愛とお米があればいい

木の花ファミリーには「愛とお米があればいい」という言葉があります。これは、いつの頃にか、いさどんの中から湧き出してきた言葉です。この言葉を受けて、木の花楽団ボーカルであるみかちゃんから『愛とお米があればいい』という歌が生まれ、ファミリーの祭事ではこの歌が歌われます。
この「愛とお米があればいい」の意味について、いさどんが語りました。

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まずは、そもそも愛とはなんぞやということです。

愛には、ランキングがあります。一番初めに私たちが目覚める愛は、自我です。つまり自己愛です。どんなものも自分というものを愛するわけで、我々が自分のことを大事にしたり、人からよく思われたいという欲求を持つのは、自己愛の表われであるわけです。
人間だけでなくて全てのものが、自らを存続させるための働きを持っています。それは動物や植物にも見られる姿です。例えば植物は、水がない時には根を張って水を求めていきますが、水を与えすぎると逆に怠けてしまって、水がなくなったらすぐに枯れてしまうことになります。それは自分を存在させようとする力があるということです。また虫なら、常に自らを存在させるために獲物を捕ろうとしたり、何かに襲われそうになると逃げます。これは全て自らを存続させようとする本能的な、あるいは無意識的な自己愛の姿ということができます。
それが人間的な愛になると、自我がからむことによって「~になりたい」という欲求に発展していくのです。さらに愛が他者に向くようになると、「人から愛されたい」となります。それが自我的な欲求の場合、愛が「恋愛」という所有するものになります。

恋愛の「恋」という文字は、「変」という字に「心」がついたものです。だから、心が変になっていることで、相手が多少おかしくてもよく見えてしまうような、こだわりの愛の状態です。愛は本来無条件であるものですが、恋愛は条件付きの愛ということになります。
さらに執着が進んでいくと、身内の愛、自らの血を分けた関係の愛があり、それは親子や一族の関係で見られるものです。その執着の強い愛によって、子どもの命が危険にさらされた時には、自らの命を犠牲にしてでも親はその命を救おうとします。そしてどんなに出来が悪くてもわが子は可愛いとかばうようになったりもします。それがバランスを欠くと溺愛となって問題となります。それは愛の段階において、まだ自我が自己欲求に近いということです。

さらに愛が進んでいくと、他者の為に自分が存在している、他者の喜びを自らの喜びとするという、自他を区別しない愛があります。自分を愛するがごとく他者を愛するという、菩薩の愛です。これは社会でいうキリストとか仏陀、身近ではガンジー、マザーテレサなど、そういう聖人たちの持っている愛です。
そしてさらに愛が進んでいくと、今度は無条件の愛になります。愛というのは絆によって作られます。絆というのは、言葉を変えるとネットワークです。私達は地球上に生命として生きています。この世界の実相は、いろいろな生命が連鎖して、宇宙全体を生命として存在させているということです。

生命というのは、循環して巡り巡って変化するものです。変化し続けるために、いろいろなものが連動しながら命が巡っていくという形をとっており、それがネットワークです。そこには執着や囚われの感情はありません。ただそこにその仕組みがあり続けること、また変化し続けるものですから、一瞬たりとも同じ状態はありません。永遠に変わり続けるものです。だから、その仕組みはあり続けるものであり、かつ、そのままであり続けることはありません。瞬間瞬間変わり続け、「あってあるもの、なきてなきもの」という姿を表しています。ここまでの表現を仏教的に言うと、仏の愛です。そして神という宇宙の実相から観るなら、神の愛、無条件の愛です。

ここまでは、「愛とお米」の中の「愛」についてお話ししました。愛とはそのように分類できます。
次に「お米」について話します。

120820-172802-001「米」という字は「八十八」と書き、栽培するのにとても手がかかるということですが、実はお米はあまり手がかからない作物なのです。そして、穀物の中で面積当たりの収穫量は一番高い。今日本のお米は1反歩当たり10俵、600kgもとれます。とても生産性のいいものです。ついこの間田植えをしたと思ったら、あっという間に穂が出て、その後一月くらい経ったら収穫になるのです。なかなかそれほど効率がよくて生産性のいい作物はありません。さらに、お米は私たちの主食で、なくてはならないものですが、その成分を調べると、主食と言われる穀物の中で最も栄養バランスのいいのがお米(玄米)なのです。お米は、五穀豊穣の中の豊穣の象徴です。
神話では、「高天原」というところでお米を作っています。そこでは天照大御神(アマテラスオオミカミ)が田植えをして、お米を収穫しているのです。それ以外の、ナスとかピーマンとかトマトとかいうものは作っておらず、お米だけを作っています。お米は最も大切なものであり、これがあれば人が命を紡いでいくのに十分な、とても重要な穀物だということです。お米があるということは、命を紡いでいけるということです。

