「夜明けは近い」という印象的なフレーズが繰り返される『友よ』という歌があります。この歌は、1960年代末の学生運動が盛んだった時期に、社会変革を訴える歌として世の中に受け止められ、ベトナム戦争の時にも反戦歌としてよく歌われていました。あれから半世紀が過ぎた今、夜明けが近くなるどころか、世の中の闇はさらに深まっているように観えます。
現代は、一人ひとりの個人も、地域社会も、世界全体も、大きく滞っています。その根本は皆共通しており、そこから腐敗が発生し、広がっていることが感じられます。今、現代の地球上にこの事を発しなければならないという思いが湧き、それが言葉となって湧き出してきています。2012年12月21日の銀河の冬至から10年となる今日、2022年12月22日冬至の日に、その事を皆さんにお伝えします。
地球生命の歴史の中で、時を経て、人間は他のいかなる生命とも違う歩みをするようになりました。その最大の特徴は、個の喜びを追求するようになったことであり、それが自我の増幅を際限なくもたらしていることです。
生命の成り立ちとは、元々、個の喜びを追求し、自我を表現することではありませんでした。人間以外の生命は、人間のように強い自我による意志を持たず、地球生態系の大調和を定めとし、その大いなる循環の中でそれぞれの位置を与えられ、役割を果たし、全体の調和を表現してきました。それは絶対的で、揺るぎのないことです。不調和をもたらす目的で地球上に生まれてきた存在はいないのです。
そのような生命世界に、人間は誕生しました。そして、自我を持つことにより、『人間』という生命は、宇宙的実験を使命付けられました。
人間は、個々の目的を達成することを喜びとする特殊な生き物です。それは、探求心を持ち、過去の経験を現在に繋ぎ、未来に向かって自らの意志で現在の状況を変えていくことができる、特別な能力を持っていることでもあります。しかし現代の人間は、その特別な能力を、自らに都合の良い未来を想定し、全体を無視して自分だけの利益を追求することに使うようになりました。それは自我から生まれる自己実現の欲望をくすぐり、欲望が満たされれば満たされるほど、人間はその虜となっていきました。それを可能にしたのは、自らを他と区別し、差別するようになった人間の心です。
区別とは、自分と他との違いを認識し、その違いを個性として互いに補い合い、全体を繋いでいくものです。ところが人間は差別をすることにより、自分と他とに差を付けて違いに優劣を生み、違いを生かすのではなく、違いによって優越感を見出したり、反発したりするようになりました。そして、自らが他のために存在するという、生命の根幹たる姿勢が失われていったのです。
現代の人間社会の営みは、すべてがゲームやスポーツのように、地球生態系の大調和の中にある生命本来の在り方とはまったく違った感覚で行われ、自然界には決して無い生き方を貪るようになりました。そして自我から生まれる欲望の自己実現をすることが、当然のこととして、代々伝承されるようになりました。生命として生まれ、新鮮な欲求が新たに湧いてくるというよりも、DNAに刻まれた欲望の心が自動的に湧き出してくる状態です。それがあまりにも身近にあり過ぎて、そのことが何をもたらしているのかが観えないのです。
欲望を叶えようと、誰もが当たり前にするようになった結果、大調和の下にあった地球の生態系は大きく乱れました。今や人間というひとつの種が、地球上に汚染をまき散らし、まるで地球のガン細胞のように、全体の生命バランスを破壊するところまで来ています。人間が欲望を叶えるために創った経済システムは、自然界とはまったく異なる「人工」という世界を構築しました。それは一見、人間の特殊能力である探究心や創造力、テクノロジーによって豊かさが表現されているようでありながら、その実態はこの世界の秩序を無視し、自然を破壊する力を持ち、地球全体を貧しくして危機的状況に陥らせる驚異の源泉となっています。
近年の地球規模の危機的状況は、多方面からの情報によって多くの人々の知る所となりました。ところが、特別な能力を持つ賢い生命であるはずの人間は、その深刻な事態を知っているにも拘らず、自らの欲望を満たす快楽の方が勝ってしまい、危機的状況の源泉である自らの生き方を改善することができない状態に陥っています。それは、個人という小さな単位の生き様に現れているだけではなく、国という単位の国家エゴにも如実に現れています。それぞれが自らの欲望の延長に生きた結果、他者との不調和を生み、最終的には自分自身の健康や生命としてのバランスさえも脅かし、自らの行いが自らを破壊する自己矛盾を創り出す生き物となったのです。
