とんとんとんと越えていく

いさどん:
僕はこの道をずっと探求して歩んできたけど、探求するということには終わりがない。それは永遠のものだから。

その道を歩む時、いろいろと考えているようだけど、その歩みは風まかせ。何かに出会っても、新たな流れが来ればそこに執着しないでパッと手放せる。
その時に、未練がないわけじゃないけれど、それは未練というよりも、「ああ、時が来たな」と流れを感じて、「それなら仕方ないでしょう」と覚悟を決める。それは自分に言い聞かせるというよりも、時が来たのだから手放せばいい、という感覚。

流れというものがある。
川があるでしょう。川は流れていく。流れているということは、その時々で出会う周りの景色が変わっていく。ここの景色が美しいとか、ここに留まっていたいとかいう場所にも出会いながら、流れていく。一つの場所に執着せず、流れのままにゆっくりとか、流れのままに早くとか、激しくとか、いろいろある。そうやって流れながら、その時その時の景色をいただいていく。

だけど一つ、囚われていることがある。それは「大海へ行く」ということ。
この道を歩んでいく大本には、大海へ行くという目的がある。川の流れに乗っているのはそこへ行くためであり、途中の景色はそこへ向かう中でのプロセスだから、その景色に囚われる必要はない。囚われていては、大海に到着しない。
大海へ出たら、もう景色は見えない。そしてそこに溜まる。溜まるということは、自分がなくなっていくということ。

川を流れていくのは、人生のようなもの。その景色の移り変わりは、人生と捉えられる。その景色を見ている自分がいる。
けれど大海へ出れば、自分はその大海の一部になる。それがやがて太陽の力によって、つまり宇宙の循環システムの原動力に乗って、また宇宙を生きる種として再生され、生命の源へ帰って、そこからまた川の流れに乗っていく。
それは、水が地球上で、液体から気体になって、源へ降り注ぎ、そこから流れて大海へ行く、という循環の繰り返しと同じ。人生と、生命の流れは同じ。

毎日の生活の中で、うだうだと同じことを繰り返す人たちがいる。それをやめればいいだけなのに。
今回ガンに出会ったきょうこちゃんは、この道との出会いが何だったのかということを振り返る機会をいただいた。これは物理的な旅ではなく、心の旅。その旅の結果が今の自分の未熟さに行きついたとしたら、それは落第ということではなく、いよいよその人にとって一番大きなハードルを越える時が来たということ。その時に、この道を歩んできたことの価値を知る。
価値を知るということは、学びが始まること。学ぶということは、何かたくさんの知識を積み上げていくようだけれど、実はそんなに難しいことじゃない。それは、決して高くない、簡単に越えられるハードルを、ひょいっと越えるだけなんだよ。
越えるというのは上に上がるということではなく、越えて先へ進むということ。簡単に越えられる高さのものをなぜ越えないのかというと、先へ行こうとしていないから。そこに留まろうとしている。先へ行く意志があれば、サッとまたげばいいだけのこと。すごく簡単なことだよ。
溺れている人がいる。その溺れている場所を、よく見てごらん。水深10㎝しかないんだよ。そこでわざわざ下に顔を向けて、溺れる必要はない。そういうことだよ。ハッと気が付いてよく見てみたら、なんだ、ばかばかしいことやってるな、というくらいのものなんだよ。

ともこ:
その大したものでもないことを、たいそうなものだと思いたい心が人の中にあるんじゃないかな。

いさどん:
自分に対する執着があるからね。そこに変な価値を付けたがる。そんなことは、未来の自分からしたらどうでもいいこと。そこを越えた未来の自分から見たら、「あんなところにいたのか」というくらいのものだよ。それなのに、その手前でもだえている。
その位置にいるから、その囚われの状態に興味が湧く。位置が変わればまったく違う価値観になるのだから、「何やってたんだろう」という程度のものになる。
いつでも、先へ進むべきなんだよ。とんとんとん、と。出来事は次々起きていく。それもそんなにたいそうなものじゃないのだから、とんとんとんと行けるんだよ。

だって、明日へ行くのに苦労する?やめてくれとお願いしても、明日は来るよ。
今がある。そして未来がある。今から未来を思って、きっとこうなる、ああなる、と不安に思おうが希望を持とうが、明日は必ずやって来る。そして答えが出る。そんなに先へ進むのが不安なら、未来へ行くのをやめてみろ。明日が来るのを止めてみろ。
それは死ぬことも同じだよ。人は必ず死ぬ。それを怖がるなんてバカだよ。すごく簡単な話だ。
だから「今」を増幅させるのではなく、明日へ行ってみたらいい。それが今を生きるということだ。

人間は経験をもとに、頭の中で勝手に思考を巡らせるけれど、それは自分の自我だよ。経験をもとにした自我。それを超えると、必要な時に必要なことが起こる状態になる。そこが普通の人にはわからない。そんなこと可能なの?と言うけれど、それは自分を手放した人には可能であり、自分がある人にはできないこと。自分がある人は、ここまでならやれる、と自分に限界を設ける。
しかし、この世界は自由自在。その限界を超えることは、いくらでも起こる。
そこに自我がストッパーをかけて、大変だと文句を言っている。自我が積み重なってカチカチになっている。だから時々この世界は、「お前の思う通りにはいかないのだぞ」と言って、思い通りにならないことを与えてくれる。それでも、いくらやってもまた自我に戻るものもいる。フリーにしておけばいいのにね。

ぢがうか?(チーン♪)
 
 
 


心はいつも斜め45度上、空の向こうに

 
いさどん:
人間にはなぜ生理があるのかを考えてみよう。

ともこ:
そういえば、魚とかに生理はないよね。

いさどん:
例えばメダカのような小さな魚は、1年に何回も卵を産むよね。早く1人前になって、寿命も短く、新陳代謝が早い。サケは川で生まれて海に行って、何年かすると大きくなってまた川に戻ってきて、卵を産んで受精させて死んでいく。もう1回海へ戻ってまた川に帰って来るなんて話はないよね。
山羊の場合、体の小さな日本の在来種には1年に2回出産するのもいる。体が大きいザーネン種は、1年に1回。ツバメは1年に2回、春子と夏子を育てる。
こんなふうに、いろいろな種がいる。一般的に、体の大きなものは生理の周期が長い。体の小さなものは周期が短い。生理の周期は子どもをもうけて出産するためにあるよね。だけど人間は、体が大きいのに1年に13回も生理がある。

ともこ:
犬はもっと少ないよね。

いさどん:
大型犬だと年に1回、小型犬は2回だね。犬の妊娠期間は60日くらい。それ以外の時に交尾はしない。いくら雄が交尾しようと思っても、雌がその気にならないから不可能なんだよ。
人間は、1年に13回の生理があって、しようと思えばいつでもできる。なぜだろうね。1年に13回出産するわけでもないのに。人間は280日間の妊娠期間があるのだから、生理も2年に1回でいいくらいだよ。

ともこ:
女の人は生理のたびにデトックスされるから長生きだとも言うよね。人間の場合、交尾するのはエネルギー交換の意味もあると思うけど、生理がたくさんあるのはおもしろいね。

