豊里講演会を振り返って

昨年11月に出会って以来、数多くの交流を重ねてきたヤマギシ会と木の花ファミリー。去る9月29日、ヤマギシ会で最も多くの人が住む「豊里実顕地」で、「世界のしくみを知り、そこで暮らす心のあり方を見つめよう」と題するいさどんの講演会が行われました。

世界最大の農的コミューンとして50年の歴史を誇るヤマギシ会に、いさどんはこれまで多くの投げかけをしてきました。その集大成ともいえる今回の講演を終えて、一つの節目を迎えた今、いさどんにその思いを語ってもらいました。

出会う前、僕はヤマギシ会をもう少し凝り固まった人々の集団だと思っていた。ところが実際に出会ってみると、ヤマギシ会はそれまでの歩みを超えた、新たな世界を求めていた。自分たちだけが正しいと主張するような要素が全くないとは言えないが、これまでの歴史の中でさまざまな挫折を味わった結果として、新たな歩みを求める時に来ていた。

ヤマギシ会の中には、内部に矛盾を感じている人もいれば、相変わらず自らが正しいという思いにとらわれて外に意識を向けない人もいて、いろいろな思惑が混在している状態。

僕らは、ヤマギシ会を意識してこの生活を始めたわけではない。ただただ、世のため人のための道を歩んできた。そんな時、仏教の経典である法華経に僕らの生き方を見る時がある。ヤマギシ会の成り立ちにも同じ精神があり、それは僕らとの共通点でもある。ただ、ヤマギシ会と木の花との違いは、高い理念が掲げられていても、それを生活の中に定着させることを徹底していないところにある。木の花もまだまだ未熟ではあるが、生活の中にその理想を表していこうと日々実践を積み重ねている。そこのところに、ヤマギシ会の人々は注目すべきである。

しかし、木の花もヤマギシ会も、本来の目的は同じところにある。そしてこれからの時代、社会がこうした生き方を必要としてくるのは明らかである。改めてこの生き方の大切さを実感すると同時に、僕らだけでなく、より多くの人々が社会の見本となり、そのネットワークを広げていくことが必要だと感じている。ヤマギシ会は「全人幸福」というスローガンを掲げているのだから、彼らがそれにふさわしい生き方をすることが、僕らの喜びであり、世の中のためでもある。

ただし、彼らには彼らの歩みがあり、意思がある。それを尊重して、僕らの理想を押し付けるのではなく、彼らの歩みを認めることが大切だと思っている。しかし、ただその歩みを待っているだけでは、僕らの役割は果たせない。彼らが外の世界に疎く、目覚めの時が来ているのにそれを十分に果たせていないのならば、僕らには彼らに刺激を与える役割がある。

今回、豊里実顕地での講演が実現した。結果がどうなるかは、ただ頂く姿勢でいるだけだから、特に考えていない。しかし、結果として、ヤマギシ会の人々の中に大きな心の変革が起き始めている。それは今回の講演会もひとつのきっかけだったが、それよりも僕はこれまでにたびたびヤマギシ会を訪れて、多くの人々と直接対話をしてきた。中でも、不満分子と言われているような人たちと多く話してきた。そこで見えてきたことは、彼らがもともと理想に燃えてヤマギシ会に参画したものの、夢破れた人たちであるということ。その彼らが、木の花と出会ったり、僕と話をすることによって、もう一度目覚めて、参画の時の志を取り戻そうとしている。これはとても大きなことであり、今後のヤマギシ会の変革にとって大きな力となるだろう。また、そうなるべきである。これまで、彼らは一時的とはいえそうした志を忘れて諦めの境地に陥っていたのだから、ずい分いい風が吹き出したと思う。

そして今、僕らはヤマギシ会のあり方を尊重し、期待しながらも、あくまで彼ら自身が動くのを待っている。そういう立場に徹して、見守っていくことが大切だと思っている。

講演では、世界観や宇宙観について話した。ヤマギシ会はもともと高い理想を掲げてはいるが、その理想が日常の中で忘れられている。一般社会の人たちと同じように日常の些事にとらわれて、大きな世界観を持てないでいる。高い理想を目指すには、日々の確かな生活と大きな世界観がつながっていなければいけない。また、人が生きている本来の目的に目覚めるには、多様性を認め、広い視野を持つことが必要である。そういうことを踏まえて、僕らが普段から大切にしている世界観を伝えた。

地球の生態系の中で、人間は大きな役割を果たしている。人類にはその頂点に位置するものとしての役割があり、義務がある。そういったことを意識して生きることが、彼らの掲げる「全人幸福」の実践につながる。

