この世界は、非常に単純な構造をしている。陰陽という相反するもので成り立ち、それが相似形(フラクタル)になっている。そうすると、大きいものも小さいものも同じ構造であり、コンピューターの二進法、すなわち0、1、0、1の繰り返しと同じものである。逆に、それが単純だからこそ、微妙な違いも表現できる世界である。少しの違いは区別できるのだが、大きな単位の違いは少しの違いで区別するのにはわからない。微細で単純にするからこそ、小さな違いもよくわかる。
だから、この世界は非常に単純な構造であると同時に、無限なる多様性で成り立っている。同じものは何一つ存在していない。そういった多様性が微細なものから全宇宙まで表現されている。そうすると、違いは単なる違いではなく、全て連なった多様性の表現ということになる。この宇宙や自然はそれを全て認め合って共同している世界である。
人間はその中で唯一自らを認識し、自己肯定感を持つ存在である。その世界では、自分自身から始まって自らに近いものを守ろうとする。極端なことを言えば、脳を取るか腕を取るかと聞かれたら、脳を優先するだろう。心臓を取るか目を取るかと聞かれたら、やはり心臓を優先するだろう。そのように、人間には生存欲から来る優先順位がある。それは自らが生きる上での本能である。
しかし、そのような本能は自然界の生き物でも持っているのだが、強い自我という形で生存本能を持っているのは人間だけである。そして、無意識の間に自分自身のために生きるようになっている。それに対し、自然界では、この無限なる生命の連鎖の中で、自らに与えられたポジションを本能として担うことが自分自身のために生きることになる、という仕組みになっている。人間だけが、自我のために生きることが優先している。
昔は、人間の能力は自然に対して無力であった。だから、その自我は自然からいただく精神によって満たされていた。ところが、現代の人間は、自分から湧き出てくる感情や思考を巡らせ、自我の自己実現を果たすために欲求を満たしてきた結果、自己実現を果たすことで脳内物質の分泌を促し、それを快感にして追い求めてきた。これは人間が自ら快楽を求めるがためにそうしたのか、それとも快楽物質を分泌させて人間にそれを追い求めさせたのかはわからない。それは、人間の意志なのか、神の意志なのかはわからないとしておこう。
そして、人間は自らに近いものや考えに合うものを良しとするようになったのである。そして、人間は群れをつくるようになった。個が群れをつくり、群れが全体をつくって、それがネットワーク化されていくのは生態系の姿であるが、それに対し個が群れをつくり、そして群れが他との違いから対立するようになったのが人間の姿である。それも、同じ種である人間同士で対立するようになった。これは自然界ではありえないことである。自然界では多種多様のものがいる。そして、時代や環境とともに進化し、変態変容することも常に容認されている。
人間は自我から自己実現を良しとしてきたことによって、自らが得ようとする快感のほうを正義とする。そして、それを主張するために群れをつくって、他の群れと対立する生き物になってきたのである。歴史上、どれほど多くの人間がその対立の結果、殺されてきたことか。それでは、この世界に平和が訪れない。未だに、人間の社会は多数決や力が強い方が支配することになっている。この手法では真理は生まれにくい。
なぜ、このような話をするかというと、木の花では、心を磨き綺麗にして、そして他者との違いを認めることで、他者と自らの区別をしない一体の世界の実現を目指し、取り組んできた。そうすると、もう一つ大きな群れである木の花ファミリーという生命生態系ができて、それが自然と健康体になるのである。そこには、独自の世界観や価値観が生まれる。だから、そこでは自己完結するのである。それはある意味、人類の自己完結であったり、地球生態系の自己完結のようにその都度完成されながら連鎖していく。それは木の花ファミリーが巨大になったものではなく、多種多様のものが連鎖しネットワークすることによって、人類や地球生態系を担っていく一体社会の一つの雛形なのである。
