正直・素直・信じる

木の花ファミリーには「正直・素直・信じる」という言葉があり、メンバーは日々の暮らしの中でこの3つを実践することを大切にしています。
この「正直・素直・信じる」とはどういうことなのか、自然療法プログラム卒業生のよしてるくんがいさどんに質問をしました。その時の回答をご紹介します。

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「正直・素直・信じる」の「正直」は、まず自分のありのままを表現することです。正直は一つしかありません。ですから、正直を言うのはいつも簡単なことです。正直が複雑にある時には「複雑にあります」と言えばいいだけですし、正直がいくつかある場合には「いくつかあって、これとこれとこれです」と言えばいいので、結局正直は一つだけなのです。
ところが、ウソをつくとその中身は沢山あるのです。まず一つウソをつくと、それがバレそうになったら次のウソをつき、また次のウソをつく・・・とずっとウソをついて生涯ウソをついていくことになります。その場合は頭をすごく使うことになるので大変です。ウソつきほど頭を沢山使っていますし、詐欺師はある意味大変能力が高い人たちです。その能力をまっとうなことに使えば、よっぽど世の中の為にも自分の為にも良いでしょう。それにひきかえ正直はただありのままを言えばいいのですから、全く頭を使わなくてもいいのです。

そこで、正直を言う時に、もう一つセットで必要なものがあります。それは「素直」です。素直な心がないと、正直は出てこないのです。
素直は素に直る。素は元という意味です。その元はどこにあるのかというと、この世界の元です。この世界の元は宇宙原理ということにもなりますが、自分の中にある良心のことでもあります。それは自分を創っている一番元の心です。それに直るということが素直ということで、素直に合ったこと、つまり内にある駆け引きや思惑のない言葉を伝えることは、仏様の心を持っていることになります。人は、このような心を表現する人を憎みませんし、攻撃もしません。仮にその人が間違っていても、代わりにまわりの人がかばってくれるのです。こういう人を徳のある人と呼びます。

ところが、普通の人が正直に素直に生きようと思っても、それはなかなかできません。「この人はこういう人だ」と思っても、「そんなことを言ったら、逆に叱られてしまうのではないか、自分が損をするのではないか」と余分なことを考えてしまうのです。そうやって自分の損得を考え、相手の想いを自分の中で勝手に膨らませて、正直を伝えずウソをつくのです。
そうすると、本当に正直になるには勇気がいります。勇気がいるということは、やはり信じていなくてはいけません。その信じる時に、ほとんどの人は条件付きで信じようとするのです。「これをしたら自分が良い思いをする」とか、神社に行って「ご利益をもらえるのなら信じる」と思っているのです。

しかし、信じるということは、わかったらやるとか、約束をしてくれたらやるということではありません。わからないけれどやる、というのが信じることなのです。木の花のメンバーも、一体全体自分たちがどこへ向かっていくのかわからなくても、大事だと思うからこれまで歩んできたというのは、信じる心があるからです。
つまり、信じることは、素に戻る、常に変わらない自分の大元に自分が直ることです。正解がどうなのかや、行く先が良いのか悪いのかはわからなくても、ただ正直に素直に生きていくことが、信じる心のベースにあるのです。信じる心ができると、勇気が湧いてきます。そうすると、とてもたくましく生きていくことができます。それは覚悟ができているということでもあるのです。

そうすると、知意行の元の心である決意ができて、それで人は道が開かれていきます。カタカムナでは「知意行一体」といって、知は知ること、意は決意すること、そして行は行うことです。その三つが一体でないといけないのです。そのためには、最初に知ることが必要になり、その知る内容によって決意するレベルも変わってきます。
そこで、まずは何を知るか。次に、知ったことに対してこれは大切なのだから行じていこうと決意し、行いになるのです。そうすると、人は言行一致の人になります。言行一致の人は言ったことを行うのですから、これを正直な人生というのです。言ったことをやらなかったり、思っていても出さないというのは不正直であり、知意行一体にならないのです。
この知意行全てをマスターした段階に至った人は、ものをグルグルと考えなくても、直観で物事を判断できるようになります。ですから、知意行一体の後に初めて直観が湧いてきて、考えるよりも鋭い気付きが湧き出してくる人になるのです。

