人間が本当に進化するために

僕は30歳の時に、お釈迦様に出会いました。
30歳の12月26日に、ふと気が付くと、頭の上に黒い男の人の姿がありました。それは、お釈迦様でした。以来9年間、僕はお釈迦様から心の学びを頂いてきました。

最初の2年間は、泣いて暮らしました。それは自分を否定していく道だったからです。自分の中に、ああしたい、こうしたい、という自我の欲求が湧いてくる。でもお釈迦様が説かれることの方が、自分の中から湧き出す思いよりもはるかに優れている。ならばその優れた方を選ぶしかない。
そうして自分の思いを否定していくうちに、まるで自分が消えて無くなってしまうかのような淋しさに苛まれ、そのように未熟な自分が情けなくて涙を流し、それでもその自らの思いを超える、より優れた方、より道理の通った方を選び、歩み続けました。
そして9年が過ぎたある日、お釈迦様は「私の役割は終わりました」と、僕のもとを去られました。その時僕は、自分はまだ未熟であなた無しでは歩むことができません、行かないでくださいと懇願しましたが、お釈迦様は「あなたは十分に育っています。歩んでみなさい。歩めるから」と言い、天へ昇っていかれました。そう言われたら、自らの思いを否定し、その命に従うのが僕の常の姿勢です。ならば私は歩みます、と心に決め、自分はもう霊的な存在と対話することはないのだろうと思っていると、その直後に、日の本の神様が現れ「これからは我がそなたを守護する」と言われたのです。

*ジイジの霊的な歩みについては、「木の花記~金神様の巻」でご紹介していますので、より詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。

その後、僕を守護する神様は七度替わられました。そして最後に現れたのが、「あってあるもの、なきてなきもの」です。
日の本の神様に出会ってからの1年間、僕は神界というものの多様性を学んできました。そしてある時、故郷の氏神様である滝神社の262段の階段を降り、実家に向かって歩き出したところで、上に何ものかがいることに気付きました。その日は快晴で、空は高く澄み渡っていました。僕はその何ものかに向かい、「どなた様ですか」と尋ねました。神々様には皆名前が付いていたので、僕は新しい神様に出会う度に名前を聞くことが癖になっていたのです。しかしその上にいる何ものかは、何も答えませんでした。そこで僕はもう一度「どなた様ですか?」と尋ねました。するとその存在からは、こう返事が返ってきたのです。
「名などない。」
僕は、困ったなと思いました。名のない存在をどのように認識したらいいのだろう?そう思っていると、その存在からは続けてこう返ってきました。
「我は、あってあるもの、なきてなきもの。」
そう言われても、僕にはさっぱり意味が分かりませんでした。その時僕は40歳か41歳。富士山麓へ移住する前のことです。

その後富士山麓で木の花ファミリーを創立し、人々の心の目覚めを促す活動を続けながら、その暮らしは常に「あってあるもの、なきてなきもの」と共にありました。そして19年が過ぎたある時、縁あってカタカムナに出会いました。そこで「ある世界」と「ない世界」という、この世界の構造を解き明かす概念に出会った時に、初めて「あってあるもの、なきてなきもの」が何であるかの裏付けを得たのです。
この世界は「カタチサキ」、つまり、物理的肉体を持って現象世界を生きる私たちは、まず物理性であるカタチから物事を認識します。それが「あってあるもの」です。そしてその奥に、その物理的現象世界を成り立たせる、根源的な世界が存在します。それが「なきてなきもの」の座する場です。
カタカムナに出会い、僕は初めて、あの時自分のもとに現れた存在は宇宙の実体そのものだったのだということを理解しました。それは、人間のように名を持ち、特定の意志表示をするものではなく、この世界の全て ——— 「ある世界」だけでなく、その奥にある「ない世界」までも含めた、この世界の実体を示されたのです。

出会った時にはさっぱり意味が分からなくても、分からないからと否定するのではなく、そのままを頂いて、歩んでいくと、その歩んでいった先に解答が出ます。そしてこの姿勢は、行き詰った現代の物理学を新しい世界へと導きます。
現代科学は、物理的な現象をもって証明できることだけを真実とする、現象一辺倒の世界です。しかし、現象だけでは解決できないのがこの世界です。私たちは一人ひとりにそれぞれのオーラがあり、響きがあります。そして心があります。そういったことをどう捉えるのか。科学の世界の人々も、アインシュタインがそうであったように気付いてはいるのですが、結局は物理的に立証できることだけを真実としなければ、怪しい世界がいくらでも広がって秩序が取れないのです。
だからこそ、もっと広い世界から、世界の実体を捉える必要があります。対向発生という仕組みから世界を捉えていけば、もっとこの世界の成り立ちが理解できるはずです。しかし、広い世界ではなく、自分の見えるところから探求していくと、自分が見えること、自分が理解できることのみを真実としてしまうのです。そうすると、限界が生まれます。自分の度量によって見える世界は違ってくるのに、見えないものを無しにしてしまったら、その先へ進むことはできないのです。

多くの人は、自らの心のキャパシティを超えるものを認めない傾向があります。そうすると、人間が進化しません。物理化学の世界は、その分野としては進化したかもしれませんが、人間の本当の進化を妨げています。そういったことを、物理化学の世界の人々は、理解しなければなりません。
自らの価値観を取り払うことによって、新たな価値観が入ってきます。排泄せずに、食べ続けることができますか?息を吐かずに、吸い続けることができますか?それと同じことです。
この当たり前の事実が通用しないのが現代の世の中です。それが人間の限界を作っています。人間がその自我の枠を越えた時に、本当の進化が始まるのです。

 


みんなが仲良く暮らしてくれれば、それで良い ~ ジイジからの遺言

今、木の花ファミリーでは、若手を中心とした新しいプロジェクトが立ち上がっています。
それは、現在運営中のカフェ&ショップロータスランドとは別に、新たな店舗を出店することです。高校生から20代のメンバーが中心となり、彼女たちが学校を卒業する2~3年後を出店の目安にしています。
これはとても画期的なプロジェクトで、一つの目標の下、みんなが自分に出来ることや才能を持ち寄り、自らのポジションを見つけ、これからの進路を選択しています。例えば、現在高校3年生の子は、学校に通いながらケーキ屋さんでアルバイトをし、高校卒業後は、様々な料理を学びながら飲食店経営に必要な食品衛生責任者資格や調理師免許を取得できる専門学校へ通うことを選択しています。他にも、お店のホームページ制作や情報発信を担えるようIT系の専門学校に通うメンバーや、ロータスランドで働いて経験を積みながら、ゆくゆくは店の食材を生産する農の現場に携わりたいというメンバーもいます。
それは、今の社会のように、各々が個人的な願望で進路を決めたり、より良い就職先を求めて競争したりするのではなく、強い信頼関係の下、一人ひとりが店長であり経営者であるという自覚をもって全体を意識し、ひとつの事業を行うためにみんなで協力し合い、全体のために必要な自らのポジションを見付けて進んでいくという、社会的な取り組みです。

8人娘の食事会

このプロジェクトの中心メンバーである高校生から20代の8人のメンバー達、通称8人娘は、毎月1回、自分達で料理を作りジイジを交えて食事をし、その後プロジェクトについての話し合いや計画作りを行っています。

そんなある日、木の花ファミリーを訪問した2名のゲストの方が、このプロジェクトに興味を持ちました。彼らはそれぞれにマーケティングコンサルタントとIT関係の仕事をフリーランスで行っており、自分たちに何かできることがあれば協力したいと申し出てくれました。そこで先日、8人娘とそのゲストの方とジイジを交えたキックオフミーティングが行われました。

ミーティングの冒頭で、ジイジは、なぜこのプロジェクトが立ち上がったのかについて話をしました。
「これは単に、事業を発展させることが最優先なのではありません。今、ロータスランドは多くの方から支持を頂き盛況ですが、やはり今の世の中を観ると、新しい流れが必要だと思うのです。木の花ファミリーには、8人娘だけでなく、その下に7人息子(小学校高学年~20歳の男子7人)、5人姫(小学~中学の女子5人)がいます。今、日本の社会では、こういった若い人たちが社会に適応できないとか、どちらかというと希望が持てず、自分の将来の設計を描けない人が多くなっており、それに代わる希望の在り方を模索していくべきだと思っています。そこでこのプロジェクトは、木の花ファミリーの食材やサービスを提供しながら、そこで働く人たちが雇われた従業員ではなく、一人ひとりがそこを運営する立場に立ち、それぞれのポジションを担っているという、言わば新しい事業形態の実験であると考えています。」

ミーティング後、ゲストの方が「ジイジに聞きたいことがある」ということで、話をする時間が持たれました。それは、インターネット上に木の花ファミリーについての良くない情報が流れていることについて、今後自分がこのプロジェクトに関わっていくという事は、そういったことに関しても何らかの形で責任を取る必要があるので、確認をしたいというものでした。
これに対してジイジは、次のように話しました。


今、あなたがここに来て、実際に感じていることが真実です。
ネットの世界は、情報が一度解き放たれたら、それが削除されない限り、ずっとそこに残り続けます。そして、人を貶めるような情報の方が圧倒的に人々の興味のネタになります。そこで、私たちの側にある真実を反論として訴えましたが、その真実は捻じ曲げられた情報を修正するほどの力にはなりませんでした。当時ここには、表面的な興味で訪れる人々がたくさん来ていて、とても多忙で我々の本来の目的とは違う方向性の日常が展開されていたのですが、そのことがきっかけとなり、訪問者やマスコミの取材が減って充実した毎日を送れるようになったので、そういった意味では強がりではなく正解だったという思いもあります。
真実がどこにあるかは、実際にここへ来てみたらわかるでしょう。残念ながら、来てみて感じる前にネットだけで結論を出す人が多いのですが、真実は一つです。ですから、そういった情報を流して結論付けている人たちやネット社会には、いずれ問題が起こるでしょう。今の環境問題やエネルギー問題然り、核爆弾が使用されるかもしれない、そんな見通しが立たない世界において、私たちが提唱している理想社会はもうちょっと先にあります。そういった新たな社会を創造するための芽が出ないといけません。それに対し、8人娘以降の若い人達はとても明快です。
ですからこのプロジェクトは、あなた達に対してお願いしますとか、大いに期待していますというものではありません。それは時代が答えを出すのですから、人間の思惑で行うことではないのです。ただ、そういったことを考えた時に、この動きはとても重要だよ、と言って促しているだけなのです。


その翌朝、ジイジは自らの中に湧いてきたイメージを言葉にしました。


ジイジ:
これは、今の僕の総合的な心境ですが、それは僕の考えというよりも、ここの人たちみんなが歩んでいく方向性を示すものですから、このことをみんなに共有し、みんなの中にその意識を再確認するべきことだと思います。