いさどん:
もしかすると、昔は栄養事情も悪かったから、そんなに回数もなかったかもしれないよ。それで、例えば秋に体に脂肪が付くと余裕ができて生理になって、そこで受胎するとかね。そういう可能性もあるよね。それにしても、男から考えたら生理のある女の人は面倒だろうなと思うよ。

ともこ:
面倒だよ。何もわざわざ毎回更新しなくてもいいのに。

いさどん:
そこには、もっと深い意味があるのだろうと思うんだよ。我々のサイクルは、宇宙の星と星の関係から成っている。人間は、雌が月のサイクルで、雄が太陽のサイクルになってるでしょう。そこに何か意味があるんだろうと思うんだよ。雄の習性や行動パターンに、連動している可能性がある。

もしかすると、他の動物や昆虫も、星の軌道のようなものに関連しているのかもしれないね。人間の雌は月、雄は太陽というように、動物や昆虫も種によって関連する星がそれぞれ違う。
だけど昆虫の場合、種の中での個体差は少ないから、カブトムシの雄はこの星、雌はこの星というように、ある種がまとまって一つの星と連動している。でも人間の場合は、雄の傾向、雌の傾向というのはありながらも、さらに一人ひとり、それぞれに関連する星が違うんだよ。そういう可能性がある。ということを考えてみたんだけど、どう?

ともこ:
そうだね!

いさどん:
こういうことを、誰か申し子のような人がいて、ピッと感じて、それについて一生懸命考えることで「あっ」と気付いていく。その直感は、きっと星からメッセージが来ているんだと思うんだよ。
例えば、我々が客観視点とか、他者の目線で考えようとするでしょう。一生懸命その思考で考えて行くと、相手の気持ちがわかったり、心配りができるようになったりするでしょ。それと同じように、例えばカブトムシの視点は何だろう ――――― と集中して考えていると、どこかの星から来ているものをピッと受信するんだよ。だから、何かの専門家とか、神業のようなことをする人がいるのは、そういうことだよ。
人間の中にはいろいろな能力がある。例えば刀をつくる人はこの星からとか、フランス料理はこの星、日本料理はこの星、というのがあるかもしれないよ。そこに意識を集中すると、それが湧いてくる。それぞれに固有の周波数を持っていて、ある段階に来るとピッと反応して、そこに目覚めていく。
普通の人は、そこが自由自在になっていない。それがはっきりしたのを持っている人と、ぼんやりしている人がいて、それがその人の個性とか、特別な能力になっていく。
そのメカニズムをわかってそれを意識すると、それまで埋もれていたその人の能力が開花する。あるいは、そのメカニズムを理解して、自分が興味を持ったところに集中したら、自由自在にその能力が開花する可能性があるんだよ。その能力を生かすには、一心不乱にそれを想えばいい。

これは病気でもなんでも同じことだよ。
たとえば、引きこもりやうつ病になった人というのは、実際に過去にその病気を体験しているわけだから、その状態になりやすいんだよ。だけど、健康になってそのメカニズムを理解して、その状態になっていた時の自分を想像しながら、現在その状態になっている人のことを想って、その人たちが何を求めているのかを想い、受け皿になると、そういう人たちは共鳴して来る。そこで健康になるメカニズムを提供できれば、自由に戻っていくことができる。

ともこ:
なるほど!それって病気に限らないよね。

いさどん:
何でもだよ。そうだよ!そういうことだ。
だから、よく「考えろ」と言うでしょ。何でも「あれ?」と思ったことを考えて突き詰めていくと、解明できるよ。専門家の人たちも、天命という周波数を持っている。新たな分野を開拓する科学者たちも、そこのところに周波数があっているから、星が教えてくれるんだろうと思うんだよ。

ともこ:
エジソンが「天才とは99%の努力と1%のひらめきだ」って言ってたね。

いさどん:
努力をいくらしても、ひらめきがなければ、成らない。努力というのは、確かにその人にある程度の道は与えてくれるけれど、その人にしかないものというのは、そこには生まれてこないんだよ。
だから、頭を使えというのは、頭を回して使うことではなく、想いを巡らせて、受信しようとする意欲を向けること。そのメカニズムを知って、想いを巡らせながら、「受信するぞ!」という意向を向ける。そうすると降りてくる。

ともこ:
自分の頭でぐるぐる思考するのとは違うってことだね。

いさどん:
違う違う。ぐるぐる思考するのも、受信しようとする意欲としてぐるぐるするのはいいんだよ。だけど、単に情報を持って来てああだこうだと頭を回したり、企んだりすることじゃない。「何だろう」と、あるポイントに向かって集中して、何だ何だ何だと考えていく。
こうやって、僕が朝にふっと「この感情は何だろう」と思ったりするでしょう。僕の場合は、人間は変だな、とか、星のこととか、人類はどうあるべきかとか、本当に寝ても覚めてもそればっかり考えてる。人間は起きてるのに目覚めてない、と、そればっかり考えていると、目覚めるとは何か、というのが湧いてくるんだよ。

ともこ:
今のいさどんの状態がまさにそうだよね。話しながら、「そうか」と思うことが湧いてきてる。

いさどん:
そう。今まさにそれをやってるんだよ。だからあなたに話しているようでいて、実は僕の中では、自分の脳がそれを解析して話しているようだけど、その心は斜め45度上に向かっているんだよ。そこに周波数を合わせてる。
僕の喉が声を発する。その声は声帯が発していて、脳はそれを解析しているのだけど、気持ちは、斜め45度上を向いている。ずい分向こうの方を。この窓から見える青い空の向こうを見てるんだよ。そこに焦点が合って、そして脳が解析して、自動的に声帯が音を出して、伝えている。
音を出してあなたに伝えているようだけど、あなたに伝えると同時に自分にも語ってる。なぜなら、そこで想いを巡らせるということは、今まで自分が考えてもいなかったことを考えているわけだから、自分にもそれを伝えているんだよ。

こういう発想は、子どものころに夢をみているような感じでやったりするでしょ。それが大人になってもそのままの人もいるけど、大人というのはどちらかというと、子どものころに土台をつくって、目標が決まるとその延長線上の専門みたいになって、そればっかりやっていくようになる。だいたい自分はこういう人、というように、分野が決まっていく。
だけど僕は、年がら年中その子どもと同じことをやっているんだよ。子どもみたいな状態で、いつも新しいことを引き出そうとしている。だから、どんどん変わっていくね。
そのメカニズムがわかると、人間は、眠っているものを呼び覚まして、それを育てて、使うことができる。そうすると、人生がおもしろくなる!

ともこ:
これをみんながやり出したらすごいね!

