菩薩とは?

ようこ:
今年から木の花ファミリーのホームページ上に「富士の麓のユートピア・菩薩の里」と銘打つようになったでしょ?「菩薩とは他者の喜びを自らの喜びとする存在」だといさどんはよく説明するけれど、ここで改めて、初めて菩薩という言葉を聞く人にとってもわかりやすく説明してもらえたらいいと思う。

いさどん:
菩薩は仏教的用語で、広辞苑で調べると、「成仏を求める(如来になろうとする)修行者。後に菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象となっていった」と書いてある。ただ、概念的に菩薩を捉えると、小乗仏教で言われる菩薩は、人間がある境地まで悟った状態のことであるとしている。そのためには、まず、自らの欲や我、執着から離れること。
木の花流に言うと、この世界はいのちの世界であり、いのちとは循環して巡り巡って変化するもの ―― その仕組みは、自他の区別なく巡っている状態。そうすると、そこにある己とは全体を循環させる役割のためにあるのであり、自己意識とはその構造を認識するための意識であって、本来そこに自他の区別がなくなった状態であることが望まれる(菩薩意識)。
だから、「菩薩とは、この世界の仕組みが健全であることや、そこに存在する人々が健全であり健康であることを喜びとする」ということになる。そして、その精神を世の為・人の為に生きることは菩薩道を歩んでいることになる。それを大乗仏教的菩薩道と言うんだよ。

だから、菩薩の状態は喜びを持っていることになる。喜びを持つということは、欲があり、感情が動く状態だということ。つまり、人間としての感情が残っている状態なんだよ(詳細は、いさどんブログ「全ては善への旅」「神の食べ物は喜びである」をご覧ください)。

ようこ:
いさどんが地獄界・人間界・菩薩界・仏界の心のランキングの話をするでしょ?一番上の段階である仏界ではなく、その下の菩薩界、すなわち「仏の里」ではなく、「菩薩の里」を私たちが表現することに意味があるのだと私は感じている。

いさどん:
菩薩とは地上に理想郷(地上天国)をもたらす境地のものたちで、それが完成されて天に昇ると、仏の役割に入っていくわけだ。地獄でも、人間界に近い地獄もあれば、無間地獄といって救いようのない世界もある。

ようこ:
そうだね、底なし沼のような世界もある。今日、いさどんに菩薩について改めて聞いてみたいと思ったのは、一番上のレベルの仏界ではなく、その下の菩薩界の境地がこの暮らしのポイントだと思っていたからなの。

いさどん:
菩薩界で生きることは天に通じている状態だが、人間界で生きることは天に通じていない。だから、菩薩界で生きることが神人和合の境地であり、世の為人の為に生きている状態なんだよ。

ようこ:
では、地上で生きている人間で、仏界の境地、つまり仏の心で生きている人はいないのかな?

いさどん:
仏の心で生きている人は・・・ほとんどいないね。

ようこ:
いさどんは仏?それとも仏と菩薩の間に位置する?

いさどん:
何だろうね・・・時々自分の精神状態を振り返るのだけれど、人間をやっているものだから変化・変容するんだよね。そうすると、この世界を憂いて悲しく思うときもあれば、この世界を喜んでいるときもある。
悲しいときを分析すると、その心は愚かしいものを観て救いたいとか、人々が健全に目覚めることを願う心から発している。喜びの心を分析すると、そういった愚かなものが健全になった(真実に目覚める)ことを喜ぶ心から発している。だから、世の中や他者の健全を常に願っていることは確かなんだよ。そこには揺るぎがない。
ただ、怒りも出てくることがある。それも分析していくと、汚れたものが美しくなってほしいと願う心であり、それも他者を想う心から出ていることが確認できる。

では、自分の為にという感情がどれほど働いているかというと、感情を色で言ったら七色で出てくる。その感情の色によって表現が違ってくる。それはどれも人を想う心であり、人が健全であることを望んでいる心であることは自分で確認できている。だから、どこかで、「この心でいいのだ」と思っている。
ただ、心が曇るときもあるのは、それが通じないことがあると、心が揺れることにもなるが、世の中や人の健全を常に願っているという意味では、菩薩界の段階にいるのだろうと思う。

肉体を持ってこの世界でいろいろな刺激をもらう状態で仏の境地にあることは、ほとんどありえない。それは生きていないような状態だから。仏の境地はすべて超越して、この絶対なる宇宙の法のままになっている状態だから、肉体を持って極めることは菩薩の状態の高いか低いか、ということなのだろうね。
現象界に仏が存在するとしたら、それこそ木や銅で創られるような単なる偶像崇拝の対象物になってしまう。そこに魂が入っているとして、何かしらの利益があったとしても、そのような対象になってしまうことだろう。

ようこ:
それでは新たな社会のモデルを創る存在ではないね。

いさどん:
そう。だから、人間がブッダの境地、つまり菩薩の境地に至ってこそ、人々に見本が示せるのだから、あの「菩薩の里」という表現はまさしくぴったりの表現だよね。
それで、菩薩にもランクがある。法華経で言うと上行菩薩とか、上行菩薩があるということはそこに至らない菩薩段階もあって、菩薩でもまだ初期の段階にいるものもいることになる。

ようこ:
菩薩にも色々なランクがあるということで、ここのメンバーもそれぞれオリジナルな菩薩を表現していければいいね。

いさどん:
そうだね。今の時代によく観られる人間の姿は、ある意味知識的に豊富になってすべてをわかったつもりになっている。それがお釈迦様の弟子の中で最も優秀であった「舎利弗」の状態であり、これは菩薩界に到達していないものが知識が豊富になって、自分が優れていると思い込んでいる状態だよ。

ようこ:
それが「もどき」だね。

いさどん:
そう。今の時代には、そのような人々が多い。彼らを冷静に分析していくと、自らの願いや考えに囚われ、自らを肯定しようとしている。それから、自らの考えを正しいとして、自らを肯定したいがための理屈を展開している。だから、大切なことは、その内容が万人に通じるものなのか、それとも個人だけのものなのかを客観的に分析してみる必要がある。

時代は確実に進んでいて、昔はいきなり刃物や武器を持って戦う時代があった。しかし、今の時代の人々は逆に、良い世の中にしようとして自らの囚われの中で生きているものもいる。

ようこ:
そうだね、原発反対の人たちとかね。

いさどん:
そう。それは社会を良くしようという心であることは確かなんだよ。ただ、自意識が強いばかりに、結局対立を生むことになってしまっている。だから、世界観を広めて、自らと他者・この世界との区別がなくなってくると、そこは解消されるだろうと、特に最近は世界観について語っているんだよ。そこが認識できれば、自らに対する囚われが少なくなる。
それを理解できればできるほど菩薩に近くなるし、世の中が良くなっていく道なのだけど、中には自らの都合が良くなることを目的にしているものもいる。「優れた人間になりたい」とか「悟りたい」とか。そこにはまた落とし穴があり、「自分が」ではなく、「世の中が良くなるために生きる」「他者のために生きた結果、自らの価値が高まる」ところに行かないと、結局利益のための道になってしまったり、自らの救済のための宗教になってしまう。しかし、そこでは結果として、自らが救済される境地にならないといけない。

それで、自らの願望を叶えるために生きている人は、ここでは生きられない。ここで生きる者は、自らを超えて社会や他者のために貢献することに共鳴している者たちだから。それが不十分であってもね。
それを道理として理解できている者もいれば、理解できないけれど大事だと思って共にいる者もいて色々だけど、他者のために役割を果たしていこうという自覚のある者が残っていることはたしかだよ。その自覚があるからこそ、ここにいるということ。しかし、自らに執着する心が優先する者は、「自分は正しい」と理屈をこねる。

ようこ:
そうだね、菩薩は理屈をこねない。

いさどん:
そう。菩薩は何を語るかというと、情報として観える景色を淡々と伝えるだけ。理屈をこねるということは、自らを正しいとしたいがために言葉を使うということ。

ようこ:
菩薩は結果も所有しないしね。

いさどん:
そうだよ。だから、いつも自らを正しい側に置いておきたい心を超えると、正しい・正しくないではなく、ただ道に沿って歩む安定した心の状態になる。不安定な心が出てきたら、それを安定させるために鍛えられているぐらいに思っているといいよね。不安定は安定するための指針をもらっているということだから。そうやって、人は元にある心が揺らがない状態になっていく。

ようこ:
菩薩は心が揺らがない?

いさどん:
揺らがないわけではないんだよ。喜びがあったり、憂う心もあるのだが、その奥は、他者やこの世界を想う境地になっているということ。

ようこ:
そこは揺らがないということだよね。

いさどん:
そう。だから、菩薩の状態だと揺らがない心になっているとも言える。

ようこ:
感情が出てきたとしても、元の心は揺らがない。

いさどん:
人間は揺らぎっぱなしだよ。自分のために生きているのが人間界の者たちだから。

ようこ:
自らの損得や思惑があるから、そこは大きな違いがある。

いさどん:
だから、己を捨てないと、人間界から菩薩界には行けない。

ようこ:
それが一番のポイントだね。

いさどん:
そこは明快なことで、多くの人は己のために生きているんだよ。それで、人間には知識的な能力の差があるものだから、賢ければ賢いほど、それを理屈で使って自らのために生きている状態が人間界の姿だ。そちらへ行くと、優秀でもやっかいだよ。ただ、人間的優秀さが菩薩につながっていけば良い世の中になるのだが、結局人間の欲や執着のほうに使われるようになると、良いことを主張しているようで、どんどん地獄が形成されていくことにもなる。だから、人間界で成功することは喜ばしいばかりではない。

ようこ:
ちゃんと後でそのツケが返ってくる仕組みになっているから。

いさどん:
それは確実に返ってくる。だから、意識が菩薩界に到達することが大切だよ。

ようこ:
そのためにも、ここが「菩薩の里」となって世の中に表現していくことが重要だね。

いさどん:
菩薩の世界は今の地上世界にはなかなかないからね。個がそこまで至ったものは過去にはいるけれど、その結果、みんな宗教などになってしまって、生活の中にそれが落とされていることは、僕が認識している限り、なかったのではないかと思う。

人間は生命であるから、生命を生み育むということは、そこに性が関わってくる。そうすると、生活の中に菩薩の心が反映されて、そこに菩薩の性が表現されるということ。性の世界はとても重要で、菩薩の性がそこに表現されると、天上人が降りてくるようになる。つまり、神の魂が降りてきて、菩薩として地上を生きるようになる。
しかし、未熟な人間がそこにいると、天上人ではなく、未熟な人間の魂が降りてくるようになる。だから、地上はなかなか良くならない。神聖なる性が愚かしいものに汚染されてしまうと、地上がなかなか優れた世界にならない。そうやって人間の意識によって、次の時代が決まってくるんだよ。
先祖から子孫への代々の継承がある中で、そこに優れたものを継承していくのか、それとも愚かな因縁を継承していくのか。その結果、コミュニティができ、社会ができてくるわけだから、そこでも大切な世の中づくりをしていることになる。

