“真学校”としての役割

木の花ファミリーでは、自分という枠から飛び出してこの世界の仕組みを学ぶ「木の花塾」や、それをさらに総合的に、1ヶ月間の滞在を通してじっくりと深めてゆく「エコビレッジ・デザイン・エデュケーション」などのプログラムを開催しています。これまでも受講生たちの人生に大きな変化をもたらしてきましたが、世界中が激動の時代へと進み始めた今、これからのさらなる役割についていさどんが語りました。

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いさどん:
人間の近くで生きている動物には多少の感情があると思う。それに対して、人間は感情の生き物といえるくらいの存在だ。

21世紀に入って14年目を迎え、社会にはまだまだ問題の種が山積している。その根本的原因がどこにあるかを考えてみると、私たち人間の感情の有様にあることがわかってくる。
人々の感情がエゴに向かって育てば対立するのだが、調和に向かって育てば平和が来る。しかし、どうしてもエゴに向かってしまうのが人間の本質。調和の方向へ向かうことも諦めてしまいそうなくらい、エゴの方向へ一方通行な人間の性質が強くあるとしたら、そのエネルギーを逆の方向に向けても然るべきだと思う。エゴに向かうことが生命としての本質はそうではないのだから。
小さくても人々のあるべき見本を創りたい。その為には人間を人間たらしめている精神構造に着目するべきだと思う。そこから根本的に組み立て直す必要がある。

ひとみ:
それはどうやって?

いさどん:
エゴに走るという事は感情が一方通行だろう?自分から周りへというように。だから、広い世界から自らへ帰ってくる視点で外から内へ、そして内から外へと、その両方の視点がバランス良く成立した時に、個人は全体の為に繋がるし、そこに調和が生まれるんだよ。お釈迦様が中道を説かれたけれど、個人の成り立ちと世界の成り立ちが同時に成立するとらえ方があるはずなんだよ。
今、地球の外、人工衛星のあるような位置から地球を眺めている意識で、そんなことを想って語っているんだよ。やはり視点がこの地上意識を離れないとそうはならない。その発想はいつでも人間の能力で出来ることなのだが、人はそれをなかなかしないんだよ。

ひとみ:
しないの?

いさどん:
そういった視点を持たないんだね。

ひとみ:
持てないのではなく、持たない?

いさどん:
持てないのではない。持とうと思えばできる。それだけの能力と情報が人間にはあるのだから。想いはいつでも広がるし、飛ぶ。だから出来るはずなんだよ。

ひとみ:
では持たないのは?

いさどん:
持たないのは視点が狭いんだよ。

ひとみ:
視点が狭いから持とうという気になれないということ?

いさどん:
視点が狭いからそういった発想が浮かんでこない。広い世界観が浮かんでこないんだよ。少し刺激をもらえばその能力は既に持っているわけだから、誰でもその視点に出会える。少なくとも視点が広くなりさえすれば、自分だけの一方的な価値観でこの世界を見ることはない。なんとかしなければ、と思うだろう。自らの内から目線、損得目線では繋がらない。

実際に人類は宇宙開発をしている。宇宙から見たら地球は狭くてひとつに観える。国境がないことも簡単に理解できるだろうに。海もひとつだし、大地もひとつだし、風もひと塊だし、大気もね。空気もみんな、ひとつの中に暮らしているんだよ。

救世教の岡田茂吉さんが今から70年ほど前に自然農法を解き出し、画期的な方法があると語った。肥料をやってお金をかけて大地を悪くして生産性が上がらないよりも、自然農法という神の力を使った方が確実に米の収量が1割〜5割上がる。そして、肥料の毒がない健全な農法と謳って、これはすぐにでも日本中に広がると言った。そしてその会員を募り出したら、100万部くらいのパンフレットを作らなければいけないと書いているんだよ。
それはよくある話で、人参をぶら下げてそれに欲の亡者たちが群がってくる姿だよ。結果、自然農法は科学的な根拠に基づいた農法に代わって一時火がついて世の中に広まりかかったものの、萎んでいった。

