木の花ファミリーはどこへ向かっているのか

ある日のいさどん、ひとみ、ともこの会話です。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
これまで、歴史上には多様な価値観があったね。それをここに生きる者が、今の時代からさかのぼって体験することはできないけれど、歴史上の記述を振り返って想像すると、時代は多様な価値観を変遷しながら紡がれて、今に至っている。これからも、時代と共に価値観は変わって、歴史が紡がれてゆく。
そういった中で、今、時代が移り変わろうとしていることは間違いない。それはどういうことかと言うと、20世紀型の価値観から21世紀型の価値観に変わろうとしている。

21世紀はどういった時代か。19世紀、20世紀は、モノや、モノが高じてカネの価値が優先された時代だった。だから、人の質はあまり問われることはなかった。むしろ、モノやカネが基準となって人の質をはかってきたんだよ。
そういった時代を振り返ってみると、その20世紀型の人々のあり方が、結果として、時代に負の遺産をたくさんもたらした。結果を見る前の段階では、多くの人が「これでよし」としてやってきたけれど、今その結果を見てみると、たくさんの行き詰まりが様々な方面に表れている。
しかし、ある方面の人たちは、相変わらず今の価値観や社会制度の延長に次の時代を模索しようとしている。そこでは、視点の違う者同士が対立する現象も見られる。それは、同じ土俵の上で方向が違うから対立しているともいえる。現状を守ろうとする者も、新しい社会の突破口を開こうとする者も、思考の次元は同じところにいる。どちらにしても、それに対する画期的な回答は生まれない。

ともこ:
今の原発反対運動もそうだね。賛成か反対かという立場の違いで対立しているけど、ベースになっている精神性は一緒。

いさどん:
そうだね。例えば福祉を充実させるということでも、すべてお金に頼らなければいけない。すると経済を大きくしなければいけないでしょう。経済を大きくするってことは地球に負荷をかけるわけだけど、時代はもう、それを望んでいないんだよ。
若い人々は、時代の意志を受けて、もうガツガツ働こうとはしていない。働くのではなく、楽して得ようとすることの延長にいる。戦後のような、貧しさを満たそうとするエネルギーは生まれてこないんだよ。

ともこ:
今の人は、「傍(はた)」を「楽(らく)」にするという、本当の意味での「はたらく」ということをやっていないんだね。

いさどん:
社会を創るという意味での「働く」ということだね。しかし、そう言い切ってしまうのは雑だよ。
まずおおまかに形を作る時代があり、それを整えようとする時代があり、それが仕上がると今度は維持する時代になる。しかし、時代に合わなくなったものは、維持することが困難になってくる。それを維持する意欲が湧かないということは、維持し続けていく必要があるかどうかを問われているということだよ。過剰に形を求めてきた結果、それをシンプルにそぎ落としていく時代に入った、ということでもある。

ともこ:
人間はすごく能力が高いはずなのに、結果を見て学ばないんだね。今までやってきたことの結果が目の前に行き詰まりとして現れているのに、まだ今までのやり方でやろうとしてる。しかも、自分がそうであるってことに気付いてない。

いさどん:
結果を見て学ばないというか、「流れ」を読めていない。目の前にあることに追われて、翻弄されて生きている状態。だから、長期的な視野が持てないんだよ。
これまでの社会や個人が大事にして来たものは、視点が変われば魅力的なものではなくなるわけだよね。人間たちが、ある意味一方に偏った価値観を追い求めてきた結果、今の社会がある。そして、19世紀、20世紀の産業優先型の時代が終わろうとしているのに、次に行くための新しい価値観を、人々はまだ見出せずにいる。価値観が見出せないから、人々は、時代が変わろうとしていることに対して迷っている状態なんだよ。景気が良くならないのも、人の感情がそういったものを求めていないんだよ。景気は人の感情に左右されるものだから。

では、これからの時代をどう読んでいくか。
20世紀までよりも、これからの時代の方が、前の時代のツケが顕著に表れる時代になるだろう。だから、環境は厳しくなる。
そして、今までのような産業優先型の社会を望まない人々の時代が来る。それには共同の時代が来なければいけない。その時に、どの程度の共同が必要か、ということなんだよ。