宇宙は、極めて道理の通った世界です。その宇宙において、人間が道を踏み外し歩んできた結果、地球上にしかない矛盾に満ちた現象が、問題ごととして発生しています。歴史を紐解き、世界観を広げ、高い視点から未来までを見通して現在の実体を捉えてみれば、今地上で起きている現象は、時代の流れの奥にある時(トキ)からの大いなるメッセージであることが感じられます。それは、宇宙の始まりから常に世界をひとつの方向へ導き続け、壮大なる生命進化の物語の果てに人間を地上に降ろした「宇宙的意思=大いなるもの」からのメッセージです。
21世紀に入り、25800年ぶりの銀河の冬至(2012年12月21日)から10年の「統合」を迎えた今、道を踏み外して物事が観えなくなっている人間たちに対し、時の物語は様々な現象を起こし、メッセージを送っています。しかし、自らの側だけに立ち、欲望を叶えることの虜になっている人間には、そのことがまったくわからず、気付こうとさえしないのです。そこに、地上に理想世界が生まれないすべての原因があります。
ネイティブアメリカンの言い伝えにもあるように、人間が本当に馬鹿になってしまったように見える闇の時代の局面を今、私たちは生きています。銀河の冬至が明け、霊的な光が差し始めたことで、これからさらにその闇が浮き彫りとなってくることでしょう。それでも真実に向かうことを諦めず、歩んでさえ行けば、その先に確実に光が観えてきます。
地球の生命進化の歴史を振り返ると、過去6億年の間に、6回の大量絶滅が起きています。時の意思と共に進み続ける進化の物語にそぐわないものは淘汰され、その度に質的転換が起き、新たな種が誕生してきました。
近年、人類という種の営みは、地球生態系の調和を破壊する特に見苦しいものとなっています。その愚かしさの極みを、時のメッセージを受けて自ら振り返り、それを痛みとして善きものに転換する能力を、人間は発揮するべきなのです。このまま7回目の大量絶滅に向かうのか、それとも、人間の叡智がそのことを学習し、絶滅を伴わずに次の進化へとソフトランディングするのか。それは、次の時代を生きる人間の新しい姿がもたらすものです。
有史以来の6500年間、人間は文明を築いてきましたが、それは人間の地球上での身勝手で我儘な振る舞いを表現するためのものでした。自我から生まれる願望が、たとえどれほど他を傷付けるものであったとしても、一たび勝利者となってその願いが叶えられれば、それが正義となり、その有利な立ち位置に立てば何をしても良く、それこそが正義であると称えられる時代でした。しかし本来、他の生命にはない特別な能力を与えられた人間は、この多種多様な生命の大循環の中でコンダクターとしての位置を与えられ、宇宙の奇跡として創られた命あふれる星、地球を、その大調和の法の下に、より美しく、より優れたものに仕上げるための存在でなくてはならないのです。
人間は元々失敗作であったのか、それとも宇宙的実験の結果、失敗に至ったのか。或いは、大いなる宇宙的意思の下、本来の尊さへ向かうための物語を今、歩んでおり、現象を通して気付きを得ることで、その広く高い視点から世界を観ることを学ぶプロセスの中にいるのか。前者であれば、人間はこのまま気付くことなく、自らの矛盾によっていずれ破壊を生み、地球生命進化の歴史の中で7回目の大量絶滅のプロセスを迎えるのかもしれません。その結論を今出すことはできませんが、できれば後者でありたいものです。その可能性を、示したい。
過去から現在の自分へと連なる人類の歴史を理解し、それを学びとして自らを転換すれば、現在の自らが浄化されると同時に、結果としてその先にある未来も、そしてその元となった過去も、すべてが浄化されます。「あれがあったから、こうして今気付くことができた」と、過去の愚かしい出来事が、気付きへと繋がる尊いことに変わるのです。あなたのベースを築いた祖先が愚かであったとしても、あなた自身が目覚め、優れた者となることで、そのあなたにつながる祖先もまた尊い者となるのです。
これまでの人類の歩みは、浄化どころか、更なる愚かしさを積み重ね、次世代へ負のカルマの連鎖をもたらすものでした。しかし、銀河の冬至が明けて宇宙的ターニングポイントを迎え、時代は闇から光へ、即ち浄化の方向へと舵を切りました。ですから、この事を理解した者は、信念の下に、誰もがそれをやり切らなければなりません。時代がそれを後押ししています。それは、このターニングポイントに生まれてきた者としての一番の醍醐味と喜びにするべきことです。現代人は、お金を稼ぐことや、物に執着することを生きる上での最優先事項にしていますが、それは本来、生命として最も大切なことを育む時に付随するものでしかなく、最優先事項ではないのです。
