集い、語り合え~ブログナイト

1ヶ月くらい前から、大人会議の前に
「いさどんブログ」を読み上げ皆で意見をシェアし合う、
「ブログナイト」がスタートしました。
今までも、ブログが出来上がる度に大人会議の中でシェアしていたのですが、
「大切なことだから、週に1回時間を決めて皆でしっかりと学ぶ場にしよう」ということで、
「ブログナイト」が誕生しました。
今週のブログナイトでは、エリーといさどんとの対談第2弾
「『治療』としての情報提供」を題材に、皆から活発な意見交換がなされました。

いさおちゃん(司会):
まず、エリーから何かありますか?
いさどんからこういう答えをもらったことで、意識が変わったり、
まだ実感できないところがあったりしますか?

エリー:
いさどんがおっしゃることは本当にそうだなと思っています。

じゅんじー:
「ええかっこしい」という部分は自分にもあるなと思いました。
自分の中にある「~しなければならない」というのは、
人に良く見られたいという「ええかっこしい」の部分だなと。
陰性タイプの癖が自分にあることがよく理解出来て参考になりました。

たっちゃん:
僕も会社で働いていた頃、エリーと同じように
リーダー的役割を果たさないといけない時がありました。
立場がきつくなればなるほどプレッシャーに感じ、
鬱的になったことを思い出しました。
自分も陰性タイプなので、エリーと反応が似ているなと思い、
自分の振り返りにもなりました。

病気の目的というところでは、
病気というものを皮切りにして僕らは何を知っていくのか。
我々がなぜここに生きているのかということを知っていくために、
病気は良い材料だということを改めて感じ、
そういったことに気づけば楽に生きていけるんだろうなと思います。
病気を通して生き方が変わることが出来るのだと感じました。

けいこちゃん:
私も10年近くうつ病だったんですけれど、
私のことを言われているようで、全くこのブログの通りだなと思います。
私は優秀ではないんですけれど(笑)、すごくエリーと似ているなと思いました。
今は、自分がうつ病であったことは必要だったことでありがたいなと思っています。

ヤスエさん:
私もすごく受身的に考えて、結婚によってさらにその気質に拍車をかけ、
子育てや経済的なこと等色々な難題を自分で引き受けて生きてきたんですね。
無理して引き受けてしまう自分がいて、
ここに来てからもそれを1年ほど続けてきて、
「これはもういけないな」と思えるようになりました。
やっと、NOと言える自分になってきているかなと思っています。
これからどんな自分が開眼していくのかということも、楽しみの一つだなと思っています。

れいちゃん:
「病気を病気とするかしないかは捉え方次第」というところがありましたが、
一般的な考え方だと病院の先生に委ね、
それでも解決出来ず、ここに来る人もいます。
どのように考えるかによって人生が大きく変わるのだとしたら、
エリーの体験を通じて世の中のために活かしていけたらいいなと切実に思いました。

ロッキー:
僕は10日前から心を健全にするためにここにケア滞在しているのですが、
自分がうつ病かどうかというのは自分の考え方次第なのかなと思いました。
病気にしてしまうと、自分が病気だという事実にフォーカスしすぎてしまって、
自分を変えるということをしなくなってしまうと思います。
うつ状態になるというのは、何かしら自分に問題があるのだと思います。
お医者さんに行ったら簡単にお薬をもらえますが、
すぐに強い薬を出すので、それでは問題の解決にはならないと思うんですね。
僕も、「病気になってしまったんだ」と考えるのではなく、
「自分を変えるチャンスだ」と捉えられたら、
エリーさんのように気づけることがあるのではないかと思います。(一同、拍手)

れいちゃん:
ロッキーが18歳にしてこういう意見を堂々と言えるということは、
自分が18歳だった時と比べてみると、大変素晴らしいと思いました。

みかちゃん:
今のイケイケで経済もプラスの時代に、
マイナスの病気が生まれるということでバランスを取っている部分があるのだと思いました。
病気がプラスの時代が何たるかを教えてくれているんだな、
と捉えることが出来るのだと思いました。

私は陽性タイプなのですが、会社勤めをしていた頃、
責任のかかる仕事が来ると私も不安になったり、ストレスがすごくありました。
今でもその時の名残の性質が日常の生活に出てきます。
問題の根本には、自分が持っている癖や性質があるということは、
当時もうすうすわかっていました。
でも、「辛いから病気になりたいな。でも病気にならないな。
何で病気になれないのかな」と思っていた時代がありました。
「病気になれたら逃げられるのに、でも正気だな」と思いながら仕事をしていたのを覚えています。
そのあたりは、陽性と陰性タイプの違いがあるのかなと思います。

いさどんが昔、「陽性のタイプはやりすぎたり的が外れることで、
失敗して落ち込みうつ病になっていく」と言っていたので、
自分にもそれに似たような傾向はあったな、と振り返ってみて思います。

まり姉:
私はうつ病ではなかったのですが、
「病気に逃げたい」と自分で病気をつくって病気になっていきました。
でも当時、「自分で病気をつくって逃げていこうとしているな、と気づいた段階で、
その病気に逃げられなくなるな。困ったな」と思っていたのを思い出しました。
それを面白いなと思いながら聞いていました。