いさどん:
そう。これは、日頃人間が使っていない85%の脳の分野だと思うんだよ。今の人間は、単調な脳の使い方しかしていない。例えば、体が何かに不足を感じて欲求が生まれたら、食べる。性欲を満たす。そういった条件反射ばかり。仕事をすることすら条件反射のようになっている。だから、人間がロボット化していくんだよ。
カタカムナの時代の人間は、そんなことをしていたら生きていけなかったから、意識をいろんなところに張り巡らせて、自分が生きることを補ったんだろうと思うんだよ。それは常に直感直感直感直感、全身直感という状態。だから、「ない世界」までの存在をひも解くことができたんだよ。

それは今の人間が何かを発見するのとは違って、始めからそういう環境の中でそういうものとして生きていたということ。
いつも直感を働かせた状態というのは、常に研ぎ澄まされていて、ある意味厳しい状態だよね。だから、人間は能力が高いばかりに、常に緊張をしていなくていいような工夫をしていったんだよ。だから、どんどん能力が落ちていった。

ということは、今それを蘇らせるにはどうするか。生きることは厳しくなくなったわけだよね。いろんな意味で、人間の能力が反映されて。そこで、生きることが厳しくなくなった代わりに使わなくなって余ったエネルギーを、そこを探求していくことに使えば、同じところへ行くんだよ。
さらに、昔は生きるがためだけにそれを使っていたけれど、今は生きるためではなく、宇宙を探求するために使える。それはカタカムナの時代に戻るのではなく、まさしく進化しているということだ。

人間は、星と連動して生きている。
人間が生きるということに対して、そのトキ、トコロ、意識レベルによってニーズが違う。そのものになり切って、それを感受する人間というのは、時代が進むに従って自動的に天命を受けて生まれてくるわけだけど、天命を受ける受けないは関係なく、そういうものになり切る人間が出てきたら、いろんなニーズに応えるものを読み解くことができるかもしれない。
逆に言うと、そういうことが今までなかったということは、人間がもっと自由自在に地球上で活躍できる時代が来た、ということで、これも時代の申し子なんだよ。そういった宇宙時空間のナビゲーターだね。

ともこ:
すごいね。

いさどん:
変なことを考える人だよね。それも、考えていると湧いてくるんだよ。
僕に与えられている能力は、僕がそういう思考回路をしていてそういう周波数を持っているから湧いてくるものだよ。だけど、そればっかりになってもつまらないでしょ。だから、僕に湧いてくるものは、それはそれで大事にして、あなたはそれを受けて次へつないでいくとか、他の人はそれを受けて現実化していくとか、そういうふうにみんなが自分の立ち位置に目覚めて役割を果たせば、ネットワークができて、もっと大きなことができるようになる。時代を創るとかね。

ともこ:
それでこそいさどんも生かされる。

いさどん:
最近は、個人がどう生きるかということが社会のテーマだったけど、例えば「木の花」という縁があるものの集まりとしての生命のあり方とか、あるいは「日本人」というこの時代のこの土地の人たちの発想が地球で果たす役割とか、あるいは「人類」とか、そういうふうに個人よりもスケールを大きくして、それを意識して生きる時代が今来ようとしている。それが21世紀、宇宙時代だよ。
だから、個人も自分の損得勘定にばかり興味を持つのではなくて、いろんなスケールの自分の立ち位置を意識して生きる時代が来るだろうね。そういう発想の発信源というか申し子が、僕のような存在だよ。

この発想は僕がここで勝手につくっているものではなく、どこかから降りて来ている。意識はこの眉間のチャクラから常に斜め45度上へ上がっていて、頭頂部のチャクラに降りて来ている。だからこれは明らかに宇宙との交信をして、それを解析して、口から発信しているという状態だよ。
口から発信して肉の音で伝えるだけではなく、意識して地球や人類にも発信しているんだよ。

ともこ:
今はいさどんが先駆けとしてそういう役割をしてくれているけど、一人ひとり、誰もが自分の役割に目覚めていくということだよね。

いさどん:
そう。その自覚が必要だね。だけどなかなか自覚しないね(笑)。

ともこ:
自覚しないと、なれないよね。

いさどん:
そうだね。まあ最初はしょうがないから、箇条書きにでもしてトイレに貼っておいたり、手に書いておくとかね。それは暗記するんじゃなくて、呼び覚ますということだよ。常に目につくところ、耳にするところにあれば、だんだん中から呼び覚まされてくるでしょ。それは昔と違って、現代テクノロジーを活かしてやればいい。
それは「自分は成功するぞ」ということじゃないよ。「自分は」と思った時点で、それはまたエゴの世界になってしまうから。そうではなくて、時代の扉が開かれる、その中の役割を自分も担おう、というような心でやったら、エゴは蔓延しないよね。人間というのは、ついついエゴを一緒に広げるものだから、テクノロジーが発達して技術革新となることですら、害になってしまう。その害が起きないように、エゴを乗せないで、役割を果たすということだよ。
大事な話だったね。朝のひらめきは天の意志だ。

ともこ:
こうやってひらめきがあるのも、いさどんが日々そうやって生きてるからだよね。

いさどん:
自我に固まっているのではなくて、オープンになっているからだよ。いつもパラボラアンテナみたいなのがここに張られていて、受信してるだけじゃなくて、こちらからもガンガン発信してるんだよ。「これはどういうこと?」とかね。

ともこ:
こっちからも発信してるんだ!

いさどん:
だって、やり取りしてるからね。
自然界を動かしている仕組みがあるでしょう。そのさらに奥にあるものは、我々の物理的三次元世界から言ったら「ない世界」でしょう。でもそうやってやり取りをしていると、そこから湧き出してくるんだよ。潜象界の中では何もないんだけど、それが現象界に現れてくると意味を成してくるわけだから、命が吹き込まれるということだよ。それが個性になっていくんだ。
 
 
 


鬱も統合失調症もプレゼント 〜 5月17日 出張木の花塾開催!

 
9年間原因不明の頭痛に悩み、どんな治療でも治らなかった人が、
1ヶ月の滞在で頭痛が消える

統合失調症で日常のコミュニケーションもままならなかった人が、
精神保健福祉士として人のために働くようになる

本気で自殺をしようと考えていた人が、
たった1時間の面談で元気になって帰って行く ━━━━━━━

すべて、本当にあったことです。
 

5月17日(日)、いさどんが千葉県船橋市にやってきます。
全3回シリーズの「出張木の花塾」
テーマは自然療法プログラムです。

 

木の花ファミリーには、うつ病や引きこもり、統合失調症などの心の病を抱え、現代の医療では治すことのできなかった人たちが、短期間の滞在で社会復帰を果たしていった事例が数多く存在します。

ここには、薬はありません。お医者さんもいません。
滞在者はただ、木の花ファミリーのメンバーたちと、日々をともに暮らします。その中で、自分はなぜ病気になったのか、その病気を引き起こす自身の心の構造や周囲との関係を客観的に捉える視点を育みます。

自然療法プログラム卒業生の一人は、その体験を自身のブログにこう綴っています。
 

■    ■    ■    ■    ■    ■    ■    ■    ■

私にとっていさどんのカウンセリングは腕のいい整体師の治療を受けているようだ。しかしそれは今まで受けたことのない斬新な整体だ。

今まで私が受けてきたカウンセリングを例えるなら、硬くなって動かせず痛みを生じている部分をマッサージしてほぐして治療するのに対し、いさどんのそれは、人生の中で使ったことのない関節が、まさに痛みを発している部分にあって、そこは動くようにできてるんだよ、と指摘して自分で治っていくやり方を教えてくれるのだ。
心のそんな部分が動かせるなんて!!!そういう感覚だった。そして他人から「病は気から」などと言われるたびに、「自分で努力してもどうにもならないから困っているんじゃん!」と思っていたその症状は、姿を消した。

