いていくと、
いずれそれは古くなり、ついには壊れる時が来る。
新陳代謝によって、
常に新しいものが現れてくる仕組みになっている。
それを拒もうとすると、そのこと自体が問題のもとになる。

江戸時代も長いこと続いたが、
それが壊れて新しい時代が来た。
それを受けて、人々が躍動する。
物語が表現しているテンションの高い時代である。
それまでの変化のない時代に対して、
新たな欲望的希望が生まれる時代に入っていく。

古い欲望は叶っているのにそれを評価せず、
新しい未知なるものに夢を持って、
それを叶えていこうとする。
この物語もそういう所から始まっていく。
その延長線上に愚かな時代が訪れてくる。
希望ある開国という時代から、
あのとんでもない時代、
世界大戦に向かっていくのである。

日本人は、伝統的文化を維持することよりも
富国強兵という政策を打ち出し、
欧米に追いつこうとした。
実際に、物語でも表現されているように、
猿真似と言われながら、
器用だから追いついていく。
しかし、日本人の意識の中には、
真似しているということよりも、
追いつこうとしている意識のほうが強い。
他国にとっても、
猿真似だと馬鹿にしていたものが、
次第に脅威になっていく。

しかし、日本人には
目指すものに追いつこうという意思はあっても、
この世界を導いていこうという発想には欠けている。
世界の中で自国の位置がどこにいるんだろう、
という発想しかない。

明治維新になり、追いつけ追い越せと必死な時代。
テンションが高い故に、
他国に対し、地球全体に対して、
自分たちが何をもたらしているのかを
吟味するような思考にはならない。
太平洋戦争後の日本も同じことをやっていく。
その幕開けが明治維新である。

今の時代にその教訓を活かす時が来ている。
あの時代では、欧米の列強に追いつけと、
産業革命のほうに走って行った。
その結果、自分たちにふさわしいことを忘れ、
欲望的な国家戦略に入っていく。
一時はそれがいいようだけれど、
意図的で一方通行な国づくりが原因で
いろいろな問題が発生してくる。

あの物語の延長線上に、
戦争の時代がある。
日本人はその結果、
大きな代償を払うことになる。
そこへつながっていく流れなのに、
部分的に区切って見ると
全くおぞましいこととして扱うどころか、
時代の英雄を皆で盛りたてて、
「素晴らしい!なんてすごい人物なんだろう」と
評価さえしてしまう。

トータルしてもっとつなげて見たら、
ああいう優秀な人々が、
自分の中から湧き出てくる欲望を叶えたいという想いから、
社会の中枢の中でどんどん国をリードしていく。
その結果、国を導き、人々を導いていく。

太平洋戦争では、
作戦も見通しも何もあったものではない。
めちゃくちゃな、道理の通らない場所に
兵士の命が投げ出され、意味のない死を遂げている。
そして、原爆投下という結末につながっている。

その後、日本人の戦略的な欲望が、
経済という方向に向けられて、今の時代がある。
それが戦後ずっと続いてきたが、
今、壊れようとして、
次の変革の時を迎えている。

二度同じ歴史を繰り返し、これが三度目の正直。
また同じことをやっていいんだろうかと思う。
この番組は、そうではないぞということを
伝えるためのものなんだろうなと思う。

愚かなことをもう繰り返してはいけない。
そのために、しっかり学んでいく。
たとえ作者にその意思があろうとなかろうと、
そんなことはどうでもよい。
もう決して繰り返してはいけない。

古い体制が壊れて新しい時代に移る時に、
その古い時代に形骸化してしまったものを壊して、
新しいものが欲しいというだけではいけない。
その古い時代も、始まりはテンション高く、
希望を持って始まったのだから。

それがなぜ、古くなって
壊れないといけなくなってしまったのか、
ということをしっかりと捉えないといけない。
そして、その教訓を活かした世の中づくりが必要である。
国家というひとつの体制がそれをやってしまうと、
ひとつひとつの細胞である民衆がおきざりにされてしまう。

だからこそ、それを国のせいにしないで、
一人一人がこの世の中を創るということに目覚め、
民衆の中にいつも世の中があるということ。
ないものをねだるのではなく、
過去の古いものから学んで、
新しい時代に活かすことによって、
この世界が何ものか、人間が何ものか、
人間は何のためにこの世界に存在しているのか、
この世界そのものがなぜあるのか、
ということをわかっていくための
学びにすることができる。