ともこ:
なるほど。

いさどん:
今木の花で行っているのは、人がとことん共同していくと、そこではどんな世界が表現されるのか、ということの大いなる実験のようなものだね。それは何を目的にしているかと言ったら、個人の概念をどこまで捨てられるか、エゴを超えて社会を創るということはどういうことなのか、ということなんだよ。
それに対して、エゴを捨てないで次の時代に行こうとする人たちがいる。それは多様性だから、いろいろあっていいけどね。

ひとみ:
エゴを捨てないで次の世界があるかな?

いさどん:
エゴというのは、永遠にあり続けるものさ。この肉体を個別に持って生きる限りは、エゴはあり続けるものだよ。
ただ、それがどこを向いているかだよね。これまで人間は、個を表現して、個の満足を求めてきたわけだよ。その個の概念が変わってくると、個は全体の中の一部であり、全体は個の集合体であると捉えられる。すると、個が大きくなっていくんだよ。究極的に個が大きくなっていくと、この世界と個が同一のものとなる。
それは悟りの境地だね。この世界と自分が合一するのだから。この世界を・・・

ひとみ:
この世界を?

いさどん:
・・・説明するのがめんどくさくなってきた。

ともこ:
宇宙の言語を人間の言葉に翻訳しないといけないから?

いさどん:
人にわかりやすく伝えようとすれば、そこに注文をつける人間がいる。それを大きい枠で捉えて伝えられても、「わからない」と言う。
ここでみんなは、この価値観の中で暮らしているでしょう。そこで個が大事な人は、自分は何のためにここに暮らしているんだろう、と考えるようになるんだよ。この世界に自らが溶け込んでいき、そして個が消えていくことを目的としていれば、この生活は充実したものになっていくわけだよ。だけど、自分は何のためにいるんだろう、私の求めるものはどこにあるんだろう、私の幸せをつかむにはどうしたらいいんだろう、という個の願望を満たしたい方向に考えれば考えるほど、ここにいることが矛盾になってくる。

それでも、人間は面白いものでね、個の欲求をどんどん叶えながら年を取っていくと、「私はこのままでいいんだろうか」「これで人生を終わっていいんだろうか」と思うようになるんだよ。

ともこ:
おもしろいね。

いさどん:
それなのに、個をなくす方向へ行こうとすると、私はどこへ行ってしまうんだろう、私の願いはどこにあるんだろう、と考えるようになる。そこで、究極的に個の欲を求め続けて破綻する人間と、それを上手くやり続けて破綻しない人間と、そして、個の欲望を満たしながら、その先に起きることへの自責の念も感じて、破綻しないように妥協点を見出そうとする人たちがいるんだよ。

ともこ:
エコ活動しているような人たち?

いさどん:
そう。それは中途半端な“モドキ”の状態。
では、我々はいったい何をしようとしているのか。この目的をとことんやり切ろうとしているわけだよ。昔ならば出家者として、俗世から離れてそれを求めた。それを我々は、世間にいながらにしてやっている。つまり、生活は世間を生きているが精神は出家者。それがここの在り方だと思う。

ともこ:
今、ここのやり方に問題があると言って攻撃的なメールを送ってくる人がいるけれど、なんで攻撃するのかな?彼らには彼らの考えがあって、ここにはここの考えがあって、それは多様性でいいんだ、ということにはならずに攻撃してくるのは、何か自分たちが脅かされるような感じがするのかな?