ブログ「ワケあり女 in 木の花ファミリー ~ 斬新すぎるカウンセリング」より

■    ■    ■    ■    ■    ■    ■    ■    ■
 

彼女の診断名は「統合失調様障がい」。12年前から一日の大半をベッドの上で過ごし、木の花ファミリーに来た当初は自分の部屋から食堂まで歩くこともままならなかったのが、1ヶ月半の自然療法プログラムを経て、今では塾の講師として勤務し、職場でも重宝される存在になっています。彼女はその1ヶ月半の体験を、
「人生のみならず自我の概念さえがひっくり返るほどの
 こゆ〜い時間だった」
と語ります。

自然療法プログラム卒業生と木の花のメンバーたち
自然療法プログラム卒業生と木の花のメンバーたち

現代医療では治らなかった病が次々と治っていくことを、「奇跡」と言う人がいます。
けれども、これは「奇跡」ではなく「宇宙の法則」であり、その法則を知れば誰にでも可能なことなのです。

出張木の花塾では、これまでの具体的事例をあげながら、人それぞれに違う心の性質を読み解き、それが家族や社会との関わりの中でどのように病気を引き起こしていくのか、その仕組みをいさどんが紐解きます。そして、自然療法プログラム卒業生たちが、実際にその体験を語ります。

心と体を元気にする木の花ごはんも、実際に食べていただきます!
心と体を元気にする木の花ごはんも、実際に食べていただきます!

病気を持つ人だけではなく、現代では多くの人が生き辛さを感じています。健康であるはずの人々が幸せを求めて一生懸命築いてきた社会の中で、うつ病や自殺、貧困に環境破壊、そして戦争が起きています。なぜ自分は生き辛さを感じるのか。その仕組みを紐解いてみませんか。

病気になるということは、
私たちの生きるこの宇宙の仕組みを解き明かす第一歩なのです。
 

*下記サイトより、卒業生の体験記をご覧いただけます。
   ↓
 自然療法プログラム体験記

 

出張木の花塾@船橋
「鬱も統合失調症もプレゼント 〜 奇跡の自然療法1」

【日時】
2015年5月17日(日) 10:00開始/17:00終了
*第2回は6月7日(日)、第3回は7月開催予定です。
 日程が決まり次第ご案内いたします。

【会場】
船橋市勤労市民センター 2階和室
funabashi
〒273-0005 千葉県船橋市本町4丁目19-6
・JR総武線「船橋」駅南口より徒歩5分
・京成本線「京成船橋」駅東口より徒歩4分

【内容】
・人の心と病気のメカニズムを紐解く宇宙視点プレゼンテーション
・卒業生の体験談
・参加者との座談会
・人の心と体を元気にする天然菜食弁当とおやつ

前回出張木の花塾より
前回出張木の花塾より

【定員】
40名
*お食事をご用意する関係上、5月15日(金)までにお申し込みください。
*定員に達し次第締め切りとなりますので、お申し込みはお早めにどうぞ!

【対象】
・医療・福祉・教育関係者
・ヒーラー、セラピスト
・心身の病を持つ人
・その家族
・健常者だが、今の社会に生き辛さを感じている人
・次世代の生き方を探している人
・興味のある人、誰でも♪

【参加費】
2,500円

【参加の心がまえ】
■ まずは頭の中をからっぽにしてご参加ください。固定概念の枠にとらわれないフリーな心で参加したとき、これまでの自分を大きく超える新しい世界に出会えることをお約束いたします。
■ 木の花塾では、そこから生まれる智恵や経験を広く世の中に共有することを大切にしています。受講のようすを、写真を含めインターネットなどで発信していきますのでご了承ください。

【お申し込み・お問合せ】
お名前(フルネーム)とお電話番号を明記の上、メールもしくはお電話にて、主催者のけいごくん、または木の花ファミリーへお申し込みください。
・矢作(やはぎ)敬悟
 kekkuny★hotmail.com
・木の花ファミリー(担当:ともこ)
 0544-66-0250
 event★konohana-family.org
(★は@に置き換えてください)
 
 


「これからが真のスタートです!」~1ヶ月間の真学校より

2月15日から3月14日にかけて、木の花ファミリーでは第1回「1ヶ月間の真学校」が開催されていました。寝ても覚めても宇宙視点三昧の1ヶ月間を経て大きく変化した受講生たちは、現在も木の花ファミリーに長期滞在をしたり、新しい生活を始めながらも毎晩の大人ミーティングにスカイプで参加するなど、それぞれの学びを続けています。
そんな受講生たちへ向けて、真学校最終日の朝にいさどんが語ったお話を、改めてご紹介します!

150314-095448

■    ■    ■    ■

いさどん:
この1ヶ月間はあっという間でした。今、みなさんに、この1ヶ月の学びを定着してもらうために何が一番良いのかを考えていました。
学校では義務教育の9年、それに12年、16年・・・と学ぶ人もいますが、その学びはみなさんの中ではどのように残っていますか。学んだことの何パーセントくらいを日々に生かしているのでしょうか。
学校での学びの多くは知識を学びます。そこから自らに相応しいものを取り入れていければ、全て人生に生かせるというものです。100の学びをして、一律80%の学びを得られたとしても、人によって必要なものと不必要なものを仕分けしているのです。
逆に言えば、もし自分が必要だと思うものだけを取り入れていったら、その人は自分の枠の中だけで生きることになります。ですから、不必要と思うものをどのくらい自分の中に取り入れて有効に生かすかによって、その人の幅が広がるものです。

今朝、みなさんがどのよう表情をしてここに来るかを想像してみました。1ヶ月間の学びを終え、昨日の修了パーティーまでの顔と、今日旅立って、日常に戻るときの顔は同じだと思いますか?

みどりーぬ:
全く違う。モードが切り替わっている。

いさどん:
元のモードに戻ってきているということですね。個人差はありますが、僕がみんなの顔を眺めてみると、元のモードに戻ってきている人と、意外と戻っていない人と、完全に元のモードに戻っている人がいます。
では、何のためにこの学びをしてきたのでしょうね。みなさんは真学校で何をやりましたか。

みどりーぬ:
心磨き。

150314-133548いさどん:
心磨きはなぜ必要なのでしょうか。

みどりーぬ:
物事の奥を観るため。

みへちゃん:
幸せで平和な生き方をするため。

いさどん:
それは誰のためですか。

150314-133846あわちゃん:
世の中のため。

みへちゃん:
地球のため。

いぶちゃん:
宇宙?

いさどん:
ハッハッハ。それって、本当に考えていますか?

