令和時代の解決策!~ 介護編

切り替わりの時代に起きる様々な問題に
私たちはどのように対処したらいいのでしょうか

 
ジイジは30歳のときから、いろいろな人々の悩み相談を受けるようになりました。その頃、たくさんのお年寄りたちがジイジのもとに相談に来ていました。お年寄りの相談を受けながらジイジは、「自分が40歳になったら何をするだろう?」と考えていました。「現代のお年寄りは家族がいても孤独、老人ホームへ行っても孤独。その不幸を解決するために、お年寄りたちが豊かな人生で終われる老人ホームをつくろう」と思いつき、25歳から会社経営して稼いだお金で老人ホームを創ろうとしたのです。

当時の想いを今、ジイジはこのように語ります。
「自分が創る老人ホームをイメージしてみたら、お年寄りばかりがいる場所だった。そこでのお年寄りたちは病気の話やお金の話など、そんなことばかりを話題にして、それはとても印象が良くなかった。それに、お年寄りが介護される側になって、どんどん衰えていく世界だから。そこで、お年寄りたちが死ぬまで元気でいられるのはどのような世界だろうと考えた。そうしたら、若い人たちと一緒に暮らせること。子どもたちがそこにいること。そして、お年よりたちが持っている経験を活かせる場所を用意することで、自分が若い頃に得た技術や能力をいつでも活かせる場所に暮らせること。そういう場所を創るべきだと思った。人は誰でも必ず死ぬ。そのときに、最後に良い思い出を持って死んでいくのが一番大切なことだ。」

そこでジイジは考えました。
「血縁の家族が核家族化し壊れていく今の風潮の中で、血縁を超えた人たちが家族のように一緒に暮らせる場を創ろう。そこには、子どもたちもいて、若者もいて、子育て世代の夫婦もいて、お年寄りもいる。そこではそれぞれが自分の持っている能力を全体のために活かし、そして全体は一人ひとりの存在を認めてくれている。それは施設ではなく、大きな家族が暮らす場。そして、子どもたちはたくさんの兄弟の中で平等を学びながら育ち、子どもはみんな兄弟。年上の人たちはお兄さん・お姉さんだったり、親だったり、おじいちゃん・おばあちゃんだったり、血縁を超えてみんなが互いに助け合う場所を創ろう。そこは子育てや教育の現場であったり、若者たちが自分のパートナーを見つける場だったり、働く場であったり、お年寄りたちが老後を暮らす場であったり、いろいろな要素がひとつの村のようにある場だ。」

そんなことを考えながら、40歳のとき会社をやめたジイジは、自然と共に生きることをイメージし、農業の勉強を始めました。そして42歳のときに富士山麓に移住し、20人の仲間と共に木の花農園を創立しました。それが、かねてよりジイジが描いていたゆりかごから墓場までをみんなで共有し、共に豊かに暮らしていく、新しい時代のコミュニティ・木の花ファミリーにつながっているのです。

6月21日の大人ミーティングでは、6月4日に放送されたNHKクローズアップ現代「介護施設“虐待死”はなぜ?」をみんなで観ました。提案者であるジイジは、その番組を観る前に次のように語りました。


 
ジイジ:
現代社会では、歳を取ると、ほとんどの人たちが介護施設へ行き、介護をされて一生を終わっていきます。そのときに、多くの人たちが老人性認知症、つまりボケるという症状を見せるようになっています。しかし、なぜ現代人は歳を取ってそのようにボケてしまうのでしょうか。ボケ自体はある意味、生活習慣病と言われています。つまり、生活の仕方が自然から外れているということで、そのことが起きているのですが、それは現代人の生き方の問題なのです。

そういった現状が今、日本中に起きています。今の日本経済の景気はそれほど良くはないのですが、介護業界だけは発展的です。そのような中、子どもを虐待する親がいて、親が子どもを虐待してはいけないという法律ができました。それと同じように、介護施設でも、施設利用者を施設の職員が虐待するケースが頻繁に起きています。これは今まで、施設の職員の側に問題がある、つまり簡単に言うと、虐待する側が悪いのであって、虐待される側が被害者であり虐待される側に問題はない、という捉え方でした。過去にも、学校のいじめの問題では、いじめる側に問題があって、いじめられる側は被害者という捉え方だったのですが、実はそんな簡単な問題ではありません。真実は、いじめられるのにふさわしい人と、いじめるのにふさわしい人がいて、いじめが成立するように、介護施設で虐待死がなぜ起きるのかというと、そのような事件が起きる環境と、そういった虐待を受けるようなお年寄りたちの様々な現状があるのです。今、日本の介護現場では、きつい・勤務時間が長い・給料が安いという労働条件からして、そこで積極的に働こうとする人はあまりいません。そこで国は法律を変えて、外国の人たちに介護を担ってもらおうとしています。外国の人たちがそういった環境で働くことは、かわいそうですね。そんな様々な問題を抱える介護現場でお年寄りたちをこれからお世話して、ストレスが溜まって、もし虐待でもしようものなら大変です。

このように、様々な問題が山積している社会の中で、根本的な問題を解決せずに、表面的な対処だけで取り繕っている状況が、私たちが生きる現代のすべての現象に現れています。ですから、こういった現代が抱える様々な問題はもっと深いところにあることを悟り、すべての現象は「根本的な解決から取り組みなさい」という、時代からのメッセージと受け取ることもできるのです。

今までの時代は、私たちが正しいと思って行ってきたことが、世の中の矛盾につながる時代でした。しかし今、その正しいと思って行ってきたことが、実は間違いだったことが解き明かされる時代になったのです。私たちは今そのように真実を知ることで、「なぜそのような問題が起きたのか」「それに対してどうしたらよいのか」ということを考え、囚われのない明快な捉え方でこの番組を観ていきましょう。

 


番組を観終わった後、メンバーからこの番組に対する感想がシェアされました。その中で、木の花ファミリーメンバー最年長である80歳のえいこばあちゃんは、次のようにコメントしました。


えいこばあちゃん:
私はこの番組を観て、いかにボケないようにやっていくのかということを思いました。自分がいかにボケないで、どうしたら毎日をますます楽しく過ごせることができるのかを考えたらいいと思って、最後はボケるかどうかわからないけど、いかに一日もボケないで、ピンピンコロリンでいけることを願ってやっていきたいと思って観ていました。介護施設に入るというよりも、入らないで過ごせることを考えたほうがいいと思いました。

えいこばあちゃん

 


メンバーが感想をシェアし終わった後、最後にジイジは次のように語りました。


ジイジ:
社会の現状を観ると、今、社会を生きるための構造が狂っています。いろいろな切り口で社会に問題が起きているのです。たとえば、病院経営でもそうですし、今、日本中に破産しそうな市がたくさんあります。その他にも年金の問題で、たとえば旦那さんが65歳で奥さんが60歳だとしたら、2000万円を持っていないと年金だけでは生きていけないという、政府の見解から国会でとても問題になっています。このように、今、生きるということは、お金の話によって論じられているのです。

そこで、いろいろな問題が社会の至るところで発覚してきた今、この番組を観て、みんなはどの立場の人をイメージして観ていましたか?たとえば入所者、介護をする人、それから入所者の家族といろいろな立場があるでしょう?みんなは自分がどの立場であることをイメージして、この番組を観ていましたか?(多くのメンバーから、「介護をする人」という声があがる。)

