ここのところずっと想っていることがある。木の花で、今、自分の心をコントロールできなくて、どうしても自分事を優先してしまって、そこから抜け出せない人がいる。
それは、一般社会では当たり前のことだよね。だけど、木の花という社会では、自分事が優先してしまっている人ってどうしても浮いてしまう。皆がそれを問題あるよと言って、厳しく浮き立たせているのではなくて、自分事ばかり考えている人がここで毎日生活していると、不思議といろんなトラブルが起きたり、作業で失敗したりと、その人の中から不調和な部分が出てくる。
それが自然の仕組みの中だと、自然は調和の中にあるから、調和が崩れると淘汰されるというふうに力が働く。たとえば、自然の中ではバランスが崩れて調和から外れると、病気が出たり、怪我が出たりする。増えすぎると、天敵に襲われる。そういったことがあるように、それと同じような現象がここの社会の中でも起きてくる。
そうすると、その人は、自分を見る目がなくても気になるのか、それを自分で認識して、大人会議の報告で出したりするけれど、歯切れが悪い。自分を積極的に誘導できないばかりに、毎日同じような歯切れの悪さを出す。人によって陰性的で消極的な出し方と、陽性的に自分がアクセルをふかしすぎてしまって、行きすぎてしまうような人。それから、十分自分をコントロールできなくて、コントロールというのはアクセルをふかしすぎてコントロールできないのではなくて、前に進めなくてそこで苛立っている人がいてね。それをこういうものだよって言ってあげても、なかなかそれができない、涙があったり、落ち込んだりということがある。
それに対して、そこから抜け出るためのアドバイスであったり、言葉がけというのは、そのひとが救われるための、一番大切な愛がそこに向けられている。これこそ愛だな、と。その人のことを大切に想う愛。
けれど、受け取る人によっては、自分の中から滞りが出てきたのに、それができない自分がずっとあり続けて、その姿をしっかりと見てたら、ああ自分の問題なんだなと受け取れるだろうに、それを外の人からこうするといいよというふうに指摘されると、いつまでたっても直らない。
それはどこに原因があるのだろう。自分の問題点を人から言われている、という意識に知らない間に変わってしまったり、中には人が自分に厳しいことを言っている、自分が責められている、と思うことになる。でも、それは本来、自分から発したもの。それに対して、その人がそこから抜け出せるようにその人のことを想って、適切で客観的なアドバイスをしているにも関わらず、それが責められているように感じてしまう錯覚に陥る。
今の段階で、木の花で起きていることはそんなに重症ではない。皆、どの人も自分のこととして受け止めているけれど、一般社会ではそういうことはありえる。
僕はケアで人をお預かりする時に、常にその人のことはその人のこととして、前もって伝えておく。それはあなたのことですよ、と。自分のことなんだってことを常に理解している状態でないと、全く本末転倒になってしまい、おせっかいになってしまったり、伝えようとすることが伝わらなくなってしまう。
だから常に、自分から発したものが何であるのか、自分の中に原因を見ていかないといけない。外から来たものも、外に原因を見ると言うことだけではなくて、自分がそれに出会ったのだから、自分の中からまず見ていかないといけない。そういう場合は、外にも原因が当然あるのだから、客観的な目で外の原因を見る必要もあるのだけれど、大事なのは、まず先に自分の中に、自分から発したものを見る。そして、外から来たものも、それに出会ったという自分の中を見る。最後に外を見る。正しく物事を見るためには、その姿勢が必要だと思う。
今日は愛がテーマ。愛というものは、語っても語っても、語りつくせないものだけれどね。
僕は最近、陽子ちゃんとほとんど毎日対談をするんだよね。陽子ちゃんは、僕の中から湧き出してくる想いを見事に受け取って、忠実に表現してくれる。会話する言葉というのは、どうしてもわかりづらいから、そこで文章に仕立てていくということをするんだけれど、目的や会話の中の意図が僕らの中で共通していないとできない。事務的にやっていたのではできない。