ひとみ:
恐れがあるんだよね。

いさどん:
やはり自分たちがやっていることを良しとしたいから、それを社会正義のようなつもりでやっているのだろうね。

ともこ:
自分たちのやっていることに絶対の自信があったら、「ああ、木の花の人たちは馬鹿なことやっているなぁ」って思って放っておけばいいのに。

いさどん:
そうだね。
僕には、たとえどんなに抵抗があろうとも、この道、この生き方が大事だという、損得の思考を超えた、本能的なものがある。それは、形が変わろうとどうしようとやり続ける。
そこにとことん共鳴する者が集まって共に行くことはいいのだけれど、これまでは“モドキ”がその中に入っていたから、今のように無理解なバッシングが起きることになった。だけど今は、モドキはいないと思うんだよ。ここに生きる上で、モドキとモドキでない者の立場の違いがはっきりした。それである程度の抵抗力が付いたから、外からのバッシングが始まったんだよ。その抵抗力がない時に外からバッシングされたら、ひとたまりもない。

ともこ:
内部崩壊だ(笑)。

ひとみ:
ちょっとは成長した、ということなのかな。

いさどん:
成長したというか、段階が進んだということだね。

ひとみ:
今は別の課題で鍛えて貰っているんだね。絆は、以前より強固になったよね。結束力がある。

いさどん:
そこで、ふと思うんだよ。個人の願望を叶えたい人がもしここに来た場合、このマニアックな出家者の生活をしたら、それは疑問も持つだろう。しかし、元々ここのみんなはそこを目指して参加したはずなんだよ。だからこそモドキに対しても、モドキでなくなるようにすすめたのだけれど、結局はそこに無理があったから、それに対する無理解がバッシングを生んできた。
それは我々の力不足でもあるけれど、モドキ自身のせいでもあるんだよ。モドキは本来の自分にふさわしい場所に戻るのだけど、やはり自らの名誉とエゴの主張が欲しいんだよ。要は、自らの問題点と向き合いたくないわけだよ。

彼らは、ここでは自分のやりたいことを表現出来なかった、と言っている。ここでは自分のやりたいことを聞いて貰えなかったとか、自分とは考え方が違うから酷い所だと言っているんだよ。
しかし、元々ここは、そんなものを表現する場所ではないんだよ。そのような約束の元にあり、一貫して「個を捨てなさい」と言ってきた。

ともこ:
そうだね。今バッシングをしている人たちは、みんな個を優先しているから、そういう人たちから個をなくそうとする木の花を見たら、そりゃあとんでもない所に見えるよね。

いさどん:
だから、個人のエゴを大事にして緩く繋がっているところが素晴らしいコミュニティということになるんだよ。
元々ここは、個の壁を超えた世界を創ろうとしているのだから、個を大事にしたい人には無理があるんだよ。それなのに、そこに共鳴したモドキの人たちがいたから、矛盾が生じた。元々、彼らが求めているような世界は、ここには在りはしないんだよ。だけど自分たちの見ているもの、求めているものだけを良しとして、その正義の元にバッシングをしているんだよ。
そのことを客観的に捉える必要があるね。自分がどの位置にいるかによって、正義なんていくらでも変わるのだから。

ともこ:
不思議だよね。彼らは、ここが人を虐げている場所だという風に捉えているでしょう?でも実際にここに虐げられている人はいなくて、むしろそのエゴを超えることを目指してやっているんだよ。

ひとみ:
直接、聞けばいいのに。

いさどん:
聞いてはいけないんだよ。聞いたら自分たちとは違う世界を認めてしまうことになるから。

ともこ:
でも、ここには実際に自分を被害者だと思ってる人がいないのに「被害が出ている」って言ってくるのって、普通に考えてもおかしな話じゃない?被害はありませんよと言っても「それはマインドコントロールされているからそう思うんだ」ってことになっちゃう。
そもそも私たちがなぜこの生き方を選んでいるのかというところには目を向けずに、うわさ話を聞いて自分の枠内の価値基準で判断しているから、それ以上世界が広がらない。いろいろ言う割には、本当のところに関心がないんだと思うよ。

ひとみ:
それで遠くから「ワンワン!」と言っている。

ともこ:
でも言うだけで、実際に自分たちは何かをやっているのかな?物理的な行動はしているのかもしれないけど、本当にこの世界のために、自分自身を根底から変える、ということに取り組んでいる人っているのかな。
この間、いさどんはこんな風にバッシングを受けてこの道を行くのをやめたいと思ったことはないかとひとみちゃんが聞いたら、「全くない」って答えてたね。