こういった指針を示すことは、僕の遺言として残すようなことでもあります。それは、僕が亡くなった後に、みんなが仲良く暮らしてくれればそれで良い。内容については、極端なことを言えば何でも良い、ということです。

みんなが仲良く暮らす暮らしが出来上がって、外に発信するようになると、現代人はそういった理想的なことは宗教のような固定されたものに汚染された者達がやっていると観るのですが、それは今までの事例が悪かったからです。つまり、今の我々の世代がベースを作ってそれを子どもたちに渡した時に、我々の世代が作った垢も、次の世代に引き継がれてきたということです。
そうした流れはなるべく払しょくしたいものですが、世の中がそういった体質から脱していない段階で、例えば8人娘が新たな社会的取り組みを展開しても、穿った見方をする人はいくらでもいます。世間は、一度物事に色を付けて見ると、その真実がどうであるかを確認することなしに、これはこういうものだと固定して捉えてきました。この取り組みを、そういった過去からの囚われを払しょくする機会とし、今の真実の見えない人間社会の在り方を根本からひっくり返し、人間の活動がこの星の上で有益なものとなるための第一歩となれば良いと思います。

僕はあくまでも土台を築く者であり、それが社会から支持される段階になるのは次の世代においてだと言われています。ですから、僕が旅立つまでのあと10年弱の間に、そのベースとなる思いをしっかりみんなに伝えていきます。そしてそれを、次の世代の人たちがいよいよ現実に示していくのですから、現時点で世の中の無理解な目があるのは当然です。
一つ確かなのは、2012年12月21日に銀河の冬至を越えた今、その前と後とでは環境が大きく異なっていることです。銀河の冬至以前は闇が増していく時代でしたが、闇のピークである銀河の冬至を越え、光が差してくる時代に入りました。光が差してくるということは、それまで闇に紛れて観えなかった様々な問題が照らし出されて見えてくる、つまり、真実が明らかになる時代に入ったということです。ですから、これから、その新たな取り組みが本当に社会を改革するために必要であるということを理解するための興味を、世の中が持ち始めるでしょう。

そのように大切な動きに対して、いつも影のようにのしかかってくるのが、ネットに氾濫している情報です。それが何なのかというと、今も誰かが頑張って反対運動をしてその情報を発信し続けているわけではありません。それは過去に放たれたものでありながら、世の中にはびこり続ける有害なスモッグのようなものです。そのスモッグによって、世間は大事なものが観えなくなっています。
そのような中で、このプロジェクトは、野心を持って何かを成し遂げようとするものではありません。自らの野心で事を成すのではなく、そういった曇りが自然と取れていく流れが来ることを待っています。つまり、人の目が曇っている状態では、嘘を帯びた情報の方が大いに人々の興味をそそり、魅力的で、支持を得ます。そういった時代にあって、それを取り除いて本物を見せようとすることは、実は無意味な努力なのです。

私たちは、この重要な取り組みを、「新たな事業を起こしてお金儲けするぞ」というような野心でやるわけではありません。ただし、世の中の見本になるためには、経営的にも帳面が合うことは大切ですから、そこはきっちりとやる必要があります。そうして野心のないところで続けながら、次の時代を迎え、自然にその雲が晴れていく時が来るでしょう。そのように考えると、気にすることは何もありません。理解できない者に理解しろと言うことの方が、無意味で馬鹿馬鹿しい努力なのですから。そして世の中の流れを観れば、この分析の方がはるかに流れに沿っている。時が来れば、社会も自然とこの流れに沿っていくようになり、ネットの情報も自然に取れる流れが来るでしょう。その流れが来ないのに、コイコイコイ、と言って来るのは池の鯉だけです。(チーン♪)

今ここで、僕とピピとゆうこという3人の人が語り合っています。この関係には、濁りが全くありません。僕たちは、個々の立ち位置から自己主張をしないでしょう?それは自分のカルマを通して物事を見るのではなく、そのままを観て、そのままを受け取る関係だからです。
こういった人と人との関係は、現代の人々にはなかなか難しい、とても珍しいことです。互いが発するものを誠意ある正直な心で受け取り、誠意ある正直な心で返すということを徹底しなければ、そういった汚れのない関係には至りません。ここまでの信頼関係を築けたということは、とても価値のあることです。人間が本当にそのような関係で地球上に社会を築けたなら、他の生き物からも歓迎される社会を私たちは創ることができるでしょう。

僕は、そういった夢見がちなことをいつも思っています。夢見がち、というのは、あまりにも現実がそこから遠いからです。ここ全体の在り方も未だ十分とは言えませんが、それをみんなで実現したい。そのことを示すためにも、このプロジェクトの立ち上げを提案しました。
僕は、キックオフミーティングに参加した二人のゲストにも山ほど伝えたいことがありますし、伝えようと思ったらいくらでも情報は出てきます。彼らは、ここの世界観についてのプレゼンテーションを是非受けたいと言っていました。本当にこのことの意味が理解できたら、支援するというよりも、自らの活動としてこれに参加すべきです。それは、人生を生きる上で最優先にするべきことなのですから。

ピピ:
今までの時代と違って、8人娘は応援される世代だと思います。彼女たちの人柄を見てもそう思うし、実際にかき氷処木の花庵のスタッフとして働く彼女たちはお客さんからも評判がよく、応援したいという声が多かったです。

ジイジ:
僕が口を出さなくても、良い集まりが出来るといいですね。僕は有名人になることを望んでいません。僕は自分の口から出てくる話を受けて、とても共感し、その通りに生きていく人なのですが、それを他者から評価してほしいとは思っていません。もしも評価が広まっていくと、忙しくなって困るからです。ですから、みんながここに集うきっかけは僕の話だったかもしれませんが、みんながそれを自分のものにしてくれればいいのです。それはとても大事なことで、ジイジがアレンジすることで仲が良い場所ができるようなことでは困ります。ある人がいなくても、誰と誰との組み合わせであっても、仲の良い場所であることが大切なのです。

キックオフミーティングに参加したゲストの人たちに、今の僕の内面を語るとしたら、どれくらいのエネルギーと時間がかかることでしょう。彼ら自身がその重要性に気付き、自ら掘り進んでいってもらわないことには、語り切れません。こちらがいくらその人に分かるように分かるようにと説明したとしても、みんなが自らの自我の枠の中でそれを解釈しているようなレベルの目覚めでは、結局は僕が描いているレベルのことではないということです。
ですから、僕がいないところでそれを達成することができたら、それはみんなの力です。それができたら、本物です。今後このプロジェクトが進んでいく中で、僕はだんだん手を引いていくのが良いと思っています。特に、8人娘以下の人たちに自覚ができてくれば、事は自然に動いていくでしょう。前の世代の人たちも、新しい世代に刺激を受けながら、自覚を持って共に実行していけば良いと思います。
自分から率先して、全体に溶けていくような心になる。そうすると、個性がみんなのために活かされる。個性をみんなのために活かしていくことが、どんなに自分にとって良い事なのかに、気付けば良いのです。
そういう空気の下に全体が一つの生き物のようになって動き出したら、僕はもう、何も注文はありません。何をやったっていい。人間が地球上で生きていくことの結果が、他の生命に害をもたらさないものとなるように、現代人の生き方が正されたなら、あとはみんなに託すだけで何も言うことはないのです。世界には巨大な渦が渦巻いて、こんなにも分かり合えない世界を創ってしまいました。それではだめでしょう、と言いたいだけなのです。

僕が願っていることは、ただみんなが仲良く暮らせば良い、ということです。
それは、ただここの人たちが仲良く暮らせば良いということではなく、もっと大きく、地球にみんなの仲良い暮らしがあれば良い、ということです。
それがいつか成っていくことを夢見て、自分の人生を終わりにしようと思っています。それだけです。僕はそのために自らの存在を使い、みんなが喜んでいる調和の世界が見たいだけなのです。

それ以上に、何があるというのでしょう?

 

 


収穫の時代 〜 私たちは、何のために生まれて来たのか

木の花ファミリーでは、毎年12月に一年の恵みへの感謝を込めて「収穫感謝祭」を行います。以下、2021年収穫感謝祭でのジイジのお話をご紹介します。


今年も一年の農の締めくくりとして、収穫感謝祭を迎えました。ここに、今年一年の活動の証として供物が供えてあります。これはどこから生まれてきたかというと、太陽がもたらしたものです。そして、太陽が一方的に与えてくれたのではなく、地球の生命活動、地・水・火・風・空から始まる、植物、動物、そういったものの調和の延長にもたらしてくれたものであります。そういった仕組みを私たちは、毎日糧として頂き、一年を生きてきました。

本来、命が生きるとは、太陽の恵みを地上に頂き、それを受け、様々な自然活動がそこに働きを持って貢献していく。そして、我々命の代表である人間や動植物がその恵みを頂くことであり、収穫することは、取るということではないのです。ですから、生きるという事は頂くという事であり、頂くという事は謙虚な心から生まれる姿勢なのです。そういった土に近い生き方をしながら、土から恵みを頂くという事は、本当は生きるものの原点であり、人間はその極めて代表的なものでなくてはいけません。

食べ物を頂く以外に、今年は二つの新しい命(仲間)を頂きました。それから、農作業などをして、その収穫物を食べたり、それを販売し生業とする様々な生き方の中で、新しい知恵も頂きました。そのように時が過ぎて行く中で、人間はどんどん賢くなり、本来この世界に豊かさをもたらさなければならないものです。しかし、人間がこうしたいああしたいと思うとついつい自分の都合ばかりを考えるように、我々の活動も色々な問題に出会うことがあります。さらに、ここ木の花ファミリーの活動にだけではなく、日本にも世界にも、コロナウイルスを始め、環境の悪化、不健全な社会情勢など、地球規模の矛盾が沢山起き、私たちは農をベースとして生きるものとして、順風満帆な一年を過ごしてきたわけではありません。しかし、その順風満帆でない事を通して、小さく自らのエリアを通し、その姿勢、心の在り方を振り返り、どうしてそうなったのか、そして大きく国レベル、地球レベルで人類としてどうであったのかという事を、振り返り、学習し、次の時代に繋げていくべきことなど、そういった学びも頂きました。

今朝、ニュースを見ていました。すると、世界各国の生産額GDPは落ちているにも関わらず、株価が高騰し金融システムではお金は余っている。その中で、コロナ禍の生活の延長にゲーム産業が最も伸びている。こういったお金の仕組み、ゲームの仕組み、たくさんの産業という『業』の付く生き方があり、その中でも土に縁のない生き方が、お金や物の浪費という豊かさをもたらしています。そのように、今の時代が出来ている事がよく解ります。私たちは、農業ではなく、命を頂くとして、生きていますが、その活動は金銭的には生産性が低いのです。しかし、そういった『業』とつく産業が生み出すお金の世界の全ては、農業を始めとして、医療業界から様々な分野において人々が欲深な生き方をすることで、それが地球規模の問題を今、生み出しています。そういった地球規模の問題は、これから更に激しくなっていく事は確実です。

