「みくさのみたから」との出会いから

先日、楽しく健康に人生を生きる術と言われる「みくさのみたから」を学んでいる方が木の花ファミリーを訪れました。その日はちょうど木の花ファミリーのどんど焼きの日と重なり、みんなが集まるちょうどよい機会だからということで、その方の指導のもとにみくさのみたからの一部を体験しました。
その日の夜、「木の花でもみくさのみたからを取り入れてはどうか」というその方からの提案に対し、いさどんはこう答えました。

みくさのみたからを体験するメンバーたち
みくさのみたからを体験するメンバーたち

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おそらく、あなたは今、みくさのみたからに関わり始めたばかりで、新鮮に感じているのだと思います。けれども、それはまだ憧れている状態で、その本質をわかっていません。
そういう時、人はその出会ったものに囚われるようになります。しかし、それを手放した時に初めてその本質がわかるのです。

ではそれを手放すのはいつかと言うと、もっと深く関わっていった時です。みくさのみたからがこの世界にもっと広がる時に、社会から抵抗が出てくるかもしれません。または、自分が広めようとした時に、その自分自身の問題点によって抵抗を生じさせるかもしれません。
そこでいろんな波が起きて、それをどうやって乗り越えようかという時に、あなたの人格が出てくるし、みくさのみたからとの本当の相性も観えてきます。今はまだ、そういうことをわかっていない状態です。

あなたは出会ったばかりの新鮮なものを一生懸命伝えようとしていますが、僕たちはそういうことはしないのですよ。それはどういうことかというと、伝わる時には伝わる。その「時」は、時代が運んできてくれるということです。
どんなに自分が伝えようと思っても、それがふさわしい時でなければ伝わりません。それは自分ではなく、天がやるのです。
DSC_0331自分がやりたいと思ってやることは人間の世界のことで、それが時代と合っている時はいいのですが、そうでなければ無理が生じることがあります。
今日、みんなでみくさのみたからをやっている時に、目を閉じ口を開けて歩きまわる大人たちの様子を見て、子どもたちが怖がっていました。それも、今の一つの答えだと思うのです。

今、みくさのみたからはすごい早さで広がっているようです。ということは、浅く広がっているとも言えます。つまり、人格として充分でない人たちが一生懸命になっている。浅く広がったものが深く掘り下げられるときには、負荷がかかります。それは、これから観ていくことです。
僕はみくさのみたからとも出会ってみる必要があるなと思うと同時に、ちょっと距離をおいて見ていくべきだとも感じています。

我々は、何も拒みません。けれども、誰かの「これを広げたい」という心に出会った時には、冷静にそれを見極めます。これまでにも地球暦やカタカムナとの出会いがあり、今ではどちらもしっかりここの暮らしに浸透しています。だからみくさのみたからも浸透するかもしれません。ただ、その「時」が来ていないのに無理にやるのは不自然だということです。

富士山には頂上があります。そこへ行くためには、登山道がいろいろあるでしょう。我々の道は、頂上へ行くために特定の手法にこだわることはしないのです。ヨガなど様々な瞑想や健康法がありますが、健康とは、自らの心の在り方の結果、ついてくるものです。

我々は、不健康もありがたいことだと捉えます。自らの心の歪みが病気を引き起こしたのだと捉えたら、病気は我々に、その歪みを教えてくれているのです。それを何かの手法だけで治すということは、その問題を理解することにはならないのです。

健康になりますよ、という名目で何かをすると、たくさん人が集まります。しかし、それでは本当の意味は伝わりません。
瞑想は日常生活の中でもできるのですよ。運転中でも、草取り中でも。今までの時代は、手法と知識的な学びが多すぎたのです。学びを生活に落としこむということをしてこなかった。何かを一緒に学んでとても仲のいいグループでも、生活は別々ですね。それがいいとか悪いとかいうことではなく、私たちとは登山道が違う、と認識しています。

みくさみたからの、口を開けて「あー」とやることはね、今の人間が自我をなくすということへの入り口としては良いと思います。おもしろい手法だし、きっと肩の凝りも治るでしょう。世の中にそういった手法はたくさんあります。
けれども、木の花ファミリーがやっていることは、特定の手法ではなく、意識で自らの問題点を理解し、目覚めていくことです。
きっと、あなたの学びも、目的地はそこにあるのだろうと思いますよ。
  
  


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