改訂版・瞬間瞬間、所有の心を解放していけば

いさどんより:
先日このブログを公開しましたが、もう一度改めて読み返してみたら、修正したい箇所が何か所も出てきました。そこで、改訂版をみなさんに読んでいただければと思い、再度ブログにあげることにしました。

PDFファイルのダウンロードはこちらからできます

今回のブログは、久しぶりにいさどんの朝のひとりごとです。

人と比べると、僕は心が複雑にまわる。良い方にまわれば、それだけ配慮が出来て広く多様に物事を捉えることが出来る。しかし、悪い方にまわれば、策略したり想いの中に迷うことになる。そういうことから、悪い方に行こうとする自分を監視して、自らにも人にも良いことが現れるようなものの捉え方を常に心がけている。しかし、最近は悪い方に行こうとする心が自分の中に現れてくることはほとんどない。もし、僕が必要なことで伝えないことがあるとしたら、それは相手のために伝える時期をずらし、旬を待っているのである。そういう意味で自分の中にやましい気持ちはない。自らを評価して暗い部分はないと今は胸を張っていられる。

僕は長年沢山の人と接してきた。僕と接する人たちの多くは、他の人には話せないようなことも心を開いて話してくれてきた。誰にも話せないどころか、自分の中の心の構造やそこから来る動きを把握出来ない人たちに沢山出会ってきた。そのような人たちは、今まで誰にも話せなかったことが溜まって病気になっていたり、様々な困難を自分のまわりにもたらしている。そういった場所は、僕に与えられたいくつかの役割の中でも特に大切なものだと思っている。役割として木の花という共同体の在り方を提唱し、ここまで歩んできたが、その歩みの中で人の心を解明し、人々にその仕組みを伝え、それによって人々が混乱から解放されていくことに出会ってこられたことは、大きな喜びだった。だから、今までお百姓になりたいとか、エコビレッジを推進していくとか色々なスタイルを取ってきたけれど、それは付属してあることであって、僕が役割として大事だと思っているのは、広く捉えれば人間社会全体に、狭く捉えれば人間ひとりひとりに、心の成り立ちを伝えること。そして、人の人生は心の成り立ちが反映されて表現され、そのカラクリを知ることが人が生まれてきた目的、生きている目的であり、そして死んでいく先に次につながるのである。これは生を認識した時から、人間にとってもっとも大切なテーマである。

僕には思考パターンというものがあって、それは心の奥の方に折りたたまれた長い手紙のようにしまわれてある。それを端から順番に引っ張り出してきて、ぱたぱたと広げながら読み上げていくようなものである。どんどん端から引っ張ると広がってくる。それを読み上げていくと、その中には答えがある。そして記憶がよみがえってくる。ただ、僕にはその多くを知りたいとか伝えたいという気はあまりない。それは自分のためというよりも、役割のように捉えているからである。

今まで僕は沢山の人に接してきて、人の性質というものを学んできた。ひとりひとり人間には自由が与えられており、生まれてくる時には過去の魂の結果を持って生まれてくる。それがその人の魂の今世の出発点となる。そして、それをもとにして今世をどう生きるのかというプランが組まれている。前世で死んだ時から今世生まれてくるまでに、そのプランを練って生まれてくるのである。つまり、私たちの魂は今世どう生きるのかということをおおむね掌握しており、それをもとに生きていくことになっている。だから、人に起きる様々な悩みや問題事というのは、その人の奥のところではすでに掌握済みのことなのである。人は肉体をいただくことによって五感的思考の方に影響を受け過ぎてしまうと、内なる声を聞けない状態になっていくのである。それは人生を修行と捉える時には大切な仕組みであり、この世界の仕組みとしてわざわざ仕組まれているのである。その仕組みは私たちの自由を完全に奪うようなものではない。そこでは個人が練ってきたプランが元となり、推測するに70%は自由が与えられ、残り30%は与えられたままに歩むように出来ている。そうすると、自らの魂やこの世界について悟っていくことも、プランを大きく外れて低い評価を得ることも、その人の取り組む姿勢にかかっているのである。それだけ人生には自由が与えられ、そういった仕組みの中で、人々は生まれてきた目的をひとつひとつ日々果たしながら、自らの学びのための修行をしていくというのが人生である。その修行の延長に、ふさわしい問題事を与えられながら生きている。その人々が出会う問題事に関わって、その問題事がどういった素姓のものであるのかということを伝えてきた。