のりちゃん:
今回のブログでは「自分のことを知る」ということがポイントだと思いました。
ここには色々な人が心身を健全にするために訪れるのだけれども、
私たちはその人を知り、本人は自分を知っていく。
私たちは、その人を正確に知るということが必要だと思いました。
アドバイスをするにしても、話を聞くにしても、
捉え方がずれていると、逆に相手を混乱させることにもなる。
その点、いさどんが必ずお手本になってすごいなと思うのですが、
自分たちの捉え方を勉強していかないといけないなと思いました。

個人的なうつ病というところから、宇宙の仕組みにまで話が発展し、
自分の存在を知っていくということが大切だと思っています。
そういうスケールの大きいところまで物事を捉えることが出来るというのは、
ここの真髄だと思いました。
世の中にはうつ病になっている人がどれだけいるのだろうと思った時に、
ここに縁がある人だけではなく、
外の人にもこういう考え方を広めていけたらいいなと思いました。

まこっちゃん:
うつの人は大変だなと思って聞いていたんですけれど、
考えてみれば、僕もここに来る前はうつ病だったなと(笑)。
薬を飲んでいたなって思いました。

いさおちゃん:
薬を飲んでいたんだ?!

まこっちゃん:
そうだよ(一同、驚き)。
病院に行く前はうつとかを知らなくて、
何だかわからないけれど会社に行きたくないという気持ちになっていた。
行きたくないけれど、どこか体の具合が悪いわけではないし、でも苦しくて。
そうしたら、まわりの人の勧めで病院に行くことになって、
病名をつけられ薬をもらったんだけれど、それでも全然治らなかった。
その後、新しい仕事を見つけて行き始めたんだけれど、
また同じように苦しくなった。
その時は「また、うつかな」と思って、今度は自分から病院に行ったんだよね。
先生には、「そんなにひどいわけではないんだけれど、
また辛い気持ちになりそうなので、早めに病院に来たので薬を下さい」と言ったりして(笑)。
だけど、治らないんだよね。
ずっと治らなかったんだけれど、
ここへ来て皆と一緒に生活をしていたら、あっと言う間に良くなった。

そして今、「うつの人は大変だな」と他人事のように思っている自分がいて、
何が違ってきたのかなと思うと、ブログに書いてあるような捉え方だよね。
それが一番で、全員が全員この方法で治るわけではないかもしれないけれど、
他の人にとっても問題を解決するのに有効だと思います。
そういうカラクリや仕組みを知っていくことによって、
最後は憧れのカラスのように(笑)、
くよくよせず、ただ生きていきたいなと思っています!

いさおちゃん:
僕は会社勤めをしていた時にパニック発作を起こして、
そのまま精神科というところに生まれて初めてかかることになったんですね。
当時から、これは性格の問題だから、
薬を飲んでもどうにもならないということはわかっていました。
パニックになった頭で自分の問題点をノートに書き出し、
「どうやったらこれを治せるんだ」と思い、
お医者さんの前で狂ったような勢いで自分の問題点を話したんだけれど、
全部それをかわされたという非常に悲しい経験があります。
「薬を飲んでカウンセリングを受けて下さい」と言われ、
今度はカウンセラーに自分の問題点を話したら、
全部それをスルーされたという悲しい経験を持っています。
結局カウンセラーは、「そうですか、大変でしたね」と言うだけで、
「そんなことを聞いているんじゃない!」と思いましたが、どうにもなりませんでした。

当時の僕が、話を受け入れる状態ではなかったということもあるとは思いますが、
ここで学んだ捉え方というのは全く教えてくれなかった。
精神療法の中でも認知療法と呼ばれるものは、多少そういうことをするそうですが、
ここのようにスピリチュアルな領域に入るものではなく、
もうちょっと対処療法的なものだと思います。

いさどん:
まこっちゃんが言った、「これで全員が治るとは限らないけれど、
これがわかると沢山の人が行き詰まっていることから解放される」というのは、
全くその通りだと思います。
ただ、ではなぜ全てが解決出来ないのかというのは、
この世界は非常に複雑に絡んでいて、うつになることについても、
例えば食の問題もあるかもしれないし、環境的な問題もあるかもしれない。
何か汚染物質が影響しているかもしれない。
また、家系からの因縁的によることなど様々な要因があるので、
事実を情報として客観的に捉えていくことが必要だ、ということがこのブログで伝えたいことです。

どんなことにも目的があります。
困ったことにも目的があるし、良いことにも目的があるのだとしたら、
私たちは困ったことをいただくためにこの世界を生きているのかといったら、
僕はそうは思っていません。
宇宙は一つであり、
それが二つになり四つになっていくことでこの世界の個性を創り、
多様性を創ったのだとしたならば、
バラバラにしてそこで対立や問題事を発生させることによって、
元が一つだということをそこでは示そうとしています。
そういった目的があるのです。
私たちが色々な問題事をいただくということは、
そこに行き着くためのプロセスであり、
単にうつ病ということだけで終わってはいけません。

うつ病や自殺者が沢山出てきているということは、
単にそのことが問題ということではなく、
社会に大きな問題を投げかけているということです。
「問題事から正しく情報を捉え学び、次の時代へ移行していきなさい」というメッセージです。
今はとても大切な時代が来ています。
色々な問題事をいよいよ克服する時代が来ていると捉え、
先を心の眼で見通せば、問題事も悪いことではありません。

最後に。このブログを読んだ後の皆の意見交換の時間が良かった!
沢山の人が自分の体験をもとにして語っているのが良かった。
実は僕は体験していないんですよ(一同、笑)。
でも、ここの多くの人は自分の体験をもとにしているから、よくわかっている。
この皆の発言こそが、薬になると思っています。