もう一つ、「愛とお米があればいい」の「あればいい」についてです。
人間には、他の生き物とは違う役割があります。人間以外の生き物は与えられた役割以上のことはしません。逆に言うと、そこからはみ出たことをするような能力が与えられていない、ということでもあります。
しかし人間は、自己実現として、自らが持つ感情や欲求を満たす能力を与えられています。だから人間はどんどん新たにものを作ったり、生活を改善したり、社会を探求したり、便利にしたりする能力があるのです。それだけの能力が与えられているのです。
他の生き物は人間のようなことはできません。しかし、確実に命の連鎖のポジションから外れないようにできています。虫は虫のように、動物は動物のように、それぞれが自らのポジションから絶対外れないのです。そして命の連鎖が常に保たれるように役割を果たしている。逆に言えば、この世界の命の仕組みがまわっていくように、そこのポジションにはめ込まれているとも言えます。
それに対して、人間は先ほど述べたような役割を持っています。自己実現の能力が与えられているために、いろいろなことを考えて、自らの欲望を叶えることを喜びとします。その欲望がどんどん強くなっていくと、我が強くなり、自分のことだけを考えるようになります。その時に何が起きるかというと、この世界の健康なネットワークから外れることになるのです。自分の役割を果たしながらネットワークを存在させる菩薩の愛から外れて、自我を優先し、家族や自分の幸せだけを願う人になるのです。
さらにそれが強くなっていくと、人と対立するようになります。そして体のバランスを欠くようになります。ちょうどよい食べ方とか、ちょうどよい生活のリズムとか、そういったことを失って病気になります。それは「そのアンバランスに気付け」というメッセージですが、執着が強いと、何度痛みをもらってもやり続けます。それが、地獄を生きるということです。人間は最高の愛を表現することもできれば、地獄から抜け出すことのできない最悪の苦しみの中に陥ることもできるわけです。

そこで、人間が生きていく上で何が必要なのかと考えると、本当に必要な欠かすことのできないものと、そうではない付属品とに分ける必要があります。では、本当に必要な欠かすことのできないものとは何か。それを知るためには、生きていく上での本当の目的を見つけることです。人間が生まれて生きて死んでいく中に、人間としての役割があるということです。
人間は思考することができますし、成長して変化していく生命です。そして地獄から最終の真理までの道を歩むことができるようになっています。人間に生まれてくることは、落ちるために生まれてきているわけではなく、精神性を高めていくために生まれてきているのです。その目的を果たすためには、自分の心を磨いてきれいにしていくことです。それが人間の姿、実相なんです。汚れている状態のままでいることは、元の宇宙の実相、神様の愛の世界、そこから最も離れた状態であり、元の所に戻りなさいというメッセージをもらっているわけです。生きることは、その旅をしているのです。

その旅で一番必要なものは何なのか、逆に不必要なものは何なのかを、仕分ける必要があります。そこに愛が必要になるのです。つまり、この世界はネットワークであり、全てのものがお互いに存在させあっている命の世界であり、これが神様の実相なのです。
それを理解するためには、人間の中から湧き出してくる自己に対しての愛、エゴがどんな役割をしているのかを知る必要があります。それはそのネットワークを無視し、壊していくものです。ですからエゴをコントロールして、主食、即ち本当に必要なものだけを求めていくことが大切です。そこには、それだけしか求めません、それ以上のものはいりません、という覚悟が生まれてきます。それ以外のものを求めるとは、道がその分だけ遠回りになるということです。人が生きていくには、お米、塩、水といったものの他にもいろいろなものがいります。ですが、心はその心構えでなくてはいけないのです。
闇の中にいると光はよく見えるのですが、どんどん光が増してくると、光がわからなくなっていきます。だから、地獄に落ちるということは、本当に光の大切さを理解するために与えられているのです。その歩みの道中で、生きるということを学んでいくのです。

我々は、最高の愛のもとで創られた命のネットワークの中で生きています。宇宙が全てを繋げているのです。そのネットワークの中で、自我を表現することによっていろいろな痛みをもらい、自我を削り取っていく。それが心を磨くということです。我々はこの場所で生きることによって修行の場をいただいているのであり、人生は心の磨き場なのです。
その時に最も必要なものは、ネットワークのベースにある愛と、生きるためのベースになるお米、その二つがあればいいということです。そこに余分なものがあると、その分だけ道から外れます。人はそのことを豊かさと勘違いして、たくさん求めてしまいがちです。「癌」という字は、「品」物を「山」のように抱えると「病」気になる、ということを表しています。私たちは、生きていると生老病死といって苦しみも背負うものですが、だからこそ余分なものはいらないのです。
シンプルに心だけを探求していくことが本来の人生の目的なのです。それをやり切れば、人間はこの世界の実相である神のところまでたどり着きます。仏教で言えば、悟りの境地に至るのです。

ここに歌の歌詞があります。これは、みかちゃんが天から受けたものです。まさしくその心を表しています。
 
 
「愛とお米があればいい」

 愛とお米があればいい
 称えよ命 いただく恵み
 与えよ愛を 御心のまま
 開けよ心 歌えや命
 天の喜び 地に花開け
 愛とお米があればいい
 
 
「命」はこの世界の実相です。そして人生という尊い「恵み」をいただいて、御心の愛という宇宙の根本の御霊のままに、自らの「心」を「開き」、「歌う」ことは生きることを表すのです。「命」の賛歌です。「天」と「地」が結ばれて、天の意志が地上に生きる、地上天国、神人和合をうたっているのです。

これが「愛とお米があればいい」ということです。
 
 
 


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