もう一つ、先ほどここへ来る前、着替える合間にテレビを見ましたが、夕べ、アメリカのいくつかの州に大きな竜巻が発生し、今のところ70名ほどの人が亡くなったそうです。全体像がまだ見えていないので、100名以上亡くなっている可能性もあります。アメリカのバイデン大統領は、この事を竜巻の災害では過去最大のものであると語っていました。これも何かしら自然が人間の行いに対してメッセージを送っているのではないかと思います。これから一年も経てば、また収穫の時期を迎えますが、収穫というのは都合のいいものだけを頂くだけではいけないのではないかと思うのです。いろいろな問題事を頂いて、厳しい時代に、そのことで何が与えられているかという事であり、恵みではなく、問題事を頂いたという事は、襟を正せという事です。ところが、問題事を頂いても、自らの襟を正すのではなく、自らの能力を使って回避し、乗り越えて、今までと同じ生き方をしようという人間たちが現れました。これは、人間の能力の高さでもあります。しかしながら、人間がこの姿勢を取り続けていると、問題ごとを通して全てそうですが、その姿勢を正すまで自然や天は、繰り返し繰り返し、私たちにその反省を促す為に問題事を与えます。それが今この時代に、究極の示しとして現象が現れているという事ではないかと考えるわけです。こういった捉え方をする人々が世界中にどれだけいるかと考えると、今はまだ皆無に近いですね。

世界を代表するアメリカと中国は今、いがみ合っています。そこに国家の利権を最優先するロシアがウクライナに侵攻しようとし、それに対してアメリカがNOという。その企みが上手く行けば、中国が台湾に侵攻する口実になるとも言われています。丁度80年前に起きた太平洋戦争は、日本が真珠湾を攻撃した1941年12月8日に始まりました。それから80年経ったのですが、今とてもきな臭いムードが地球上に漂っています。21世紀に入り既に21年経っていますが、そんな状態の人間の姿勢を考えると、とても愚かしい姿が観えてきます。

私たちは、今日の収穫感謝祭を、収穫を頂いてありがたい、自分たちが生きていければいい、という事ではなく、そろそろ自分たちの襟を正して振り返り、人間の地球に対する横暴を正しくしていくことにつなげることではないでしょうか。今までは、拡大の時代でしたから、欲望の延長にただ便利がいいように、ただ物が豊富である豊かさが求められてきましたが、これからは量より質を考えなければいけない。生き方というのも、自らの生き方が自らに幸せをもたらすのは当然ですが、同時に社会やこの世界の仕組みに則って社会が豊かになっていかなければいけない。社会だけでなく、地球が歓迎する豊かさの追求をしていかなければならないのです。それが、このようにテクノロジーを使い、不必要なまでの利便性の追求と、異様なまでに溢れる物と、それがいずれゴミを生み出す現状は、そういった様々な問題が溢れこの時代を運営してきた人間の責任であるのです。その役割を果たせた時に初めて、人間は高い意識の秩序をもたらすものであるという事が表現できるのです。様々な問題を収穫する時代が来ました。良い事も悪い事も収穫する。良い事は感謝すればいいが、悪い事は感謝の前に何故それをいただいたのかという振り返りをし、そしてそれをもたらした人間性を改め、自らの価値が上がるための本当の意味での心からの感謝をしなければいけないという事です。

その為に、私たちは何をしなければならないのか。昨夜、みんなで映画(ラーヤと龍の王国)を観ましたが、あの映画の中で争っている人々が融和し優れた社会を創る為には、互いを信じあう事こそが最も求められることでありました。そして、互いに信じあう為には、正直である事。何でも語り、何でも語れる、何でも聞き、何でも伝える、共に生きていくという事をしたら、その姿は地球の命の仕組みですね。そういった事をもう一度人間は、自分たちが最も優れているという、おごった立ち位置にいつまでもいないで、正しく受け取り、尊い者となり、他の生き物の為に生きる。そして、人間たちが本来地球に降ろされた意味を表現する。その価値を取り戻す時代が来たからこそ、この厳しい時代が始まっているのではないかと思うのです。

日々、こんな事を考えながら365日経つとまた、来年も収穫感謝祭が来ます。ここにお供えしてある供物はこの時期ですからだいたい似たようなものが、毎年お供えしてありますが、それは同じものではないですね。これは数か月前までは土だった、あるいは、数か月前までは施肥として私たちがそこへ入れた栄養だった。さらにその前は成長の過程では空気だったり、水だったりしました。様々なものが変化してここへ至っているという事は、天地一体、地球の大調和の働き、流れだけでなく、天体の動きが、こういった大いなる動きをもたらしている。ですから、私たちは宇宙を生きる者として生まれてきました。

丁度今、日本の民間人として初めて宇宙へ行っている人がいます。宇宙ステーションから、人の欲望をくすぐり、人の気をひくような事を言っていますが、お金でも何でも、心が貧しい者が持つと本当に無意味な貧しいことに使います。それはお金の事だけでなく、すべてのものが豊かになるという事は、心が豊かであるという事が先に優先されないと、正しく世の中のために使われるという事にはなりません。

年々、生きるという事は感慨深くなっています。一年を通して深い学びを頂く。その一番は、人の価値を収穫する事です。そうやってみんなで、その価値を収穫する為に生きる。生きていないとその価値を収穫できません。肉体を頂いてその心を健康に運営していないと、その価値は積み重なりません。

この生のサイクルが終わると、自分を積み重ねるという事は次に生まれてくるまではありません。今は命を頂いた体があるからこそ、時と共に人生があり、色々な事に出会う事によって、自分の価値を積み重ねるという仕組みになっているのです。

この道理をいつも念頭において、日々、一年365日、クリスマスや正月、自分の誕生日などいろいろな記念日がありますが、毎日、朝を迎え、夜を迎え、その都度、瞬間瞬間に、自分たちは一体何のために生きているのかを意識し、スケールの大きな心で生きていきたいものです。

そういった自覚ある一年を生きる為に、こういった記念日があるのではないかと思います。自覚を持って一年を送ってもらいたい。そうすれば、この頂く人生は、心の成長としてその人の価値を付けるものとなる。この価値だけが死んでからも持っていくものです。

その為に人生があるのだという事を今の人類に伝えられる見本が、ここで示せるのではないか。そんなに遠くなく世の中は完全に行き詰ります。その時に、ここにその見本があるという事が言えるように生きていきたいものだと思います。くれぐれもその事を一人ひとりの命題として自覚し、歩んで行ってもらいたいものだと思います。これは、誰かが誰かにお願いする事ではなく、自分が自分に言い聞かせ、この道を歩むことを選んだことの自覚として頂きたいと思います。という事でまた、この記念日では、一年後にお会いしましょう(笑)

ずっとこれをやっていきますから。馬鹿な事もいろいろ提案しますが、自分を捨て、空っぽにし、日々、365日マツリの精神で生きていきたいものだと思います。今日、そういった大事を理解し納得して生きていけるという事は、その境地に到達したという事で目出度い事です。収穫感謝祭、おめでとうございます。そして有難うございました。

ツイスト踊る?(笑) (ツイストには質的転換の意味があります)

みかちゃん:
それでは、心を収穫するという事が一番大事な事だと思いますので、みんなで歌いましょう。

 

※みんなで合唱した歌の歌詞を載せます☟

『♬この世界をつくっているのは』

蒔いた種を刈り取るのは一人ひとりの責任
みんなで蒔き続けた種が今もこの世界を創っている
心の中に色んな 想いの種をみんな抱えている
何もかも 誰かのせいにすることはできない

ならば

あなたはこの世界にどんな想いの種を蒔きますか
そしてこの世界にどんな花を咲かせますか

この世界をつくっているのは
この世界をつくっているのは
この世界をつくっているのは
この世界をつくっているのは

私たち ────

 


自分発、世の中を良くする人になって下さい ~ コロナワクチン接種の話から

木の花ファミリーでは、何か決めごとをする際に、常にみんなでその内容を共有し、全体の総意の下に物事を決定します。
現在、新型コロナウィルスのワクチン接種については、自身が媒体となって感染を拡大することを防ぐという社会的責任を果たす意味もあり、大人メンバーは全員がワクチンを接種することを決定し、順次接種を進めていますが、子ども達がどうするかについては保留となっていました。そんな中、同級生に感染者が発生した子どもから「ワクチンを接種したい」という声が上がり、ある日の子どもミーティング(毎晩夕食後に開かれる、子ども達がその日の出来事を大人を含めたみんなの前で発表する場)にて、改めて話をする時間が持たれました。
以下、その時のお話をご紹介します。


 

ジイジ:
今日は、みんなで大事なことを決定しなければなりません。そこでは、みんなの心が揃わないといけないですね。そこで今から、心が揃わないのはなぜか、という話をします。だから今日は、二つの話があります。

一つ目は、コロナワクチンのことです。ここでは、60歳以上の人はもうみんな2回接種しましたね。ジイジも2回打ちました。ワクチンを打ったからと言って、何か特別な症状があったわけではありません。60歳以下の人でも、ワクチンを打って何か症状が出た人はいますか?

まりねえ:
38℃の熱が出ました。

ジイジ:
それはまりねえちゃんの平熱だったりして。(みんな:笑)

みちよ:
私も平熱より2℃高い熱が出ました。

ジイジ:
それは、日頃のあなたの姿勢を見ていると、心が原因かもしれないね。とりあえず、そんなに大きな問題はなく接種が終わり、今は50代以下の人達が接種を進めています。

それで、今日の話は、20代より下の人達の接種をどうするかについてです。
ここでは、ジイジが話すことが決定ではありません。ジイジが話すことを強制する場ではないということです。ただ、大人については、基本的にみんな打つことにしました。それはなぜかと言うと、木の花ファミリーにはロータスランドというお店があり、たくさんの人が訪れます。そしてこの場所でも、こうしてたくさんの人たちが一緒に暮らしています。そこで感染者が一人出ると、クラスターとなって周りに広がっていく可能性があります。そして、こういう共同生活の場所で感染者を隔離することも、なかなか難しいのです。
ですから、そういった問題が起きないようにすること、そしてこのように大勢で暮らしている場所は特に気を付けなければならないという、社会的責任があることを考えました。みんなで共に生活する豊かな暮らしだからこそ、自分の家のためだけではなく、社会に対しても責任があるということを、大人達みんなで考えて、基本的には大人は全員ワクチンを打つことに決めました。ここまではわかるかな?

子ども達:
はーい!