あの山岸巳代蔵(ヤマギシ会創設者)さんが理想世界を説いて、食べるのに困らない生活を謳って人を集め、ブームになった。特講(特別講習研鑽会。1週間ヤマギシ会に滞在して自己の思考を見直すというもの)なんて何十万人も今まで受けている。結果、それで下火になっている。それは何故かというと、人間の欲をくすぐって広めようとしたからだ。
逆に人間の欲をくすぐらないで、「欲から離れて本来の人間の生態に相応しい立ち位置に戻りなさい。それは欲に汚染されていないから人間の意識は高いのです」と伝えても、世の中にはなかなか広がらない。しかし、大事だということではこちらの方がはるかに上なんだ。『難しいことを与えておるゆえ、心して行け』と託されたわけだよ。しかし、それを大事の一番としたならば、難しいからといって止めるわけにはいかないんだよ。

何故、人間がこのように偏ったものになってしまったのか。何故、わざわざこのような思考回路を持つ者としてつくられたのか?はたまたこの身体をもらったばかりに、五感の刺激が強いばかりに、自己というものに意識が行き過ぎるのか?
それでも、人間以外のもののように感情的思考が強くなければそのようにはならないはずなのに、一方通行の感情・思考の強い者をわざわざつくってしまったが為にこういった現状があるとしたならば、難しいけれどそこを突破して越えていくだけの道があることは確かなんだ。それはその道を行くことを課せられているとも言えるよね。だから、そこに気付いたものはそこを行かなければいけない。

このようなことを考える人はなかなかいない。いたとしても、それは難しいと言うだろう。だからこそ行くのだ。そういった世界が人間にも創れることを示さなければいけない。
その為にまず取りかかるのは、自らの改造からだ。そして、それを外に示して人間が自らの内側の改造に取りかかった結果、できる世界の姿を示していく。シンプルになっていく豊かさ。分かち合うことによる豊かさ。エゴを手放して繋がることの豊かさ。このようなものは世の中にいくら宣伝してもなかなか広まらないけれど、小さくてもモデルをつくることは出来そうではないかと思うんだよ。世界がそのことになかなか気がつかなくても、可能性としての見本は見せることが出来る。

あと17年。それは個人的に理由のある数字だけれど、それをやりきって後に続く者に残して旅立とうと思う。

最近、『神学校』という言葉が浮かんでくる。イスラム教でもキリスト教でも神学校というものがあるけれど、年明け最初の木の花塾でどうだろうね。

ひとみ:
では、第3回目は実習はなくす?

いさどん:
“実習”はゲームのようだ。そうではなくて、イメージをどんどん膨らませて世界観を広げていくものにしたいね。

ひとみ:
なるほど。心の読み方自体は1回、2回で伝えたからね。

いさどん:
それは特別に大切なものではないんだ。心の読み方をマスターしてもしなくても、要は世界観が広がりさえすれば人間の意識は変わる。それが変わらないと、自らの心の構造を知ってもどう生かせばいいのかということになる。

ひとみ:
生かすために必要なんだね。

いさどん:
そう。どんな人でも世界観が広がりさえすれば、意識が高まっていく。人間が世界観を広くしないからやっているだけであって、それは一つのツールにしか過ぎない。それは最終目的ではないんだよ。それを最終目的にしたら、お金儲けの手段に使ったり、偶像崇拝的なことになってしまう。

ひとみ:
やはりいさどんは発想の元が違うね。いさどんの視点の位置で考えないと。

いさどん:
それでは“いさどん視点で見てみよう”というキャッチコピーになってしまうね(笑)

ひとみ:
そうそう。どうしても私の場合、“講座”というふうに発想がなってしまうので、狭い発想しか出て来ないことになる。

いさどん:
“自らの思考を柔らかくして新しい視点で観てみよう。”

ひとみ:
なんだろう?固定概念が邪魔をするんだよね。

いさどん:
それは“発想をフリーな状態にして囚われない思考を持とう”という事だね。そうすると、縛られている自らの枠から抜け出せます。そういったことをひとつずつ学んで身につけていくことだよ。

ひとみ:
学びに関しても自分の発想内(理解できる範囲内)の学びをしようと人間は考えるよね。

いさどん:
その学びは人の成長につながらない。

ひとみ:
でも、そういった人がほとんどだよね?「自分の発想内の気づきを得よう」とか「自分の発想内の予測できる学びをしよう」と人間は考える。

いさどん:
それを求めるんだよね。それはその人の心の枠の中にあるものだよね。それでは我は取れないし、意識が広がらない。

ひとみ:
学びや気づきを得ているつもりでどっぷり我に浸かっている状態だね。あーあ、たいへんだね!