ヤマギシ会の理念で語られていることと、今回の講演で僕が語ったことは同じである。それはヤマギシズムという思想に封印してしまうようなものではなく、世界人類に共通する普遍的なものとして、世の中のために広げていくべきものである。これまでヤマギシ会という組織のためにあった学びを、本来の全人幸福に向けた活動として実践していく必要がある。そういうことに気付いてもらうための講演だった。世界観の表現の仕方や枠の広さに違いはあるものの、ヤマギシ会も同じようなものをベースに持っている人たちだから、僕の話すことを理解できる人はたくさんいた。

特に伝えたかったことは、ヤマギシズムに共通する概念は世の中にたくさんあり、ヤマギシ会の中だけにあるのではない、ということ。この世界には、いろいろな歩み方がある。ヤマギシ会の人たちは、自分たちで考え、自分たちで答えを出していくと言う。しかし、それは創設者である山岸巳代蔵さんがヤマギシ会の発足から3年間しか生きていなかったことの結果なのである。もしも彼がもっと長く生きていたら、聖者としての巳代蔵さんがヤマギシ会の道しるべになったはず。しかし、結果として彼は3年しか生きていなかったために、残された人たちはそれぞれの裁量の中でヤマギシズムを表現してきた。そして、それは残念ながら、巳代蔵さんの深い精神性から少しばかり外れて、わかりやすい答えを出すことを優先してしまった。言わば、戦後の日本社会の縮図のような歩みが展開されたのである。

ヤマギシ会の人たちは、自分たちで答えを出したい、という思いが強い。しかし、それは「無所有」という概念を唱えながら、所有の心が強いということである。この世界を多様性という視点で捉えると、人にはそれぞれ役割があることがわかる。大切なことを語って人々を導いていく役割を持った者が、この世界には必ずいる。巳代蔵さんは、たまたまヤマギシ会の運動に3年しか関われなかった。それには何か大きな意味があるのだろうが、巳代蔵さんがその役割を十分に果たさなかった結果、ヤマギシ会の人たちは、物事をいただく精神や、「湧き出てくる人」に出会わなかった。それでは、本当の「無所有」に至ることはできない。そう言われるとヤマギシ会の人たちは違和感があるかもしれないが、湧き出ない人たちが10人集まろうと、100人集まろうと、それは烏合の衆なのである。そういう時には、湧き出てくる人からヒントをもらって方向を見つけながら道を切り開いていけばいい。ただし、そのときに僕らがよく言う「いただく姿勢」にならないと、大切なものを受け取ることはできない。

もし彼らが「全人幸福」をどんなことよりも大切にしていたら、どこから出てきたものであろうと、優れた考えは優れた考えとして、そのまま受け取ることができるはずである。しかし、実際には「自分たちで答えを出したい」という思いが先に立って、そうはならない。それは、彼らが自らの生き方を所有していることの表れである。

しかし、ヤマギシ会の長い歴史の中で、そのように自分たちで考えて歩んできた結果、さまざまな矛盾が発生してきた。その中で、少しずつそのことに気付く人たちが現れて、雪解けが進んでいくのだろう。共に歩みながら、彼らの歩みを見守っていきたいと思う。

ヤマギシ会で面白いのは、実顕地ごとに空気が違うこと。それぞれ独立しているとはいっても、何となく歩調が合っていない。それが、今のヤマギシ会を象徴している。それは、それぞれの実顕地を尊重しているとも言えるし、理念を共有できていないとも言える。誰も全体のリーダーシップを取らないから、まとめるのに時間がかかる。しかし、だからこそ民主的な場になる可能性もある。ヤマギシ会の人たちの考え方次第で、どちらにも行ける。

出会った者の役割として、僕はヤマギシ会に時には挑発的な投げかけをしてきた。それは、本来のあり方に目覚めてもらうためにしただけのこと。巳代蔵さんが生きていたらきっとしたであろうことを、代わりにしているだけである。

しかし、それを無理強いはしない。我々には今、外からのアプローチがたくさんある。そして、これからそのアプローチに応えていくという大きな役割があるのだから、それに専念していくだけ。ヤマギシ会の中で、今は時期ではないという結論が出されたとしても、我々は木の花の歩みとしてやっていくのである。常に世の為人の為。そこに冷めた思いもなく、熱い思いもない。

ともこ:でもいさどんは、ヤマギシのためにものすごく労力をかけているよね。

労力をかけることはいい。それが僕の人生だから。労力をかけたからといって、それに見合う結果を求めては、恋愛と同じになってしまう。どんなに労力をかけようと、それは自分の人生だから、相手には関係ない。相手がそれを受けてどうするかは相手の価値観の問題なのである。

ともこ:相手にこうなってほしいという思惑を持たなければ、疲れることもない?