ジイジ:
まずは大人が打ってみて、10代以下の人達については、どうするかを決めていませんでした。社会的責任という意味では大人よりちょっと軽いかな、でも大勢で暮らしているのだから打った方がいいのかな、と微妙なところです。
そこで、自分は打ってもいいと思っている人、打ちたくないと思っている人を確認したいと思います。正直に答えてください。打つか打たないかを決定するのか、それとも、それぞれのケースに合わせて対応するのかわかりませんが、まずはみんながどう思っているのかを確認したいと思います。打ってもいいと思う人!

(半数以上の子ども達が手を挙げる。)

ゆりか(中学生):
えー、注射痛いのに~。

子ども達:
そういう問題じゃないでしょ。

ジイジ:
じゃあ、やっぱりワクチンは打ちたくないなと思う人!

(数名が手を挙げる。)

ジイジ:
打ってもいいという人は、打ってもいいということだからとりあえず置いておいて、打ちたくないという人は、どういう理由があって打ちたくないのかな?

ゆうゆ(高校生):
「痛いから」っていうのは理由にならないからね。

ピッポ(小学2年年):
痛いからじゃなくて、ピッポはもともとコロナにはならないと思ってるから。

ジイジ:
なるほど、そういう理由ね。他には?はい、こうたろうくん。

こうたろう(小学1年生):
ワクチンを打つと動けなくなるから。

子ども達:
そんなことないから!

ジイジ:
それはどこで聞いたの?

こうたろう:
ようちゃん。

ジイジ:
じゃあ、ようちゃんは何を根拠にして、そういうことをこうたろうに伝えましたか?

ゆりか:
ワクチンを打ったら、痛くて腕が動かせなくなったってようちゃんが言ってたんだって。

ジイジ:
前に、ようちゃんは他の人にも、コロナワクチンを打つとみんな5年後に死ぬと言ってました。

子ども達:
えーっ!(笑)

ゆうとう(中学生):
それって、ただワクチンを打たせたくないだけじゃないの?

ジイジ:
もしもそうなら、5年後に日本はなくなるね。(みんな:笑)

ようちゃん(大人):
昨日ワクチンを打って、腕が上がらなくなったってこうたろうに言ったね。

ジイジ:
今も動かないの?

ようちゃん:
今日は大丈夫です。こうたろう、もう治ったからね。

ジイジ:
こうたろうは、この話を聞いてどう思いますか?

こうたろう:
腕が動かなくなったって。

ゆりか:
ずっと動かないわけじゃないんだよ。

ゆうとう:
動かないっていうか、腕が上がりにくいってことでしょ。

ジイジ:
こうたろうは、それを聞いたからワクチンを打ちたくないの?

こうたろう:
そう。

ジイジ:
今の話は、この後の話につながる話です。この話をよく覚えておいてください。
ようちゃんがこうたろうに伝えたことと、それを聞いてこうたろうが受け取ったことは、一緒だったのか、違っていたのか。そこにズレがあるかどうか。実際にようちゃんの中に、なるべくワクチンを打たせないような情報を流す意思があったのか。それとも、そんなつもりはなくて、ただちょっと腕が上がらくなっちゃったと言ったことが、こうたろうの中では「一生腕が動かない」という話になっていったのか。そこは重要なところです。
他にワクチンを打ちたくない人は、どんな理由がありますか?(子ども達がパッと答えないのを見て)あのね、「打ってもいい」という人は、打ってもいいわけだから、理由はどうであってもいいんだよ。だけど「打ちたくない」という人には、その理由を聞いて、それを尊重するべきかどうかをみんなで考える必要があるでしょう?

なり(中学生):
うちでは、ジイジが作ってくれたレンコンとか栄養のあるものを食べてるし、たぶん免疫力があると思うから、別にワクチンを打たなくてもいいと思った。

ジイジ:
うちのレンコンを食べるとコロナにかからないという理由は、どこから持ってきたの?

なり:
コロナにはかかるけど・・・(みんな:笑)

ジイジ:
あのね、大人たちが社会的責任としてワクチンを打とうと決めたのは、自分がかかるかかからないかではなく、かかった場合にそれを他の人にうつすことがあるから、その責任を考えようということで決めました。自分は免疫力があるから、かかっても大して重症化しないから大丈夫、ということだと、自分がかかって他の人にうつしてもいいという話になるんだよ。それについて、どう思う?

なり:
人にうつしたら、いろんな人が困るから、人にうつしていいということじゃない。自分一人だったらいいけど、他の人のことを考えたら、打った方がいいと思いました。

ジイジ:
ジイジは、打つ方向に誘導しているわけではなく、今の打たないことの理由について話してるんだよ。そういう理由の元にある心について、考えなきゃいけないねということです。
はい、他に打たないと言った人の理由は?

あまの(保育園児):
5年後に死んだらいやだから。

ジイジ:
そういう怪情報を流した人がいるんだよね。「それは違うでしょう」という話をしても、「えー、ようちゃんがそう言ってたよ」という噂がいろんな所へ広まっていくと、消しても消してもその情報が一人歩きしていくんだよ。これはすごく大事な話だよ。
はい、他の人はどうですか?

なお(中学生):
打ったら運動がしにくいということと、熱とかが出たらイヤだから。

ジイジ:
それは自分のためということ?さっき、なりに話したことについてはどう思う?

なお:
それだったら、打てばいいかな。

ジイジ:
だから、前の人の話をきちんと聞いておいて、後の人はそれを受けて「そういう理由があるのか、じゃあこうしよう」と繋げていかないと、いちいち同じ話を繰り返さなければならなくなるよ。前の話をしっかり聞いて、そこに自分を乗せていけば、話はとてもスムーズに進みます。これも後の話につながる話だよ。
他にはどうですか?はい、みのちゃん。

みの(高校生):
みのはどっちでもいいんだけど、できれば打ちたくなくて、理由はただ単に注射が苦手だから。あとは、病院に行くのがイヤなんだよね。

ジイジ:
なるほど。そういう個人的理由ね。
今はもうそういう段階ではなくなっていますが、ワクチン接種が始まった時に、まずはお年寄りから始めましょうということになったね。どうしてか知ってる?

子ども達:
重症化しやすいから!

ジイジ:
お年寄りが重症化しやすい理由として、基礎疾患と言って、高血圧や糖尿病など、もともと病気を持っている人が多いんだよ。そういった人は、コロナウィルスに感染すると重症化しやすい傾向があります。だからお年寄りから打つことになりましたが、まあ、少子高齢化ということから考えると、なるべくお年寄りには打たないで、高齢で病気の人から旅立っていただいた方が、国のためにはなるかもしれない。

バァズ(おばあちゃんメンバー)達:
たしかに!(笑)

ジイジ:
だけど日本はそういう国ではありません。命はなるべく長く生きた方がいい、その内容については問わない、という国ですから、高齢者から先にワクチンを打ってきました。
ところが、先日も、40歳でコロナに感染し重症化した男性の話がニュースで取り上げられていました。これまでは、30代や40代で感染しても重症化しないと言われていたのですが、最近はコロナウィルスも変異しています。変異ってわかるかな?人間がいろいろな勉強をして新しい取り組みをするのと同じように、ウィルスも、人間がワクチンを打ったりいろいろな対策をすると、そのワクチンが効かないようになったり、より感染しやすくなったりと変化していきます。人間は世界中でワクチンを打とうとしていますが、コロナウィルスもそれに対抗しようとしているのかはわかりませんが、ウィルスとはそういうものだということです。インフルエンザもどんどん変化して、前のワクチンが効かなくなっていくでしょう?
現代医療では多くの治療で抗生物質を使用しています。抗生物質は、体の中で悪さをするウィルスや菌を殺すものですが、これには問題もあって、悪い菌だけでなく、いい菌も殺してしまうのです。そして人間の体から、抵抗力を奪っていきます。それどころか、菌の方が抗生物質を学習し、抗生物質が効かない耐性菌がいろいろな所で広まっています。そして、近い将来に現代医療が機能しなくなる可能性があると言われています。ですから、世界は将来もっと不安定な状態になります。
その時に、さっきなりが言った話に繋がります。本当に薬が効かなくなった時に何ができるのかと言ったら、薬に頼るのではなく、自分が病気に対抗する力を持つことです。これを何と言いますか?

子ども達:
免疫力!

ジイジ:
レンコン力とか、葉っぱ力だね(笑)。自分の力で対抗して治っていく力を身に付けるということです。それは、ワクチンを打っても打たなくても、いつも心掛けておきたいことです。
幸いなことに、ここには免疫力を高めてくれる力を持った食べ物がたくさんあり、毎日食卓に出てきます。そして、それを買ってくれるお客さんのことも考えながら、大人は作物を作っています。それはとても大切なことです。
だけどもっと大切なのは、先ほどの話のように、何の根拠もない意味不明の噂が広まっていくことがあるでしょう?その時に、そういったよくわからない情報を聞いて、正しく判断できる力を身に付けることです。これを「心の免疫力」と言います。不確かな噂を聞いて「わあ、怖い」と自分の中でさらに膨らませていくと、意味なく自分や人を不安にさせていくことになります。これはとても重要なことです。それだけで人はパニックになっていくのです。実際に「注射が怖い」と言って、その気持ちだけで具合が悪くなってしまった人がいましたね。もっと冷静に、なぜこれが必要なのかということを考えることが大事なのです。意味不明なことを考え、さらに自分の中で膨らませていくと、さらに問題を引き起こす原因になります。

今、コロナワクチンは世界的に接種を進める傾向にあります。若い人達は免疫力があるから、お年寄りから進めようということになっていましたが、最近では若い人の中で感染が広がっています。NHKが取材した40歳の男性は、何も基礎疾患を持っていないのに感染して肺炎になり、2ヶ月間意識不明の状態だったそうです。その間、お医者さんはとても高度な機械を使って一生懸命治療を続けていました。その人は回復はしたものの、肺が潰れてしまい、今も苦しさが続いて、もう元のように運動をすることはできないそうです。お年寄りは後遺症が残っても、もうそんなに未来がありませんから(冗談です。笑)いいのですが、若い人はこれから未来があるのですから、後遺症が残ると大変です。これまで若い人達は、自分はかからないから大丈夫、と言っていましたが、そうではない状況になってきているということです。
これは、説得をしているのではありません。そういったことを考えた上で、今どうするべきかを考えるということです。ここの子ども達のワクチン接種をどうしようか、と聞かれても、ジイジが答えを出すことはできません。一人ひとりの考えを聞いて、そしてみんなで決定をしようと思いました。それがこの場所です。「自分はコロナにはかからないから打たない」という選択肢もあるでしょう。確かに、みんながかかるとは限りません。でも、かかってしまった時に、いろんなリスクがあるということです。

大人達は、みんな打とうということに決まりました。そこで、今度は大人の人達に聞きます。ここの子ども達はどうするのが良いかについて、大人達はどう考えますか。はい、ワクチンを打たなくてもいいと思う人。

(誰も手を挙げない。)

では、本人が打ちたくないという場合は、打たなくてもいいと思う人。

(21人が手を挙げる。)

打った方がいいと思う人。

(26人が手を挙げる。)

みかこ(大人):
どちらでもいいという人もいるね。

ジイジ:
これが大人の人達の考えです。「打った方がいい」という人が、少し多いですね。
では、「打たなくていい」という人はその理由を教えてください。

ピッピ(大人):
さっき子ども達に確認した時に、ほとんどの子が「打ってもいい」という考えだったから、打たない子が多少いてもあまり影響ないかなと思いました。

ジイジ:
だけどね、「打たない」という人は、それはそれで認めても、社会的責任ということから考えたら、感染して人にうつさないよう、注意してもらう必要はあるよ。

ピッピ:
もう一つは、ワクチンについてまだわからないところがあるから。でも、大人に関しては、わからないから打った方がいいと思いました。

ジイジ:
では、「打った方がいい」と思う人の中で、代表して意見を言える人はいますか?

