コミュニティとしてのブッタ

「なかなか、自分の姿を客観的に観ることは、難しいよな。だから、たくさんの人とおって、互いを見合わなあかん。」

今朝のいさどんから出たひとことです。「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思いたいひとは、とかく人から何か指摘されると、自分を守ろうと対立を生むことがあります。「自分のことを知れば知るほど、自分のことを知らなかったことに気づく」人は、常に謙虚に、素直にまわりの人の言葉を受け取ることができます。さあ、どちらが自分にとっても他人にとっても、幸せな人生を歩むことができるでしょうか?

木の花を訪れる人で、今の生き方に行き詰まりを感じている人の中には、「大勢で住むと仲良く楽しそう!」とすぐに移住したいと思う方もいらっしゃいますが、その仲良く楽しく暮らす生活の奥には、それぞれが「自分の心を磨いていく」志があります。心のどこかで、「今の自分を変えたくない」と思う人には厳しい道かもしれませんが、「どこまでも成長し続けたい」と願う人には、楽しく希望にあふれた道です。

ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンの以下の言葉は、まさに私たちの心をそのまま表しています。

「次のブッタは人間の姿で現れることはないだろう。次のブッタはコミュニティの姿で現れるかもしれない。それは他者を理解しようと努め、互いに慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大事なことではないだろうか」

ひとりひとりがリーダーとしての意識を持ち、神様の御心のままに、みんなの心をひとつに合わせていくこと。昨夜の大人会議でも、みんなの心を確認する大切な時間がありました。私たちはそうやって、日々、互いの心を常に確認しながら、神様の心をみんなで表しています。


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