生きることのプロフェッショナル

日々学んでいることを、日常の生活に反映していくことが大切だよ。
今、自分に起きている出来事の発信源は、その人自身の精神性にある。例えば体の痛みでも、その原因は自らの心の姿勢にあるのに、ただあそこが痛いここが痛いという物理的な話だけをしていては、日々起こる現象から学んでいることと、日常のあり方が別のものになってしまう。その姿勢が、新たなトラブルを生む元になる。
物理的な症状も、心の姿勢も、日常の出来事につなげて考えられるようにしていかなければいけない。疲れているとしたら、疲れるのにも理由がある。一人ひとりがきちんと自己チェックをして、自らを健康にすることが大切だよ。人が健康でいるということは、その人自身のためでもあり、社会全体のためでもあるのだから。

現代は、休むことが豊かさだと思われている。お金があって休日が十分にあってレジャーを楽しめることが豊かさなのだと、多くの人が思っている。しかし本来、生きることと豊かさとは直結していなければいけない。
休むことを豊かさだとするならば、極端なことを言えば生活に余裕があれば休んでいいということになり、お金がたくさんあって楽に生活できることが生きることの目標になってしまう。しかしそれは、天や自然と直結していない生き方だよ。もう一度、生きるということを天に返す。それは、生きることが自然であるということ。
本来、生きることに休日はない。宇宙の星々も、地球上の生命も、休むなどということはしていない。休むとは、人間の歪んだ発想から生まれた豊かさの延長線上にあることであり、歪みの象徴のようなものだ。

毎日を生きて、ものごとがスムーズに進み、自分自身にもこの世界にも負荷をかけないというところに、矛盾のない豊かさがある。
ここの暮らしは、農繁期になればみんな忙しくなる。忙しく働くということは健康であるということであり、健康であるということは、無駄や無理や矛盾のない生き方をして自分の中に滞りが起きないということ。滞りが起きるとしたら、そこに考え方や生き方の矛盾があるということだ。
その矛盾に、毎日の生活の中で些細なことからちゃんと気付ける人にならなければいけない。そうすると、ものごとがスムーズに進み、流れがよくなって、いろいろな意味で健康になる。それを表面的に知識だけを学習して生活に反映していないと、結果として現象化されていないのに頭の中だけでこういった思考を回してOKにしてしまい、矛盾はそのままになっていく。それを、一人ひとりがしっかりとチェックできることが大切だよ。

ここのように自然と共にある暮らしの中では、農繁期や農閑期というものがある。その中で無理が発生した時にこそ、より意識して、矛盾のない生活をしていく。忙しくて余裕がない時にこそ、無駄のない緻密なものの観方をしていけば、するするっと通り抜けていくことができる。そしてものごとの流れがスムーズになると、そこには大きな充実感が生まれる。
そこを緻密に観ていないと、少しの無駄が発生した時に無理が生じて、そのつじつまを合わせるためにさらに無理を重ねて、疲労になっていく。そういったところから心や体に矛盾が生まれ、心なら不満や疲労感となり、体なら病気になったりどこかの具合が悪くなる。その矛盾を解消するのは、緻密に自分自身を観る心だ。

そういったことができるようになった時に、人は本当の意味で健康に生きられる。それは達人の領域だよ。しかし僕たちはもう、達人でなければいけない。それは何か特別なことができて他の人より抜きん出ているということではなく、生きるということがとてもスムーズで、無駄なく効率の良い、さわやかな心で生きられるということだよ。
みんなは生きるということのプロフェッショナルにならなければいけない、と僕は思う。忙しい時だからこそ、常にそういったことを考えて、無駄のない心で生きる。無駄がないからこそものごとがスムーズに進み、そこに余裕が生まれ、さわやかな生き方ができる。それができると、生きることそのものに豊かさを感じられる。

だから、忙しいことを忙しいだけで終わらせてはいけない。これから人々は、その領域へ行くべきだ。
ここではたくさんの人が助け合い、連携して、普通ではできないことをやっている。その中で一人が心や体の滞りを持っていると、それが矛盾となり、働いてみんなに貢献することができない。それは、歪みが発生して病気が蔓延している今の社会と同じ状態と言える。
やはり生涯をぴんぴんころりで健康に、本当に世のため人のため、「傍」を「楽」にする(=はたらく)ために生きていく。そういう世界をつくることが大事だよ。そこでは病気は学びのために起こるのであり、本当に少ないものになっていくだろうね。