のりちゃん:
ここには体験者がいて、証人も沢山いるんだよね。
まこっちゃんが最初にここに来た時には、
まこっちゃんがこんなふうになるとは想像もしなかったよね。
一緒に暮らしていくことによって、ここのメンバーになる人もいれば、
ここを卒業して社会復帰していく人もいるのだから、
ここは本当に貴重なところだと改めて思いました。

ようこ:
こうやって「ブログナイト」が始まってから、
皆が一生懸命ブログを予習したり復習したり、
この場でも活発に意見が出るようになって嬉しいです。
「いさどんブログ」は皆で語り合う格好の材料の一つだと思っているし、
こうやって皆が語り合うことで、皆で大事を確認し合い、
さらに互いの理解が深まっていくのだと思っています。

たっちゃん:
何よりもこの場が良いのは、こうやって皆で学んでいけること。
大切なものをより深く学び、実践出来るこの場はあってしかるべきものだなと思っています。
これからも皆と楽しく真剣に学んでいきたいと思います。


子は親の鏡~家族会議編

先日、ご両親と共に木の花を訪れ、
いさどんの面談を受けた高校1年生のきーちゃん。
(詳しくは、「子は親の鏡~面談編」をご参照下さい。)

半年前から過食とうつ状態になり、4月からは学校に行けなくなりました。
面談の中でいさどんから、
「きーちゃんの問題は家族の関係から来ていますね」と指摘されたきーちゃんは、
「じゃあ、いさどん、私たちの家族会議に参加して下さい!」と提案。

そこで、いさどんとようこが木の花創立以来初の相談出張のため、
きーちゃんファミリーを訪れました。

PDFファイルはこちらからダウンロードできます。


何でも来いや、任せておけ!~後編

いさどん:
それともう一つ、僕の中にすっきりしていないことがある。
僕が色々と話して、ようこちゃんがテープお越しをして、
僕がそれをブログの原稿として直していくよね。
そうすると、言葉で伝えることの限界を感じると同時に、
僕は欲が深いから、文章としてレベルが高いものが出来ないと思っている。

それは、いつものように神様の方を観て、
「『それだけのものを与えられているのだから、それでやれ。
それ以上のものはいらない』と言っておられるんだから、考える必要はない」
と思っているんだけれど、そういった欲も今回の旅で捨てようと思う。

ようこ:
それを聞いて、「いさどんはそんなことを思っていたんだ!」とびっくりだよ(笑)。

いさどん:
今日は出発であり、捨てる旅だね(笑)。

ようこ:
いさどんが「これぞ完璧!」という文章を仕上げたところで、
読む人の心次第でどうにでも文章は読めるから、
いさどんの伝えたいことが伝わるとは限らないよね。

いさどん:
それは全くそうなんだよね。だから、不完全でもいいんだよ。

ようこ:
いさどんからしたら不完全でも、わかる人にはわかるから。
相手の心次第だよ。

いさどん:
それから、まだ捨てるものがあるんだよ(笑)。
それは、今僕が運転しているX-Trailという車をプリウスに変えようという提案を
僕が大人会議でしたよね。
ガソリンのメーターを見ると、自宅を出発してから1時間で満タンの目もりがもう下がってきている。
これから出張が沢山あるとしたら、省エネじゃないと思う。
地球環境にとっても経済的にもよくないと思って、この前提案した。
その時に、車の下取りはいくらだろうとか、今木の花では色々とお金を使っているのだからと、
僕はやっぱりお金を計算してしまう。
そうやってお金の計算をしてしまうところがある。
それもやめないといけないと思う。

昔から「安全に行こう。いつも安心していたい」という心がある。
そういうふうに、先案じをしてしまうところがある。
全然困っていないのに、ブレーキをかけてしまう。
それは神様と一緒に歩んでいないところだから、それもやめようと思う。

ようこ:
それを聞いてびっくりだよ(笑)。
こんなに過激な(笑)人生を歩んでいて、「安全でいたい」という心があったなんて。
面白いね。

いさどん:
本当だよ(笑)。
こんなはちゃめちゃな生き方をしているのに、安全を考えているんだよね。

ようこ:
観る人によっては、こんなに先行き不安な人生はないよね(笑)。
いさどんたち創立メンバーは17年前にこういう生き方を始めたのだから。

いさどん:
よし、その心も捨てるぞ!

ようこ:
本当に今日はびっくりさせられる日だ!

いさどん:
これは、この旅があったからこそ。
そして、隣にようこちゃんがいたからこそだよ。

ようこ:
そうだよね。
私が、「いさどんの言う通りだよ。安全に生きることが大切だよね」と言うような人だったら、
逆にいさどんが私の心を指摘したりして(笑)。
そういう人だったら、いさどんからこういう話も出ないか。
今日は、いかに自分がものを考えずに生きているのかがよくわかった(笑)。

いさどん:
そういうふうであるべきだよね。

ようこ:
日々考えなくても、全然困らないからね。
自分で考えなくても、事は成っていくから。

いさどん:
色々な材料が完璧に用意されているからね。

ようこ:
思い起こせば、「いさどんブログ・おやじの館」が出来てから、今月で1年になるんだよね。
もう130近いブログがこの1年で公開されている。

私の場合は、考えてはいないけれど、センサーはきっとあるのだと思っている。
1年前、いさどんの話を聞いていて、
「一人で聞いているだけではもったいない。大切な話だから皆ともシェアしたい!」
と思ってこういう流れになったから。
今は、こうやって沢山の人が読んでくれて、コメントをくれて、ありがたいね。

