21世紀のいのちの捉え方

近代の医療の発展は、目覚しいものがあります。その現場では、常にいのちは長らえることを前提に扱われています。
いのちの捉え方として、たとえば最先端の医療を受け、いのちが長らえるための最善の方法をとっていのちをつなぐことを考える人もいますが、その分だけ人が幸せに生きられるのかというと、そうばかりではありません。長い人生=幸せな人生とは言えないのです。中には長くて幸せな人生を送る人もいるかもしれませんが、短くても充実した人生を終える人もいるものです。その人の魂にふさわしい寿命というものがあるのです。ですから、生まれる前にもらってきた寿命が尽きると、人は健康であっても事故などによって死ぬこともあるのです。

そこで、残された人たちが後から振り返り、「あのときに別の行動をしていればあの人が事故で死ぬこともなかった」と思ったとしても、そういうわけにはいかないのです。生きていると、「~だったら」と人は思うものですが、それならそれをやり直せるのかというと、そうではありません。仮にやり直すことができたとしたら、この世界はとてつもなく複雑になってしまって、全く先に進めなくなってしまいます。

そこで、人は必ず死に、その寿命は決まっているということを前提に考えると、その中身をどのように生きるのかということが大切なのです。それについては生きる中身に自由が与えられているのですから、満足し納得して死ぬのか、それとも悔やんで未練の心で死ぬのか、全てはその人の裁量の中にあるのです。

死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。
生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。
生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。

さらに、亡くなった本人自身の学びが不十分だったとしても、残った人たちがその人の生き様から学び、生かしてくれたということになると、本人から悔やみがなくなって次への旅立ちの手助けにもなるのです。それは、死に対するいろいろな教えがあることも同じことです。そうやって、死を生かすと、死者は次にまた肉体をもらってくるときに、それが生かされて、そこでの悟りから次の段階のスタートが切れるのです。そのような捉え方をすると、死も生かされるのです。それが死者を見送る上で最も大切なことです。

今、僕が話していることは、亡くなった人に対して、お経をあげていることと同じことです。寿命を迎えいのちが尽きたことを悟りながら、その寿命が尽きたことの意味とその人の生き様を、死んで旅立っていく者もこれから生きていく者も共に学んで、次につなげ、生かすことができるのです。

世の中には、水子で亡くなった者に対して、実際にこの世界に生まれてきて生きていないにも関わらず、3歳の時には七五三でお祝いし、生きていたら小学生だからとランドセルを買ってお供えし、それから「あの子が生きていたら25歳になるから、お嫁さんをもらってあげましょう」とお人形までつくって飾るような風習もあるのです。これは迷いの世界です。これでは、情が、亡くなった魂を迷わせてしまうのです。
ですから、寿命が尽き旅立ったことに対して学ばせていただき、そして「ありがとう」と感謝の気持ちで見送ると、亡くなった魂もスムーズに次の輪廻に入ることができるのです。上にいる限り、魂のレベルは変わりません。ですから、肉体を持って生きている間に学び、次に生まれてくる時のために、今世の学びを生かし、自らの魂を進化させていくことが大切なのです。

そういった道を開くという意味でも、情ははさまずに見送ることが大切です。人間の感情や思考によって、魂のあり方は全て決まるのですから。昔は人の情が深く、宗教的なものに縛られる時代もありましたが、時代が進んできた今、新たな時代にふさわしいいのちの捉え方が必要なのです。

時代を振り返ってみると、お釈迦様の時代にお葬式はしませんでしたし、今の宗教が行っているような年忌を問うたり、お盆の供養などは全くありませんでした。お釈迦様は輪の中の空間に宇宙を観て、そしてこの世界は無常であると説きました。無常であるということは、感情や愛情を一切抜きにして、冷静に物事を観るということで、そこに空(くう)を観たのです。しかし、それが後に人々が生や死に対する未練を持つことによって、その未練を満たすためにお葬式をしたり、死者の年忌を問うことになったのですが、それは元々のお釈迦様の教えではないのです。

死は、亡くなった人との別れでもあり、ある意味その人とのそこからの新たな出会いでもあるのです。さらに、寿命が尽きてふさわしい旅立ちをするという意味で、死は神聖なことであり、生に対する当然の道なのです。死は次の道への旅立ちなのですから、本来は祝福とともに迎え、見送ることでもあるのです。ですから、最善の見送り方は、旅立つ人の死を生かし、残った人たちが明るく生きていくことです。そこで、いつまでも死を悲しむようでは、その死を生かすどころか、亡くなった魂の足を引っ張ることにもなってしまうのです。そのように死に対して囚われている人々は、真実とは逆さまに生きていることになります。

人は生きている時には「けど」「でも」と言いますが、これが一番心を汚すことになるのです。そして、人生の中ですでに起きてしまったことに対して、「本当は~だったら」と思うことがさらに迷いを深めることになります。たとえば、自分が宝くじを買ったのと同じ場所で他の人に一等が当たっていたとしたら、「あの時に宝くじを全て買い占めていたら一等が当たっていた」というような話も出てくるのです。ですから、「~だったら」という話ぐらい、道理に合わない話はありません。その時その時の事実しかないのですし、それが答えなのです。