同じように、正直・素直・信じるは三位一体なのです。一つずつではダメなのです。正直と素直と信じるがセットになって、初めて意味があるのです。

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*このお話は、現在開講中の木の花塾「1ヶ月間の真学校」受講生たちにもシェアされました。
まだ始まって1周間だというのに連日連夜ドラマが起こり、受講生たちが変化し続けるとってもディープな「1ヶ月間の真学校」の様子はこちら!
ブログ「1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー」

「1ヶ月間の真学校」受講生のみんな
「1ヶ月間の真学校」受講生のみんな

「みくさのみたから」との出会いから

先日、楽しく健康に人生を生きる術と言われる「みくさのみたから」を学んでいる方が木の花ファミリーを訪れました。その日はちょうど木の花ファミリーのどんど焼きの日と重なり、みんなが集まるちょうどよい機会だからということで、その方の指導のもとにみくさのみたからの一部を体験しました。
その日の夜、「木の花でもみくさのみたからを取り入れてはどうか」というその方からの提案に対し、いさどんはこう答えました。

みくさのみたからを体験するメンバーたち
みくさのみたからを体験するメンバーたち

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おそらく、あなたは今、みくさのみたからに関わり始めたばかりで、新鮮に感じているのだと思います。けれども、それはまだ憧れている状態で、その本質をわかっていません。
そういう時、人はその出会ったものに囚われるようになります。しかし、それを手放した時に初めてその本質がわかるのです。

ではそれを手放すのはいつかと言うと、もっと深く関わっていった時です。みくさのみたからがこの世界にもっと広がる時に、社会から抵抗が出てくるかもしれません。または、自分が広めようとした時に、その自分自身の問題点によって抵抗を生じさせるかもしれません。
そこでいろんな波が起きて、それをどうやって乗り越えようかという時に、あなたの人格が出てくるし、みくさのみたからとの本当の相性も観えてきます。今はまだ、そういうことをわかっていない状態です。

あなたは出会ったばかりの新鮮なものを一生懸命伝えようとしていますが、僕たちはそういうことはしないのですよ。それはどういうことかというと、伝わる時には伝わる。その「時」は、時代が運んできてくれるということです。
どんなに自分が伝えようと思っても、それがふさわしい時でなければ伝わりません。それは自分ではなく、天がやるのです。
DSC_0331自分がやりたいと思ってやることは人間の世界のことで、それが時代と合っている時はいいのですが、そうでなければ無理が生じることがあります。
今日、みんなでみくさのみたからをやっている時に、目を閉じ口を開けて歩きまわる大人たちの様子を見て、子どもたちが怖がっていました。それも、今の一つの答えだと思うのです。

今、みくさのみたからはすごい早さで広がっているようです。ということは、浅く広がっているとも言えます。つまり、人格として充分でない人たちが一生懸命になっている。浅く広がったものが深く掘り下げられるときには、負荷がかかります。それは、これから観ていくことです。
僕はみくさのみたからとも出会ってみる必要があるなと思うと同時に、ちょっと距離をおいて見ていくべきだとも感じています。

我々は、何も拒みません。けれども、誰かの「これを広げたい」という心に出会った時には、冷静にそれを見極めます。これまでにも地球暦やカタカムナとの出会いがあり、今ではどちらもしっかりここの暮らしに浸透しています。だからみくさのみたからも浸透するかもしれません。ただ、その「時」が来ていないのに無理にやるのは不自然だということです。

富士山には頂上があります。そこへ行くためには、登山道がいろいろあるでしょう。我々の道は、頂上へ行くために特定の手法にこだわることはしないのです。ヨガなど様々な瞑想や健康法がありますが、健康とは、自らの心の在り方の結果、ついてくるものです。

我々は、不健康もありがたいことだと捉えます。自らの心の歪みが病気を引き起こしたのだと捉えたら、病気は我々に、その歪みを教えてくれているのです。それを何かの手法だけで治すということは、その問題を理解することにはならないのです。