過去、人(ヒト)である事の尊さを探究する道は、狭い視野での修行や、そういったことを行う人々が組織となった宗教などによって探究されてきましたが、それはまだまだ宇宙的存在としての人間の実体を掴んでいなかったがために、人類の歩みを訂正して人間を尊き者へと導き、この惑星を本当に美しいものとする能力を人間にもたらすことはできませんでした。人間は、個々の自我が持つアイデンティティを自らのためだけに積み上げてきたのであり、人類という種としては、地球上における宇宙的な役割に対して何も積み上げてはいないのです。それが、人類がどうしても大局に立てない原因となっています。どれほど自己矛盾を生んでも、地球や、宇宙にまで汚染をもたらしていても、それに気付くことができず、そのことの重大さについていくら語って聞かせても、その道理の響きが響かないほど、汚染が蔓延しているのです。
そこで今、なぜこの話が湧き出しているのかというと、現在のその実態がようやく人々にも観える時代に来たからです。そして私たちがこの生き方をしてきたのは、そのことに気付いてもらうためなのです。
残念なことに、現在は個々の人間の霊的な価値があまりにも低くなっています。願わくば、こういった気付きを持つ者を、天から多く地上に降ろし、真理の気付きのウェーブを人類にもたらす、風を起こしたい。事実、天はそのような気付きを持つ者を少しずつ降ろし、時代を現わしていることが感じ取れます。その時代の流れの中で、こういった気付きを体系化し、語る者が地球上にいることも、また事実です。ここに道理があるということは、それがほんの小さなものであっても、今その動きが始まっているということです。そしてそれは、大局の視点に立ち、大いなるものの側から観た道理であるから、時代は必ずこれを進めていくのです。
その時に、願わくば人間一人ひとりが自らの自我を超えてこの視点に立ち、その延長に生きることを少しでも早く成し遂げることを望むものです。
個人の希望はどうでもよいのです。個人の小さな使命や願望の下に、大いなる使命を果たすのではないのです。個であっても、大局の使命は持てます。それは、私たちは皆、この大いなるものの一部であるからです。
物理的には人間には限界がありますが、霊的には無限の存在です。なぜなら、私たちはこの大宇宙の中にあり、大宇宙と共にあるのだから。そのことを、霊的には悟ることができるのです。一日の些細な行いであっても、人間がその姿勢を改めることで、大いなる宇宙と共に世界を生き、救っていくことができます。人間にはそれだけの能力があるのです。
その揺るぎない心をもって、互いの違いを生かし、補い合い、その喜びを分かち合うパートナーシップを組む。それこそが大切であり、私たちが生まれてきた意味です。それは、過去に個として修業を重ねた者たちには到達し得なかった境地です。
どれほど歩みが外れたとしても、人間の成り立ちの根本は、その尊き仕組みの下にあることを忘れてはなりません。そこに気付けたことの喜びを持ちたいものです。そしてそれは、ひとりの者が気付きとして発しても、あまり意味がありません。これを発するためには、同じ価値観をもってそれを受け取る対極の受け皿がないと、発する響きは微細なものにしかなりません。そして、その対極の受け皿が無限に連鎖していけば、世界は変わるでしょう。人間は個人ごとを離れ、大局を生きることを求められる時代に立っています。かつて孔子の語った「大同世界」は、古い時代の話であり、人間の生き方に限定されたものではありますが、大局を歩むための悟りの出発点でもありました。
人間は魂を与えられ、自らの手の中にはない世界に降ろされました。肉体を返上した魂はどこへ行くのかも、自らが選ぶのではなく、自らに相応しいところへしか行くことができません。しかし逆に言えば、自らに相応しいところへ行ける、ということでもあります。
その最終段階の結果は、日々の生活をどのように積み上げてきたかという、それぞれの人生の道のりの先にあります。ですから、日々を怠ってはなりません。この尊き道には、特別に美味しい食事もなければ、お金が山と積まれているわけでもありません。この世界において最優先するべきことに歩みを進めるからこそ、そこに価値が生まれるのです。
その人生の過程で、自らの事に限定し、心がうきうき、わくわくするのは、心が低い位置にあるからです。自然療法プログラムを受けている人の症状が良くなっていくと、主治医としての私の心はうきうきわくわくしますが、自分自身のことに対しては常に冷めています。人間は、自らが低い位置にいて、高い所を目指す時に、うきうきわくわくするものです。そこに差があることで、そうなります。それはある意味、そういった美味しい餌(高揚する心)で、天は人間を釣り上げているのかもしれません。