個の中から湧き出てくる欲望を叶えようと、
ただテンション高く情熱的に生きたとしても、
時代が移り変わっていくと、
ある時は正義だったものが、
ある時は悪になってしまう。
今までの人間は、ただ湧き出る欲望のままに生きて、
その結果が戦後の時代のような、
個々の中から湧き出てくる欲望のままに世の中が創られ、
こういう歴史が刻まれてきた。

それが、今の世の中をつくっている。
すごく狭く苦しい所に人間を追いやってしまって、
この世界ができている。
これは、陥りやすい落とし穴である。
では何を価値観としたらいいのか。
それは、行き詰まりから観ていくことが大切である。

この時代は、明治維新や
第二次大戦の変革の時代とは違って、
大戦争があるわけでもなく、
表面的には穏やかである。
しかし、人間の意識、
ものの捉え方の変革という点では、
過去の維新よりも
さらに大きな変革の時代と言える。
自分の中から湧き出してくる欲望を叶えることは
いいことだ、と突き進んできた時代から、
単に湧き出してきた欲望を叶えるだけでは、
結局その欲望が暴走して
また痛い目に遭うぞ、と
過去の二度の教訓から学ぶ時代。
今、三度目の正直がどうなるかという段階に来ている。

自分の中に湧き出してくる想いをしっかりと吟味していく。
自分の中だけでそれを捉えるのではなく、
私たちが生かされているこの世界の仕組み、
自然観を捉えながら、
人間はどう生きていったらいいのか、
自分はどう生きていったらいいのかということを考える。

新しくなったんだ、古いのはもう嫌だ、
新しくなりたい、と高いテンションで
ただやみくもにエネルギーを使っていけば、
また痛い目をしてやり直しということになる。
そうやって人間たちが成長した結果が、ここにある。
同じような繰り返しで進化し、学んでいる。

あのドラマで、
ただ明治維新を見るというよりも、
今の時代をどういうふうに生きていったらいいのかを
解釈することのほうが大切である。
過去の日本人や人間の性質は自分たちも持っているのだから、
それをしっかりと教訓として活かし、
これからの時代に向けた個々の価値観を創り変えていく。

あの時代には、国を創る人は国を創る人。
一般の人間は一般の人間だった。
しかし、これからは、そういった国を創る人と
一般の人々の区別のない世界。
それこそが、これから求められている世界。

優れた人が出てきて、
歴史の中に名を残す時代は終わり、
これからは民衆の時代。
民衆が目覚めることによって、
いよいよ、人々の心の中に、
神とともにこの世界を創っていくという意識が目覚める。
そして、その延長に次の時代、ユートピアがある。

「坂の上の雲」を観た時に、
区切ってみると素晴らしいドラマ。
テンションの高い時代。
しかし、それがあのどん底の戦争の世界につながっていく。
そして、また維新が起きて、戦後の復興があって、
皆がまた欲望の中で国創りをしていく。
どん底から世界トップクラスの豊かな国を創ったはずなのに、
そのまま進んでみたら、働く意欲が湧かない、
生きていくのが嫌になる人々が沢山出てきた。
そういう今の時代がある。

だから、あの番組は私たちに訴えている。
これからの時代、私たちはどうしたらいいのかを。


正直者の頭に神が宿る

今回で木の花訪問4回目になるゆうすけくんは、
いさどんブログ「おやじの館」の愛読者です。
今回は、「木の花の志を参考にして、
心を耕しに来ました」とのこと。
そんなゆうすけくんの悩みは、
「ブログに書いてあるような心で
日常生活を送りたいのに、
人に良くみられたい、
人に嫌われたくないという自分の弱さから、
なかなか実践できなくて。
また、人のために優しくしているつもりが、
本当にその人のためになっているのかなって。
自分が傷つけられるのが嫌だから、
人にも本当に思っていることが言えないんじゃないかと。
いさどん、
そんな僕に何かアドバイスはありますか?」

さあ、おやじの登場です!

