人間は何故こんなにバカになってしまったのか ~ 勉強するのは何のため?

先日木の花ファミリーでは、8月15日に放映されたNHKドラマ「太陽の子」を観ました。太平洋戦争末期に、原子爆弾開発のための研究を続ける兄と、兵士として戦場に赴く弟の兄弟の物語です。番組を観終わった後、ジイジは子供たちに向けて、以下のように語りました。


ジイジ:
このドラマの主人公のお兄さんは、京都帝国大学の科学者です。そこでお兄さんたちが一生懸命研究していたものは、何だったでしょうか?

子供たち:
原子爆弾!

ジイジ:
そうだね。あの研究が完成すると、原子爆弾になります。原子爆弾は何をするためのもの?

子供たち:
人を殺すためのもの。

ジイジ:
戦争の兵器だね。戦争の兵器とは、人を殺すためのものです。
もう一つ、日本と一緒に戦争をしていた国がありました。ドイツです。ドイツでも原子爆弾の研究をしていましたが、アメリカの方が先にそれを完成させました。アメリカが先に完成させたから、あの戦争を終わらせるために、日本に原子爆弾を落としたのです。ドイツはその頃にはもう降伏していましたから、原子爆弾を落とす必要がありませんでした。でも日本は、なかなか降伏しませんでした。だから、原子爆弾を落としたアメリカの人たちは、「あの時に原子爆弾を落とさなければ、アメリカ軍が日本本土に上陸することになり、もっと多くの人が死んだだろう。だから早く戦争を終わらせ、死ぬ人を少なくするために原子爆弾を落とした」と言うのです。
日本でも原子爆弾の研究をしていましたね。もしも日本が先に完成させていたら、日本はそれをどうしたと思いますか?

みのり:
アメリカに落とした。

ジイジ:
アメリカに落としただろうね。飛行機の性能の問題もあるから、実際に落とせたかどうかはわかりませんが、アメリカに落とすことを目的としてその爆弾を作っていたことは確かです。そこにあるのは、原子爆弾を相手よりも早く作ったかどうかの違いだけで、どちらも相手の国のたくさんの人がいる場所で、それを爆発させようとしていたということです。
では、何のためにそんなものを作って、人がいる場所で爆発させるのでしょう?原子爆弾を誰もいないところで使っても、意味がないですね。あれはやっぱり、たくさんの人がいる都市で、人が作ったたくさんのものが壊されないと意味がありません。そもそも、戦争をするのは何のためですか?

みのり:
資源の奪い合い。

ひみこ:
幸せを手に入れるためとか。

なお:
領地を広げる。

みこと:
自分たちの強さを見せつけるため!俺たち強いだろう~って。(みんな:笑)

みかこ:
この番組の中では、エネルギーの奪い合いだって言っていたね。

ジイジ:
奪い合って、その資源を手に入れたらどうするの?

あきよし:
楽に生きる。

みのり:
お金を手に入れる。

ジイジ:
資源がたくさんあったらみんなが豊かになって幸せに生きられると思って、そのために戦争をするの?戦争というのは、他の国へ行って、その国の人をやっつけて資源を奪ったり、その人たちを使ったりして、いろいろなものを奪うことだよ。

みかこ:
実際に戦争をしている国だけではなく、戦争を仕掛けてそこに武器を売ってお金を儲けている人たちもいた。

ジイジ:
そういう人は、第二次世界大戦の頃は今からするとまだ少なかったのでしょう。でも明治維新の頃や、そのもっと前の戦国時代にも、外国の人々が日本に武器を売ってお金を得ていました。
第二次世界大戦は、日本が真珠湾を攻撃したからアメリカはその仕返しとして日本に宣戦布告し、最後には原子爆弾を落としてやっつけたということになっています。しかしその前からずっと、経済戦争というものがあったのです。今は戦争の代わりに経済を発展させて貿易をしていますが、これは形を変えた戦争です。
今、香港に住んでいるある人が、香港は中国の支配が進んで自由がなくなるから、早く外国に行きたい、できれば木の花ファミリーで暮らしたい、と言ってきています。もしかすると戦争が起きるかもしれないと、とても不安を感じています。実際に、中国は今東シナ海や、もっと南の南シナ海にまで軍事展開を進めています。もしも戦争になったら、中国があの辺り一帯を支配するでしょう。そういう状況が、今実際に起きているのです。

毎年夏になると、戦争のテレビ番組をたくさんやりますね。それは8月15日が終戦記念日だからです。日本が降伏して、人類史上最も悲惨な戦争が終わった日です。
今年は、戦争が終わって75年が経ちました。番組では皆、「戦争はよくない」ということを言います。原子爆弾で家族がみんな死んでしまったとか、自分も大やけどを負って大変な思いをしたとか、そういう話がたくさん出てきます。今日は、日本の戦後の賠償がまだ十分ではないということを取り上げた番組をやっていました。戦争に行った人たちやその家族には、戦後に国からの補償がありました。原子爆弾に被爆した人たちにも治療費などが支払われました。でも、例えば静岡県で空襲を受けた人たちには補償はありません。第二次世界大戦中には、日本全国のおよそ200か所で空襲があり、たくさんの人たちが亡くなりましたが、兵隊ではない民間の人々には補償がなかったのです。
当時、日本はほとんどの家が木造でしたから、たくさんの人を効率的に殺すために、アメリカは建物を焼き払う焼夷弾という爆弾を使いました。そして実際にたくさんの人が亡くなりました。それでこの時期になると、戦争で被害にあった人たちの話がたくさんテレビに出てきます。そして補償がなくても生きてきたと言います。国は兵隊やその家族には補償をしましたが、民間人への補償をするほどの力はありませんでした。もしもそこまでやったら、ものすごくたくさんの人々に補償しなければならなかったでしょう。同時にそこには、民間の人々は国民として政府と共に戦争を進めた、という考え方がありました。兵隊に行った人たちは国に雇われて戦場に行ったということで、家族も含めて補償が支払われましたが、国民は国と一緒になって戦争を進めたのだ、ということです。また、日本は外国でも戦争をしましたから、戦後は外国にもたくさんの賠償金を払わなければなりませんでした。賠償金とは、戦争に負けた側が、戦争の責任を取ってお金を払うということです。ですから国は、自分の国の民間人にはお金を払いませんでした。
この時期になると、「あの戦争で私たちは不幸になった」「アメリカが原爆を落としたからこうなってしまった」「戦争がなければよかった」という声がたくさん聞こえてきます。それはどういうことかと言うと、「自分たちは被害者だ」という立場に立っているということです。