天に近い所に意識があると、特別にうきうきわくわくすることはありません。意識が低い位置にあると、例えばカジノやゲームなど、人の心を刺激するものの依存症にもなります。それはうきうきわくわくするものですが、同時に落とし穴も常に伴うものです。今や、人間は皆、欲望の依存症になっています。その結果、欲望が人間を支配するようになりました。その依存症に陥っている自らを取り戻し、自己コントロールすることによって、初めて自らを有効に活かせるのです。それには、己を離れ、高い位置から俯瞰して捉える目線を持つ必要があります。それは、現代を生きる人々には難しいことであるとも言えます。
得をしようと思えば、「何か得するものは落ちていないか」と目線が下を向き、視野が狭くなります。その目線の違いを自ら認識し、心次第で自分はどちらを向いているのか、判断する必要があります。その時に基準となるのは、物理的な上中下ではなく、霊的な目線です。今日一日自分はどこを向いていたのか、その目線を振り返れば、自ずとわかるはずです。
私は近ごろ、日々の作業の中で、充実した時間を過ごしています。それは、作業を目的としているのではなく、今ある流れに乗っていこうという、その姿勢の延長に作業があるからです。それは、自我で算段をするのではなく、流れに沿い、今するべきことを淡々と進めていくことになりますから、結果として良い時間を過ごすことになります。自然療法プログラムを通しても、心身を病んだ人々と向き合うことで、不要な思いを乗せない、ある意味冷めた視点を育ててもらいました。私がどれだけ相手を治そうと思っても、私の誘導に乗らない人もいるのです。ですから、そういった人々と出会った時には、「可能性は彼らの中にしかない」と、相手を治そうとする自らの欲を捨てるのです。
人間という種の歴史は数百万年、猿人を含めると一千万年の歴史があるそうです。その種としての歴史を紡ぎながら、人間は今もこの世界で個として地上に降ろされ、生まれてきます。他の生命は種として地上に降ろされ、その種を存続させ、大いなる生命の大循環を表現するために存在しています。
人間は、強い自我を持ったがために、自我の欲望に囚われて大循環を破壊する存在にもなれば、自らの自我と対峙し、それを超越することで、この世界の全容を捉える広く高い視点のもと、世界をより良き方向へと導くコンダクターの位置にも立てるのです。
古の中国の「天盤の巡り」では、文明の発祥からおよそ3000年間の「青陽期(王の時代)」、その後約3000年間の「紅陽期(聖人の時代)」を経て、1927年より「白陽期(民衆の時代)」が始まることが予言されていました。それは、これまでのように王や聖人が人々をリードしてきた時代から、個々が自ら宇宙と対話することによって真理に目覚める「個の悟り」の時代に入ったということです。
「個の悟り」とは、特定の経典を学ぶように、個の救済を目的としたり、個々の満足を得るためのものではありません。個が悟るということがウェーブになると、人間の価値が本来の位置へ戻り、人類の種としての役割を果たすことになるのです。
今、あるイメージが浮かんでいます。それは、女性のお腹の中に卵があり、そこに魂の種が入り、子宮のベッドで新しい命として育まれるのと同じように、個々の人間もまた、人として生まれてきた本来の役割や尊さを自らの中に表現するため、長い時をかけて築かれてきた生命の土台の上に、肉の身体を与えられ、そこに魂を宿らせて、地球上で育まれてきたということです。
今も私たち人間は、ここ地球上での様々な修行の結果もたらされる、個の悟りのために生きています。個の悟りがウェーブとなり、連鎖すると、初めて人類としての悟りがもたらされます。それはつまり、「コミュニティの悟り」です。
お釈迦様の時代は、「個の悟り」の探究でした。その後宗教は「個の悟り」をご利益のように扱い、その本来の目的を見失ってきました。21世紀の悟りは「コミュニティの悟り」であり、それはお釈迦様の時代より宇宙的に進化したものとして、私は語ってきました。しかし、今私が語っているのは、21世紀から30世紀(3000年)に向けての悟りとして語られているものです。いずれ人間がもっと大局に生き、魂が進化していくと、肉体を超越してこの宇宙を運営していく存在となります。
私たちが肉体を持って生きるこの物理的世界は、背景にある霊的世界が運営しています。我々人類も、役割として、そこに立てる時が来るのです。今は、地球生命生態系の中の一生命である、人類という枠の中での役割を果たしていますが、この間違いが一体どこから始まっているのかを、徹底的に紐解いたなら、それは「30世紀の悟り」へと到達するのです。
個々の悟りは、宇宙の大樹に、花を咲かせます。その一つひとつの花は小さくとも、一たびそれが連鎖し、無数の花々が咲き出せば、それは乱舞の如く宇宙に花開く、満開の大樹となるでしょう。そしてその大樹に、個の花が咲き切った時、この宇宙の実体である大いなる精神の花 ——— 宇宙生命曼荼羅が誕生するのです。