「真釈天技場」という文字が下りてきて~番外編

いさどんブログは、出るたびに毎回大人会議でシェアされ、メンバーの心磨きの材料として、大事を確認する場として活かされています。昨夜の大人会議で、「真釈天技場という文字が下りてきて~後編」をみんなでシェアしたあと、いさどんがみんなに問いかけました。

自分で自分に問うてもらいたい。この稀にみる大事な生き方に自分が出会って、そこからみすみす離れていくのか。

僕は、この心をいただくようになって、辛くて仕方がなかった。それは、自分の愚かな部分を捨て切れなかったから。でも、僕が辛い心を上に向けたら、お釈迦様は、「ならば、その心をやめるか?」と言われた。「この道を行くのをやめるか?」と言われた。

腹が立った。自分に対して腹が立ったというよりも、お釈迦様に対して腹が立った。

「この貴き道を知らずに行かぬものは、世の中にいっぱいおります。けれど、ひとたびこの貴き道に出会って行かぬものがおりましょうか。私は、そんなことは絶対に信じられません。今、自分が辛いのは、愚かな自分がいて、それをとっていくのが辛いだけです。けれども、私は絶対にこの道を貫き通します。どんなに辛くともやり通します。ただ、今、私が愚かであるがために辛いことは、このような自分の姿を見てご理解下さい。言わずとも、あなたはすべてお見通しだけれども。だから、私は弱音は吐きますが、この道は生き切ります。」

その意思があったなら、どんなに出来が悪くても行ける。その決意があれば、闇の中にいても真理に向かって歩んでいける。

この貴き道を貴いと思うならば、行ったほうがいい。でも、自分の欲望を叶えていくこと、自分の中に湧き出てくる心の迷いに魅力があるのならば、そちらに行ったほうがいい。その人にとって、この貴き道は貴くないのだから。

何人(なんびと)であろうと、それまでどんな生き方をしていようと、たちどころに優れた生き方、誇りある人生に変わることができる。でも、それはその人の心次第である。

『仏の悟りは、仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにある』と言って、優れた生き方は、その人のためにあるのではなく、世のため人のためにある。それを悟った人には、人々に伝えていく責任がある。それこそが優れた生き方。それが、ブッダとして、キリストとしての生き方である。

そして、その素質はすべての人に備わっている。


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