いさどん:
これが僕の道だから。矛盾のある言い方かもしれないけど、一人でもやる。

ともこ:
それを聞いた時に、バッシングしている人たちも順を追って考えていったら、いさどんが自分のエゴのためにやっているのではないということがわかるだろうと思ったの。だってもしも自分のエゴを満たすためにやってるとしたら、こんなバッシングを受けてまでやって、割に合わないよ。もっと簡単な欲望の満たし方がいくらでもあるのに。自分が逆の立場に立ってみたら、こんな大変な思いまでしてやらない、ということがわかると思う。だけどバッシングする側の人たちは、そこに考えが至らない。ものを考えていないんだろうなと思うし、相手を本当に見ていない。そもそも、本当を知ろうという気がないんだよ。

いさどん:
そうだね。なぜかと言うと、自分の都合で白黒をつけたいという考えがあるからね。

ともこ:
真剣じゃないんだね。その人なりには一生懸命考えているのかもしれないけど、同じ平面上で思考が巡っていて、発展性がない。つまりそれって、考えてないんだよね。

いさどん:
自分が今、人に対して何をやっているのかも見えていない。

ともこ:
それによって何がもたらされるのか、ということも見ていない。

いさどん:
僕は、人がやっていることに対してそれなりの批評はするかもしれないが、相手にベクトルを向けて攻撃しようなんてことは、絶対にない。そこではそれなりの判断は必要になるだろうけれど、それはその人たちの歩みの問題だから、常に尊重するよ。

ともこ:
みんな、それがわからないんだよね。正確に相手を見ているんじゃなくて、自分をかぶせて「こうだろう」と決めつけて見てる。

いさどん:
ここはマイペースに自分たちの道を歩んでいるだけだけれど、そこに合わずに出て行った人は、自分が脱落者になりたくないから、元いた場所を攻撃して自分の判断は正しかったと思いたいんだよ。それならば自分の道を歩んで極めればいいわけだけど、自らの立場を擁護したいから、ここを何らかの形に特定したいんだよ。

ともこ:
人間って恐ろしいね。自分が生み出したものを、自分が未熟なことを認めたくないばかりに他人のせいにして攻撃する。

いさどん:
そう。それでその延長に平和だとか調和だとかを語ることもあるだろう?

ともこ:
おかしいよね。だってそれじゃあ平和も調和も来ないよ。ずっと20世紀型の価値観で生きてきて、その結果矛盾がたくさん発生して目の前に現れているのに、それを生み出した価値観を変えるということをしないで、今までの価値観の延長のまま生きていて、都合の良いところだけ変えようとしている。
だけどそれって、いくらその矛盾を言葉で説明しても、本人が「こういうことか」と身体で感じない限りわからないんだよね。

いさどん:
みんな気分だけ納得させようとしているけれど、どうしたって自らの意識を変えなければいけない時代が来ているんだよ。中途半端に変えていい時代を作ろうとしているけれど、それは「タバコを止めなさい」と言われたら「タバコの本数を半分にします」というような話だよ。

ともこ:
そうだよね。私たちがやっていることは、そもそもタバコがいらない価値観になるということだよね。

いさどん:
そう。

ともこ:
でも、自分を振り返ってもそうだけれど、こういう話に「そうだよ」と納得しながら、実際の生活の中では「ああ、タバコ喫いたい!」と思っているような、根深いエゴが人にはあると思う。個の喜びを優先したがることから、なかなか抜けられない。

いさどん:
エゴが沁みついているんだよ。

ともこ:
そっちじゃないよ、とわかっているはずなのに。

いさどん:
たちが悪いのは、とことんそれをやって破綻している者ではなくて、中途半端にやってこれが正しいと思いこんでいる方だよ。つまり、理屈を捏ねて理想を語っている者がいる。
すべての者はいずれこの世界から旅立つから、その時には真実が何であるかがわかる。我々は今を観ているだけではなくて、いずれこの生を全うしたその先までを観ている。時代も含めてね。時代はもう宇宙時代だから、意識も宇宙時代に移行していかないと。