いさどん:

「嘘も方便」とか、
「正直者は馬鹿を見る」とか、
世の中にはそういう言葉があるよね。
まず、こういうことを言う人は、
自分の本当を今まで出してこなかったから、
正直を出すことにためらいを持っている。

「あの人は物事をずばずば言うけれど、
なんか憎めないね」という人は、
生まれた時からの環境、その人の魂の形で、
自分の本当を出すということを今までやってきている。
本当のことを言って日々生きている人にとっては、
それが習慣になっているから、
本当のことを言わないと気持ちが悪くなり、
本当のことを言う。

本当のことを言わないで、
それが自分を守ることだとか、
得をすることだと考えてやってきた人は、
それが習慣になって日々を生きているから、
本当のことを言うことが怖くなったりする。
本当のことを言ってすっきりすることよりも、
自分にとって不利になるんじゃないか、
問題事が起きるんじゃないかと、
駆け引きや損得でものを考えている。

その心を分析すると、
本当のことを言うということは、
自分の気持ちの中に何も溜まっているものがない。
本当のことを言わないということは、
仮にそれが自分にとっていいことだと思っても、
「本当はこうなんだよな」と
自分の中で溜まっている心がある。
正直者がいいとか、
嘘をついて生きることはいけないという
単純なことではなく、
自分にとってそれは不健康のもとである。

そこで考えてみよう。
自分にとって不健康な状態で、
自分を守ろうとしている自分。
自分が得しようと思って、
自分の中に溜まりものをつくって、
気持ちの悪い状態にしている。
それが自分のためなのか。

隠すとか嘘を言う心には、いろんな答えがある。
それに対して、本当はひとつしかない。
そうすると、本当のことを言うというのは、
すごいエネルギーが少なくてすむ。
いつもひとつしかないからである。
「これはこういうことだよ、
これはこういうことだよ」ということで、
全てが片付く。
だから、重荷にならない。

ところが、
今度はこう言っておこう、とか、
この場合はこう、とか、
そういった心でいると、
いろいろ心を使い分けないといけない。
さらに、本当のことを言ってないと、
何かの拍子に
本当のことを明かさないといけない時がある。
その時にまた、
本当のことを言おうかどうか、と
また、エネルギーを使う。
ばれそうになると、
本当のことを言わない人は、
また新しい嘘を言う。
いつも自分の中に
負の部分が溜まっている状態を繰り返す、
ということだよね。

人によく見られたいという心から
本当のことを言わないとしたら、
その人のご機嫌を伺っていることになる。
その連鎖というのは、
その人に気に入られようと思って、
一度人にご機嫌を伺うと、
ずっと続けていかないといけない。
これも、すごくエネルギーのかかることで、
自分がいつも本当ではないことを表現することに
エネルギーを使い続けないといけない。

本当のことを言えない、
言わないというのは、
心の癖だから、
そういう手法が身についてしまっている。
なかなか、実践ができないというのも、
まさしく自分に身についてしまっている。

人によく見られたい、
嫌われたくないという心を持っていると、
結果としてあまりいい気分で人生を歩めない。
一度、いつ頃から自分がそういう人になったのか。
学校の交友関係とか、
子供の頃からの家族との関係を振り返ってみる必要がある。
そこで、どこかトラウマ的になっているものを見つけ、
それがどういう形で影響しているのかということを
客観的に捉え、解決して、それを処理していかないと、
その癖は折をついていつも出てくる。

それは癖だから、
それを個性として変えていくとしたならば、
人から評価される人になりたいという心の癖には、
向上心がある。
自分が人に評価される人間になるためには、
まず、自分が気持ちよい人間になるということ。
正直であること。嘘をついて、
何か隠し事をしているということは、
外に対して気持ちの悪い空気を発している。

しかし、
「あの人は言いたいことを言うし、
好き勝手に行動しているけれど、
何でも上手くいくね」とか、
「好き勝手に行動しているけれど、憎めないね」
という人がいるはずなんだ。
それが正直者の証拠。
それを、タイプが違うから僕にはできない、
ということにしておかない。
やろうと思えば、誰にでもできる。

それから、他人のために優しくするということは、
厳しいことも優しさのうちなんだよね。
厳しいことも優しいことも、
相手のことを想って言ってあげるのが優しさで、
そのことで一時、相手が離れたとしても、
本当のことを言った人は、
相手のために大切な役割を果たしたことになります。

本当のことを言った人のもとに戻ってこれない人は、
その結果、成長しない人生を歩むことになる。
そして、大事なことが伝わっていれば、
何かの時に、
「そういえば、あの時にああ言われたな」と
その人の中に残っているものである。

最終的には、虚栄、嘘の世界は壊れていく。
そして、本当の世界は必ず成就していく。
長い目で見れば、人と人の縁を
もう一回つなげるんだし、
仮にそれがそのまま消えていったとしても、
相手に対して本当のことを言うということで
悪い結果は生まれない。