いぶちゃん:
社会、地球ときたので、単純にもっと広いところを言ってみました(笑)。

いさどん:
そういうのを知識というのですよ。今は、あなたが心から自分らしく想っていることを聞いています。

150314-133637のりこちゃん:
豊かな波動を出すため。

いさどん:
それは何のために必要なのでしょうか。

のりこちゃん:
豊かな波動を出すと、自分も周りも自然な状態でいられるし、天とつながった状態でいられるから。

いさどん:
色々とあると思いますが、まず、自分が楽に楽しく生きられることだと思います。そこで、自分を楽しくない状態にしているのは誰ですか。

のりこちゃん:
自分。

いさどん:
その楽しくない状態を生み出しているのは、どのような自分がそうさせているのでしょうか。

150314-134550のりこちゃん:
狭い世界観。

いさどん:
狭い世界観とはどのようなものですか。

のりこちゃん:
周りが見えず、自分しか見えない。

いさどん:
もし、狭い世界観で自分しか見ていない人がいるとして、それはあまり豊かな人生を生きられないとしますよね。では、どうしてそのようになってしまうのでしょうか。狭い世界観で自分しか見ることができない生き方をしているのは、本当にいけないことなのでしょうか。

みどりーぬ :
それは、自分で気付かないうちに加害者になっているのだと思う。

いさどん:
それは、あなたの場合そういうことがありますね。逆に、気付かないうちに被害者になっていることもありますね。ところで、今、黙っている人たちは、心の中で何を考えていますか。

よこなお:
150314-133446自分のことを言われているのかなと思います。

いさどん:
自分の何を言われていると思うのですか。

よこなお:
自分のことしか考えていないとか、狭い世界観のことです。

いさどん:
今回のこの出会いで、何を学びましたか。

よこなお:
自分がいかに狭い世界観で生きてきたか、そのことによって周りに不調和を与えてきたこと。さらに、自分がいかに面倒くさくて性格が悪い人間であるかが良くわかりました(笑)。

きたじゅん:
狭い世界観だと、誰も気付かないうちに、周りにも自分に対しても加害者になってしまうけれど、自分の世界観を広げれば、自分の資質や特徴などを知って、それを世の中のために生かすことが出来る、ということを考えていました。

いさどん:
自分のために生かすことが世の中のために生かせると今言いましたね。自分が世界を創っている、だから自分のためにやることが世の中のためになる。こういった話は、プログラムの中で良く出てきましたね。それは、自分と向き合った結果の話ですから、個人個人の個性を生かす話ですよね。他の人はどうですか。

たかちゃん:
人との関わり合いの中で、その人たちを鏡として自分の心の状態を学ぶ。そして「正直・素直・信じる」を、勇気を持って実行すること。

いさどん:
それがあなたのこれからのあり方ということですね。他にはありますか。

あわちゃん:
僕は・・・良くわからなくなってきました。

150314-134515いさどん:
わからない状態でこれからどうしますか。

あわちゃん:
わからない状態で・・・ブログを書く。
(みんな、笑)

いさどん:
やることはあるということですね(笑)。

あわちゃん:
結構良い意味で、わからない状態なんです。

いさどん:
それはある意味、幸せかもしれませんね。朝、みなさんの顔がどうなっているのだろうかと想像したときに、きっと元に戻っているのだろうと想像してきました。ここで何が言いたいかというと、人はそんなに簡単に変わることはできないということです(みんな、苦笑)。
この1ヶ月間、みなさんは自分でその学びを勝ち取ったのではなく、バーチャルな1ヶ月間に誘導されてここまできたのです。ましてや、3日や1週間の学びで人が変わるようなことは普通はないのです。それで今日の最終日をもって、これからが真学校での学びを生かしていく真のスタートだということです。例えば大学まで行くと16年間学ぶことになりますが、そこで社会に出るために必要なものが全て会得できたかというと、そこからがそれを生かすスタートなのです。学校では何か刺激をもらっただけのことなのです。

僕はなぜこうしたことをしているのかをイメージしてみました。今の世の中を見ると、迷っている人が多くいます。迷っているということは、生きることの柱になる考えがないのです。本来の自分のあり方や生きるべき方向、生きる目的につながる真実がないということです。真実は人の数ほどありますが、同時に真実は宇宙には一つしかありません。そのように共通するものなのです。

人間はおかしな生き物です。自分という我を持っていて、その自我が原因となって迷う者です。我を持っているということは、自らをコントロールできるということです。他の生き物は、自らというものをコントロールすることができません。この世界に存在するために与えられた役割のまま生きていくだけです。そこから外れると、他の生き物は全て死ぬことになります。もしくは、環境が徐々に変化する場合は、環境適応という形で変化しているだけであり、それが自分の意志かどうかは微妙なところです。
しかし、人間だけはそれを自由自在にできるのです。そして、自らを変えても存在できるように生を与えられているのです。それはある意味高い能力ですが、その能力が自らを苦しめることにもなります。
ここにいる人たちだけではなく、人生に行き詰っている多くの人たちのほとんどは、被害者だと思っています。それでは、加害者はどこにいるのかというと、環境や時代、もしくは何か特定のものなどたくさん存在しています。その中でも、一番の加害者は自分自身なのです。大学まで進んで勉強し、社会に出ても、自分というものから抜けられないということです。
では、どうしたらよいのでしょうか。自分というものから抜けられずに、そこから迷いの人生が始まる人はたくさんいるのです。

みなさんは1ヶ月間学び、それだけの知識を得ました。本当は、これは知識を得るためのものではありません。
1ヶ月間学んだ結果、生きるということはどういうことなのか、この世界の構造はどうなっているのか、自分とは何なのかを学んだときに、自分の外にあるものを自分の中に取り入れていくこと、そして天の智慧をもらい、自らの内に元々ある潜在的な智慧を湧かせることになるのです。そうすると、今までの自我の人生にプラスαを得て、生きていくことになります。
ところが、その学びが単なる知識に終わっていると、それは智慧を湧かせるためには使い物にならないのです。この世界が成り立っている仕組みや自らの内から湧き出る日頃意識していない潜在的な智慧を使うと、その人に柱が立つのです。柱が立っていないと、元の環境に戻ると元の顔に戻っていきます。柱というのは自分らしいということですよ。そのためには、わたしは何者か、わたしはどういう性質をしているのか、をまずは知ることが大切なのです。

(いぶちゃんがi-phoneを操作しているのを見て)

ねぇ、そこの人、何をしていますか、話を聞いていますか。

いぶちゃん:
はい、聞いています。

いさどん:
そういう姿勢は聞いているとは言いません。確かにそれはあなた流の聞いているということですが、そうした姿勢がこれまでのあなたを創ってきたのですよ。それで今までを振り返ってみてどうでしたか。

150314-133745いぶちゃん:
学んでいないです。

いさどん:
学ぶ、学ばないということを聞いているのではなく、今までの人生を振り返ってみて、あなた流に生きてきた結果どうでしたか。

いぶちゃん:
うまく生活できませんでした。

いさどん:
でもそれがあなたですよ。うまくできなかったことと自分を切り離していないですか。これからもそれを続けていくと同じような人生が待っていますよ。
それは、嫌なことも全て自分が歩んできた道だということです。自分の歩んできた道だからこそ、変えようと思えばどのようにでもなるのです。自分とはこういうものだ、今まではこうやって生きてきたからこれからはこういうふうにしていくぞ、と柱を立てられるのです。自分を理解していないと、歩んできた自己責任の道を環境や人のせいにしていくのです。

