今朝7時過ぎ、「おはようございます」と厨房に入りながら、あいさつをするいさどん。とても昨夜(今朝?)、夜中の1時半に3日間の京都出張から戻ってきたとは思えないほど、普段通りのいさどんです。
早速、いさどんがいなかった間、いさどんブログに関するメールが読者の方からあったこと、それについて皆で話し合ったこと、それをブログに載せたこと、を伝えると。。。
両手を前に出して、「ええんじゃない。要は何でもいいのだから」といさどん。
また、ブログの中の「自分は伝えたいという欲があるから、自分だったらようこちゃんのような表現はしないな。ようこちゃんは材料だけを提供するけれど、自分だったらそれにメニューやレシピも一緒に提供したいと思う」ということについて、「自分は、いつも相手に提供しすぎてしまうからね。ぼくみたいにメニューやレシピも与えてしまうと、新しい発想がうまれるのを妨げることになるかもしれないから、ようこちゃんみたいに、材料だけを提供するのでぼくはいいと思っている。」
「未完成を提示することで、皆で考えるチャンスをつくる。自分は、つい完成したものを与えたいと思ってしまうけれど、でも、それだと、いさどんの考えになってしまうからね」と、微笑みながら話すいさどんの眼差しは、普段にもましてあたたかいものでした。
さあ、あなたは、完成したものを与えられることに幸せを感じますか?それとも、未完成なものをともにつくりあげていくことに、喜びを見出しますか?
いさどんも、無事、京都出張から戻ってきたことですし、「おやじの館」も本日より「開館」です!
いさどん お帰りなさ~い。
いさどんブログ「おやじの館」開設、本当に感謝しています。
毎朝ブログを読むと、まるで今日の私の心にぴったりのエールを送っていただいているような内容で、勇気が沸いてきます。
まるで、大人会議に参加しているような気になってきます。
一人では学べないので、「みんなで作っていく場」を与えてくれてありがとう。
完成か未完成か?
完成のほうが楽だけど、常に外に対象がないと進めない気がして、いつまでたっても自分じゃない感じがします。
未完成なものをこういった場でシェアしながら、自分のアンテナに触れたことを実践し腹に落とせれば、他の誰でもない自分になれるのかな?でも、これがなかなか難しいですね。
いさどんもようこちゃんもみんな違ってそれでいいんですね。
「ええんじゃない。要は何でもいいのだから」
このせりぶは以前別の方からも聞いたことがあります。 そのときは全く意味がわからなかったのですが、最近ようやく「なんとなく」わかるようになりました。 「何でもいい」は、私流に解釈すると、すべてあるがままを受け入れる、また最善のことが起こっているということを信頼する、ということです。 これがなかなか、言うは易し、でもそれを本当に実践するのは超~難しくて四苦八苦しています。 何やらいさどんにエールを送っていただいているような感じがするので、不肖ながらがむばりますぅ~。
ちなみに、私は完成したものを与えられるために努力してそれをゲットする、という人生を長く歩んで来たような気がします。 後から振り返ってみると、それはそれでその時は幸せだったような気もするのですが、「与えられる」ことが当たり前になり、それ以外のシチュエーションに全く対応できない自分に現在直面していて、正直言ってげんなり。 やはり人間は創造することが一番自然な状態なんだなぁ、と思う今日この頃です。
ゆきえちゃん、コメントありがとう。
そうなんです!いさどんブログは心磨きのヒント盛り沢山!
ひとり大人会議にぜひ使ってくださいね。
でも、やっぱりひとりでは難しい。。。
そんなときは、質問でもコメントでもどしどしお待ちしてます!
完成か未完成か。
いさどんが完成したものを与えてくれても、
きっとそれは完成してないんじゃないかと思うんだよね。
イラストやデザインをする時とにていて、
できないとき浮かばない時、いろんなものを見る。
とにかく。いっぱい。
それは発表されてるものだから、
完成されてたり、完成されてなかったり(と作者は思っている)ものだと思うの。
で、まりはそれからインスピレーションをもらって、今度はアウトプウトする。
この時、まりがどんなに同じようなものを作ろうとしても、
まず同じにならないんだよね。
模写したって絶対違うものになる。
だからどんなものを与えてもらっても、
材料だけでも
レシピもついていても、
きっとその人のその色、その味になっちゃうよね!
ちなみにまりの場合はどっちも楽しいよ。
完成されてたものをわたされたらもっといいもの、楽しいものにしようとするし
ないならないで、作るし。どっちもおもしろいです。