ただし、本当のことにも旬というのがあって、
今言っていい時とそうでない時がある。
大切なのは、今この人のために
本当を伝えてあげないといけないけれど、
その人は今聞く耳がないと思えば、
嘘をつくのではなくて、旬が来るまで待つ。
時期が来た時に伝えてあげる。
必ず、伝えるべき時が来る。

そういった旬を
見分けられる人になることが大切で、
常日頃から本当のことを言っている人は、
見分けられるようになる。
しかし、嘘を言っている人は心が濁っているので、
その旬を見分けられない。

だから、本当のことを言って
人間関係を悪くする人もいる。
それは、日頃から自分本位でいると、
今の言い時、今言ってはいけない時、
というのが見えていないからである。
本当のことでも何でも、
その時々に合わせて使い分けていけばよい。

ただ、旬のことを見分けられない時でも、
本当のことを言うことは、
たとえ相手とトラブルになったとしても、
相手に対して悪いことをしていないから、
嘘をついていくよりはずっといいことである。

「嘘も方便」や
「正直者は馬鹿を見る」という言葉は、
一般的に生きている人たちが、
自分が得をするために使う。
実際は、「正直者の頭に神が宿る」と言って、
正直者が一番いい人生を送れるように
この世界はできている。
損得勘定の上でのいい人生を模索していくよりも、
正直で生きているということは気持ちがいい。

冷静に自分の姿勢を観れば、
自分が気持ち悪いから悩んでいるわけです。
それが自分にとって
何をもたらすのか冷静に振り返ったら、
自然とやめられるものです。
真剣に自分に取り組んでいないということなんだろうね。
それは、自分の姿勢を見ることから逃げている。

政治の世界でも経済の世界でも、
不正はいろいろある。
それは、最後は必ず、全部元通りに戻すどころか、
隠してきた分だけの痛みを持って自分に返ってくるもの。
生涯それを隠し通せた人がいたとしても、
自分がそういう人間であるという価値は、
自分についてまわる。
それは、自分が一番よく知っているはずである。

やはり、
胸を張って気持ちよく生きていかないといけない。
そうすると、方法ではなくて、
あなたはどちらを選びますかということになる。

ゆうすけくん:

正直に言っていくことですよね。

いさどん:

その言葉のトーンからすると、
なかなかできないんですよ、
ということを同時に言っているように感じられる。
それはあなたの人生だから、
どうするかというのはあなたが決めればいいこと。
だけど、そのトーンで言っている限りは
できない、できないを繰り返すことになる。

もうひとつ。
さっきも同じことを言ったけれど、
敢えてもう一度言うと、正直になるってことですよね、
切り替えていくってことですよねと言いながら、
やれないトーンの自分を繰り返すよりも、
こんな清々しい日々を毎日送れるのか、
気持ちいいなって生きていくことのほうがずっといい。

自分が発したものが返ってくるのだから、
嘘をついていたり、
全体に対していいものをもたらさないのに、
いいものが返ってくるわけがない。
それで返ってきたら、この世界はおかしい。
因果応報ではなくなってしまう。
客観的に自分がどういうものを
まわりにもたらしているのか。
それが見えさえすれば、
返ってくるものが何であるか、
自ずと理解できる。

よく人から聞かれることで、
異性に好かれるためには
どうしたらいいんですかという質問がある。
そこで答えるのは、相手に好かれようと思うと、
とかく相手の心をこちらに向けようとする。
それは大きな間違いで、
たまたま相手がこちらを好みなら、
こちらが好かれようと思わなくても
勝手にこっちを向くんだから、努力は何もいらない。
そんな悩みも所詮ないわけです。

相手がこちらを向くかどうか未知の時に、
そういうことを考える。
そうしたら、相手がこちらを向くかどうかわからない。
その状態でこちらを向いてほしいというのは
難しい話だよね。
いろいろ努力してみるのもいいけれど。
物でつったり、嘘をついたりすれば、いつかばれる。
そうすると壊れる。

そうしたら、
相手にとって自分が魅力的な人になればいい。
自分を磨けば、ほっといても、
相手は自ずとこちらを向く。
評価されたいからと言って、評価してくれと
相手の気を引こうとするのではなくて、
評価されるような自分になる。
それが自分磨きだよ。

自分を磨かないで評価されたい。
自分を磨かないで嫌われたくない。
嫌うのは嫌なところがあるから嫌うのであって、
いいところがあれば嫌うどころか好きになってくれる。