ほとんどの人が、「戦争は絶対にやってはいけない」と言います。そう言っている人たちやテレビの番組を観ていると、「自分たちは悪くなかった」と言っているようにも観えます。しかし、考えてみましょう。アメリカはなぜ、兵隊ではない日本の民間人がたくさんいるところへ爆弾を落としたのか。爆弾だけではなく、機銃掃射と言って、民間人が乗っている列車などを戦闘機から機関銃で攻撃しました。人々が驚いて列車から降りて逃げようとすると、それを機関銃で一斉に打ち殺すのです。なぜアメリカは、民間人まで殺す必要があったのでしょうか?
それは、アメリカから見れば、当時の日本人は民間人でも、男も女も大人も子供も一億総動員で戦争に臨んでいたからです。学生たちは学校に行かず、鉄砲の玉を作る工場で働く武器の生産者でした。若い女の子たちは、アメリカ兵を殺すために竹槍で人を刺す訓練をしていました。そして本土にアメリカ兵が上陸したら、一億総玉砕と言って全員が死ぬまで戦おうと言っていたのです。
このドラマでは、まだ小学生のような女の子が「早く結婚して子供を産んで、お国のために捧げます」と言っていましたね。当時の日本では、兵隊が必要だから、女の子は1人5人は子供を産んで、大きくなったら兵隊にしてアメリカをやっつけようと言われていました。今の子たちが「今日どこどこでご飯食べる?」というような会話の代わりに、「早く結婚して子供を産んでお国のために立派な兵隊を育てましょう」ということを真面目に話していたのです。
それは敵国からすれば、たとえ若い女の子であろうが子供の男の子であろうが、みんな兵器と同じでしょう?ところが人々は、当時の状況を振り返り、「政治家や教育者たちが子供たちをそんな風にしてしまったんだ」と言って、政治や教育のせいにするのです。ジイジはそれを聞いていて、「違うな」と思いました。つまり、あの時代には、そういった政治家や教育者の話に「そうだ!」と賛同する人々がいたということです。

あの時代に、世界は戦争をしていました。そしてその時代には、それにふさわしい心の人たちが生きていたのです。今は日本は戦争をしていないと言いますが、でも実は、世界中で戦争は起きています。先日、超高性能なミサイルが開発されたことがニュースで報道されていました。広島の原爆よりもはるかに高性能で、1発打ち上げるだけで10発以上に分裂し、しかも飛行機で運ばなくても自分で宇宙空間にまで上がっていって、そこから正確に目的地へ向かって飛んでいくというのです。それに対して、「そんなものを作るのはやめようよ」という声が取り上げられることはありません。それどころか、そのミサイルを迎え撃つためのミサイルをさらに開発しようとしています。それが1発でも落ちたら、大変なことになるというのに。
バカじゃないのか。でもこのドラマの中では、京都帝国大学に通う頭のいいお兄さんが、一生懸命爆弾の開発をしているのです。頭が良くて考える方向を間違うと、そういうことになるのです。
今日はあきよしとなおが来たので、ジイジは二人に「しっかり勉強しなよ」と言いました。勉強は何のためにすると思いますか?

あきよし:
頭が良くなるため。

ジイジ:
頭が良いとはどういうこと?

あきよし:
勉強ができる。

ジイジ:
じゃあ勉強は何のためにするの?

なお:
社会に貢献できる人になるため。

ジイジ:
でも戦争の時代には、あの物理学者のお兄さんは、原子爆弾を作って日本の国に貢献しようと思っていたんだよ。
社会に貢献すると言っても、社会が狂っていたら、その社会に貢献することは間違ったことをすることになります。今の社会はどうですか?みんな勉強していますが、何のために勉強していますか?

みこと:
いい会社に入ってお金持ちになるため。

ジイジ:
じゃあお金持ちになってどうするの?

みこと:
ぜいたくな生活をする!必要以上のものをたくさん買うとか。

ジイジ:
戦争が終わって、日本やアメリカのような資本主義の国の人たちは、それをやってきましたね。

ともこ:
事業を起こしてもっとお金を稼ぐ。

じゅんぞう:
不安のない暮らしをする。

ともこ:
政治家に献金して国を動かすとか。

ジイジ:
けっこう悪だくみだね。(みんな:笑)みんな笑うけど、戦争が終わった後、そういうことをいいことだと思ってやってきたんでしょう?戦争にはもうこりごりだと思って、社会を良くしよう、豊かになろう、たくさん物があって自分の好きなことができて言いたいことを自由に言えて自分の願いが叶う社会を創ろう、と言って、今の世の中ができたんだよ。
ドラマの中では、女の人が「戦争が終わったら教育が大事だ」と言っていましたが、そうやって教育をしてきた結果、今の世の中はどうですか?

みのり:
良くない。

あきよし:
お金がないと生きていけない。

ジイジ:
お金がないと幸せになれない、お金があれば必要のないものまで買って幸せになれる、それが豊かさだと言って、今や海の中はマイクロプラスチックという回収できないゴミでいっぱいです。そして地球温暖化で、記録的な雨が続いたかと思えば、今は記録的な猛暑です。9月になれば今度は台風が押し寄せてくるでしょう。それはみんな、人間のせいです。
去年から今年にかけて、アマゾンでもオーストラリアでもシベリアでも大規模な森林火災がありました。シベリアの火災では永久凍土が溶けて、さらに温暖化が進むと言われています。
そんな中で、もうこんな生き方を続けていてはいけないね、自分さえ良ければいいという考えは捨てなきゃいけない、みんなで仲良くしなければいけないね、だって地球という一つの家に暮らしているのだから、という考えになる人は、なかなかいません。今、世界でも大きな力を持っている国であるアメリカと中国は、とても敵対しています。そして日本もアメリカと同じです。
日本は核爆弾を持っていないでしょう?でも、実際は核の力で国が保たれているんですよ。何故かと言うと、アメリカがたくさんの核爆弾を持っていて、そのアメリカの仲間になることで「日本に何かあったらアメリカの核が攻撃するぞ」とアメリカの核の傘の下で守られているというのです。

みのり:
じゃあ非核三原則は嘘ってこと?

ジイジ:
非核三原則は、日本としては核を持っていないというだけの話で、実際はアメリカとの国際条約の下に、核によって日本は守られている、ということになっています。だから、日本は核兵器禁止条約には署名していません。唯一の被爆国でありながら、核兵器を禁止しようという条約には賛成しないのです。

子供たち:
え?なんで??