思惑がなければ、疲れないとも言えるし、乱れない。道が違ったとしても、認められる。

ともこ:だけど、いさどんはいつも真剣でしょう。大切なところからずれている人に対して、すごく真剣に伝えている。

ずれていることを伝えるのは、こちらの役割だから。例えば、ある人が苦痛のところにいる。その人は苦痛の延長に喜びを求めようとしている。そうすると、そこにまた苦痛が生まれる。そういう喜びの求め方ではなく、本当の意味での喜びを見出すこと、それはこちらの喜びでもある。苦痛のもとになるような喜びを、喜びとしていてはいけない。

相手がわかっていなくても、こちらがわかっていたら、それは伝えるべき。それがわかっている者の役割。しかし、それが自分の思惑であってはいけない。こちらの目的ではなく、あくまでも相手の喜びのためでなくてはならない。だから、相手に聞く気のあるうちはこちらも一生懸命やるが、一たび相手にやる気がなくなったら、即座にこちらもそのエネルギーを使うのをやめる。これは冷たいからではなく、相手を尊重し、大切にしているからである。

ともこ:いさどんは相手に与えながらも、そこに思惑を持たない。神様もそんなふうに私たちを見守っているのかな?

神というのは、法則だからね。そこに情がからむことはない。

人間が執着するのは情があるから。自分の家族だから、妻だから、子だから、という情がある。情とは「なさけ」。しかし神には、そういうものはない。法則そのものなのである。

情のあることを、「愛情」といって深いもののように思うけれど、「愛」に「情」というなさけが付くと、それが執着となる。神の愛というのは、約束通りに現象をあらわして、約束通りの事を表現すること。だからこそ我々は、その中で安心していられる。特別なえこひいきがあるわけでもないから、安心して、ルール通りに表現していくことができる。この世界の仕組みそのものが、神の愛。本当の爽やかさと奥の深さがないと、それは表すことができない。しかし人間流に「できない」と言ってしまうと、本質から外れることになる。それはできるできないではなく、流れそのものなのだから。

ともこ:それでも、人間の気付きとか喜びを、神様も喜びとしているのですか?

それは、エネルギーだから。つまり、喜びのエネルギー。

エネルギーには、例えば悔やみのエネルギーや怒りのエネルギーもある。悔やみのエネルギーというのは、萎縮していく。怒りのエネルギーは、破壊していく。怒った時に、その怒りというのは、人間の中だけに発生しているもの。ところが、人間はその怒りを、別のものに表現する。茶碗を割ったり、相手に暴力という形で表現する。しかし、それは単に、自分の中にある怒りのメカニズムと、怒りのエネルギーが現れただけ。それがいろんなところに連鎖していく。すると、その怒りのエネルギーというのは、そういうふうに物を壊したり、病気をつくったり、対立を生んだりする。

喜びのエネルギーというのは、人をリラックスさせ、微笑ませる。同じ喜びでも、宝くじに当たったとか、会社が成功したなどというものは、いずれ不調和を生む原因にもなる。喜びにも、他者と共有できる永遠の喜びと、瞬間的に発生する極めてエゴ的な喜びとがある。神様が喜ばれる喜びのエネルギーというのは、自分の根本存在が善意であり愛であり調和であるとすると、そこが循環していくような喜び。単なる喜びとまとめて言ってしまうと、人間的な喜びを神様にだぶらせてしまうことになるが、喜びのエネルギーは大きさや深さに違いがあるという事なのである。

神は、人間がこの世界の神秘、真理に目覚めていく、深い悟りに結びつくような喜びを喜ばれる。人間が本当の存在の意味を理解することで初めて、人間と神が手を結ぶことができる。自分から離れていったものが、そのことを知って、再び手を結ぶ。そこで喜び合える。

喜びには種類があると言ったが、低い喜びが喜びではないのかというと、そうではない。低い喜びでも、初歩段階ではあるが、それも喜びなのである。それはプロセスとして繋がっており、エゴ的な喜びも、その過程の中にあることになる。多くの人間はその低いレベルに目的を置いてしまって、本当の目的を見失っているのである。しかしそれとて、神の魂の旅というところから考えると、プロセスではある。結局すべては神の手の中にあるということになる。

無知であることは、罪である。本来、人間はこの宇宙の法則に基づいて、神秘のもとに生きている。そのことに気付こうと思えば、いつでも目覚めることができる。その証として、人間にはこの複雑な世界を生きることが与えられ、様々な現象を通して目覚めていくように道が与えられている。それが、人間の生きている目的である。

ところが、そういった配慮のもとにありながら、いつまでも本来の目的を見出さない者は、霊的には低くなっていく。特に、宗教のように真理を語り、世の中のためにある立場を取りながら、その逆の状態になっている者たち。それは、言行不一致の歩みであり、罪の歩みなのである。

ただ、それは一つの見本でもある。真理のそばには、魔の扉がたくさん用意されている。だから、いつでもまっすぐな道を歩んでいくことが大切である。そうでないと、本当のことに気付けない。それは無知であり、罪である。

