人生は一本道

農業高校の先生を目指していた24歳のカトケンは、昨年1年間自然農法センターで学び、今年の1月からは1年間の予定で木の花で農業研修を受けていました。2月下旬のある日、「自分について知りたい」ということで、いさどんと面談の場がもたれました。

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カトケン:
今日は「自分のことを知りたい」と思って面談を申し込みました。あと、「心を磨くというのはどういうことなのか」と「家族関係について」も聞きたいと思っています。よろしくお願いします。

いさどん:
まず、自分のことも、心を磨くのも、家族についても、なぜそういうことについて知りたいという発想が生まれてくるのかということです。自分の内から湧き出てくる感情や欲求は、理由があって湧き出てくるわけです。人間というのは思考を持っているものです。その中で賢明な思考を持っている人はなかなかいません。たいていは不健全な思考を持っていて、それを外に出すことと内に秘めておくことを使い分けて生きているのです。だから、人間は高い能力を嘘つきの方に使っている人が多いことになるのです。

カトケン:
嘘つき・・・?

いさどん:
普通の人間というのは本音と建前を使い分けて生きているということです。そうやって、日々ひとりひとりが自分の物語を生きているわけです。持って生まれた魂にふさわしい自分自身を出していくことが正直ということです。それに対して、正直を出そうとした時にそれを許さない環境をもらっている人もいます。

例えば、あなただったら「賢太」という陰性で物事に対して積極的に行動をとれない人が、陽性の父親と母親のもとに生まれました。父親は「物事はこういうもので、こうすれば良いのだ」と自分の世界で自己満足に生きる傾向の人です。こういう人は頑固者で自分の考えを曲げない人です。

カトケン:
そうですね。

いさどん:
他人のことを見れば、「あれはああだから、こうなんだ」と決めつけるくらい、自分が強く頑固者です。そういう人と、あなたの母親のような自分が強いタイプの人が一緒になっていること自体がストレスです。どんな事情があっての結婚なのかは知りませんが、これは珍しい組み合わせです。62歳と61歳で僕らの時代だから、恋愛もOKの時代だったからね。団塊の世代だし、神田川や同棲時代が流行っていた頃だから、意外と自由だった。そういう時代にこういう組み合わせで結婚をしたということは、何か事情があって結婚したということだと思います。今、父親が62歳で母親が61歳で3人兄弟の長男のあなたが24歳だから、これを計算すると、あなたは父親が38歳の時の子どもです。そうすると、結婚が遅い。子どもが出来ない期間が長かったのではなく、結婚するのが遅かった。だから、「歳が来たからということで結婚しよう」というように結婚をした人たちだと考えられます。

それから、お父さんは魂がごついタイプの人にも関わらず、次男坊で三人兄弟の末っ子です。お父さんが家の後を継いでいるのですか?

カトケン:
酒屋があるのですが、一つではなくて二つあるのです。

いさどん:
そうすると、長男と次男で別々に後を継いでいるということ?

カトケン:
そうです。

いさどん:
お父さんは次男だけれど精神的にはリーダー的タイプです。魂の形を観ると、本来長男、次男が逆であるべきなのですが、そうすると、お父さんのようなタイプの人は「俺は次男だけれど兄貴よりは筋が通っているし、家を継ぐこともふさわしい」という自負心があるのです。自分が強く、他者の側に立ってあまりものを見ないタイプです。

それに対して、お母さんは理論的でおせっかい焼きなタイプです。どういうおせっかいを焼くのかというと、「こういうふうじゃないとダメ、ああいうふうじゃないとダメよ。こういうふうにしたら、ああなってしまうから、こうしないとダメよ」というふうです。その心が特に強く現れるのは子どもに対してです。パートナーが自分の思い通りにならずに対立関係にあるから、そのはけ口が子どもに向けられることになるのです。そうすると、第一子で長男として生まれたあなたは、子どもの頃から母親の思うがままに育てられる対象でした。あなたは親が言うことに対して応えてきたけれど、この場合親の能力が高いので、ある時あなたが親の意向に沿わないと気づいた時に、「これは仕方がない。子どもには子どもの人生があるのだし、私たちのことは私たちで考えましょう」という結論に到達します。つまり、親は他人に対して依存しない体質なのです。

しかし、親が子どもの頃からあなたに対して期待をかけてきて、それに対して応えようとしてきたあなただったから、あなたの中に本当の自分を表現出来なかったという感情が残っているのです。

カトケン:
・・・そうですね。

いさどん:
今、弟たちふたりはどうしているの?

