ひとみ:
よく日本人は信仰心があると聞くけど、国民性として実際にそうなのですか。
いさどん:
そうだね。信仰心といっても、もともとの日本古来の信仰は八百万の神々で表される自然を神と見立てていた。自然は循環する命の仕組みのつながりであり、自然の循環に神を見ていたということだろうね。
例えば、言葉から発する言霊とか音霊とかいうとらえ方があるように、日本の信仰というのはもともと多神教で多様性があった。それはどういうことかと言うと、神(命)の働きであるこの世界の仕組みを大きく分類していくと、始まりは天御中主(あめのみなかぬし)といって唯一の神であり、そこから働きが別れて多面的(多様性)な一つの世界(一神教)が創られている。その世界が多面的であることから、同時に多神教であるという柔軟な考え方だ。
そういった宇宙の中に、私たち一人ひとりの人間の個が存在する。その個から世界を捉えて生きていると、この世界の仕組みによって活かされていることを生活の中に実感することになる。そうすると、そこに祈願とか感謝とか祭りの精神が生じ、そこから信仰心が生まれた。
その精神世界では、天の御魂が地上に降りて肉体を持つことによって、人間的な所有や執着のカルマ的汚れに汚染されることになり、それが苦しみのもととなっていった。そこで、その汚れを払い落とすことが必要になってきた。神道系の信仰では祓い清めることになるのだが、そのようなことでは人間についた欲が祓い落とせない状態になって、仏教とか、後にキリスト教の道が必要になってきた。
ひとみ:
十戒とか。
いさどん:
そうだね。十戒のような戒律が必要となり、仏教的、キリスト教的な規律で生きていくことが輸入された。
人々がもともとの自然の仕組みのままに生きていたら、それは美しい営みであり問題はなかったのだが、人間の欲望が強くなり、悩みや苦しみが多くなってきた。そして人々は自然の仕組みからはみ出すようになって、そのコントロールが必要になってきた。
そこで求められる世界は、人間の欲望や願望を超えた自然と一体の世界だ。自然は、宇宙法則により生命が一体になった境地を現象化した世界。それは過去の人間たちの中に存在していた。それが祭りなどの形となり、残ってきた。
その精神がなぜ薄れていったのかというと、明治維新により、天皇を神格化する国策が始まった。教育勅語のようなものを使って、国家神道という国をまとめるための宗教を軸にしたことから、本来の自然にまつわる精神を失っていったわけだ。
日本人は歪んだ宗教を与えられた結果、第二次世界大戦を起こし、宗教アレルギーになってしまった。それで、本来日本人の中にある八百万信仰という自然と一体となって生きていく精神が消えていくことになり、代わりに西洋文明の人工的、物質的な価値観が入ってきたり、多様な新興宗教が興ったりして、日本人の本質が骨抜きになってしまった。
そういった中で、多くの宗教は信者獲得の争いにまみれていく。大本教や天理教などの神道系から、仏教系、キリスト教系までの日本の宗教が、ご利益的な教えのもとに勢力を広げることになった。
そこで表現される信仰は御利益宗教であって、人々に目覚めを促す本来の信仰とは異なるものになってしまった。
ひとみ:
ここに来る前に私が調べたことの中に、天御中主命的な、世界はもともと一つだったということがどこの国の神話にも記されているのだけど、あまり他の国の人々はそれがわかっていないような感じがした。日本人はそれを覚えているような感じがする。
いさどん:
日本人気質の中には情報としてあるかもしれないけど、今の日本人は、あまり覚えていないね。
ひとみ:
日本人も忘れているということ?