そうですね。自分のことを介護する人として観ていたでしょう?ところが、すぐに介護される人になりますよ。つまり、みんなは自分の立場で考えたら介護をする人とイメージしたかもしれませんが、私だったら、自分が介護される前に、高齢者をみんなでどうやって支えていくかということを考えます。

それから、「人間はこのような生き物なのだ」という視点で観ていました。つまり、私が子どもの頃は、お年寄りには歳を取っても年金はありませんでした。そうすると、お年寄りは子どもが面倒を見ます。それは、そういった社会の慣習があったからです。その頃のお年寄りは年金がなくお金がないので、子どもに面倒を見てもらうしかなかったのです。そこには、子どもの立場で見るのは当然であるし、見てもらうのはありがとうという心がお年寄りにはありました。

ところが今は、「子どもに面倒を見てもらうくらいなら、お金があるから老人ホームに行く」という考えや、「一番自分の面倒を見てくれる人にお金を渡そう。私はこんなにお金があるのだから」という立場を取るお年寄りが多いのです。それはなぜかというと、すべてをお金で解決する社会があるからです。今、お年寄りたちはたくさんお金を持っているのです。逆に、なぜ若い人たちは介護をしなくなったのでしょうか。それは、若い人たちは働かないといけないからです。昔は、旦那さんが働いて、奥さんはお年寄りが家にいれば介護をするのが当たり前でした。ところが今は、夫婦二人とも働かないといけないのです。それは、今の人たちは生活をするのにお金がたくさん要るようになったので、二人とも働いて稼がなければ生活することが難しく、介護をしている暇がないのです。ですから、お年寄りは施設に預けるか、もしくは「自分のお金で老人ホームへ行ってください」となってしまっている現状があるのです。このように、老いることや家族と付き合うことの意味が複雑になってしまったのです。

次に変わってきたのが、介護される人の質です。そもそも、介護される人は元気なうちは自分で暮らすでしょう?そうすると、いろいろな問題が起きてから介護施設に入るのです。そのときに、認知症になっている人や元々お金で物事を何でも解決してきた現代のお年寄りたちは、人格的に問題老人が結構多いのです。日本では、「歳を取ったら認知症になりますよ」と政府をあげて言っているのです。そんなことばかり聞かされていたら、「やはり最先端を行くためには認知症にならないと!」と何となくそんな気持ちにもなるでしょう。(みんな、笑)

今、学校の先生はとてもストレスが溜まっていますね。今の子どもは生意気でかわいくない子もいるのです。そして、子どもをしつけてはいけない。なおさら暴力を振るったら虐待だと訴えられる。でも、子どもは生意気でかわいくない。それは、親たちがそういった子どもに育てたのです。モンスターのような子どもと、モンスターのような親がいる現状の中、先日ここを訪れたゲストは、「私は先生をしているのですが、今の学校で先生たちは親のご機嫌を伺うことが最優先になっていて、とても大変です」と言っていました。それと似たような傾向が介護施設でも起きています。お年寄りを預ける家族が施設職員にクレームを言うのです。

先程、えいこばあちゃんは「私はボケないで、ピンピンコロリンで行きます」と言っていましたね。ピンピンと元気に生きて、そして寿命が来たらコロリンと潔く死ぬ、医療のお世話にはあまりならない考えだと言うのです。同じくシニアメンバーのあさちゃんは、70歳のときに木の花ファミリーに来ました。ここに来る前、あさちゃんは老人ホームへ行くか、あさちゃんの姉夫婦が住んでいるヤマギシというコミュニティに行くか、それとも木の花ファミリーへ行くかという選択肢の中で、縁あってここへ来ることになりました。来たときにあさちゃんはうつ病でしたが、ここで1ヶ月ぐらい暮らしたら、うつ病が治りました。今、あさちゃんは78歳ですが、日中は自分のできる仕事をしながら、毎日毎日夜11時、12時まで大人ミーティングに参加しているのです。えいこばあちゃんだって80歳になります(みんな、笑)

あさちゃん

つまり、人というのは、心の持ち方で脳が常に活性されていきます。しかし、ものを食べ、排泄し、物事の本質について考えず、ただ欲のままに生きていると、脳はどんどん退化していきます。つまり、欲のままに自分のことばかり考えていては脳を活性させないので、ボケるのです。「欲で活性させるのなら、それでいいのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、それでは性格の悪い人になります。それから、「自分はたくさん脳を使っている」と思っている人でも、実はワンパターンに使っているだけで、それはほんの一部を使っているだけなのです。今まで使っていなかった脳を使い出すと、大人でも知恵熱が出たり、脳の筋肉痛になることもあるのです。脳には思考筋肉というものがあり、物事を二元から三元、四元・・・と高次に捉えられるようになると、新しい脳の思考筋肉を使うようになります。ですから、人は生きていく上で、自らの人生の結論につなげる歩みを物語として綴り、どんな人生の終焉を迎えるのかというような自覚につながる充実した生き方をしたいものです。今、番組に出ていた介護職員として働く人たちも、運が悪いのでしょうか。あのような様々な問題を抱える施設で働くのは人生の問題となります。私だったら、お年寄りと正面から向き合いながら、「寿命が来ましたね」と言って送ってあげます。

今年の1月、中国から介護施設の院長や理事長などの運営関係者が木の花ファミリーを見学しに来ました。彼らとの座談会の場で、中国の女性ゲストは、「木の花ファミリーのような場所をつくったら、介護施設はいらなくなります。そうすると、私たちの仕事はなくなります。ここに来る前に車の中で桃源郷の話をしていたのですが、ここはまさに桃源郷ですね。皆さんの心がとても美しいと感じています」と言っていました。そこで私は、「中国の人たちには介護施設の要らない社会を創ってもらいたいと思います」と伝えました。

ですから、歳を取る人も、自分自身のことですから、よく考えないといけません。考えて、いつも脳を活性させることが大切なのです。脳だけは人間の体の中で歳を取らず、ずっと活性し続けられる細胞を持っているのです。その脳が、「ボケて介護を受け、最後は癌になって施設で植物人間になって生きている」という情報をマスコミから聞き続けていると、脳は「そうだ、そうだ」と思ってどんどん退化していくのです。

私はこの番組を観て、このような人生の終末を迎えない生き方を考えました。ここにいる人たちは介護する側として「これは問題だ」と観ていましたが、そんなに遠くなく、みんなも介護される側になります。そのときに、えいこばあちゃんのように「私はあのような人たちのようにはならないからね」と言って日々を生きていくとしたならば、若い人たちがあのような過酷な現場で働かなくてもいいし、若い人たちはお年寄りの優れた知恵に触れ、「あの優れたお年寄りと同じようにいつも細胞を活性させていこう!」と思うようになります。ですから、お年寄りになって体は衰えても、脳は活性し続けることができるのです。それから、脳が常に活性していると、体の衰えはゆっくりになります。ですから、認知症は現代病と言えるのです。そのような生きる上での根本的なこと、つまり人の心や生き方にメスを入れることが足りないから、現状の問題が起きているのです。

少なくとも、ここでの生活をするということは、そうした問題を解決する道を見つけられるのです。そのことに気付いたものとしての自覚を持ち、これからもっと混乱が多くなる時代に、「その問題を解決することはとても簡単なことですよ。みんなが人のことを想って仲良く暮らせたら、この世の中の問題はすべて解決します」とそのあり方を示せるように、生きていきましょう。