カトケン:
ふたりとも東京に住んでいて、東京農業大学に通っています。

いさどん:
なぜ、農大なの?

カトケン:
お父さんが「これからは農業が大切だ。今後環境が悪くなっていくから、そういうことを学んでいきなさい」と言っていたからです。

いさどん:
「もう、俺たちの頃のような仕事の時代じゃないぞ」ということか。

カトケン:
はい。それは小さい頃から言われてきました。

いさどん:
ただ、親が考えて親の言う通りに進んでいく人生というものは、誰でもある時気づく時が来るのだよ。「俺って本当にこれがやりたかったのだろうか?」と。お父さんからしてみたら、「これからは時代を読んで、こういうふうだから、こういうふうにしなければいけない。俺の言うことは間違いないから、こうしなさい」と言うのだろうけれど、それだけで子どもは納得がいくのかといったら、無駄もやりながら成長していくんだよ。

あなたは真面目に親の言うことを聞いて、大きくなってきた。真面目なのだけれど、自分流の道の探し方、それは親というものと距離を置いて自分の道を探そうという心が出てきているのだろうと思う。それはなぜかというと、親の方からしたら親の思う通りになっていないという感情があるからです。

カトケン:
それは僕に対して・・・?

いさどん:
親からしたら子どもであるあなたを見て、「俺たちの思う通りになっていない」という感情があるのです。しかし、この親は能力が高いから、「まあ、仕方がないか」というところで納得しているのです。そこで親子の気持ちにギャップがあります。しかし、それよりもあなたの中には今までずっと親の存在が大きかった。それに対して、すっきりしていないあなたがいるのです。いつも自分のどこかに親というものの存在があって、そこから自立出来ていないあなたがいたということです。今後も、彼女が出来たり、結婚して家庭を持ったり、いつも人生の節目の時に親というものがあなたの頭の中に浮かんでくるのでしょう。

カトケン:
浮かんできますね。

いさどん:
しかし、親はあなたの希望がわかってきたから、もうあなたを自分たちの思い通りにしようと思っていないのです。ところが、特に身近な他者(親)に影響されてきたあなたが今もいるのです。親との気持ちにギャップがあるということです。それはあなたが親に対して依存しているからです。そういう気持ちがなければギャップなんて気にせず、距離が出来てくるから問題ないのだけれど、それだけ親との関係が深いからギャップを感じるという状態です。つまり、親から自立出来ていないということです。それが今のあなたの状態です。

本当はそろそろ自立して、「自分がどう生きるのか?」ということを捉えていくことが大切だと思いますが、どうですか?

カトケン:
何かを決めようと思う時にやっぱり親の顔が浮かんできて、自分で考えていてもどこかで親に方向を変えられるのではないかと思ってしまいます。それで今やるべきことに集中できなかったり、苦しい時があります。

いさどん:
あなたはずっとそうやって育てられてきたのです。さて、ではこれをどうするのかということはあなたの意志です。自分の本音のところを出したらいいのです。今まであなたは本音のところに問いかけるということをあまりしてこなかったはずです。どうしても他人の顔色を見て行動してきたあなたがいるのです。自分の奥にあるものに「本当に自分がどうしたいのか?」ということを問いかけ、それを引き出すことが出来るかどうかです。

カトケン:
僕は正直に生きたいです。

いさどん:
そういう意味では、今まであなたは嘘をついて生きてきたのです。今まで嘘をついてきたから、「正直に生きたい」と思うのです。今まで人の顔色を見て育ってきたから、正直を出せずに生きてきたということです。では、正直に生きるというのは具体的にどういうことですか?

カトケン:
例えば、その時その時で進路を決めていきたいなと思います。

いさどん:
そういう抽象的な言い方ではなく、人によっては精神性の熟し度が色々だから一概には言えないけれど、例えば「自分はこういうふうに生きていきたい」という方向性がすでにあるのかどうか?

カトケン:
まだ具体的にはありません。

いさどん:
でも、今ここで暮らしているよね。これももしかして、親が「これからは農業の時代だ」と言う延長にあること?

