533(いさみ)ナイトより②「信じる心で生きていく」

僕は30歳のときにお釈迦様との出会いをいただくようになり、その後育っていくためのいろいろなプロセスを経て、32歳からたくさんの人々を対象によろず人生相談を受けるようになりました。何でも相談を受けるということは、僕がどのような話にも乗っていくからです。たとえば会社の経営が上手くいかないとか、人事をどうしたらいいかとか、進学・就職・恋愛問題はもちろん、家庭不和・子育て・病気の相談まで何でも相談に乗って来ました。あの当時不思議だったのは、僕は自分で答えている意識がないのです。口が勝手に動くのです!お筆先ではなく、僕の場合は「お口先」でしたね♪今でも時々そんなことがありますが、話していると新しい発想が湧いてくるのです。そうすると、自分がそこから学びながら話しているときがあります。当時はまったくそうでしたね。だから話したくて仕方がないのは、自分の口から出てくることを学びたかったのです。

そのときに、自分の口から出てくることを学ぶのですが、そこには未熟な自分もいて、囚われた自分がそれに抵抗するのです。ですから、降りてきた発想は優れていることばかりなのですが、それを自らに囚われて受け取れない自分に苦しんでいる時代があったのです。31歳から33歳の2年ぐらいはとても辛い時代でした。当時は苦しくて、ひとりになると毎日泣いていましたね。泣くどころかもっとひどいときは、自分の頭を自分のこぶしで殴ることもありました。でも、それは頭が痛いだけで、何の解決にもなりませんでしたけどね(笑)。

当時、特に夜、仕事の帰りにひとりで車に乗っていると、車の中でしょっちゅう泣いていました。時間が遅くなればなるほど、道路を走る車の台数も少ないので、まわりを気にすることなく、いろいろと想いを巡らせていました。そうやって自らの想いを巡らせ、それに対して天から答えをいただくと、そこに抵抗する自分が出てきて辛くなるのです。それで車を走らせながら、「わーーーっ!!」と大声をあげながら、顔は涙でくちゃくちゃになることもありました。そういったときに赤信号で止まると、たまたま隣に止まる車もいるのです!僕がすごい顔をしているので、隣に止まった車に乗っている人は僕の顔を見て、「えっ?!何あれ!!」と驚いていることもたびたびありましたね(笑)。

そのような日々を送っている中で、ある日の午後、僕は県道春日井・岩倉線の延長に岩倉から一宮に抜ける道を東から西へ向かって走っていました。一宮に入って間もなく、名古屋から岐阜に向かう国道22号線(通称名岐バイパス)の交差点に差し掛かり、赤信号で止まったのです。正面右向こう角には名岐ボールがありました。そこへ差し掛かる少し手前から、僕は天に向かってその当時自分が抱えていた天に対する不満を投げかけていたのです。

「わたしはこの道をいただき、その道が尊くありがたいことであることを自覚しています。ですが、わたしはその道をいただき、未熟者ゆえ、今苦しんでおります。もし、あなたがわたしにその道を選ぶことを尋ねてくれていたのであれば、わたしにも選択肢があったはずです。しかし、あなたはわたしに何の投げかけもないままに、わたしはこのような道を与えられたのです。それにはすべて同意の心を持っているのですが、一方で自らの囚われに執着する自分がいて、毎日苦しんでいるのです。わたしがこのように辛い想いをしていることはおわかりになるでしょう?もし、最初にわたしに断ってくれれば、わたしにも選択肢はあったはずです。それなのに人を無視して!!何ということをするのですか!!」と不満を言っていました。(そのときちょうど、名岐バイパスの赤信号で止まりました。)

するとお釈迦様から一言、こう返ってきました。「ならばこの道、やめるか!」

それを聞いて、僕は次のような感情が湧いてきました。「何を言っているのですか!!この世界にこの尊き道を知らずして行かぬ者はたくさんおります。けれどもひとたびこの尊き道を知って、行かぬ者がおりましょうか。あなたは何を言っているのですか!!わたしが不満を言うからと言って、やめるということはないでしょう!わたしは絶対にこの道をやめません。どんなに辛くても、やめません!でも、わかってもらいたいのです。わたしは今、辛いのです!!」