ようこ:
大分、「菩薩とは何か?」が観えてきたね。

いさどん:
常に他者や世の中を意識して、そこでは己が後に控えている状態でないといけない。だから、この生き方は己が勝っているものにとっては苦痛にもなる。

ようこ:
自分にとって苦痛だから、違う存在をバッシングしたりするんだよね。

いさどん:
そう。ただ、そこでバッシングされる側にも理由があるのだが、そのときにその理由にはいろいろあって、世の中が未熟であればあるほど、その世界では聖なるものに対して違和感を感じるんだよ。そして、その愚かしさがゆえにバッシングするのは、たとえばキリストでもそうだし、お釈迦様でもそういったことがあったのだろう。日蓮さんでもそうだけど、みんな聖なるものであるがゆえに、そして天の法で生きるがゆえに、地上ではそれが法難(バッシング)になってしまうわけだ。しかし、それは禊(みそぎ)であったり、心を創るための追い風でもある。

ようこ:
そうやって鍛えられている。

いさどん:
それは未熟から尊いものに育っていく過程の中で、負荷をもらって鍛えていく必要があるんだよ。たとえば筋肉がたくさんついて、仕事ができるようになるためには、筋肉痛が起きるわけだ。そういった段階での追い風的苦痛がある。そこはそれを客観的に理解して、自らの追い風にしていけばいい。それが理解できていれば、全て超えられる。

ようこ:
そうやって分析できていれば、問題事も学びとして生かされる。

いさどん:
そうなんだよ。出来事を学ぶと、こちらの愚かがなくなって、そこですべて益に変わる。そうすると、対象の愚かだけが残るから、もう向こうの問題だけになる。それは「愚かをやってくれてありがとう」という世界だよ。

ようこ:
だから、何も恐れず、進んでいけばいいだけ。

いさどん:
そこで「恐れずに」とひとくくりにしてしまうと、それは中身を知らないでただ信ずることにもなる。その心は大事だけれど、やはり中身がわかって信じていくという双方がないといけない。法と信じる心の両方があり、信じる心があるから法がわかるのであるし、法がわかるからこそ信じる心が育っていくのだから、その両方が常に開かれているということだ。

ようこ:
そうだね、道理と信仰心が両刃の剣ということだね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
木の花の流れを簡単に振り返ると、創立メンバーは信じる心だけで木の花の土台を創ってきたけれど、そこに理屈をこねる人たちがメンバーに加わってきた。だけど、ここが新たなステージに移行する段階ではそういった人たちがそぎ落とされ、今は道理と信仰心の両方のバランスが求められている。

いさどん:
だから、常に冷静で客観的にものを観る眼があって、それを分析した上で道理の通った真実のところへ行かないといけない。

ようこ:
だから、ひとりひとりがよく考えるということだね。

いさどん:
そう、考えないといけない。自分の道なのだから。

ようこ:
何も考えずにただ信じる、ということもあるけどね。

いさどん:
いきなり何も考えずに信じることをやり切れてしまえば、それはそれでいいのだが、そこへ行くために道理が必要な場合があるんだよ。だから、最終到達地点は、真理がここにあるのだから、それになりきることが目的なんだよ。しかし、そこへいざなってくれるために道理が必要になる。
何も考えずに信じられる人がいたら、それはそれでいい。ただ、そういったものは地上に降りてくる必要がないんだよ。地上は因果応報の道理の上に事が成っているわけだから、やはりその道理の上に信じる心をつくっていく。しかし、信じる心が先に強い人は道理を超えて理解していく。いずれにしろ、最終的にはその両方をマスターしている状態になるということだ。

「種がある人が集まってくる」と言うでしょ?それは信じる心がすでに備わっているということ。

ようこ:
それが共鳴するのだものね。

いさどん:
そして、後から道理が観えてくる。その精神の人々の生活では、余分なエネルギーがかからないし面倒くさくない。

ようこ:
私も、信じて後から道理がついてくるタイプだな。

いさどん:
そうだね。だから、わからないことでもさっとやれる。やはり信じる心の種があることが大切だよ。それがないと、時間がかかる。道理の心が優先してしまうと、結局時間ばかりかかって、かけた時間が無駄になってしまうこともある。

ようこ:
そうだね、「阿吽」は信じる心だし。

いさどん:
「阿吽」は、完全にそれがマスターできている人たちの世界だよ。だから、心が通じている状態で、自らと他者の区別がなく、瞬間にお互いの心が読める状態だよ。これは相当高い境地だね。

ようこ:
菩薩の生活の中でも高い段階だね。

いさどん:
そう、菩薩が仕上がった人たちの世界だよ。「阿吽」の世界では知識的に豊富だとか、そういったことは関係ない。

ようこ:
ひとえに心が美しいとか、清らかだということ。

いさどん:
だから、これからは「美しい」とか「通じる」とか、もちろん「流れ」もそうだけど、そういうことが大切な世界だよ。そうすると、人々の関係に裏表がなくなり、美しい世界になる。

ようこ:
スムーズに事が進むし、気持ちが良い。

いさどん:
とても気持ちが良く、心地良い世界が展開される。

ようこ:
そういった安心感の中で、今まで心の病があった人たちも健全になっていく場ができる。

いさどん:
そう。そういった場を創れば創るほど、病んでいる人たちを癒す力が出来ていくわけだ。場で癒せるんだよ。

ようこ:
これまでも木の花はそういった場ではあったけれど、これからさらにそれがパワーアップしていく。

いさどん:
今までは世間とは違う場を提供するとともに、心が病んでいった背景を分析していって相手の悟りを促すということで、自然療法をやってきた。しかし、これからは場が優れているから癒されていく湯治場的要素が強くなる。それはそこにいる者たちがその世界を創って、目的を達成するだけではなく、社会を癒していく場になるということでもある。

ようこ:
そうすると、役割としていさどんがその人に伝えることはあるだろうけど、そういった機会が少なくてもいい場になりそうだね。全体でそういった場が完成されたら。

いさどん:
そうなんだよ。ここ全体がケアを引き受けている自覚がますます重要になってくる。今までもそうだったが、その精度が高まるということだ。

ようこ:
言葉で伝えるよりも、空気で癒していく。

いさどん:
それは、「人間たちが創る世界としてここまで可能ですよ」と社会に示すことが最終目的だから、ケアを提供しているというよりも、理想世界の可能性を提示しているということである。もし、ここがユートピアであり、「菩薩の里」と呼ばれるものであるならば、そこまでの可能性が表現できるということ。だから、ひとりひとり自覚して、その場創りをしないといけない。
これは「人々が創る精神の交響曲」だから、芸術の境地に到達することが大切だよ。美術館を訪れて素晴らしい作品に触れると心が癒されるように、そういった場を創っていく。「菩薩の里」と銘打った限りは、そこを目指して実現していくということだよ。

ようこ:
日々、みんながそれを心にとめて生きていく。

いさどん:
それは簡単なことだよ。「己を忘れて、他者のために生きる。社会や人々の健全を一番の喜びとする。」そこに尽きる。木の花(桜・梅・桃)を形成する個がまず花開き、それが全体でひとつの大輪となって花開き、美しい状態を表現する。それが人のいのちの美しさ(桜)や、健康・健全である美しさ(梅)であり、理想郷の美しさ(桃)を表している。
だから、「木の花」という名前にはとても重要な意味がある。それこそが「菩薩の里」なんだよ。

  


週刊文春への掲載を受けて ~ある弁護士さんといさどんとの対談~

昨年から親しくしていただいている弁護士さんが2ヶ月ぶりに木の花ファミリーを訪れ、いさどんと話す場がもたれました。話題の中心は先日発売された週刊文春に木の花ファミリーが掲載されたということで、弁護士さんが色々な質問をいさどんに投げかけました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

A弁護士:
少し痩せられましたか?

いさどん:
昨日から断食をしていますが、体重は減っていないですね(笑)。僕のイメージからするとだいぶ体重がオーバーしているので、できれば7~9kgは減量したいと思っています。

A弁護士:
何日間の断食なのですか?

いさどん:
以前ケアを卒業して、心の問題に取り組むために長期滞在している女性がいまして、今、心は安定してきているのですが、「断食をやってみたい」と言うので、「僕も一緒に付き合ってあげるよ」と伝えると、「それは心強いです!」と言うものですから。

ようこ:
ですから、その人次第で、どれくらい断食をするかが決まります。

いさどん:
一昨年、デンマークから文化人類学者が3ヶ月ここに滞在していたときに、「断食に挑戦してみたい」と言ってきたので、そのときも「付き合ってあげるよ」と言い、彼女は1週間やって、僕はついでに10日間やりましたね。

A弁護士:
そのときは痩せられましたか?

いさどん:
そうですね、最初の3~4日間で1kgずつ減って、その後はほとんど変わらなかったです。痩せるのが目的ではなかったのですが、減量は断食の途中で止まりますね。つまり、人間は食べ物で生きているのではないということがわかるのです。だいたい、5日以上過ぎると、ほとんど体重が減らなくなります。

A弁護士:
先日、知人の弁護士に会ったのですが、彼は9年間食べてないそうです。不食の人ということで有名らしいのですが、彼はプラーナを吸っていると言っていまして、それこそ結界やアワ歌で良いプラーナを与えましょう、と考えたのですが、プラーナをいただいているわけではなく、自分が愛を出していて、愛が循環している、と言っていました。彼は良いエネルギーを出していますよ。

いさどん:
青汁だけで生活している女性がいると聞いたことがあります。

A弁護士:
ですから、色々なエネルギーの人が沢山出てきているのですよ。

いさどん:
その色々なエネルギーの中のひとつが、今回の話かと思っています(みんな、笑)。

A弁護士:
(週刊文春を指しながら)いよいよ、いよいよ、ということですね(笑)。

いさどん:
この人たちはここを汚らしいところにしたいのでしょうが、僕は人の心を綺麗にするためにやってきたのです。

A弁護士:
この週刊誌自体がそういったエネルギーを持っていますよね。要は、体制を崩すことを許さない人たちですよ。今の支配者階級の宣伝部隊になっているわけですから、小沢一郎バッシングも週刊文春から始まっているわけです。やはり今の支配者にとって、気に食わない者はどんどん叩いていこうという感じですよ。

いさどん:
そういうことでしょうし、表面的な綺麗事の延長にこの掲載があると思います。今、木の花のことを率先して批判している人たちは、アカデミックに優れている人たちがスマートな世界を描いて、そうでないものは糾弾しようとするところもあるのでしょう。たとえば、原発に対して物申す、というところもあるじゃないですか。
そしてこの雑誌を見ていると、性の話でも汚れた描写が一緒に出ていますよね。そういったことを喜んで読む人たちが支持しているのですから、色々なことが入り混じってしまっているように感じます。

