宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

2015年マヤ新年の日、地球に祈りのウェーブを巻き起こす式典の中で、いさどんは次のように語りました。

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今日2015年7月26日、マヤの新年・11MENの祭典に立ち合わせていただきました。そしてその最中に、ひとつの文字が浮かんできました。それは、「時(トキ)」という文字です。マヤ暦はおよそ20000年前から始まりました。その歴史をたどれば、今わたしたちはカタカムナを学んでいますが、そのカタカムナ以前に太平洋という地球上で一番大きな海にムー大陸があったそうです。そのムー大陸が消滅したとき、時(トキ)の文明を東に移し、マヤの文明にしたのです。そして、言魂の文明を西に移し、ユーラシア大陸の端に存在していたヤマトの国に移したのです。それから13000年の時を経て、一昨年、わたしたちはそれをカタカムナの学びとして出会いました。そして昨年から、メキシコの太陽マヤ族最高司祭の尊母ナー・キン氏との出会いにより、このヤマトの地で、マヤの新年の祭典が行われるようになったのです。

歴史を振り返ってみますと、2012年12月21日に25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。わたしたちの地球にも冬至はありますが、冬至とは光がもっとも少ない闇のピークのことです。わたしたちは太陽の生命エネルギーをもとにして、地球上で生命活動を行っています。そして、全ての生命が自分という個性をいただいて、時代を紡いでいるのです。その太陽の一螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至が2012年12月21日に訪れ、この日を持ってマヤ暦は終わっています。それは、時(トキ)の文明を継承したマヤの人たちが、太古の昔にそういった宇宙の仕組みや太陽の構造を理解していたということです。

これまで、わたしたちは新たな時代を迎えるための心の準備をしてきました。一人ひとりが自らの個性的な心の歴史を知って、カルマを読み解き、そして新たな心とともに新たな時代を迎える準備をしてきたのです。それが木の花ファミリーの21年の歴史です。

そしてくしくも、新たな時代の扉を開けることになった4年前の東北の震災3.11を持って、わたしたちは地球暦に出会ったのです。地球暦に出会って、わたしたちは自分個人を生きているのではなく、星々の対話を受けて、宇宙の意志を一人ひとりの人生に表現していることがわかってきました。

こうした様々な出会いのもとに、今日2015年7月26日、わたしたちはこの富士山麓の地で地球一周の始まりとしてマヤの新年の祭典を迎えています。この祭典はヤマトの国・日本で始まり、そして24時間かけて地球を一周していくのです。

イメージしてください。宇宙を意識した人々の心が羽ばたくようにウェーブとなって、地球を一周するのです。つまり、地球は丸く、時代は途切れることなく永遠に紡がれながら、わたしたちはひとつの世界を生きているのです。

地球上にはまだまだたくさんの争いや様々な困難がありますが、これは人間以外のものが創ったものではありません。それは、人間が自我を自らのためだけに活かそうとして生きてきた結果なのです。それも、それほど長い期間のことではありません。時をさかのぼれば、およそ250年前のヨーロッパ産業革命以降のことでしょう。さらにもう少しさかのぼれば、800年、1600年くらい前のことでしょう。それ以前、人間は自然とともに生かされ、生命ネットワークの中の役割のひとつとして他の生命とともに繁栄していました。

今、この時を迎え、人間の中で自我が沸騰しています。しかし、これは悪いことなのでしょうか。

それは決してそうではありません。人間の可能性と高い能力を知るためには、思い切りその能力を表現する必要があったのです。そして現実にそれを表現したときに、その問題点も噴き出してきました。それが今の時代です。今、それをコントロールする時(トキ)が訪れ、そして自らのカルマを表現する言魂によってコントロールしていく時代になったのです。今、トキとトコロ、マヤとヤマトが出会って、この祭典につながったのです。

そのように考えますと、わたしたちは自分でわかっている範囲で生きているわけではないのです。星の対話によって時代が刻まれているのであり、それは宇宙の仕組みで生きているのです。その仕組みの中で、わたしたちは常に変化・変容・変態を繰り返しながら進化しているのです。

そういったことをイメージしながら、調和の世界を地球上に表現していきましょう。わたしたち人類は、非常に優れた能力と大きな影響力を持っています。人類が目覚めたら、次の時代にはきっと、この地球生命、さらに宇宙に大きな貢献をするような魂となって育っていく姿がイメージできます。

時代は21世紀に入り、ようやくそのような時代になったのです。2012年の銀河の冬至を迎え、新たな扉が開き、2013年・2014年・2015年と3年間その変化の準備期間をいただいて、2015年はその最後の年です。この新年が明けると、いよいよ新たな時の流れを世界中の人々が感じるようになり、人類も地球自身も新たな宇宙時代を迎えるのです。

それぞれの歩みがあるとしたならば、木の花ファミリーは世界に先駆けてそのことに気付き、目覚めたものとしてこの生活を通して表現するものなのです。これは今後の木の花ファミリーの生き方にますます反映され、そして宇宙を通し、地球ネットワークを通して、全世界に広がっていくものだと確信しています。今日のこの快晴は、天がそのような意志を示されていると感じながら、皆さんとともにその自覚を持って歩んでいきたいと思っています。

木の花の歩みが始まったのが21年前だとしたら、やっと今、時が追いついたのです。人は土星の30年のサイクルで生きていますが、最初の30年で自らが何者かを知ります。そして自らが何者かがわかったら、次の30年でそれを人生に表現するのです。そして、60年でその結果をいただき、その後旅立つための仕上げの準備をするのです。木の花ファミリーの20年から30年に向けての今後の10年間は、きっと新たな時代を紡いでいく大きな役割を果たしていくのでしょう。