いさどん:
これも、「こういうことが大切だからやろう!」ということで始めたのではなく、
ちょっとしたきっかけなんだよね。
それは僕の想いでもあったんだよ。
誰かと話をしていてその話が素晴らしい話なのに、
「そこで終わっていくのはもったいない」と思っていた。

ようこ:
エリーとの対談を聞いていても思うのは、
大学の教授であっても、あれほど幅広い話は出来ないよね。
いさどんから湧き出る泉って本当にすごい。
いさどんが聞かれて答えられないことってないもんね。何かしらの見解が出てくる。

いさどん:
昨日もプレゼンテーションを終えた後に、
「誰の中にも泉がある。ただ、その泉に到達するかどうかは、
自分というものをなくせば到達するし、ある人は到達しない。たったそれだけのこと」という話をした。
宇宙の元の作用からこれが出来ているのだから、
誰にもその泉があって、捉われがなければ誰にでも到達出来る。

ようこ:
面白いのは、いさどんは私と比べて欲があっても、
これだけ泉が湧き出るということは、
「いさどん」という幅広い人間味を持つ、一つの貴重なサンプルだよね(笑)。
普通、これくらい欲があったら、泉とつながることが出来ないと思うのだけれど。
いさどんには欲があるからこその役割もある、ということが言えるのだと思える。

いさどん:
僕は、故郷の星から役割を持って、地球にやって来た。
ひょっとしてあの星では落ちこぼれだったかもしれないんだよ。
あの星にいてもつまらないから。
完成されすぎてつまらなくて、僕はその完成された世界が不満だったから、
「お前、出来が悪いな」と言われ、
「お前のその出来が悪いのを活かすためには、地球へ行って来い。
お前は、この星と地球のちょうど中間くらいの精神レベルにいて、
地球の人間たちを導くにはちょうどいい心の位置にいるのだから」ということで、
ここに来たのかもしれない。

僕は故郷の星の人たちを観ると、素晴らしいと思うのだけれど、
味気なくてそれじゃつまらないと思うから、そこでは異端児なんだよ。

今、神様が言葉をはさまれて、
「それを問題とみなすのか」と言われた。
僕が異端児だということを問題とみなすのかと。
「出来上がってしまった人たちでは役に立たず、
そこに問題を持つことによって役に立てるのだとしたら、
それを問題とみなすのか。それこそ尊いことである」と言われた。

この世界は完璧な世界で、完成されたら完全ではない。
完成された世界に不完全を置いたから完全なのだと。
僕は、完成されたところから不完全を持ってここへ来た。
だから、完成よりもさらに完成した。
完成させてしまったら次のステージがない。
そこに不完全をつくることによって次のステージがある。
宇宙の繰り返しがそうやって出来ている。
常に変化し続け、不完全から完全を目指し完成を極めると、
また不完全を目指し、不完全を極めるとまた完全を目指していくということだから、そこだよ!

ようこ:
そこだね!

いさどん:
もう、どうでもよくなってきた。知らない!

ようこ:
最後にはいつもこうなるよね(笑)。

いさどん:
もう考えないことにした。
と言って、考えないとつまらないんだよね。
この世界を楽しむことにはならないから。

ようこ:
そう考えると、いさどんの方が私よりも大分この世界をエンジョイしているよね。
幅広くエンジョイしているよね。

いさどん:
そうだよね。
エンジョイしているということは、悩むことすらエンジョイしているわけだから。
ようこちゃんは全然考えず、悩まないというのはエンジョイしていないということになるよね。

ようこ:
人から見たらつまらない世界だよね。
私はそれをつまらないとも何とも思わないけれど(笑)。

いさどん:
そうそう。それをより楽しむために悩んでいる。

ようこ:
そうそう!大分整理がついてきたね。

いさどん:
楽しむためにこの星に来ていたのに、そのことに気づいていなかったんだよ。

ようこ:
最後には何でもありということだよね。

いさどん:
よし!思い切り何でもエンジョイするぞ!
今までもこういう気持ちになることはあったけれど、
ここまで決意が出来たのは初めてだ。
自分がそういう心になった時に、そうでない人たちがいる前に行って、
「皆さん、エンジョイしましょう!!」と言って、山本直純のようにね。
山本直純って知っている?
「♪大きいことは良いことだ~」というチョコレートのCMを作って歌っていた作曲家。
もう死んじゃったと思うけれど。

ようこ:
そういう人がいたんだね(笑)。

いさどん:
まわりの空気を読まず、テンション高くはやれないなと思うけれど。
でも、ひょっとして、これから自殺しようという人たちを前にしたら、
それをやり続ける必要はあるのかもしれない。
そういう人たちの相談に乗って、「それは大変ですね。問題ですよね」と言っているようでは、
とてもそういう人たちを引き上げられない。

ようこ:
そう。それこそ自由自在に上からも下かも横からも斜めからも観られるようにならないと。

いさどん:
目の前に現れてくる問題を恐れていたら、こういう活動はやっていけないからね。

ようこ:
それはそうだよね。これから、そういう世界の最先端に関わっていくのだから。

いさどん:
家に帰ったら、これをネタにブログに出そうか。
「看板上げます!」って(笑)。
何を看板に上げるのかと言ったら、「何でも来いや、任せておけ!」という看板。