ただ、ここのところに来て、うちのネタは出るものは出たわけですから、これ以上のネタがないとしたら、次に何が出るかということですよね。

A弁護士:
感覚として、こういう意味では出ないと思います。ただ、木の花のホームページを見て、いさどんブログやみなさんのメッセージを読ませてもらい、その感想を言わせてもらうと、ある意味ではこういったことを全く知らない人から見ると、開き直りのような印象を受けるわけです。「わかる人はわかる」と。
この記事が出る前にある人と話をしていた際、その人はNPOで色々なことを一生懸命やっている人なのですが、木の花の話をすると、「ああ、あそこね」というイメージを持っているわけです。つまり、この記事の前からそういった人たちの情報を受けているわけですよ。そういったことも一部にはあるわけです。私は、「そういうところではないから、行けばわかりますよ」と伝えるのですが、そのようなイメージはある程度定着していると言えなくもないのです。
その中で、みなさんの「私たちはぶれていません」というメッセージや、いさどんの話というのは、知らない人からすると、ここは隔絶したグループという印象を抱いてしまうわけです。それはそれでひとついいのかもしれませんが、ここがひとつの先駆者、すなわち先を走るひとつのグループであって、そのグループにつなげる細い道を何もわからない人にも与えられるような感じがいいのでは、と私は思うのです。
今の感じだと、「木の花は何があっても動じません。私たちは皆と違った、きっちりとしたグループとしてできあがっていますよ。ですから、ここに来てそれを感じてください」というメッセージはあるけれども、普通の人からすると「ああ、そうなの」と逆に引いてしまうような印象があると思うのです。
今日、みちよちゃんが駅に迎えにきてくれて、ここに来るまでの車中で色々と話したのですが、彼女は彼女でできあがっているわけですが、友達に謙虚さが足りないと言われたそうです。第三者から見ると、色々なやりとりからそういったイメージなのです。

木の花のホームページだけでは、詳しいやりとりはある意味わかりませんよね。その中で性と暴力の問題がいわゆる社会の常識とずれていることはずれているわけです。ただそれは、表面的なものではなく、もっと深いエネルギーからすれば、本当のエネルギーがわかれば非難するものではない、ということだろうと思うのです。
そういう受け止め方を私はしているのですが、それは価値観が全く違うので、そのギャップを説明するのは難しいとは思いますが、そこをどうつなげるかだと思うのです。要は、世間は表面的な価値観で物事を見ているわけですよね。しかし、こちらではそういった価値観ではなく、もっと深いところのエネルギーをどのようにするかを真剣に考えてやっているわけですから、そこにギャップがあるのです。
そのつなぎということで、いさどんブログですでに話されているのかもしれませんが、「私たちは二歩先を進んでいます」というメッセージだと、一歩と二歩はどう違うのかとか、そのあたりのつながりが木の花を知らない人から見るとわからないと思うのです。そういう人はもういいよ、と言うのか、木の花がある意味ではリーダーとして、エコビレッジという名前はともかく、こういった自給自足のグループがあちこちにできていくときの先駆者となるのか。
私は、社会の支配から抜け出た本当に自由な生活をできる人たちが少しでも増えれば、一番いいと思うのです。みなさんはその先駆者だろう、とは思うのですが、要はこの「ビッグダディ」になってしまっている問題があると感じています。メンバーのみなさんのインタビューの中でも、「みんなはいさどんが好きだよ」という話になっているわけですよ。いさどんが叩かれているから、逆にいさどん擁護のようなところもひとつあるのですが、最終的には、いさどんが中心ではあるけれども、ひとりひとりが天とつながることが目標なわけですよね。

いさどん:
最終目標というか、今現在なってきていますよ。

A弁護士:
そうですよね、ただ、ひとりひとりのインタビューの中で、いさどん擁護というより、ひとりひとりがもっと自分を表現していったらいいと思いましたが、どうでしょうか?

いさどん:
それは今までずっとここでも語られてきたことで、そこが十分になっていなかったことの結果が今回のことを生んでいるということでもあるのです。それは僕のジレンマでもあったわけです。ですから、僕が望んでいないことが起きているわけです。

A弁護士:
ハッハッハ。

いさどん:
それは外の人の話ではなく、内部の事情として、望んでいないことが起きているわけです。僕を目立たないようにすることに取り組んできたことの延長に、このような段階に来たわけですが、今回のことを通じて今そこへ行こうとしているという感覚はあります。

ようこ:
ようやく(笑)!

いさどん:
ようやく(笑)!

A弁護士:
ようやく(笑)、ひとりひとりの意識が上がってきたということですね。

いさどん:
「これはもう、すずめの子のように餌を食べさせてもらうのを待っているだけではダメだ!自分たちで動かないといけない」とみんなが気付いたということです。
実は、週刊誌の記者は3時間40分、ここで話していたのですが、そのときの僕自身に対する評価は高かったですね。それから、ここがやっていることに対して、「個人的には勉強に来たいです」という話もあったのです。それに、「ここの雰囲気がとても良いですね」という話も出ていました。ただ、編集会議になると、そういうものは一切カットしないと売れないものですからね。
僕がそこで感じたのは、週刊誌の記者も別のものを持っているということです。そうすると、そういうものをつくっている週刊文春という体質も、そこではその両方を持っているということですよ。

A弁護士:
それなら、記者がそう言っていたということを、逆にホームページに出したらいいんじゃないですか?

いさどん:
それはそうですが、木の花のホームページといっても、最近チェックする人が増えたとはいえ、せいぜい一日400〜500件ですよ。

A弁護士:
でも、やはり関心のある人は見ますよ。木の花の情報となると、やはりそこから入っていくわけですから。
昨日、北海道でスピリチュアルリーダーをしているある女性と小田原で自然農をやっている男の子と会ったのですが、木の花の話になると、「私の友達の友達が以前あそこにいたので、今度行ってみようと思っています」という話になりました。やはり自然農をやっているグループだと、ここを出た人たちの友達になることもあるのです。そのときに「木の花のホームページを見たら?」という話もできるわけですから、いさどんとしてのメッセージを出した方がストレートに伝わるのではないかと思うのです。
それで、今言われたように、「ひとりひとりが天とつながることが自分の最終目標なのです。今、良いチャンスを与えられて、木の花のメンバーひとりひとりが直接天とつながることができるように、自立の兆しが観えています」というようなメッセージを出すことは、かなり効果的だと思うのですが。

いさどん:
それについては、今までの僕のブログにだいたい網羅されているはずです。

ようこ:
そうですね。

いさどん:
最近のものはこういったことを受けての話になっていますが、以前からずっと膨大な量の話を出していまして、そこをそのまま素直に受け取ってもらえれば、今のような表現はすでにしてあるのです。

A弁護士:
おそらく、その膨大な量を多くの人は見ないですね。

ようこ:
人は、最新のものから見ていきますからね。2009年のいさどんブログが設立されたところから読む人は、よっぽどマニアックな人ですよ(笑)。

いさどん:
全部で2000ページはありますからね(笑)。

A弁護士:
そうすれば誤解はないわけですが(笑)、そうじゃない人が大半なわけですから。

いさどん:
そこで思うところは、これは木の花のみんなにも伝えてあることですし、みんなもそのことはよく理解していると思うのですが、この世界にどんな形で反映されるかは、この世界の人たちの観る価値観によって決まるのです。
たとえば、ある出来事が起きたときに、それが暴力でも性でもいいですが、それを解釈するときには、これだけの膨大な情報を出されたのですから、結局その人の意識レベルで見えるものしか、見えません。
ですから、全体を観ることができたら、これだけの狭い情報に特化した評価とは違うものになるのですが、人はとかく自分の価値観でしか見ないのです。

昨日みちよちゃんが、「やっと私もいさどんのことがわかった」と言うから、「あなた、遅いね~」と伝えたのですが(みんな、笑)、それは何かというと、みちよちゃんが言うには、「いさどんは前から『イエスかノーかどちらかだよ』と言っていたよね。たとえば、木の花のここは好きだけど、ここは嫌だという人が多いし、私もそうだったのだけど、よく考えたら違うんだね」と言うから、「当たり前だよ。良いところも悪いところも、同じ精神から生まれてきている。そうしたら、良いと思ったら全て良いふうに観えないといけないのだし、悪いと思ったら全て否定しないといけない。それが本当は明快なものの見方なのだけど、あなたでも、木の花のここは良いけど、ここは悪いとずっとやってきているから、いつまでたっても本質が観えなかったんだよ。でも、今回のことでそれがわかったのだから、それだけ効果があったね」と話をしました。

僕としては、自分の心に曇りはないわけです。本来、僕の生き方としてはこれでいいと思うのです。ただ、ここの人たちが僕と同じような気持ちなのかどうかという確認が必要だったのですが、最近みんなの言動を観ていると、同じになってきたと感じています。

A弁護士:
今回のひとりひとりのメッセージではそれを感じますよね。

いさどん:
やっと、そこまで来たと思うと、それでいいと思うのです。時代は、いつも必ず一方通行です。ただ、最終的に宇宙はまた戻っていきますが、常に一方通行です。
事実として、人が協働しないといけないとか、もっと個人を超えて人とつながらないといけない世界が確実に来ています。昨日、関東では6月の1日の降雨量として記録的な大雨だったとニュースになっていましたね。北海道でもまだ6月なのに最高気温が34.8度と記録が更新されていくわけです。このように未踏のところへこれから踏み入れていくわけです。

A弁護士:
そうですね。

いさどん:
そうしたら、人間たちも未踏のところへ行かないといけないのに、どうも話をしていると、自分たちが今までいた居心地が良いところでものを観ようとしているから、それではここで起きていることは理解できないのです。しかし、私は以前から「先をやりなさい。雛形をやりなさい」と言われていて、今回の件が起きたときでも「難しいことを与えておるゆえ、心して行け」と言われたのです。そのときに、「わかっています」と言いながら、実際にそれが来ると、「これだったのか」という想いもありますが、でも難しいことはこれで終わるわけではありませんから、安心はしていません。

そうすると、気になるのは、僕のことはいい。ただ、みんなについては、巻き込んできたのか、それともそれぞれの人生プランのもとに集ってきたのか、ということです。集ってきたのであれば、誰にも責任はないのです。そして、世の中もこういったことを必要としているのですし、それに応えて、あえてこういった難しい役割を引き受けて降りてきた、という自覚はあるのです。この契約はあと17年ですけどね。

A弁護士:
80歳までということですか。

いさどん:
はい、あと17年この契約をもらっているのですが、「おまえ、いのちがある限り、評価はされんぞ」ということも聞いているのです。だから僕は、「いいじゃないですか。建物が建つときに見えない基礎で、縁の下でいいんじゃないですか。それが大事なのですから」という約束のもとにやっていることは確かなのです。

現世的な対処は当然していきますが、ページをめくっていくことが必要だと思うと、ページの先には「こうだったね」という話が来るという確信はあるのです。最終的に、生きるということは、ダイナミックに、変な規制をかけず、生き切るということです。そして、死ぬことは、自らが生まれてきて役割を与えられたことの完成を観る、ということです。それしかないと思っています。

ですから、僕が考えていることに他の人を巻き込んできているとしたら、みんなに気の毒だと思うので、みんなに確認したのです。自分の意志でこの生き方をしていることをみんなが理解できたら、これは鬼に金棒で、何でもいいと思います。ここが世間から全くずれたところであって、一般の人たちが理解できなくても、それは全く構わないのです。
宇宙の仕組みからいったら、だいたい地球上に人間のような意識レベルが低いものが肉体を持ってまだあがいていることからしたら、「あなたたちの世界を広めなさい」という段階に来ているのだと思います。

2012年の12月21日(銀河の冬至)に扉が開いて、そういった変革が始まったとしたならば、2014年はいよいよそういうものが出だしたということです。最初の話の、色々な人が現れてきた延長に、結構刺激的なものが出てきたということです。これは問題提起ですからね。相変わらず、奇抜なのですよ(みんな、笑)。

A弁護士:
人数的に、今80人というのはどうなのですか?