そういった意味で、わたしたちは宇宙を生き、時を生き、時代を刻んでいるのです。その中のトコロという場にわたしたちの存在があるのです。ですから、心をしっかりと観て、宇宙・トキ・トコロを意識しながら生きていくことが、生命として、そして大きな役割をいただいている人間としての目的なのだと感じています。

それは、宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生を託されているのです。そして、人々は自我から解放され、この世界のために天の意志をいただいて生きていく時代に入ったのです。それは、価値ある素晴らしい人生です。自分のことは自らで責任を持ち、高い意識で歩んでいきましょう。そして、地球上にみろくの世を実現させましょう。皆さん、これからもよろしくお願いします。

一人ひとりにオリジナルな人生が託されている
一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

 

 


いつか死を迎えるときに

人はいつか、必ず死ぬものです。そして、その時は今回生きたことに対する清算をする時でもあるのです。そのときにその結果をどう受け取るのか、ということを木の花ファミリーでは一番大切にしています。これは、私たちにとっては当然のことですが、全ての人が生きる上でもっとも大切なことと言えるでしょう。

過去の歴史を振り返ってみると、どのような宗教であっても、そのことを最も大切にしてきたはずなのです。そして、そのことに目覚め気付いたものたちは、そこを大事にしてきたはずです。だからこそ、本当を目指すものたちは日常から意識を離し、取り組んできたはずなのです。

ところが、それが宗教化されてきたがために、その肝心なところを失い、社会にごまをすって理解されようとするような、もしくは社会に認められるために媚びを売る損得勘定で成り立つようなあり方に変わってきています。そして、その探究の目的は、自らを高めていくのではなく、自らの願いが叶う現実化に重きを置くようになったのです。

そこで、私たちが生きていることに対してどのような力が働いているのか、どのような仕組みのもとに私たちが生きているのかというと、この世界との関係に私たちが生きている要素はないのです。しかし、そういった立体的かつ広い捉え方でものを観たときには、それがそうだとわかっても、日常働いてご飯を食べ生きている現実の中で、自らの願いを叶えることを優先していけば、それが当然のようになってしまうものです。そして、今の世の中を観ると、そういった意識レベルの人々が大部分を占めています。

しかし、人間が自然の中で生かされていた過去の時代においては、そうではありませんでした。木の花ファミリーの精神性のように、生きることのベースは自然と共にあったわけです。そこでは生きることの術(スベ)を天にお伺いを立て、天の気と共に生きていたのです。

現代では、人間のテクノロジーの進化のもとに、物理的豊かさがマインドコントロールのように人々の意識の中に植えつけられているので、内面ではそういった大事を感じながらも、現実にはそういったことを否定する生き方をしているのです。そこで、「真実は何なのか?」という求道心から、大事を大事として生きているのが木の花ファミリーの生き方です。それは、私たちに与えられた最も大切なこととして、誰にも譲ってはいけないことなのです。一般社会ではそのことがまだ十分に実践しきれていない時代に現れ、「それを実践しきるとこのような生活ができるのです」と示すことが私たちの存在する意味なのです。

そうすると、広く深く物事を捉えていけば、この生き方が個人の幸せを追い求めることを優先するのではなく、時代的に新たな人類の歩みにとって最も大事な生き方を示すということは明白なことです。物事を浅く捉える人々にとっては、自らの願望を叶えることが最も優先されることからすると、自己コントロールすることは苦痛を伴うことになってしまうのでやりきれないことになるのです。そこで、多くの人は、自らがやりきれないこと=悪いことにしたいのです。さらに、心に濁りや歪みがある人々は、真理を攻撃や批判の対象にすれば自らの正当性が通る、という安易な発想にもなってしまうのです。

そのようなことは、これまで世界中の様々なところで行われてきました。それは、自らの主観と合わないという理由で相手を間違っているとし、世界中で宗教戦争のような紛争が起きていることもそこが元凶になっていますし、国家やイデオロギーがそういったことの追い風にもなってきました。そしてその結果、勝ったもの勝ちの世界になってきたのです。しかし、本来この世界は、時代が刻まれることによって変化・変容がもたらされ、そして天体や宇宙法則のもとに自然に成っていくことなのです。人間はそれを自らの力で成し遂げてきたように錯覚しながら生きてきました。

人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。

人は誰でも死ぬのです。そして、その本質を問われるところを通って、次のステージへ向かうのです。その次のステージが結局今と同じところなのか、下がるのか、それとも今よりレベルが上がるのかは、今世をどのように生きたかによって決まります、そしてそれは、学校で学んでその成果を試験で問われ、次にどのようなステージに行くのかのテストのようなものなのです。

今の人間たちは、物理的にはこれほど豊かになりましたが、結局物理的なものを優先して世界に反映すればするほど、人間はそこだけに囚われ、能力が高く豊かだと思うものなのです。そして、そこでは過去にはなかった矛盾を積み重ね、いずれそのツケを払うことになる現実が来るのです。そして、多くの人はそういった現実を目の当たりにしても、まだそのことに気付けない状態にあるのです。

人類はこれまでの歴史の中で、戦争をはじめとする多くの地獄を経験してきましたが、それよりもはるかに複雑で罪の大きな痛みを経験するところに立っているのです。私たち人類が今、そういった大切なステージにいることに気付いたら、これから私たちはどのような側に立つべきなのでしょうか。

自我の側に立つのか。天の側(宇宙の側)に立つのか。

私たちはどのような側にも立てるのです。

今、人類は自らの中に多くの矛盾を抱え、矛盾を発生させ世界に撒き散らしています。ですから、私たちは自らの欲望に翻弄されていることに気付き、矛盾を発生させない状態になることによって、次のステージへ行くことを目指すべきなのです。