ようこ:
じゃあ、「何でも来いや、任せておけ!」Tシャツを作ろうか!
ケアサポートチーム皆で、「何でも来いや。任せておけ!」Tシャツを着ているという(笑)。

いさどん:
いいね!ぜひ作ろう。

ようこ:
何でも楽しんでいかないとね。
今日は出発する前に、「いさどんと車の中で2時間も一緒にいるから、
面白い話が出るだろうな」と思っていたけれど、
こんなに面白い話が出るとは思わなかった(笑)。

いさどん:
そりゃ、何かがあることはわかっていた。
ないわけがない(笑)。
ようこちゃんのことは神様から良いプレゼントをいただいたなと思っている。

ようこ:
お互い様です。
私もいさどんや木の花に出会ってなかったら、もっと平凡な人生を歩んでいただろうな。

いさどん:
結構ええかっこしいでね。

ようこ:
そうそう(笑)。嫉妬深くて。

いさどん:
それはそうだ。元々の「陽子」という魂はそういう人だ。

ちょうど、東名高速で全く道を気にしなくていいところで、こうやって話が一段落した。
今は首都高速に入りあっちに行ったりこっちに行ったりして、
落ち着いて話が出来なくなったからね。

ようこ:
配慮されているね(笑)。
二人で会話をしていると思ったら、実は三人だったということだね。

いさどん:
昨日、神様のカードというのをみかちゃんが持っていて、
「アメノミナカヌシ」というカードを僕は見たんだよ。
「ミナカノヌシノオオカミ」というのは僕に与えられた名で、
「アメノミナカヌシ」というのは大宇宙神のこと。
その「アメノミナカヌシ」のカードには、「あってあるもの、なきてなきもの」と書いてあった。
「これは、僕が昔言われた言葉そのままだ。全てがその通りになっているんだな」と思った。

さあ、もうちょっとで到着だ。物語の本番はこれからだ!


何でも来いや、任せておけ!~前編

先日、木の花創立以来初めての相談出張にいさどんとようこが行ってきました。
二人が行きの車中で話した会話を今回のブログでは紹介します。

いさどん:
僕は、この生き方がもっと広がる必要があると思っている。
ただ、今のような一般社会の人たちが、
わがままな豊かさを満たしながら、このような生き方をするのは難しいだろうとも思う。
まだまだ「あれが欲しい、これがしたい」と思っている人たちにとっては、
バランス良く欲望を表現しながら生きていくことは難しいだろうと思っている。

例えば、地球環境に負荷をかけないような生き方をするためには、
今は地球が何個分もいる生き方をしているわけだから、
今のような状態はどこかの時点で改めないといけない。
そういう話は色々なところで出てきているのだけれど、
実際にはそういうことを意識し実践している人はほとんどいない。

そういう中で、私たちの存在はまだ特別な存在だよね。
私たちの中に大切にしている価値観はあるけれど、
ここにいるメンバーの中でも、まだ十分に満たしていない人もいる。

この共同体にいる私たちは一体全体何ものなのか、ということを世の中がいつか理解する時には、
世の中の人々が今の世の中の状態が何なのか、
自分たちが求めていることが私たちにとって何なのか、ということをわかった時だろうと思う。

僕は今、何となく心が晴れない気持ちがある。
今の社会を観て晴れない。
それは僕の中でこの世界に対する理想のイメージがあり、
そこに人々が気づかないから。
そのことに対するイライラとまではいかないけれど、そういった類の気持ちがある。
だからと言って、今わからない人たちに「わかれ」というのも、おかしな話だよね。

ようこ:
「わかれ」と言って、すぐわかるものでもないから。

いさどん:
「自分が何かをやっている」と思うとそういう心になっていくのだから、
「やっている」のではなく、「その役割をもらっている」と思えばいい。
自分がそこでは主役にならず、世の中の動きに対して、
「一つの役をもらった役者のように自分の役割を果たしている、と思えばいいか」
というところに落ち着く。

ただ、そうなる前に、
「自分の思うようにならない。思うように伝わらない」という心が湧いてくる。
それは、今のように振り返れば消えていくことなのだろう。

今日は珍しいことが起きている。
ようこちゃんと僕がこうやって出張するのも初めてのことだし、
相談事で出張するということも初めてのこと。
きっと、これは何かの始まりだと思う。
この機会を区切りにして、僕の晴れない心を卒業したいと思う。

ようこ:
いいねー!

いさどん:
今の木の花に対して想うことは、農業部門がしっかりと確立されること。
それから、きくらげのような新たな経済システムを安定させること。
木の花が共同体として、しっかりとした体制が築かれるということ。
それが出来れば、僕は次の段階に入ってもいいかなと思う。

僕が60歳になって「おやじの館」をスタートするまで、あと1年だよね。
家の前の畑に植わっている夏野菜がどうなっていくのかが、一つの鍵かなと思って観ている。
あれは日にちを追っていけば、学びとともに良い結果がもたらせると思っている。

先日、エコビレッジ国際会議後にここを訪れた、
インドのエコビレッジ、オーロビルに住んでいるビンドゥと話をして、
その後フィリピンでエコビレッジを立ち上げたぺネロペと話をした結果、
木の花がこれからこういった世界で大きな存在になるだろうと思った。

そうすると、色々なことに対する体制が整ってくれば、新しい出会いも生まれてくる。
私たちが取り組んでいるケアのことも、新しい動きがこれから生まれてくる。

そうすると、今日の新しい出発を境にして生まれ変わる必要があると思っている。
自分の自発的な作業とはいえ、
僕も今これを機会に自分の中の晴れない心を取り去っていきたいと思う。
僕は、自分でこうやって打ち出して方向付けをしている。
今日は良い機会だから、自分の中で消化していないことを全部出そうと思って、出してみた。

結局出しても、この道を歩むことには変わらない。
ここまで来たら、他の道なんかない。

ようこちゃんは、そういう意味では未来に賭けているのだから、楽だよね。

ようこ:
楽(笑)!