いさどん:
人数は関係ないですね。なぜかというと、多かろうが少なかろうが、大切なのはその一体感です。

A弁護士:
一体感があれば、100人でも200人でもいいということですね。

いさどん:
はい、全く問題ありません。実際に、この状況でもメンバーになりたいという人がいるのですから。全てわかりきっているからこそ、ここのメンバーになりたいという人がいるのです。そうすると、仮にこの記事を見て、「やっと本物が世に認知されるようになったんだ」と思う人もいるわけです。

りゅうしろうも、能力が高いわりにはなかなか活躍しないと思っていたところもあったのですが、インタビューの中で「1万人の中の1人がわかればいい」と彼は言っています。しかし、僕はそんなことは考えていません。100万人に1人わかればいい、と(みんな、笑)。
そうすると、1億3000万の中でとりあえず130人ということです。これは80人が130人になるのですから、すごいことですよ。数字はものすごく謙虚です(みんな、笑)。1万人に1人だったらたいへんですよ。1万人に1人なら、1億3000万からすると、13000人になるのですから。まだ13000人もいらないですよ。これは地球全体のことです。とりあえず、今のところ100人超えればいいんじゃないですか。まだそれくらい微々たるものだということです。
僕はそのようなことを考えているのですが、どうですか?

A弁護士:
そうすると、もっと先鋭化するというか、ある意味わかる人しか入れないということですか?

いさどん:
入れる・入れないは関係のことです。それは天の意志ですから。天の意志と本人の意志です。
これからの時代は、自らの思考と天の法則がいかに一致するかどうかであって、農業も同じことです。この自然法則、天の法則と我々がやろうとしている作物に対する心が一致するかどうかが、これからの農業の在り方なのです。

そこで大切なのは、自分が勝っていてはダメなのです。自分が勝っていては、天が「従」になってしまう。天が「主」で、自分が「従」にならないといけないのです。それが宇宙を生きるということですから。
そうしたら、そういった人をここでつくっていくとしたら、元メンバーのような人たちがここにいたら困るのです。しかし、それでもここにいたいと言っていたので、それを調整してきたのですが、それが調整しきれない状態でどうしようもなくなったときに、あのようなことが起きたのです。しかし、あのことも、彼が僕に何度も、「いさどん、僕を殴ってください。僕のこのどうしようもない人間をなおすためには、殴ってもらうしか方法がないのです」と言ってきているのです。そして、それをずっとなだめてきて、最終的に叶えたら、今のようなことになったわけです。こういった本当のことについては、表に出てこないのでみんなわからないのです。
陰でここのことを色々言っている元メンバーたちも、何回ここで不祥事を起こして頭を丸めたか。一人はパニック障害で仕事ができなくなって、何か月かけて僕がなおしてきたのか。そういったことを忘れてしまっているのです。

真実というところから観ると、確実に間違いのない実績があるのです。真実が観えない世の中だから、こういうふうになっているわけです。

A弁護士:
そうですね。

いさどん:
その真実のところに生きている者が、真実を見えないところに媚を売る必要はないわけです。

A弁護士:
そうです。

いさどん:
生きていれば目的は達成されますし、最終的には死を迎えるのですから、濁りのない生き方をすることが大切だと僕は思うのです。その姿勢は、高飛車だとか、傲慢だとか言われますが、それこそ二歩先ですからわからないのです。だからこそ、世の為にも貫き通さないといけないのです。それが僕の姿勢です。ですから、死ぬまではわかってもらえない、という覚悟をしています。しかし、時代が、「その先駆者がいたのだ」と気づくときに、僕は天から観ていますよ。ハッハッハ。

ようこ:
実際、Aさんのように、こちらの全てを細かく伝えているわけではないのに、感覚で理解されている方もいますしね。

A弁護士:
ここに来れば、エネルギーでわかりますからね。この週刊誌のようなぐちゅぐちゅとしたエネルギーではないことはわかるわけですから。

いさどん:
週刊文春の記者ですら、「いいところですね~」と言っていました(みんな、笑)。だから、「それが感じられる?」と聞いたのです。

特に、このタイミングでカタカムナがここに来ました。12000年前のカタカムナ人の物理学は、ここの生き方そのものですよ。神の物理性をそこでは解いているわけです。そうすると、この現代物理学の奥にあるもの、そして宇宙は物理によってできているわけですから、それを科学として人間は解き明かしてきたわけです。しかし、真理からすると、それはまだまだ遠いですね。
カタカムナでは12000年も前に、それがすでに解き明かされていたわけです。それが戦後に復活したわけですが、その第一人者が講師としてここに足しげく通って勉強会を開いているわけです。今度、アワの歌の解析をしようかという話もあるのですよ。

ここに1年8ヶ月滞在していて今はヤマギシに戻っている人が、ここが恋しくてまた帰ってくるのですが、「この週刊誌や色々な書き込みを見ると、ここにいて感じるものと正反対のものが表現されているので、どういう世の中なのかがよくわかります。」というメールを送ってきました。
事実、週刊誌やここをバッシングする人たちが描く世界と、ここで表現されている世界には大きなギャップがあります。実際にここを訪れる人たちが感じるものが真実なのであり、ここでこれまで色々なことがあったのも、今のこの場所につながるためにあったのです。そして、私たちはこれからも理想郷を目指して歩み続けていくわけです。それを、どこかに焦点をあてて区切ってみるのは、たとえば自然を見て「弱肉強食だ」と言っているようなものなのです。今を真実とし、そして未来にまた今があって、真実が紡がれていくのです。

やはり、観るべきところを観た人にはわかるのです。しかし、それはトキとトコロが、つまりトキが来て、そしてトコロ、すなわちそういう環境が整わないと、起きないのでしょう。地球自体が今そちらの方向へ行っていますが、世界で70億の人間がそれに気が付くためには、相当の負荷が与えられないといけないのかもしれません。木の花のみんなも、今回この負荷を与えられて、やっと目覚めてきたのですからね。

ようこ:
3年前、いさどんが還暦を迎え、生前葬をしたときから、「これからはいさどんを目立たなくして、ひとりひとりが声をあげていこう」と言っていたことが、3年かかってようやくここまで来たのです。

いさどん:
そう、3年かかってやっとね(笑)!

A弁護士:
それも、この出来事のおかげでできたということですね(笑)。

いさどん:
ですから、これは我々のためにもあるのです。

ようこ:
外の人から見ると、「創立以来の木の花最大の危機ですね」と心配される方もいるのですが、私からすると・・・

いさどん:
やっとここへ来たか(みんな、笑)!全ては善きことのために。この世界だけを見ていると、今回のことは一大事ですよ。しかし、この世界の人たちが何を見ているかです。

A弁護士:
エネルギーがわかる人が少しずつ増えてきてはいますね。

いさどん:
この間、カナダ人の文化人類学者の教授が10日間滞在していたのですが、国から助成金をもらってここで長期の研究をしたいということで、助成金が下りればすぐにでも来て、半年くらいここに滞在したいと言っています。
彼女は10日間ここに滞在して、この一連の騒動についての情報も耳にしています。彼女はこういった共同体の研究は実は始めたばかりで、それまでは貧困を研究していました。その際、貧困の中にも豊かさがあることに気付き、豊かさや人の幸せを研究すべきだと考えたときに、コミュテニィを研究しようと思ったそうです。
それで彼女にここを紹介した人は、昨年元メンバーの書き込みに賛同して、ここのことを赤軍のようだと言っていた人なのですが、カナダ人の研究者に「いいところがありますよ」とここのことを紹介するのですから、おかしいですよね(みんな、笑)。思考が狂っているのは、天のはからいなのです。

彼女がここに来たときには、こういったことが話題になっている真っ最中でした。ところが、彼女が聞く情報と、ここで展開されている世界が違うのです。それで彼女は、この観えないものを調査する必要があると感じ、僕と3時間話したのです。そうしたら、彼女は「これは重要だから、これを世の中に出さなければ私の人生の意味がない」と言っていました。
そして、彼女の滞在中に、一昨年ここに3ヶ月滞在していたデンマークからの人類学者が、たまたまここに1泊2日で来たのです。彼女は、「いさどん、今度はもっと長くいるからね」と言っていました。それから、イギリス人の写真家も、たまたま同じときに1泊2日で来ていたのです。彼も深い写真を撮る人ですが、その3人がここで出会ったのです。そして、「ここを世に出さなければ!」と3人が盛り上がっていたのです。
そうすると、これは天が何かをやっていますよ。日本の民衆が何をやっていても、天が何かをやっています。ここにいると、それがわかるのです。

ようこ:
メンバーのインタビューの最後に、今ここに長期滞在中の中国人のコメントも載っていますが、今ふたりの中国人がコミュニティを創ることを学ぶためにここに滞在しています。

A弁護士:
今日、お昼ご飯を一緒に食べましたよ。

いさどん:
アメリカで物理学を専攻している彼が、中国でコミュニティを創りたいということでここに滞在しているのですが、ここのことはとても評価していますね。ですから、ミーハーで色々な活動を表面的にしている人たちとは大きな差があるのです。
さて、そこで彼らに理解してもらうための行動をするのか。それとも、ここを求める人たちが来るために、明快なあり方を提示し続けるのか。ここを求める人たちは砂金探しをしているようなものです。その砂金であるべきなのかといったら、僕は後者であるべきだと思うのです。
ですから、僕はわからないほうがいいと思いますが、どうですか(笑)?