あや(大人):
私達は、こうやってみんなで一緒に暮らしていて、子ども達も外でいろんな人に会うでしょう?だから、できるだけ危険なことは避けた方がいいと思いました。

みの:
具体的に、どこがどう危険なの?

ジイジ:
危険というのは、一人がここへウィルスを持ってくると、ここはたくさんの人が暮らしているから、一気に広がってクラスターになるということです。濃厚接触者ということになれば、自分は陰性でも隔離されなければなりません。つまり、全員隔離が必要になるということです。

みんな:
不可能だね~~。

ゆりか:
ワクチンを打ったら、コロナにはかからなくなるの?

ジイジ:
ワクチンを打って感染しなくなる確率は、95%と言われています。だから、ワクチンを打っても20人に1人は感染する可能性があるということです。それから、感染しても重症化しにくいと言われていますが、感染すれば人にうつす可能性はあります。つまり、ワクチンを打てば絶対に大丈夫ということではないので、ワクチン接種を勧めている日本政府も、ワクチンを打てば何をしてもいいということではなく、引き続き注意して日常生活を送ってほしいと呼びかけています。それは、打つ人も打たない人も、誰であっても、社会的責任というものがあるということです。それは、「自分は健康だからいい」という話ではありません。ここまで感染が拡大した今は、みんなに社会的責任が問われているのです。
その上で、今日の結論をどうするか。多数決でいくと、子ども達はみんな打った方がいいということになりますが、その結論はつまらないでしょう?

ゆうとう:
つまらない!

ジイジ:
だから、みんな打って5年後に死ぬのはどう?(みんな:笑)
ではもう一度、大人と子ども全員に聞きます。打つか打たないかは本人の意志で決めればいいと思う人。

(37人が手を挙げる。)

では、子ども達も全員打った方がいいと思う人。

(35人が手を挙げる。)

では、本人の希望で、打ちたくない人は打たなくていいことにします。

(子ども数名が拍手をする。)

そんなふうに、喜ぶことではありませんよ。ここで次の問題があります。それは、打っても打たなくても、社会的責任は常にあるということです。
「自分だけ良ければいい」という話ではありません。そして、いい加減な情報を流してもいけません。
打つ人は、「なぜ打つのか」ということを自分の中でしっかりと考えて、その責任を果たすために打ってください。打たない人は、自分の意志で打たないのですから、その分毎日の生活をしっかりと気を付けて送る必要があります。打つ人もそうですが、打たない人は打つ人よりももっと気を付けて、自分から人にうつさないようにする。そして、人からももらわない。それを、責任を持ってやってください。そのことを、いつも考えていられるかどうか。
もしも誰か一人でもかかったら、ここでは全員が濃厚接触者になります。自分は陰性であったとしても、14日間は隔離しなければなりません。ここでは、個人の意志を尊重します。その個人の意志を託された人は、自分が全体のことを託されたのだということを、しっかり考えて行動しなければいけないということです。いい加減な行動はできないのです。それはワクチンを打たないからということではなく、周りの人に対する責任を果たすということです。そういったことを考えて行動するようにしてください。
ここではロータスランドも運営しており、いろいろなお客さんと出会います。大人達はその責任を考えて、打つことを決定しました。自分が他の人にうつす可能性がない立場にいる人、他の人と関わらない人ならば、「私は打たない」ということでもいいでしょう。個性的な生き方は尊重されて良いのですから。しかし、その個性が人に迷惑をかけたり、不安を与えるとしたら、社会人としての責任を取らなければいけません。

そこでもう一つ、みんなに話したいことがあります。
ジイジは、人の心というものをずっと観てきました。この間は、4人の子ども達を呼んで話をしました。この4人はなぜ呼ばれたかというと、日頃の言葉遣いが悪かったり、友達に乱暴な振る舞いをしたりしたからです。その中の1人は、ジイジが話をした後も、また悪い言葉を使ったので、今度は叱りました。
本人は、「悪い言葉を使おう」と努力しているわけではありません。本人に聞くと、「自然に出てくる」と言うのです。つまり、自然に悪い言葉が出たり、人が嫌がることをするような人になっているということです。みんなはこれをどう思いますか?

子ども達:
よくないと思う。

ジイジ:
よくないと言っても、他にもそういう人がいるでしょう?だからジイジは本人を呼んで、今からそういう状態でどうするのか、という話をしました。そこでは、あなたの心の状態はこういうことだよ、という話をします。前はこういう状態で、今はこうなってるよ、ということを話します。そして、さらに先へ行くとこうなるよ、という話をします。
よく、小学生のうちはまだ親の方が力関係が強いので抑えられていても、大きくなると親の方が怖がってしまって、伝えられなくなるという話があります。極端になると、子どもが親を脅したり、逆に「こんな子を世の中に生かしておけない」と親が子どもを殺してしまうようなこともあったでしょう?親から離れて好き勝手に振舞い、暴走族になったりする人もいます。それは、本人達もそれで良いとは思っていないのです。でもなぜかわからないけれど、そういった場所に心が合うので、そうなっていくのです。
ここでも、最近小さい子ども達が悪い言葉を使うことがあると聞きます。どうしてそうなったかわかりますか?それは、上の子達が使うからです。使っている本人にどうしてそういう言葉を使うのかと聞くと、「何でだかわからないけど、そういう風に言ってしまう」ということでした。そして何回注意しても、また同じことをやるのです。これは、深刻な話です。そうしてその人の人格、心がつくられていくのです。
そこでジイジは、本人の親を呼んで話をしました。子どもというのは、お父さんの遺伝子と、お母さんの遺伝子を受け継いで生まれてきます。ジイジはこれまでたくさんの人の相談に乗ってきましたが、話を聞いていると、その問題のルーツが観えてきます。それは、その問題の本人だけではなく、家ごと解決する必要があるケースがたくさんあることです。その時に大切なのは、本人が問題に気付いたなら、まずは自分から解決することです。

自分が問題を解決すると、今度は自分が子どもに遺伝子を受け渡す時に、子どもに悪いものが行かなくなります。そして自分自身も、問題を解決したのだから、良い人として生きることができます。さらにもう一つ。その問題点が、自分の親や、そのまた先祖からずーっとつながって自分に来ているとしたら、自分がその問題からしっかり学んで、優れた人になることは、昔の人たちが個性的な人生を生きて自分につないでくれたお陰で自分は気付くことができたのだ、ということにもなり、その問題のお陰で学ぶことができました、ありがとう、と、昔の人達の問題も、良いことに変わるのです。つまり、昔も、今も良いこととなり、そして未来の子ども達にも、良いものを与えることができるということです。
ここはポイントです。もしも今、その問題ごとから学ばずに、そのまま先へ進むと、「あそこの家の子だからね、やっぱりそうだね」ということになります。そしてその人が将来パートナーを見つけて子どもをもうけると、「やっぱりあの家の子どもは、親のようになったね」ということになります。
今、悪い言葉を使ったり乱暴をしている子ども達は、今はまだ子どものしたことのように思っているかもしれませんが、そのまま大きくなると、校内暴力になったり、警察沙汰になったり、誰かをいじめて相手が自殺するなどということが、世の中にはたくさんあります。そうしたら、一生償わなければいけません。自分だけでなく、相手の一生も取り返しのつかないことになり、自分の家族も「あそこの家の子は」と周囲から言われるようになります。ここの子は「あそこの家の子は」ではなく、「木の花の子は」という話になり、ここの全員にそれがかかってくるのです。
これは、さっきのワクチンの話と同じです。自分が打ちたくないということは認めます。しかし、自分の立場というものを考えたら、それを認めてもらった分、打つ人も日常生活には気を付けなければいけませんが、打たない人はなおさら、打つ人よりもさらに真剣に考えなければいけません。そして、人にうつさない。そういうことをしっかりやっていかなければいけない。それが、その人が生きていく上での責任ということです。

これは、最低限の話です。気に入らないから悪い言葉を使った、というようなことでは、だんだん済まされない話になっていくのです。今はまだ済まされているから、この話で終わっていますが、そういった姿勢を今のうちに正していかないと、将来済まされなくなっていくということです。心の持ち方がいい加減だと、思わぬことに出くわすことがあります。そのようなことを引き起こす心を持たないようにすることが、責任ある人の生き方です。それは本来、人として当然のことです。
ジイジも子どもの頃に、嘘をついたり、「大人には内緒だよ」「誰々には言っちゃダメだよ」という秘密を持っていました。よくあるでしょう?それは、隠しておきたいことがあるということです。でもね、隠しておきたいことが多ければ多いほど、今のような問題につながっていくことになります。こんなに大勢で暮らしていても、みんなが自分の中にあるものを正直に出して、これについてどう思う?と、常に正直に話し合える場所を創ったら、この場所に良い風が吹いて、「あそこは気持ちのいい場所だね」という所になるでしょう。しかしどうしてなのか、人は隠そうとするのです。ジイジはね、きちんとした毎日を送って、責任ある行動を取っていたら、子ども達がゲームをやるのもいいと思うんだよ。ところが、隠れてゲームをやろうとする子がいるでしょう?
隠れてやると、簡単に中毒になります。それは、隠しておくことは病的な心だからです。心が病気を創るのです。今の世の中には、心の病気を持つ人がたくさんいます。精神疾患を持つ人は、日本全体で400万人と言われています。そしてその10倍が、予備軍といって、精神疾患になる可能性があるというのです。そうすると、日本人の3人に1人が心の問題を持っていることになります。大変な数ですね。