だから、
そういうことを言っている人は、
とかく人のことばかり見ていて、
自分を見て磨いていない。

ゆうすけくん:

何か自分の中で想うことがあって言おうとしても、
これを言ったらこの人は怒るんじゃないかとか、
その場の全体の雰囲気が悪くなるんじゃないかとか、
先のことばかり勝手に自分で予測してしまって。
そうなるかどうかは、わからないのだけれど、
いつもセーブしてしまうんです。

いさどん:

それは、相手の意思を無視しているわけだから、
相手に対してすごく失礼なこと。
全てこちらで考えて、
こちらで結論を出しているわけだから。
実際にあなたが思っている通りかもしれない。
でも、そうでないかもしれない。
なのに、先に結論を出してしまっている。
それでは、いい人間関係は絶対に築けないよね。

ゆうすけくん:

自分の想いを素直にぶつけるべきだと。

いさどん:

ぶつけるというのは問題で、
ぶつけるという言葉を使う人は、
日頃素直に言えてないから、
勢いをつけて言う。
本当のことというのは身の丈だから、
別に勢いをつけて言わなくてもいい。
ただ自分の意思を伝える。
「僕にはこう見えるよ」とか、
「僕は今こう思っているんだけれど」
という伝え方をすればいいのであって、
そこでは伝えるという作業はあっても、
ぶつける必要は全くない。

もうひとつ。
黙っていると、自分の中に感情を溜めている。
それが膨らんでいくこともある。
どんどん真実と違う方向へ膨らんで行くこともある。
相手の真意も確認できないと、
どんどん違うほうへ行ってしまう。

それが、
怒りのほうへつながっていった場合には、
何かの拍子に爆発して出る。
始めに正直に出た時には、
さらっと言えたことが、
日にちが経っていって、
自分の中に真実と違うことが膨らんでいった時に、
怒りとなって出たりする。
そういうふうに、感情は旬を逃すと、
全く違う感情になって出てくることになる。

さて、それをどうするか。
そこでは、自分にとって損か得か考えたらいいと思う。
それを自分の中で吟味して、
できなければできるように日々の生活の中で練習していく。
とても一人ではできませんと言う人は、
こういったところへ来てトレーニングしてみる。
いろんな方法があるけれど、
それには、現状がよくないなということを
自分の中で結論付けないと。
現状でいいなと思っていたら、取り組めない。

ゆうすけくん:

日々の中で取り組んでいきたいなと思います。

いさどん:

ちょっと重くなっているよね。

ゆうすけくん:

すぐ重くなっちゃいます。

いさどん:

雰囲気からして想いが溜まってきているから、
重くなっているよね。
だけど、こんなものは心の問題だから、
チャンネルを合わせるようにぱっと切り替わったら、
嘘のように
「何で今まであんなことをやっていたんだろう?」
というような世界なんだよね。
でも、そのきっかけが見つからないと、
どこに合わせたらいいのかもわからない。
変えようとするきっかけも掴めない。
底なし沼のようにね。
そういったところにはまってしまうこともある。

ゆうすけくん:

そうですね。いつも一歩踏み込めない。

いさどん:

よくあるのは、
そういう癖になってしまっていて、
それを繰り返すのが自分らしさのようになっている。
だから、悩んで反省しているんだけれど、
そこから抜け出せない自分がいて、
またそれを悩む。できない。
悩む。できない。
そういったスパイラルにはまっていく。

だから、どこかで突破口を開いていけられるといいね。
自分でやれる人は自分でやればいい。
だけど、自分でやれない人は、
人の力を借りてやればいい。
どの手法を取ってもいいけれど、
そこを超えていく作業がとりあえず必要だよね。

インタビューの直後は、
「言われていることは
すごくよくわかるんだけれど、
自分の心が邪魔して、
『そうですね』と切り替えられない自分がいます」
と晴れない顔のゆうすけくんがいました。

しかし、翌日ここを出発する時には、
「昨日は、いさどんの心を受け取る心、
いただく心が自分には足りなかったなと反省しました。
わからないことを無理やりわかろうとするのではなく、
シンプルに、正直にまずはやっていこうと思います!」と、
ちょっと表情が明るくなったゆうすけくん。
おやじだけでなく、
皆でゆうすけくんの人生を応援しています。
いつでも、困った時でも、
何もなくても、心の実家に帰ってきて下さいね。