エコビレッジやコミュニティという言葉がありますが、そもそも私たちは地球コミュニティに生きているのです。そしてそれは完璧な調和・ワンネスで成り立っています。私たちが地球規模の意識になりそのことに気付いたら、私たちはこの星を宇宙の奇跡として表現できるのです。これは、ただ気付くだけです。どうしてそのような簡単なことが人間にはできないのでしょう。人間以外の存在は、この地球に何も問題をもたらしていません。人間だけがそのことに気付いていないのです。その気付いていない人間がもっとも能力が高いのですから、問題は大きいのです。

これから、みんなと観たい番組がいくつかありますが、結論はどれも同じです。つまり、こういった行き詰まった現状の地球の問題は、人類の問題なのです。ですから時代は、いよいよ人類に、自らが人としてここまで歩んできたことを振り返り、地球上でもっとも能力の高いものとしての生き方を問う時が来ているのです。そういった気付きに目覚めると、人類として一番身近な存在が自分自身であることに気付くのです。ですから、私たちはこれからまず、人類の代表として自分自身を振り返っていきましょう。

 

生きることがお金ではなく
人々の絆によって支えられる社会づくりのために
私たちにできることは
今ここからみんなのことを想い助け合う世界を創ること。
それがこの星に生きる生命の姿なのですから。

 

 


気温の寒暖差や気圧の変動が激しい今

ジイジ:
最近のような気温の寒暖差や気圧の変動が激しい時には、気合を入れて生きていくだけでは、人間の欲の心がそこに働き、体の故障の原因にもなる。こういう時だからこそ、落ち着いた精神状態となって、流れやものの道理を見極めることが大切だ。だから何かをする時には、常に一呼吸を置いてから行うという余裕が必要なんだよ。

ようこ:
ちょうど今、18日に新潟県で震度6を観測した地震のことや、大阪で警察官が刺されて拳銃を奪われた事件のことを思っていてね。今は、太陽の活動が弱まっている時期で、銀河からの宇宙線がたくさん地球に入ってきているから災害が多発したり、それが人の心にも影響を与えて犯罪も増えるということを思っていた。だからそれが、今ジイジが話したことにつながって、ただ気合を入れていくということではなく、そのような宇宙的な流れも観て落ち着いて冷静に生きていくことが大切なんだよね。ただ闇雲に一生懸命ではダメだよね。

ジイジ:
銀河の宇宙線が入ってくるということは、悪いことばかりではないのかもしれないね。

ようこ:
そうだよね!

ジイジ:
つまり、「太陽真理」ではなく、「宇宙真理」は一段上のものであるわけだから。そうすると、太陽真理であるならば、我々の心と連動したこと、たとえば心の優しさや絆を表している。もしそれが宇宙真理であるとしたならば、それをポジティブに捉えると、「なぜこの世界が創られているのか?」という、生命の本質である大本の目的に到達する、より深い真理を産み出してくれる。

こういった切り替わりの時に、闇雲に自我に任せた意識にシフトし過ぎると、それを調整する現象が現れてくるものなのだ。だから、社会的には問題事としてブレーキがかかるようなことが起こり、物事が順調に進まなくなる。それから体であれば、よく考えずに使い過ぎると故障するような現象が起きてくる。これはある意味、健全に生きるための安全装置のようなものだね。

もし、人が太陽の意思を感じているのなら、人々は愛と絆で調和し、物事がうまく進むものだ。しかし、太陽は逆に人々にブレーキをかけて、「よく考えなさい」というメッセージを与えているという解釈もできる。何が本質として求められているのかを冷静に考える時には、これからやろうとすることに対して抵抗が起き、それを気付かせてくれるということだ。

今年は、蓮の葉の丈が短いんだよ。気温が特別低いという感じもしないが、高かったり低かったり、とても面白い現象だ。それで蓮の葉の丈が例年より短く、生育が遅い。3年前に蓮を栽培し始めてから、初めてのことだと感じている。

ようこ:
そうすると、畑隊や田んぼ隊の人たちは、もっと作物の変化を感じているのかな?

蓮池で草取りをするジイジ

ジイジ:
それは、自然のものに限定してそうなっているのではないかと思うんだよ。たとえば、蓮池の蓮やそこに生えている自然の草とかね。でも、人が関わって育てているものには、そこまでの違いはない気がしている。
だからこれは、「今年もこうだ」という周期的なことではなく、「毎年毎年違うのだ」という感覚で観ている。その年その年どころか、その瞬間瞬間を常に新鮮に観ていくことが大切なんだよ。

ようこ:
新鮮に観ることができる眼と心を持たないといけないね。

ジイジ:
それは心の余裕と広い世界観がないとダメなんだよ。

ようこ:
そうだね、囚われていてはダメだね。

ジイジ:
物事を冷静に正しく観る時に、やはり多様性ある仲間たちと連動していくことが大切だ。それが、コミュニティで生きることの大切なのだろうと思う。そもそも、宇宙を生きるということは、宇宙コミュニティの中にいるのだから。いろいろな立ち位置からのメッセージの集合体として、我々は存在しているのだから。

 

※それからジイジは、「行ってきま~す!」と言って、作業に出かけていきました。

 

 


「大正直」から「大調和」へ ~ 新時代「令和」を読み解く 2

時代が「令和」になって数週間が過ぎたある日、ある若いご夫婦が木の花ファミリーを訪れました。奥さんはかねてよりファミリーをよく知っており、お坊さんであるご主人にも紹介しようと一緒に訪問したとのことで、見学ツアーやウェルカムコンサートを体験してご主人も感銘されていた様子でした。そしてその日の夜の大人ミーティングで、ジイジはこんな話を始めました。


ジイジ:
お坊さんは、長年の慣習の上に乗り、今の地位を保っています。それは本人の実績ではありません。ですから、その姿勢で生きていると、どこかに矛盾が発生します。これまでは職業としてそれで食べていければよかったのですが、時代が変わり、一人ひとりの生き方が問われるようになると、これまでのような在り方では、自らの内に疑問が発生します。
現代のお寺の在り方では、これからの時代を生きる人々に、生き方を提案することはできません。人々の心の問題も解決できません。今日ここを訪れたお坊さんは、お寺は今や葬儀のためにあるようなものですと話していました。精神的な活動もするものの、基軸が伝統の上に腰かけているわけですから、斬新さがないのです。そのお坊さんも、どこかでそれをわかっています。わかっているからこそ、「これが正しいのだ」と思い込まないとやっていけないのです。そうでなければ、挫折するかのどちらかです。
お寺では、人間はどのように生きたらよいのかということに対し、その教団の過去の実績という限定された世界から答えを出そうとするので、無理が発生します。それでは画一的な解決策になってしまいます。これからは、宗教が示すような解決策は通用しなくなるということを、僕はずっと語ってきました。一人ひとりの人間が出会う出来事は、それぞれにオリジナルなものです。宗教は、そういったものにも対応してきたかのように思われていますが、一人ひとりそれぞれに違う問題ごとに対し、マニュアルを設けて解答を出しているようなものなのです。マニュアルを出しているようなものでは、解決策は見出せません。では何が解決するのかというと、開眼です。目が開くということは、一人ひとりがそれぞれの中に眠っているものを目覚めさせるということです。一人ひとりの実体は、それぞれにオリジナルな目覚めを促すために用意されているのです。