僕がそういった仕組みを伝えてきたのは、人々が人生の意味を悟って、自らを高めていくためである。高めるということは何かを獲得することではなく、真実を知っていくということ。この世界の普遍の構造、それが元となる仕組みを知ることは、普遍ではない心の癖など、自分がプランを練ってきた70%の自由の部分を知ることでもある。そういった思考を展開しながら人は日々を生きている。

人というのはその時その時の悟りや学びを持続させるのはなかなか難しい生きものである。そして、知らない間にまた元の自分、それまで所有してきた心に戻ってしまうものである。ここでも多くの人たちとの出会いがあり、「己を捨てて世のため人のために生きる」という大切を伝えてきた。ある人には病気を通して、ある人には人間関係のトラブルを通して、なぜそれが起きているのかということを事例に合わせ、そして大きな意味でこの国や人類、この世界の在り様を見て、それに照らし合わせながら伝えてきた。そういったことを伝えても、そのことをすぐに受け取りそういった生き方に切り替わる人というのはなかなかいないものである。それは人生は修行であり学びであるから、聞いたからといってすぐに出来るものではないのである。すぐに取り入れられるような人であれば、最初からその問題事をもらわないものである。多くの人々はまだ自分の中にある問題事の種を表現しながら修行していく立場にいる。僕はそういう悟り切れていない人々と接しながら、同じように人間の在り様を学んでいく人生をいただいてきた。

そういった中で僕が想ってきたのは、「人にはよく裏切られる」ということ。それは今のような捉え方をすれば、人間は修行の身であり未完成であるがゆえに、心が定まっていない。だから、真理のところに少し触れて仮にそこで心が動かされたとしても、そのままであり続けるような人は少ないのである。ただ、こうやって生きてきて、この人は不動の精神になっていると思う人は何人かいる。そういった人たちとは生涯どころか、このいのちを世界に返してからも、同じ道を歩む存在だという認識を持っている。しかし、木の花以外のところでそういう人たちがいるのだろうかと振り返ってみると、そんな人はほとんどいなかった。そして、他の団体でそのような人たちがいるのかと思うと、そういう人たちとは出会ってこなかった。仮にその意識に近い人たちが何かで盛り上がったとしても、結局その人たちの執着で当初確認し合った心が色褪せてしまい、縁が切れていった。そういった人に沢山出会ってきて、そこで無所有、執着しないという心から、「いいんだよ、それが人というものであり、それは学びのプロセスだから」と、そういった人を認めてきた。しかし、その逆に自らはその精神を変わらず持ち続けていこうという想いを強くして、ここまで歩んできた。人はひとりひとり自らの学びのプロセスの中にいて、その人にふさわしい人生を歩んでいるのであって、それを特定の意識を持って捉えると裏切られたことになる。それもまた自分自身の学びとなり、ありがたいものであった。

そうしてまた新しいものに出会い、今まで歩んできた。そして、今回新たな出会いが起きている。それはヤマギシ会との出会いである。僕らは今までの情報で、違ったヤマギシを想像していた。しかし、実際に出会ってみたヤマギシの人々は、本質的に私たちと同じ歩みをしてきた。別々の歴史を通して歩んできたものたちが、同じものを求めてここで出会ったのだと思う。そこで僕の中に想いが湧いてくる。この関係はどこまで持続するのだろうか。私たち流に言うと、神はこのことを通して何を表現され、何を私たちにもたらそうとしておられるのか。この行く末にどのような目的を持たれているのかを知ることが、今の僕にとって大きな楽しみであるのです。出来れば双方の立場を超えて、「世のため人のため」にありたいものだと思う。

今この時に来て、遠く離れていた人たちの中からこの心を持ち続けている人々との出会いがぼつぼつ現れてきた。今までは身近にいるからこそ、そういう心をお互いに確認し合ってその心を持ち続けている人たちとの暮らしがあった。これからは離れていても変わらずその心を持ち続ける人たちがいる。そして、そういう人々が現れてきていると評価すると同時に、この人たちもまた執着の中で「やっぱり私たちとあなたたちは違うよ」と心が変わって離れていくのでは、という想いが僕の中に湧いてきた。僕はいつもそういう思考が湧いてくると、「それが信仰心というものの証で、どのような答えになっても、それはいただくということだよ。すべては善意から起きていることだから」というところで自分の心を収めていく。しかし、その前の時点では、「もしかしたらこの出会いもまた一時の熱のように冷めていくのではないか」と想う心が働く。そして、その心の延長に、「自らは冷めることのないように、同じ志を持ち続けていこう」と思うと、自らが育てられているのである。しかし、相手に対して時々疑心暗鬼の心が湧いてくる。過去に色々な人と出会う中で最初は盛り上がったのに、そのうちに冷めていくことになり、「あの盛り上がりは何だったのだろう?あなたたちの盛り上がりはそんなふうに持続しないものなのですか?」というようなことがよくあった。