それで、さっきの話に戻ります。インターネットには、いい加減な話が溢れています。そしてそのいい加減な話が、「そうなんだ」「そうだよね」と確かではないのに広がっていきます。それが誰から出てきたのかわからないのに「そういうことらしいよ」という話が「そうだよ」ということになって、真実になっていくのです。ジイジは、どんな人の話でも必ず「それはどこから聞いたんだ?確かなことか?」と確認します。それは疑っているのではなく、確かな話ならいいけれど、確かでなければ、自分から世の中を混乱させる元をつくっていることになります。人の迷惑を広げているのです。
そう考えたら、いい加減なことは言えません。そしてワクチンを打たないとしたら、いい加減な生活をしてはいけません。ワクチンを打ったとしても、効果は100%ではないのですから、やはりいい加減な生活をしてはいけないのです。それは、社会のためにも、自分のためにもそうするということです。そういったけじめのある意識を持つことが大切です。
今、この場所で子ども達の後ろにいる大人達は、そんな風に親から言われなかったでしょう?だからいい加減な人になるのです。その悪いクセを、大人になってから取るのは大変です。
子ども達は、今それを取るチャンスをもらっています。小さいうちにそれをやると、早く取れます。大きくなると面倒です。自分の理由を言うようになるからです。今は、そんなことをしてはダメだよと伝えれば、「そうだね」とすぐにわかりますが、大きくなると、自分の理由をたくさん並べるようになります。

心が、この世界を創っています。いい加減な心を持っていると、いい加減な人間関係、いい加減な世の中ができます。だから、その元の心がいい加減ではいけないのです。
今の世の中では、そのいい加減さが分析できなくなっています。そして大人が、いい加減なことをたくさん言いふらします。そして子ども同士でも、すぐに隠し事をする。「言わないでね」と隠し事にしていることが、問題となって独り歩きをするようになるのです。
そこのところをとことん自分に言い聞かせてやらないと、染みついてからでは本当に取れなくなります。そして今のような、混乱した世の中ができてしまうので、子ども達とこういった話をするべきだと思いました。今なら、子ども達はそれを広げる側から、やめさせる側になれるだろうと思うからです。
コロナウィルス対策についても、いい加減なことではいけません。責任ある行動を取りましょう。みんな、1人で生きているのではないのだから。

毎日の子どもミーティングで、ただその日の出来事を報告するだけでなく、自分はいけないと思うことをやりました、ということが言えるようになったら、この人は自らを正す道を歩み出した、ということです。それは、良い人生を生きることになります。そして、周りの人にとっても良いことをもたらす人になります。
自分発、良い場所ができるように。自分発で悪いことを起こすのではなく、自分発、良いことが起きるように。それを心がけてください。そうしたら、相手発、悪いことに対しても、「それはいけないよ」と言ってあげられる人になります。自分発、良いことをし、相手発、悪いことに対しても「それは良くないよ」と言ってあげられるようになったら、自分発、世の中を良くする人になります。それが大事です。
今は、そういうことを誰もしません。これからは、それがとても必要になる時代が来ます。これは大人も子どもも関係なく、世の中を創っている人はみんなそのように生きるということです。
ワクチンについても、大切なことですからよく考えて判断し、そして判断したことで自分の責任をきちんと果たしてください。

 

 


ヒフミヨイムナヤコトの道

ある日の大人会議で、チナッピーが、養蜂で山梨に行く時に道を間違えそうになったことについてシェアしました。


チナッピー:
山梨の養蜂場へ行く時の運転を私がしたのですが、その時のことをシェアします。いつも、山梨に行く時は明るい時に行くのですが、今回、夜に向かったので、いつもより感覚が鈍っていました。宿泊先に行くには、荒田という信号を右へ曲がって入る、その前にコンビニがある、という事だけが印象に残っていて、行く途中に、まだその場所ではないのに、コンビニがあり、「もう荒田だ。すごく早く着いた。」と思い、間違ってその信号を右折しようとしました。その時に、後部座席のジイジから「どこへ行くんだ。まだだぞ。」と言われて、まっすぐ進んだという事がありました。
私は、道を間違えそうになったという事を、そんなに重要なこととして捉えていなかったのですが、今朝、ジイジがともちゃんとぴっぴにこの件について話しているのを聞いたとき、これはすごく重要な事なんだという事に初めて気が付きました。それがどれぐらい重要かという事を、ジイジが二人に事細かに解説していました。道を間違えることから、私がどのように人生を歩んできたのか、日々どのような暮らしをしているのかという事を紐解いてくれました。
ジイジと私の違いという事でいうと、ジイジだったら、山梨の目的地に行く前に、そこへ行くまでのポイントを、一個ずつ確実に風景を見て押さえながら行くので、間違えないのが当たり前で、そのように日々ポイントを押さえながらやっているという事。一方、私がなぜ間違えるのかというと、全体が見えていないこと、一個一個のポイントを押さえていないという事を、比較しながら説明してくれました。日々の中でポイントを押さえる事や、道が1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と順序だてて続くとすると、それを飛び飛びにやるのではなく、確実に一つずつポイントを押さえていく事が大事だという事を、今日学びました。

ジイジ:
このように事細かに出来事の素性をフィードバックしてもらってから、チナッピーは「そうだな」と受け取っていくから、身につかずに同じことを繰り返していく。そんな学習は一回でいい。どんなことでも同じ姿勢はいろんなところへ出るのだから、本当はある一つのことを経験し、それを自らの人柄に置き換えれば、その経験は似た様なケースで常に生かすことが出来る。ましてや、同じことだったら、一度そのパターンを理解したら、それ以外の出来事においては、学習は不要になる。しかし、同じようなことを繰り返すという事は、言われたから反省し受け取っているという条件反射の反応をしているからであり、それでは身につくことがない。
そうではなく、例えば、言われて気づいたとして、それをきっかけに、これからそのような場面に出会ったら、どう気付いてどう対処していくのか、というように考えれば、そのことは確実に実力となる。その出来事の問題を指摘されなくても、同じような場面に出会った時、自ら気づくことが出来、その対応が適切にできることで、そういった場面の話は卒業できていく。

僕は人の癖からくる問題点を観て、その人がその視点の位置にい続けることは、くり返し問題を引き起こす原因となり、それでは良い人生に出会うことができないことをずっと伝えてきた。その背景には、その人が自らの個性をよく理解し使い方をマスターすることで、行いが的を射たものとなり、活躍できる日々を生きることを願っている。そうすれば、そういった人たちと共に、今の世の中がイメージすることが出来ないところを、みんなで完結していくことにつながる。そういった投げかけの元にある精神は、大いなる善意。
しかし、そのハードルを皆がクリアしないとなると、僕は切り替えてこう考える。その進歩のない繰り返しはあなたの価値を落とすことであって、僕の人生の上にあることではない。だから、あなたがその大事を実行しなかったとしても、さらに、木の花が天の道を歩んでいるとはいえ、その道を木の花が行かなかったとしても、そのプロセスに天も僕も常に寄り添っている。そして、その大事をしっかりと押さえ、常に努力を惜しまないので、僕の歩みは外れることはない。そうすると、この場合、あなたが外れる対象になるだけなんだよ、ということ。それは残念ながら仕方がない。それは、一人ひとりが自らの価値を自らの意志でつけるための歩みなのだから。
もし、その大事をあなたが、つまりメンバー一人ひとりが達成することになれば、木の花の存在の目的が実現され、ここの価値も上がれば、世の中も是正される。そこでの個人の価値は自動的に上がる。しかし、そういった目覚めない位置にい続けることは、結果、高い誇りと尊厳をもって生きることは出来ない。今、ここの日々の生活に、病を貰ったり物を壊したりと、様々な反省をしなければならない、歓迎されない出来事が起き続けている。

生きる事は、宇宙の法に基づき現象に出会う事。我々がいかに視点を法に向け、それに寄り添い生きるかにより、病気を得ようが、対立しようが、その問題ごとの上に出来事が有益な学びとなり、自らの人間性を高めていく事につながる。しかし、天に寄り添うことで出来事が思い通りにいくかというと、そうではない。それでは、その場に相応しい出来事が起きる法則(因果応報)により人生を通して自らの姿勢を学ぶ機会を失ってしまうことになる。その結果、世の中も、人の人生も、進化しないことになる。自分の現状に対し、相応しい刺激をもらうから進化する。その適切に与えられる刺激により、常に出来事を天の法則にあてはめることで自らが進化していく。それが、良い流れを創っていく事につながる。そうでなければ、法則の意のままにあり続ける動物や植物と同じことになる。人間は人生を与えられ、その歩みの中で常に進化し、精神性の高い者になるための道を与えられ生きている。それは、大本から分かれた、分け御魂である証である。そもそも、人として生きる事の本義として、別れてきた一番の大本へ帰るための旅をしている自覚が欲しいものである。

僕がこういうことを語るとき、地球上にこのような意識の人々が発生した事を、銀河のセントラルサンに向かい発信する。「今、私はまぎれもなくこの境地であります。それは、あなたたちと常に呼応しながら連携を取ってきた結果だと自覚しています」と。
このようなことを語れば語るほど、上からはとても喜ばしいという響きが返ってくる。地球が喜ぶどころか、銀河が喜ぶ。人間の本質はそういった能力や可能性を秘めた生き物。そして、人間にはそういった大いなる使命が託されている。それを達成するからこそ、いよいよ21世紀の最終目的、宇宙時代を迎える。その結果、2102年には、今の北極星ポラリスと地球の地軸の焦点が合うところに行く。あと81年をもって、宇宙に創造された本当の目的を人類は見出し、地球上に表現できるかどうか、そのターニングポイントに向けて、今、我々の意識は宇宙への進化のプロセスにいることになる。しかし、その前に人類には、今までの目覚めない行いのつけである、2030年から始まる問題が立ちはだかり、人類に対してはそのターニングポイントに到達することが出来ない可能性も秘められている。人類は、自らに対し自らを改める姿勢をもって、今までの無自覚な地球上でのふるまいの結果を振り返り、改めるべき時を迎えている。

潤三:
ジイジの話はスケールが大きく、こういった話をジイジだけに話させていているようなことでは、皆が共に作り上げる場にはならないので、駄目だと思う。

ジイジ:
僕はね、自分でこういった話をしながら、いいな、このような人生を生きたかった、そんなことを語る人に出会いたかった、と思う。そして、ふと気づいて、あ、それは自分のことだった。なんてラッキーで、喜ばしいことか。良かった。僕はこのような人生のプロセスを歩む自分のことを大好きだと思う。その喜びは、とても魅力的なものであるが、さらに大いなる喜びがあることを知っている。