ともこ:よくわからないです。以前、この世界に存在するもの全てが尊いという話があったけれど、霊的に低くなるというのは罪なのですか。

そうやって頭で考えを巡らせて、質問する。そこに回答を出せば出すほど、真理から遠ざかっていく。僕も今、こういう風にあるべきだ、それをやらないと真理に目覚めない、それは罪である、という話をしたが、そういう風に伝えれば伝えるほど、道から外れていく。

法華経の教典があり、その解説がある。そこには解答が記されている。しかし、それ自体はあくまでもその法華経次元の解説であって、真理は一人一人が歩んで気付いていくもの。正しいとか正しくないというのは、ないのである。

あなたは質問をして、こうしたらOKという答えを求める。それを聞かれて、僕は答えを出すけれど、答えを出せば出すほど、それは答えから遠ざかっていく。誰かが一つの解答を出して、これが正解、ということではない。一人一人が自分で歩んで、確認していくことが大切なのであり、そして全ては一つの答えにつながっていくのである。

信念を持って歩めば、結果としてその信念のように答えが出る。この世界の流れに沿いながら、その法が開いていくと、そのようになる。

僕はただ、神様がこの一連の出会いを通して、どのような目的を示されて、どのような結論をもたらされたいのか、それを見せていただくのを待っている。僕の思いは、それだけなのである。


6 thoughts on “豊里講演会を振り返って”

  1. >あなたは質問をして、こうしたらOKという答えを求める。それを聞かれて、僕は答えを出すけれど、答えを出せば出すほど、それは答えから遠ざかっていく。誰かが一つの解答を出して、これが正解、ということではない。一人一人が自分で歩んで、確認していくことが大切なのであり、そして全ては一つの答えにつながっていくのである。

    このような考えに賛同します。
    何でも答え=正解を求めたがる傾向が、最近は富みに強いですね。
    正解の数は、それこそ無限にあると思います。
    たくさんの人々や万物世界と交流し様々な体験を通して、そこで感じ、自身の思考力を育て行動していく創造の円運動。
    本来、当たり前に持ち合わせているはずの人の感性が、どんどん鈍くなっているように思います。
    情報デッカチになりがちな現代社会、ライブな時空間造りを目指していきたいです。

  2. 大石さま

    コメントありがとうございます。

    >正解の数は、それこそ無限にあると思います。

    本当にそうですね。
    ライブな時空間造りを目指し、精進していきます!

    またどうぞ率直なコメントをくださいね。

  3. 充実した人生を生きるためにと豊里講演会を振り返ってを読ませて頂ました。
    ヤマギシの飯田に暮らしています。
    5年ほど前から、ブログを時々覗かせて頂いていました。
    友人より教えてもらっていたので。

    解りやすく、率直にというかそのままに言葉になっているようで、次々と読み進みたく読んでしまいました。
    まだ、そこへ出向いておりませんが、行きたいと思っています。
    その時には、どうぞ宜しくお願い致します。

    ここ数年考え、言葉にしてきたことが、もっと深く、わかりやすくして出していただけたと思え、嬉しく思いました。

    私自身も、とらわれ多く、日々実践とは、遠いです。
    目指すものとしては、あるので、今の自分をありのまま出して、出せない時はそういう自分を見て、受け止めて、次へ進んで行きたいなとやっている途中です。

    誰の心にもある、今そこに生きている自分で、幸せに生きて行きたいという心と共鳴して、共にやって行きたいと願っています。
    外へ繋がる一つとして、たまたま始めたMIXIで、いろんな方と繋がり、歩いています。
    そのたびに、喜びや感謝、癒しの暖かな心を頂いています。

    木の花へ行って人々から聴いた言葉で少し誤解をしていましたが、それも、私の独り善がりの心ですね。
    実際に読ませて頂いて、全く違ったものを感じています。
    なので、行くしかないなと思いました。^^

  4. いさどんさん、初めまして。三輪と申します。
    20年前、ヤマギシに参画し、5年間、豊里実顕地を始め、いくつかの実顕地で暮らし、
    一方で参画前からのうつ症状を悪化させた為、村人の勧めで実顕地を離れた者です。
    その後も、ヤマギシの生産物の活用者として、鶏卵、肉などを利用し続けており、
    ヤマギシ会会員(自覚はありませんが)の会報も読み続けています。
    その会報に木の花ファミリーの皆さんのことが出ており、今回、いさどんのブログに
    巡り合いました。

    正直、驚きました。ヤマギシ会に対してこのようなアプローチをする方がいらっしゃる
    とは。私は、実顕地を離れてからも、ずっとヤマギシ会を愛しています。
    そして、山岸巳代蔵さんが本当に顕したかったことが何だったのかを考え続けて
    来ました。
    実顕地には、今でも、当時ともに暮らし、ともに研鑽しあった仲間がいます。
    また、私のように実顕地を離れた数多くの仲間とも今でも深いつながりが
    あります。