A弁護士:
エネルギーはこの場にいればわかりますからね。皇居の清掃奉仕というものが4日間あるそうですが、そこに知り合いが行ったら、最後に天皇陛下と皇后陛下がお出ましになるそうです。そのとき、全く場が変わるそうです。若い女の子が涙ぐむし、今までにない波動を感じた、と僕の知り合いは言っていました。ですから、天皇陛下・皇后陛下が日々の祈りというか、霊的な御行をされていることがわかると言っていましたね。

いさどん:
宇宙的には完璧に次のステージに入っているわけです。地球も次のステージに入りましたからね。あとは、人間たちだけなのです。
そのときに、ここで今までやってきたように、どの人たちもみんな一緒に連れていこうかと思ってやっていたときには、足に絡む者から色々いたのですが、それが今は全て綺麗に整理されました。やはりトキとトコロが来ないといけないのです。人にもその人の時間軸があるのです。
僕は誰をも、望む者は一緒に連れていきたいという現世的な、肉体を持っている人間的な慈悲の心があるものですから、そういったものを引きずっていましたが、天がそれを排除されたのです。

「ありがとうございます。お蔭で楽になりました。その代わりに、人類という重荷がここにかかってきましたが、それは覚悟しております。」

これからは、一般大衆の目覚めの時代に入ったわけですから、「全ての人間に仏性あり」という扉が開かれたわけです。これは、木の花が始まったときから言われていることですが、「ひとりびとりがイエスやブッダである」というのが元々の歩みだったわけです。やっとそこへ、20年をかけて来たわけです。
昨日も、「これは嵐だよね」という話をしていたのですが、ここの人たちはその嵐の中心にいるのです。まわりがすごい勢いで風が吹いているときに、その真ん中は穏やかで晴天で風もない状態だね、とみんなで話していたのですが、こういう表現はいかがですか(笑)?

A弁護士:
そうですね、みなさんを観ているとまさしくそういう感じですね。みなさんのインタビューを読んでも、完全に抜けていますね。

いさどん:
僕は記者の二人が来たときに、「あなたたちは性をどういうものと捉えていて、あなたたちはどういう欲求で性を表現するのですか?」と聞いたのです。そうしたら、「それは欲望ですよ」と言うから、僕は「そうですか。元々性というものは、宇宙創造の原理なのです。だから、神聖なものなのです」と答えたら、その通りが記事には載っていましたが、ただ自分たちの発言は書いていないのです(みんな、笑)。

ようこ:
そこがポイントなのにね(笑)。

いさどん:
「そういうことをやっているから、こういう雑誌も売れたりするのです」と3時間40分も話しました。
ですから、ある意味、今バッシングをしている人たちもエネルギーをたくさん使っていますが、自分たちが何者であるのかをいつか気が付くために、一生懸命やっているのです。

A弁護士:
バッシングのエネルギーは結局自分たちに戻ってきますからね。

いさどん:
この間のカタカムナの勉強会で講師の人が言っていたのは、「これから真実が明かされるときに、本当の宇宙エネルギーが人間の思考の中に働く時代が来るのですが、逆にそういったことが働くということは、エネルギー全体が高いのですから、生き霊など祟るものも同じように激しくなるのです。だから、これからは激しいということですよ」と言っていましたね。

ようこ:
光だけではなく、光も闇も全てのエネルギーが激しくなっていくということです。

いさどん:
バッシングをしている人たちは自分たちを正義の味方だと思っているのですが、残念ながらそうではないですね。どういう心を持ってやっているのかが、自らの人生を形成していくわけです。必ず未来にそれが自分を待ち受けていることを、彼らはわかっていないのです。

A弁護士:
本当のところが観えていないから、記者もみんな、ある意味利用されているわけですからね。

いさどん:
ですから、正義の味方ですが、実はこの世界に正義も悪もないのです。ある意味、悪は、本当の正義の味方ですからね。ただ、正義も正義の味方なのですが、正義だけをかざしているのが悪なのです。

A弁護士:
結局、みんな本当の自分がわからないから、そういうことになってしまうのですよね。

いさどん:
まず、「人間が何者なのか」がわかっていないでしょう。毎日あくせく働いて、お金に追われて、そして物に執着し、人に執着し、自分に執着し、そこで自らの想いを叶えることが幸せだと思っているのですから。そういったことを全て乗り越えられたところに本当の自由があって、真実の世界があることがわからないのです。

僕の話していることは、時代というものを超えた物語です。それは宇宙的スケールであり、宇宙創造から消滅までのスケールで、それが輪廻するのですから、無限なるスケールで話しているのです。しかし、そういった時代が21世紀に現れたことが、多くの人はまだわからないのです。

A弁護士:
人間は全て宇宙人ですからね。

いさどん:
僕が最近よく言う話ですが、昨日もここにこの場所がありましたが、昨日から今日へ24時間経つと、170万2080km、物理的には移動しているのです。つまり、ここの場所自体が宇宙の中で永遠に同じ場所にないのです。

A弁護士:
回転もしていますしね(笑)。

いさどん:
そうです。あなた自身が、全く止まらないで変化し続けているのです。さらに、カタカムナ的に言えば、この有限な世界は「ない世界」と「ある世界」を行ったり来たりしているのですが、その「ない世界」を私たちは認識できないので、私たちは半分しかこの世界の実態を認識していないことになります。これは、ある段階まで行くと、真実だとわかるのです。

A弁護士:
結局、意識次第で人間は変わっていくわけでしょう?

いさどん:
この世界は意識だけで、たちどころに天国にもなるし、地獄にもなります。

A弁護士:
だから、その意識をどこまで高めるかということが、人間の命を与えられた理由なのですが、この肉体を守るために一生懸命やっているから、もうどうにもなりませんね。

いさどん:
肉体に執着して、この目でしか物が見えていないから、そうなります。ですから、同じ情報をもらっても、意識レベルによって木の花の評価は全く違ってくるのです。物を見て、「これはこうだ」と決めた時点で、物を見ているのではなく、自分自身を観ているのです。しかし、それが人間にはわからないのです。

理想郷はずっと昔から常にあり続けているのです。ただ、人間がそれを理想の意識レベルで観ているかどうかです。悟りも同じことですよ。悟りはすぐ隣にあるのです。全てに執着がなくなって、全ての側にチリのように自らの魂が分散されて反映されたら、万物に自らが立つわけですから、悟りの境地になるわけです。瞬間にして、自分自身を組み立てることができるのです。これが「いさどん」ですよ(笑)!それを、みんながやっているのです。

業をして悟るという昔の方法はある意味幼稚なのです。21世紀の悟りは、もっと簡単にエネルギーもかけずにできるのですが、それができるということはその意識レベルに行かないといけないということです。カタカムナを学ぶと、そのあたりがよくわかってきます。お釈迦様もキリストも、いつの時代にもいるのです。
昔、文字のない時代に、なぜカタカムナが伝承できたのかいうと、「口伝」だというのですが、その口伝の意味がわかっていないのです。口伝とは、その口伝する役割の人が耳で言葉を聞いて、それを次に伝えたと人は思っているのですが、それは違います。いくらそれをしたところで、意識レベルが違っていたら、同じものを観ても別のものになってしまうのです。

微生物が死に絶えても、トキと環境が整うと、また湧いてきます。ホタルや自然のものでも、絶滅したように見えても、トキと環境が整うと湧いてくるのです。この6億年の間に、地球上で6回生命が絶滅したと言われていますが、その後に必ず湧いてくるのです。そしてそれは、進化して出てくるのです。
人間の歴史上、人類というレベルはある一定のレベルになるのですが、それを導く次元の魂が時々降りてくるのです。その魂が降りてきて、何を観るかというと、たとえばお釈迦様が意識したレベルのものが現れると、宇宙を観て、この世界を観て、人々を観て、同じことをそこで語るわけです。キリストでも同じです。経典がなくても、それは同じことを語るのです。宇宙が同じですから。同じことを宇宙はずっとやり続けているわけです。
それは無限に変化し、進化し続けています。ですから、意識の高いものが役割としてパッと降りてくればいいのです。それは天の采配です。それが時代を刻んでいるということです。その中で、ブッダレベルのものが降りてくる時代と、全くいない時代があります。それがある時代に出てくると、それが受け皿になって、宇宙を解釈して伝えるようになるのです。

A弁護士:
今はブッダレベルの魂が結構いるのではないですか?

いさどん:
そこが僕には何とも言えないところです。ブッダレベルのものがいたら、今の時代の様子はもう少し違う気がするのです。すでに出てきているかもしれませんが、それはこれからの働きですね。

いさどんは特定のリーダーのように見えるかもしれませんが、実は特定のリーダーを創らないために生まれてきているときには、誰かがリーダーにならないと仕方がないのです。まだ、みんなが育っていないときにはね。ですから、みんなが育ってしまえば、いさどんはいらなくなるのです。「僕が目立たなくなるように」と僕はずっと伝えてきているのですが、解説すると、事はこういうことですよ。

それで、「生きているうちは評価されないぞ」ということですから、評価されなくても本望なのです。地上で評価されるために生きているわけではなく、天でふさわしい役割を受けて降りてきたのですから。ですから、どんなに傲慢だと言われようが、やはりやり続けるということなのです。

「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり。」
衆生のためにやるためには、衆生にごまをすっているようなことでは、役割は果たせません。僕はそう思っているのですが、生意気ですかね(笑)?

A弁護士:
いや、それはいいと思いますよ(笑)。ですから、そのメッセージをストレートに出したらどうですか?

いさどん:
それには、そういう話を理解する相手がいるのです。そのレベルの人が目の前にいると、今のような話が出てくるのですから、相手のレベルに応じて話が出てくるのです。理解できない人に、どんなに説明しても伝わりません。全ては、人のためにあるのですから。
そうすると、そのレベルの話を引き出す人間が来ると、それが語れるのですから、もっと頻繁にここに通ってもらわないといけませんよ(みんな、笑)。今日この話が出てきたということは、あなたがこういった話を引き出す人だということがわかったのですから、お互いにもっと世の中のためにもコラボしていきましょう。今日の話を世に出せば、それを読んでピッと感じる人は感じますよ。ですから、こうやってつながっていくことが大切だと思います。

A弁護士:
そうですね。

いさどん:
これは、世のため人のためです。僕は常に、人類のために生きています。時代を担うために生まれてきているわけですから、そこを外したら生きている意味がありません。

A弁護士:
それぞれの人も、自分の意識を変容するために生きているわけですからね。

いさどん:
そうです。

A弁護士:
ところが、安易な情報というか、闇の力が強すぎてしまっていて、いかようにも仕組まれていますからね。

いさどん:
ただ、天が言うには、「その闇も私が創った」と言われるのですから、天の自作自演なのです(笑)。

A弁護士:
そこが巧妙なので、それに気付くのはその人の本当の意識なのでしょうが。

いさどん:
「そこが巧妙で、ダイナミックであればあるほど、豊かでしょう」と言われるので、「そうですね」と答えるものの、「でも地上で生きていると、結構うっとしますよ」と言うこともありますね(笑)。
  
  


「覚悟しております」

昨年秋、木の花ファミリーを離れた元メンバーが木の花ファミリーの批判を始めたことをきっかけに、一部インターネット上にて真実とは異なる情報が流布し、先週発売された週刊文春に木の花ファミリーに関する記事が掲載されました。
以下の会話は、記事が掲載される2ヶ月以上前の3月下旬に話されたものです。この機会に、皆さまにもシェアいたします。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
昨年秋から色々なバッシングを受けてきたけれど、もし僕が逆の立場だったら放っておくよ。例えばそれが自分が関わった場であったとしても、縁を切ればいいだけのこと。そして自分の生き方をすればいい。