それは、神様はその昔(大いなる過去)、自分だけの存在だった時、潜象界にいて自らの存在を認識できなかった(対向発生する存在がいなかった)。そこで神様は、潜象界という「潜っている世界」から、対向発生としての現象界を創る為に、「カ」(宇宙最極小微粒子)を噴出させ、そこにヒフミヨイムナヤコトの仕組みを配置し、対向発生するべき魂たちを、自らを切り分けて遠くへ置いた。そのことにより、元の位置から離れた場所との間に空間ができ、そこから元へと帰る動きが始まることでトキが発生することとなった(時空の発生)。この時、対向発生するべき切り分けられた存在たちは、元々のこと(自らの出生の事情)を忘れてしまった。
そして、トキの道を歩む者たちは、同時に元へと帰る歩みを自動的に歩むこととなった(アウノスヘシレ)。
その者たちが歩む道は、回転しながら(マワリテ)螺旋を描き(メクル)、現象宇宙の基軸であるトキに沿い、その後、電気、磁気、力というトキを動かす直流のハタラキに対し、螺旋の動きによりコイルを巻く力(マワリテメクル)により自動的に現象を引き起こす動きが始まった。それが大いなる宇宙(現象界)の創造の始まりとなり、その行先は、いずれ元の魂(大いなる宇宙の大本)に帰る道となる。

それは、その構造を理解する者であるならば、大本にある故郷と対向発生する者としての役割を果たすと同時に、始まりの存在にある高次の響きの発生源(ア)の位置(イ)に帰ることの喜びを表現することでもある。つまり、宇宙に生きることの目的に目覚めるとは、その根源にあるアイに帰ることである。故に、この現象世界に起きる出来事の全ては、アイに始まり、全て(現象宇宙)に遍満する大本の神(カがミつって現象化を引き起こし、現象界に遍満する物理性)の意思に基づいて現れていると言える。
我々、現象界に存在する物質生命は大本にその起源を持ちながら、今現在、世の中で神を語る者に出会うことはたやすいが、その歩みの上にある存在としては、最も歩みの目的を忘れている状態にある。人々は、神を語っているが、その悟りは宇宙の実態からはかけ離れてしまっている。
その螺旋の無限なるハタラキは、トキを軸にして、ゼロに帰ろうとするハタラキである。我々の感覚で言えば、時間は未来に向かっていると思うかもしれないが、その未来に向かっている我々の旅は、実はゼロに向かって帰ろうとすることでもあり、その大本にかつての出発点が待っている。
人はしばらくの間、自我を膨らませ表現することに奔走し豊かさの追及をしてきたが、その行為は人の本質の愛から離れ、孤独になる道であった。長い間、本当の愛から離れることにより、人々は真心に染み渡る愛の場にいつしか出会うことを憧れ、そして、その愛の場の空気に触れたとき、言いようのない懐かしさと喜びを感じるものである。それは、かつての聖人聖者が求めてきた個のサトリ、さとりを超えたサトリ、フトマニのサトリ、コミュニティのサトリ、に到達する精神となる。

個のサトリ
コミュニティのサトリ
フトマニのサトリ

みかこ:
今の話を聞いて、「神一人でも多くの人民に帰って来て欲しいのぞ」と、火水伝文に書かれていたことを思い出した。前にジイジがまことの家で、神は人間の前にヒフミヨイムナヤコトと行く道を敷いてくれたという話をしてくれたことがある。

ジイジ:
それはお釈迦様の話。仏教には、他の宗教にはない道という教えがある。つまり、生きることは道を歩む旅だという。
30歳を過ぎ「私は一体何をすればいいのですか」とお釈迦様に聞いた時、「私は、その問いには答えん」と言われた。「その問いには答えん」という事は「聞いても無駄だという事ですか」と問うと、答えてくれたんだよ。どう答えてくれたかというと
「お前は今、道の上に立っておる。その道が一だとしよう。道は十をもって目的地とする。そうすると、お前は今一に立っていて、十はどういう答えなのかと問うている。
しかし、十を聞くと、人間というものはおかしなもので、飛び越えて十に行きたくなる。賢明な者でも、一、五、十と行きたくなる。
しかし、この道は道の上のレールに乗っておる。という事は、どうしたらいいかという事を聞かなくても、目の前に向かって進めばよい。そうすると二が見えてくるだろう。
二の目の前を進めば、三が見えてくるだろう。そうしたら、四になり、五になり、六になり、いずれは九となり十となる」と言われた。
「しかし、お前は地上を行くものである。そして、私は地上にお前の行く道(レール)を敷いた。
それは、私の位置から見るとまっすぐの道である。ところがお前は地上を行くものであるから、山にあたれば上り坂となり、つらいという。そして山を越えたら、今度は下り坂となり、怖いだのと言う。川を渡るときには落ちそうだという。しかし、私はまっすぐの道を引いた。
例えば、お前が山の麓まで行き、山に登らず迂回して道に戻ったとしても、それは私が敷いた一本の道にはならない。なぜかと言うと、これはまっすぐの道なのだから。そこにヒフミヨイムナヤコトの道がある。」
お釈迦様は、そう言われた。
「要は、余計なことを考えずに、目の前の道を進み、出会ったことをいただいていけという事か」と思った。それは、誠実に、誠実に出来事をいただいて行かなければならない。野心(自我)を持って歩むようでは道を見失うことになる。

みかこ:
この話はとても重要な話だと思った。人間はヒフミヨイムナヤコトの道の上にいながら、一、三、七、十とか、一、六、九、十というように、みんな癖があって都合のいいように飛ばしたり、迂回したりして行こうとする。

ジイジ:
人は目の前の出来事をいただいて歩むことより、目的を先に描き、行こうとする。そこでは、いただくという精神がないから、現実の伴わない理想を追い求めても、継続することは難しい。みんな評論家になって、その理想を所有することになる。

みかこ:
私もプレゼンを創ったりして、ヒフミヨイムナヤコトの道の上にいる事は頭では理解していたけれど、自分がヒフミヨイムナヤコトを確実に歩む事は、目の前に与えられた日常の全てを一つひとつクリアーしていく事の先にしかないんだと、改めて思った。そうすると、私はよく帰りたいと、目的のない思いを巡らすのだけれど、それは、どこかで目の前にあることをすっ飛ばして帰りたい気持ちが有るからだと思う。しかし、そうではないと、今、理解した。

ジイジ:
それは、ヒフミヨイムナヤコトの道順をきれいに歩んで、全てきれいにして、整えて行けという事。

みかこ:
そのような姿で、神様は帰って来てほしいんだね。

ともこ:
だから道順を間違えてはいけないんだね。

ジイジ:
神様のところへ帰るという事は光の中へ帰るのだから、一輪の汚れ、にごりがあってもいけない。

しゅうご:
さっき、潤三君がスケールの大きい話と言ったけど、日常の小さい中にもその道があり、その緻密な作業を怠っていることがある。

みかこ:
だから、面倒と思っても、今、目の前のこれを、きちんとクリアーしないといけない。

ジイジ:
カタカムナで定義づけられている「カ」は、この世界を現象化するための最極小微粒子、最小単位なんだよ。これは人間が物理的に観察できないもの。それが、どこでどのようにこの世界を創っているのかというと、そもそも「ない世界」すら「カ」で創られている。現象界という「ある世界」、その中の「見える世界」と「見えない世界」、つまり我々の物理性も霊性も「カ」で出来ている。現代人の一生が28000日だとして、人は一日に約3000回の選択をするといわれ、一生ではその28000倍の選択をする。さらに、物理性だけでなく、思いは走馬灯のように常に巡っているのだから、毎日頭に巡ることはどれだけあり、夢の中の思いも含め、そのすべてが「カ」で創られているわけだよ。それは、全てカミの遍満する領域。物質の「カ」は荒いが、霊性の「カ」はとても緻密。

あや:
響きも「カ」なのかな。

ジイジ:
そう。全ての原料が「カ」なのだから。という事は、「カ」は微細に違いを表現しながら、全てのところに満つり、現象化している。それは、思いとか、物――たとえば鉱物とか植物とか動物とか、そういった形でそれぞれに相応しく「カ」が満つっている。この「カ」が満つっている法則は、全て「カミ」という物理性によって創られているもの。この世界は、「カミ」という物理性が秩序としてハタライて動いている。因果応報の流れでも時すらも「カ」が満つることにより創造され動いている。つまり「カ」が満って現れている以外に存在するものはない。「カミ」は全てに遍満している。我々がこのように感情をもって、自らの人間性を表現することにすら「カミ」のハタラキは関わっている。

ともこ:
わかった。だからやっぱりヒフミヨイムナヤコトの順序を怠ってはいけない。どれも飛ばしてはいけない。

ジイジ:
我々は、この世界を創造するときに現象として働く神の法則ほど完璧に生きることはできない。しかし、常に己にとって必要な一番を最優先にし、日々の一つひとつを大切に生きなければいけない。だから、脱いだ履物をそろえなさい、と言うんだよ。

みかこ:
天は潜象界の側から現象界を創るときに、カミがヒフミヨイムナヤコトの順序に沿って世界を創ったわけでしょ。でも人間は創られた側から、帰る時にヒフミヨイムナヤコトの順序にのり、自らの意志でゼロに戻っていく事の出来る唯一の生き物なんだよね。

ジイジ:
だから、意志がそこに伴っていることで、大本のゼロと対向発生の対象に選ばれた。ライオンはライオンのままで、物理性の対向発生の対象にはなるが、霊的な対向発生の立ち位置には立てない。

みかこ:
それが、今わかった。カタカムナの三層構造の図があるでしょ。そこにはアマ界があり、そのエリアは、カムの側からこの世界に飛び出していて、人間の側からも現象界からの意識をアマ界に向けたとき、カムの世界の側に意識が飛び出すことになるのだけど、ジイジがあるとき「今の人間には、アマ界の存在も潜象界の存在も意識にないから、そちらに意識を向けることはない。だから、アマ界との対向発生が成立していない」と言った。人間が天の方に心を向けたとき、人間の意識の中にアマ界が成立し、天との共同作業が起こる。

ジイジ:
あのね、天に心を向けるというが、このオモイを竿の先にくっつけて天に届けるなんてことは出来ないんだよ。つまり、天の存在とはどのような存在なのかと言うと、テンだから点なんだよ。実際に天はどこにあるのかというと、僕は斜め45度先のセントラルサンを意識するけれど、それは宇宙の中の微細なたった一つの天の川銀河の中心にしか過ぎなくて、本来、天とは大宇宙全体のことを言うんだよ。ただ、我々はこの天の川銀河生命として地球に存在するのであり、もっとその天について身近に考えると、それがどこにあるのかというと、ここも、ここも、ここもそう、これって点て言うんだよ。この点が宇宙に無限に集合し、天を創っている。そうすると、その一点の微細な単位は「カ」の事と言ってもいい。つまり、天とは、全て「カ」でできているのであり、宇宙の至る所にその「カ」が満つり、遍満し、カミの物理性を表現している場ということになる。そうすると、あえて斜め45度に心を向けるということも、日頃からそういった特定の方向に意識を向けていることにもなる。そのからくりが解ければ、意識を向けるべきセントラルサンはどこに有るのかというと、いたるところ、どこにも、その存在があると言える。しかし、我々、地球上六方向に生きるものとして、とりあえず斜め45度上方に意識を送る、それで良いのです。そもそも宇宙に方向はないのだから。

