いさどん:
実は、謝りたいのは本当なんだけれど、
今までやってきたことはすごく有効だった。
有効だったけれど、
これからの道を皆が行くためには、
意識の転換が必要であるということ。
こんなに心磨きを大切にしている人たちって、
なかなかいないよね。
これは普通じゃない。
やはり、何かの強い力が働いている。
そして、心磨きを大切にして生きている一人一人が、
そのことにしっかりと共鳴している。
ようこ:
いさどんが謝りたいと言ったのは、
いさどん自身がそう思っているというよりも、
神様がそうさせたのだと思ってた。
いさどん:
ごめんなさいと言って謝りたいのではなくてね。
ただ、一方の方向から皆を誘導していたことになるから。
一般的にいうごめんなさいという感情があるわけではない。
もし、心のボタンの掛け違いをしている人がいて、
そういう人に、「いいんだよ、いいんだよ」と、
そのままそちらに行くことを容認するかと言ったら、
それは見守っていくことが大切なんだ。
そうでないほうへ本人が気づくために、
「いいんだよ、いいんだよ」と見守っていく。
光の存在である神様が、
神様の意思でこの世界に闇を創った。
闇が目的なのではない。
光が目的なのだから。
でも、その光のために、
闇を創らないといけなかった。
そうすると、
光と闇が相互に支え合っているのだから、
どちらも大事なものとしてこの世界にある。
そこで、神様が光だけを大切にして、
光のほうへだけ向かおうと言ってしまったら、
それは、真実に対する半分の回答になり、
人々は一方のほうへだけ価値観を持ってしまう。
今までは、学びの段階として、
「よいほうへ行く」ということのほうがわかりやすいから、
そう伝えてきた。
しかし、実は両方が大事なんだよ、と。
今、気持ちがすさんでいる人が、
すさんでいる自分の心にふさわしく暗くなっていくのは、
ある意味、楽なほうへ行っている。
最終的に自殺することも、
楽なほうなんだから。
自殺することは最も不幸なことだと言ってきたけれど、
果たしてそうだろうかと言ったら、
自殺の反対は、命を全うして光のほうへ行くということ。
自殺は命を絶って闇のほうへ行くということなんだけれど、
それは右と左の両極を支えているということ。
そこには、生き方の両極の事例ということしかない。
最近は、光のほうへ行って命を全うし、
人生を完成させ悟りへ行く人がほとんどいない。
逆に、途中で命を絶って
闇のほうへ行く人が多くなってきている。
それは、今の世の中を表わしている現象にしかすぎない。
現象を冷静に観て、
私たちはどうしたらいいのかという
判断をすればいいのである。
現象を冷静に観るためには、
そういう事例も必要である。
それこそ、他人事であっても
自らの痛みを伴うくらいの現象が起きると、
その分だけ学ぶ力が働く。
それを、自殺することは
不幸だ、だめだと言うのは一方通行の話で、
それをだめだと決めつけてしまったら、
そこから学べることはなくなってしまう。
こっちが大切でこっちがだめとしてしまったら、
出来事の奥にあるメッセージが観えなくなってしまう。
この世界にある出来事の重みは、全て同じである。
そういう学びの段階に入ったということ。
全てが尊い。
一人一人が自分の意思で、
どういうふうに生きることがいいのか、ということを選ぶ。
それが多様性だから。
そこでは、こっちがいいよ、
こっちへ行こうよという言葉がなくなる。
一人一人が自分の意思で、
ひとりごとのように自分の生き方を探して、
自分の意思で歩んでいく。
それが、一人一人の道であり、
その人オリジナルの生き方であり、
その上で極めていく。
その結果、気づいたら、
同じことを求めている人たちがいる。
それはなぜかというと、
全て同じもとから生まれてきて、
同じもので維持されているから。
同じところへ行くのは、当たり前のこと。
皆それぞれ、ばらばらの歩みをしながら、
一つのものであるということに目覚めていく。
こうやって語って公開することは、
また誘導していることになるのだろう。
でも、ついつい語ってしまう。
それが噴き出るのも僕の個性だから、
個性として、それも大切にしないといけない。
ひとりごとだから。
ようこ:
ひとりごととして、公開すればいいよね(笑)
いさどん:
そう、いさどんの「おやじの館」はひとりごと。
ようこ:
おやじのつぶやき、とかね。注意書きで、
「決して誘導しているわけではありません(笑)」と。
いさどん:
あなたのために語っているのではありません。
いさどんのつぶやきです。
問題を抱えた人たちに、
もっと、ひとりごとを聞いてもらえればいいんだよね。
情報提供。
いいも悪いもなく、
「こういうふうに見えますよ。
あなたはどうしますか?
この世界では、どちらも大切なことですよ。」
16年近く歩んできて、
その前からすると30年近い歩みなんだけれど。
ずいぶん来たものだなと思う。
ここまで来たかと今振り返って、景色を観ている気分。
富士山のような一気に登っていく山ではなくて、
なだらかな山を上がったり下りたり、
上がったり下りたりしながら、
ハイキングのような感じで
ずいぶん長いこと来たなという心境だね。
そして今、ちょっと高い山の峠に来て、後ろを眺める。
峠のふもとにある村が見えている。
あそこを通ってきたんだよねと、そういう心境だね。
ようこ:
昨日の夜は、
16年近くの大晦日のような感じだったね。
いさどん:
そうそう。本当にそういう感じだった。
僕は一瞬、
「今日は何日なんだろう?
