ちょっとブレイク~みんなでつくるいさどんブログ~

ただ今、いさどんは京都方面に出張しているので、「おやじの館」は休館中です。プログもお休みにする予定でしたが、いさどんブログの読者の方から下記のような提案をいただいたので、みなさんにもちょっと紹介したいと思います。

「今のブログの書き方だと、『木の花はいさどん個人を絶対視して崇拝する場』『いさどんを教祖として、それを信じる人の集まり』というふうな間違った印象を与えがちなので、『いさどんは、大黒柱としてみんなの尊敬を集める存在だけれど、でも同時に私たちと同じ神様のもと学びの途中にある存在』『木の花は、世界の調和に向けた道具として己を磨いていく自立した個人の集まりであり、いさどんはその一メンバーであると同時に、みんなに慕われ頼られている存在』という表現を心がけ、万人にわかりやすく受けとめやすい形や内容で提供していくことが大事なのでは?」

「それから、『神様』や『宇宙の意志』といった表現を使う時も、読む側にとって千差万別の理解をされていく言葉だと思うので、たとえば、『私たちは、特定の宗教の神ではなく、この世界や宇宙全体を成り立たせている自然の法則であったり、また宇宙を始め存続させているある偉大な意志のことを、神様と呼んで、そのこころのままに生きていくことを目指している共同体です』というような解説や、木の花としての言葉の定義をときどきブログに書くといいのでは?」という提案です。

早速、大人会議でこのことについてシェアしてみると、「神様を全面に出してもいい時代が来ているのだから、変にぼかさず、大切は大切として伝えていけばいいのでは?どんなにわかりやすく書こうが、万人に受け入れられるということは難しいのだから、心の大事は大事で伝えていくのがここの姿勢だね。それで求めている人には必要な出会いとなるのだから」というのが大半の反応でした。

ツꀀまた、これは私個人の考えですが、一番大切なのは、その言葉の奥にある心であり、その心を伝える言葉は二の次だと思っています。その言葉を含め、読む人がどう受けとるかは、読む人に100%おまかせしています。

そんな私に、いさどんは、「自分は伝えたいという欲があるから、自分だったらようこちゃんのような表現はしないな。ようこちゃんは材料だけを提供するけれど、自分だったらそれにメニューやレシピも一緒に提供したいと思う」と言います。

また、いさどんは、よく前日の大人会議の自らの発言をふり返り、自分の言葉がみんなにとって圧力となってないか、 それが出来ていない人にとって自己卑下をうまないか、私に聞いてくることもあります。いつだって、自分が何をもたらしているか問うているいさどんの姿勢から、私たちは学び続けるものである、ということを改めて気づかされます。

この世の中に、何が正しくて間違っているのか、ということはないと思います。ただ、「自分の思い、言葉、行動が、自分にまわりに何をもたらしているのか」、それが調和をもたらしているのか、不調和をもたらしているのか、その結果が与えられるというのが真理です。

いさどんブログ「おやじの館」は、こちらが一方的に何かを与える場ではありません。読む人との双方の交流があり、共に作っていく場です。みなさんの中にも、そういう意識があるとありがたいです。ですので、いつだって、みなさんからの質問、提案を喜んでお待ちしております!


2 thoughts on “ちょっとブレイク~みんなでつくるいさどんブログ~”

  1. 2020年現在でも 2009年当時のブログ読者の方が書いているのと同じ印象を受けるように感じます。

    一般的に各種宗教団体が用いることの多い神といった呼称を、木の花流の解釈を説明しながら用いたり、「マインドコントロール」といった特定の強い印象を与える語彙を、別の意味と説明しながら 「木の花も用いている手法言える」 などと記事にしたり。

    別の組織の取り組みを否定したり 一般的な語彙を否定しながら別の意味として 用いたりすることは  木の花の活動を伝える目的にとって、絶対に欠かせないことなのかしら?

    木の花の手法を説明するときに 淡々と事実を述べることができると思います。

    シンプルな摂理のはずが、ややこしく感じることが少なくありません。

    「神」とは表現せず、「宇宙や自然の摂理」と伝えることで足りるのではないか、と。
    差し障りなく 誤解も少なく無く伝えられる。

    高次元の 高尚なエネルギー体になればなるほど、物質や言語とはかけ離れた存在になるといいます。そのため、地上で何と呼ばれようが頓着しない と聞いたことがあります。

    言葉伝えるための道具なので、 広く普及した語彙を 自在に読み替えてしまうと 読み手は混乱してしまいがち。

    理解を広めるには 用語と語彙の扱いについて整理が必要と思います。共通理解を他人とシェアする手段としてです。学術論文と同じで、多くの人と意見交換して叡智積み重ねていくには 共通言語が不可欠だからです。 同じ日本語であっても 使う人の意図によって名詞をはじめ言葉の意味バラバラだと 何を言っているのか 正しく伝わりません。

    1. なるほど。そういった視点なのですね。がんばってください。

      木の花の歩みは非常に不器用な歩みであり、その根底には、どのような捉え方(批評)があろうとも、出会った真実を正直に表に出して生きていく、ということが原点にあります。その先に何が待っているのかは、我々の与り知らぬことであり、いろいろなご意見をいただきながら、その中で共鳴してくださる縁を紡いでいく生き方しかできません。なぜならば私たちは、起こる出来事に対しても、出会いに対しても、そこに自らの意志を何も介入させずに生きていくことがモットーだからです。

      これまでの時代は、人間がそれぞれに自らの主張を正しいと思い、豊かさを追求してきた結果、その正しいと思うことが地球規模の矛盾を広げてきたと言えます。ですから、現代人の考えを「ひっくり返す」(金神様の言葉)ことが、この地球規模の矛盾を次の時代に向けて解消していく歩みだと考えています。しかし現代人は、たくさんの人々の共感を得ることが正しいことであると定義し、自らの考えに同調する人々を求め、それが得られると自らが正しいという立ち位置に立つものです。

      私たちは、どちらかと言うと現代人の共感を得ないだろうと思う生き方を、今、あえてしているところです。それは、今の時代を生きる人々の考え方を根底から「ひっくり返す」(金神様の言葉)ことが大切であると考え、そういったことに共鳴する人々が、時代の進展と共に出現することを待っているところでもあります。簡単に言うと、宇宙に生きる私たちは、生きる(存在する)ことは「いただく」ことだと考えているのです。

      木の花の歴史の中で、いろいろな立ち位置で感じたことを、このようにして正直に外の人々にさらけ出しているのは、その証です。これからもこの姿勢は続いていきます。よろしくお願いします。(by ジイジ)

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