だから、ヤマギシに対しても一方的な疑心暗鬼を持っているところもある。あれだけの組織と歴史があれば今までも色々なことがあっただろうし、色々な人がいるのだから一枚岩にはなかなかなれないだろう。そんな中で、次のステージへ移行する時には抵抗しようとするものもいれば、痛みが発生することも当然あるだろうと思う。それはよく理解出来る。ただ、この人たちは過去にも沢山そういう経験を経てきているから、きっと乗り越えてくれるだろう。上下がないとは言え、その中心的な役割を担う人たちは、やはりそこでは心が痛む立場に立つことにもなるだろう。しかし、そういった理解を持ちながらも僕の中に悪心がひそんでいる。その心を超えていくからこそ、新しい世界が生まれてくることを知りながらである。

僕の中にある悪心は、そうやって疑心暗鬼になる心である。「もしかしたら、この出会いは一過性の熱のように過ぎ去っていくものなのかもしれない」と想う心である。なぜそう考えるのかというと、今まで出会ってきた人々の中にそういった人々が沢山いたからだ。それで人間に対して疑心暗鬼なのである。では、それに対してどうやって信頼の心を取り戻せばよいのか。それは、この世界を動かしている存在が何かの目的のもとにこの世界を表現している。その延長にはこういう心の波が必要であり、その存在がこの波を起こしているのである。それを自らの中に見て、自分にとって予測出来ること、出来ないこと、歓迎出来ること、出来ないことと仕分けするところから疑心暗鬼が生まれてくる。しかし、人生のすべてはいただく修行の場であり、疑いの心はそのバロメーターである。そうすると、まだ疑心暗鬼の心が出てくるということは、悪心があるということになる。それで、「この心がどこから出てくるのか?」と振り返っていくと、「信ずる心を忘れている。信じることを忘れているからこそ、疑心暗鬼の心が出てくるのだ」というところに立ち返る。大元にある善意を取り戻せば、その心は打ち消されていく。そして、どのような答えが出ても、善意のもとに新しいステージを与えてくれるための道としてその出来事は起こっているわけである。そういうふうに受け取っていく。そして、そこに立ち返るのである。

今こうやって振り返っていくと、整理が出来てくる。僕の中に悪心があると気づいた時には、疑心暗鬼がまだ残っていた。しかし、自らの心を眺めながら、それがどこから起きているのかを分析して捉えていけば、その発信源に行き着き、その発信源から出る歪みやギャップから、私たちがこの世界に生かされ、生きる目的が見えてくる。その理解のギャップの部分で人間は心の波を起こし、疑心暗鬼になったりする。そうやって、本来捨て去るべき心は波として出していけば、それを分析しながらその原因を知って取り去っていくことが出来るのである。その作業をしていけば、常に人は安定した志を持って変わらず歩んでいける。今回の悪心の出所は、最近のヤマギシ会との出会いの中で、「ヤマギシの人々も、これを機会に新たなステージに行くのではなく、またいつか自分たちの執着の中で心が変わらず、この流れを受け取れないで所有の中に戻っていくのかもしれない」と思う心である。これは先に進んでみないとわからないことである。なぜならすべてはいただきものだからである。見てみなければわからないことなのに、何となく疑心暗鬼がそこに出てくる。しかし、ここで気づかされるのは、それは自らが学ぶための疑心暗鬼だったということである。それは信じることを忘れた一人相撲のようなものである。

ヤマギシ会との出会いは、今までの歩みは違っていたとしても私たちと同じものの捉え方をして、日々研鑽していく人たちとの出会いだった。そして、心の変化を喜びとする人たちに初めて出会った。そういう特別な出会いであるから、この人たちの気持ちが変わっていくことはないだろうと思う。しかし、ヤマギシの人たちの中には相入れなく別れていく人たちもいるだろう。そして、ヤマギシの人たちもヤマギシとしての癖を持っている。僕が長い間人間と付き合ってきた結果、どこかに「人間とはそういうものだ」という固定概念がある。しかし、それを固定してはいけないのである。なぜかというと、それは時代と共に変化し、その存在の意味も変わるからである。今、木の花にこういった生活がある。そして、時代が変化していく必要を感じる出会いをもらっている。そこでは信頼するということで、未来をいただいていくことだと思っている。

そうやって、私たちは常に瞬間瞬間、所有という心から解放させるための修行をもらって生きている。人生は修行、まことにありがたいことである。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です