ともこ:
いさどん、もしも今ここに全人類がいたら、何を話す?
いさどん:
「あなた方は今、大地の上に立ち、あなた方の意志によって生きていると捉えているかもしれませんが、そのあなた方が大地だと思っている場所は、地球という星なのです。
地球という星は、もっと大きな星と星の関係の中で役割を果たしながら、そこに存在しています。そして、それはさらに大きな仕組みの中にあります。あなた方は、自分の意志でこの大地の上に生きていると思っているかもしれませんが、あなた方はあなた方をいくつも超えた大いなる仕組みの元に、生かされているのです。そのことに気付かない限り、本当のあなたに出会うことはできません。
それはあなた方の中に存在する意志でもあるのです。ですから本当は、あなた方の内から湧いてくる意志によって生きているのでもあります。あなた方を取り囲んでいる意志によって役割を与えられ、生かされている。そして、それは内にある意志と同じなのです。
その視点を持たない限り、あなた方は自分のことを知らない者だということになります。生きることは、自分を知る為にあります。そして自分を知るということは、この世界を知るということなのです。」
そう伝えるよ。
ともこ:
でも世の中の多くの人は、自分は自分の意志で生きていると思っているよね。木の花では「自分をなくす」ということを大切にしているけど、自分をなくすなんて言ったら、それこそ拒否反応を示す人たちもいる。
いさどん:
ここでは自我を超えることの大切さを伝えているのだけれど、彼らにとってはその自我がとても重要なものになっているんだよ。僕が話すことは、彼らも記憶のどこかで知っている話で、いずれ理解することとして魂のどこかでは想っているだろうね。しかし、それを超えたら自分がなくなってしまう、という恐怖も持っているんだよ。だから、水戸黄門の印籠のように「自我を超えなさい」と言われると、悪代官のように黄門様をやっつけてしまいたくなる。しかし、真実は水戸黄門の印籠の方にあるんだよ。
ともこ:
木の花を始めたときから、ずっとそう想ってきた?
いさどん:
そう想ってきたというよりも、それがすべてのベースだからね。つまり、世の為人の為に生きるということは、自分をなくすということ。そして、この道は天からいただいたもの。そうすると、自分は自分である前に、天の意志によって生きる者、つまり我々は全て天のマリオネットなんだよ。天の意志と共にあるためには、自らの意志でいかに自分をなくすかが大切になる。それは、「あなたはわたし、わたしはあなた」という世界の表現につながる。最初からそう想っていたというより、それがすべてのベースなんだよ。
人間は、己を超える為に生まれてきている。この世界には「無明界」「地獄界」「人間界」「菩薩界」「仏界」という魂のランキングがあって、「人間」という位置から菩薩になり、仏になり、最終的には神と合一するために生まれて来ているんだよ。そして生まれて来ても、己にこだわっている者は、仏になるどころか、逆に地獄へ落ちていく。どんなに理想郷を夢に描いたところで、自我を超えなければ、愛・調和・善・美・真実には到達できないものなんだよ。
おもしろいのはね、今の時代の二元的脳を使っている人は、知識や学問的には賢いんだよ。しかし、賢い分だけ自分に囚われている。それは、自分が賢いと思っているから。それがお釈迦様の一番弟子の舎利弗(しゃりほつ)の落とし穴で、自分が賢いと思った時点で、生まれてきた目的である、己をなくして自らを美しくし悟りを開いていくこと、つまり、神と合一することから遠ざかってしまうんだよ。
しかし、同じくお釈迦様の弟子の鳩摩羅什(くまらじゅう)は、舎利弗とは違う脳を使った。彼は、自分は頭が悪く物覚えも悪いことに気付き、賢くないのだから、賢い者を見つけてそれに全てを委ねよう、と考えたんだ。そして尊師の言われるがままに生きた。そうしたら、弟子の中で一番最初に悟ったんだよ。
ともこ:
だけど現代人は、それでは嫌なんだよね。何かに委ねるよりも、自分で理解してから進みたがる。
いさどん:
法華経では、学びの時代を「正法」「像法」「末法」と説かれている。お釈迦様の時代は「正法」と言って、正しいことを正しいと言えば、その善悪がわかる人々の時代だった。人々は愚かであったけれど、素直に正しいことを受け取ったんだよ。
ところが、「像法」の時代になると、その精神はまだあるものの、人々はそれがわからなくなってしまった。
そして、今は「末法」の時代。それはどういう時代かと言うと、正しさが歪んでしまい、みんな二元論的に知識や仕組みで賢い者になってしまったので、その奥の真理を受け取れなくなってしまった。つまり、信じるとか、自分をなくすとか、いただくという精神が失われてしまい、全て自分でつかんでやろう、わかってやろうという精神になってしまったんだよ。だから、真理がわからなくなってしまった。
ともこ:
木の花に批判的な感情を持っている人たちを見ると、魂の本当のところでは求めているのだろうけど、そもそも宇宙と合一したいとか、そういう高い視点の望みはなさそうな気がする。
いさどん:
それは、自らの目指す世界への思いや損得勘定が強くて、「いただく」精神がないから、自分目線だけの二次元思考になっているんだよ。だから学ぶことについても、知識的に学ぶことや形的に豊かで幸せな世界の価値観に留まっていて、せいぜい地球環境とか原発問題の意識で止まってしまっている。ところが、本来の人間の姿には魂のランキングがあるんだよ。世の中の為を想うことが結果として自らの価値になるわけだけど、その「世の中の為」というのがどのランクでどんな価値観を秘めているかなんだよ。
二次元思考では、この「現象世界」しか捉えられない。しかし、その目に見える現象世界の奥に、目には見えない自然や心の世界があり、その「見える世界」と「見えない世界」を合わせると三次元世界になる。それが「ある世界」を成り立たせているんだよ。
そしてそのさらに奥に、「ある世界」を支えている「ない世界」があり、そこに仏や神(宇宙物理の世界)の存在がある。そこは四次元、五次元、それよりはるかに高次元の世界。人の意識はこれからそこに目覚めてくるのだろう。
「宇宙視点」というのは物理的宇宙のことであって、その奥に星と星がなぜこのような関係を何十億年も何百億年も保てるのかとか、そこには星と星の対話があって星の配置から人間の人生が読み解けるとか、そういったことは人間の物理学を超えた世界の話でしょう。そこが観えないんだよ。しかし実際の三次元は、その見えない世界によって見える世界が支えられている。さらに、見えない世界と見える世界が「ある世界」を創っていて、「ある世界」の奥にある「ない世界」が、この世界を動かしている。それは、普通の視点の人たちの脳ではとても解析できない世界だよ。
ともこ:
さっき、脳科学のテレビ番組を見ていて、すごく何かが足りない感じがした。いろいろ最先端の研究が語られていてなるほどと思うんだけど、何か根源的な部分がすっぽり抜けたまま科学者たちが話し合っている気がした。
いさどん:
そうだね。浅いでしょう?脳の神経細胞の構造を見て、奥が深いとか素晴らしいと言っているんだけど、その素晴らしい小宇宙の奥に、誰がいつ、あのプログラムを組んだのか?誰がいつ、何の目的でそういった生き物を当たり前のように地上に配置したのか?そして、それは何の目的で創られているのか?そこを観ていかないといけない。それはアインシュタインが突き当たった世界だよ。つまり、神の領域だね。そこに意識が行かない限り、木の花で行われていることは理解できないだろうね。
わからないことをやっているということは、「わかっているけどなかなかやれない」という一歩先の世界の、さらに先の世界をやっていくことだから、それは理解されるのは難しいよね。それを「世の中の二歩先」と言っているのだけれど、そこがわからない人からすると傲慢に見えて腹が立つのだろうね。しかし、観えた者の責任として、役割を果たしていかないといけない。
ともこ:
彼らは彼らで、自分たちも世の中の為に生きていると思っているんだよね。
いさどん:
みんなそうなんだよ。それはそれでみんな正解なんだよ。
ともこ:
心のランキングの、仏界・菩薩界・人間界・地獄界・無明界でいうと、彼らは人間界で生きていることになるの?