生きていると、外からたくさんの刺激が来ます。明治、大正、昭和、平成、そして令和と時代は移り進んできましたが、いつの時代も同じ刺激が来ているわけではありません。昭和の初めのころは、まだ日本は世界の大国に追いついていませんでした。しかし見栄を張るように無理をして軍事力を強化し、その盲目な判断が大東亜戦争につながりました。
その後、戦争に負けて自分たちの愚かさを知ったと同時に、日本人の高い能力、即ち精神性を完全に失いました。それは大和魂の喪失です。そして西洋物質至上主義にかぶれていきました。中国でも、共産主義によって東洋の叡智が失われました。共産主義は中国の人々の伝統的な誇りを奪い、日本人は戦争に負けたことによって大和魂を失ったのです。戦争でゼロ戦に乗ってアメリカの軍艦に飛び込んでいくのは、大和魂とは言いません。本来の大和魂とは、そのように命を粗末にするものではなく、争うことを避け、真実の探求のもとに大調和の精神を養うものなのです。それを日本人は失ったのです。

何かを失えば、何か代わりのものを見つけなければなりません。それが西洋物質文明でした。精神的支柱を失ったところへ、欲望をくすぐられ、人々は柱のないまま、与えられるままに「これが正しい」と向かっていきました。共産主義によって本来の精神を奪われた中国も、日本と同じように代わりのアメをもらったようなものです。改革開放によって欲望をくすぐられ、今も強大な国になろうとしていますが、その精神は西洋的な覇権主義です。
日本も、中国も、他の東アジアの国々も、西洋的覇権主義の汚染から未だ抜け出せずにいます。しかし時代は、800年間の隆盛期を終えた西洋文明が停滞期へ入り、東洋精神文明が花開く時代に入りました。ですから、そういった借り物精神の上に国を築き上げてきた日本や中国では、より多くの矛盾が起きています。アメリカやヨーロッパでも矛盾は起きていますが、それは元々の西洋文明が熟した上で発生しているものですから、ある意味当然のこととして定着しているのです。しかし、日本や中国のような東アジアの国々の西洋的発展は、人々の精神的成り立ちに馴染まないために、西洋に現れている矛盾よりも、より過激なものとなって現れるのです。

そこで今、僕は何を伝えようとしているのでしょう。
多くの人々には、新しいものが信用できない背景に、古いものに固執している習性があるものです。これまでの時代は、技術革新でも社会改革でも、新しいものに飛びついて物事を進めてきました。しかしそういったものに確信が持てなくなると、今度は単純に古いものに解決策を求め、また宗教回帰のような動きが起きているのです。ですから今、日本だけでなく西洋でも、お寺で瞑想するなどの修行的な行が流行っています。しかし、それでは根本的な解決策を見出すことはできません。それは過去のある時点でのレベルで通用するものでしたが、時代が未来へ向かって進化していく中で、そういったものはもはや通用しなくなり、結果を生み出すことはできません。ところが現代人は、未来への見通しが立たないために、過去へしがみついているのです。
視野を広げて時代の変遷を正しく捉えれば、宗教の歴史は3000年余りの歴史にしかすぎません。太陽の1らせんは25800年です。人間の歴史は400万年です。地球の歴史は46億年です。そういった尺度からすれば、宗教の歴史は一瞬のことなのです。過去に戻り、それで安心しようとしてはいけません。それは単に、自分の心が納得できる理解の範疇で、落としどころを探し求めているにすぎません。

僕は難しい話をしていますか?それは、今朝、重要なことがあったからです。それをすべてみんなに伝えようと思っても、みんなはまだ受け取る心の準備ができていませんから、みんなにも理解できるように話します。

2012年12月21日に銀河の冬至を越え、太陽の1らせんである25800年のサイクルがひとつの区切りを迎え、次の段階に入りました。有史と呼ばれる地球上に表現された人類の文明の歴史は、その1サイクルの1/4の6450年です。それ以前には、人々は自然と共に生き、文明と称されるような記述はありません。そして、25800年の1/4を経た現代文明の物質的発展はピークを迎え、人類の精神性が闇のピークを迎えた今、私たちはその歩みの軌道修正に入ったのです。
軌道修正をするとは、生きることへのエネルギーの使い方が変わることです。25800年のサイクルを終えて次のサイクルに入るということは、元へ戻ることが始まったのではなく、次の段階のサイクルへ進むことなのです。そしてその軌道はらせんを描いているのですから、直線のように進んで急に方向転換するのではなく、常に軌道修正をしながら進んでいるのです。ですから、伝統を重んじ、語ることは大切なことですが、それを真実として固定し、直線的に進み続けることは、時代の流れや変化に基づく進化とはずれていくものです。今日ここへ来たお坊さんはまだ若いですが、既に限界が来ていることをどこかで感じているのでしょう。だからこそ、「自分の道はこれでいいのだ」と自らに思い込ませるために、かえって言葉が強くなるのです。その響きを、一緒に来た奥さんは日々の生活の中で感じているから、「お寺にいると気持ちがもやもやしてくる」と言うのです。簡単に言うと、お坊さんは頑固者になってしまっているということです。

これは仏教だけの話ではなく、現代に存在する様々な宗教にも共通する話です。宇宙的には、宗教の時代は、それが必要とされた時代の余韻は未だに残ってはいるものの、既に終わりを迎えています。そこで私たちは、どのように次の時代を迎えるのかが大切なのです。縁あって出会った聖人の教えに則り、何百年も何千年も同じことをやっていては、古くなるに決まっているのです。
これからの時代は、一人ひとりが天と直結した信仰のもとに、自らの進む方向を見出していく、そのために一人ひとりが自らの存在する意義に目を覚ます時代です。宗教が果たしてくれた役割は終わりを迎えますが、私たちに信仰は永遠にあり続けます。それは、信じることの対象が変わるだけなのです。しかし現代の人々には、そのことがなかなかわかりません。なぜなら、自ら考えて判断をしないことに慣れてしまっているからです。考えなくてもいいように法律で縛られ、宗教で縛られ、教育で縛られ、マスコミの情報に操られ、いかに考えなくてもいいように現代人は仕向けられてきたことでしょう。考えなければ、自然界の動物や植物のように、無の境地において、世界に害をもたらすようなものではなくなるのかと言ったら、人間についてはそれも違います。では、考えないように仕向けられると何が起こるのでしょうか。それは、与えられる情報のままに、与えられるもののままに、何も考えず、欲に囚われ闇雲に生きていくのです。
その欲は自我を増幅させ、目覚めることから人々をより遠ざけます。こういった現象をもたらすものとして、宗教も例外ではないのです。これが、現代社会の奥に仕掛けられている、何者かによる罠です。その罠に、現代の人々ははまってしまっています。そしてその罠は、誰か一人がいい思いをするために仕掛けられているのではありません。人間であることの限界を超えるための定めなのです。地球人間であることも超え、宇宙人間である意識レベルに到達した時に、人々はその罠から抜け出せるのです。

僕は現状の人々の姿を観ていると、嫌になることがあります。しかし、人であることの重要な目覚めの時は、熟しているのです。今のあなたにとって「これが絶対だ」と思うものを、捨てなさい。これをやったら救われる、などというものを、捨てなさい。そしてどうするのかは、自らの目を開けることです。
みんなは、頭を使うことを損だと思っていませんか?そして、物事を集中して観ていない。集中して観ないから、いい加減な状態でもそのまま進んで行けるのです。だから僕はみんなに、「脱いだ履物をそろえなさい」と言うのです。
外国の人は、履物をそろえません。それは振り返る気がないからです。(この時、メンバーの一人がテーブルの上の水筒を倒して大きな音を立てました。)ああやって話の最中に大きな音を立てることも、本当は振り返らなければなりません。そのように流れを壊す自らの人間性を観る必要があるのです。何だか細かいことをいろいろと言われて嫌だな、と思うでしょうか。しかしそのくらい丁寧に互いを観合うことで、自分自身の本当の姿が観えてくるのです。