カトケン:
いや、自分の意志でここにいます。

いさどん:
ということは、親が言ったこととあなたの中にある目的は一致しているから、今ここで生活していると思うのです。

カトケン:
ここに答えがあるというのはわかります。

いさどん:
ここに答えがあるというのは、ここというものをあなたがどう捉えるかによってここに答えがある場合もあれば、そうでない場合もあるのです。そうすると、あなたにとってここに答えがあるということでないといけないのです。

カトケン:
僕にとってここに答えがある・・・。

いさどん:
私たちはここに答えを見出しているからここで生きているけれど、人によって価値観は色々あるのです。だから、その答えをここに見出した人にはここに答えがあるのです。あなたがそれに共鳴して、自立した個人としてここに答えがあると思うのであればいいのだけれど、「何だか楽しそうだから」とか「自分にとって都合がいいから」ということで駆け込み寺のようにここにいるのだとしたら、ここに答えはないわけです。ここの人たちは常に自立した人たちで、誰かについてきたり、親が言うから生きてきたということではないのです。そうすると、ここに答えがあるというのはあなたが自立して誰にも影響されないところで、「自分の人生の答えがここにある」と考えるのであればいいのです。

カトケン:
はい。こういう生き方が自分の目指している生き方だなと思います。

いさどん:
あなたは真面目だからね。それを「不真面目になりなさい」とは言わないけれど、これが大切な道と判断した場合はそれでいいわけです。それも個人の意志だから。僕の場合は30歳まで色々やってきて、この道に出会い、40歳から今の生き方を歩んできました。でも、あなたのように24歳にして大事が見つかって生きていくことは無駄なエネルギーを使わなくて済むし、それはそれでいいと思う。

僕の解釈からすると、この道は最終到達地点のようなものです。ここに到達するために、人は一般社会の中で色々なことを経験しながら、ここまで歩んでくるのです。ここからまた外れていく人もいます。自分の気持ちに正直というよりも、憧れのように他人に影響されてこの道に踏み出したものの、まだ十分に嘘も欲望も処理しきれていない人は、もう一回社会に戻らないといけないことにもなるわけです。それについてはどう思う?

カトケン:
社会に戻らないといけない・・・?

いさどん:
一般社会では会社のニーズに応えていれば、いい加減でも認めてくれるわけです。しかし、いい加減というのは本来それが社会の中の色々なトラブルの種になるのだから、賢明なものはそこを綺麗に処理していきたいものです。ところが、人によってはトラブルの種が魅力的に観えるわけです。タバコを吸うことでもパチンコをやることでも、低いレベルの恋愛をすることでも、意識の段階によっては魅力的に観えるものです。この道はそこのところを超えた学びの最終ステージみたいなものです。つまり、自分というものを超えて、世のため人のために生きていこうとする道だからです。

そうすると、その生き方を24歳で歩んでいこうとする時に、あなたは今までずっと真面目にきたから、不真面目をやらないで悔いがないかどうか?後から、「やっぱりもう一回不真面目をやりたい」とやり直すようなことはないかということ。それについてはどう思う?

カトケン:
不真面目というのはタバコとかパチンコとかそういうことですか?

いさどん:
それは何でもいい。それは人によっては真面目なことにもなること。例えば真面目にニコチン中毒になってタバコを吸いたいということもあるのです。でも、不真面目を全くしないで、ストレートに大事を歩む人がいてもいいわけです。それを確認しているのです。確認といっても、僕が今あなたの採用試験をやっているわけではありません。あなたが自分に問うてどうなのかということです。本当はあなた自身で知ることが出来ればいいのだけれど、「自分のことを知りたい」ということで今日の面談があるから聞いているのです。本来は、あなたが自分の中で自分に問えばいいことです。ところが、あなたにそれが出来ないということから、僕が代わりに親との関係を分析しながら聞いているのです。

あなたは親からのプレッシャーを受けながら、それでも心が歪まないで真っ直ぐ生きてきた。それで、そのまま最終ステージのような生き方にたどり着いた。それを今、「自分の道だ」と言っているあなたが、「本当にそれでいいのか?悔いはないのか?」と自分自身に問うてみるということです。ひょっとして先に行った時に、「恋に溺れてしまったから、ちょっとこの道を外れます」というようなことがあるかもしれない。それはそれとして、今自分の心を観てみてそういう気持ちがあるかないか?