いさどん:
人間界の中の優れたことをやろうとしているんだよ。つまり、自らの価値観の善悪二元論の善にとらわれている状態なんだよ。
ともこ:
その人間界レベルの「世の為人の為」で、これからの世の中のいろいろな問題を超えていけると思っているんだろうね?
いさどん:
それは思っているだろうね。でも自然は、人間が考えることよりももっと上の学びを与えてくるからね。つまり、人間の受け取れないことを与えてくるんだよ。なぜかと言うと、自然は、人間の世界を包括しているものでしょう。だから人間だけのわがままを許さないわけだよ。
そしてさらに天は、人間を育てて、自らの意志を地上に反映させて人間と共にこの世界を築くことを望んでいるわけだから、人間に都合の良いことは与えないんだよ。人間にわかる範囲内のことを与えていても、そこに人の成長はないでしょう。だから、理解できないことを「いただきます」という精神になって受けとらない限り、人間がそれを解釈することはできないんだよ。
ところが、「わかってからやろう」的な人間のご都合主義の考えが世の中では一般的になっている。自然農法は、自然のメカニズムを解明して、自然の仕組みで収穫を上げ、社会の健全をはかっていく農法でしょ。それに対して有機農法は、自然からいただくのではなく、「作ってやろう」「取ってやろう」「収入を上げよう」という思考がベースになっているんだよ。
そして今、我々が取り組んでいる「天然農法」は、自然のメカニズムの奥にある波動によって宇宙が創造される磁場を調整し、それによっていのちをいただくもの。例えば神社のイヤシロチは、その波動によって創造されている。それは、作るとか作らないとかいうことを超えて、「波動の心地が良いから成る」というような、道理を超えたものなんだよ。
ここでひとつ厄介なのは、脳科学の世界では、賢い人間が優れていると思われているわけだよ。ところが、その賢いというのが曲者で、自分が賢いと思えば思うほど、お釈迦様の一番弟子で悟れなかった舎利弗になってしまうんだよ。そうかと言って、馬鹿ではいけない。大切なのは「いただく精神」。この大いなる世界に命をいただいて、そして役割として働かせていただきます、というように、謙虚で、常にいただく精神が大切なんだよ。
だから、知識的なものを組み立てていく脳が発達していることが大事なのではなく、心を司るところとつながることが大切だよ。直感が閃いてくる脳の働きがあるんだよ。直感というものは、何も考えなくても湧いてくる。もしくは、想いが降りてくる。思念なんだよ。だから、物理的に賢い人たちには科学的・物理的直感は湧いてくるけれど、天からの思念的直感は湧いてこない。
これまでは、物理的賢者たちが世の中を治めてきたんだよ。それで今の世の中ができた。そうして今の時代にたどりついたんだよ。では、どのような人々がこれからの世を治めていくべきか、わかる?
