哲学を語りながら、流しそうめんの樋をつくる with なかのん

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ファミリーのなかのんです。

写真は、お祭りに備えて、流しそうめん用の樋(とい)を作成しているいさどんです。8mあります。この後、竹を使ってお箸と器も作ってくれます。いさどんは本当に何でも出来る人であらためて凄いなと思いました。

僕は補佐をしていたのですが、樋を作成しながらいさどんがしてくれた話がまた素敵でした。

もしすべての人が悟っていたら、この世はどうなるだろう?問題ごとは起こらない。静かな世界?それは理想の世界ではないよね。面白みがない。エゴを通じて学ぶこと。問題を通じて学ぶことに面白みがある。そう考えるとこの世界はゲーム。勝ちのないゲーム。起こることはすべて自分が望んでいること。自分の心のあり方が引き起こしている。その仕組みに気付かずエゴに捉われ不満を感じる人たちがいる。そういう人たちは抱える必要のない不満を抱えている。余計な不満。そういう人たちは負けている。その仕組みに気付き、エゴを手放す道を選ぶこと。そうして人はようやく引き分けに持っていける。

僕はそうだよな~と思いながら、質問しました。

すべては自分が望んでいること。それは分かっているのだけれど、自分の中に自動的に生じてしまう感情はどうすれば良いのかな?それが望ましくない感情の場合・・・

それは感情が起きる時に「起きているな~」と眺める。それを繰り返すうちに起きる前に感情の動きに気付くようになる。そしてその感情を止められるようになる。そういうふうに超えていけるよ。

なるほど。と思いました。いさどんの話は続きます。

怒りが生じた時、眺めていると怒っていない自分も同時にいるようになる。すると、自分は怒っていないのに、この場は怒るべきだよな~というように状況に応じて怒れるようになる。相手のために。怒っていないのに怒る。それはいかんだろうという憤り。

ここで僕は自分のことを話しました。

相手のために憤りを感じて伝える。でも伝わらない時、無駄なエネルギーを使うよね。そして伝えても無駄だからと憤りを感じないようにする。するといつの間にか自分が無力感に陥ってしまうことがある。

それを聴いていさどんが掛けてくれた言葉が心に響きました。

それは自分が正しいという思いに捉われているからだよ。まだ時期ではないのだなと流しておけばよいのだから。でも捉われているということは楽しみでもある。

そうかと僕は思いました。

僕はまだまだ自分の価値観に捉われている。でもその捉われがそちらの方向への動きを生み出す。動きの中に可能性がある。学びがある。僕はこれからまだまだ学んでいくのだなとあらためて思いました。


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