健康になりますよ、という名目で何かをすると、たくさん人が集まります。しかし、それでは本当の意味は伝わりません。
瞑想は日常生活の中でもできるのですよ。運転中でも、草取り中でも。今までの時代は、手法と知識的な学びが多すぎたのです。学びを生活に落としこむということをしてこなかった。何かを一緒に学んでとても仲のいいグループでも、生活は別々ですね。それがいいとか悪いとかいうことではなく、私たちとは登山道が違う、と認識しています。

みくさみたからの、口を開けて「あー」とやることはね、今の人間が自我をなくすということへの入り口としては良いと思います。おもしろい手法だし、きっと肩の凝りも治るでしょう。世の中にそういった手法はたくさんあります。
けれども、木の花ファミリーがやっていることは、特定の手法ではなく、意識で自らの問題点を理解し、目覚めていくことです。
きっと、あなたの学びも、目的地はそこにあるのだろうと思いますよ。
  
  


2015年立春正月のいさどんの挨拶

1月31日、木の花ファミリーでは一年の節目となる盛大な祭り「富士浅間木の花祭り」を開催し、新たな時代の幕開けを表す「艮の金神」という神様が今年初めて登場しました。そして、春の始まりの立春正月である昨日、「立春祭」を行い、その中でいさどんは次のように語りました。

2015年立春祭
2015年立春祭

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立春正月、おめでとうございます。私たちは農にいそしむ者として、西洋暦の1月元旦の正月よりも、今日の立春正月を重要にしていることは、今までも皆と確認し合ってきました。今年、2015年・船出の年の立春正月(2月4日)は満月に当たります。昨年の冬至が朔旦冬至といって新月の冬至であり、今日、満月の立春正月を迎えるということは、宇宙的にも大きな意味があると思っています。

艮の金神 ー 富士浅間木の花祭りより
艮の金神 ー 富士浅間木の花祭りより

今年一年に想いを馳せると、先日(1月31日)の富士浅間木の花祭りでは初めて金神様にご登場いただいて、今日を迎えているのですが、もうすぐ1ヶ月間の真学校(2月15日~3月14日)も始まります。今朝、今年の年間スケジュールを眺めながら、この真学校終了後に出張木の花塾のオファーが来ているのですが、もうすでにスケジュールが一杯になっているようなのです。そのくらい、私たちは一年を通して充実した年を迎えようとしています。

ただ、世の中を見ると、マスコミではニュースのネタを探さなくてもいいくらい、沢山の事件にあふれています。しかも、いつになく異様な事件が立て続けに起こっているのです。世の中には殺した、殺されたというニュースが蔓延し、先日も女子大生が「子どもの頃から人を殺してみたかった」と供述し、高校時代に同級生に毒を盛ったという話もあったぐらいです。そういったことが現象として現れてきているのです。

イスラム国で日本人の人質が殺害された話もありましたが、今、世界中で起きている対立の現場でも沢山の人が死んでいます。その違いは一体何なのでしょうか。昨日、ともちゃんが自分のフェイスブックでそのことについて発信していましたが、第二次世界大戦後、最も沢山人を殺した国はアメリカです。そのアメリカが今、正義をかざしている時代なのです。昨年イスラエルがガザに侵攻して2000人が死んでいるにもかかわらず、フランスでテロが起きたことに対してイスラエルの首相は極悪非道だと非難しているのです。

この世界にはこのような矛盾が沢山あふれています。人のいのちは全て同じく尊いはずなのに、その立場によって正義や悪になるようなおかしな風潮があるのです。時代はすでに21世紀に入っていますが、今、まさしく価値観の世紀末が来ているのです。「艮の金神様がいよいよ現れて、世の建て直しが始まる」と長い間言われてきたことが、まさに現実に起きてくる時代が来ています。

そういった中で、私たちがなぜこのような生活をしているのかというと、それは、真の「生活改革」です。生きることの意味を世に問う、そしてその在り方を知らしめることがこの生き方なのです。

貧困率から観ると、日本の国民の16%は貧困という発表がありました。先進国の中の日本の貧困率は世界的にも高いのです。それはその国その国の貧困基準があるからだと思うのですが、そうすると、ここに集まっている80名近い人たちは皆、貧困の中にいるのです(みんな、笑)。それにもかかわらず、ここに集っている皆は、豊かに希望を持って暮らしています。これが、新たな時代の豊かさだと思います。