よく考えてみたら、「それなら不満を言うな!」ということなのですが(笑)。しかし今、僕がそれを逆に与える側からの目線で観たら、「だからおまえ、超えられないものを超えればいいのだろう?おまえはそれをやめたくないのだろう?」ということなのです。「やめたくなくて、それを超えたいのだろう?」と問われれば、「はい」ということになります。そうしたら、「超えられないと言って苦しいのは誰のせいなのだ?」ということになりますね。みなさんも自分のことのように思いませんか?僕にもそういう時代があったのです。31歳から33歳の2年間はそのような時代でした。

みなさんは幸せですよ♪なぜなら自分のぐだぐだを聞いてくれる生の者がいるのですから。(いさどんは自分を指差しながら)これは生ですよ♪しかし、僕に降りてくるものは得体が知れないのです!これは悪魔かもしれませんよ。そういった不確かなものに対して、僕はこの道を歩んできたのです。「信じる」ことがどれほど難しいか。それが降りてきたときに、僕の中には疑う心があったのです。疑う心があっても、この道は絶対やめてはいけない――と思いながらこれまで歩んできました。

それは僕たちが富士山に移住してきたときも同じです。この意味のわからない生活を始めて、これがどうなるのかなんて、まったくわかりませんでした。どこの農家でも息子に農業を継がせたくない時代に、若い女の人が農業をやっているだけで、「畑に20歳の女の子がいるから変だ!」と言う人がいたり、世の中が核家族になっていく風潮の中で、「集団で暮らしているから変だ!」と言われることもありました。当時の日本は何でも既製品の時代でしたから、変わったことをやると変だという時代だったのです。しかし、僕たちはいくら変だと言われても、まったくわけがわからなくても、大切なのだという心だけでここまで歩んできたのです。それが「信ずる」ということです。

答えがこうだったらやってもいい、という考えは信じていることにはなりません。ある意味、僕は不幸でしたね。何しろ、自分の歩んでいる道に確信があるわけではないのですから。僕が30歳のときに黄金のブッダが現れたとき、なぜそのようなものが僕のところに来るのか、意味がわからない。尊いとは思うものの、自分にそれだけの価値があると思わないし、ではなぜ僕のところに来るのか。僕の通知表はすべて3だったのですよ(笑)♪死にたいくらい、とりえがなかったのです。それなのに、そのような尊いものが僕のところへ来たのです。しかし、尊いことを図れる秤はありません。そこにある、それだけで尊いのですから、理由はないのです。

僕はひたすらわからない道を歩んできました。わからないけれど、いつも大切だという心で歩んできました。そして歩んでいった結果、その答えがいつも用意されているのです。だから、答えは歩んでいった先にあるのです。とかく人は先に答えをもらってから歩もうとしますが、それでは信仰の境地に到達できません。まず先に、信じてから進まないといけないのです。

これは生の話です。オリジナルな話です。どこかの本に書いてある話ではありません。イエス様でもお釈迦様でも、このような聖人と呼ばれる人たちは皆、物語になってしまっているのです。しかし、僕は知っています。この人たちは怒りもしたし、悩みもしたし、苦しみながら生きていたことを。生の人間をやりながら歩んでいったことを。

だからどこかで僕は、それが前人未到の道であるならば、先を行く者の辛さがわかるのです。逆に言えば、それだけやりがいがあるのですよ♪それを大切だと思えば、誰もやっていなくても、後から来る者たちのために自らの人生を賭けることができます。そこでは、自分のための道はないのです。あるとしたら、自分の人生が終わったときに、やりきったという満足感が自分のための道だと思います。

 

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by 木の花楽団

 

 


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