木の花ファミリーの生き方は、個人の事情で反映されるものではいけないのです。それは人類のために、地球のために、時代のために生きる物語なのです。そこに個人の事情を反映させているようでは、とてもこの役割はやりきれません。そして、私たちがそれをやりきったときに、「これだけの世界が創れるのですね」と世の中に範を示すことになるのです。

ところが、この生き方を歩み、それがどれほど大事だと思っていても、まったく果たせない可能性もあります。その歩みの歯車がかみ合っていなければ、エネルギーはたくさん使っても、自我の囚われの繰り返しでまったく進んでいなかった、という答えをもらう場合もあるのです。

ですから、その志にふさわしい位置まで到達しようと思うことは、真剣でないといけないのです。登山にたとえると、ふもと付近ではハイキング気分で行けたしても、頂上付近では命をかけて進んでいくようなことなのです。

今の社会のあり方は面白いもので、かたや社会から高い評価があると思えば、人間がここまでの世界を創り上げたことに対して新たな次の時代からは真逆なことだと捉えられることでもあって、とてつもない矛盾の中に今、私たちはいるのです。しかし、そのとてつもない矛盾に気付いたときに、とてつもない変身の可能性を今、目の前に人間たちは秘めているのです。それは、人間がこの世界に大きく貢献する可能性と、この世界においてとてつもない罪を犯す可能性の両方を持っているということです。

何億年という単位では、人類どころか、生命が絶滅することさえありました。人類の存在は、たかだが数百万年のことなのです。

そのような時代の中で、人は尊い存在であるからこそ、このような矛盾を抱えることができるとも言えるのですが、宇宙は果てしなく物語を刻み続けるものであり、人々はその地球ステージを生きていることが理解できていないのです。その意識レベルの中に自分たちが存在していることに気付いていないのです。

矛盾とは、真実に目覚めるためのものでもあります。この世界の全ては相似形でできているのですから、探求すればするほどその解釈はどんどん深くなっていき、そしてその究極の矛盾の解釈は、相反する存在の理解につながるのです。そこでは、物事の一方から離れて解釈できるところまで行くことが大切なのです。それは、物理的世界を超越してしまうことであり、私たちは今ここにいながらにして、宇宙が理解できるところにいるのです。
 
 


その証はそなたの生まれた月日に現れている

今日、5月3日はいさどんの64歳の誕生日です。今日はその生まれた月日にちなんだお話をご紹介します。

*いさどんのこれまでの歩みやシャーマンとの出会いについては、一つ前の記事「木の花記 〜金神様の巻」をご覧ください。
 
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いさどん:
僕が39歳のときに、田舎の滝神社の氏神様に「私は元々このような道を歩むものとして生まれてきたのですか?」と聞いたことがある。それはシャーマンのすみ子さんとの出会いがあって、その後すぐにお釈迦様が僕のもとから去られたときのこと。滝神社の氏神様との対話の中で明かされたことなんだよ。

すみ子さんは僕に御中主大神という名をくれた。その名は神様によって降ろされた。だから、すみ子さんが言うには、「古田さん、神界名が降ろされたので差し上げますね」ということで与えてくれた。それで、僕のご先祖にとても興味を持っていたすみ子さんが、「古田さんのご先祖様にご挨拶に行きたい」と言うので、一緒に田舎に行くことになった。

田舎に着き、まずは仏壇にご挨拶をしてから、その後氏神様にご挨拶をしたいということで、滝神社へ向かった。そこで初めて、僕はシャーマンを通して滝神社の氏神様と対話することになった。それともうひとつ、滝神社には三柱の神がおいでになって、一柱は伊勢神宮の系統のおたちゅう様といい、霊的には僕の先祖に当たる神様。もう一柱は、滝神社には滝が御神体としてあるのだが、その滝の権現という、おじいさんのような雰囲気のひょうきんな神様がおられた。そしてもう一柱として、滝神社の祭神である氏神様がおられるわけだ。しかし、この滝神社の祭神は実は本神ではなく、留守居を預かっており、本神が降りてくる前に仮に降りている神様だった。

すみ子さんと久しぶりに滝神社を訪れたとき、氏神様が「そなたのことは幼少より見ておったぞ。やっとそのようなものになったのか」と喜ばれていた。僕としては、「そんな小さな頃から見守られておられたのだ。僕が本殿の上の銅版の屋根に登って体を温めたりしていたことも見ておられたのだ」と昔のことを思い出しながら、感激した。

そこから、氏神様と僕との関係がわかってきたのだが、その後、今度はひとりで滝神社に行くことがあった。そして、氏神様にこう尋ねた。「私は今、お釈迦様のご縁をいただいてこのような道を歩んでいるものですが、神様にお伺いしたいことがあります。私は元々このような道を歩むものとして生まれてきたのですか。それとも、私の存在を天が見初め、指名を受けてこのような道を歩むようになったのですか」と尋ねた。

そうしたら、「そなたは生まれる以前より、この道を歩むものとして生まれてきた。その証は、そなたの生まれた月日に現れている」と言葉が降りてきた。それが、昭和26年5月3日、日本国憲法施行の日。そして、5月3日午前3時生まれの三男坊で、5.3.3。5は十二支の5番目である辰のエネルギーであり、一年の中で最も生命力が豊かなとき。そして3は、生命が満つる。それで、3がふたつということで三々九度になり、5.3.3から「いさみ(偉佐美)」と名付けられた。ということで、「生まれる前より、約束のもとに地上に生まれてきた」ということを伝えられた。