私たちは世の中の価値観をひっくり返して示せる立場にいるのです。私たちはそれが豊かさの証だと思い、今年マスコミからは沢山の不幸がニュースとして発信されると思うのですが、そのことに対してここから新たな価値観や豊かさの真の意味を発信していく船出の年だと感じています。

実際に起きてくることは、先のことですからまだ観えません。しかし、その観えないことの奥にある真の意味を予感すると、とてもわくわくします。そういった希望ある年を迎える今日の立春正月にあたって、皆と共にその志を改めて確認し合い、今年一年を過ごしたいと思っています。

皆それぞれ一人一人に歴史があるように、どんなに悲惨な出来事にも歴史があって、そこからは必ず学べるものです。それは一人一人にも同じことが言えますから、自らの歴史としっかり向き合って、学び、新たな年に生かしていってもらいたいと思います。

そのときに、自分だけのための人生を生きることは、動物でも何でも皆そうしているのですから、人間ならそれはなおさら当たり前のことです。出来ればもっと尊い、世のため人のため、この世界のために生きる者になりたいものだと思います。そうでなければ、人間がこれほどの能力を与えられた意味がありません。

それともう一つ、今日も祭司による降神祝詞・昇神祝詞をあげていただいて、天と共に今日の立春を祝い、新たな気持ちで誓い合いました。そういう意味で、私たちも地上に降りた御魂として、現象界の奥にある天の御魂と共に歩める存在なのです。神様と共にと言うと、今までの宗教のような話になりますが、この解釈はそのようなものではないのです。私たちは本来御魂であり、命(ミコト)として天体と日々を生きているのですから、生きること全てが直会(なおらい)なのです。

そのことをしっかりと自覚して、物事の道理が天地を貫いた者としてふさわしい生き方をしていきたいものだと思います。その立場に立っていることを心の中にしっかりと刻み、揺るぎない生き方を今年は貫きたいと思います。世の中がこのような時代であればこそ、一人一人がしっかりとした柱を立てて、そこに帆を張って天の風を受けて進んでいきたいものです。
今年一年、皆さんどうぞよろしくお願い申し上げます。
  

立春正月前日、祭りに使った道具を燃やして天に返す「火の御用」にて
立春正月前日、祭りに使った道具を燃やして天に返す「火の御用」にて

  
  


今 地球上に生きる 人類の皆さんへ

時代、そしてこの宇宙の構造は、あなたが何者であろうと関係なく、常に動き、変化し続けています。あなたがそれを意識していなくても、その世界の中に生きています。そして、あなたがその存在をどれだけ信じられなくても、事実としてあなたは時代と宇宙を構成しているのです。

地球上に存在する私たちは生きているのでしょうか。それとも生かされているのでしょうか。その考察でこの世界に存在する様々な要素を分析してきた結果、人間が自らの意志で生きているという要素に今まで出会ったことがありません。人間を含め、生きとし生けるものは全てこの仕組みの中に生かされているという結論にしか行き当たらないのです。ところが、現代の人々は、そのことを忘れてしまっているようです。この世界が私たちの存在を育み、成り立たせていることに気付いたら、それを自覚したものとして生きていくことが次の時代を創る人々には必要です。

人間の歴史を振り返ってみますと、宗教の始まりともなった神がかりの多くは、人間の心を惹きつけるために病気治しから始まりました。それでも、病気治しで始まったのであれば、それが進化して病気は全て神がかりで治せるようになればよかったのですが、結局それで全てを治すことにはなりませんでした。そこで、物理的近代医療が発展していったのです。大きなスケールで捉えれば、人間の進化と近代医療の発展は一致していますので、それも天の計らい(宇宙の流れ)と言えばそうなのでしょう。しかしそのことで、人間たちの中に天の計らい(人智を超えた法則)という意識はなくなり、近代医療は単なる人間の進化によってもたらされたご利益的なものになってしまい、対処療法一辺倒の医療が横行するようになりました。