    いさどんさんのように、ヤマギシ会に直接身を置いた方でない方が、
    このように真剣なアプローチをされていることに衝撃を受けました。

    いくつか、感じたことを述べさせて頂きます。
    <ヤマギシ会の人たちは、自分たちで答えを出したい、という思いが強い。
    しかし、それは「無所有」という概念を唱えながら、所有の心が強いということである。

    これは、驚きました。仰るとおりです。

    もっといろいろ書きたいのですが、うまく表現できません。
    いつか、直接いさどんさんにお会いしたいです。

    私は、19歳のときに特講(ご存知だと思います)を受講し、「無所有」「一体」を体感しました。
    そして、大学を中退して参画しました。
    しかし、特講で体感した境地が、日常で表せないことにいら立ちを感じていました。
    しくみとしては「一体の大家族」であり、これからの地球社会にとって大きな価値を
    もつ活動をしている実感はあったのですが、個人レベルで私は、
    「ヤマギシズム」=宇宙の真理、を体現出来ていない自らを責めていました。
    いつのまにか、ヤマギシズムを観念化、価値観化し、その観念でもって、
    人を裁き、自分を裁いていました。

    実顕地を離れてから、心のことで悩み苦しむうちに、4年前、佐藤康行氏の提唱する
    真我開発講座に出会いました。
    実顕地を離れた多くの元村人が、この講座を受講しているということでした。
    受講してみて、巳代蔵さんが命をかけてやりたかったこと、伝えたかったことは
    これだったのか、と衝撃を受けました。

    いさどんさんが後半、書いておられる神、すなわち法則。
    ヤマギシズムには、神は出てきません。魂も出てこないです。
    宇宙の真理のことをヤマギシズムと呼んでいますが、
    それは神であり、法則であるのですが、私達は肉体をまとい、
    頭の観念、心を持って、3次元の世界を生きています。

    特講で体感し、真我開発講座で体感した真我の境地は、
    頭でもない、心でもない、そのさらに奥にある、愛そのもの、
    喜びそのもの、感謝そのものの神意識、宇宙意識とも
    呼べるものでした。

    まず、目に見えない、この境地を60年も前に、
    体感まで持っていった巳代蔵さんはすごいと思います。
    お釈迦様の言う悟りの境地をわずか1週間で体感する。
    これだけでもすごいことだ思います。
    それを今度は、人間社会に顕そうとした。

    しかし、この境地を日常に表すためには、知恵が要ります。
    体感は、瞬間です。
    かならず、薄れていきます。
    そして、観念化していきます。
    いつしか、観念化したヤマギシズムで人を縛り、自分を縛ることを
    始めてしまいます。
    目に見えない法則をどう日常で体現するかが私にとって課題でした。

    そして、私は、4年前、佐藤康行氏に出会いました。
    佐藤氏は、巳代蔵さんが1週間かけて体感させた神の境地を
    2日間で体感させる講座を編み出した人でした。
    講座を受講した元実顕地メンバーに要請されて、豊里実顕地を
    訪れ、協力することを伝え、豊里内で、真我開発講座を開催する
    ことを提案しましたが、いさどんさんのブログにもあったように、
    実顕地メンバーが自分達で答えを出すことを望んだ為、それは
    実現せず、代わりに、豊里の近くの会場で講座は開催されました。

    私はそれに誘われ受講したのです。
    参加者は全員、ヤマギシ関係者でした。
    二日間の講座で私が一番驚いたのは、両親への感謝を体感した
    実習でした。長年、実顕地でやっていたメンバー達が、
    声を張り上げて、父親や母親への感謝や懺悔を絶叫していました。
    あんな姿は一緒にやっていて見たことがありませんでした。
    私も猛烈にこみ上げてくる両親への感謝に何度も嗚咽しました。

    愛そのもの、感謝そのもの、喜びそのものである、内なる神の心、
    仏の心である真我の境地は私にも確かにありました。

    私は、この講座を受講してみて、ヤマギシ会に足りないものの一つは
    両親、また、先祖に対する感謝であることを確信しました。
    実際、私も参画するときに、親の猛反対を振り払って、家出して
    参画しました。結果、ホームシックになってしまいました。
    多くの実顕地メンバーが、親との間にしこりを残していたようでした。

    ヤマギシズムには「感謝」という概念がありませんでした。
    同様に「謝罪」という概念もありませんでした。
    全て、一体、という観方ですので、たとえば自分の体が腕と足が
    感謝しあったり、謝罪したりないように、それを一体社会となった
    ときに、そのまま当てはめてしまっているようなところあったように
    思います。
    元気よくあいさつ、という習慣もあまりなかったように思います。
    神は法則ですので、情がありません。
    その神をそのまま肉体と頭と心を持った人間社会に当てはめう
    としてしまったところに無理があるように感じました。