いさどん:
今の日本の人々にそのようなことを意識している人はほとんどいない。それから、そういったことを意識している人たちもそれに偏ってしまって、生活に表わすことがおろそかになっている。
ひとみ:
そういう傾向があるよね。
いさどん:
分析すれば、歴史がそういった社会を誘導してきたということなのかもしれない。今、20世紀までの千年の区切りが終わって、21世紀型の社会が幕を開けようとしている。それで価値観が大きく変わろうとしていることは確かだね。
これまで、「陽」の時代が千年間続いて来た。そしてこれから「陰」の時代の千年間が幕を開ける。陰が主となる霊主体従の時代が開けようとしている。これまでの陽の時代は、物、金、形、テクノロジー、科学の刺激がとても強かった。しかし、そういったものは陰である霊性に根付いたものでなければ、健全な姿にはならない。そのことを、これから人々がわかっていくことになるだろう。
昨日、アメリカのイサカから来たゲストが彼らのコミュニティについて語ったが、その現状はまさしく、陽が優先し、豊かさと便利さをエコという言葉に変えて追及している、精神性の薄い生活になっている。また、エコについても、どちらかというと彼らはそれほど強い意識を持っているわけではなくて、自分たちの願いを優先し、プライバシーを守り、好きなように暮らせることを大事にしている。それは浅いところの願望は満たしてくれるかもしれないが、霊性などの深さには繋がらないことになり、地球に負荷をかけ続ける20世紀型の生活になる。
ひとみ:
日の本の国(日本)は霊性の世界の写しだから、そこが歪むとアメリカも中国も歪んでくる、と何かの本に書いてあって、以前私がいさどんにその話をしたら、「インドは特別なんだ」と言っていたような気がするのだけれど。
いさどん:
インドは“地球のへそ”といって、心が湧き出るところだ。
ひとみ:
インドは仏教が生まれたところ?
いさどん:
仏教だけではないよ。インドでは仏教のもとであるヒンズー教、イスラム教、実は原始的なキリスト教もインドから生まれたという説もある。
ひとみ:
インドが要になるの?
いさどん:
インドは地球の魂が湧き出るところ。
ひとみ:
日本は?
いさどん:
インドは地球の魂という生命宇宙の法が湧き出るところだけど、日本は逆に宇宙の法が降りて来るところなんだ。だから、富士山のことを天教山(天の教えの山)といって、エベレスト・ヒマラヤのことを地教山(地の教えの山)という。
ひとみ:
そういったものを日本人は忘れてしまっているということ?
いさどん:
DNAの中には情報としてある。そして、それに目覚めてきている人が現れ出している。今までの日本では、そんなことを言おうものならそれこそ宗教団体に見られてしまった。
ひとみ:
そうなんだね。
いさどん:
そのうちに民族意識が目覚めて重ねられる時が来るんじゃないかと思う。
ひとみ:
今でも一部のマニアックな人たちはそういった部分だけ取り上げて、実生活がそれに見合っていない人たちがいるよ。
いさどん:
それも次の時代につなげるための役割で、どこかでつながって100匹目の猿現象のように広がっていく時が来るのだろうと思う。
ひとみ:
今年は“龍のうねり”といさどんが言ったけれど、世界の神話の中には共通して龍のような生き物が出てくるんだよね。どこの国の古い神話の中にも、蛇や龍が表現されている。そして、それが意識される現代はある意味末期の世なんだろうね。
いさどん:
末期の次は始まりということになるからね。
ひとみ:
そうそう。末期が始まり。古代神話の創世の部分に龍のような動物が登場する。古い時代が終わって新しくなるということだね。
いさどん:
だからこそ、人間はそれを察知して新しい意識を持って生きる必要がある。新しい意識を持つとは、ここでは“古い”意識を想い出すとも言える。それは“復活する意識”で、忘れていたものを想い出すことが新しいということになる。
そのことが今の人間たちには大事なことだけど、それがなかなか一番にならないんだよね。どうしても20世紀型の物・金・カタチのところに魅了されてしまっていて。決して物やお金がなくなってしまうわけではないのに、優先順位を間違えている。優先順位の一番が欲を満たすことになってしまっている。イサカのエコビレッジの話を聞いても、個人の願望が優先されて、コントロールすることによるシンプルな豊かさや尊さがまだ理解されていない。
ひとみ:
物理的な生活はシンプルかもしれないけれど、シンプル違いなんだよね。個人の願いとか趣味とかにまだ意識がある。
いさどん:
それはシンプルではないんだよ。個人の欲望が少し方向が変わっただけであって、個人の概念を満たすということについては同じことなんだよ。
ひとみ:
同じなんだよね。そうそう、それが言いたかった。
いさどん:
この世界(宇宙)では個人は全体の為にあって、個人が生きるための意識の先に全体が存在しなければいけないのに、その全体ということが優先できない我が勝っている状態にあるわけだ。