時代が進み人間の心が複雑になればなるほど、その心の状態が病の原因になっていることに気付けないのです。つまり、人間の力で病を克服しようと思い、それができたと認識すればするほど、この世界や自然生態系の仕組みを自らの狭い解釈の中に入れてしまい、ホリスティックな世界観を失ったのです。しかし、この世界の実体は仕組みが先にあって、その仕組みの中に自分たちが存在しているのです。

その認識では天の存在も忘れれば、この世界の元にある宇宙法則の存在も忘れてしまっていくのですが、その法則は今現在も変わらず私たちを取り巻き、あり続け、私たちを存在させ続けているのです。私たちが単純に個人の人生を通して何万年というスパンを捉えようとすると、それは限りなく長く思えることでしょう。しかし、太陽が螺旋を描きながら天の川銀河を一周するときに、25800年という数字はその一螺旋にしかすぎないのです。そして、太陽は約8800(8759)回の螺旋運動で銀河を一周しているのです。宇宙で天体はすさまじく高速で動いているのですが、同時に巨大な宇宙では大変ゆっくりな動きでもあるのです。そして、それは大変精密な動きでもあります。しかし精密だからといって、同じことは二度と起きない世界なのです。そういった精妙な世界の中にあなたは存在しているのです。

そこで大切なことは、私たちはこの宇宙の精妙なる法と共に無限なる変化・進化の歩みを刻み続けているのですから、その実体を理解する為に、人間は自らの経験に基づいた解釈を手放すことが必要なのです。それは常に今を生き、生をいただくということです。経験に基づいた解釈は、人間に傲慢をもたらします。宇宙と共に限りなく変化・進化していく中で、私たちは二度と同じところに存在しない変化・進化の螺旋を描いている存在であることに気付けば、人間の解釈にはめられているとらわれのストッパーを外し、人は自由を獲得するのです。

過去は二度と訪れないことがわかれば、それを元にした正しいも間違いも自然と消滅します。そこでは経験というものが一切無意味になるのです。そうすると、そこでは今をいただくだけになります。それが大切なのです。「過去がこうだったから」という人間特有の概念から、人間は過去に捉われて今を生きることになってしまいます。本来、今は常に新鮮な今であり、未来はその延長に来るものです。

正しいも間違いもない世界というのは、今まで人間が持ったことのない概念です。人間は過去の経験を元にして未来に想いを巡らせ、その想いを元にして正しい・間違いの判断基準を持ち、それを世界に描いてきました。ところが、宇宙的に「未来」を捉えると、未来とは私たちが全く未経験のところへ進んでいくことであり、進化とは未知なるものとの出会いなのです。そこでは、これまでの経験の概念を捨てて、訪れる未来を常にいただいている状態が続いていくのです。

確かに、過去は今を積み重ねてきた結果産まれたものですし、その結果未来も訪れるのですが、それは私たちには経験してきただけの情報にすぎないのです。ですから、それで何かが固定され、未来が決定されていくのではなく、明らかに新たなことが起き続け、未知なる未来は訪れてくるのです。そのように、宇宙自体も経験を積み重ねてくるのですから、どのような出来事と出会おうと、その経験を元にして未来を恐れる必要はないのです。

そう捉えると、太陽の一螺旋回転である25800年という長い年月も、宇宙の流れの一瞬のことであり、過去の存在たちも現在のあなたとつながって共に生きているということなのです。つまり、過去に地球上に現れては消えてきた魂たちも、宇宙の法を動かす側として今現在の私たちとつながり共に宇宙法則を生きているのです。そして、これからも共にあり続けるのです。そのことに気付いたら、あなたも共に宇宙の法を動かす存在であることがわかるでしょう。そこでは、無限に続く情報とプロセスの連続にあなたもいるのです。

私たちの今年一年、または今日一日という尺度で捉えると、そのサイクルは限りなく長く遠いものだと感じるかもしれません。そして、銀河の構造スケールを自らの日常と照らし合わせてみれば、それは無限に広大で、無限に高速で、そして無限にゆっくりでもあるのです。そこでは、相反するものが同時に成り立っているのです。そのことが理解できると、私たちは日常の解釈にとらわれず、宇宙スケールの解釈により日々を生きていくことができるのです。そして、私たち人間はそのスケールの間に何回も生死を繰り返すのですが、それは微生物が発酵して増殖していくときに無限の生死が繰り返されていくのと同じことが人間の世界でも起きているだけのことなのです。そこに二極の捉われの世界はありません。