    真我開発講座を受講して、両親への感謝が魂から出来てから、
    実際の人間関係が劇的に変化しました。
    ともに受講した仲間達も、人相ごと変わっていました。
    その後も、魂の会話が出来るというか、言動行動の奥にある

    愛を感じ取れるようになりました。

    実顕地では、愛という言葉もあまり出てこなかったです。 
    巳代蔵さんは、言っていたのかも知れませんが、

    愛、感謝、喜び、いずれも出てこなかったように感じます。 

    私は、特講以来、16年ぶりに体感した真我の境地を、
    今度こそ、日常生活に活かしたいと痛切に感じました。
    そして、巳代蔵さんが3年で亡くなり、今、直接、巳代蔵さんと
    話せない代わりに、佐藤康行氏は、生きてこの世にいてくれる。
    絶対に二の舞は踏みたくないと思いました。
    そして、佐藤康行氏に弟子入りするような形で、
    今、佐藤氏が主宰する「心の学校」のスタッフをしております。

    幸い、私が望んでやまなかった真我の実践方法を佐藤氏は
    数々編み出していました。
    実際、以前、ともにヤマギシ会活動をしていた仲間が、
    真我開発講座を受講し、佐藤氏のもとで学ぶ中で、
    まさに、巳代蔵さんがやろうとしていた、神の法則を実践する
    ことで、人間関係が劇的に改善していく奇跡を味わっています。

    熊本のある小学校の先生は、以前、ともにヤマギシ活動をしていた
    仲間ですが、今、真我開発講座を受講し、真我を実践する中で、
    不登校だった子供が元気に登校するようになったり、
    いじめっ子がいじめられっ子を助けるようになったり、
    勉強嫌いだった子達が急激に成績があがったり、
    問題を抱えた父兄が心を開いて問題解決に向かったり、
    最近では、この先生が町で注目されるようになって、
    地元の大手企業が経営指導のためにこの先生にコンサルを
    依頼されたり、普通では考えられないことが起きているようです。

    自らが真我の境地を継続していくだけでなく、
    ただ会話しているだけで相手の真我が開いていく。
    ここまで出来る人が出てきました。

    私もいつか、自分を育ててくれた実顕地に恩返しがしたいと思っています。
    もちろん、今でも本当に未熟ですが、一段一段階段を登っていきたいです。
    思いつくままに書いてみました。
    長文最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

  5. 聡子さん、ブログへのコメントありがとうございます。

    中国政府は今のネット時代にあっても、情報を操作し、検閲を必死にやっています。それは時代という生き物に挑戦しているようなものです。時代というのは常に成長、進化し続けるものです。それに抵抗することは、この時空の世界にあって時間を止めようと思うような愚かなことです。私たちが生きるということは、時空の旅をしているということとも言えます。それは止めることはできません。止めようと思えば、苦痛に出会うことになるだけです。

    新たな時代は情報の共有の時代です。そして、そのネットワークが新しい時代を生み出していくのです。様々な情報の根底に、揺るぎのない真実の法則が流れています。その法則の存在を人々が気づき、ひとりひとりがその目的に目覚めていくようになるでしょう。たいへん楽しみな時代が訪れようとしています。あなたのまわりにもそういった世界を広めていってください。訪れてくださることを楽しみにしています。

    三輪さん、ブログへのコメントありがとうございます。

    今はヤマギシとの出会いが多くありますので、このようなブログを掲載させてもらいましたが、これは決してヤマギシの皆さんへのブログではありません。ヤマギシズムの奥にあるものが全人幸福のためであり、それはヤマギシズムの中に封印するものではないと思っています。そういった意味で、この名前もいずれは全人幸福にふさわしい名前になっていくのが良いのだとおもっています。

    三輪さんのコメントを拝見しまして、私の中にある人のことが浮かんできました。それは以前に私どものほうへよくおいでになり、今も縁が切れたわけではない知人のことであります。たしか、佐藤さんの真我講座を受講され、熱心にやっておられるようでした。世間は狭いものだと思います。ヤマギシの実顕地を訪ねて色々な方の相談を受けていく中で、この真我の会の話もよく聞きますが、なかなか迷いの中から抜け出せない人もいました。人はひとりひとりオリジナルな人生をいただき、人生という旅を歩んでいます。それはある意味、情報の羅列のようなものですね。ひとりひとりの旅を大切にしていきたいと思います。

    その話はさておき、私がヤマギシに関わるようになったのは、21世紀という時代を迎えても、過去の優れた先人たちの教えが生活そのものに実践されているところは少ない、つまり、教えと生活が一致していないということです。ヤマギシ会もヤマギシズムという理想の経典を持っていますが、残念ながらそれが日常に生かされていない状態です。優れた教えも言行不一致の上には意味をなさない。そうしたものは全人幸福どころか、社会に矛盾を提起してしまいます。