カトケン:
自分の心の中に「農業高校の先生になりたい」という気持ちがあります。

いさどん:
それは前から言っていたよね。

カトケン:
それで自然農法センターで勉強していたのですが、頭に知識を詰め込むのではなく、心を磨いていった方が気持ちいいし楽しいなと思ったのです。心を磨いた後に勉強して農業の先生になって、心を伝えていきたいなという想いがあります。

いさどん:
公立でも私立でもいいけれど、農業高校の先生というのは一般の人です。そうすると、心を磨くことと農業高校の先生になるということは、あまり一致しているわけではないのです。心を磨かなくても農業高校の先生になれるわけです。農業高校の先生は文部科学省がつくったカリキュラムにのっとって教えることだから、そうすると今まであなたが歩んできた農業の現場とはちょっと反するかもしれない。コスト面を考えるような国の農業政策に合わせた農業を教えることになります。そういうことは妥協していくつもり?

カトケン:
以前に講師をしていた時に、「農薬や化学肥料を使った農業は自分が教えたいものではないな」と矛盾を感じていました。

いさどん:
確か1年前ここに来た時にみんなとその話をして、「道は農業高校の先生だけではないね」という話になったと思うんだよね。昨日の大人会議であなたが心のシェアを出した時に、こうちゃんが「昨年も同じことを言っていたよね」と同じ話です。ということは、昨年のみんなからのアドバイスが全然生きていないことになる。農業高校の先生になるということは、今のところ、ウエートは99%一般の農家、つまり国の政策の受け皿になる農業を伝える先生ということです。これから将来のことはわからないけれど。

例えばこれから世の中が急激に変わっていくと、有機農業や新しい代替農業が必要になってきます。その時にあなたがそういった技術を身につけていて、農業高校の先生の免許を持っていてそれを売り込めば、そういうノウハウを持っている先生はなかなかいないのだから、これは非常に評価されることになると思います。ただ、有機農業や代替農業を教えられる先生が、職員室で心の話は出来ないということはあると思います。

さらに展開していくと、ここのメンバーでありながら、外に働きに行って農業高校の先生をやるということはあり得るかもしれない。そうすると、ここで心を磨きながら学校で教えることができ、色々なことが満たされる。今考えられることをいくつか展開すると、そういうことが挙げられます。

さらに、農業の先生という意味では、高校じゃなくても今たっちゃんがやっているようにここで伝えることもできる。これからこういう農業はすごく重要だから、それを伝えられる技術者が沢山必要になってくる。だから、現場でマスターしたものをここでも伝えていくことが出来るし、こういったエコビレッジの動きの場でこういったことを伝える役割を私たちが担っていく可能性もあるのです。そうすると、敢えて教員という立場を取らなくても、農業を教えるという道は開かれるのです。そして、心を磨き、それを伝える場がある。

あなたがここで何をしたらいいのかというのは、ひとつは目標を持ってそれに向かって進んでいくということ。そして、もうひとつはここのみんなのように、「自分が生きていることは私の意志にあらず」という道。

カトケン:
私の意志にあらず・・・?

いさどん:
「自分が生きていることは私の意志にあらず。私の目的はあなたにあります。世のため人のためなのだから、与えられたことは何でもします」という精神になれば、目の前にあることをやっていくと自然と自分の活かし所にはまっていく。でも、「結果はいただきます」ということ。この世界の仕組みからしたら、私たちは自分の意志でこの世界に生きているのではなく、この世界があり仕組みがあってその中に組み込まれて私たちは生かされているわけだから、そちら側の意志で生きることが一番目的に沿うわけです。それが私たち流に言う、「神様の意志で生きる」ということです。人間には自由が与えられているから、一般の人はそれをやりません。それで右往左往したり、問題事を引き起こすのです。

その一方、自然はすべてスムーズで事が成っています。それはすべてが自然の仕組みの中で生かされていて、必要なところにはまっているからです。ところが、人間はそこで自分で何とかしようという我があるものだから、自然の仕組みから外れた分だけトラブルをもらうのです。それは病気でも人間関係でも何でもそうです。人生の中で自分が予定を立てたことがならないということでもそうです。

それでまたあなたに問うのだけれど、自分の心を観て、あなたはどういう歩み方を望むのか?つまり、自分でああだこうだと考えて目標を設定するのであれば、さっきいくつか挙げた選択肢から自分で選ぶこともできる。これが人生計画というもので、誰でもそうして生きてきたわけだ。