この世界は、運命共同体です。地球上に起きることはすべて、自分自身に対してのメッセージです。こんなにも地球を汚しておきながら、それを他人事にしておけるわけがない。それは環境問題で議論するようなこととは違う話です。
人間のスケールが大きくなり、個人から地球人、さらに宇宙人という意識になれば、地球がいかに奇跡的な存在であるかということがわかり、それを汚すような愚かなことはしなくなります。それは当たり前の話です。しかし環境活動家は、その当たり前のことを言って、自分たちは偉いと思っています。そのくらい現代人は意識レベルが低いのです。さらに、環境意識のない人々は、その当たり前のこともまったくできずに地球を汚しながら、それでいいと思っています。
そういったことが理解できると、何がやっていいことで、何がやってはいけないことなのか、ここではどうすればいいのか、ということが観えてくるはずです。

ありがたいことに、日本では、家に上がる時に靴を脱ぐ習慣があります。外で土を踏み、帰ってきて玄関から家の中へ上がる時に、靴を脱ぐでしょう?土を踏む場と生活の場が分かれているのです。そして家に上がった時に振り返ると、自分の脱いだ靴がどうなっているのかが見えます。そこに観えるのがあなたの人間性です。それは過去を観ているということです。自らが脱いだ靴の状態を観て、自らの過去を振り返り、自分の姿勢がどうであったかを判断していくのです。
では過去を振り返らなくても靴をそろえれば過去が正されるのかというような、愚かな考えをする人がいますが、そういうことではありません。靴をそろえるのは、自らの過去を振り返る姿勢があることの証でなければなりません。その行為を通して、今日一日の自分がどうであったかを振り返り、姿勢を美しく整える。それをいつも忘れない。令和には、そういったことが示されています。揺るぎがなく、筋が通り、美しい。そして次のステージへと進むのです。家から下りて靴を履く時も同じです。きちんとそろえられた履物に向かう時、これから進む未来に対する姿勢を整えるのです。それをいい加減にやっているとしたら、それがその人の人間性です。
子どもたちはまだそのことがわかりませんし、逆に言えば、子どもたちがだらしなく靴を脱いでいたら、そこにいる大人の人間性が反映されている結果ですから、子どもたちはその行為を持って大人に教えてくれているのです。そのいい加減な子どもの姿勢に対し、何も言わない大人がいる。子どもは鏡ですから、大人がだらしなければ、子どももだらしなくなります。その状態を問題だと思う意識が大人になければ、子どもはさらにひどくなって、さらに大人たちに教えることになるでしょう。

現代は、生の情報を肌で感じ、自らの頭で思考して未来に向けてのプログラムを組み、自信を持って確実に歩んでいくということができなくなりました。情報はすべてパソコンやスマホから仕入れ、便利で豊かになったようですが、人々の生きるための生命力センサーはどんどん退化しています。
今は5月ですが、これから夏に向かうにつれて、また世界中に災害が起きてくることでしょう。それは自然の問題で、自分に問題があるわけではないと多くの人々は思っています。しかし、それはすべて、履物の話と同じなのです。履物が散乱しているのはその人の人間性の現われであるように、病気になるのも、その人の人間性です。災害が起きるのも、今の人類の人間性の結果なのです。そういったことを緻密に観て、しっかりと振り返り、改めて、先へ進むことが大切なのです。

そこで大切なことは、常に新鮮な出来事に新鮮な心で向き合い、自らの枠に囚われず、物事の実態を冷静に捉え、進化につなげていくことです。これまでは、過去のものを実績として積み重ねていくことが大切な時代でもありました。過去から学ぶことは大切なことです。しかし、そこで過去に執着したり、特定のものに正しさを求めると、古びたものに真実を固定してしまうことにもなります。正しさとは、未来に行って与えられるものなのです。
その時に、まだ来てもいない未来のことで結論を出してはいけません。わかるはずがないのですから。まずは今、自らが行うべきことをする。そうすれば、それにふさわしい答えが未来に結果として与えられます。宇宙や地球の仕組みは、常にその答えを返してくれるのです。自分で結論を出すのではなく、今やれることに最善を尽くし、その結果を未来に受け取っていく。それがこれから求められる地球上での人間の立ち位置です。

今、地球上に聖者はいません。しかし、人間は本来誰しもが、優れたものとして地球上に生きることができるのです。本来、そのために人間は地上に降ろされたのです。これまで、過去にどんなに優れた人が降ろされていたとしても、結果として人間たちは今、地球のガン細胞のような存在となりました。ですからその証として、現代に優れた人はいません。本当に優れている人ほど、自らの実力のなさが今の地球の現状を招いたのだと、謙虚に振り返っているはずなのです。
お坊さんたちは、もっと自由な生き方をしたらいいのです。僕の田舎のあるお坊さんは、僕が田舎へ帰ると会いに来て「偉佐美さんは自由でいいですね。私は職業としてこの道を生きていますから、道が限られているのです」と言うのです。しかし、僧侶であるからこそ、娑婆のしがらみから離れて仏の道を自由に歩める存在であるべきなのです。むしろ私たちこそ、娑婆にいて、しがらみに縛られているのに、何を娑婆の人間を羨んでいるのでしょう。
「家がお寺だから僧侶にならざるを得なかった」というのは、ならざるを得なかったのではなく、そういう決断をした自分がいるということです。それだけ親や家に囚われているのです。過去のしきたりを守ろうとするのは囚われであり、自らの魂を濁らせます。
仏教の中でも禅宗では、座禅を組み、自らを無にしろと言いますが、思考を無にしようと思えば思うほど現実逃避になります。だから迷いはさらに増すのです。そして求める一方になります。それは今の宗教の信者たちと同じです。何かいいことはないだろうかと、自ら考えずに求めるばかりになるのです。

この暮らしは、僕が言い出したことから始まりました。そこに集った皆さんは、それに便乗するために来たのでしょうか?僕が最も問いたいのはそこです。便乗するためにここに来たのであれば、それはこの暮らしの求める在り方とは違うのです。過去の経典や誰かの教えにすがるのでは、学校の勉強と同じです。一人ひとりが自らの足で立ち、オリジナルの道を歩むのが、ここの生き方なのです。
では、それが未だ不十分なここに暮らす人たちは、レベルが低いのでしょうか。一般社会で暮らす人々は、現代社会の価値観に汚染されている状態です。しかし、そういった中に紛れて暮らしていると、汚染されていることがわからないのです。こういった一般社会とは違う価値観の場所を訪れると、どのくらい自分自身が汚染されていたのかが観えてきます。今、ここに暮らす人たちは、僕に便乗はしていても、自分自身には汚染されていません。お金も時間もプライバシーも、ここの人たちはすべて共有しています。その状態に生きるには、相当意識レベルが高くなければできないことです。
もともとは、お坊さんたちもコミュニティで暮らしていました。しかし、やがていくつもの宗派に分かれてそれぞれの理屈をつくり、今ではお坊さんであることが飯のタネになってしまいました。それでは一般社会の人々と同じです。ですから、現代のお坊さんの魂は優れているとは言えません。
本来僧侶とは、一般人にはできない生き方をする人々だったのですが、今は一般人からも求められる存在になってしまいました。昔は「乞食坊主」などと言われて何も持たずに托鉢で生きていたように、普通の人々にはできない生き方をしていたからこそ、優れた存在だったのです。今は、お坊さんは優れていると讃えられ、良いことの教えを伝える立場に立っています。それは、一般人にとってわかりやすい話です。わかりやすいということは、それだけレベルが下がったのです。