みかこ:
回転しているしね。

ジイジ:
そもそも、我々の成り立ちは、マワリテメクル(自転公転)のもとに時間軸の上にのっているのだから、宇宙の中では向かう方向というのは、特定できない。そうすると、テンというのは何なのか。テは二面性。ンは前の音を強め起動させ発生させる。だから、テンというのは二面性が強く、起動し、動き出すということ。そこで、二面性の一方のテンとは、天と言い、無限なる宇宙のことを指す。もう一方のテンとは、点と言い、無限なる宇宙の最極小微粒子のことを指す。それはどちらも、極限の世界からの発生であり、出発点のことを指す。我々が認識する宇宙の二方向の極限の対向発生源のことを指す。点は天を創り、天は点を内包する。

そういった原理で、我々が解釈できる宇宙に対し、全ての発生源は、物理的に言えば、とりあえず、我々の生命原理の元である天の川銀河の中心であるセントラルサンのことを指しているが、本来はさらに大きな宇宙の元のことであり、それは特定できないが、天というのは二つあって、見えない天の巨大すぎて解釈できない面と、そのように捉える物理性でも霊性でもないある位置、心を向ける位置という天がある。
お釈迦様は、法華経の前に、色即是空を弟子の舎利弗に向かって説き、それを舎利弗が般若心経として体系化した。全ては空であると。特定するから多いとか少ないがあるのであって、それは位置を特定しなければ「ない」のだ、と語った。これは、今ここにあると思えばあるが、そこに気が行かなければ無いのと同じだ。
例えば、酒飲みが、町で酒屋の看板しか目につかず、ほかの景色が目に入らないとか、彼女にぞっこんになると、どんな欠点もよいことに見えてしまうとか。この事例はあまりにも我々の身近に基づいていて、あまりにも巨大すぎて見えない天の解釈とかけ離れているように思われるが、どちらもこの世界のことである。要はこの原理は、そこに意識が行かないものには、観えないものであり、ないのと同じこと。
これは、ある一点に集中して意識を向けると観えないものが観えてくる、そういった境地を説く視点のことであり、囚われている人間を救済する道であり、きわめて奇抜な理論だが、屁理屈でもある。身の回りに囚われて不自由になっている人間が囚われから解放される、究極に楽になる方法を説いたんだよ。

みかこ:
いくらお酒が好きで酒屋しか目に入らなくて、それ以外のものが見えなくても、酒屋以外のものもあるものはあるよね。

ジイジ:
あるものはあるという事を、よく目を開けてみる。そうすると、この世界が何かという事が初めて理解できる。現代人の物理性に汚染された偏った目線により、意識が届かないものを観ることを怠り、それをないものとして自らの理論を成立させ納得することは、偽物を真実として見ていることになる。

みかこ:
ごまかしだね。

ジイジ:
ごまかしなの。

みかこ:
そうすると、あるものは全てあるのであって、それが全てつながり合ってこの世界が成り立っているというところに行って、初めて、この世界の実態というものが観えて来る。

ジイジ:
我々が、現象界において、あるということを理解し、自分もいるという事を理解する、それが生きているという事。それに相応しく現象に出会っている。そして、現象に出会いながら、一体全体、自分は何者なのか、何故自分はここにいるのか、自分はどうしてこの状態なのか、という事を探っていくと、宇宙の成り立ちに行きつく。なぜなら、今ここに、銀河の仕組みがあり、太陽系があり、他の惑星と姉妹としてここで地球が活動している。そのすべての活動は、どう考えても、地球を絶妙な位置において、今のこの目の前ことを表現するためにあると、確信のように感じる。そうすると、自分という存在は、宇宙の、さらに奥の、潜象界の意向が働いて創られたととれる。その昔、神様はいつまでたっても孤独だった。その延長に、自らの存在に対し理解の確信を得ようとしたとき、そのための現象化を、長い間、どれぐらい長いかというと、僕が一生語り続けても足りないぐらい(笑)長い間続け、今やっとここまで来て、互いを理解する対象として出会い、それを表現(現象化)するところまで来た。(喜び)

みかこ:
ジイジは、ものの観えない人間にものが観えるように導いて、対向発生するものを育てているんだと、今思った。

ジイジ:
60才になる前に僕が言い出したのは、どうも地球が狭いということ。実は太陽系も狭い。これからは銀河を意識して生きていこうと思い、生前葬を行った。
今度70歳になって、全ての人間に目覚めるための道しるべを示す、つまり、悟りにいざなうことが、自分が生まれてきた目的だという事が分かった。だから人間に対して差別的に見る目は何もない。厄介なことに、人間というものは、あまりにも自分の癖性分に溺れすぎた神様の失敗作なのかもしれない。そのように、自らが観えない。歴史を振り返って客観的に見ても、あまりにも幼稚で愚かしい。それに、邪悪で巧妙なところが、擁護のしようがない。そのような愚かしいものであるならば、動植物の様に自我を持たない生き物ならよかった。しかし、それでは、この大いなる対向発生の対象としての価値は消えてしまう。
一体全体、どこまでいけば人間たちは、この大いなる舞台に出現した目的に相応しいものになるのか。

みかこ:
今、この話を聞いていて、人間って物が観えないじゃない。例えば、酔っぱらいの親父の話。自分も一緒だと思うんだけど、ジイジに出会わなければ、自分の実態をわからないままに、なんで自分の人生にこんなことが起こるんだろうと思いながら生きてきて、過去を置き去りにしながら終わっていくだけ。そんな人生を歩む人々は、自分の価値感でしか捉えられない狭い範囲で世界を観ているけれど、観えていないところにもいろんなものが存在し、そこに影響を与え、その結果、与えた影響が自分に返ってきている。例えば、酒飲みの親父の意識にはネオンしか見えないけれど、街にはいろんな存在がいる。

ジイジ:
その、酒屋しか目につかないというのは、ある意味、経典がもたらす境地だよ。他のものは「無」なんだから。意識にあるのは酒だけ。

みかこ:
それは偏った境地だよね。でも、その酔っ払いの親父には、奥さんがいたり、子どもがいたり、奥さんは泣いていたり、あるいは浮気していたりと、背景にはいろんなことがあって、それが世界に影響を及ぼしている。使っている紙はどこかの国の森林を伐採したもので、捨てたごみはどこかを漂流していて、そうやって自分がやった何かが、風が吹くと桶屋が儲かる式に、すべてがつながり連動して、こうやって今のような地球の2030年問題にまでなっていったことを、人類はわからなきゃいけない。

ともこ:
なんか今、いろんなことが分かったという気持ちがする。今朝ジイジが話をしてくれた時、いつも語られている話なんだけれど、それは、天にお伺いを立てると同時に、自分が気付いたことを天に返しているんだと聞いた。最近、自分はお伺いを立てる事はするようになった。自分の自我が手に余るものだから、どうしたらいいでしょうかとお伺いを立てるようにはなったけれど、もらう一方で、それが自分の中で何か気づきになった時、向こうに返すという事を全くやっていないと思った。今この話を聞いていて、自分の中でカタカタカタと色々つながっていく感じがあって、これを今この瞬間返していく事なんだなと思った。

ジイジ:
人間の動きと天は連動しているのだから、目覚めた人間が、その目覚めの方向に行けば行くほど、天、もしくは大いなる存在は、常に喜びをもって迎えてくれる。しかし、目覚めに移行した段階では喜びは発生するが、それをそのままにしておくと今度は停滞していくことになる。宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しながら進化していくプロセスで、そのプロセスを通じて発生する喜びが、神様の食べ物。だから、人間が学んで成長し喜びを発することが、神様の食べ物となる。そのように考えたら、今更宗教に走る必要はなく、物理性の世界を観察していくとその奥が見えてきて、その成り立ちがより理解できる。そのように生きたとき、自己コントロールができるようになり、生きる事が整っていくと、それが「生きることは直会」という、天の意向を現象化し、天の代理として地上に表すことになる。それは、生きることが、対向発生として天と共に世界を創造していく充実した人生を歩むこととなり、人が地上に生み出された本来の目的に目覚めることと言える。

僕は今、この話をしながら、そういった大いなる仕組みから外れた現象や存在は、この世界にはないと思うんだよ。それでも、違う観点から見ると、それぞれの立場からの視点で、なんだかんだと人間たちは物申すが、それも多様性のうちにあることとして、個性的であっても良いのだろう。しかし、この視点を原点として、多様性が展開されることが望まれる。

ともこ:
今改めて、最初のチナッピーの話に戻ると、だから道は間違えてはいけないんだと思った。

ジイジ:
あの交差点から右へ回ってどこへ行こうとしているのかを振り返ると、道は日本中つながっているのだから、そのまま先へ行くことも良し、間違いに気づいたらUターンして戻ってくるのも良し、というような話ではない。それこそが、道が間違っているという事。目が観えていなければ、そのまま進んでいくのが人生であり、人類でもある。
まっすぐの道というのは、天から見るとまっすぐな道だと、お釈迦様が言われた。方向は、どのみち神様へ帰っていく悟りの道として、まっすぐ引いてある。それは、一人ひとり同じではなく、上る苦しみ、下る苦しみ、渡る苦しみ、いろんな事に出会うが、上から見たらそれはまっすぐの道なのだ。いろんなものに出会うのが地上を生きるものの定めであり、それを、山の手前で「上り坂が厳しいから迂回しよう。」と迂回し、向こうへ行ったところで、道はまっすぐではなくなってしまう。そもそも迂回したのだから。だから、まっすぐ目の前に進め、と言われる。
確かに、上るときはエネルギーも時間もかかるかもしれない。降りるときも怖いと不安が出たり、その道に出会ったことについて不満が出るかもしれないが、それがまっすぐの道を行く者の定めであり、その姿勢が、外さぬ道を歩むことにつながる。
だから、悟った者にとっては、困難は問題ごととはならない。それは、レールの道を歩む上での枕木にしか過ぎない。悟れば悟るほど、己の自我を超え、さらにスケールの大きなことや、他者のことが課題となり、道を進めるための原動力となる。
かつては、山にこもり、瞑想し、世情の汚れから解放され、無の境地に至り、美しく昇天したものたちがいた。しかし、この世に貢献するためにある人の道、定めを断って道を究めたからといって、それを尊いとは言わない。この世に人として生を受けたものは、世に出ることにより、ヨコシマな世を味わい、その歪みを正してこそ、人としての歩みを全うしたと言える。それは、どんな賞賛よりも価値のあることである。
ヒフミヨイムナヤコトの大いなる定めを、正直に、素直に、前向きに、怠らず歩めば、人を必ず目的の地にいざなう。