今の世の中では、お金があって働かずに楽をすることが豊かさだと思われているけれど、それがこの世界の矛盾をつくっている。つまり、社会的に成功した人たちが矛盾をつくっているんだよ。
自分の存在が他に貢献しないことは、自然にはあり得ない。ところが人間は、自然にはあり得ない矛盾を発生させることを豊かさだと思っている。その背景には、自分だけがいい思いをしたいという自我の心がある。そこと本当に人々が向き合った時に、傍を楽にするために働く、矛盾のない平等な世の中ができるだろう。

最も肝心なことは、近年の物質至上主義の価値観の中で、自らの行いが自分自身の霊的価値や地球生態系を汚染してきたことに人々が気付き、生命の本来の目的や、人として生まれてきた意味に目覚めること。自分が健康であるということは、世の中に対して責任があるということであり、本来健康とは、自分個人の都合のためにあるわけではないんだよ。今の世の中ではまったく逆さまの捉え方をしているけれど、これこそが21世紀の人々が目指すべき世界だ。

今はまだ多くの人々がこのことを理解できないけれど、このわからない生き方をしていることを誇りに思う。

 

 


誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる時代

4月29日にBSフジにて放映された「アキレアの橋 体操・白井健三」という番組と、5月2日にNHK総合にて放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀 松岡修造×スーパー高校生スペシャル」を観たいさどんは、みんなでこの番組を観ることを勧めました。その数日後、二夜に渡ってみんなでそれぞれの番組を観た後、三日目の夜の大人会議では「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」のブログがシェアされました。その後、いさどんは次のように語りました。

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この映像を観ていくと、アキレアの橋からは白井健三くん、それからプロフェッショナルからはピアニストやゴルファー、プログラマー、そしてボクサーが取り上げられていました。僕は、みんなに彼らを目指してほしいという想いで、この番組を勧めたのでありません。まず、彼らのような人たちが現れる時代になったことをみんなに知ってほしかったのです。ただ、彼らも普通の人間なのですよ。そこで僕は、「彼らとみんなとの違いは何なのだろう?」と思いながらこの映像を観ていました。

それは、彼らはストッパーを外したということです。

今回の映像では出てきませんでしたが、高校生の頃からその活躍が人目を引いていた羽生結弦くんがいますね。彼は昨年11月に開催されたNHK杯でショートプログラムとフリープログラムをあわせた総合得点で史上初の300点越えをし、その2週間後にスペインのバルセロナで行われたグランプリファイナルでは、さらに記録を更新し330.43点をマークしたのです!ここ一年ぐらいは280点を越えたら金メダルの時代だったのですよ。ところが、羽生結弦くんがNHK杯のショートプログラムで史上初の100点を越えたのです。当時、これは信じられないことが起きた!神業だ!と言われていたのですが、今年の4月に開催された三大陸対抗団体戦で18歳の宇野昌磨くんが公認大会で初となる4回転フリップに成功し、ショートプログラムで自己記録となる105.74点をマークしたのです。

このように、今の最高記録はどんどん更新されていくものなのです。誰かが今までになかったことを成し遂げると、それまでの目標が改められ、新たに記録を塗り替えた人がみんなの目標となるのです。そしてその度に、みんなのストッパーが外れていくのです。これからも、そういったことの連続です。

ところが、多くの人間には「自分にはできない!」とか「わたしなんか!」というおかしな心があり、そのようなストッパーを持っているのです。ある意味、それがその人らしい生き方とも言えるのですが、その自分らしさの中に自分を閉じ込めてはいませんか?

僕は、みんなが白井健三くんになれとか、羽生結弦くんになれ、と言っているのではありません。あなたらしい人生の目標に限界はない、と伝えたいのです。限界は、今の自分がつくっているだけなのです。どこかで人は、「自分はこんな程度だ」と考え、それ以上やろうとしない心があるのです。

もし、もっと自分を花開かせ、可能性を観てみたいと思うのであれば、そのストッパーを外すことです。そのためには、自分を客観的に観えないといけません。人はとかく、今までの経験を元にして、ある時点から「わたしはこういう人だ」と自分を決定し始めます。しかし、経験を積むことはストッパーを外すためにあるのです。それなのに、人間は自我があるがために経験を所有し、それを常識にして、その枠の中にい続けようとするのです。未来は今までの経験を超えていくためにあるのですから、今までの経験を活かすことはいいのですが、それを固定してそこから結論を先に決めてはいけないのです。