真理は、常にわからないものです。では、そこへ向かうためにはどうしたらいいのかというと、自らを保つことを手放し、わからないところへ進むのです。僕の言っていることは、わからないでしょう?でも、わからなくてもいいのです。僕には観える景色があるのですから。

さて、ここからが本題です。
今朝、夢を見ました。そして目が覚めてすぐ、その夢を振り返りました。
夢の中で僕は、何かを語っている人を見ていました。その場は、コミュニティの中です。コミュニティの中の人々が、一生懸命何かを語っているのです。その空気感は、僕が記憶している限り、初めて出会うものでした。僕には現世以外の記憶も、そして地球規模を越えたスケールの記憶もありますが、それも含めたすべての記憶の中で初めての空気感に触れたのです。
その空気感が、我々の日常であるコミュニティの生活の中に表現されていました。その時僕は、人間社会にもこのような境地が表現できるのだ、と思いました。「突破できる!」その確信を持ちました。

これまでどれだけ、現状を突破できないことに試行錯誤してきたことでしょう。それを突破できる道筋が観えたのです。それで「よし!」と思い、目が覚め、その場にいた人たちに今見た夢の空気感を伝えようと、言葉にし始めたら・・・・・その響きが表現できないのです。目覚める瞬間まで感じていた空気が、その空気感を言葉にしようとすると、表現できないのです。その空気とは、おそらくこれから私たちが到達し、体験するものです。そうなるかどうかは約束はできませんが、それを私たちは目指しているのです。
その空気を、感じられたのに、言葉に表せない。しかし今でも、僕には確かにその響きを感じた記憶があります。ですからこの事実は、伝わらなくても、語るべきなのです。

皆さん、時代は既に、次のサイクルに入っています。いつまでボケているのですか。そのことがわからないという人に「わからないからダメだ」とは言いませんが、わかろうとする意志を持つことは、誰もができることです。わかろうとしない自らの姿勢に向き合うことはできるのです。

「簡単なこと」です。大調和という大和の心を呼び覚ますために私たちがするべきことは、「大正直」です。

私たちの創るこの場は、正直がモットーの場です。コミュニティ外の人々がいる場でも、お金のことでもプライバシーのことでも、どんなことでも正直に話し合います。しかし、さらにその先があるのです。
私たちは、ものと対話する時に正直でないことはあまりありませんが、人と対話する時には、自らの心の中で思ったことを出さないことが多くあります。中にはほとんど出さない人もいます。それでは心は濁ります。
どんなに言い辛いと思っても、すべて正直に出す。それを笑って積極的に取り組める。こういった人と人の距離が近い暮らしの中で「本当はこうなんだよ」「本当はこうなんだよ」とみんなが出し合い、やがて「本当は」と言う必要がなくなって「こうなんだよ」「こうなんだよ」と出すようになり、そのうちに「こうなんだよ」とも言う必要がなくなって、言葉にしなくとも顔を見ただけでわかり合うようになる。やがて人々は、心の中で思うことを、その人の姿勢ですべて表現できるようになるのです。
そこで僕は自分自身を振り返りました。僕は何か心の中にあって出していないものはあるだろうか。そう思って自分自身の心の中を観てみると・・・・ありません。気付いていないこともあるかもしれませんからゼロとは言えませんが、95%は出しているでしょう。しかし多くの人は、95%出していないのではないでしょうか。それでは通りの良い世界はできません。

厳しい修行などいらないのです。ただ正直に生きることで、心が解放されれば、ことは自ずと整い、ものを言わずとも通じていくようになります。
今朝、この話をその場にいた二人の人たちにした時には、通りが悪いと感じました。なぜなら、人数が少なかったからです。しかしこの大人ミーティングの場で語ると、もう少し理解が進む感覚があります。しかしそう言うと、みんなはいつものように話を聞いて「なるほど」と満足し、この場が終わればもう忘れて、その大事を実践しないでしょう。
それを実践するには、真剣な努力が要ります。つまり、自らの中に出していない、相手から隠している心があるということに気付かなければなりません。みんなクセのようにそれを持ち続けているのです。
正直を出して失礼なことはありません。それは自分の目から見た真実だからです。そして自分の目が歪んでいたら、相手や現象が正してくれます。それが人生で与えられた修行の意味です。何も座禅を組んだり経典を学ぶ特別な修行をする必要はありません。誰でも、人生という場で、完璧な修行を与えられているのです。脱いだ履物は、私たちにそのことを教えてくれているのです。

今朝僕が夢で感じたものは、20世紀から30世紀にかけての千年紀を生きる人類にとってとても重要なものだと、僕は感じました。その場をあえて例え話で表現するとしたら、ロータスランドでスタッフがお客さんから注文を受けて、出来上がった料理を持っていくでしょう?そしてお客さんの前に料理を置いて、「これはうちで無農薬で育てたものです」「これはうちで育てられなかったので、どこどこのお店で何円で仕入れました。利益率はこれだけです」と説明し、お客さんはそれを全部わかって食事する。顔色の悪い人がいれば「お客さん、今日は顔色が悪いですね。何か心に問題がありませんか。自然療法プログラムを受けて自分の心を見直したらどうですか。」大食いをする人には「そんなに大食いしたら体に悪いし、地球も喜びませんよ。みんなが健康に生きるのにちょうどいい量を地球は与えてくれているんですから、そんな食べ方はやめましょう。」無駄遣いをする人には「いくらうちが安くていいものがそろっているからといって、そんなに無駄遣いをしないで、家のローンの返済にあてた方がいいんじゃないですか。」そんなふうに、スタッフが正直に話しかけている。(みんな:笑)そんな店があったらいいでしょう?