しかし、もうひとつの道は神様の意志に任せて、「私を使ってください。私の存在はあなたの意志にあります。あなたの意志に沿うことがこの世界に生み出された目的にふさわしいのですから、あなたの意志でお使いください」という道を歩むのかどうか。

カトケン:
自分でやろうという気持ちがあると、エネルギーを浪費してしまうと思います。

いさどん:
それは当然そうです。だから、人間というのはこういう修業の場をもらって学んでいくわけだから、より優れた道を歩むということが大切なのです。あなたが心の道を大切にしたいと思うのであれば、そちらを選べばいい。24歳でもそろそろそういう人がいてもいいと僕は思っています。僕には30歳からこういう心の道が始まり、そのあとすごくガタガタしたし、結果40歳まで一般社会で生きてきた。でも、次の時代の人は24歳からこういう道を始めてもいいと思うし、例えばここで生まれてくる子どもたちは今からこの道を生きているわけだ。あなたは時々心が不安定になったりするけれど、そういうことが定まらないから不安定になるとも言える。そうすると、道がしっかりと定まったら、もう揺るがないでそこを歩んでいくことが出来る。

僕は情報として提示するだけのことで、選ぶのはあなたです。神様とあなたの契約です。ここで言う神様というのは、自分が生きていることの証として、生きている目的は何なのかということを探究する結果、この世界にある法則のこと。現象としての事実の連鎖の中にある法則性の中に見出される意志。これがこれからの時代の大いなるものとの接点の仕方であり、ここでは何も人間の欲の心を揺さぶるような宗教性はないわけだ。私たちはこの世界の一物であり、この世界は宇宙の法則の中にあって、そこに法則がある限り意志があるのだから、その意志のもとに私たちも存在しているということです。私たちは非創造物であって、そこには私たちを生み出し生かしているものの意志が働いているのです。

カトケン:
普段作業をしていても、そういうふうに感じでいます。

いさどん:
それならば先ほどの話に戻るけれど、親の影響を受けてきたこともとりあえず事実だし、その呪縛みたいなところから自立した意志で新しい道を歩むということにしたらどうですか?「木の花という環境にいることで素晴らしい人生をいただいた」なんてせこいことを言っていないで、この場所を創り上げる原動力になればいい。私たちは血縁の親の子どもというよりも、大地の子であり、光の子どもであり、すべての生命が家族であるのです。過去世があり来世があるとしたら、そのたびに親も子ももらうのだから、今たまたまこの親をもらっているだけのことです。

そういったことを悟り、揺るぎない意志のもとで生きていけば、何の目的で生きているのかということを認識し、非常に充実した人生を生きることになるのです。人間は色々な出来事をもらい垢の部分をそぎ落としながら綺麗になっていく。生きるということはそういった作業をしているわけです。そうすると、垢があるうちはパチンコをやりたいとか恋愛をしてみたいとか言って世間に戻っていくのです。でも、それはやってみた結果痛みや苦しみをもらいながら、そこから学んでいくことになるのです。その段階ではこういった生活を見て、「あんなに窮屈なことはやれない」と思うのだけれど、さらに次の段階に進むと「あの時は馬鹿な時代を過ごしていた。あんなことで喜びを感じていたのか」ということにもなるのです。それはその人の魂の位置によって求めるものが変わっていくということです。

そうすると、あなたは過去に色々なことを学んできた結果、この年齢ですでにそういった心を持っているのです。僕の不真面目からしたら、あなたはすごく真面目です。それだったら、とことんその真面目を極めたらいいと思います。多少柔軟性はあってもいいかもしれないけれど、それはその時その時の余裕、遊びのようなものだから。もしこのまま進むのであれば、真っ直ぐ行けばいい。その時にはこの道を歩もうとするさらなる原動力、気づきが湧いてこないといけない。しかし、今のあなたにはなかなか気づきが生まれてこない。生まれてきたとしても他人に聞いてみては「ああなんだろうか、こうなんだろうか?」と考えをまわし、昨年話し合ったようなことでも今また出てくるということは、あまり進歩していないということです。