それは、すごく強い絆と信頼があるからできる。さっき、陽子ちゃんが部屋に入ってきたときに、陽子ちゃんはなんでこれをやっているんだろう、と言葉にならない問いかけが発生したんだよね。それは、きっと楽しいからとか、希望があるからとか。そういったことを超えて愛しているから、ということなんだろうと思った。僕もなんでこれを毎日やっているのだろうと思ったら、僕も陽子ちゃんをこのことのパートナーとして最良の存在だと思っているから。
昨日ね、大人会議後、ひまわりから本宅に帰ってくる時に、たまたまみかちゃんと一緒だったんだよね。みかちゃんに、「みかちゃんね、僕らは愛し合っているよね。僕らはもう他に誰も割り込むことができないくらい愛し合っていて、そしてこんなに愛深く日々が生きられるということは幸せだよね」って言ったら、「そうだよね。私は昔、愛というものを自分が人を支配することだというふうに思っていた。だけど、こうやって愛をお互いに向けあって、そしてあふれるくらいの愛を表現することができるんだよね」ってこう言うんだよ。
同じことを陽子ちゃんに感じて、僕は今みかちゃんとか陽子ちゃんって名前を挙げたけれど、それはじゅんじマンやこうちゃん、なかのんにも、ここには沢山の男の人もいるけど、どの人にも感じるって、その時に言ったんだよね。
人の中に、相手を独占したいとか、そういうことで悩んでいる人がいる。そういった人は、愛には限りがあるもので、自分に向けられている愛がどこか他に向けられたら減る、と思っている。しかし、それは間違いで、愛は実は減らないものである。特定のものに対して、独占する心が生まれると、対立が起こり愛が消滅してしまう。愛は育てていくもので、無限に増えていくものなんだ。
もしも世の中のすべてが嫌だとなった時に、この世界と対立しているのかと言ったら、実は、そういったせまい心になった自分と対立している。一番始めの愛の対象である自分と対立していることになる。
ところが、愛というのは、すべてが喜び、すべてが感謝。すべてに愛を向けるということができるという広いもの。
一般社会の中で人と人が愛し合うっていうと、非常に相性のいい夫婦がいて、生涯を睦まじく生きた。大恋愛をして、恋愛の見本のような愛をもって生きた。それは、特定の人の間にある関係だよね。
僕は、その特定の人同士が持てる、ほとばしらんばかりの愛を誰にも持てるな、と最近思っていて、どの人を見ても、その人の奥に本当に深い愛を持っているなと思っている。それを皆に感じるようになった。本当に幸せだよねってそこでは伝えて。
その時その時に、100%相手に愛を向けたからといって、それですべて、愛の泉が枯れてしまうということにはならない。どの人に対しても同じ気持ちが湧いてきて、枯れることがない、これはすごい世界じゃないかと思っている。素晴らしい。そういう世界を僕は今生きている。これを聞いた人たちは、その世界を想像できるだろうか。イメージできるだろうか。
実際に僕は、毎日そういう心を持って生きている。そうするとね、それを拡大していくと、僕らがまだ出会わない人たち、そういう人たちのことも愛の心で見ることができるんだよね。そこでいろいろ想い、悩んで苦しんでいる人がいたとしても、その想い悩んで苦しんでいることも、温かく見守ることができる。
神様ってこういう心で、この世界の見えない場所から私たちのことを見ているんだろうなと思う。そして、私たちも誰にでもそういう心を向けられる。それだけでも、なんて素晴らしい所に生きているんだろうと思う。
愛は減らない。お互いがお互いの関係の中で、めいいっぱいこれ以上表現できないっていう愛を表現しながら、それがどの関係の中でも同時に表現することができる。愛は減らないんだよと。なのに、独占しようという心が起きた時に、いろんな所に向けられる愛が、なんだか自分の取り分が減ってしまうような、なくなってしまうんじゃないかって思う。その愛は自分だけ得しようというエゴの愛。自己愛。
どんな縁にも意味があって、それを健全なほうに育てていきたいよね。健全な方に育てれば、そこには当然いい人間関係が生まれてくる。それを無理やり維持しようとせず、いただいた縁を本当にすくすくとそのまま育てたいなと。にこにこ笑いながら。