だから、すべて物事は始めから、約束通りになるように仕組まれていた。そこで僕が気付いたことは、いつも新しい学びが僕の中から湧いてくるのだが、書物を読んでもそれは新しいことを知って記憶していくというよりも、「そうだった、そうだった」と心が納得して思い出していく状態ということ。お釈迦様も元々は法華経という宇宙の法を完全にマスターした魂として降りてきて、人間としての苦難の中からそれを思い出しながら説いていかれた。それは、低いほうから高いほうへ順番に仏道として道を説かれたように、僕にもどこかで、「この全ての行き先を自分はすでに究めている」という心がある。ただそれは、トキとトコロのはたらき(働き・傍楽)の役割によって順番に出てくるものであって、全てが一気に出てくるものではない。それは、新しい知識を得ることではなく、自らの中にあるすでにマスターしているものが智慧として湧き出てくるものであって、自らの中に全ての智慧として仕込まれている。

ようこ:
それは、誰しもがそうなんだよね?新たなものを得ているのではなく、思い出している状態ということは。

いさどん:
それは、自我という鎧を取れば、全てのものがそうなる。だから、お釈迦様は「ガンジスの川の砂の如く、衆生はおる。その全てに仏性あり」と言われた。その要素は、自我の鎧を脱ぎ捨てればあるのだが、自我の鎧にまみれてしまっている人間には、自我を通して出てくることになる。だから、自らの内から真理が湧いてくるのではなく、外から知識で学ぼうとするほうに意識が行ってしまう。

だから、そういったことを理解できた自分にとっては、ただ粛々と自らの中から湧き出てくる想いを正攻法で表現し、心をしっかりと天に向かって立て、心をまっすぐに道を歩んできた。その姿勢が自らの天命を成就させる道と心得ている。

この世界に生きているものとして、自らの自我に囚われて生きているものを不幸という。この世界に生きているものとして、この世界の運行や成り立ちの上に人生を与えられ、その仕組みのままに生きているものを尊いといって、それを喜びという。人間の世界にはたくさんの喜びがあるが、愛にもランキングがあるように、喜びにもランキングがある。そして尊さにもランキングがあって、その違いは、その人がどこを観て心を働かしているのか、にある。

それは、山登りにたとえてみるとよくわかる。下にいるものは上から見える景色は見えないが、上にいるものは下を通って今、上にいるので、下のことは全て理解できる。しかし、常に上はあり続けるので、その上はわからない。だから、上を目指すものは、常にいただく心で高みを目指していく。謙虚であればあるほど、高みが与えられる。それを、登り詰めたとひとたび錯覚したものは、登り詰めたとして全てをわかったつもりになる。そうすると、それから上は観えないことになる。ましてや、自らの行き先を見失って行き詰ったものは、そのことを喜ばないといけない。それは、自らの「自我」に行き詰ったのだから、「その道を行くな」と封印されて、「本当の道を行きなさい」と愛を向けられている。そこでは、「ありがとうございます」と自我を捨てて、いただいた縁ある心に寄り添っていけば、必ず道は開かれる。そこには、自分が学んでいくとか、会得することはない。謙虚であれば、それは自動ドアのように、開かれていく。

だから、「究める」ということは、「登り詰める」ことではない。道が極まっていくということは、星と星の関係や、時代の歩みでもある。そこには、個人の意志は薄い。しかし、そこに個人はいる。その時代を表すための個人がいる。それは、役割という形で存在している。一人ひとりが天より与えられた役割に気付き、自分らしくそれに徹したときに、自らが道を開くのではなく、時代が道を開いていく。そして、その時々時代を感じ、トキとトコロが整ったときに、ふさわしい出会いがあって、流れが来て、事が起きていく。そして、時代が開かれていく。そこには、己というものがとても大切な存在として現れてくると同時に、それは時代が開かれていくためだから、そこに己はない世界。そこに成り切ることが、尊い歩みにつながる。

誰の中にも宇宙の仕組みが流れている。ただ、意識がその存在を知り、そこに向かないと、それが観えない。そして、意識が高くなればなるほど、同じ景色でも宇宙の存在がいかに尊いのかが紐解かれていく。しかし、それは自らが紐解いていくものではなく、気持ちが整い、意識がそこに向かえば、観えてくるものなのです。

そういった真理に出会ったものとして、またこのような不可思議な人生をいただいたものとして、これからも人々に伝えながらこの道を歩んでいく。そして、気付いたものたちが沢山現れれば現れるほど、この世界は粛々と時代の扉をダイナミックに開いていく。
  
  


究極の極める世界を生きている

いさどん:
この生き方は、一人の道と、複数の人が絡んでいく道とが共通して成り立つけれど、それぞれがそれぞれの意志で歩むことによって成る道。一人ひとりが道を歩んでいる自覚を持つことから始まる。

世の中に有名人がいるとするでしょ。それはなぜ有名人かというと、その道を極めたものとして、有名人になっているんだよ。お金持ちだろうが、スポーツ選手だろうが、職人だろうが、芸人だろうが、何であろうが、それぞれに道を極めたことによって、有名人になっていく。道を極めるということは、政治の世界で言ったら革命を起こすとか、世界のリーダーになるとか、学問の世界であればノーベル賞を取るとかね。

そうすると、この歩みに対して分野をつけるとすると、「生きる」ことに対しての可能性に目覚めることを探究する道。我々はそこを極める道を歩んでいることになる。

ようこ:
そうだね。

いさどん:
別に、ノーベル賞をもらおうとも思わないし、ギネスブックに載ろうとも思わないけど、この道は究極の極める世界を生きているんだよ。

ようこ:
そう、この道に出会ったら、これしかないものね。

いさどん:
僕には今、その景色が観えてきた。何の目的でこの道を与えられ生きているのかと考えていたのだけど、この歩みの延長に極めるものはこれなんだ!とその一点が観えてきた。それをどう表現したらいいのか・・・生きるということを紐解く。そして、難しいと感じるのは、これを言葉で表現しようとすると限界が来てしまうんだよ。

ようこ:
それもこの道の特徴だからいいんじゃない(笑)?わかる人にはわかる領域ということで。

いさどん:
「そうだね」と言ったときに、「そうだね!」と答えることで確認できるもの。救済されるとか、欲の心で登りつめるとか極めるとか、そういったものとは違うんだよ。

ようこ:
それは明らかに違うね。

いさどん:
そういった感情や利害の解釈を超えたもの。色々な極みがあるとしたら、その極みの・・・

ようこ:
頂点に立つ、と言うと・・・他のものと同じカテゴリーに入るみたいだものね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
色々な極みを超えたところにある?