これは、何かの記念日なんだろうか」と思った。
ようこ:
ようやく、一人一人の時代が来た。
いさどん:
今まで言っていたことが、
こういう方向へ実現するんだと。
一人一人の時代で、一人一人が輝いて、一人一人が主役の時代。
こうしなきゃ、
ああしなきゃと今まで言っていたことが、
全く逆の表現で実現するぞと。
こうしなきゃと言っている時には、
なかなかならなかった。
ようこ:
いさどんの今年の目標の、
「いさどんが目立たなくなる」ということも、
今まで、一人一人の意識が大切だ、
一人一人がリーダーとして場を創っていこうと言ってきたけれど、
なかなかならなかった。
いさどん:
「今年は僕を目立たなくしてほしい」って
皆に向かってお願いしたけれど、
皆にもお願いするべきだったけれど、
自分にもお願いをして、
その両方が気づいた時に完成するってことだったんだね。
今年の目標が、
12月のこの時に来て、
やはり約束通り達成されるなと。
この暮れの一年の振り返りには、
目標達成されましたと言って、
喜びとも悲しみともどちらでもない顔をして。
そこには達成という言葉もない。
そこにある空気を皆で共有する。
昨日ミーティングが終わった後、
「いさどん、ありがとう」って
何人かが僕のところへ来た。
皆が、「今までありがとう」と言って、
まるで、僕が旅立っていくのを見送ってくれるような、
僕が臨終の時を迎えてお別れを言っているような。
それこそ大晦日のような。
この空気、面白いなと思っていた。
大きな学びのきっかけとなったものに、そ
こから自立していく自分が
「これからは自分で歩んでいくから、今までありがとうね」
と言っているような。
ありがとうと言って、
その先に別々の暮らしがあるかと言ったら、
一緒なんだよね。それが面白い。
また、新しい道を一緒に歩む。
私たちは、
神様のことをどんどん気づいていって、
いつも「ありがたい、ありがたい」と言う。
「神様ありがとうございます」と言うけれど、
それじゃそこで終わりなのかと言ったら、
また次の旅が始まっている。
「この段階の神様ありがとう。
次の段階の神様よろしくお願いします」
という感じだよね。
だから、
「ここまでのいさどん、ありがとう。
次に一緒に行くいさどん、よろしく」
という感じなのかね。
ようこ:
心の師弟から同志へ。
いさどん:
そうそう、僕も同じなんだよね。
「ここまでの皆、ありがとう。
ここからの皆、またよろしく」という感じだね。
ようこ:
年末の心の大掃除がいい感じで進んでいるね。
いさどん:
まだ年末まで時間があるから。
これが整備されて、
きっと、どんどんどんどん皆の心の中に、
決めごとがなくシンプルになっていく。
その快感を味わうと、さらに掘り下げて
高めていけるということだよね。
下げるのも上げるのも同時という。
それを喜びとするようになるんだろうね。
国を司る人々が、
「真剣にこの国をよい国に導きたいと思うのですが、
どうやっても上手くいきません。
風の便りに、理想の暮らしをしている人々がいると聞いたので、
そこへ行ってどうしたらいいのか聞いてこようと話し合って、
ここまで訪ねてきました。
どのようにしたら、この
国はいい国として治まるでしょうか」と尋ねる時に、
「それは制度でもなく、
言葉で表されるものでもありません。
ここの人々の暮らし方を観て下さい。
これが、あるべき生き方ですよ」と、それを見せるだけ。
今、僕はこれを本にして出す必要があると思っていて、
そのタイトルを考えている。
イメージはあるけれど、まだ言葉は出てこない。
ようこ:
来年は、本作りが進みそうだね。
いさどん:
年内にこれが終わって、来年は本作りにかかる。
いろいろな価値観、宗教やイデオロギーや哲学、
そういったものがどれも共通して尊いということを
理解するためのつなぎ役。酵素のような本。
これはまさしく、あなたが主役になるための指南書。
人間たちは、
過去にメシアたちからいただいた財産に、
ずっとおんぶしてきた。
そろそろ自分たちが、その財産を受けて、
さらにそれに積み重ねて、新たな時代を歩んでいく。
そういう時代が来ている。
誰もが神の子であり、
誰もが人であるとしたならば、
誰もがキリストやブッダになれる。
イエスやブッダとして生きていける。
それが求められている。
過去に、イエスやブッダは特別な人として存在していた。
人々の指針であった。
そこには、尊きものとまだ途上のものがいた。
これからの時代は、
一人びとりがイエスやブッダであり、
誰もが真実を観るものとして生きている時代。
それは宗教ではない
宗教は、伝えるものと伝えられるものによって
創るものだから。
それは真実ではない。
全ては対等であり、平等の世界である。
地球が成長している。
地球が成長している。
地球が成長している。