それが、自我の乗り越え方です。

今回の映像を通して、新しい世代の人たちが、たとえば音楽はこういうものだというストッパーを外し、先生を超えている発想をすでに持っていることを僕は感じました。そのようにして、彼らは自らの可能性を開花させているのです。21世紀に入った今、若い世代の人たちが人間の可能性をさらに広げようとしているのです。

ただ、そこでひとつ、懸念することがあります。それは、「革命は一人ひとりの目覚めから起きる!」にもありましたが、人間の可能性を広げることは、人類に貢献するためにあるのです。もしくは、生命として地球に貢献するためにあるのです。ところが、映像で取り上げられていた人たちの段階では、まだ世界が狭いので、自分の能力の開花だけを目標にしています。確かに新たな時代は訪れているのですが、まだまだ個人の願望の上にそれが表現されているのです。ひとり、プログラマーの彼は「人類の進歩に貢献することをしたいと思っていて、ただお金儲けをして億万長者になるよりも、人類を前に進めたほうがかっこいいと思ったのです」と言っていました。僕は彼の未来を楽しみにしています。彼が語っていることが、近年における人類が到達すべき目標です。

先日、40代の女性の相談を受けたのですが、僕が彼女に伝えたのは、「あなたは能力が高いのですが、その能力は宇宙や地球生態系の構造、そして時代の流れと一致していないのです。だから、その高い能力があなたの人生の中で問題事の種となってしまうのです」と伝えました。そういったことを怠っていると、この世界の仕組みではその人が発生させた矛盾の分だけ、人生に滞りが起きるようになっています。そういったことが明快に示され、それを感じ取る人々が今の社会に現れてきています。ですから今、人類はそのように生きていく時代に入ったのです。

ここには、これからコミュニティをつくりたいという人たちが訪れますが、僕は彼らにこう伝えます。「この世界は無限の生命の循環によって成り立っているのですから、コミュニティはつくるものではなく、時代とともに成っていくことなのです。時代が表現されていくときに、人間一人ひとりはその時代を表現するためにふさわしい役割を与えられ、生まれてきているだけなのです。ですから、それは自分がやりたいと思ってやることではないのですよ。逆に、強くそういったことを望んでいるような人は、そのこと自体が自我が強い表れですので、コミュニティに不向きな人と言えます。」

しかし、そういった人ほど、自らの実態が観えない人が多いですね。このように今、人間の意識が真に変わるときが来ていることは確かです。

今の人間社会は、矛盾が山積しているように見えます。しかし真実は、この世界に間違いなどひとつもありません。正義も悪もありません。もしそこに問題事があるとしたら、それは「無知」であるということです。無知であることが問題の根本的原因です。そして、それはどのような無知なのかといえば、この世界の成り立ちに対して無知であり、自分自身の存在に対して無知であるということです。

それに対して、知恵を持っている者とはどのような者なのでしょうか。それは、無知は無知でも、「無限なる知恵」を持っている者のことです。無限に経験を積み重ね、知恵を得て、成長していく者であり続けるということです。そういった精神に到達したときに、人間から個人の願望を実現させたいという意識が消え、宇宙生命として生きることになるのです。

そのために人間が取るべき姿勢は、時代から受けている使命を果たし、この世界から受けている自分たちのポジションを担うことです。それが、わたしたちが存在する意味なのです。自分は全体のために存在しているのですし、全体は自分を存在させてくれているのです。それが一致したとき、わたしたち一人ひとりの健康が実現し、真の平和が地球上に訪れるのです。

人類はいつそういったことに気付くのだろうと僕は思うのですが、今度オバマ大統領が広島を訪問しますね。広島へ行くのであれば、長崎にもぜひ足を運んでいただきたいと僕は思います。これは世界中が今、注目しているトピックです。彼が急に広島へ来ることになったのも、時代がドッと動き出した感じがしています。これは日本の都合やアメリカの都合で、オバマ大統領が広島を訪問するのではありません。これは明らかに、時代が次の段階を迎える前兆だということです。

それで今日の映像の話です。彼らはこれまでの常識や、「これが今の世界の最高だからこれ以上はない」といった発想を無視し、そういったスイッチを切った人たちなのです。これも、新しい時代の人たちが始めたことです。