いさどん:
言葉で表現するといかにもふさわしいようで、響きが違うんだよ。

ようこ:
そうなんだよね・・・色々な極みの背後にあるとか、元にある(苦笑)。

いさどん:
我々が目指している境地、そしてそこに何か存在があるとして、その存在は現象世界で感じているようなものとは違うものなんだよ。それは現象世界にあるものとは違うから、ないとも言える。そこに認識をつなぐことによって、世界の実体を広く解釈することを人間世界に解放していく。今の人間の解釈はとても狭いんだよ。

これは、形があるものを作ることとは違うんだよ。意識の中で創り上げることの出来るもの。そこに気付けばいいだけなのだから、極めて簡単なんだよ。目覚めればいいのだから。しかし、人間は形に囚われているものだから、極めて簡単なことが極めて難しいんだよ。

ようこ:
本当にそう!

いさどん:
ちょっとやそっとじゃ、このことはわからないね。

ようこ:
言葉を聞いて理解するようなことではないからね。

いさどん:
これは境地の世界だからね。もしこれを受け取るとしたら ―――― トキが与えてくれるもの。トキが来て、トコロが整うと、与えられるもの。ただし、それを受け取るに相応しい器が整っていなければならない。

それを、我々は役割として受託している。言葉で表現するとちんぷんかんぷんになってしまうから、それを感じる人でないといけないんだよ。囚われないで、感じればわかるんだよ。

ようこ:
そうそう!その「囚われないで」というのがポイントだね。

いさどん:
僕は常に、「この先に何があるのだろう?」と思って、その先に出会うために歩んでいるだけ。そこに行くための道だから付き合って観ているだけのことで、結果は何でもいいんだよ。結果に出会う連続で終わってもいいんだよ。その旅自体が目的だから。そうやって捉えると、今世の中に問題事は色々あるけれど、そういった囚われから全て解放される。

ようこ:
ね!!

いさどん:
そういった解釈をしていることすら、地球に生きているからこそ体験できる。非常にダイナミックでユニークな、宇宙では体験できないことをしているんだよ。そういった意味で言えば、お金持ちになるのも、有名人になるのも、犯罪者になるのも、戦争をするのも、ダイナミックな話だけどね。

ようこ:
ある意味ね。

いさどん:
しかし、人は感情に囚われてしまうから、たいへんな想いをすることになる。感情の解釈を超えたところから眺めていたら、ダイナミックな世界だよ。よくぞここまでダイナミックに創ったものだと評価するけど、逆にこの世界って狭いとも思うんだよ。囚われの結果、今の世界ができているのだから。

ようこ:
そう。

いさどん:
囚われを取ったら多くの評価が消えてしまうような世界なのに、その囚われの中にダイナミックがある奇妙な世界だよ。その奇妙な世界を表現する法則によって創られた。だから、その法則の外に出てみると、ちょっと寂しい気もするよね。せっかくここまで創り上げて、そこでダイナミックを楽しんでいたはずなのに、そのカラクリがわかってしまったらむなしいよね。その真っ只中にいて、おぼれているからこそ、一喜一憂して楽しいとも言える。

バカバカしいことに、あれが正しい、これが間違っていると、一つ一つの立ち位置に立ったところでの囚われが解釈しているんだよ。それは、囚われがあるからそうなっているだけなのに。

こうやって伝え合っていても、ようこには伝わったと思うけど、今の世の中の人々には伝わるだろうか。そして、伝わらないとも言えない。それはプロセスを踏んでいるだけだから。そうすると、登山のようなもので、今頂上で話をしているとしたら、頂上に向けての登山道を登って来る段階によっては、このあたりでは伝わるとか、あの段階ではまだわからないだろうという解釈になるよね。そして、もっとずっと裾野のほうの現代人類にはなかなかわからないだろうと思いつつ、ただ我々が今この景色をここで観ているということは、いずれ全体がそこに到達することを示しているとも受け取れる。

トキが動いて、トコロに至ると、事が起きる。想うままに生きていけば、ふさわしい事が起きるようになっている。

大切なのは、トキとトコロと存在することの意味をつかむこと。存在するということはこの世界を紐解くベースだからね。そこで特定のことに囚われてしまうと、存在することの意味を探究することを忘れてしまう。

ようこ:
だから、木の花では魂を探究するのに最高の環境が与えられているよね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
霊的に言えば、これほど探究するのに最高の環境は他にないよ。

いさどん:
そう。つまり、お金やモノの尺度に囚われない場所だから。この道は、囚われからの解放だ。

ようこ:
そうだね!それが全ての答えだから。
 
 


価値とは? ~ 一人ひとりの目覚めの時代

2月〜3月にかけて開催された「1ヶ月間の真学校」の中で、カタカムナの講座が2日間にわたって行われました。2日目の講座の冒頭で、いさどんは次のように語りました。
 
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いさどん:
私たちの住む地球には多様な生き物が存在します。さらに宇宙に目を向ければ、無限の星が存在し、その中で地球は本当に微細な存在です。先ほど皆で奏上したカタカムナの63首を聞いていたら、「価値」という言葉が浮かんできました。価値はどこにあるのでしょうか。宇宙は星と星の関係性のもとに成り立っていますが、星々は価値については何も考えず、ただ存在するだけで宇宙を形成しています。