ともこ:
またEDEの期間にもいろいろ波が起きそうだね。

いさどん:
いや、EDEに限らず今年一年、それからこれからの時代は、毎年毎年いろいろなことが起きるよ。それが人生というものだし、何も考えないで毎日無難に生きてそれが幸せかといったら、それでは魂が磨かれないから、結局死ぬ間際に「何の為に生きていたのだろう?自分の人生とは何だったろう?」と思うことになってしまう。

ともこ:
どんな人でもいつかはそうなる。そういうふうになっていることがすごいね。

いさどん:
みんな、確実に死ぬ。その時に、人生で何をやってきたのかが、必ず問われる。どういう位置で何をしたか。心が狭かったか広かったか、高かったか低かったか。どの位置で何を求めていたかということだよ。自らの望む世界ばかりに走っていると、結局磨かれない。
人間がこの世界を知っていくこと。それが目覚めであり、“悟る”ということだよ。それはいつの世も変わらない。宇宙は不動のものとして無限に在り続け、人間はそこに降ろされてそれを悟り、宇宙にまた戻っていく。そのために、まずは自らの本当を知ることが大切なんだ。
宇宙の法を知った者は、今度は宇宙を運営する側に立つことになる。しかしまだ宇宙が何であるかということを学んでいる間は、この世界を創ることは出来ない。それはこの世界を認識する為にある個を、エゴのために使っている状態ということだよ。
さて、この捉え方について来られるかどうかだ。あなた、ついて来られますか?

ともこ:
うん。ついて行ける。

いさどん:
本当(笑)?

ともこ:
本当(笑)。面白いのは、その捉え方をする人はそれで行けばいいし、しない人はしないで行けばいいんだけど、みんなでこの世界を創るでしょう?だから、自分だけその捉え方をしていればいいというわけでもないんだよね?

いさどん:
そうだね。それが、我々が生まれてきたことの一つの使命でもあるからね。時代が表現しようとしていることとリンクしているかどうかだよ。その時代に合わない者としていることは、矛盾として表れてくるからね。
モドキでやっている者も過激にやっている者も、ポジションが違うだけで一緒の線の上にいるということなんだよ。だけど、自分の正義を振りかざしたい人はそれが許せない。我々はいろいろな生き方を認めるでしょう。それを多様性と言うんだよ。ところが、自信がないのか、自分たちがやっていることだけを正義だと認めたい人々がいるんだよ。
ここでは何故厳しいことを言うことがあるかというと、モドキをやろうとする者に「ここにいるのならそういうことでは駄目だよ」と言っているだけなんだよ。「やりたくないのなら別の生き方があるよ」と提案しているだけであって、ここから外れて行くのなら別にそれでいいわけだよ。わかりやすい話だろう?

ともこ:
うん。そういうモドキがいることも、時代と言えば時代?

いさどん:
それは勿論そうだよ。それを否定する必要はない。我々から観るとモドキだけれど、モドキにしてみたら自分はモドキではないんだよ。それぞれが自分のポジションをわきまえて、自分の歩みを粛々と行けばいい。

ともこ:
でも攻撃してくるね。

いさどん:
だからそれは自分の歩みだけが正しくて、他の歩みを許さない心があるんだよ。

ともこ:
ということは、攻撃の対象は別にここでなくてもいいのかもね。今はたまたまここになっているだけで。

いさどん:
それはそうだよ。対象はここでなくてもいい。いろいろなものを攻撃するんだよ。
我々は、オウムでもヒトラーでも、何でも認めるでしょう。それはその時代が形成されていく中で、ある意味必要な材料だったのだから。だからこそ、ホリスティックに観て、いろいろな材料がある中で我々はどう生きるべきなのか、ということを捉えていく。自分たちに与えられたポジションを全うしようとしているだけなんだよ。それこそが本来の多様性というものだよ。自らの概念に捉われてそれを満たしたいと思う者は、他の概念を認めないから、結局は不自由な狭いところで生きていかなければいけないことになる。