ジイジ:
おかしいでしょう。何故なら実際はアメリカの核に守られているから、核がなくなっては困るのです。日本人の中でもいろいろな人がいますから、核は無くすべきだと言う人もいますが、政府としては核に反対しない立場だということです。
それでね、なぜ勉強する必要があるのか。勉強するということはどういうこと?

みのり:
知識を覚える。

ジイジ:
知識をたくさん知るということは、ものを知るということでしょう?たくさんのものを知るということは、考える時にそれだけたくさんの情報があるということです。そしてたくさん考えるから、脳が活性化されます。そうすると、より考えられるようになるのです。
そこで「どうせ私は勉強ができないから、好きなことだけやっていればいいわ」となると、脳はどんどん衰退して、物事を考えない人になります。自分の好きなことだけに頭を回して、後は何も考えなくなるのです。科学者の人たちは頭が良いですね。コンピューターやAIを駆使してお金儲けをする人たちも、すごく頭が良いです。そしてその考えを実現しています。でも今は、それが良い世の中を創ることにつながっていないでしょう?だから不安だらけの世の中になっているのです。みんなお金のことばかり、自分が得することばかり考えている。最終的には自分の国の利益、即ち国益というもののためだけに世の中が動いています。
今日、あきよしとなおにこんな話をしました。自分の家があって、家族と一緒に住んでいるとします。自分の部屋は1階にあって、2階にいるなおが気に入らないから爆撃してやろう、とは思わないでしょう?2階を爆破したら家に穴が開いて、自分の部屋にまで雨漏りするようになります。それは極端な話ですが、一つの地球で暮らしていながらいがみ合っているとは、そういうことです。でも21世紀になって今もまだ、人間たちはそういうことを地球上でしているのです。バカみたいでしょう?

しっかり勉強をするということは、頭が良く働くようになるということです。そうしたら、いろんな情報が入ってきた時に、ただぼーっと聞くのではなく、「それってこういうことじゃない?」「どうしてそうなったのかな?」という思いが浮かんで、いろんなことを考えられるようになります。「本当にそれでいいの?」ということを考えられるようになるのです。
これからは、そういう人たちがたくさん出てこなければなりません。でも今は、お金とモノのことばかりで、物事を考えているようで考えていないのです。幸せといえば、お金があって豊かに生きられることだと思っています。だから地球温暖化が進み、環境が汚染され、他の生き物がどんどん死んでいくのです。でも本当は、他の生き物がみんな健康で生きているからこそ、人間も健康で幸せに生きられるのです。
人間は能力が高いのだから、本来は地球規模で全体のバランスを考え、行動できるものでなければいけなかったのです。けれども、文明の発祥から現代につながる約6500年間の歴史は、そうではありませんでした。これから人間が本物の価値を見出し、本当に良い世の中 ──── 人間だけではなくすべての生命にとって良い地球創りをする時代が、宇宙的には既にやってきています。
そういうことをパッと感じ取れる能力が大切です。ドラマにアインシュタインの話が出てきましたが、彼は人類史上最高の頭脳を持った人と言われています。原子爆弾は、太陽のメカニズムを利用した兵器だと言われていましたね。太陽のメカニズムとは、宇宙の仕組みです。太陽は核融合を続けて光を発し、私たち生命の命のもとになっています。その、私たち生命にとって神様のようなエネルギーを、人間が賢くなって科学的に分析し、爆弾にしてしまったのです。そして今も、その爆弾によって世界の平和が保たれているのです。

おかしいでしょう?平和というのは、相手をやっつけたり物を壊したりしない世界のことです。平和を保つためになぜ爆弾が必要なのか。どうしてこんなことになったのか。これからどうしていったらいいのか。人間は今、考える必要があります。
人間以外にもたくさんの生命がいますが、では動物や植物が考えているだろうかというと、考えて生きてはいません。何で生きていると思いますか?

みのり:
本能。

ジイジ:
そうだね。本能で、とても真剣に生きています。本能とは、命として生まれた時に一番初めに必ず持っている能力です。「自分だけいい思いをしたい」というような余計な思考はそこにはありません。本能とは、余分なもののない美しい能力です。それに対して人間は、どうやってお金を稼ごうかというような余分なことばかり考えています。そうやって余分なことばかりに思考が回っていると、人のことを考えなくなるのです。
地球は、本能のままに生命が生き、それが循環する美しい世界のはずでした。しかし人間がそれを破ってしまったがために、美しくない星になってしまいました。だから今、毎日が異常気象になっています。コロナウィルスも蔓延し、人々は将来が不安で仕方がありません。
だから、考える人になることが大切です。その考える時に、方向性を間違ってはいけません。では、何を基準にするべきか。それは、なぜ地球があるのか。そしてそこに生命があることによってこの世界に美しい循環がもたらされているとしたら、宇宙の中でも特殊な存在である私たち生命は、その大本の原理に基づいて生きるべきなのです。

この「太陽の子」というドラマでは、今から75年前に戦争があった時に、人々は自分の国のことだけを考えていました。自分の親や奥さんや子供がいたら、その人達を守るために、僕はアメリカの兵士をやっつけますと言っていたのです。兵隊さんだけではなく、普通の女学生や子供たちでもそう考えていました。そしてみんなで協力して国が一丸となり、兵器を作って戦争をしていたのです。
そうすると、被害者はどこにもいませんね。自分は被害者で酷い目にあったから補償をしてほしいと今も訴える人々がいますが、あの時代を生きていた人たちは、みんなでその状態をつくっていたのです。
今、日本で戦争をしている人はいません。だから平和な世の中になったと思っているかもしれませんが、実際には出世競争だったり経済戦争だったり、それどころか海外の戦争に加担しています。戦争は、強い国が自分の国の利益を上げようとして、その思惑の下に対立が生まれることですから、日本人も実は戦争をしています。ただ自分たちが直接やっていないというだけのことです。そういうことも含めて考えられる人にならないと、本当に世の中のためにはなりません。

ジイジは最近、ちょっと怒っています。人間はどうしてこんなにバカになってしまったのでしょう。
ちょっと考えればわかることでしょう?だって大人は子供たちに、「みんなは一人のために、一人はみんなのために」と教えて、みんなで仲良くしなさいと言うのです。それなのに、スポーツでは相手を負かして自分だけが賞金を得ようとして、スポーツの世界ですらお金のことばかりです。どこか狂っているでしょう?
その狂った世界を元に戻したい。そう思って、ジイジは毎日生活をしています。そして今ここにいるみんなは、そういうことを大事だと思う人たちだろうと思います。大切なのは、みんなが本当にその気になることです。特に子供たちは、これから未来を生きなければなりませんが、このまま放っておくととても住みにくくて大変困った国になるどころか、地球全体がそうなります。だからそれを、今から改めていかなければなりません。