では、地球上に無限の生命が存在する中で、その価値はどこにあるのでしょうか。例えば太陽の光は無条件に降り注いでいます。それによって風ができ、水蒸気が上がって雨が降り、大地に植物が芽生え、それが腐食して土ができるというように自然現象は成り立っています。その時に、そこに価値を認識している存在があるかというと、いないのです。動物も植物も微生物も全て、価値というものの上に存在していません。

そこで、価値はどこにあるのだろうかと考えると、人間の思考の中にあります。先日、木の花劇団がここの経済に関する劇を発表しましたが、あの中にはたくさんの価値がありました。劇の中で表現されている価値は何を表しているかというと、今の人間の有り様は変だということを伝えているのです。どうしてこのような価値に人間は縛られているのだろうか、と問いかけているのです。

価値というのは、自分と他者とを分けることから生まれます。それでは、どこから価値が生まれてくるのか、考えてみましょう。

IMG_6204よしてるくん:
差。

いさどん:
その差はどこにありますか?

よしてるくん:
思考かな?

いさどん:
誰の思考ですか?

よしてるくん:
その価値を決める人の思考です。

150216-151724いさどん:
その価値を何が生み出しますか?

みどりーぬ:
比較。

いさどん:
誰と誰を比較しますか?

みどりーぬ:
人と自分。

いさどん:
それは、自分という自意識の上に価値が決まってくるのです。自我を主張し合わない自然界では、価値を決めなくても、美しい生命ネットワークが形成されています。太陽の光が降り注ぎ、自然の成り立ちが流れていくと、その中で生命は全て循環して一つの輪となり、それぞれが各ポジションを担いながら相互に成り立つ仕組みになっています。それは、私たちの体の仕組みと同じです。そこでは、価値基準のいらない世界です。

そこで、さらに価値について考えると、人間の意識だけがそうした価値を持っているのです。価値を持つということは、人間の自我の表現なのです。では、私たち人間が生きていく中で、価値のある人とはどういう人なのでしょうか。

いぶちゃん:
人の役に立つ人。

みどりーぬ:
困っている人がいたら助ける人。

いさどん:
「これこそ価値がある!」というような、究極に価値のある人とはどういった人でしょうか?

みどりーぬ:
闇と光の両極を知っている人。

いさどん:
難しいことを言いますね(みんな、笑)。そのような人のことを何と呼びますか?

やまちゃん:
聖人。

いさどん:
そうですね。では、聖人の代表は誰ですか?

やまちゃん:
お釈迦様、キリスト。

いさどん:
こういった人たちは聖人として生まれてきたのでしょうが、生まれてからすぐに聖人としての生き方をしてきたわけではありません。ある時から聖人の道を歩み出したと思うのですが、それはどのような生き方だと思いますか?

やまちゃん:
真理を教えてきた生き方。

いさどん:
真理とは何ですか?

やまちゃん:
宇宙の法則に則った在り方。

いさどん:
僕は宇宙の星と星の関係や地球の生命の在り方を観て、そこに価値をどのように置くかを捉えました。それに対して、人間の中にある価値とは何だろうと思った時に、価値のある人とは尊い人のことを指しています。そこで聖人というところまで皆で行き着いたのですが、聖人とはお釈迦様、キリスト、ムハンマド、孔子など、日本にもそういった人はいたと思うのです。では、そういった人はなぜ聖人なのでしょうか。

たになおちゃん:
傍(ハタ)を楽にするから。

キタジュン:
自分以外の全ての人に対して救いの手を差し伸べる。

いさどん:
簡単に言うと、世の中や人のことを考えて生きたということでしょう。そこで、さらに価値について考えた時に、自然や宇宙の成り立ちを観ると、そういったものは価値を考えることはありません。それは仕組みです。それぞれが与えられたポジションを担いながら、互いに対話して全体を成り立たせています。そこには確かに意志の存在を感じますが、それは与えられた役割を果たしているだけなのです。それは地球生態系を観ても、たとえば微生物は自らのポジションに対し、こういった価値があるから微生物をやりたいとか、次の役割はミミズにしようかと思うことはありません。

僕は、「生きているかどうか研究家」であり、「変だよ!人間」というのが持論ですが、なぜそう考えるのかというと、人間は常に損得を考えて生きているからです。そこには自我という軸があって、他者と比べて損か得かを考えて生きています。
ところが、宇宙の天体や地球上の他の生命を観ても、そういった価値観を持って存在しているものは何一つありません。しかし、その中で人間は一人ひとり全て違う価値観を持っています。人間には人間という一つの価値観があればそれでいいと思うのですが、人間は一人ひとりオリジナルな価値観を持って存在しているのです。
そうであるがゆえに、この世界の存在を認識するよりも先に自らの存在を認識してしまい、人間はこの世界を認識できなくなっています。自我が強くなればなるほど、認識できる世界は狭くなっていくのです。人間の意識レベルでは、自我があるのが当たり前です。それが人間らしいと勘違いしている人もいるのですが、地球上の他の生命は何一つそのような価値を持っていません。ですから、「自分が」という価値観が小さいと、この世界がより広く観えてきます。そして、「自分が」という価値観がなくなってしまうと、この世界が自分自身にもなってくるのです。

いったい、この人間とは何なのでしょうか。そういった広い世界観を通して観れば、人間として目指すべき尊い方向は、自我の価値観を捨てたところにあるのです。ところが、現代の人々は本来目指すべき方向とは逆のところに自らを置き、それを望むところとして目指しているのです。それで楽に生きているのかというと、実はその世界にいては楽ではありません。

ここにいる皆さんは、真学校で自らを1ヶ月かけてリニューアルし、新たな自分を見出していくという目標があり、1ヶ月もの時間とお金をかけて来ているのです。今の時代に1ヶ月の時間を作ることは大変なことです。それにお金を出してまでやる人は本当に限られた人たちです。今どき、心を見つめて自らをリニューアルしていくことを、1ヶ月の時間とお金をかけてやる人がいるのだろうかと思っていたら、今回14人の申し込みがありました。今後、年に2回開催していく話も出ていますが、それは需要があるからではありません。こうしたプログラムを必要とする時代が来ているからです。

皆さんは、変えることを目的にここに参加していると思いますが、では何を変えるのですか?