みなさんは人間であり生命であり、そして生命は時代と共に生きるのです。そして時代というのも生命なのです。蛙でも1年ずつで死にますが、昨年の蛙、今年の蛙、来年の蛙というように、花でも昨年の花、今年の花、来年の花と命をつないでいるのです。
私たち人間も、この時代の人、あの時代の人・・・と古代からずっとつながっているように、世界もそのようにつながっています。つまり、私たちは自分という人生を生きているだけではなく、同時にこの世界をつないで生きているのです。それは、ここで聞いたからそうなのではなく、この世界は実際そうなっているのです。

宇宙を生きるということは、毎年季節を迎え、春にすること、夏にすること、秋にすること、冬にすることに付き合いながら生きることです。朝を迎えることも宇宙を生きることです。しかし、そういった大いなる仕組みの中で生きている私たちは今、何を考えているのでしょうか。あれを食べたいとか、これがないと生きていけないとか、その心があなた自身なのです。
全ての生命に平等に太陽は降り注ぎ、自然は万物に循環し、平等に四季があり、平等に一年が経っていきます。その一年はあなただけの一年ではありません。全てと共に時代を創っているのです。みんなが生きる時代が積み重なって、地球の歴史になり、さらに宇宙の歴史が刻まれているのです。
真学校の中では、そこまでのレベルに人々が目覚めることをイメージしながらいろいろなことを皆さんに提供してきました。人間はそこまでの意識で生きられるのです。それは当たり前のことです。しかし、人は自らの内側だけに興味を持っていたら、ばかばかしいほど些細なことを考えるのです。

のりこちゃん:
焼肉を食べたいとか、日本酒を飲まないとダメとか(みんな、笑)。

いさどん:
そうなのです。時間の使い方であっても、朝起きて、テレビをつけてただボォ――ッと観て、一日が終わっていく人たちもいます。それが積み重なって時代を創っているのです。
「わたしは世の中なんて創っていない」「世界で起きていることはわたしに関係ない」と言っても、事実、そういったことが世の中を創っているのです。そしてたくさん電力を消費して、原発の電力が要るか要らないかという話になっているのです。それは深刻な話なのですが、そういう人たちによって電力会社が支えられているのです。

こうしたものの見方は、視点が変われば当たり前に気付くことであり、そういった視点を持たないと、「焼肉を食べたい」「たばこはやめられない」「お小遣いはいくら無くてはダメ」となるのです。そういったことは全てその人その人の基準です。
これは、そのような枠の中に自らをはめているのか、それとも知らない間にそういった枠ができて、その枠の中に閉じ込められているのか、そのどちらとも考えられます。「それが僕の権利で、それがないと幸せに生きられない」という狭い枠の囚われ方もあるのです。
枠というのは小さなものから大きなものまで様々にあります。時代の流れまで考えたり、宇宙の彼方まで想いを馳せるといった大きな枠もあるのです。そのどれもが真実です。
ですから、自らのスケールはいかようにも持つことができるのです。その結果、あなたの前に、あなたの枠のスケールにふさわしい現象や感情が現れてくるのです。例えば、「生きにくいな」とか、「世の中にろくなやつはいない」とか、「幸せに生きられない」など、一人ひとりの感情をあげたらきりがありません。そのように、一人ひとりは全くオリジナルな人生を歩んでいますが、狭く小さな自分の中に閉じこもって生きていながら、そういった自らを観ることをせず、「わたしの人生がうまくいかないのはなぜなのだろう?」と不可思議に思っている人もいるのです。

みなさんは僕が伝えたいことがわかりますか?そこに気付けた人は、人として生きてきたことの意味をやっと理解し始めた人たちだと思うのです。
こんなことは簡単でしょう?ちょっと自らを離れて、自分の言っていることや自分のまわりを観察してみれば、今まで被害者だと思っていたこと、知らない間に加害者になっていたこと、生き辛いと思っていたこの世界を創っていること、時代をつないでいること、一日を刻むこと、一年を刻むこと、死を迎えること、そして宇宙を生きていることが観えてくるはずです。ちょっと視点を切り替えれば、簡単なことでしょう?

今朝、みなさんの顔を見たら、完全に真学校前に戻っている人と、少し戻っている人と、学びが定着している人がいました。それはどういうことかというと、元の自分に戻ったのです。
元々この人は既に柱が立っているという人、そろそろ柱が立つ頃だという人、柱が立つために来たという人、それから元々柱が無かったからそこへ戻った人、と人それぞれです。それでは、この学びが必要なかったのかというと、そういうことではないのです。
冒頭で話したように、学校教育での学びを得て、そこからがスタートだというのは、その学びを得たからです。昨日まで真学校の学びをして、そして心新たにこれから出発するときに、いよいよその学びを自己コントロールとして使っていくかどうか ―― 、そこからが始まりです。

それは、これから取り組んでいくことなので、十分に身に付いていないですよね。それで、元の自分に戻ってしまうのです。それを私たち人間の世界では「無駄」と言い、自然界では「魔」と言います。無駄や魔は、自分の中にあるのです。自分と向き合わないでいると、いつでも魔は差してくるのです。
やはり、胸を張ってまっすぐ王道を歩みながら、何のためにそれをやっているのか自らの姿勢を常に意識していくことです。そういった、一人ひとりにふさわしく、自分らしい自覚の柱というものがあるのです。
なぜそういう話をするのかという一番の目的は、それがみなさんが自らの歩んだ道を好意的に見ていくコツだからです。「わたしは本当にわたしらしく、存分にわたしを活かし、生きた結果それを誇れる良い人生だった!」と言えるかどうかです。
人はいつか死にます。そのときに、「あぁ、つまらない人生だったなぁ、ぜんぜんダメだった」と悔やむことのない生き方で終わるということです。人生の終末を「良い人生だった!」と胸を張って迎えたときに、初めてこの人生の答えが出るのです。ところが今、目の前にある特定のものに囚われて、「これが無いとわたしは幸せになれない」と条件を付けていたら、あなたはその枠の中に自らを閉じ込めている人ということになるのです。

この世界の構造を理解し、時代を生きるという話が真学校のプログラムの中でありましたね。そういったスケールの大きな人になることもできれば、目の前の小さなことに囚われて生きていくことを選ぶことも、人にはできるのです。そしてそれは、自らで長年積み重ねてきたことですから染み付いています。それをどうするかは、一人ひとりの意志です。それが、あなたらしい生き方につながります。
その答えは、いつか誰でも死にますから、その時に自らと向き合って、一人ひとりどのくらいのものだったかを確認する時が来るのです。それと同時に、みなさんが生きた結果は時代に反映され、時代が紡がれていきます。
ですから、この時代、この世の中は、私たちが創っているのです。それに気付いた人が多ければ多いほど、気付きのように時代は変わっていくのです。自分がその世界を創っているのですから、本当はどこにも文句は言えないのです。
大きく広く捉える人であればあるほど、世の中のためになります。それが大きくどころか、考えることもしていなければ、感情のままに自我に翻弄され、その枠の中に縛られ、閉じこもって生きていくことになります。しかし、自分を閉じ込めその枠の中で不平不満を言っている人にも、その人なりの幸せがあるのです。面白い世界でしょう?これが、私たちが生きている世界の構造なのです。この世界は、どんな意識のレベルの人にでも、存在することを認めてくれるのです。自らを辛く苦しめる人にもですよ。