何よりも、いずれ誰もが、必ず死を迎えます。その時に、自分は良いことをしていると思っていたら実は世の中を悪くしていた、という人は、魂として良くない状態で旅立つことになるのです。
いつか死を迎えた時に、ああ、自分はいい人生を生きた、本当の意味で世の中に貢献をして、悔いは何もない ──── そう思って旅立てる人に、みんなにはなってもらいたい。そう願っています。

 


「修行」とは、本来必要のないもの

健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。

しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。

「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。

 

 

 


地球の新たな再生を宣言します ~ 2020年7月26日マヤ新年の日に

7月26日はマヤの新年です。木の花ファミリーでは、2014年7月26日にメキシコの太陽マヤ族最高司祭・尊母ナー・キン氏らと共に地球の新たな時代の幕開けを祝うセレモニーを行って以来、太陽マヤ族の人々との連携のもと、毎年7月26日にセレモニーを開催しています。

2014年の太陽マヤ族との合同セレモニーより

2020年は、カタカムナ第5首、第6首、アマウツシミチ、そしてカタカムナ第63首を奏上しました。

カタカムナ第63首は、宇宙のヘリに満ち満ちている、世界に現象化をもたらす創造エネルギー(カムミ)を、私達の胸に収めることによって圧縮し、質的転換を起こし、心に乗せて世界に発することで、世界の事象を正常化して元気にする歌です。2014年の太陽マヤ族との合同セレモニーで木の花ファミリーが奏上して以来、毎年太陽マヤ族が世界に向けて発信するセレモニー・ガイドでも、各地で行われるセレモニーをこの歌で締めくくることが推奨されています。

この日、会場であるおひさまハウスひまわりの周辺は、朝からスコールのような雨が降り続いていました。そしてセレモニーの最後に、ジイジは以下の挨拶をしました。

 

地球の新たな再生を宣言します
 
~ 2020年7月26日 マヤ新年の日に ~

今日は、2020年の7月26日です。この時をマヤの新年の儀式で迎えられることは、とても意味深いと感じています。私達が初めてマヤの人々と出会ったのは、2014年です。世界の平和を祈るということで、マヤの皆さんがこの富士山麓を訪れ、私達と共にセレモニーを行いました。

私たちが住んでいる地球は、宇宙の中にあります。その、宇宙の中にあるということを認識して生きている人々が、今の地球上にどれほどいるでしょうか。ほとんどの人は自らの自我に囚われ、カルマのままに生きているのが現状でしょう。その証として、人間の地球上での活動は、地球の生態系、即ち宇宙の大調和を乱し、今現在、今日この日も、日本中で大量の雨が降っています。今年は観測史上まれに見る長雨となっていることは、人間の行いの結果を示しています。さらに、新型コロナウィルスによる感染症が世界中に蔓延しています。私達人間は、自分たちの幸せや、より良い社会を築くことを願って活動をしているはずですが、その結果として、自然から、つまり天から、このような現状をもらっているという事実を認識しなければなりません。

2012年12月21日に、太陽の1螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。私達が毎年地球上で出会う冬至も、1年で最も太陽の光が少ない時です。それは、新しい季節を迎えるためのけじめの時でもあります。
それに対し、銀河の冬至は、天の川銀河の中心であるセントラルサンから注ぐ霊的な光が、最も少ない時です。それが25800年ぶりに訪れました。そして、その反対側にあたる12900年前の銀河の夏至から霊的な光がどんどん少なくなっていき、今、霊的な闇のピークを迎えたのです。
私達がこの闇のピークへと加速度的に向かうきっかけとなったのが、銀河の夏至から銀河の冬至へと向かうちょうど中間地点にあたる、およそ6450年前の文明の発祥です。そこから近代文明へと向かうに従い、世界はどんどん闇を増していきました。

私達の文明というものは、世の中を発展させ、豊かで幸せな社会を創るものと思われてきました。その豊かで幸せになるための発展が、実は闇の時代を形成してきたのです。25800年ぶりの闇のピークを迎えた今、私達は自分たちが行ってきたことの実体を知る時に来ています。つまり、これまで自分たちが正しいと思いやってきたことが、実は闇の時代の中にあったのであり、銀河の冬至を越えた今、その闇を越えて光へと向かうターニングポイントを迎えたことを、私達人類は認識しなければなりません。これまで正しいとされてきたことを間違いとし、これから本当に光のピークへと向かうための光の意識を、私達は持たなければならないのです。
2012年12月21日に闇のピークを迎えてから、7年が経ちました。7は「質的転換」の数字です。そして今、8年目の2020年を迎え、時代は確実に質的転換しています。闇の奥を観て、真実に目覚め、私達が行うことがこの世界に光をもたらし、正しい循環の正常な地球へと戻していく。それが、私たち人間の中でもそのターニングポイントを認識する者達に託された、最も重要なことであると理解する時が今、来ているのです。

このマヤの儀式は、私たち人間一人ひとりに内在する尊い宇宙の精神を目覚めさせるものです。その光はどこから来るのかというと、銀河の中心であるセントラルサンから、私たちに常に降り注いでいます。そしてその光の種は、生命である私達の体の中に、既に根付いています。それを目覚めさせるのです。一人ひとりの目覚めによって、その種が芽吹くのです。
これまでのように、誰か特定の人がリードしていく時代は、終わりを迎えました。私達一人ひとりが自らの中に光の柱を立て、銀河の中心であるセントラルサンと呼応し、それが光の束となってこの世界を包んでいく。そういった意識に一人ひとりが目覚める時が来たのです。
それは、これまでのように個人の自我に溺れ、欲望によって自らの魂を濁らせ、その延長線上に幸せを求めてきた時代が終わりを迎えるということです。そして高く優れた意識に目覚めていく、そのきっかけに、私たち一人ひとりがなるのです。

私達がこの富士山麓の地に根付いてから、27年目に入りました。質的転換を迎え、様々な自然の変化や更に厳しい天変地異が訪れるであろう時に、マヤの人々と呼応し、地球上で最初に太陽が昇る国の霊地、富士の麓で、このセレモニーをスタートさせることは、とても重要なことです。
そういった自覚を一人ひとりがしっかりと自らの中に持ち、そして一人ひとりは独立しながら、地球生命生態系のように連携し、調和し、本当の美しい世界を創っていく。その始まりが今日、この富士山麓のセレモニーにて、宣言されます。そこに立ち会うということは、それだけの責任が、そういった立場の自覚を持つ私達にはあるということです。
この地球を包むウェーブの始まりのセレモニーにあたり、私達はその自覚を持ち、これから来るであろうたくさんの困難を乗り越えていく ———— それは苦しいことでもあるかもしれませんが、希望でもあるのです。その自覚の下に、地球を宇宙の法にふさわしい星へと切り替えていく生き方をしていきたいと思います。

今日この日の、この場所をもって、地球の新たな再生の道が始まったことを、ここに宣言致します。このマヤの新年を祝うセレモニーを提案して頂いた尊母ナー・キン、そしてマヤの人々に感謝すると共に、私達一人ひとりが宇宙と共にある銀河人であることの自覚を持って、どうぞ皆さん、共に歩んでいきましょう!

