究極の極める世界を生きている

いさどん:
この生き方は、一人の道と、複数の人が絡んでいく道とが共通して成り立つけれど、それぞれがそれぞれの意志で歩むことによって成る道。一人ひとりが道を歩んでいる自覚を持つことから始まる。

世の中に有名人がいるとするでしょ。それはなぜ有名人かというと、その道を極めたものとして、有名人になっているんだよ。お金持ちだろうが、スポーツ選手だろうが、職人だろうが、芸人だろうが、何であろうが、それぞれに道を極めたことによって、有名人になっていく。道を極めるということは、政治の世界で言ったら革命を起こすとか、世界のリーダーになるとか、学問の世界であればノーベル賞を取るとかね。

そうすると、この歩みに対して分野をつけるとすると、「生きる」ことに対しての可能性に目覚めることを探究する道。我々はそこを極める道を歩んでいることになる。

ようこ:
そうだね。

いさどん:
別に、ノーベル賞をもらおうとも思わないし、ギネスブックに載ろうとも思わないけど、この道は究極の極める世界を生きているんだよ。

ようこ:
そう、この道に出会ったら、これしかないものね。

いさどん:
僕には今、その景色が観えてきた。何の目的でこの道を与えられ生きているのかと考えていたのだけど、この歩みの延長に極めるものはこれなんだ!とその一点が観えてきた。それをどう表現したらいいのか・・・生きるということを紐解く。そして、難しいと感じるのは、これを言葉で表現しようとすると限界が来てしまうんだよ。

ようこ:
それもこの道の特徴だからいいんじゃない(笑)?わかる人にはわかる領域ということで。

いさどん:
「そうだね」と言ったときに、「そうだね!」と答えることで確認できるもの。救済されるとか、欲の心で登りつめるとか極めるとか、そういったものとは違うんだよ。

ようこ:
それは明らかに違うね。

いさどん:
そういった感情や利害の解釈を超えたもの。色々な極みがあるとしたら、その極みの・・・

ようこ:
頂点に立つ、と言うと・・・他のものと同じカテゴリーに入るみたいだものね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
色々な極みを超えたところにある?

いさどん:
言葉で表現するといかにもふさわしいようで、響きが違うんだよ。

ようこ:
そうなんだよね・・・色々な極みの背後にあるとか、元にある(苦笑)。

いさどん:
我々が目指している境地、そしてそこに何か存在があるとして、その存在は現象世界で感じているようなものとは違うものなんだよ。それは現象世界にあるものとは違うから、ないとも言える。そこに認識をつなぐことによって、世界の実体を広く解釈することを人間世界に解放していく。今の人間の解釈はとても狭いんだよ。

これは、形があるものを作ることとは違うんだよ。意識の中で創り上げることの出来るもの。そこに気付けばいいだけなのだから、極めて簡単なんだよ。目覚めればいいのだから。しかし、人間は形に囚われているものだから、極めて簡単なことが極めて難しいんだよ。

ようこ:
本当にそう!

いさどん:
ちょっとやそっとじゃ、このことはわからないね。

ようこ:
言葉を聞いて理解するようなことではないからね。

いさどん:
これは境地の世界だからね。もしこれを受け取るとしたら ―――― トキが与えてくれるもの。トキが来て、トコロが整うと、与えられるもの。ただし、それを受け取るに相応しい器が整っていなければならない。

それを、我々は役割として受託している。言葉で表現するとちんぷんかんぷんになってしまうから、それを感じる人でないといけないんだよ。囚われないで、感じればわかるんだよ。

ようこ:
そうそう!その「囚われないで」というのがポイントだね。

いさどん:
僕は常に、「この先に何があるのだろう?」と思って、その先に出会うために歩んでいるだけ。そこに行くための道だから付き合って観ているだけのことで、結果は何でもいいんだよ。結果に出会う連続で終わってもいいんだよ。その旅自体が目的だから。そうやって捉えると、今世の中に問題事は色々あるけれど、そういった囚われから全て解放される。

ようこ:
ね!!

いさどん:
そういった解釈をしていることすら、地球に生きているからこそ体験できる。非常にダイナミックでユニークな、宇宙では体験できないことをしているんだよ。そういった意味で言えば、お金持ちになるのも、有名人になるのも、犯罪者になるのも、戦争をするのも、ダイナミックな話だけどね。

ようこ:
ある意味ね。

いさどん:
しかし、人は感情に囚われてしまうから、たいへんな想いをすることになる。感情の解釈を超えたところから眺めていたら、ダイナミックな世界だよ。よくぞここまでダイナミックに創ったものだと評価するけど、逆にこの世界って狭いとも思うんだよ。囚われの結果、今の世界ができているのだから。

ようこ:
そう。

いさどん:
囚われを取ったら多くの評価が消えてしまうような世界なのに、その囚われの中にダイナミックがある奇妙な世界だよ。その奇妙な世界を表現する法則によって創られた。だから、その法則の外に出てみると、ちょっと寂しい気もするよね。せっかくここまで創り上げて、そこでダイナミックを楽しんでいたはずなのに、そのカラクリがわかってしまったらむなしいよね。その真っ只中にいて、おぼれているからこそ、一喜一憂して楽しいとも言える。

バカバカしいことに、あれが正しい、これが間違っていると、一つ一つの立ち位置に立ったところでの囚われが解釈しているんだよ。それは、囚われがあるからそうなっているだけなのに。

こうやって伝え合っていても、ようこには伝わったと思うけど、今の世の中の人々には伝わるだろうか。そして、伝わらないとも言えない。それはプロセスを踏んでいるだけだから。そうすると、登山のようなもので、今頂上で話をしているとしたら、頂上に向けての登山道を登って来る段階によっては、このあたりでは伝わるとか、あの段階ではまだわからないだろうという解釈になるよね。そして、もっとずっと裾野のほうの現代人類にはなかなかわからないだろうと思いつつ、ただ我々が今この景色をここで観ているということは、いずれ全体がそこに到達することを示しているとも受け取れる。

トキが動いて、トコロに至ると、事が起きる。想うままに生きていけば、ふさわしい事が起きるようになっている。

大切なのは、トキとトコロと存在することの意味をつかむこと。存在するということはこの世界を紐解くベースだからね。そこで特定のことに囚われてしまうと、存在することの意味を探究することを忘れてしまう。

ようこ:
だから、木の花では魂を探究するのに最高の環境が与えられているよね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
霊的に言えば、これほど探究するのに最高の環境は他にないよ。

いさどん:
そう。つまり、お金やモノの尺度に囚われない場所だから。この道は、囚われからの解放だ。

ようこ:
そうだね!それが全ての答えだから。
 
 


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