そこで、わたしたち木の花ファミリーは今の時代にどのような役割をいただき、そしてどのようにスイッチを切っているのでしょうか。それは、「自我」のスイッチを切っているのです。自我のスイッチを切るからこそ、このような暮らしが可能になるのです。ここではすでに、みんなでお財布ひとつで暮らしていますね。自分のものをみんなと共有していますね。そして他人の子どもを自分の子どものようにかわいがり叱ったりしますね。そういったことを世の中にいるどれだけの人ができるのでしょうか。そのような区別のない世界は、すでにここで実現されているのです。

しかし、自我は粗いものから細かいものまでたくさんあるのです。そうしたら、彼らが毎日自分の能力の限界まで挑戦しているように、わたしたちは毎日ひたすら自我と向き合い、自我をきれいに取り去る心のスペシャリストとして、「えっ!!人間にそこまでできるの??」という境地にまで到達したいものです。

そういったことをイメージして、僕はこの映像をみんなで観ることを勧めました。彼らはピアノやコンピューター、アスリートなどの分野で新たなストッパーを外しながら活躍していますが、わたしたちは心のストッパーを外すスペシャリストなのですから、そういった意味で、わたしたちは白井健三くんや羽生結弦くんと同じなのです。わたしたちは心を探求するスペシャリストであり、人類の未来の見本として生きているのです。

時代は、確実にストッパーを外しながら紡がれています。ですから、「自我」というストッパーを外すことが、わたしたちが生きている真の姿であり、目的なのです。そして今、時代は誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる段階に入ったのです。

自我のストッパーを外すことを優先できる人は、時代と共に生き、時代に貢献できる人です。

 

 


革命は一人ひとりの目覚めから起きる!

5月3日、533(いさみ)ナイトに先立って、木の花ファミリーでは毎年恒例の田楽田植え祭りが行われました。その時のいさどんの挨拶をご紹介します!

乾杯の前に挨拶をするいさどん ー 田楽田植え祭りより
乾杯の前に挨拶をするいさどん ー 田楽田植え祭りより

今年も毎年恒例の田楽祭がやってきました。先程、降神祝詞が奏上され、日常生活からは程遠いような神事が執り行われましたが、実はこれも日常生活なのです。わたしたちは人間ですから、いのちですよね。そうすると、地球の循環、そして他の星との宇宙の循環の中にわたしたちは常に存在しています。それが、わたしたちの日常なのです。

近年、人間は能力が高いがために、この地球を人間だけのもののように考えている傾向があります。そういったおごりの心が今、いろいろな意味で人間社会に行き詰まりをもたらしているのです。

ツケをそのままにして先に進むと、矛盾はあり続けます。そして、人の心が二極化する世の中がこれから訪れようとしています。つまり、今までの時代に興味を示さない若い世代が矛盾を無視し新たな時代を創っていくのに対し、今までのツケがこれからクローズアップされていきます。若い世代からすると、それは自分たちが残したものではないから責任を負いたくないと思っていますし、だからといって現実を見ても夢がないので、新たな価値観のほうに逃げようとしてそちらの方へ意識を向けてしまっています。そして、ツケを残してきたことに責任ある世代もそのツケを残しただけで、ツケの大きさを意識しない者もいれば、自分たちの犯してきたことに対して償いをしようとしない者もいます。また、どうにかするつもりはあっても、そのツケはどうにもならない段階まで来ているのです。

マスコミもそれについて報道はしますが、どのようにその矛盾を解消するのかという方法は見出せず、世論にそういった空気が起きないので手をこまねいて見ている状態です。矛盾を見てそれを償おうという気が起きないために、これからしばらくの間、二極化したおかしな時代が訪れることでしょう。本来ならば、そのまま素直に次の時代に移行すればよいのですが、これは移行期に現れる現象とも言えるのです。

今までの時代は、人間の可能性の探究の時代でした。人々はエゴを花開かせ、そのことによって夢見てきた時代でした。そして今、エゴを花開かせたツケの実態を知った者たちは、どうすることもできず呆然と立ち尽くし、そのツケを先送りにしている状態なのです。このツケは、もはや一部の者たちがどうにかしようとしてもどうすることもできない段階まで来ています。今の時代の主力の人々も、その異常さに唖然として対策も打てず、どうすることもできないのです。

昔の美しい自然をもう取り戻すことができないように、人間社会もツケが大きくなり過ぎてしまって、このまま放っておいて健全になっていくことはもはやありえません。矛盾が自然の中に蔓延してしまったら、それは解消できないのです。本来、自然のものであるならば潜象界へ還っていくのですが、人工のものはサイクルが長いので、浄化されるのにかなりの年月を要するのです。