ともこ:
だからさ、やっぱりみんな木の花のファンなんだよ。

いさどん:
そうだね。興味があるんだよ。そして、ある意味、ここが本物であって欲しくないという心があるんだよ。逆もあるかもしれないけどね。もしも本物ならば、とことんそれぞれが探求していけばいい。

ともこ:
でも、ありがたいね。こういうことが起きるたびに、ああ、大事なのはこっちの道だな、ということを確認させてもらっているよ。

いさどん:
ここまでのことを、こちらから世の中に出すことはできない。でもこうして暴露されたからこそ、そのことについて語れるんだよ。それを聞く人も、その時には「そんなことあり得ない!」というような感情があったとしても、時代が進んでいった時に、「あれ?これってどこかにあったよな」と、それが鮮烈であればあるほど、思い出すじゃない。

ここまで真剣に自分と向き合って生きている人たちがいるということを、こんなふうに広めることなんて、我々にはできないよ。だから、これは神業なんだよ。

ともこ:
そうだね。世間に対してもそうだし、私たちの中でも、真剣に考えるようになったよね。

いさどん:
なぜこれを生きているのかということを再考することになった。

ともこ:
うん。すごいよね。木の花にいると何の不安もなく安心して暮らせちゃうから、中にいるとボケてくる人もいる。その時にこういうことを起こしてもらって。

いさどん:
目を覚ませ、と言ってもらっているようなもの。

ともこ:
そうだね。

いさどん:
目を覚ませということを我々に伝えながら、世間にはここの存在を知らしめている。一挙両得。同時進行でやっている。まさに神業だよ。
でも、これは天のはからいだからできると思うんだよ。人間だとどうしても、物理的に、一つひとつ対処療法的にしかできない。何かが起きてきたから解消するということしかできない。これから起きてくることもわからないし、流れも創ることがなかなか難しい。
天の意志を感じているからこそ、我々はこのように立体的に捉えることができるわけだよ。これは天との共同作業だよ。

ああ、言葉が降りてきた。

「地を生きる者たちは、その目に限定があるがために、天のはからいがあることが見えぬようだが、常に天のはからいをもって地があることが理解できるか。」

それはあなた、理解しているに決まっています。ただ、私たちは地上を生きる者ですから、とりあえず地上の現象をまず最初に受けて、それから天の意志を受け取る順番がありますので、一瞬はうっとするものではあります。ただ、その天のはからいを理解した時には、豊かな心となって、一瞬のくもりの心も、あっという間に晴れて、喜びへと変わるのです。有り難いことです。
有り難うございます。有り難うございます。有り難うございます。
有り難うございます。有り難うございます。有り難うございます。
有り難うございます。有り難うございます。有り難うございます。

肉体を持っていることは、ダイナミックだね。でも、ダイナミックと感じるためには、天の意志がわかってないと、生きることをダイナミックと感じて楽しめないよね。人間たちも、一部ではあるけれど、ここまで天を感じて生きる段階に突入したってことだよ。
あなたにも役割があるんだよ。こうしてここに来て、心を安定させたのは、何もあなたの心を安定させて楽にすることが目的じゃない。すべて世のため人のためにあるんだから。そうすると、自分が何で降りてきたのか、その目的が、神さまの手先となって世のため人のためにあるということ、この時代を紡いでいくための役割を果たしていくってことになるんだよ。それがよく理解できたら、より充実した人生になるよ。
それにしても、外れていった人たちはユダみたいだね。そして、ユダにも役割があったんだよ。

ともこ:
不安だろうね。

いさどん:
それも含めてね。
あなたは、マインドコントロールされていますか?

ともこ:
ううん。されていない。

いさどん:
それが自らの意志であるならば、マインドコントロールじゃないんだよ。自分の意志で、そういう想いや行動ができるようになった時に、それはマインドコントロールとは言わないんだよ。

ともこ:
決してマインドコントロールではないけど、すっごい助けてもらっているって思う。

いさどん:
それは、共に生きることによって、より強く、高く生きるための、お互いの相乗効果だよ。だから、人は群れて生きるんだよ。しかし、自分たちの傷口を舐め合うために群れるようなことではいけないけどね。

(しばし沈黙)
ねえ、ともこさん。僕たちは、ひとつかね?

ともこ:
うん。ひとつだよ。

いさどん:
たぶんね、天上では、一つの命、魂を形成していて、分かれたもの。今も一つの地球生態系を担っている。

ともこ:
私、やっぱりね、いさどんを大事にすることが大切だと思うの。今の時点では、私からは人のためになる智恵はあまり湧いてこないんだよ。だけどその分、いさどんからたくさん湧いてくる。だからいさどんを大事にすることだと思うんだよ。

いさどん:
それはそうだね。

ともこ:
そういう人と、こうやって一緒に過ごせていることが、すごくありがたいことだと思うの。

いさどん:
昔ね、自分というのは何だろうと思った時に、そこら辺にいる人の一人だと思っていたんだよね。だから、あまり自分の言葉とか想いを大事にしていなかったのだけど、自分が想うことや語っていること、それからやっていることへの真剣さがだんだんわかってきたから、これってもしかして宝くじに当たった?と思ったんだ。
しかし、宝くじだったら、例えば全国で150本とか当たるわけだよ。ではこんな人間が日本に150人いるだろうか?1年に何回かその宝くじが発売されるとしたら、当たる人はさらに増えるよね。じゃあこんな生き方をする人がそんなにいるだろうかと思ったら、いないわけだよ。そうしたら、宝くじなんてものではないことに気付いた。

ともこ:
ほんとだね!(笑)

いさどん:
例えばお釈迦様やキリストの存在を考えると、それはすっごく少ないことなのよ。だけどそこで気付いたんだよ。どんなに少なくても、そこにいるんだってことさ。
ということは、「自分はそんなものじゃない」と否定した時に、可能性はゼロになる。しかし、そのものであることの可能性が少しでもあるとしたら、それが自分であることも有り得る。それを「そんなこと有り得ない」なんて思っていたら、自分が希少な役割をもらってきていることを放棄することになるんだよ。
だから、まず、自分はそういった役割として生まれてきたんだ、ということを信じて、とことんそれをやり切ることだと思ったんだよ。そうでないと、その希少な役割であることを放棄することになり、天に対して大変失礼なことをしていることになる。だから、自分はそういうものであるということを、自分の中でちゃんと納得しようと考えた。そして、とことんそれを生きようと思ったら、やっぱりそのように生きられるんだよ。それは、自分が創っていく部分と与えられたものと、両方だと思ったんだよ。
だから、へりくだり過ぎてはいけない。かと言って、驕ってもいけない。ただ自覚ある者として、粛々とそれを生きる。そう思ったね。そうやって自分に言い聞かせてきた。
最近はそんなことを思うこともなく、ただ粛々とこの道を歩むものとして生きるだけになってきた。昔は葛藤があったからね。よく自分に言い聞かせたよ。

ともこ:
今の話を、批判している人たちに聞かせてあげたいな。この生き方をしていくことが、どれだけ覚悟がいることかって。

いさどん:
そうだね。これを歩むことは、大変な覚悟がいる。その覚悟は、一切の駆け引きとか、損得とか、そういったものを抜きにしないとやれない。自分の立場なんて考えていたら、心がつぶれてしまう。
こうやって、いろいろと批判の嵐にさらされるでしょ。その時に、やっぱりうっとするよ。だけどその後にね、ちゃんと湧いてくるんだよ。「そこでくじけては、これをやっていく者の資格はない」って。いつも思っている。
だからね、懲りないよ、この人は。そういう自分が僕は好きだね。

ともこ:
それがどれだけすごいことかっていうのが、彼らには見えないんだろうね。

いさどん:
矢面に立てば立つほど、対抗するのではなくて、粛々と生きていく決意が湧いてくる。
でもね、粛々とやっていく意義があるでしょ。そしてそれを伝えることは大切だと思いながら、面倒くさいと思うこともあるんだよね。なぜかというと、人間というのは、わかる時が来ないとわからない。それで、わかる時が来ていない人間にわからせようなんてことをすると、すごくエネルギーがかかるわけだ。ところがわからない人に限ってうるさいんだよ。本当は、今わからなかったら、それはわからない時なのだから、わかる時が来るまでおいておけばいい。
我々の考え方はいつもそうでしょ。流れが観えない時は、今は時期ではないのだから流れが来るまで待っていなさい、と。そして、観えたら行きなさい、ということなんだよ。だけど、今の人々にはそういうことがない。わからないと、わかりたくてわかりたくて仕方がなくなる。そういった欲が深いものだから、焦ってしまって間違った方に物事を決めつけてしまう。だけど、それが一番の間違いの元だよ。

道というものは、自然に見えてくるものなんだよ。だから、自分で結論を出すものではない。結論を出したら、それは道じゃない。自分の考えだよ。道は天が与えてくれているのだから。そして、時代が刻んでいくのだから。
我々は、自らの想いの通りに生きて、その想いが何であるかをこの世界からいただく者でしょう。そしてそれが生きるということでしょう。「生きる」ということは、「いただく」ということ。そしてそれを知ることなのだから。
人間が生きている要素をどんな切り口から見ても、自分の力で生きている要素なんてひとつもない。それを、自分で生きていると思っているから、結論を自分で出そうとして、そういったことがわからないんだよ。それで、それを人間に伝えようとすると、面倒くさくてしかたがない。だけど、わからない者ほどそれを求めているから伝えなくてはいけない。

ともこ:
わからない者にほど伝えないといけないのか~。。

いさどん:
わからない者は放っておけばいいのだけど、わかる時が来ていないのに求めてくる。

ともこ:
やっぱり、わからないからうるさいんだね。落ち着かないから。

いさどん:
そう。観えるようになると、ちゃんと落ち着いてくる。

ともこ:
そうだろうね。わかんないうちは不安だもん。

いさどん:
そういった自分の姿が観えないんだよ。だから、それを伝える役割の側からするとすごく面倒くさいんだよ。だから、立場上役割として、それでも伝えなければいけない時には伝える。世のため人のためということは、わかる者のためだけにあるわけではなくて、わからない者も世であり人であるからね。その矢面に立つのも役割だということだよ。