真学校で学んだことは、そのために世界観を広げましょうということです。自我に囚われ小さいのは、世界が狭いからです。
同じ自我でも世界が広がると、「地球は一つ!生命は単独で存在するのではなく、全てネットワークしているのだ。そして、そのネットワークの中に人類も含まれ、自分もいるのだ」と気付くことが簡単にできます。そして、木も草も虫も、私たちと共通したネットワークの中にいるのですから、こうしたものたちが健全である世界は、私たちにも健全がもたらされることは当たり前の話です。しかし、人はどこかで環境などの学びをしないと気付かないのです。

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空に月が昇り、朝日が昇ることによって、わたしたちは生きているのです。海の潮の満ち干きは月との関係なのです。毎日新たな一日を迎え、朝が来て、昼が来て、夜が来て、眠くなったりと活動するのも、太陽との関係です。
それを全く考えないで生きていくことも可能ですが、日常の繰り返しをどのように観ているか。それが意識レベルであり、それは自由です。目の前にいる子だけを想うのは親の勝手で、感情が湧いてきたら欲しいものを求め、感情が湧いてきたら欲しいように意識表現をする。しかし、そのような生き方は頭を使っていません。それでは動物と一緒です。
ところが、動物はこの世界の法から外れたことをしないので、頭を使わなくても有益な存在であり続けるのです。しかし、人間は枠を広く自由に設定してあるので、本来の目的から外れるようにも出来ているのです。ですから、人間は頭を使わないと外れてしまうことにもなるのです。
人間は何のために頭を使うのかというと、自己コントロールするために頭を使うのです。動物は頭を使わないようになっているから、それぞれの枠の中から外れずに、この世界をきちんと保ってくれる美しいものなのです。
人間は頭を使うようにできています。だから、逆なのです。人間は頭を使って、正しく生きるようになっているのです。動物は頭を使わないで、正しく生きられるようになっているのです。

そうした自己コントロールを身につけて、これからも自己コントロールし続けていき、最後に「良い人生だったな」と胸を張れるのが人生の勝利者なのです。それは、外との戦いではないのです。魔が差すのは自らの内側なのです。自らをよく観察して、自己コントロールをし、自らの魔に打ち勝ったときに人生の勝利が誰にでも訪れます。

そういった人間の目覚めをそろそろ地球上に広げたいと思っているのですが、それは政治の世界で日本の総理大臣が各国の代表者と集って平和を語ったり、環境が悪くなったからといって表面的な取り組みを一生懸命進めるような大きなスケールのことではありません。
誰もが日常のふとした自らの心と向き合って、「今、何をしているのだろう?」と思うことです。そういった何気ない小さなことが積み重なって、今の政治を生み、国の代表を選び、そして平和を謳いながらそれが成らない世界を創っているということではないですか。
「テレビで報道されている紛争や地球温暖化、原発の話は、わたしには全く関係ない」と日頃思っていることが、この世界を創っていると僕は思います。そういったこと全てが自分のやっていることだと思いませんか。
こうした出来事を順を追って振り返って行くと、「わたしはこの世界を創っている問題の元凶だ!」と気付く人もいるでしょう。頭を使っていなければ、自分には全く関係なこととして、自らの意識の行き届く身内や生活の範囲にしか興味が向かないことになるのです。

今回、広い宇宙の仕組みから身近な自我の傾向までの話をしてきましたが、そういった目線を創ることがどういったことを生み出すのかをもう一度確認し、これからのみなさんの歩みにつなげてほしいと思います。それが目覚める(目を開けて生きる)ことであり、そのことを毎日忘れないでいただきたいです。
朝起きたときに、わたしは何者なのか。今日の一歩を進めるときに、自らの歩みがどこにつながるのか。それは、私たち人間が幸せになるためです。そして確かに、この世界を創っていくのです。
この世界がおろかな世界だったら、私たちの幸せはないでしょう。世界には興味がなく、自分のことだけを考えていることをエゴといい、その元となっているのは自我です。しかし、自我を捨てる必要はありません。それはコントロールすればよいのです。
みなさんは、その構造を学んだのです。今、話を聞いて、「そうだったなぁ!」と思い出している人もいると思います。それを毎日持ち続けていくことが大切なのです。僕は毎日持ち続けています。朝起きると、人間とは何だろうと思います。1ヶ月間、毎日それをみなさんに伝えてきました。しかし、それは僕の考えを伝えているわけではなく、この世界の仕組みの観方を伝えているのです。

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これはいさどんワールドなので、アカデミックではありません。しかし、僕はこれが本当に道理にかなっている自信があります。今の科学、物理、政治、経済、教育などの現場では、表面的な道理からできています。しかし、これはどう考えても道理にかなっていることです。
人はこれまで学問として学びを捉えてきました。それが人間社会に豊かさや優秀さを提供し、この世界を創ってきました。しかし、それは否定することではありません。それをもっと有効に生かすとしたら、やはり道理を理解し、道理を常に保っている人が育たなければならないと思うのです。
それは、毎日の地道なその人の意識、活動にあるのです。朝起きたときに、わたしはどう生きるのか。一日が終わって(木の花ではありがたいことにミーティングがありますが)、そこで今日の自分は一日どうだったか。そこでの振り返りには個人差があり、真剣に振り返る人もいれば、みんなの智慧を借りて振り返る人もいます。そして、全体の中から個人の意識になって、寝る前に、今日一日どうだったかと振り返る。それが、一日の「生まれて死ぬ」ことの繰り返しなのです。

こういった生き方を、僕は「充実」と言います。そういった意識をみんなが持ったら、居酒屋やディズニーランドなどレジャーの場所に行っても、「わたしの人生はどうだったかな」とか、「これから世の中をどうしていったらいいのだろう?」という話題がたくさん出てくるようになると思います。自分がどう生きたかということが、どのように世の中に反映されているのか。人々は自らを通して振り返るようになるでしょう。

僕は日々そのように思うのですが、人間と付き合っていくと、「なぜ人間はこのような生き物なのだろう?」と気持ちが折れてしまいそうになることがあります。それも人間らしくて良いのかもしれませんが、人類はこのまま進んで行くと、そのツケは大きいと思います。
3日前、あの東日本大震災から4年が経ちました。アメリカには原発が100基あるそうです。福島の原発事故が起きる前から原発を無しにしようという動きがありましたが、現代の社会はお金で成り立っています。矛盾で成り立っているのです。
そうすると、その「反対」という矛盾と、矛盾を「推し進めよう」という矛盾の対立の世界なのです。人間社会は21世紀になっても、戦いの世界だからです。その代表の国がアメリカです。そのアメリカは自由主義、資本主義の国であり、その実体は矛盾によって大きく栄える国なのです。それが今、世界中の国が目指すべき目標の国とされていますが、現在の社会の動かす経済は、矛盾があればあるほど大きくなります。人間はストレスが溜まれば溜まるほど無駄な消費をしますし、争いもします。そして競争が起きます。そういった負の概念が経済を大きくしているのです。
ですから、福島の原発事故が起きる前から、「原発反対」と「原発推進」とで戦っていたのです。それが、福島の原発事故が起きたことで、「だからやめたほうが良いのだ」「そうではない。だからこそ、安全なものを作って推進しなければならないのだ」という議論になっています。さらに、それに加えて「安全でも安全でなくても、金になるからやらなければならない」というもう一つのグループもあるのです。原発が壊れたら、またその被害で大変なお金や労力がかかるでしょう。だから、それもビジネスチャンスだからやらないといけない、というようにそれぞれの思惑や事情があって戦っているのです。
そこで、僕はどちらの側に立つのだろうかとテレビを観ながら考えていたのですが、マスコミではこのような区分けはしていません。しかし、僕にはそのように人の立場が分かれて観えるのです。僕には世の中の人はみんな、同じ穴のむじなに観えるのです。「何をあなたたちは争っているの?人間って本当に変な生き物だね」と思うのです。