たになおちゃん:
自分を変える。

いさどん:
自分にどういったところがあるから、どのように変えようと思うのですか?

たになおちゃん:
自分の性格に問題があったから、自分を変えなければと思います。今まで自己中心すぎて、周りを不幸にしてきました。

いさどん:
自分のことしか考えていないということは、自分が内向きだったということです。それは先ほどの聖人と比べると反対の方向ですね。なぜ自分が内向きだったのでしょうか?自分が内向きだった時には、それが価値のあることだと思っていたから、そうしていたのではないですか?

たになおちゃん:
はい、それしかないと思っていました。

いさどん:
それは、価値違い(勘違い)です!(チーン♪ みんな:笑)人間の意識が低いところにあると、自らを守ってそれで自分が安定すると思っています。ところが、人間の長い歴史の中で人の営みを捉えてみると、いつの時代でも変わらず、「己を忘れて人のために生きる」ことが価値のあることになっています。しかし、多くの人間は常に自らに囚われ、意識の低いところにいて、それが自らを守ることで安心だと思っているのです。

今、なおちゃんが話したように、たいていどの人も意識の低いところにいてはいけないとは思っています。そこに意識があると、行き詰まるようになっているのです。それは、この世界の奥にある見えない法則が、「ここにいてはいけないよ」とそこから抜け出すためのメッセージとして表してくれているのです。

人間社会であろうが、自然界であればなおさら、この世界では自らのことばかりで不調和に生きていたら、問題が発生するようになっています。例えば鳥が、「しばらく天候が悪くなりそうだから、食料を沢山蓄えておかないと」と考えて、田んぼのお米を沢山食べて太ってしまったら、猫が襲ってきてもとっさに飛ぶことはできません。そうしたら食べられてしまいます。
そこで、「足るを知る」ことが大切なのです。適度に食べ、適度に排泄し、それが自然に還元されて、次の命につながっていくのです。そこには人間のような欲の考えはありません。「得した」「損した」「良い人生だった」と考えない世界なのです。そうした考えがなければ、生命の循環の中では皆が健康に命を紡いでいくことができます。そして、そのように価値基準を持たないのが、この世界の生命として生きるものの本来の姿です。

人間は自らを主張し、聖人という存在から遠い人間ほど、価値という基準を持っています。そして、それが自分らしいと自らを守ることであり、そこに囚われながらこの世界を創っています。
それに対してこの世界の側からは、「それでは生きることが苦しくなりますよ。あなたが命だとしたら、本来の命の姿から外れていますよ」と病気などの問題事を通して教えてくれています。鳥が欲をかいて食べ過ぎていたら、危険が迫った時に逃げ遅れて食べられてしまうように、そういったものは生命として生きていく資格がないことになります。だから自然淘汰されるのです。
ところが、現代では人間だけはそういった法から外れたものでありながら、淘汰されずに、人工という世界を創り、他の命に災いをもたらしながら存在しています。今、地球規模で人間は、自然災害や気候変動を通してメッセージをもらっています。しかし、国を司るリーダーたちは、相変わらず経済発展こそを豊かさとして優先しているのです。

命は循環しているのですから、他者の役に立つ働き(傍楽)をしてつないでいくと、この世界は健康になるように創られています。しかし働くのではなく、自分のことばかりを考えて物や金を溜め込もうとすると、血液が全体に行き渡らない病気の状態と同じような社会になってしまいます。今の日本経済は破綻状態にあり、それは借金ばかりが必要な人工透析状態なのです。

そうした政治を司る人々が世の中で成功した優秀な人とされていますが、それは尊い存在とは違います。ですから、今の世の中で成功した人を尊い人とは言えません。
こうした社会の矛盾を目の当たりにするたびに、「人間はおかしな生き物だ」と思うのですが、人間はその価値を人間社会の中にのみ見出し、それが人間らしくていいと思い、その意識が自分たちの首を絞めていることに気付いていません。もしかしたら今、私たち人類は絶滅前夜にいるかもしれません。IPCC(国連気候変動による政府間パネル)のデータを見たら、そのようなことを続けている場合ではないのですが、それは私たち一人ひとりの目覚めに関わっていることなのです。

この1ヶ月間の真学校を通して、まずは自らの実体を知り、客観的な視点を養い、健康で楽に生きていけるように、皆さんは参加しているのです。僕は、改めて皆さんがそういったことを意識し学んでもらえるように、こういった話をしています。

あなたがた一人ひとりがこの世界を創っています。それが塵(チリ)も積もって70億人が集まり、地球にこれだけの影響を与えて今、この世界の現状があります。それは、あなたの働きがこの世界の行き詰まりを創っているということです。それは勉強してわかるようなものではなく、直観で感じて矛盾を捉える感性があったら、当たり前にわかることです。自らを観て客観的な視点が育てば、そこで自らの矛盾にも気付きます。そうすると、当たり前に生き方を切り替えることができます。今の人間は物事が良く見えているようで、知識をたくさん得ていても、そういったことが観えていないようです。

こういったことが人々に当たり前に観えるようになり、一人ひとりが世界の仕組みの中で役割をもらい、世界をつなげるためにあることに気付き、その役割を果たしたら、あなたはすでに聖人です。そして、その時に人は、自らが生きようとしなくても生かされる存在になります。命は必要な分だけ与えられていますし、寿命は決まっているのです。ですから、生きながらえようとしなくても良いのです。世界がこの仕組みである限り、自らに与えられたポジションで生きていく役割と期間は決まっているのです。