だから、心磨きが大切なのです。あなたは自分というものに執着が強い。「自分がどうするのか?」という心が強いのです。悟りにも色々な段階があるけれど、あなたにも「私のいのち、私の人生はあなたの意志です」という心が出来たら、もう自分がどうしたい、こうしたいという心はなくなってくる。逆に言うと、「私にも意志があります。その意志はあなたの示される意志。そして、それは毎日起きてくる現象、湧いて出てくる気づきに現れてくるのです。それは特定した自分にとって有利かどうかというところにあるのではありません。」そういう心にならないと、そのままの真っ直ぐな道にふさわしい気づきが湧いてきません。磨き切るということの大切さやこの道を生き切ろうとする心はその奥にあるものだから。汚れや垢は表面にあるからすぐに出てくる。しかし、大元にある絶対真理は一番奥にあるから、まわりにある垢や我に捉われていると、その一番大事が観えてこない。だから、自分が生み出された本当の目的のもとに生きていきたいと思うのであれば、まずはその我を取っていかないといけない。それが心を磨くということです。その大切に気づいた人がここでこういった暮らしをしているのです。それがあなたの質問にあった、「心を磨くとはどういうことか」ということの答えです。ひとりひとりが尊いのだから、あなたの中から気づきが湧き出てくるように心を磨いていかないといけない。それが心磨きです。あなたの中にもブッダやイエスのような精神があるということです。

さらに、「家族関係について知りたい」ということであなたの血縁の家族について分析してきたけれど、では家族とは一体何なのかということです。血縁を超えた家族という捉え方が木の花にはあります。この捉え方は宇宙生命としての捉え方です。地球生命というと一般的に私たちが言う自然のことだけれど、もっと大きく捉えれば宇宙生命と捉えることができます。宇宙生命というのは宇宙に存在するすべてのいのちのことです。これを言いかえると、宇宙に生きている神ということです。過去生にご先祖様も子孫もあって、来世にもご先祖様や子孫がいるとしたら、今の特定の家族に執着する必要があるのかということになります。

カトケン:
いや、ないです。

いさどん:
万人が家族であって、すべての人の幸せを願うことが世のため人のためという生き方になるのです。あなたがそういう視点を持つかどうか。心を磨くということはそこに到達することが目的なのです。そうすると、あなたの最初の質問に戻って、あなたは「自分のことが知りたい」と思った。その問いを探究してきた結果、私たちは宇宙生命の一部であり神の一部分となります。そしてそのことをより明確にして、揺るぎのない自分でありたい。人間として生まれてきたということは汚れがあるわけです。だから、「心を磨く」ことが必要で汚れを取り去っていくと、この世界すべてが一体の生命であり、宇宙のいのち、神の「家族」であるということです。これがあなたが聞きたかった「自分のこと」「心を磨くこと」「家族関係のこと」についての答えです。

この道は狭い道です。高くなれば高くなるほど、富士登山でも道が狭くなっていくのです。下に行けば登り口はいくつもあるけれど、上に行ったら頂上はひとつしかない。それが本当の目的なのです。すべての生命の目的です。そこを今、あなたは目指すかどうかです。

カトケン:
僕は悔いなく生きたいので目指したいです。

いさどん:
「悔いなく生きたいから」ということで、好き勝手に生きてみてもう一度戻ってきてもいいんだよ。そういう道もある。しかし、逆に言えばそういう無駄のない道をとことん歩み続けたいという人がいてもいいわけです。僕もこの道に出会ったばかりの頃は、自分の中にずるい性格や欲深い人がいて、それを目指す自分が苦しんだ。しかし、消去法をやっていくと幾つもの人生を生きられない。人生は一本道であることがわかる。「あっ、そうか!」と。今ある心は順番に消していくものであって、それを持っていくものではないと気づいてくる。だから、ウッとしながら自分を消してきた。その時はそのしようもない自分が大切なように思える。そちらの方が誘惑的だし、心をそそられる。それをあえて消してきたけれど、考えてみたら最後に残るのはこの心の道しかないことに気づく。この道は死んでも消せない道なのです。宇宙真理、探究の道だから。それである時気がついた。「もうつまらない考えは捨てて、これだけ、一本で行こう」と思った。そして、24歳にしてそれに気づく人がいてもいい。それはあなたの意志です。ここで「どうする?」と僕が質問すると、かえっておかしいでしょう。あなたの人生ではないみたいだから。だから、あなたが自分で考えてみんなに宣言するなり、自分の中で決意するなり、それは自分で決めればいい。神様とあなたの契約だから。ただ、ぐだぐだして昨年と今年で同じことを言っているようなことは、そろそろ卒業したいものだね。