    私はあまり人におせっかいを焼くのは好きではありませんが、ヤマギシ会の皆様には御縁を感じて、今の世の中にこういったライフスタイルの提示が必要であると思っておりますので、ともにいただいた役割を果たしていきたいとお声がけをしております。それに対する解答はヤマギシの皆様にお任せするところであります。といったところで、簡単ではありますが、ブログへのコメントの返信とさせていただきます。

    天の意志がその機会をいただけるのなら、お会いしたいと思っております。

  6. いさどんさん、丁寧なお返事ありがとうございました。
    直接、このようにやりとりできることを大変嬉しく思います。
    ありがとうございます。
    いさどんさんが仰るとおり、ヤマギシ会(この場合、実顕地のことを指します)の中に、
    ヤマギシズム(宇宙の真理のことを指します)を封印するものではないと私も考えます。
    ヤマギシズムは普遍の真理であり、誰もが元々心の奥底に宿している宇宙の記憶とも
    呼べるものだと私は捉えています。
    巳代蔵さんはそれを天からのメッセージとして受け取り、本来言葉化できないものを
    何とか言葉化しようとしただけでなく、誰もが頭での理解ではなく、体感できるところ
    まで持っていきました(特別講習研鑽会)。
    そして、いさどんさんが仰るように、生活、そして社会に顕そうとしたところに
    巳代蔵さんの卓越したところがあると思います。
    しかし、現実には日常レベルにまでは生かされていない状態であります。
    私は、ずっと、それは何故なのかを実顕地を離れてからも探求し続けてきました。
    私はそれを「愛」という観点から捉えてみました。
    コメントにも書きましたが、真我開発講座を受講したとき、両親に魂の底から
    感謝できるという体験をしました。
    結果、私の長年のうつ状態は劇的に改善されました。
    私は両親を長年恨んでいました。両親を否定した結果、自分を否定することに
    なってしまい、結果、うつ状態になっていました。
    実顕地にいたころ、口では全人幸福と唱えていながら、自らが幸福でないこと
    に気付いていました。親を恨んでいる自分を許せない、愛せないからです。
    自分を愛せないのに、周りの人を愛せないからです。
    「一体」の家族、と言っておきながら、その家族を愛せない。
    この自己矛盾に苦しみました。

    つまり、全人幸福は目という視覚を通して認識できる現実社会にあるのでは
    なく、自分の心の中にある、ゆえに、まず、自分の心の中を愛と感謝で
    満たすことが先であることにきづくまでに私はずいぶん時間がかかりました。

    ヤマギシズムという理想の経典(私はヤマギシズムを経典と捉えたことは
    なかったのですが、いさどんさんに習ってこういう表現を使ってみます)を
    持っているにも関わらず、日常に生かせないのは、心を愛と感謝で満たす
    方法を持ち合わせていなかった為だと思います。

    ヤマギシ会の独特のコミュニケーション方法として研鑽会という手法が
    あります。無所有の発想から産まれた手法と私は解釈していますが、
    お互いの頭を提供して、車座になって一つのテーマを考えるやり方です。
    ブレーンストーミングと言ってもよいと思います。
    私は、これは巳代蔵さんが受け取った神のメッセージ、つまり宇宙の真理は
    時間と空間の概念を持ったこの物質世界の言葉では究極のところ、
    言い表せない、それ故に、人間はどこまで行っても宇宙の真理=ヤマギシズム
    を理解しえない存在である、という謙虚な捉え方からきた、
    常に「本当はどうか」と自分を間違え多い存在であるという立場から
    編み出した手法が「研鑽会」であると捉えています。

    しかし、巳代蔵さんの真意である、宇宙の真理は人間では理解しえないと
    いう謙虚な人間の捉え方そのものが、私はヤマギシ会では間違って
    捉えられていると考えているのです。
    それは、人間を絶対的な愛とする捉え方の欠如についてです。
    全ての人間は完全で完璧で愛そのもの神そのものの存在である
    という捉え方がヤマギシ会には欠如していると思うのです。
    自らを愛することが出来たとき、自信が湧いてきます。
    自らを愛と捉えられたとき、迷いは晴れます。
    自らを愛することが出来たとき、それを幸福と言ってよいと思います。
    そして、心が愛で満たされたときに、その愛でもって、人を捉える
    ことが出来、相手も愛だと捉えることが出来ます。
    その愛の幅を広げて行って、最終的に全人類を愛せる心になれたら
    初めて全人幸福は実現すると思うのです。
    なぜならば、この世に起きている現象は全て自分の心の現われです
    から、自分の心が全人類を愛せる心になれたら、世界はそう変わらざる
    を得ないからです。