ともこ:
そうだよね(笑)。

いさどん:
視点が地上から離れて、宇宙空間まで出なくても、せめて10m、せめて5m、せめて1mでも視点が地上から離れたら少しはわかるようになるけどね。
それとね、時間を、過去・現在・未来とつなげて捉えると物語になっていて、そこには流れがあるでしょ。そういったものを観る心の大きさや余裕がありさえすれば、そんなことはたちどころにわかることなんだよ。
ところが、今というものを二元的な損得や善悪だけで見ているものだから、それはわからない。それは過去に捉われて、未来にこだわって、今がまったく見えない状態に陥ることになる。
だから、こういう役割を与えられたものとして、天から「難しいことを与えておるゆえ心して行け」と伝えられているわけだけど、そこは本当にそうだと思う。だからこそ、そこでは「覚悟しております」という決意に行き着く。最初から覚悟して生きてきたし、今もその覚悟があることをやっぱり思うよ。

だから、どこまでも行くよ。そして、どんな者の投げかけも、受けて立ち、その奥にある真実を伝えていく。
だってね、心に濁りがないことは確かだから。自分で自分の心を観て、濁りがないことを確認している。だから、どんなに非難されようとどうしようと、その時が来るまで大切な役割を果たしていく。

ともこ:
そうだよね。だから、批判をしている人たちも、本当は知ってるはずでしょ?自分の心のことを。

いさどん:
そうだね。でも、本当の自分と向き合おうとしないんだよ。しっかり見たらあることはわかるのだけど、そう思いたくないし、認めたくないんだよ。どの位置の心で今の自分の行動があるか。僕は心のランキングの話をするでしょ。あれで見たら、一目瞭然でわかるよ。
こんなことは宗教でもたくさんやってきた。それを宗教がご利益に使ったものだから、人々の魂にはそれが入っていない。知識としてしか生かされていないから、心を磨くための智恵として湧いてこない。
だから、この道を進むことは大切だね。そこで、大きな希望があるのは、やっぱり天が後ろ盾になっている。だから、我々が行く道にはちゃんとそこに流れがあるし、出会いが用意されている。そしてこうやってどんな無理解に出会おうと、絶対なる結束のもとに歩んでいけているでしょう。抵抗が大きければ大きいほど、しっかりと結束が強くなっていくでしょう。これがあることが、この道がいかに大切で揺るぎないものであるかの証さ。

ともこ:
そうだね。あの人たちの書いたものを見て、辛いだろうな~って思うんだよ。あんな心でいるのは、辛いよ。

いさどん:
そこなんだよ。ある意味、気の毒だとは思うんだよ。

ともこ:
でもやっぱり、個人の選択だよね。

いさどん:
ああいった攻撃的な感情や人を裁く心を持っていることが、自分の魂をどの位置に置くかということになる。ある意味、正義の旗印のもとに地獄を生きているわけでしょ。それがわからないんだよ。

ともこ:
うん。わかんないんだよね。わかんないならわかんないで、そのまま置いとけばいいのにね。

いさどん:
物事を決めつけたいんだよ。

ともこ:
不安だから。

いさどん:
そう。不安だから自分の思っている方へ決めつけたいんだよ。逆に、自分の思っている方でない時には、特に不安になる。

ともこ:
そこには成長がないね。

いさどん:
成長するという意味が分かっていないからね。人は自分を壊した分だけ成長するのに、自分を保って成長しようとしているのだから。それは、この世界の法の逆に行くことになる。
あなたもね、心のランキングから言ったらずい分下の方にいた時もあるけど、それがこうやって今の位置まで来られるのだから。神様は、わざわざ自分から遠い位置に人々を置いて、闇に行けば行くほど、ほんのちょっとの光でも見えるようにされたんだよ。中途半端に明るいと、光があるのが当たり前になってしまう。それこそ光そのものの世界では、光なんて認識できない。だから闇を創られたんだよ。それで、闇にいる者も救われる。
どうして、こんな解釈があるのに、みんなわかろうとしないのかね。

ともこ:
ねえ。

いさどん:
いろんなことがあるけどさ、こういう心になるといっぺんに幸せになれるでしょ。

ともこ:
うん。

いさどん:
幸せどころか、有り難くて仕方ない世界だよ。

ともこ:
そうだよ。そして、怖いものがないんだよ。

いさどん:
そう。世界が輝いて見える。
僕も長い間人間をやって、通りの悪い者と付き合っていると疲れるんだよ。でもこの心を持つと、それが全てリセットされて、だからこそ、わからない者がいるからこそ行こう、となるんだよ。「その覚悟はできております」ということだよ。

ともこ:
こんな覚悟を持って生きている人間が沢山いてほしい。

いさどん:
さあどうかな。でも、少なくとも僕は自分に出会ってそういう者だと思うよ。
つまり、何事もないからといって、今までと同じように生きていてはいけないんだよ。人にはよくあるでしょ。問題がないからこのまま行けばいい、って。そうではないんだよ。時が来たら、問題が起きていなくても捨てなくてはいけないものもある。それだけのけじめと心が必要だよ。時期が来たら、次へ行く。

ともこ:
そういう心も、普通はなかなか持てないね。

いさどん:
今まで覚悟の連続だったもんなあ。
日月地神示の艮の金神の言葉って、すごく迫力があるでしょ。あれは、覚悟を持っていけって、常にそれを伝えている。生半可なことではいけないぞって。それが、心を創るってことだよ。

(しばし沈黙)
ありがとう、ともちゃん。

ともこ:
ありがとうは私のセリフです。

いさどん:
いやいや。そこにいるからさ。そこにいることが有り難いんだよ。だってこんな話は、対象がなければ出てこないんだから。あなたは僕の言葉を聞いて有り難うと思うかもしれないけど、それを引き出す器だから、両方で有り難いんだよ。

ともこ:
そうですね。

いさどん:
(ここでいさどんがおならをする。)おならもしますよ(笑)。

ともこ:
肉体があるね!(笑)

いさどん:
昔、いつの頃かは覚えてないけど、やっぱり女の人の前ではおならができないなーとか、出そうになったらがまんしなきゃいけないと思っていた時があった。昔のおならは食べ物が悪いから臭いだろうしさ。そういう気持ちもあったね。
でもこの生活を始めて、みんなと一緒に暮らすようになって、それがどうってことなくなったんだよ。何だろう。何でも許される関係、というふうになった時に。一般の女の子たちは、父親がおならしたら「やめてよ」って言うでしょ。それが、そうではない関係ができた時に、それこそ空気のようなこととして受け取れるようになる。そういう関係がふっとできた時に、こういった人間関係で生きることの豊かさを感じたね。人の壁をここまで取れるんだ、って。
それこそ、年を取って介護が必要になって下の世話をしてもらうようになるのは仕方がないとしても、それは開き直ってのことでしょ。そうではなく、自分で全てできるにも関わらず、それをオープンにできる関係ってすごいと思うんだよ。それこそトイレまでついてきて、お尻拭いてと言ったら拭くぐらいのつもりでいるでしょ。我々がそこまでの人間関係を創れているということを、世の中の人々は想像できない。もっとひとつになれるよ。

ともこ:
世の中の人は想像できないだろうけど、どこかでその必要性を感じているんじゃないかと思うの。

いさどん:
それと、どこかでそれを求めている。

ともこ:
そうそう。だからこんなに反応して来るんだよ。

いさどん:
もう時代がそういった方向に進み出しているからね。

ともこ:
そういう意味では、やっぱりいさどんは大変だよね。

いさどん:
いや、僕は土台をつくる人だからね。
お釈迦様がそう言われたもの。
昔、僕は「お釈迦様が難行苦行をしてこの道の元を創られたと聞きますが、私は、あなたからこのように道をいただきながら、実際は毎日自分の生業にいそしんで、修行するわけでもなく、人々に道を説くわけでもなく、日々を過ごしております。私も、宗教家や政治を司る者たちのように、日々を世のため人のためや、もしくは自らを磨くための修業をするべきではないでしょうか」と尋ねた。
そうしたらお釈迦様は、「道は一つである。もしそなたが私の道を受け継ぐものであるならば、私の歩んだ道の延長に受け継げばよい。二度と再び、私のやったことを受け継ぐ必要はない。」と言われたんだよ。それは時代のバトンタッチだから。
「私の時代は、そのような苦行の道を歩んだけれど、それは道が観えるための働きであった。ただ、私の時代の人々は、心がまだ美しかった。人々には、正しいことを正しいといえば、正しい方へ行こうとする仏の心がまだ残っていた。しかし、そなたは今の世に生きるゆえ、人々に正しいことを伝えても、世の中には正しいがいっぱいあって、人々はどれが正しいかわからない時代になっている。私が苦業を通して苦を味わい切り開いた以上に、そなたが道を歩むことは苦を発生させることであり、それは私の時代よりも大変なのである」と仰った。だから、いつも道を歩むものにとっては一緒だ、ということだよね。
「そんな宗教のもとになった経典に残っている正しい道を語っていては、道が順調に進んでいくわけがない。常に無理解の中で、正しいを説いていかなければいけない。今の時代は、人々が賢くなっているから、正しいが山ほどある。その時代に真実を伝えることは、並大抵の覚悟ではできないことである。そのような覚悟を持っていけ。もしお前が私の道を受け継ぐと言うならば、その先を行けばいい。だから、私の道を真似ることは一切いらない」とも言われた。
よくあることだよね。師匠のやったことと同じことをやっている人がいる。経典をいつまでも大事にして、時代に合わなくなってもやろうとする。

ともこ:
その方が楽だもんね。

いさどん:
そう。それである程度の境地に至ったら、合格をもらおうとする。でもそうではない。道というのは、常に受け継がれていくものであり、時代と共にあって、新たに生まれ変わっていくものなんだよ。そこに共通するのは、志のみ。その道を継承する者は、常に前人未到の道を歩むことになる。それがこの宇宙の姿だよ。


祈りの言葉

木の花ファミリーでは、食事の前にいつもお祈りをしています。ずっと以前にいさどんに湧いてきた「祈りの言葉」の意味を、いさどんがみんなに語りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

— 祈りの言葉 —
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから
あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります
無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を
アーメン、合掌
  
一般的に「祈り」というのは、人間が自らの願いを叶えたいために、神仏に対して願掛けの心で想いを向けることだと解釈されるでしょう。もしくは対象なしで、ただ自らの中に巡る願望を成就しようと願うのが一般的な祈りの現状だね。
それに対して、本来の祈りは、想いを巡らせて、その想いの奥にある宇宙創造の物理エネルギーを表現する。宇宙創造の物理性(波動)が世界を創っているのだから。宇宙(生命)は循環し巡り巡って、変化・変容・変態を繰り返し、進化するもの。それは、私たち地球生命のあり方と同じなんだよ。宇宙自体が生命だからね。

生命というのは、「生きる命」と書くでしょう。「命」とは「みこと」、つまり神のことだから、生命とは生きる神ということなんだよ。もともとの神様の存在・陰(潜象世界)から陽(現象世界)のひずみが生み出されて、この世界が動き出した。それがこの世界の生命の姿で、その物理性のもとになるエネルギーを奏上することが、本来の祈りなんだよ。カタカムナやアワの歌のようなものを奏上するのは、本来の祈りだよね。だから、祈りの姿勢としては、思考を無にしてその場に臨むことが望ましいんだよ。
その結果として、祈る者の心が美しく磨かれていく。その人の内なる鏡がきれいになった時に、外にある宇宙創造の仕組みが内なる鏡に映り、内なる想いと宇宙創造の想いとが同じになって矛盾がなくなっていく。そして、その美しい想いがこの世界に実現されていく。それが祈るということだよ。