 

セレモニー終了後、スコールのような雨がピタリと止んで太陽の光がさしました

 


新型コロナウィルスは、やさしいメッセージ

現在、新型コロナウィルスの拡散により、世界各地でも日本でも異例の措置が取られる事態となっています。この状況を心配する海外の友人たちより木の花ファミリーへメッセージが届き、その中に「この事態をジイジはどのように捉えているのかを聞きたい」という声がありました。これに対し、ジイジは以下のように答えました。


新型コロナウィルスの登場は、劇に例えるなら、物語のクライマックスとなる役者の登場のように感じます。それは、その劇を観ている観客達や、劇を演じている登場人物達が待ち望んでいたものですが、皆それまで劇に浸りすぎていたので、それが待ち望んでいた人物の登場であることを忘れてしまっていたのです。
これは、新たな劇の進行の予言のようなものです。そこで私たちは、なぜそれが登場したのかを理解し、その登場したものに対して敬意を表すると同時に、今までその存在を忘れて敬意を表さずにいたことを振り返る必要があります。忘れていたことに対する振り返りをしなければ、敬意を表することはできないのです。

今回の新型ウィルスは、非常にデリケートな形で登場しました。これは明らかに、人類を滅亡へと追いやるような、過激なメッセージは持っていません。過激ではなく、とてもソフトな形で登場しましたが、目に見えないからこそ、人々は恐怖を感じています。では、その見えないものに対して何を恐怖に感じているかというと、これまで人間は自分たちの力で全ての出来事を克服できると思ってきましたが、それが通用しない事態が発生していることに恐怖を感じているのです。

本来、人類が存在すること、生命が生きることは、私たちの手の内にはありません。そのことを理解するために今回の出来事が起きていることに気付いたら、この出来事は、私たちが生きていることは、この世界を創造する大いなる存在との連携の元にあるのだという、生命としての本来の立ち位置へ、人間をいざなってくれることでしょう。そのように捉えれば、私たち人間は今、このささやかな投げかけを厳粛に受け止めていく姿勢が必要なのです。しかしながら現状は、各国の政府も、個人個人も、そのことに気付いている人はほとんどいません。このまま人間達が気付かなければ、第二弾、第三弾として、世界は単なるウィルスだけではなく、様々な環境の変化を起こし、人類にメッセージを与えることでしょう。

今大切なことは、この現象を私たちのこれまでの営みに対するメッセージとして受け取ること、そして生きることについての視点を根本的に転換する必要があり、そのための予告としてこの現象が起きていると捉えることではないかと考えます。そもそも人間は、この世界を創造した創造主ではなく、創造主によって生み出された創造物なのですから、創造主の側のルールに則り存在するべきであり、もう一度そこへ立ち返る必要があるのです。それは今だけのことではなく、人間は本来常にそのように生きることが当然であり、そのことに気付かなければ、世界は第二弾、第三弾と、人類への困難としてメッセージを繰り返し与え続けることでしょう。

この新型ウィルスの現象は、極めてやさしい形であると思いませんか?それは、人間へ気付きを促している状態です。これは試練ではなく、もっとソフトなものです。もしももっと過激なメッセージであったなら、核戦争が全面的に起きてもおかしくありませんが、そうはなっていないのです。

自然界の動植物は、例えば今オーストラリアで起き続けている森林火災がそうであるように、人間の行いに対するメッセージの犠牲になったとしても、何ら苦情も言わず、潔く消えていきます。しかし人間だけが、自らが問題を引き起こした原因でありながら、その問題に対して苦情を言い、悩み苦しみ、その問題の奥にあるメッセージを受け取ろうとしないのです。客観的に観れば、滑稽とも言えるでしょう。これは人間の自我が膨らんだ結果、客観視点を失ったことに原因があります。このことに対し、国際機関や国家の中枢を担う人々、そして私たち一人ひとりが真剣に考える時代が来なければ、問題の根本的な解決にはならないのです。特定の国に意識を特化するのではなく、これは人類に与えられた、次の時代へ進むための目覚めを促すものであると捉えれば、この出来事をありがたいものとして受け入れることになるでしょう。

宇宙的には奇跡であるこの星に降り立った数多の生命の中で、その代表として最も優れた人間たちに、本来の価値あるものとしての目覚めを取り戻してもらうことを、期待するものです。

 

 


光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり

2020年1月31日から2月4日にかけて、木の花ファミリーでは、1年で最も大切な行事である「富士浅間木の花祭り」が開催されました。祭りは、神々をお招きする神寄せの神事に始まり、世界中から届けられたご清水を融合した釜の周りを人々が舞い踊る祭事、その水を再び大地へとお返しする神事等を経て、1年の汚れを祓い清め、生まれ変わった新たな心で2月4日の立春正月を迎えます。5日間に渡る祭りの締め括りともなる場で、ジイジは以下のように語りました。

*富士浅間木の花祭りの詳細は、木の花ファミリーホームページよりご覧いただけます。


 

光に穢れ混じること
適わぬ世となるべきなり

202024日立春正月 ジイジの挨拶

ジイジ:
立春正月、明けましておめでとうございます。
昨日は節分で大晦日、そして今日は立春正月、即ち農の正月です。私たちは農的共同体として、大地と共に生き、こうした暮らしが成り立っています。生きとし生けるものはすべて大地と共にあります。ですから、私たち生命は、地球の化身です。農の晦日を迎え、そして農の新年を迎えるこのサイクルは、すべての生き物に共通するものです。新たな年を迎えるにあたり、それにふさわしい心構えを持って臨まねばならないと思いました。