この世界を観てみると、宇宙の構造自体が二度と同じところへは行きません。一日も、昨日と今日は宇宙空間的には違う場所にあるのです。春・夏・秋・冬と一年は過ぎていきますが、昨年の春と今年の春は、空間的にも時間的にも違うのです。ですから、宇宙空間では常に先へと進んでいるのです。そうやって、亡くなった人も次のステージへと入っていくのです。

実際に、肉体も火葬にすれば灰になり、それは炭素や窒素になって空気中に漂い、いずれ植物に吸われ、動物に食べられ、そしてまたいのちとして巡ってくるのです。このように、わたしたちのいのちを地球生態系という、もっと大きな生命として捉えていくこともできるのです。そうすると、わたしたちの存在は、大きないのちの中の新陳代謝の一つにしかすぎないのです。

ですから、この世界に死はありません。ただ、形を変え、つながっていくだけなのです。今回の人生が終わったからといって、その魂の旅が終わったわけではないのです。いのちを束ねる魂というものがあるとしたら、肉体の中に魂がある限り、その形態のいのちはあり続けます。そして、その肉体から魂が抜けると、肉体という有機物はそこで束ねる縁がなくなり、時間の経過と共に自然に還っていくのです。つまり、その人を形成していた魂はあり続けるのですが、それはこの世界ではなく異次元世界にいて、そしてまたこの世界に生まれて来て、学びを積み重ねていくのです。

その仕組みを13000年前の上古代カタカムナ的視点で観てみると、この世界は、「見える世界」と「見えない世界」からなる「現象界」と、そのさらに奥にある「潜象界」で成り立っているのですが、普通の人は死ぬと見えない世界に行きます。
見えない世界とは、心や魂が存在する世界です。通常、わたしたちの魂は見える世界と見えない世界を行ったり来たりするのですが、その魂がこの世界の仕組みを悟ると、その奥にある潜象界に還っていくのです。そこは、お釈迦様の言われる悟りの世界であり、現象界の奥には潜象界という「ない世界」があるのです。
それに対し、「ある世界」は見える世界と見えない世界を行ったり来たりする現象界を指します。

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死を迎え、肉体の衣服を脱いだ先は、見えない世界で魂として存在しています。ただ、それでも「ある世界」にいるので、見える世界と見えない世界を行ったり来たりしています。それを繰り返しながら、学びを積み重ね、「ある世界」の仕組みを悟ると、今度は「ある世界」と「ない世界」を行ったり来たりすることができるようになるのです。神は「ない世界」に存在します。そして、「ない世界」へ行くためには、一切の情がなくならないといけません。ですから、人間もいずれ「ない世界」へ行き、この世界の単なる原料に還っていくのです。

そこでの「ない世界」というのは、ないけど、「ある」を包含しているのです。そこには何があるのかというと、現象界を創るための響きがあるのです。聖書でも、「はじめに言葉ありき」と表現され、想いだけがあり、それは響きなのです。
響きという音の思念があるだけですから、潜象界にはたとえば「ア」という音と「イ」という音がそれぞれ存在しているのです。音には全て意味があるのですが、それはこの世界を創る素材であって、それがこの現象界に現れてきて、「ア」と「イ」が縁があってつながると、「アイ」になるのです。それは、一人ひとりの人間の魂についても同じことです。たとえば「アイ」という魂をバラバラにして潜象界に送ると、「ア」と「イ」の響きだけになって、それは「ない世界」の状態です。そして、そこに縁が生じ、現象界に現れると「アイ」という魂になり、「アイ」という人生(現象)が表現されるのです。

このように、この世界に存在するものに死はないのです。それは、宇宙のはじまりから現在に至るまで縁とともに巡り続けているだけのことであり、これからもあり続けるのです。

こうしたいのちの仕組みを人々が理解するようになるのが、21世紀です。そうすると、なぜ生きているのか、生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのかを人々は紐解くことができるのです。そして、そういった真実に目覚めると、生きている意味を実感しながら生きていくことができるのです。

それが本来の人間の姿であり、わたしたちのいのちが存在する目的なのです。

 

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私たちの生きる宇宙の仕組みをひも解く「カタカムナ研究会」が、毎月木の花ファミリーにて開催されています。この世界のカラクリを知り、誰もが“うれしたのし”と生きていく新しい時代への入口が、ここにあります。どなたさまもどうぞお越しください!

次回開催予定

【日時】
集合:2015年11月9日(月)

11:05 JR身延線「西富士宮」駅 又は 10:51 富士急行「大石寺」バス停(送迎あり)
お車の方は11:30までに木の花ファミリーおひさまハウスひまわりへ直接お越し下さい
解散:2015年11月10日(火) 昼食後(送迎あり)

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【会場】
木の花ファミリー(地図はこちら
静岡県富士宮市猫沢238−1

【定員】
15名

【参加費】
8,640円
(1泊2日、宿泊・お食事・送迎・保険料・税込み)

日帰り参加の場合:1日につき3,240円
(お食事別途)

*同性の方との相部屋をお願いする場合がございます。
*オプションにて、木の花ファミリーの施設見学やプレゼンテーションのご提供も可能です。

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