いさどん:
人に道があってそれに賭けるとなると、自分でどうこう出来ない分だけ楽。

ようこ:
考える必要がないものね。信じていくだけだから。

いさどん:
僕が与えられたこの道は、
絶対なものがそこにあって、確固たる導きのもとにある。
この生き方を広げることが大切であり、
私たちはエコビレッジでもなければ、
医療の一つであるケアを通して世の中に何かを伝えるものでもない。
私たちは宣教師であると言える。

先日、エコビレッジ国際会議に向かう車の中で、
ようこちゃんの話題になってね。
いさおちゃんがようこちゃんと接していると、うっとしたり腹が立つと言っていた(笑)。

ようこ:
そうそう(笑)。

いさどん:
いさおちゃんは、そういうことが2、3日続いてから仕方なく自分の中に収めるという話をした時に、
「いさどんは、ようこちゃんという人をどういうふうに観ているの?」と聞かれたんだよね。
そこで、「僕もようこちゃんにはうっとするんだ」と言った。

うっとするんだけれど、
「ようこちゃんに自分がうっとするということを伝え、
ようこちゃんを自分の思うようにしたい」という心が瞬間的に湧き、
次の瞬間には消えていく。
つまり、自分で考えブレーキなく進んだら、「いただく心」を忘れる。

そうしたら、ようこちゃんは僕がうっとすることをどのように考え、行動しているのかといえば、
彼女には全く悪意がない。
彼女流に判断し、良いと思ったことを行動しているだけ。

そのことに対してNOと言ったら、彼女が良しとすることをNOと言うことになる。
それは、こちらの良しとすることを良しとするということであって、
僕が目指している多様性の中にある真実の在り方から外れることになる。

だから、「自分の想いが何でも達成される」ことよりも、
「制限する」ことの方が大切だと思う。
そこに学びがあったり、成長する要素がある。
だから、僕はそこでうっとすることを自分の中に収め、「いただきます」という心を持つ。
それから、心を上の方へ向け、神様をイメージする。
神様は、「ようこちゃんを通じてその姿勢をつくることを伝えている」と言われる。

それを聞いたいさおちゃんは、
「僕には出来ないけれど、それってすごい世界だね」と言っていた。

一つ一つの行動をようこちゃんが完璧にやっているかどうかについては、わからない。
完璧かどうかということは、「ああだったらいい、こうだったらいい」と考える人間からしたら、
いくらでも評価はあるのだから。
しかし、少なくとも普通の人が行動出来る以上のことを、役割としてようこちゃんはしている。

これは重要なことで、
これから僕らは何もお互いの中に調整する必要のない、
一心同体の関係をつくっていくことをやり始めている。
今までは「ようこちゃんの本質はどんな人なんだろう?」と模様眺めをしているところもあったけれど、
今日を機会にそれをなくして、お互いの関係を次のステージへ進めるべきだと思っている。

ようこ:
いいねー!

いさどん:
僕らは、これから益々世の中のための生き方を進めていく。
世の中には大変な状況の人たちがいるからね。
自分たちのことなど後回しにするくらいの考えでいかないといけない。
そのためには、それにふさわしい二人三脚で行きたいと思う。

今色々と話をしたけれど、
ようこちゃんはこの流れ、木の花のこと、これからケアのことをやっていくこと、
今日の出張のことをどういうふうに考えているのかな?

ようこ:
これは、「考えていない」というのが一番近くてね。
「世の中を良くしたいんだ。戦争をなくしたいんだ!」と言う人もいるけれど、
これは良いんだか悪いんだか、
私は「世の中がああなったらいい、こうなったらいい」とあまり思わない。
私が何かを思っても思わなくても、なるようになるだけだから。
そういう意味では思いがあまりないという感じかな。

今、いさどんが、「晴れない心を卒業しよう」というのを聞いたら、それはすごく嬉しかった。
いさどんと私の個性の一番の違いは、良く言うと、いさどんは思慮深く、視点が深い。
だから、いさどんと話をしていて「心が晴れない」という言葉を聞くと、
「私の心はいつも同じように晴れているから、私の視点はきっと浅いんだろうな」
といさどんから学ぶことがある。

でも、学びになると同時に、
いさどんのその深さが欲として表われ、いさどん自身が疲れている姿を観ると、
私としては、「いさどんという人をもっと有効に活かしたいから、もったいないな」と思う気持ちもあった。
だから、これからいさどんが次のステージへ行くというのを聞き、
これからもっと違う形で活かされていくいさどんを観られる気がして嬉しいな思う。
それがいさどんに対する想いかな。

いさどん:
全くそうなんだよ。僕も知っているんだよ。
僕らがこれから進む道はほとんど決まっている。
そこを辿っているだけだから。
それに一喜一憂することはバカバカしいことなんだ。

しかし、僕の中にもよしどんのような癖があって、
今まではそれをわかっていながらも、進めてきたところもあった。
そして、人に対して、「そういうことはダメだよ」と言ってきた。
でも、そう言いながら、それを取り切れていない自分もいた。
僕は強いエネルギーとコントロールするだけの力があるから、
自分から打ち出して超えていく時期が来たのだと思う。