私たち木の花ファミリーが2013年から行ってきた、1年の中で最も大切にしている行事、富士浅間木の花祭りは、愛知県の奥三河で700年間受け継がれてきたと云われる国の重要無形民俗文化財、花祭りを富士の地で受け継いだもので、今年で8回目を迎えました。8という数は、飽和安定の数字です。この祭りは、なぜここへ来たのでしょう。
700年以上の年月に渡り奥三河でこの祭りが受け継がれてきた目的は、国を守護するためでした。守護という言葉は守るという意味ですが、それは守るのではなく、正しく導くということであると考えると、この祭りを始めた修験の人々の目的は、700年以上に渡り達成されずにここまで来たということです。およそ800年前に、仏教で云われる末法の世が始まり、曲事(まがごと)がこの世界に横行し始めました。それからほどなくして花祭りは誕生しましたが、世の中は曲事によって創られていくこととなったのです。
今年は、戦国武将の明智光秀を題材にした大河ドラマが始まりましたが、それを観た時に、これまでに感じたことがないようなものを感じました。ドラマでは、一人の武将が戦国の世に現れ、様々な出来事を経て出世していきます。出世するとは、人の上に立つということですが、当時は人の上に立つために、企み、媚びを売り、他者を蹴散らし、殺し、その上にのし上がっていったのです。それが全ての世界でした。今から約500年前の戦国時代は、その象徴的時代だったのです。
末法の世に対し、人々に曲事はならぬということを示したのがこの祭りでしたが、実際にはそういった示しが全く示されないまま、辺境の地において長い間開催され続け、現代に至っています。形は違っても、人間はさらに複雑に企み、媚びを売り、他者を蹴散らし、殺し、表面的には平和に見せかけながら、現代の社会にそのピークを迎えているのです。花祭りでは、榊鬼を山に封印することで、そういった現実社会の人々の中にある曲事を改め、正しい世を創るために警笛を鳴らしてきたのです。しかし世の中では、それが逆さまに受け取られ、曲事により得られる豊かさをご利益とし、豊かな社会を創るものと信じられてきたのです。

花祭りには、榊鬼と翁が問答をする場面があります。その問答は「伊勢天照皇大神、熊野権現、富士浅間」という文言から始まります。そもそも熊野に始まる修験の人々は、伊勢天照皇大神を象徴とする国を守護するために、その東北(艮)の方角にあたる天龍水系を鬼門とし、花祭りを伝承したと云われます。そしてその最終目的として、いずれかの世に日本の象徴である富士の地に花祭りの精神が伝承されることを託し、世の中の曲事を正すことの大事を示していたと考えられます。
そこで、現代に至り、末法の世の終わりを告げる新たな時代の扉が開いた時、もはや曲事で世を治めてはならぬ、ということで、ここに富士浅間木の花祭りが予言の通りに伝承されたと解釈できるのです。私たちがここで祭りを行うのは、生活をするためでもお金を稼ぐためでもありません。大地と共に生き、血縁を超え、皆がこれだけのエネルギーを祭りに注いでいる背後には、私たちの暮らしを含めた生き方に何かしらの大きな意図が働いていると受け取れるのです。
榊鬼は、天龍水系に伝承された花祭りに登場する、祭りの要となる天を象徴する存在です。祭りの中で榊鬼は、天が持っていた地上の支配権(政ごと=まつりごと)を榊と共に人間に明け渡し、艮(うしとら)の方角へと引き下がるのです。

 

榊鬼と翁の問答


やいやい 伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児の舞遊ばし給う木の花の御庭を。事どもしき姿をして舞荒らすは 何たら何者にてさむらう。

榊鬼
吾が身が事にてさむらう。


なかなか、汝が事にてさむらう。

榊鬼
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗。愛宕山の小天狗。山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは吾等がことにてさむらう。


事にてさむらうは何万歳をへたるとや。

榊鬼
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや。


法は九善 神は十善 神の位をもって十二万歳をへたるとや。神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼
まことか。


まことに。

(榊鬼と翁は榊を引き合う。)

榊鬼
この榊と申するは 山の神は三千宮。一本は千本。千本は万本と。千枝百枝までも惜しみ給うこの榊を。だれが許しを得て切り迎えとったとや。


伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊に引き取ったならば 是より艮、木の花の富士の山が立ってまします それを汝の褒美にとらす。

榊鬼
まことか。


まことに。

(両者 榊の枝を引きながら)

榊鬼 翁
ありがたや まことの神行か  扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

(二人で榊を引き合い翁が勝ち、取った榊を窯の湯に投げ入れる。負けた榊鬼は再び艮の富士の山の奥に隠れる。)

榊の枝を引き合う翁と榊鬼

ジイジ:
現代に至り、祭りの最終目的である富士浅間の地にこの祭りが伝承された時、世の中は曲事の横行する極みを迎えていました。山に籠った榊鬼は地上のありさまを憂い、艮の金神に姿を変え、もう一度政ごとを天のもとに返し、人間たちが天と共に正しく生きていくことを求めるのです。今回の祭りの中で、特に印象深いところがあります。それは、艮の金神と翁の問答の中にある、次のくだりです。

「この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。」

地球は宇宙の法に基づいて創られた、聖なる場所です。にもかかわらず、人間にその支配権、つまり政ごと(まつりごと)を託したがために、このような真(まこと)とは全くかけ離れた世になってしまいました。しかし、宇宙の法とは光です。その真の光に穢れが混じるような世であってはならないということを、大地球神である金神様は言っているのです。
今、新型コロナウィルスの発生が世界中で話題になっています。そこで多くの人々が心配しているのは、経済のことです。経済が停滞し、お金が手に入る仕組みが崩壊することが、一番の心配なのです。コロナウィルスについては、今報道されている内容が確かなものであるかどうかもわかりません。人間の手から離れ、これからどのように暴走するかもわからない。一方、アメリカではさらにひどいインフルエンザが蔓延し、現時点で死者が8000人を超えたと言います。これらの現象は、自然の中で当たり前に起きることなのでしょうか。人工の世界が進み過ぎ、人間の行いに鉄槌を下すものではないのかと考ると、いよいよ「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」ということが現象として示される時代が来たのではないか。そのスタートの年の元旦が今日なのではないかと思います。