いさどん:
この前、木の花塾の『宇宙おじさんの人生講座』である受講生から「公開面談をしてください」と頼まれたので、「それではあなたをバラバラにしてしまうよ」と言ったことに対して、彼女が「それをしてもらう為に来たんです。私はもう限界なので自分の枠を壊したいのです」と言ったんだよ。人はそこまで行き詰まらないとそうはならないけれど、そこまで行き詰まる前にそういったことを求める人でありたいね。そして、常に人はそうあるべきなんだよ。痛い思いをしなくても、冷静な自分観察を出来るようになれる。しかし、人は冷静な自分観察を始める前に、目の前に人参をぶら下げられると、それに魅力を感じてそちらの方へ行ってしまうんだよ。それで手法に走ったり、甘い方へ行ってしまい、本当の実力をつけることが出来ないんだ。

ひとみ:
それを突破できる?

いさどん:
それを突破できるようにずっとここでやってきたんだ。それは“わからなくても信じて行く”決意と、それからわからなくても信じる種が育つこと。

ひとみ:
種。その人に?

いさどん:
ひとりひとりにね。

ひとみ:
でもやはり先導する人が必要ではないですか?

いさどん:
だから、“真(神)学校”がいると思う。

ひとみ:
真学校もいるけれど、“いさどん”がいるのでは?

いさどん:
それを“真学校”というんだよ。

ひとみ:
いさどんが“真学校”なんだ!?

いさどん:
そう。それが“おやじの館”なんだよ。

ひとみ:
「ああ!いさどん様〜!」という感じ(笑)

いさどん:
いや、それは違う。人によって段階によってはそれもやむを得ないこともある。しかし、本来その目的は誰にも縛られない、自分にすらも縛られない者に成長するためのプロセスだから。そういった段階を踏みながら、ひとりひとりの種を芽生えさせていくネットワーク創りをしていくことだと思う。

今までは依存してきた者に対して、自立を促しながら緩急をつけて接してきた。しかし、“もどき”がその中に入っていると、その厳しさだけが際立って今回の現象とその変革となった。そこを教訓にして、やはり種のある者が自然に集まってくる場づくりをする。そして、種があるならば、水をやり、温かくして目覚めを誘発すれば芽が出てくるだろう。その作業をこれからやっていく。“火水(かみ・神)まつり”だね。

ひとみ:
質問です。“もどき”の人間は種があるのは同じなのに何故目覚めないんですか?

いさどん:
“もどき”という状態は、ことの大事はわかっているのだが、まだエゴの魅力に憑りつかれている状態。だから、「わかる」の後に常に「けど」「でも」を使う人。

ひとみ:
エゴに重きを置いている。

いさどん:
自分事を優先して物事を考えている人たちのこと。それはエゴをやりきっていないということさ。エゴをやりきってしまえば、後は調和の方に向かうだけだが、それをやりきれていないんだよ。

ひとみ:
では、「壊したいんです」という所まで行かないと切り替えられないの?

いさどん:
それは推奨できることではないよね。その前に積極的に大事に気がついて、自らを切り替えていけば痛い思いをする必要はない。そこは世界観が狭くてエゴ的カルマが強いからそこまで行くわけだ。
そういう人もいるだろうけど、これからの若い世代の人たちは新しい時代を背負っていく人たちだから、まったく痛い思いをしなくても当たり前にそれが出来る人たちが出てくる。しかし、彼らもそういった事を言いながらも、実際の社会を見れば彼らが思い描く社会や人々にはまだまだ出会えないわけだよ。
だからこそ、ここにそれを創る必要がある。そして、そのような心を育てていく必要があるんだ。今までの宗教団体のように巨大なものをつくる必要はないんだよ。小さくシンプルで、“これだ”というふさわしい本物をつくるだけでいいんだ。その研ぎ澄まされた美しいものは見本として、次の時代の指針となる。
 


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