ともこ:
馬鹿でもなく、賢いでもなく・・・
いさどん:
そうだね、それは「尊い者」だよ。尊い者というのは、己を捨てて世の為人の為に生きる者。つまり、菩薩精神を持つもののことさ。
賢い者が創る世界は、人間の領域なんだよ。そこには損得勘定がベースとして常にある。だから、これからの時代は自我を超えた精神の尊い人たちが世の中を運営しないと成り立っていかない。
しかし本当はね、尊い人たちの世界では、世の中の運営なんてしなくてもいいんだよ。その人々の存在だけで調和的な世界が創られていくことになるから。
ともこ:
そうか。
いさどん:
天とつながる直感の窓口が、今まで人々が使って来なかった脳の中にある。そこが働く者が尊い者。そして、これからはそういった人たちが目覚めてくるんだよ。
1万2千年前、カタカムナ(日本の古代文明)の人たちはその直感が働いていた。そして、天上の尊い魂とつながって日々の生活が営まれていた。そこでは人々の間で言語が統一されていて、今のように言霊ではなく、音霊で会話をしていた。だから、みんなが阿吽の関係だった。ぱっと相手を見れば、真実が一瞬で伝わった。
その時代は、人間は体も貧弱で、自然に対しても他の動物と比べてはるかに弱い存在だった。しかし直感が働く人々は、天候も読めるし、身の危険もすぐに察知でき、生きながらえることができた。人間は、生命の中の最高傑作として創造されている。だから本来他の生命たちが持っている能力が人間に内在しているはずなんだ。しかし、自我が強くなればなるほど、その能力が衰え汚れていくんだよ。今の人間は知識を得るようになって、ある意味感覚的には馬鹿になってしまった。それどころか、テレビや携帯電話などからの垂れ流しの情報がたくさん入ってくるおかげで、その情報に翻弄されて考える力や直感力が退化してしまっているんだよ。
ともこ:
あのテレビ番組の科学者の人たちも、直感を磨くことを大切だとは思ってないだろうね。
いさどん:
そうだね。解明してわかっていこうという脳が優先して働いているからね。
ともこ:
それって二次元的思考を司る15%の脳だね。
この間ここに来た人が、いさどんの話を聞いて「言われることはすごくわかりますが、組織としてはこうしないといけないのです」と言っていたでしょ。その人個人としての願いと組織としてやらなければいけないことに矛盾を持って生きている。でも、木の花の生活ではそういうことがないでしょう。創立からずっと、個人の想いと全体の動きが一致してやってきているよね。
いさどん:
ほとんどの人間は「けど」「でも」と言いながら生きているんだよ。
ともこ:
木の花にその矛盾がないのは、自分がどうしたいという個人の願望で動いているのではなくて、最初から天意に添って動いてきたからだよね。
いさどん:
そう。つまり、いただいてきただけなんだよ。そこには自分たちの意志はどこにも反映されていない。その結果、このような歩みになった。そこが一般の人たちと根本的に違うから、例えば今のエコビレッジ活動をしている人たちには、その意識がわからないんだよ。
命はいただいているもの。実際に毎日の生活でも、我々の体の機能でも、自然の仕組みでも、我々が生きる中で自分の想い通りになることは何もないんだよ。食べることだって、排泄することだって、眠ることだって、何一つ自分の想い通りになることはない。生まれてくることも、死ぬことも同じことだよ。
その過程の中で、人間は自分が想った通りに生きていると思っているかもしれないけれど、そのように思えば思うほど自我が大きくなって、自らを自我の枠の中に閉じ込めていくことになる。それは本来の、命をいただいて悟っていく、ということに対して逆のことをしていることになるんだよ。人々が地上的人間的概念で生きれば生きるほど、人間は地球にはびこっている状態で、結局社会にも地球にも害をもたらしているでしょう。そういった矛盾に、今の人間は気付けないんだよ。もしくは、気付いていても執着が強くて、それを改められないんだよ。
そのことに気付くことが、21世紀の人々の進化なんだよ。しかし、21世紀に入っても多くの人々はその大事さに気付けない。それでそれを伝えようとすると、傲慢だとか高飛車だとか言われるのだけれど、それは観えているから伝えているだけのこと。
それでも、こういった役割を与えられた者として、時代と共に粛々とやっていく。それは、天が指示してその流れを創っているのであり、地球がそういう時代を迎えているのだから、時代の流れはそのようになっていく。だから、恐れず、臆病にならずに、粛々とやり続けていく。
始めに話した人類へのメッセージの通りだよ。
「あなた方は、自らの意志で大地の上に生きていると思っているかもしれませんが、実はあなた方をいくつも超えた大いなる仕組みの元に、役割を与えられ、生かされているのです。」
21世紀は、人類がそのことに目覚め、役割を果たしていく時代だということだ。