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21世紀を迎え、銀河の冬至を越えた今の時代を考えると、そろそろそういった人々がこの時代に現れてこなければいけないと思います。そして、僕は自分がそのような人間だと気付いたときに、これを生きることを人生の目的とするのです。時代を生きるとはそういうことなのです。
みなさんにも少しだけ、その大いなる大事を提供してきました。「自分の生きる目的は何だろう?」「世の中ではそれがどのように扱われているのだろう?」とちょっと疑問を持ち、そしてちょっとだけ自分と向き合い、そこに頭を使い、考える。そういったことをみなさんに提供できたとしたら、1ヶ月の学びが確実にみなさんの次の一歩につながると思うのです。
それが、自分らしく、柱を立てて生きることです。1ヶ月間の学びが次の一歩を踏み出すときに元に戻ってしまうならば、あなたは何のためにこの時間とお金を使ったのでしょうか?
ちょっとだけ違う自分に変化して、次の一歩に生かしてもらえたら、私たちもこのプログラムを提供して良かったと思います。
 

第1期「1ヶ月間の真学校」受講生のみんな
最終日、旅立ちの前に記念撮影をする 第1期「1ヶ月間の真学校」受講生のみんな

 
 
 


たくさんの人間の可能性の中のひとつ

いさどん:
自分の歩んでいる道が何であるかを考えていた。
そこには、答えがない。ただ、人間というものの可能性の幅は非常に広い。私の歩んでいる道が何であるかと考えた時に、その中のひとつであることは確かだが、それがイエスなのかノーなのか、何であるかはわからない。

そこで、私の歩んでいる道は何なのですかと問うと、人間の歩むべき道、という答えが出てきた。
しかし、人間の歩むべき道は幅が広い。ではこれもその中のひとつにすぎないのかと考えてみると、それは私のとるべき道である。「私」というのは、天のこと。そして自分自身のこと。それは天のとるべき道であり、私という自分自身のとるべき道である。

自らに囚われて「私の道」を見ると、たくさんの中のひとつにしか過ぎない。しかし、自らに囚われずに、人のあるべき道、と捉えると、私のとるべき道、つまり、天のとるべき道は、私という自我のとるべき道。

それはどういう道なのかと考えると、この世界の仕組みの映像が浮かぶ。だから、それでいいのだ、と思う。ただそこに道があるのみ。
ただし、今の世界の状態から見ると、それは孤独な道でもある。

しかしまた、こうも考える。今、この形で生を紡いでいることは、多様な「私」という存在の幅の中の、一点にしか過ぎない。この期間はこの形である、というだけのこと。そう捉えると、この孤独も、どうということではない。

ともこ:
だけどいさどんは、もっと通じ合いたいと思ってるよね。

いさどん:
誰と?

ともこ:
みんなと。

いさどん:
そうだね・・・確かに。
しかしそれは、こちらが何か不足していることを埋めるために通じ合うことを求めているのではない。通じ合うということは、少なくとも同じ視点に立つということ。そうすると、共通した認識のもとにいられる。
それは、何か共通点がなければ淋しいというような意味ではない。ただ、人が高まっていけば当たり前に観えてくる景色を、観てもらいたい。そしてそれを観たら、そこにふさわしい姿勢になるだろうということを伝えているだけ。
それを客観的に捉えると、今、時代はそのような位置の視点で生きる者たちを求めている。しかし、自分の時間軸から捉えると、それがなかなか成らない。

一人ひとりに、自我がある。自我とは、自己愛。自己愛とは、宇宙の究極の姿。
この世界は全て、自己愛によって紡がれている。究極の自己愛とは、この世界を紡ぐための部品となること。それは、自我を超越した状態。自我を超越した自我の状態。
それを感じると、心が躍動する。心の躍動とは、喜びのこと。そういった世界を、ただ表現したい。

それは究極の喜びだ。そこへ到達することが最終目的であるはずなのに、人間は自我を満たすことにばかり囚われて、囚われに喜びを求めている。それでは究極の自己愛にはつながらない。

そこで、私とは何だろうと考える。それは、たくさんの人間の可能性の中のひとつである。
それは私という天の望みと、私という自我の望みが共通している点のところを歩んでいる。それは、たくさんの可能性の中のひとつ。人間にはたくさんの可能性がある。その中のひとつに過ぎない。

人間は、自らが受け取れる範囲内のものを良しとしたいもの。それが囚われであっても、それを良しとしたいのだ。しかし、そこを超えていかなければ次が観えてこない。

この広い宇宙の中で、人間たちが当たり前と思って生きている今の地球上の姿は、特殊の特殊の特殊の世界だ。人間は、そのことに気付いていない。良くも悪くも、特別の特別の特別を生きている。そこに気付いていないから、こういう形で存在していることの本当の価値がわからない。だから、人間であることを生かせない。
今のところ、それは人間一人ひとりの意志ではなく、天の采配によってしか、成っていない。本来人間は、天と協議しながら道を歩むべき者なのである。

ともこ:
ある意味、人が歩むべき道を歩む時に、本人の意志はないと思ってた。

いさどん:
意志は、天からわざわざ与えられ、地上に降りてきている。そうでなければ、この世界の大本の存在がむなしいから、人間に意志を与えた。
そして、互いに協議しながら築いていく場を創った。そういったところへ登りつめる可能性を、人間に与えた。しかし、人間はそれに気付かず、生かし切れていない。

ともこ:
いさどんや木の花のこれまでの歩みを見ると、こういう世界を創ろうという自分の意志によってやってきたというよりも、天から道を与えられて、それをいただくことを選択してきた、という感じがする。

いさどん:
与えられたことをいただくという意志を選択してきた。それが、自らの意志だということ。ただ、そこが本当に解釈できているかどうか。与えられるままに生きることが、与えられたのではない自らの意志であるということだ。
人間には自我があるから、天と共にその道になり切ることが難しい。そこでは自我が邪魔をする。我々は、そこになり切るという道を歩んでいる。

これからも、この道を歩む。これしかない。時代はそのように進んでいる。他に選択肢のない自覚を、自らの意志で選択している。そこには強い意志があり、そこには自我の意志はない。