みかこ:
今の話を聞いていたら、『むかしむかし』の歌の歌詞を思い出しました。

こころですべての いのちたちと 自由に話していた
かつての日々へ わたしたちは またかえってゆく

ジイジ:
いつの頃だったでしょう。まだこういったことを語っていなかった頃、もしかすると、命であることはとても重要なことなのかもしれない、と思ったことがあります。
その頃の僕は、宇宙の実体を想像したり、UFOの存在を考えたりしながら、この広大な宇宙の中にある地球というものに対して、あまり特別なものだという認識がありませんでした。日常を生きていても、たとえば学校に行って勉強の出来がどうだとか、将来どんな職業に就くかとか、年頃になったら相手を見つけて、というのもそれが尊いことだという意識もないものだから、当たり前のように欲望のおもむくまま世間並みを生きていました。そうすると、自分というものはどこにでもある、いくらでも代わりがあるものという感覚で、とてもそれが特別なものという認識はないのです。例えば、日本の天皇家の歴史であっても、昔なら権力争いの渦に巻き込まれていたように、もっと言えば神話の世界であっても嫉妬や妬みが織り込まれた世界が描かれているように、天上界すらもそのような状態なのです。それが当たり前のように地上に降りてきて、私たち人間は気楽に自己表現をしながら生きており、その一人ひとりはたいして重要なものではないと思っていた時期がありました。しかしそう思いながら、どこかで、もしかすると命であるということは特別なものであり、奇跡の存在かもしれない、と思うところもあったのです。
子どもの頃、日本人一人当たりの所得が世界で26番目くらいで、アルゼンチンのようにあまり馴染のない国よりも低かったデータを見たことがあります。その時に僕は、世界には上がたくさんいるのだと思いました。大人の給料の平均が月給2~3万円で、5万円の給料をもらっている人がいたら理想の結婚相手だと言われていた時代に、アメリカ人の平均給与は15万円と聞いて、別世界の人々の暮らしのように感じたことを覚えています。その後、日本は高度経済成長を遂げてどんどんアメリカに追いつき、僕が20代の頃には『Japan as No.1』という本が出版されました。日本の土地の平均単価が世界で一番高くなり、所得もむしろ日本の方が高くなるほどでした。ところが、まったく豊かさを感じないのです。なぜなら物価も同時に上がるものですから、豊かになった実感がなく、そのうちにバブルが崩壊して、現在に至っています。
自分たちは世界の下の方だと思っていたらいつの間にか経済大国になり、世界No.1になるかと思ったらガタガタと崩れ、日本は豊かな国だと言われていても、実際に国民に意識調査をするとその実感がない。そのように、日本人であることの尺度は、いくらでも変化するのです。

そんな中で、命であるということは、比べる対象がありません。これは、地球生命が共通して持っているものです。日本人であるということは上がったり下がったりしますが、宇宙にあって命であることの価値は、変わらないのです。そこで、命に対する捉え方の違いがあるとすれば、命に対して自分がどのような見解を持っているか。その一人ひとりの視点に違いがあるからです。
この世界では、命であるということがものすごく貴重なことなのではないか。地球に生命として生きることは、とても重要なことなのではないか。そんなことを僕は思うようになりました。愚かな命も尊い命も、命であるということは特別なことなのだ、と。命とは、多様性を表現しているのです。
例えばミミズのように小さな生き物であっても、それはただその生き物がそこにいるというだけでなく、その存在を通して、その奥にある、もっと大きなスケールでこの世界を動かしているものの実体が感じられるのです。命とは、私たちが認識している現象界にある命というものを越えて、もっと巨大な、宇宙を包括する存在である。そのとてつもない存在を、どこにでもたくさんいる、何気ない生命の息吹から感じるのです。そのように命と向き合った時に、自らの欲で何かを支配しようとするような心は、湧いてこなくなります。ただ、自らがその大いなるものの中に漂っているような、それこそ母親の子宮の中で羊水に漂っている赤子のような、安心感を感じるのです。
そのようなことを考えながら生きてきて、68年が経ちました。今は、自分が生命であり、思考し、宇宙を解釈できることが、どれほど優れたことなのかを思います。死んだ先の世界や、この世界を運営する側の存在があるのかというと、それは我々生きている人間にとっては関係があるのか。実はこの生きている人間が、生命としての自らに目覚め、自我を捨て、宇宙を解釈していくと、その我々とは関係ないと思っていた世界の延長に自らが存在しているのであり、それを探求していくと、最終的には宇宙と一体となり、すべての存在と合一することになるのです。

「命」という字の成り立ち

「命」という字は、人が儀礼用の帽子をかぶり、祭壇に膝間づいて、天の命(めい)を受ける姿を表しています。
生きること、即ち命であるということは、天の命に従って生きることです。それは、生命の側が自らの思うように生きるのではなく、すべて天の法則に則り生きるということです。地上にいれば、天が命を下しますから、地上のものは「どのように生きれば良いでしょうか」とお伺いを立て、命を頂き、それに従って地上を生きるのです。その時に、地上の概念は天の命となり、地を生きるものが天の国を地上に降ろしてくるのです。そして天の意思に基づいて地上を生きる。それが「地上天国」の表現となるのです。
命とは、天(宇宙)から地(地球)に降ろされた、神の響きです。即ち、現象界に生み出された神であり、それを命(みこと)と言います。そして私たち地上を生きるものの最終目標は、この現象界にあるのではありません。しかし、現象界にあるのです。人間とは、現象界を通り、神の存在する境地まで到達できる存在なのです。

日蓮さんの教えの中で僕に響いた言葉があります。それは「宇宙とは生命である」という言葉です。それを聞いた時、自分は宇宙の実体である、と思いました。普通に欲があり、これといったとりえもないごく普通の人間である自分が、宇宙根源と同じなのです。それが生命としての悟りの位置なのです。
小さな虫も、道端の草や木も、皆、宇宙を運営する側の存在として、この世界を生きています。しかし人間だけが、自我に染まり、こちら側に生きているのです。人間の能力を生かしながら、もしもその、自我で生きるのではない境地に至ったならば、人間とは何と尊いものであることか。その時に、私たちは初めて、自らの価値を知ることになるでしょう。
地球には、溢れるほどの命が存在し、それらがすべてつながり、循環し、ネットワークしています。それは大調和です。それが私たちの国のもうひとつの呼び名である「大和」の精神です。一つひとつの細胞が健全に配列されることで私たちの体が健康となるように、一つひとつの命が健全に配列されることで、地球が健康になります。
時代は令和となり、これから命の本質が問われる時代がやって来ます。どこかで私たちは、一人ひとりが自らと対話し、生きることの決意のスイッチを入れる必要があります。それが、命ということの意味だと思うのです。意志がはっきりして、決意が明快であれば、行動も明快になります。ところが意志が曖昧で、決意がはっきりしていないと、行動も曖昧になるのです。それを無駄と言います。しっかりとした決意のもとに生きれば、無駄は起こらず、物事はとても効率よく進み、たくらみのない思考が湧いてくるようになります。それを「閃き」と言うのです。

これからの時代がどれほど困難であるのかは、行ってみなければわかりません。平成は、その困難な時代の予告編だったのかもしれません。令和になり、いよいよ本番です。ではなぜその本番を与えられたのかというと、その先があるからです。
過去6億年の間に6回大量絶滅を繰り返してきた地球の生命の歴史に照らし合わせてみれば、現代を生きる人類は、次の生命大量絶滅の引き金となるかもしれません。人々は、何かが壊れる前はそれを守ろうとします。そして壊れれば、それを惜しみます。しかし、壊れるからこそ新しいものをそこに表現できるのです。それは、大量絶滅をするたびに進化してきた生命の歴史と同じです。
ですからやはり、壊れなければなりません。そこで、積極的に壊れていくことを喜べる生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、使えるものを壊していくということではなく、価値観を変えていくということです。出会ったことをポジティブに捉え、変化することを喜ぶ。その時の変化は、進化になります。
変化は積極的に喜びを持って受け入れるものですが、現状の自分を守ろうとすると、出会ったものを拒絶したくなります。さらに、その自分に執着すると、変化は苦痛になります。それは、地上にいて地獄を生きることとなるです。しかし、それが喜びとなった時、尊いものへと向かう目覚めが始まるのです。

火山が噴火する、地震が起きる、台風もたくさん来る。そういう日本にいて、それが喜びになる。大変なことがあるから、大調和になるのです。それが大和という国であり、その証として、令和という時代がいよいよ始まったのです。
令和は、平成よりも物理的にはさらに厳しい時代となるでしょう。それを、大調和を持って乗り越えなさいということです。その厳しさは、ただ乗り越えるためではなく、大調和することを呼び覚ますためにあるのです。これから、今までに人類が積み上げてきたものがどんどん壊れていく時代が始まります。それを乗り越えるために必要なことは、力を合わせること。そして、壊れた先には、これまでに出会ったことのない新しい世界が待っているのです。そのことを、令和という時代は、私たちに示してくれているのです。