その中で人間だけは他の生命と少し違って、生きる内容が一人一人の意志に託されています。それが人間としての価値だと思うのです。私たちはどのように生きるのか。その結果、この世界に何をもたらしたのか。自らの価値をどこに置くのか。そこに気付き生きる自由が人間には与えられているのです。与えられている自由はそれだけです。価値基準もそれだけなのです。

政治はセイ(政・聖)と書くのですから、本来聖人が行うべきものです。それなのに、主義主張のために政治が行われているのが現状です。その自我の極めつけは、自国の利益を得るための戦争です。その自我が世の中に争いの世界を創り、様々な問題事の原因となっているのに、それが観えないのです。人間とはそのようなおかしな生き物です。

そういった中で、皆さん一人一人は自らを転換するために、1ヶ月の時間とお金をかけてここに来ています。世の中の人がなかなかできないことに皆さんは取り組んでいるのですから、僕は特別な人たちだと観ているのですが、自らの転換だけではなく、真の価値とは何かに気付き、この学びから自らの価値をどこに置くのかを考えてもらえたらと思っています。

プログラムの冒頭でそういったことを伝えると、「私は自分の学びのために来ているのに、人のための学びなんて嫌だ!」という可能性もあるのです。しかし、プログラムが進んできて、その中でカタカムナの宇宙観に触れるところまで来ると、皆さんもある程度今の社会情勢と宇宙の構造との矛盾について知ることができてきていると思います。そして、その学びでは広い世界観を持ちましょうと伝えてきました。その中で自分はどのような存在なのかを捉え、世界観が広くなれば、自我から離れることのきっかけとなります。そして皆さんはカタカムナの世界観と出会ったことによって、現象界の奥にある世界まで捉えた時に、この世界の存在する仕組みについてさらに理解を深めることができました。

宇宙空間に生きる私たちは、当然、宇宙人です。そして、私たちが宇宙人という意識を持つと、そこまでの広く高い認識を持つことができます。地球上で私たちは無数の生命ネットワークの中で存在していますが、宇宙の仕組みを認識できるのは、その中でもたった一種類、私たち人間だけです。

IMG_6137昨日のカタカムナ勉強会で「アマハヤミ」の話がありましたが、アマハヤミとは思念の速度であり、光の速度の10の64乗倍と言われています。アマハヤミはこの現象界の光と比べる対象の存在でもあり、究極の相対性理論のようなものです。宇宙は広大な世界ですが、アマハヤミの思念では人間が頭の中で「宇宙」を思い浮かべるだけで、瞬時にして宇宙全体が観えてくるのです。それだけの能力を人間は潜在的に持っています。カタカムナと出会うまでは、この世界の基軸は光という認識だったので、そういった概念はありませんでした。ですから、宇宙を知るためにこれまで物理学者や科学者たちは、莫大な労力をかけて宇宙を探査してきたのですが、光の速度の乗り物を作れないのに、130億光年もの宇宙の世界を観て帰って来ることは不可能なのです。そういった思考を超えて、宇宙に探査の思念を送ると、意識があるレベルに到達していれば、宇宙の全体像が瞬時に観えてきます。そして、人間の存在とは何なのかを思念として想えば、その存在価値が観えてくるのです。

そうしたら、客観的に自らを観て、自分が低い意識レベルにいると気付いたら、こう自らに伝えてあげればいいのです。「あなたは何のためにそのような無駄なエネルギーを使っているのですか。その上、さらに辛い思いまでして、涙を流しています。そんなエネルギーはもったいない。バカバカしいからそんなことはやめましょう。」そういった意識を皆さんに持ってもらえたら、世の中は良くなっていくと思います。

皆さんの日記を読んでいると、真学校の学びとはこういうものだと皆さんは少しずつ理解してきているようですが、実はあるところでこれを切って、「今の延長にこれからの学びを提供していくわけではありません。それでは、学びが皆さんの我の延長の学びになってしまいます」と伝えようと目論んでいます(笑)。そして、本来人間とは何なのかという本質を、自らを一気に超えたところで理解してもらえたらと思っています。今、種明かしをしてしまいましたが(笑)。

昨日のカタカムナ講座の中では、今まで聞いたこともなかったよくわからない話を聞いたと思いますが、そのわからないことを大事だと思って、それに付き合っていくと、ある時あなたに自我が切り離される時が来るのです。その時に、今まで自我に囚われていたことに気付き、今までのあなたの疑問がわかるようになるのです。

そのような自我を超え物事の本質に目覚めるためのプログラムを、私たちはこれからも提供し続けていきます。時代が切り替わる時を迎えているのですから、皆さんにもこの輪を広げていってもらいたいと思います。「自分のために」というところから、本当に世の中を変えていくための役割に目覚めてもらいたいと思っています。

そのために、古代人の叡智であるカタカムナの宇宙物理学は大切なものです。しかし、気を付けなければいけないことは、そこでカタカムナ教になってはいけないと思うのです。癌を治してもらおうなどと、カタカムナの奏上をお願いすると、それはご利益宗教のようになってしまいます。それではいけません。自分自身がそういった意識レベルの人になることが大切です。そして、自らの存在を持って世の中に大事を示していける人になることが大切なのです。誰もがそのような尊い人になれば、次の時代の扉は開かれます。それは一人ひとりの目覚めの時代なのです。それが、これからの人々の目指すべき価値なのです。
 
 
「尊きものを見つけ、そこに行き、救われることよりも、
 自らが尊きものとなって、他を救えるようなものになれ。
 これからは、一人びとりがイエスやブッダであるぞ。」