美しくなった者は、この世界、つまり神の物理性を内なる鏡に映し出す。そしてそのまま生きていくと、今度はその神の物理性が内から外に発せられて、この世界が美しくなっていく。つまり、自分の内なる鏡に映るということは、外と内が合わせ鏡になっていて、一緒だということなんだよ。
  
祈りの言葉を解説するとね ――――

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

「あなた」というのは、自分を取り囲むこの世界の物理性のこと。それは大宇宙のことでもあり、エネルギーであってもいいし、法則であってもいい。神であってもいい。我々の外にあって全てを取り囲み、宇宙全てに響き渡ってこの世界を運営しているものそのもの。その仕組みのままに「わたしはあります」ということだよ。この宇宙創造の仕組みのままに、神様のままにわたしはあります、ということを言っている。

それと同時に、「ない」ということも言っている。つまり、宇宙創造のままにわたしはある、ということは、宇宙創造のそのままの姿がわたしの内なる鏡に映っていて、その中に私自身という我はありません、ということ。つまりこの「あります」ということは、あなたのままにあって、わたしはありません、ということを言っている。だからここでは、「あってあるもの、なきてなきもの」を表現しているんだよ。

一つのことを3回唱えるのは、「3」であり、「み」ということで、満ち満ちていることを表している。つまり、絶対で揺るぎがありませんということ。あなたの御心のままに、宇宙創造の響きのままに、神様のままに、私は写し鏡としてそのままの姿であります。だからこそ、私自身のエゴや我というものは一切ありません。そしてそれは、私の中に満ち満ちて絶対です。それを3回唱え、揺るぎない意志を表している。
3回言うことを3度繰り返すということは、絶対の絶対の絶対です、ということ。「絶対」を3回繰り返して、くどく言っている。「く」は「9」だから、それが絶対だということは、その次にカミ(命・食)をいただいて、10(完成)につながる。

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

「あなた」という宇宙創造のエネルギー、「あなた(神)」はわたしなのですから、私は宇宙であり、あなたなのですから、区別することはできません。なぜなら、「わたし」はありませんから。
それが、「あなたはわたしなのですから、わたしはあなたなのですから」ということ。

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

「あなたの御心」、つまり宇宙創造のエネルギーに、全ての人間が目覚める。目覚めて、あなたの世界と人間が創る世界が一体となる。「平和で、安穏なる幸せな世」というのは、地上天国、ユートピアのこと。そして神人和合のことを言っている。
そして私は、平和で幸せな世(みろくの世)が訪れんことを願って、生きるということをいたします。努めて参ります。つまり、努力します。それが私の意思です。世の為人の為に生きます、という決意のこと。

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を
アーメン、合掌

「無限なるあなた」とは、無限なる宇宙。永遠なる宇宙。
「感謝」というのは、それに目覚められた自らの喜び、ありがとうございますということ。
最後の「アーメン、合掌」は、宗教だとかそういったものを問わないということを言っている。

今我々が到達した境地を、この祈りの言葉の中で何年も前から表現していたんだよ。無限なる感謝、無限なるありがとうございます。永遠なる感謝、永遠なるありがとうございます。そして、その心は一つ、アーメン、合掌。道は一つ、心は一つということ。
宇宙創造の物理性がこの世界にあって、人々がそのことに気付いて美しきものとなり、それをこの世界に表現するものとなっていく。その結果地上にユートピアができ、宗教などの区別がなくなり、そして、天と地の魂が一つとなって、理想郷を創っていくということを言っている。それが祈りの言葉だよ。

昔は食事の時に「神様いただきます」と言っていた。単純だけど言葉は深いんだよ。「神様いただきます」ということは、生命をいただきます、ということ。そしていただくということは「かみます」ということで、しっかり噛んで神を増しますということ。自らの中に生命が増しましてありがとうございます、ということなんだよ。
最後の「アーメン、合掌」のところに、「神様いただきます」と入れたらどうかな。そして新しいスタイルにすればいい。

まだまだ物語はいっぱいあるんだよ。その物語をこれから世に出さなければいけない。それが我々の役割なんだよ。
  


1994年、2004年、2014年の地球暦から観る木の花ファミリーの歩み

木の花ファミリーでは、「地球暦」という太陽系の惑星配置図から個性や天命を読み解くということを行っています。この地球暦を使い、今年3月21日に創立20年を迎えた木の花ファミリーの歩みをふり返りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

1994年の木の花ファミリー誕生日の地球暦
1994年木の花ファミリー地球暦

今から20年前の1994年3月21日、木の花ファミリースタートの日の地球暦を観ると、天の意志を直観で受け取って、新しい時代が世の中に開かれる為に、それにふさわしい雛形となる道を歩み始めなさい、と読み取れます。そして実際に天が後ろ盾となり、未知なる航海をスタートさせたのです。
そこはみんなで創る愛ある豊かな場所、みんなで集う女性性をベースにした場所です。その為の心構えとして、己の目的(自我)は置いておきなさい、形や組織を創るのは二の次にしなさい、ただ理想郷の建設に向かって、道が見えなくとも、未来を信じて進みなさい、ということが、地球暦に表れています。

そして10年が経ちました。

2004年木の花ファミリー地球暦
2004年木の花ファミリー地球暦

2004年3月21日の地球暦を観ると、現実の生活に意識を向けて、木の花創りをするようになっています。
そこでもやはり、己のことは二の次にして、直観を持って天の意志をみんなで顕わしなさい、大きな長期のビジョンの目標を置いて、現実的な体制創りに専念しなさい、ということが読み取れます。その体制創りのベースになるのは、精神性でした。

そして2014年の3月21日、20年が経ちました。
この日の地球暦からは、改めて、己をなくして道を歩むことを確認しなさい、と読み取ることができます。そして、来るべき新しい時代に向けて、一人一人が雛形とならんことの決意を求められています。そして、天より安定した組織が降ろされました。

2014年木の花ファミリー地球暦
2014年木の花ファミリー地球暦

今、時代は新たな仕組みを求めています。そしてその延長に、地上に理想郷をもたらそうとしています。それは、女性性をベースにした豊かさです。そのモデルとなることです。その為に、一人一人をさらに磨きなさい。そして一人一人が自立し、意識が高まることによって、新しい時代は開かれるでしょう。
「みんなで」の意識は二の次にして、一人一人を大切にしなさい。目覚めた者から顕わしなさい。その上でつながりなさい、という指針が、2014年の地球暦に表れています。
  

――
   

1994年の3月21日、天の縁によって紡がれた人々が、心を学び、共に生きることの意味もよくわからないままに、この富士の地に時代を開く新たな生き方として、木の花ファミリーの生活をスタートさせました。そのときの私たちの想いは、この全く未知なる歩みが未来にどのような花を咲かせるのかもわからず、その目的すら観えないものでした。私個人としては、ただこの未知なる歩みが世の中にとって必要とされるものであり、時代が刻まれていく為に大切なものであるという直観があるだけでした。そこに集う仲間たちにとっては、これから始まる生活が何であるのか見当もつかず、ただお互いの絆を信じ歩むだけの心細いものでしたが、振り返ってみれば、その過酷とも思われる生活は微笑ましく、楽しいものでもありました。そうやって、目的地の観えぬまま、自らの望みを持たず、ただ感じるままに理想郷を夢見て歩んできました。

その結果、これが地球に暮らす人々の持続可能な生活のモデルとして社会に発信されるようになりました。そして、その精神性を裏付ける農や歌が訪れ、時代のニーズ(健全な農・環境に対する意識・現代社会の中で行き詰った人の心のケア)に応えて、現代社会の行き詰まりを突破する為の新しいライフスタイルとして、この暮らしを世の中に示すようになりました。そして木の花ファミリーのライフスタイルは、いよいよ21世紀の大変革のモデルとなる道を歩み始めたのです。それはこれまでの男性性(陽の時代、モノやお金、競争、対立の二元論)の時代から切り替わり、女性性をベースにした時代が始まるということです。

時代は21世紀を迎え、社会に共働が求められるようになってきています。多くの人々が単に表面的・二次元的な仲良しグループを目指す中で、木の花ファミリーの共働とは、己をなくして他者と一つになり、世の為人の為に生きることの出来る菩薩の精神を求められるものでした。それは、個人の欲望を叶え、個々にとって都合の良いことだけを共有するものではなく、自然生態系のように全てのいのちが連なり、さらに大きないのちを紡いでいくものでなくてはなりません。それは、自らのいのちを賭け、その延長にそれぞれの個性が花開き、活かされるネットワークです。それは、流行のように追いかけるようなものではなく、一人一人のいのちを真剣に賭け切った延長に、自我を超えて創り上げられる共働の世界です。その世界を実現する為には、恐れず己と向き合い、内なる汚れを超えていくだけの真剣な心構えがないと出来ないものです。

近年の人間の営みは、自我を満たすことを優先し、この地球世界の秩序を乱すものとなっています。そのことに対し、自然界が人類に突き付けている困難を乗り越えていくことは、私たち人類にふさわしい緊張感を与えてくれるでしょう。そして、モノや金・善悪の二次元的思考を突破し、この宇宙との共働作業である三次元的思考に目覚めなければ、地球に人類が降ろされた目的を見つけることはできないでしょう。

20年の区切りを迎え、新たな時代のモデルとしてこれからもこの道を歩み続けながら、木の花ファミリーは次の時代へ進みます。その精神は、常に結果を求めず、ひたすら世の為人の為を想うことから生まれる直観、「いただく心」から生まれてくるものです。私たちは、これから何ができるかをわかる必要もなければ、考える必要もないのです。しかし、常に時代を読みながら、時代と共に、世の為に変化し、傍楽いて(傍を楽にする=働く)いくことは確かです。

木の花ファミリーのベースである農は、土と共に、天の気と共に、常に生かされ、いただいていくものです。現代社会の物質的豊かさからいえば、それは豊かなものとは言えないかもしれません。物理的生活を優先し農に生きる者は、世間が狭く、人も委縮し、生計を立てることに奔走して、世の為に生きることは出来ないでしょう。しかし、本来の自然と共に生きる百の姓(百姓)を得る生き方は、常に天の意志をいただき、天の気と共に、自らを磨き高め、宇宙の法を体得し、世に真実の美しさをもたらす最高の生き方なのです。

それは、人々が自らの個性に目覚め、自他を超え、共働しつながる自然生態系の姿、宇宙の星々の成り立ちの姿なのです。人類がその目的に目覚めたときに、その理想は地上に顕されることでしょう。21世紀はそれが地上世界に降ろされ、実現される時代です。

木の花ファミリーはその雛形として、これからも独自の歩みを続けるものです。