 

 


線路は続くよ 天までも

人は、自分が歩んだ結果、そこに道ができるのだと思っています。それが人生だと思っています。しかし、仏道というお釈迦様が説いた道は、「この世界には道がある」と伝えています。それを見つけ、そこを進みなさい。その道は、線路のようなものです。線路ですから、そこに乗ってしまえば脱線することはありません。その線路の上を進みたくないと思えば脱線することもあるでしょうが、その道を進もうという思いがある限り、どんなに障害があろうとも、その上を進むようになっているのです。

その線路の上を進む中で、様々なことに出会います。それを素直に受け取っていく心さえあれば、出会うことはすべて、先へ進むためのエネルギーへと変えていけます。その線路の枕木の一つひとつは、変化です。変化であり、進化です。先へ向かうとは、必ず進化することであり、それは上へと向かっていく道です。つまり、自我を取っていく道です。魂として、天へと向かう道なのです。

この線路は、一人ひとり誰もに与えられています。そして、必ず先へ、必ず上へと進むようになっています。ところが、自ら勝手に下へ落ちていくための線路を敷く者がいます。そうすると天は現象を起こし、戒めて、方向が間違っていることを伝えます。あれ!間違っていた!ではどの方向に進めばいいのだろう、と上を見上げた時、人間は元の道へと戻ることができるのです。しかし、いくら天が救済のために現象を起こし、痛みを与えても、それを与えられた人間が上を見なければ、ではそのまま行きなさい、ということになります。
それは、進めば進むほど、下降していく道です。本来上昇していく道が下降していくのですから、進めば進むほど差が広がっていきます。そうすると、やがて修正が効かなくなるのです。そういうことも、この世界にはあるということです。

人間は、人生を30%の定めのもとに生まれてきます。そして残る70%は、自由が与えられています。その70%の自由によって、自ら落ちていくものもいます。
30%は、この世界を生きる上で、自分の力ではどうにも変えることのできない宿命です。それはいただくものです。その30%を、徹底して生きればいいのです。ところが人間は、70%の自由にばかり心を奪われ、30%を忘れてしまうのです。そうすると、自らの存在価値すら失い、取り返しのつかないところまで進んでしまうのです。
70%の自由を正しく使えるか、間違って使うかについては、それぞれの個性の違いはありますが、仕組みは皆同じ条件です。正しく使えない者は、それにふさわしい痛みを与えられます。そこでの痛みは、救済です。その救済の手に乗れば、痛みを学習として、正しく進むことができます。一方、70%の自由を正しく使う者は、現象として痛みをもらいません。痛みが伴わないことにより、進んでいる方向の正しさを確認していきます。痛みを伴わないと、人は奢って「これでいいのだ」と自我を増幅させるものですが、どんなに正しい道を歩んでいても、常に「これは天のご意向だ」という心があれば、ずっと痛みや問題ごとなく歩んでいけるのです。

その歩みは、人々の見本となります。この世界が始めからそのような完成形ばかりで構成されていれば、今の世の中のような不幸や混乱はなかったことでしょう。しかし、それでは面白くない。この世界がダイナミックではない。喜びがない。愚かしさがあるからこそ、それに対する尊さがあり、孤独があるからこそ愛があり、辛い道があるからこそ喜びがあるのです。

愛や、尊さや、喜びは、愚かしさを表現するためにまかれた肥料のようなものです。そして、人生という素晴らしい食べ物をいただくのです。そんなふうに食べ物を育てるのは面倒だから、最初から肥料を食べておけばいい、ということには、この世界はなっていません。すべてを現象化に預け、初めてその尊さがわかるのです。地球は、その表現をする場所なのです。

 

私は、この世界と共にある。
私の悲しみは、世界の悲しみである。 私の喜びは、世界の喜びである。

 

 


「いさどん」から「ジイジ」へ 〜 2018年5月3日 67歳の誕生日を迎えて

42歳でいさどんと呼ばれるようになって25年。60歳で生前葬を行ってから7年の質的転換を経て ───── 2018年4月7日の朝、いさどんに新たな想いが湧いてきました。

「これから僕は『いさどん』をやめよう。今、その想いが湧いてきた。これから僕の名は『ジイジ』という名になるようだ。そのほうがふさわしい。『ジイジ』は濁っているけれど、それは人々の汚れに向き合うからだ。世間の皆様に真実を示すため、濁りのついている皆様に伝える者という意味だ。

『ジイジ』をカタカムナでひも解くと、『ジイジ』は『シイシ』となる。シは示しだから、『ジイジ』は示しの示しの位置になる。それは大本の示しという意味でもある。つまり、示しの位置が尊いということ。『ジイジ』は、『ババジ』や『ガンジー』といった高い意識の男性の尊称を示す。そして、イは当然『ヰ』の悟りを示す。それは、高次元の潜態への還元ということで、『ジイジ』は高次の悟りの示しの示し。つまり、人々に道を示す者に対して示す存在。濁点があるのは、現象界には濁りや歪みがあるがために、そこで道を説く者はその濁りや歪みに沿いながら伝える役割ということになる。濁りや歪みに付き合うということからすると、『ジイジ』はカタカムナ的にも高い意識のメッセンジャーと読み取れる。

さらに、ジというのは、心の父という意味がある。だから、『ジイジ』は万人に対して高い意識の父という意味になる。今、僕の精神レベルはその位置にいるのだから、良い尊称だ。とてもふさわしい名だと思う。」

いさどんに『ジイジ』という名が降りてから数日後、天からいさどんに言葉がありました。
「きっかけを創るのが役割なのだからな。」

つまり、一箇所プツッと穴を開け、そこに聖なる種を入れれば、そこが細胞分裂を起こし、新たないのちが生まれてくる。それが世の中に広がれば、世界は変わっていく。だから、その種となるきっかけとなれ、ということです。

今日5月3日は憲法記念日です。毎年、憲法記念日のときには憲法議論が報道されますが、先の観えない激動の時代を迎えた今、これからこの国をどうしていくのかを一人ひとりが真剣に考える時が来ています。

いさどんが32歳の頃、次のようなビジョンが降りてきました。

「いつか、国を司る役割を持つ人々がここを訪れて、僕に問いかけるのです。
『私たちはこの国を、本当に豊かで人々が幸せになるように、一生懸命治めようとしてきましたが、これはと思うことをいくらやっても、どうにも上手くいきません。本当に国を正しく豊かに治めるためにはどうしたらいいのか、そのヒントを得るために、ここに理想を生きる人々の暮らしがあると聞いて、訪ねてきました。どうしたら、良い国を創ることができるのでしょうか。』

それに対して、僕はこう答えるのです。
『それは、制度や仕組みを創ることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこにいる人々の心を見てください。このような心や考え方で人々が暮らせるような国創りをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。』」

そこで、国を司る人々に答えているのは ──── 『ジイジ』です。

『いさどん』から『ジイジ』へと変わることは、大きなターニングポイントです。いさどんの次元上昇に伴って降りてきた名は、『ジイジ』。今日2018年5月3日が、『ジイジ』として生きるスタートです。60歳で生前葬を行ってから7年の月日を経て、質的転換を迎えた今、今年2018年の再スタートの年にふさわしい名がいさどんに降りてきたのです。

皆さん、これから『ジイジ』をよろしくお願いします。