しかし、目指すところはそうであっても、多様性の探求ということで、今までそれと馴染まない者も受け入れてきた。これは自然と他に属するものだから、ここで生きることが合わなくなる。そこで、入ってきた者も受け入れる側もそれが合うものかどうかの選別をしていく。それはここでなくて別のところでも、それが属するべき場所であるかどうかの選別があるのは自然なこと。もしくは何かに属さなくても、社会全体の中にはその人にふさわしい受け皿がある。だから、木の花のような明快なところで人が役割を果たすためには、そこにふさわしい選別は不可欠である。
そうすると、ここで問題が起きるのは、ここにそぐわないのにここにいたいとか、そぐわないからここを自らの考えのほうに変えようとする者がいる時である。しかし、木の花ファミリーのメンバーはあくまでも木の花ファミリーの目的(宇宙・自然生態系を表現する)のために集っているわけだから、メンバーは常に共通の概念でなくてはならない。だから、これは当然のこととして、木の花ファミリーが社会に必要であるならば、そのまま役割として成っていけばいいのである。そして、そこに合わないものは違う世界をつくってネットワークしていけばいい。それはどことネットワークするかしないか、それぞれの価値観でやっていけばいいことである。
それは多様性という意味で、次の時代に新たな人々のあり方としてなっていけばよい。しかし、それを外の世界のものたちが木の花ファミリーを観て、自分たちの思想・信条と違うからといって、どうこうするものではない。外のものたちは自らの自我にふさわしいネットワークをつくって、それを良しとして結果を社会に示せばよいのである。そして、もしもそこに心の広さがあれば、それを多様性としてお互いに認め合ってネットワークすれば、なおさら良いことである。
ところが、自我が強すぎると、自らの考えが正しいと思い、違いを尊重しなくなり、そして自らの考えのもとに同じ考えの者たちが集まってくるとそれが絶対となって、他の価値観の者を攻撃する。そこに対立が生まれるのが人間の常の構造である。
それに対して、自然界では同じ種のものが引き合って受粉し、自分たちの種を増やしていく。同じ種のものが引き合って交尾し、自らの種を増やしていく。そしてそれが全体の中に拡散しながら、生態系をつくっているわけだ。そういった世界に倣えば、何も違うからといってそれを間違いだとか、対立する必要は全くないのである。
では、なぜ人間はこういったことをするかというと、自らの世界を正しいとしたいからだ。自らの世界が正しいのだからそれが正義であり、そのもとに世界を支配したがる。それが大きくなって、世界の多様性を壊していく構造になっていることが、理解できないでいる。
個が自我に意識が行き過ぎてしまって、自我の欲求を満たそうとした時に、個が強くなって個が対立することもあれば、それが群れになって群れ同士が対立することもある。これが地球上にいつまでも平和が訪れない原因である。だから、相手に矛先を向ける前に自らの姿勢を観て、その目に色が付いてないのか、歪みがないのか、客観的に捉える姿勢が必要になるのだが、自我が勝ってしまっていると、その真実がわからないのである。そのような人は常に自らが正しい側になり、冷静さを失うことになる。
そこで、人間の個が強くなって対立が起きた時に、個がどういった性質をしているのかに明快に気付けば、「自分はこういった原因で対立を起こすのだ」と自らを振り返ることができる。人間はとかく、自らを観ないで相手に問題があると観てしまう。そこでは相手を観ているのではなく、自らの姿を相手にオーバーラップさせていることになる。
相手を観ても、同時に自らも観て、冷静で客観的に全容をつかむ目線があれば、全ての出来事は情報であり、その本質に善悪がないことがわかる。そして、そこで対立する必要はなくなる。それはプロセスであり、違いは個性の違いなのだから、互いに認め合うことができるのである。
そうすると、群れを集めたとしても、その群れは世界の中の一つの群れとしての個性であり、ネットワークの一つにしかすぎない。だから、群れ同士で相手を観て否定するのではなく、認め合うための次のネットワークができるのである。