私たちは、宗教の時代は終わりを迎えたと捉えています。しかしながら、この立春祭を執り行うにあたり、今日は神主であるヒロッチが祝詞を上げ、玉串奉奠として榊の枝を祭壇に捧げました。榊という、天から与えられた地上のマツリゴトの証を、神に捧げたのです。神とは、宗教で言えば全く捉えどころのないものです。しかしその実体は何かと言うと、この世界の仕組みです。その神の仕組みが、世の中が動く物理性の元となっているのです。
ところが現代は、人間の思惑によって世の中が動くようになりました。だからこそ、榊を天にお返しして、天の仕組み、天の意志に沿っていくことを、こういったけじめの日の祭典で、改めて誓うのだと思いました。これまでの宗教のように人間の都合で捉えた天の意思ではなく、この世界の仕組みと共に私たちはありますということを誓う場なのだと思った時に、こういったけじめを日本人は忘れてしまったのだと思いました。中国人も、アメリカ人も忘れてしまった。しかしこれをけじめとしてやらなければ、生きとし生けるものの代表としてふさわしい生き方を、私たちはできないのです。だから、その大事を失った生命の代表である私たち人間は、この世界を汚し続けているのです。

そのようなことを思いながら、命の正月であるこの立春正月の神事の場に臨んでいました。するとあそこに立てかけてある、「真・善・美」と書かれた色紙の文字が目に入ってきました。

「真」とは、まこと ———— 宇宙の法、仕組みです。「善」とは、その結果地上に顕される、愛と調和 ——— この宇宙の中にあって紛れもない、地球生態系という大調和の実体です。そして「美」とは、「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」——— つまり、美しく完璧な世界を創るということです。
色紙の隣りに、黒電話がありますね。あれはアナログです。アナログの時代には、まだ人間の心が人間の手の内にありました。その時代の人間は、自分の心を表現しながらこの世界を生み出してきたのです。しかし、それが行き過ぎて、現代はデジタルの時代となりました。そうなると人間は、自らの心をテクノロジーに渡してしまうのです。つまり、いずれAIに自らの存在の意味や心を、奪われていくのです。

このように節目ごとに天と共にあることを確認する祭典を行い、天の仕組みに従って生きていく命の生き方を心に誓い、それをけじめとして日々を生きていくのが、本来の生命の代表である人間の、けじめある尊い生き方なのです。しかし、そういった大事を忘れ、地上を支配してきたがために、人間たちは今、自らの創り出したものに支配されようとしています。そこで表現される世界では、私たちは宇宙(天)の中に生きていながら、天の存在はまったく無くなるのです。人間たちは今、新型コロナウィルスという新たな自然界からの挑戦に対し、高度な医療技術を駆使し対処しようとしていますが、ウィルスもさらに進化することで、人間の都合の良いようにはならないのです。そういった人間の精神性では、お金やモノの中毒になり、経済の暴走を抑えることもできません。テクノロジーに支配され、AIにコントロールされることも、抑えることができないのです。
そういった人間の間違いをもう一度正すためには、私たち一人ひとりが、自らの心の中に何が必要であるかを、目覚めさせることです。ここではそういった大事な精神を優先し生きていくことを実践していますが、その裏付けとして、花祭りの文化が伝承され、新たな時代に向けて発信されようとしているのです。そういった意識が積み重なることにより、一人ひとりがそこに相応しいものとなり、その立ち位置に立った時、その大いなる目的を果たすと共に、自らを誇れる者として、人生を終えることができるのです。

それは、現代人の陥っている価値観を持っていては、簡単にできるものではありません。現代の多くの人々は、長い間この世界を制してきた蛇の思考(曲事)に支配されています。金神様の問答の中に、「今の世は、我よし、力よしの獣の世、蛇のあやま知(あやまち)支配する、穢れ逆巻く魔釣り(まつり)の世」とあります。現代人の思考は蛇に支配され、社会にあやま知が逆巻いているのです。その中で、目が開くということは、蛇に囚われている人々からは理解されません。理解されない時代であるからこそ、私たちはその間違いを知るものとして、あやま知が逆巻いている世の中に、正しい生き方を示していくことが大切なのです。それが私たちの生き方であり、ここで富士浅間木の花祭りを行うことの意味なのです。そしてこうして立春正月を迎え、けじめとして榊を天へお返しし、天と共にあることを誓うのです。

ここに「天津祝詞(あまつのりと)」というものがあります。

天津祝詞

祝詞の最後に、この祝詞の意味の解説があります。大宇宙には仕組みがあり、その仕組みを忘れているとこの世界に罪穢れが蔓延するから、大宇宙の大神様の存在に目覚め、共に生きることが大切である、ということが、この祝詞では謳われています。私たち人間はその真に目覚め、八百万の神々も含めた天の存在と共にこの世界を正しく運営していくことを誓います、というのがこの祝詞の意味です。
しかし宗教は、祝詞を奏上しながら、日常の生活でそれを生きることを忘れてきました。この祝詞の中に「大天主大神(おおもとすめおおみかみ) 守りたまへ幸はえたまへ」とあります。守るとは、何を守ってもらうのでしょう。幸とはどこへもたらすのでしょう。そしてその後に「平伏のままご祈念ください」とありますが、これは何を祈念するのでしょう。コロナウィルスが広がりませんように、私の病気が治りますように、お金に恵まれますように、というようなことを願うようでは、曲事の世界をさらに創っていくことになります。

この祝詞の解説では、伊邪那岐尊があらわれて宇宙造化のためにたえずみそぎはらい「浄化」の活動をされている、とあります。そして「どうぞすべての曲事、罪穢れを祓い清めて頂きますように」とあるのですが、この時に、どうぞ祓い清めてくださいと天に任せきりになるようなことではいけないのです。だからご利益が目的の宗教になってしまうのです。そうではなく、その仕組みを受け、私たち自身が罪穢れを自ら取り払い、そのような天の示される世界を創りますので、共に参りましょうと天に対しその意志を示すことです。それがここで求められる私たち地上を生きるものに相応しい姿勢だと思うのです。5日間にわたる木の花祭りの締めくくりの場である立春祭にあたり、私たちはそれにふさわしい日常を生き、ふさわしい仕組みを築いていくことが大切なのです。それが今の世の軌道修正の先にある生き方なのだと思います。

農の正月を迎え、さて、今年は畑で何をつくるのか。田んぼはどのような方針で進めるのか。そこで収穫したものをどのように世の中に提供していくのか。その一つひとつに、魂が入っていなければなりません。この暮らしを見に来る人々に、何を見せ、何を伝えるのか。
この場には、赤ちゃんが二人います。既に次の時代の伝承者が生まれてきています。これまでは、この暮らしの意味を私たちも十分には理解できていなかったかもしれません。わからないけれど大事だと信じる心で生きてきました。しかしこれからは、わからないのではなく、こういった生き方が何を意味するのかを理解し、それに相応しい心となり、そこに魂を入れて生きていくのです。それが、縁あるものが集い、それぞれがそこでの自らの役割を果たし、旅立っていく人生の奥にある、目的なのです。