それに対して親が何と言うかは親の考えだけれど、あなたの親は生活力もあるのだからあなたの道を歩ませてくれると思う。ひとりひとりは自分の魂の位置でものを判断して行動しているものです。しかし、どんな魂も最終的には行き着くところは一緒です。そうであるならば、必ずいつかは、「うちの息子の道はこれだったのか」と理解する時が来ます。今、木の花のことを理解できる人が世の中にどれだけいるのだろうと思ってみると、1000人に一人はいないと思う。しかし、志が高ければ、まわりから理解されなくても歩んでいくことが出来る。それは自分の価値です。世の中の先頭を歩んでいる道だからこそ、まわりの評価を一番に求めるようなことでは、このような道は行けないのです。だから、志を高く持たないと歩めないのです。

あとは自分で考えて、こうやって面談をしたのだから、大人会議で皆に報告できるのであれば発表してもらえればいいと思う。こういう話を聞きましたが、今後の課題として取っておきますと報告してもいいのです。それはあなたの人生だから。しかし、ぐだぐだ先延ばしするのはエネルギーがもったいないからやめよう。

カトケン:
わかりました。ありがとうございました。

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その数日後、カトケンは大人会議で「いさどんとの面談を終えて決意したこと」という心のシェアを発表しました。

カトケン:
いさどんとの面談を終えて、自分なりに決意したことがあります。今までは農業研修生としてここで生活していましたが、7月から仮メンバーとしてやっていこうと思います。なぜ7月かというと・・・。

たっちゃん:
はい!答えは僕の誕生日があるからです(一同、笑)。

カトケン:
(苦笑いしながら)7月5、6日に地元のお祭りに参加したいと思っています。今までお世話になった人たちへの感謝の気持ちを表現できるよう、悔いのないようにやってきたいです。それから、6月下旬に足の不自由な知り合いの方の草刈りを手伝いに行こうと思っています。

なぜ仮メンバーになろうと思ったかというと、ずっとここの生き方に共感していて、僕の生きる道だと思ったからです。ここでこの道を生きていきたい!昨年の数ヶ月の滞在からかなりの時間が経ったのに、なかなか自分の気持ちに踏ん切りがつきませんでした。僕が進路を決断する時にいつも思い浮かぶのは両親のことです。いつも彼らの顔色をうかがって生きてきました。でも、今回は自分で決断しました。
その決断を両親に伝えたところ、母親は賛成してくれました。父親は、「新潟は過疎化しているのだから、木の花で学んだことを新潟で広めてもらいたい」と言いました。それを聞いて少し動揺しましたが、「こうでなくてはいけない!」という親の顔が浮かんだ時に、光輝くいさどんの姿が見え(一同、笑)、父親の顔がかすんで見えました。その時に「やっぱり僕はこの道で行こう!」と思いました。

ひろっち:
僕も親とのことで同じような経験をしています。その時に考えたのは、神様はどういう決断を喜ばれるのかということ。ここで世のため人のために生きることこそ喜ばれることだと思って、この道を選びました。それで親子関係が切れるわけではないし、ここでしっかりやっていけばいいと思います。

あっちゃん:
私も3年前、メンバーになるかどうかの決断ができずにいました。その時じゅんじーに「ファーストインスピレーション!最初に感じたことを真と思って進んでいったらいい」と言われたことを思い出し、メンバーになる決意をしました。カトケンの決断は素晴らしいと思います。

ちなっぴー:
カトケンが心を磨いていけば、それが親孝行になり先祖供養になると思います。

いさどん:
カトケンの両親は賢明な考えを持っているので、最終的にはカトケンの決断に委ねるだろうと思います。地球人として、地球のためにみんなで生きていけたらと僕は思います。

なかのん:
仮メンバーには今日からでもなれるんじゃないかな?みんなはどう思う?

いさどん:
僕もそう思ったけれど、カトケンにも思うところがあるってことだし・・・。

カトケン:
では、今日から仮メンバーになってもいいでしょうか?(一同、拍手)

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こうして、木の花大人最年少メンバーは28歳のりょうちんから、24歳のカトケンにバトンタッチされました。

それから2カ月半が過ぎ、田植えの時期が訪れました。自らの希望で田んぼ隊チームに入り、木の花での初めての田植えを経験しているカトケンは、いつも嬉しそうに作業に出掛けています。「今、悔いのない生き方をしています。みんなと一緒に。では、行ってきます!」


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