そのように私たちの思考を巨大化させていき、自身を宇宙の中の塵のように微細で精妙な存在として捉えていければ、今現在地上を生きている人間の魂であっても、この宇宙を運行する側に意識は到達できるのです。そして、今地球上で身近に反応して生きることのスケールの小ささがわかってくると、その先の境地は、地球上の人類の解釈を超えた世界(次の時代の境地)に到達するのです。

人類の歴史の中で天の法則が地上に降りてそれが宗教化したのも、地球の歴史からすれば一時のことであり、せいぜい数千年のことです。そして、今の時代を観てみると、東洋的概念と西洋的概念があります。それらは沢山の主義主張に分かれています。これらは全て正邪をもたらす概念です。では、どこに次の概念を求めれば良いのかといえば、それは正邪をもたらすこの世界にはないのです。そういったもの全てが、主義主張の果てに次の世界に移行し生まれ変わり、全てが融合し、それを超えたところに次の時代の答えがあるのです。それをこれから私たちは共に未来に顕していくのです。

今の人類の歴史は、たった数千年のスケールです。その尺度にとらわれて、正しい側に立とうとするところにこの人間世界の過ちの元があるのです。そのような人間たちの脳を自我で麻痺させてきた時代から、人間たちの自我のマインドコントールを解くための波動に至った者たちが発信する時代が今、訪れています。そこでは、人々を正しい方向へ導く必要はないのです。そのように正しいを考えただけで、そこに悪が発生してしまうのです。そこでは、自らを自我のマインドコントロールから解き放つだけでいいのです。それは、ただ心の目を開けるだけのことです。そうすれば、目の前にある真実は自ずと観えてきます。そうすれば次の時代の扉は観えてきます。

今地球上に生きる人類の皆さん、なぜ一つの生命である地球上で人類は他の生命の存在を無視するのでしょうか。なぜ地球上で一つの種である人間が、違いによって戦う必要があるのでしょうか。あなたも私も同じ一つの体の一部です。それは互いを生かし合う美しい無限な生命の調和とつながりの連鎖です。たったそれだけのことに気付くだけです。これまで生命が時と共に変化してきたように、地球の歴史の中では大陸が移動したりと変化はありましたが、陸地同士が主張し合い戦ったことは一度もありません。今の時代に限って、地球上に存在している細胞(人間)が、癌化しているだけなのです。今、それを私たちは気付き、その習性を改めればいいだけです。

現代の国家を代表するオバマ大統領や習近平国家主席、プーチン大統領、安倍首相といった国家元首もしくは、国家元首の役割を担っている人たちとも、今こそこういった宇宙的な意識を共有し、これからの人類、地球、そして宇宙の未来のために共に新たな時代を創っていきたいと願うものであります。
 
 


チベット人女性、カルサンとの対話

いさどん:
オーロヴィル(昨年末のインドの旅の中で訪れたインド最大のコミュニティ)で出会いお世話になった沢山の方々にお礼の気持ちを表すために、オーロヴィル滞在最後の夜に日本食ディナーを開催することになった。
その会場となったチベット展示館へ事前に下見に行ったとき、カルサンというチベット人の女性と出会った。彼女はこのチベット展示館に夫と13歳になる娘と暮らしている。彼女は1歳半のときにインドに来て、孤児を集めた学校で同じように親のいない子供たちと共に育った。それはまさに、子供たちや世話役の先生たちが皆で共に助け合うコミュテニィの暮らしだったそうだ。そして今でも、誰かに何かがあるとすぐにその情報が仲間たちに届き、皆でサポートし合うとても温かい関係にあると話してくれた。
彼女といろいろと語り合えたことは素晴らしい魂の出会いであり、オーロヴィルでの滞在の中でも印象深い出来事となった。

いさどんとカルサン
いさどんとカルサン

(以下はいさどんとカルサンの対談です。)