そのために、そういった世界を目指している木の花に、個人の自我を特定する「カルマ読み(名前からその人のカルマを読み解く)」や「己読み(生まれた時の惑星配置からその人の天命を読み解く)」が提供されているのである。なぜそういったものが木の花に芽生えたのか。それは他にないものである。そして、なぜ木の花が今、この個性を表現していくプロセスの中で他からバッシングを受けるのかと考えたら、21世紀を迎え、新たな価値観が地球人類に必要な時が来ているから、それを明らかにしていく道と、同じように考えているモドキとの微妙な仕分けの時が来ているからなのである。
だから、人間がこれからの時代をどのように生きていくか、微妙な真実の見分けが必要になってくる。今まで人間が生きてきた進化はエゴによってもたらされた。しかし、これ以上人間が人間に特化したエゴを発揮していくと、地球と折り合いがつかなくなる。そして、人間の中でもいつまでたっても対立がやまない。
人間の本質が問われる時が来ている。その本質は、今までの価値判断の思考の延長には生まれてこないのである。それは、観えないものにとっては観えないのである。世界は常に進化し、変化していくのに、自我の善悪にとらわれているようではわからないのだ。
だから、人間はここで、今までのあり方の区切りを経て、学習しなければならない。もともと人間は、生態系の姿、そして宇宙の星々の関係をモデルにして顕現され、進化・発展してきたのである。だから、そこにもう一度リセットする時が来たのである。
生態系の中で人間が自我を持って、唯一自己実現できるものとして進化・発展してきた結果、その自己実現がエゴを満たすことで偏ってしまい、自らの性質をコントロールできない状態になっているだけのことである。適度にあればいいものが、異常にありすぎる状態になって、害をもたらしている。そのことに気付けば、人間の尊い能力はこれから人類に、そして地球生命に、宇宙にさらに貢献していける。
21世紀は「脳の時代」である。今の人間は、脳の85%を使っていないと言われる。21世紀にはその使っていない脳を使い、新たなフロンティアを内に求める時代なのである。
だから今、1000年単位の区切りを持ってもう一度リセットして、人間は自らの性質を学び直す時が来ているのである。私たちのもとはどこから発生したのかを学び直し、そして人間社会の立て直し、自然生態系との付き合い方の立て直し、新たに宇宙意識としての人間の役割に目覚めていくのがこれからの時代なのである。
これからは宇宙意識時代だから、新しい科学テクノロジーなど色々な価値観が多様性として人間の内から生まれてくる。それがネットワークする時代である。そして、自然にその中から必要なものと不必要なものが淘汰され、発展・進化していく。それは自然でなくてはいけない。これからは主義・主張から来る対立によってそれが淘汰されていく時代であってはならない。これからは真の共同・協働の時代が訪れる。それにふさわしい覚悟と信念がなければ、これから訪れる天変地異を人々は乗り越えていけないだろう。
その流れに最も抵抗するのが我先のエゴの心である。これからの人類に与えられる困難は、そのエゴから解放されるための救いなのかもしれない。
全ては善きことの為に。ありがとうございます。
~ 何億年もの時をこえて ~
何億年もの時をこえて この星の上でめぐり合えた
一緒に日々を過ごすことが 一緒に歌を歌ったことが
みんなの中に流れている 真実のときを想い出させ
たくさんの幻の奥に やっと見えてきた真実を ただ歩んでゆく
闇の時代には真実が 見えなくなって手探りで
みんなで幻を作り上げて それが正しいと思い歩んできた
幻が少しずつ壊れてゆき 真実が光り照らされる
たくさんの幻の奥に やっと見えてきた真実に ただ飛び込んで
やっと出会えたね 新しい時代をつくるために
長い長い銀河の夜を それぞれ旅してやって来た
あなたがいて わたしがいて みんなが一つにつながって
闇の時代は終わりを告げて 光の時代へと向かってゆく