ともこ:
なんか、いつも怒ってなくちゃいけないよね。あれが違う、これが違うって。

いさどん:
そうだよ。そこを解放して、自分の概念から外れたところに本当の自由があるんだよ。その時に、この世界の実体が観えるんだよ。
そういうスタンスが取れない人たちは、今ここではそれでいいと思っているかもしれない。この三次元物質世界は、ある意味特定の概念を持つ場所だから。しかし、この物質の殻を脱ぎ捨てて肉体を離れ、魂の本質の場に戻ると、それはないものであるから、そうするとその考え方は問われることになる。そこは自分というものに捉われる場所ではなく、魂の位置とか概念のポジションがあるだけのものだから。自分という肉体を貰って、それに捉われているのが、そういった人々の意識の世界なんだよ。

ともこ:
うん。

いさどん:
そういった概念を思いつかないでしょう?

ともこ:
うん。

いさどん:
それで、理解不能だから否定するんだよ。

ともこ:
わからないと否定しちゃうんだね。

ひとみ:
わからなくても否定しない人はいるでしょう?

いさどん:
そう。そこが大切なんだよ。わからなくても否定しなければ、その先があるのだけれど、わからないから否定する。それは意識が成長しない、貧しい世界だね。

ひとみ:
そういうのって対立型の世界だよね。

いさどん:
そう。対立を創りだす元になる。

ひとみ:
対立や分離や、さっき言っていた古い概念だね。

いさどん:
ところが自分たちはそういったものを求めていないと思い、矛盾に気付かないんだよ。

ともこ:
逆だと思っているよね。自分たちは調和的で平和な世界を作るんだと。

いさどん:
そこの矛盾に気付けないんだよ。それがからくりだから。
個の概念に縛られている時には、それを求めることを自由だと思っている。しかし実は個の概念を捨てて行くことで、自らの概念から解放されて、無限へと解き放たれていく。それこそが本当の自由なんだよ。それはこの宇宙と合一していく世界だけど、それが観えるようになるには、人生を修行と捉えないと難しいね。

ともこ:
この前、私が自分のエゴを超えられなくて苦しんで泣いてたでしょ。ああいう状態はそういう人たちの恰好の攻撃材料だね。その苦しみは自分で作り出したものなんだけど、外から見ると「ほら、ああやって苦しめられている人がいる」と見える。

いさどん:
しかし逆に捉えれば、あなたの状態というのはその攻撃してくる人たちと同じ状態ということにもなる。

ともこ:
そうか。

いさどん:
自分に囚われているということでは、同じなんだよ。あなたはここにいるから、それを改めようとする側に立っているだけであって、その概念がぷつんと切れて外の視点に立ったら、ここは私をマインドコントロールして苦しめていた場所だ、と攻撃する側にも立つことになる。もしくは「もう見たくない」と言って目を塞いで見ようとしなくなるか、どちらかだよ。

ともこ:
恐ろしい〜〜。そうだね。私もそうなんだね。自分に囚われているという点では、どこにいても同じなんだ。だから立場が変われば、自分を正当化するために考えも変わってしまう。

いさどん:
自分と違うものを、人の歩みとして認めてあげたくないんだよ。
ここでは、人それぞれの歩みを認めている。そして「私は自分を捨てて、ここが求めている世界に行きたいのです」という者を、共に歩むものとして応援している。けれどもそこに行ききれなかった時、「強制された」「何も言えなかった」というように、この世界の評価が変わるんだよ。それは本来、自分に向けるべきことなんだ。
そういった自己矛盾の意識は、真実を観ようとする者にとっては最も気を付けなくてはいけないことだね。そのためには、常に自らの姿勢を客観的に捉え、自分の姿を正しく認識していくことが大切だよ。印象の良い自分を求めていくことよりも、自らの問題点をいさぎよく振り返る覚悟が必要になってくる。

それが、この世に生を受けて、常に変化成長し、世のため、人のために生きる者の最も求められる姿勢だと思うよ。
 


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