いさどん:
マトリマンディールやポンディチェリーにあるシュリ・オーロビンドのアシュラムを訪ね、マザー(シュリ・オーロビンドの精神的パートナーであり、オーロヴィル創立者/1973年没)やオーロビンドのスピリットを感じたときに、その精神性は私たちと同じだと確認しました。しかし、今現在オーロヴィルに暮らしている村人全体を見てみると、彼らはそういった精神に憧れてはいても、自分自身の中にそれを保ち、生きていくことはできていないのではないかと思います。ですから、オーロヴィルの元になる精神性と現実の人々の状態には随分ギャップがあると感じました。

カルサン:
本当にそのとおりです。

いさどん:
しかし今日、唯一あなたにその力強い精神性を感じました。僕が今回オーロヴィルを訪れたのは、人々の中にそういった精神性の新たな扉が開くきっかけになればと思ったからです。そして、もう少し広い世界観、宇宙観の元にオーロヴィルの人々が生きていくことを望んでいます。

カルサン:
ありがとうございます!本当にそのとおりです!

先日、オーロヴィルにあるお坊さんが来ました。皆は彼に説法をしてくれるよう依頼しました。しかし、説法自体はそれほど重要ではないのです。それはあちこちで行われていますし、録音もされています。ですから、説法の代わりに、私は子供たちのいる学校を彼が訪ねるための段取りをすることにしました。なぜなら、子供は未来を担う存在だからです。
そこで彼と子供たちがオープンにディスカッションする場が持たれました。そこで、私も含め、大人として感じたことは、私たちはオーロヴィルについて明瞭ではないということです。私は子供たちが質問をするのを聞いて、彼らがとても混乱していることがわかりました。
13歳の子供がそのお坊さんに、「どうしたらリラックスできるでしょうか?」と尋ねたので、とてもびっくりしました。私の人生はとても困難でしたが、その歳でそのようなことを考えたことはありませんでした。それから、「どうしたら対立を防げますか?」と尋ねる子や、「私たちの中にはどのくらいの精神性があるのでしょうか?」と聞く子もいました。私が思うには、そういった精神性、他者への思いやり、神への降伏(神に全てを委ねること)などは、全て自らの内側にあるのです。

いさどん:
インドを訪れて素晴らしい寺院や施設を見てきましたが、「そうしたものは全て人々の心の中に、精神性の証として確立するものですね」とマザーと確認し合いました。

カルサン:
その通りです!どのようにそれを確立したらよいのでしょう?もし、いさどんがオーロヴィルの人たちを癒したり、もっと深いところにいざなってくれるとしたら、どのように助けてくれますか?

いさどん:
今、私にできることは、世界はもっと広く、地球はひとつであると人々に伝えることです。そして、私たちはその地球から分離して存在しているのではないのです。体を見たら爪と皮膚は別の働きをしていますが、等しく私たちを維持してくれている一部です。そして、私たちはもっと大きな生命のポジションを担っています。ですから、自分が自分である前に、まずは地球であり、宇宙であるという意識に気付くことを伝えますね。
私たちは自らの内から世界を観る自我の目線と、世界に自らが生かされているという外側からの目線が同時に存在しないと、バランスの取れた人ではないのです。

カルサン:
素晴らしいお話をありがとうございます!

いさどん:
私にとっても、とても有意義な時間でした。あなたとはそれほどたくさん話さなくても、魂的に近いものを感じるのです。ですから会ってすぐに、私の親戚のおばさんに良く似ていると伝えたのです。そして、それは物理的ではなく魂的なおばさんという意味です。

カルサン:
全くそのとおりだと思います(笑)。

いさどん:
私たちは地球という一つの魂の元に生き、それを構成しており、一つの家(親)の元に家族なのです。

シュリ・オーロビンド

シュリ・オーロビンド

一昨日、シュリ・オーロビンドのアシュラムに行きました。そこでマザーの魂に色々と案内してもらいましたが、そこまではオーロビンドの魂は感じられませんでした。
そして、彼の座った椅子、ベッドのある部屋に行く前のところで、何か意識が降りてきました。それでなぜかはわかりませんでしたが、私は植物の葉や壁の塗装の傷など色々なものを指差していました。私が指をさすと「そこに私はいる」、「そこにも私はいる」、「どこにでも私はいる」という言葉が降りてきました。「私はこの世界全てにいる。私とあなたの区別は無い。」つまり、あの方はそこまでの魂なのです。
その魂は、日本で私が出会い、ずっと共に歩んできた魂でした。そしてこの旅の前半に、ヒマラヤの山々や土地と対話して出会った魂でもあります。ですから、あの方が地球の魂だとしたら、あの方は私たちの親なのです。私たちは皆その子どもであり、私はあの方そのものであることを感じました。

カルサン:
とても美しいですね。

いさどん:
素晴らしい時間でした。

カルサン:
もう一つだけ、政治的な質問をしてもいいでしょうか?