「今まではそういう自分であった」と認識して卒業していくということだよね。
この機会を境にして、そこに区切りをつける。

さっき、ようこちゃんは「僕を活かす」と言ったけれど、
こちらからもこの与えられた関係を活かさないといけないと思う。
これは、次へ進む大きな旅立ちだよね。

ようこ:
そうだね。旅立ちだね。
今まで、いさどんの欲の部分を感じていたけれど、
それを敢えていさどんに伝えようとは思っていなかった。
というのも、いさどんと他の人には大きな違いがあると思っていて、
心が晴れないいさどんには、皆のためにそういう役割をしているとも思っていたから。
いさどんのその晴れない心を大人会議でシェアすることによって、
皆一人一人の意識が上がったり、「そういう視点もあったのか」と皆の学びになったり。
だから、これは一概にいさどんの癖と言い切れないところがあると思っていた。
これが他の人だと、その当人が自分の癖を観る時だなと思うから、そのことを伝えるのだけれど。

逆に、それだけ皆の意識も上がってきたから、いさどんがこういう気持ちになったとも言えるよね。
いさどんが次のステージへ行けるよう、皆も成長してきたということだと思うと、
いさどんのことと皆のこととダブルで嬉しいよね。

いさどん:
さっき話した、木の花に対する懸念や漠然とした想いを全部出してみた時に、
見通しは立ってきたと思う。
そこを手放せる段階に来たから、この話がある。

ようこ:
そうそう。
だって、いさどんが私みたいな心で創立当初からいたら、
今の木の花は存続していないよね(笑)。

いさどん:
ということは、いつものことながら、事は全て完璧に起きている。
僕が思っていることを情報として皆に伝えることは良いとしても、
それを心配して自分がどうこうしようという心は要らないということだ。
皆に任せていけばいい。

それともう一つ。
セックスについての偏見や誤解を解いていくことが大切だと思っている。
セックスというものを行うことは、精神性を保っていくのに非常に重要なことである。
ただ、精神性を伴うことだし、そのことは非常にデリケートなことだと思う。
人がそれを間違うと、堕落してしまうことにもなる。

先日、「タオコード」という本を読んだ時に、全くその通りだと思ったことが書いてあった。
人間の体には、頭のてっぺんから脊髄を通って尾てい骨まで通る線があり、
そこには1番重要なチャクラがある。
宇宙エネルギーをそこで受け取る。
頭のてっぺんから反対の端に性器があり、
これは宇宙生命のエネルギーを使って生み出す場所。
男性の陽と女性の陰を融合させることによって、生命を誕生させる。
元々一つであったものが分かれることによって、
この世界が創造されてきたのとは逆に、
分かれた二つのものが一つに戻って新たなものを生み出す儀式としての神事がセックスである。
尊い行為である意識のもとに、それが行なわれることが大切だと思う。
そういうふうにセックスを見直していくことが大切だと思っている。

セックスを隠すものとし、それを語り切れないものとしていたけれど、
それももうやめないといけない。
さっきから僕が話している、どうしても心が晴れない部分はそこにもある。
これからは、神聖なものとして表現しないといけない。

本に書いてあったことで共感したのは、
「忌まわしい行為の延長に生まれてきた」と子供たちが思ったら、がっかりするだろう。
そうではなく、「神聖で尊く、この宇宙を創られ維持されていることと同じ大切な行為によって、
自分たちが生を受けている、そのことによって誕生してきたんだ」
ということを伝えることが大切だと思う。

だから、そういったことは美しくバランスの良い心で行なわれないといけない。
それを伝えたい。
その延長に与えられるエクスタシーは、
「あなたの御心のままに」と己が空っぽになることを体現することになる。

ようこ:
そうだね。「エクスタシーとは自分が空っぽであることの表現」って面白いね。

いさどん:
つまり、悟りの境地だよ。

(後編に続きます。)


あってあるもの、なきてなきもの

この部屋の窓からは、西の空や田んぼ、家々が観える。
屋根の上にはつがいなのか友達なのか、2羽のカラスがいる。
カラスたちは一緒にいるのが当然のように、カーカ―と泣いている。
まるで彼らは会話をしているようだ。
「これからどこに食べ物を探しに行こうか?」と打合せをしているようにもみえるし、
悪だくみをしているようにもみえた。

カラスにしてみたら悪だくみもしていないし、悪い考えも持っていない。
生きるため、本能のままに、一日の始まりを過ごしている。

「あんなふうに生きられたらいい」と時々思う。
人間は色々と考え、賢いなら賢いなりに、愚かなら愚かなりに思い悩む。
「野のもののようにありたい」と思う。
物を所有する人間にとって、それは願望でしかない。

カラスは家を持たない。巣を作っても材料は現地調達。用が済んだらそれで終わり。
雨が降ったり嵐が来ても、その時間をやり過ごせばそれでよい。
一時、大変な環境にいたとしても、それが過ぎたら忘れて今を生きる。

過去に捉われることもなく、今に想い悩むこともなく、未来に想いを馳せることもない。
「あってあるもの、なきてなきもの。」
なかったらないでいいんだし、今をあり続けるもの。
この世界そのままに生きている。

自分が悪賢いとか、見栄えが良くないとか、そういうことは考えない。
しかし、人間は考えずにはいられない。
「もし、自分がカラスだったら」と思う。
「カラスの方が楽に生きている。余分なことを考えないで済むし」と思う。