その時に、誰かの利益(りやく)のおかげで良い人生だったと言うのではなく、自らの行いによって良い人生だったと言えること。そこを勝ち取り、人生を終えていくことが大事なのです。なぜなら、あなたの人生は、あなたのオリジナルな歩みによって勝ち取ったものとなるからです。

皆若いと思っていたら、年月と共に高齢化してきました。そして代わりに次の世代が生まれてきました。その次の世代が「そうだね」と言って受け継いでいけるような、価値ある生き方を、私たちはしなければなりません。
その時に必要なのは「光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」。私たちの生き方に、曲事がない世界を創らなければなりません。ですからこれからは、穢れが混じっていないかどうか、より吟味していかなければならないと思っています。
昨日は節分でしたが、それは曲事の時代を象徴するかのようなものです。「鬼は外、福は内」と言って豆をまくのですから。その福とは何なのか。そのような福を欲望の延長に求め続けた結果、今のような人間社会に至ったのです。そしてその行いを戒める大切な鬼を封印することで、蛇のあやま知が蔓延したのです。

こうした思いは、今日、この場で、私個人に湧いてきたということではなく、ここに集う皆の心を代表して湧いてきたのだと思います。ですから皆にこれを伝え、一丸となり ——— 一丸というと体育会系のように聞こえますが、そのように堅苦しいものではなく ——— 皆の心をひとつにし、ひとつの仕組み、法則に則っていきたいものだと思います。「いきたい」と願望のように語るのは、それは一人ひとりの意志が反映されて成ることだからです。誰か一人のリーダーについていって、あなたの価値が上がり、全体の目的が達成されるものではないのです。

今、今日の日の乾杯のために、ここにお神酒が用意されました。

酒は酔うためのものとして、人々は長い間たしなんできました。特に戦国時代などは、日々の成り立ちに命がかかっていましたから、精神は常に尋常ではいられなかったのです。ですから、酒に酔い戦いに行く心を保っていたのです。現代社会においても、日々の活動の中でストレスが溜まり、そのうさを晴らすためのものとして、人々は酒を飲むのです。しかし本来酒は、そういった目的で創られたものではありません。酒は米で作られたものです。米とは、八方に広がった飽和安定の証です。そして天と地が共同で創るものの代表、つまり、恵みの代表です。
その米を発酵させるためには、微生物の力を使います。今世間を騒がせているウィルスも微生物の一種ですが、有効な微生物の力を使うと、私たちの健康の元となるのです。酒に含まれるアルコールには、コロナウィルスなどを浄化する力があります。浄化し、健康をもたらしてくれるのです。何のために酒を「お神酒」として神事の時にお供えし、共に酌み交わすのかと考えると、そのような意味があるのだと思いました。

マツリとは、「真釣り」です。日頃の罪穢れや曲事をすべて空っぽにし、自らが器だけになると、その真ん中の魂は、仕組みに基づいて天が入れてくれるのです。そういった物事の解釈からすると、これまでは、天に捧げるものである酒すらも、自らが酔うためのものになっていました。酒は、酔うためのものではありません。自らの罪穢れを祓い清め、浄化するためのものです。それを自らの意志によって、日々の生活の中のけじめの時に、天に向かって表明するためのものと言えるのです。

今、新たな気持ちでこの新年を迎えています。今年一年、真の一年を送りましょう。
それでは、乾杯!

 


その日の夜の大人ミーティングのこと。メンバーのみきちゃんが、立春祭での挨拶の時にジイジが涙を流しているのを見て、その涙の奥にいったいどんな思いがあったのかを聞きたいと思った、と言い、それに対してジイジは以下のように語り始めました。


ジイジ:
今日の涙の理由を皆は知らないな、と思っていたら、今みきちゃんからその話が出たので、話します。

僕は話をする時にいつも、頭の中に絵が浮かんでいます。ですから、自分が話している音源を後から聞くと、その時に浮かんでいた映像がリアルに思い出されるのです。そこで僕は自分が話すのを聞きながら、この次に自分は何を言うだろうかと想像します。言葉を聞いて次の言葉を想像すると外れることがありますが、頭の中の絵をもとに次の言葉を想像すると、合っているのです。つまり、そこには何かしらの物語を綴るイメージがあるのです。
今日の話の時にも、僕の中にはあるイメージが浮かんでいました。それは、この道を生き切って晴れ晴れとした気持ちでいつか自分が臨終の床についた時に、深い縁を頂いて共に歩んできた皆へ「よくぞ共に歩んでくれた、ありがとう、私は逝くよ」と別れを告げているイメージ・・・・・・・ではありません(笑)。そもそも、そのような自分のための悟りの段階は、地球に降り立ちヒマラヤの苦行者として生きていた遠い昔に、とうに卒業しているのです。

なぜ涙が出てきたのか。あの時僕の中にあった映像は、目の前にいる一人ひとり皆がその境地に至り、人として生まれてきた目的を達成し、晴れやかに旅立っていく姿でした。それは同時に、今の世の人々 ——— 蛇のあやま知に支配され、溺れている人々が、目覚めることにつながっていく。この道は、そこにつながるために歩むものでなければなりません。
すべての人の道がそこにつながるべきものであるならば、その手掛かりとして、まずはここの人々が、一人ひとりの人生を通し、そういった境地で旅立てる結果を自らにもたらすこと。そのような境地に皆が至り、喜びと共に旅立っていく映像が観えた時、まるで映画を観るように感動したのです。自分自身のことよりも、縁ある魂たちがそのような境地で旅立ってくれることを思うと、喜びが一層増すのです。

 

金神様と翁の問答


伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神
この方は、艮の金神と申す。時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界。汝らの宇宙、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ逆巻く魔釣りの世。


艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神
この方は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙の天意転換、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出ると申されるか。

金神
いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹に真を据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。


引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神
一度は渡したその榊。天の元に供えられい。

(翁が榊の枝を金神様の腰に差し、根付きの榊を金神様に渡す。金神様、へんべいを踏む。)

金神
皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。

(金神様がカタカムナの舞を舞う)

金神
真の神が現れる。神人共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真の真釣り始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

 

艮の金神に榊が返され、いよいよ新たな時代の幕が開きます