ひとみ:
一般社会と同じなんだね。エコビレッジというカタチをしているだけで。
いさどん:
それが“もどき”なんだ。他にも世の中にもどきはいっぱいいる。
ひとみ:
なるほど。
いさどん:
エコビレッジに限らず、いろいろなものが“もどき”になっているんだよ。自分を優先する理屈で正邪を決めているんだよ。
ひとみ:
自分が元にあることのカラクリに気が付かない人が多いね。
いさどん:
そうだね。自分という存在はすごく大きな存在だからね。だから、自分を越えていくことは難しい。しかし、美しくなるためには、それを越えていかなければいけないんだよ。
ひとみ:
そこが古い時代と新しい時代の違いだね。
いさどん:
根っからの宇宙人というか、この世界の法に基づいてというか、“法に目覚めて”生きていこうとする者と、自分の中から湧き出てくる我に翻弄されながら生きていこうとする者との違いがそこにある。そこを超えて創られる時代がこれからの時代で、21世紀の物理的に難しい時代を楽しく乗り越えられる人々の心の姿なんだ。そこをいくら言っても、個の我が優先している者には解らないんだよ。
ひとみ:
伝わらないんだよね。
いさどん:
時期が来れば、誰にも目から鱗の時期が来るだろうと思って、伝えようとしているんだけど、伝えようとしても伝わるときにしか伝わらないから、まあしょうがないと思っている。
ひとみ:
なるべく、大難にならないうちに気がつかないといけないね。
いさどん:
そこに気がつかないと、自然現象や天変地異的なものは収まらないよ。
ひとみ:
収まらないね。ますます激しくなる。
いさどん:
しかし、ひとりふたりとそこに気付こうとする者たちが出てきている。
ひとみ:
その為に揺さぶられているんだね。
いさどん:
逆に“もどき”が明らかになって外れていくからね。
ひとみ:
本当だね。
いさどん:
それが新たな次の時代に移行するときの選別なんじゃないかな。
ひとみ:
そうだね。意識の選別。
いさどん:
我々は陽的(物質的)な時代から扉を開けて、次の時代を見た者として、新たな、生きるという現象化を大事にして進めるのが役割。そしてそれを自覚して生きることなんだ。
ひとみ:
だから肉体を持って生まれてきたんだね。
いさどん:
そういった大事を表現しない人生なんて意味があるんだろうかと思うんだよ。自分の私利私欲で食べ物を食べて酒に溺れて、単に物理的な豊かさを追求してお金を求めて、その豊かさの延長に生きてなんの意味があるのか。
生きることに対して死があり、それは繋がっている。魂の旅である宇宙の法則の中に生きる認識と比べたら、何の意味もないことだ。それどころかそれが自らの足枷になり、人生の旅の重荷になって、自らの成長を妨げるものになることを感じると、そんなものにまったく魅力を感じない。
しかし、物質的なものは霊的な豊かさの表現の手段のひとつでもあるのだから、そこを避けて生きるということではない。豊かさの優先順位を間違えないように心して生きるということだ。
ひとみ:
魂で生きることを意識していたらそうなんだろうね。今の人々はそれを忘れている。
いさどん:
だから、多くの人を惑わす。物、金優先の社会や“もどき”の宗教や、“もどき”の神通力を使うものたちが出てくる。そういう人たちは必ず有名になろうとしたり、お金に溺れていくことになる。
ひとみ:
表面的な知識だったり。
いさどん:
そう。知識や理屈に溺れていく。
ひとみ:
あとは表面的な“仲良し”に走ったり。
いさどん:
結局そういったものは自らの中にある微妙なもの(けじめのない心)を優先している。それは無意識に我が優先している状態。
ひとみ:
一見良さそうに見えるものね。
いさどん:
聖者と言われていても、それとは対極の者もいて、紙一重なんだよ。魔はいつでも差してくる。しっかりとした意志がないと道は歩めないもどきになってしまう。田んぼの畦道の話をいつもするけれど、左側は尊い生命の米を作っていて、右側はいつでもカルトに落ちるという真ん中の細い一本道を歩いていることを、常にわかっていることが大切なんだ。
ひとみ:
本当に謙虚に歩いていないと、すぐに魔に足をすくわれることになる。
いさどん:
謙虚だけでは駄目だね。やはりしっかりとした意志を持って真実から外れないという魔に打ち勝つ覚悟がないと駄目だね。覚悟が、自らの中にある我や魔から自らを守るんだよ。
ひとみ:
頭ではなく、腹で決めるということ。
いさどん:
そうそう。頭で考えているのではなく、腹から湧き出てきたものでないといけないんだよ。
ひとみ:
その感覚が現代の世の中にないんだね。
いさどん:
ないね。頭があって腹がない。
ひとみ:
頭があって腹がないのは蛇だね。
いさどん:
だから“聖蛇”というんだよ。
※ひとみ注:最後にある“せいじゃ”は漢字を“聖蛇”としました。
聖蛇・・・聖人の形(なり)をした蛇、“もどき”のこと。