    これはあくまでも私の感じるままなのですが、現在のヤマギシ会の根底に
    流れる心境として、自信の無さを感じるのです。
    迷いのようなものを感じます。
    実顕地にいる全ての人がそうだとは思いません。
    私が身を置いていた1990年代前半は、参画者が最も多く、
    実顕地の数も次々と増え、日本中の百貨店などで生産物の
    即売催事を開き、自信に満ち溢れていました。
    しかし、一方で、私もそうでしたが、親や親戚の反対を振り切って、
    家族で参画する経緯の中で、周囲との摩擦も生じ、反対運動など
    が各地で起こり、次第に活動は縮小していきました。
    実顕地を離れる人も増え、現在にいたっています。

    人生をかけて参画したにも関わらず、志半ばで実顕地を離れた
    人の多くには、深い挫折感をトラウマのように抱えている人も
    少なくありません。
    みな、真面目で純粋で誠実な人たちばかりなのです。

    話しが少しそれましたが、反対運動が起きたり、実顕地が
    縮小したり、それも学びだったと思います。
    相手の身になる、相手の立場の思いやる心があれば、
    反対運動も起こらなかったかも知れません。
    参画した人は一体、そうでない人は一体では無い、では
    矛盾します。
    あの頃、反対運動をしている人も一体である、という捉え方
    を出来る人は実顕地には少なかったように思います。

    巳代蔵さんが、ヤマギシズム=宇宙の真理を人間が理解しきる
    のは無理である、と理解し、それでも何とか体感してもらい
    たいと、命がけで編み出した特別講習研鑽会。
    そして、それを受講して、宇宙の真理を体感し、それを実際の生活、
    社会に落とし込んで実現しようとしたヤマギシ会初期の緒先輩方の
    苦労は想像を絶するものがあります。
    巳代蔵さん亡き後も、試行錯誤しながらもこうやって受け継いで
    下さったことに深い感謝の念に絶えません。
    しかし、いさどんがこうやってアプローチしてくださっているように、
    そこに身を置いたものとして、巳代蔵さんの遺志を受け継いだものと
    して、なぜ教え(とは巳代蔵さんは言っていませんが)と生活が一致しないのか
    の理由と、どうすれば一致するのかを私は解明し、示す使命があると思って
    います。
    一つは、人間を不完全なものとして捉えるのか、完全完璧な神として
    捉えるのか、に鍵があると思います。
    私は、人間はどこまで行っても未熟であると捉えますが、同時に
    未熟なそのままで完全完璧であると捉えます。
    私は、この視点は巳代蔵さんには無かったと思います。

    完璧な宇宙の真理を生身の人間で受け取った巳代蔵さんの苦悩は
    同様の体験をした仏陀やキリストにしか分からないのかも知れません。
    巳代蔵さんは誠実であったが故に、肉体をもった人間では決して捉えきる
    ことの出来ない宇宙の真理を、これだけ精神世界のことにオープンに
    なった現代ならいざ知れず、戦争が終ったばかりの日本に流布すること
    に最初かなり迷ったのではないかと察します。
    しかし、戦後だからこそ、戦争を体験したからこそ、伝えなくては行けない
    と決心されたのだと思います。
    二度とこのような体験を日本が味わわないように。世界が味わわないように。
    そして、封印を解いたのだと思います。
    まず、養鶏で試し、行けることを確信して、人間に向けて命がけで
    特別講習研鑽会をやった。
    そして、全員が宇宙の真理を体感するところまで行った。
    しかし、それを言葉化して継承することの難しさに直面した。
    絶対に理解しえないものを継承することの難しさに。
    結果、理解しえないものに対する謙虚な姿勢として、
    「どこまでも本当はどうか」という研鑽姿勢という態度を
    ベースとした、研鑽会を編み出した。
    これが、巳代蔵さんの限界だったと思うのです。
    その研鑽姿勢が、人間は元々宇宙の記憶とも呼べる、
    神意識を内在した存在である、つまり、元々愛そのもの、
    感謝そのもの、喜びそのものの完全完璧な存在である、
    という大前提を否定しまうことになってしまった。
    結果、ヤマギシ会の中に、常に流れている愛そのものとして
    の自分の否定から来る自信の無さ、それと同時に、
    愛の渇望から生じる無意識下での権力(人を裁いたり、自分を裁いたりすること)
    行使への欲望が生じてしまっているのだと思うのです。

    ここまで、また思いつくままで書かせて頂きましたが、
    これは本来、いさどんさんにお話しすることではないのかもれません。
    なぜか、いさどんさんならば受け止めてもらえると思い、甘えてしまいました。
    申し訳ありません。
    最後になりますが、いさどんさんの知人の方で真我開発講座を受講されている
    方がいらっしゃるのですね。もしも私の知っている方でしたら、本当に世間は狭い
    ですね。ここでこうしていさどんさんとお会いできたのも、きっと魂のご縁がある
    のでしょう。ありがたいです。今回も最後までお付き合いありがとうございました。

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