この生活が始まって2,3年経った頃、僕はまだバリバリのお百姓さんだった。
畑へ行って土手草を草刈り機で刈っていた。
その畑ではウコンとショウガを育てていた。
以前は、ウコンとショウガをセットのように同じ畑で、
ショウガの方が背が低いから南側に、ウコンの方が背が高いから北側に作っていた。
その時の作業では、ウコンとショウガの畑の草取りと土手草刈りをしていた。

土手草刈りをしていた自分の中に想いが湧いてきて、
「同じ植物なのに、ショウガやウコンを大切に扱い、
畑の土手草を刈り取っているのはなぜだろう」と不思議に思った。
「作物と草は同じ植物なのに、なぜ差別するのか。この差別は何だろう」と思った。

それで、草に聞いてみた。
「草さん、僕は畑にあるショウガやウコンを大切に想って手入れしていますが、
あなたたちを草刈り機で刈り倒しています。
これは差別だと思いますが、あなたたちから観たらどう思いますか?」と聞いた。
草は答えをくれた。

「それでいいんです。私たちはそういうものなんです。
今あなたが刈り倒した草は、そこに留まればいつか土手の土となり、また草になります。
それをあなたが刈り取って、その隣のショウガやウコンのところに入れれば、
私たちはそこで土になり、いつかウコンやショウガになります。
そうやって私たちは変化し続けるものであり、今は草であるだけです。
だから、刈り取られたとしても、私たちという存在は形を変えてあり続けるのです。
そういうものなんです。」

人間はそういう意識を持っていない。
私たちはこの世界にいて、そういう意識を持っていない。
「自分が」という願いを叶えていった結果、今の進化や発展がある。
「人間が『自分が』という想いから解放されるためには、
この草たちのような心が必要なんだ」と思った記憶がある。
何も考えを持たないものたちは、「あってあるもの、なきてなきもの。」
そのままに存在している。

それで、今度は同じ畑の私たちが大切にしている作物である、
ショウガとウコンのところに行って語りかけた。
「ショウガさん、あなたのために今日ここに来て畑の手入れをしています。
あなたはどんなふうに扱ってほしいですか?」
するとショウガは、「私は今、水が欲しいです」と答えた。
水が欲しいのなら水をあげることが必要だし、
水をあげなくても株元から水が蒸発しないよう水を保てるような環境を与えてあげることを考えた。

次に、隣のウコンに語りかけた。
「ウコンさん、今日はあなたを手入れに来ています。
あなたはどんなことをしてほしいと望んでいるのですか?」
すると、ウコンはこう答えてくれた。
「僕は体が大きいから自分で根を沢山張って、水分を取ることが出来る。
今は体を大きくするための栄養が欲しいです。」

そこで気づいたのは、「今までショウガとウコンを同じように扱っていた。
同じ畑に作付けし作っていたけれど、それぞれにふさわしい個性があり、
欲しいことが違うんだ」ということを知った。

ここに訪れる人の中に、「私は草取りをしないで作物を作りたい」と言う人がいると、
この話をよくしたことを今思い出した。
この世界は「あってあるもの、なきてなきもの。」
今目の前の瞬間瞬間をつないで存在している世界。
そして、世界はそのままであり続けている。

しかし、人間はその意識を保つことが出来ない。
全ての世界がそうであるのに、
人間はこの小さい世界の中ですら、それを保つことが出来ない。
それを人間の能力の高さとして評価すべきなのか、
人間の愚かしさとして人間についている迷いの種として観るべきなのか、微妙なところである。
人間は「あってあるもの、なきてなきもの」という世界の中でそれを認識せず、
自分の想いの枠の中に自身を閉じ込めている。
人間にはこの世界に降ろされた役割がある。
あってあるべき姿がある。

そうやって物事を外側から捉えていくと、多様な捉え方があり、多様な存在がある。
執着を生んでしまうような価値観も、
多様な価値観の一つとしてそこにただあるだけである。
思い悩むことなど何もない。
なくてなき姿と捉えれば、たちどころに消える。

屋根の上にとまっていた2羽のカラスは、今をあるがままに生きている。
しかし、カラスを羨ましいとは思わない。
今を不満にも感じない。
出会ったことに常に一喜一憂しない自分でありたい。
「あってあるもの、なきてなきもの。」
それが続けられる自分でありたい。

自分しか出来ない役割、自分しか歩めない人生を誰もがもらっている。
今を生きて、つながり、役割が終わるまで進むだけのこと。
終わったら、この世界に形を変えてあり続け、そしてまた帰ってくる。

人間は、自分の中の思考を巡らせ、その想いに翻弄され生きている。
それを意識している人も無意識の人も、自分の想いに翻弄され生きている。
そこを超え、自分という存在を超えていくと、翻弄されない自由な世界がある。
この世界のままにあり続ける。
あってあるもの。

自分の意識をしっかりと保ち生きている人が幸せなのか、
機能が停止して壊れている人が幸せなのか。
自分を保つことが幸せなのか、保たなくなったことが幸せなのか。
どちらも、この世界の在り様の一つでしかない。

今を生きること。
それは捉え方によっては、ないものに等しい。
常に瞬間瞬間切り替わり、次の世界へ移行していく。
あると思うとあるだろうし、ないと思うとない。

私たちは、そういう面白い世界に存在している。
カラスのように自由な世界にいる。