いさどん:
どうぞ(笑)。

カルサン:
私、鳥肌が立っているわ!
私は1歳半のときにチベットからインドに連れてこられ、その後インドで育ちました。2004年、私は父に27年ぶりに4時間半だけ、ネパールとインドの国境で再会しました。その時、私の娘は1歳半で、初めて彼女の祖父に会いました。父は「チベットに戻ったときに、もう一度会おう」と言っていました。
そこで質問なのですが、父に会いたいという気持ちを持って生きることは、どのように思われますか?

いさどん:
この世界の出来事は全て神様の意志で現れています。その中で人には色々と定めがあって、不幸と言われることもあります。私の今までの人生の半分は、不幸な人たちとの付き合いでした。しかし、不幸を与えられたことの意味を知ると、それは喜びになるのです。

今、あなたの話が始まったときに、私には既に回答がありました。それは、あなたが自分の血縁の家族から遠く離れて生きることになったことは、神様の意志で、そのことによってあなたはもっと大きな家族を知ることになった、ということです。
物理的な家族に恵まれたとしても、もっと大きな真の愛に目覚めることはなかなかできませんね。低い意識しか持っていない人は、貧しさや不幸を与えられても苦しいだけで終わってしまいます。しかし、あなたは自分の辛かった境遇を、もっと大きな家族に結び付けようとしました。
ブッダもキリストもシュリ・オーロビンドもマザーもガンジーも、みんな優れた人たちは、自らの家族を超えて全ての人を家族とみなしました。きっとあなたは、生まれる前に、家族と縁遠いビジョンを選んできているはずなのです。それを神様が叶えてくれただけなのです。ですから、神様に感謝ですね。

カルサン:
私にとって神様が何かはわかりません。しかし、とても父に感謝しています。彼の決意によって、私はチベットから出ることになったからです。
自らが親となってみて初めて、小さな子供を手放すことがどんなに難しいことであったかを感じました。父は3人の子供を犠牲にしました。父がチベットから私たちを送り出さなければ、私たちの命はなかったかもしれません。ですから、常に私を導いてくれた神様なり、聖なるものに感謝しています。私の唯一の内なる平和は、前向きであることなのです。

いさどん:
そうですね。今度は、その感謝やあなたがもらってきた学びを他の人に活かすことが、神様に対するお礼になりますね。

カルサン:
毎日そのように努めています。私たちが最初に手がけたことは、チベットの行き場を失った10代の孤児15人をここに招いて、7週間共に過ごしたことでした。私の娘もそのグループに入りました。決意、大きな責任、そして多大な仕事量がありました。彼らから何も期待してはいませんでしたが、彼らの表情や目からこれ以上のものはないという満足感を感じ、それは最高の贈り物であることに気付きました。

いさどん:
そうですね。与えているようで、実はもらっているのです。

カルサン:
だから、その学校に何かあったときには、お返しをするような気持ちでいます。最終的に、私たちは彼らの親としてではなく、友達として今もあります。

いさどん:
木の花の子供たちはみんなそうですよ。子供たちは私たちの未来を生きる人たちで、それは進化した時代を生きるということですから、精神性は彼らの方が優れているのです。

カルサン:
全くそのとおりです。ですから、最初に彼らに会うときに、「私たちは先生でも親でもありません。あなたたちの友達です」と伝えるのです。
今日は、とても素晴らしい時間をありがとうございました。
 

心からの敬意を表す「カター」と呼ばれる布をいさどんへ贈るカルサン
インド最後の夜、心からの敬意を表す「カター」と呼ばれる布をいさどんへ贈るカルサン