人間の欲望が膨らみ過ぎてしまった今の世の中に対して、唯一の解決策は一体何でしょうか。それは、個人が全体意識に目覚め、一人ひとりが自らの分だけその責任を取ることです。そうすると、その意識のウェーブが起きて、解決に向かうことでしょう。

最近、財政健全化計画の話題が取り上げられなくなったのも、それは状況がどんどんひどくなっていくばかりで、それを言っても仕方がない状況になっているからです。社会全体がそのような状況になっているのです。

だから今、その唯一の解決策として、革命しかないのです。この革命は、一人ひとりの目覚めから起きます。これはその意識のウェーブの革命です。個人を観てみると、行き詰まりに出会い痛みを伴って目覚める者もいれば、「これはこのまま行くとダメだ!」とまだ行き詰っていないのに積極的に改善する者もいるとしたら、これからの時代はまだまだ前者の方が多いのです。それは愚かしいことでもあるのですが、今の状態がリセットされるために、わたしたちは行き詰まりや問題事に出会うようになっているのです。

そうしたリセットがどこまでも成らないとなったら、これは地球的矛盾にもなるので、天変地異や異常気象の力によって成るということなのでしょう。いずれにしても、地球にとっての自己矛盾でもあるのですから、これは時代と共にリセットしなければならない時が来ているのです。そういった意味で、霊的に地球を導いている存在たちの力だけでは、もはやどうしようもならない段階まで来ているということなのでしょう。

宇宙的に観れば、そういった現象はすべてダイナミックな波乗りのようにも捉えられます。それを小さく区切って捉えれば大変なことになってしまうのですが、そこを超越してしまえば、地球に起きたいろいろなウェーブの中のひとつにしか過ぎないのです。

わたしたちは自分たちだけを見れば小さな存在ですが、こういった小さな集いが大きくなって、世の中に問題をもたらすこともあれば、逆により良い社会を創るきっかけにもなります。人間が自然からいのちをいただき、他のいのちと循環し調和していることを表さない限り、天変地異や異常気象はこれからも起こり続けることでしょう。そして、自然からの警告だけではなく、人間社会の中だけでも矛盾が発生しているような今の世の中で、こうやって毎年自然に感謝し、自然からいのちをいただいていくことを天に誓い、自然とともにあるという謙虚な心を大切に生きていきたいものです。そういった意味で、今日をいのちをいただく儀式のはじまりとして、この一年を過ごしていきたいと思います。

ぜひ、これを機会に木の花ファミリーの健全な成り立ちと豊作だけを願うのではなく、豊かで平和な世界が訪れることを共に願っていきましょう。

 

〈田楽田植え祭りより〉
宮ノ下1

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533(いさみ)ナイトより④「やっと出会えたね」

533ナイトの最後にコメントを求められたいさどんは、次のように語りました。

 
いさどん:
この場が僕の誕生日を祝福する場所だとしたら、できれば皆さんにリクエストがあります。

わたしたちは約束のもとにこの世界に生きています。それを忘れていると、自らの都合だけで生きるようになります。約束を忘れていなければ、約束を果たすために生きるのです。そして約束のもとに生まれてきたということは、その約束を果たすことが生きる目的になります。そして、わたしたちは生きることで、必ず死を迎えることになります。わたしたちが存在する上で、これほど絶対の約束は他にありません。そして死を迎えたときに、約束を果たして旅立っていくことが最も大切なことです。

旅立ちを思い浮かべると、僕にはいつもイメージするフレーズがあります。忘れていた約束を思い出したとき、それから、それまでまったく縁のなかった人に出会いとても強いつながりを感じたときに、「ああ、そうだった!」と思い出すフレーズです。

わたしたちがこの道を歩んでいることは、生きることの中で一番意識していくべき大切な生き方です。それを最優先にして生きていけば、人生の始まりの約束のもとに、人生の終わりにそれを果たし旅立っていくときに、十分な達成感を得る方法なのです。しかし人生の途中では、そういった約束をついつい忘れてしまうものです。そこで、忘れていることを思い出すために、いろいろな出来事に出会うのです。

そういったときに、僕はどんなフレーズをイメージすると思いますか?それは、「やっと出会えたね」というフレーズです。僕は印象深い出会いを得たときに、「やっと出会えたね」と思うのです。そして、この心がどんなに伝わらなくても、いつか誰もがその約束を思い出し、必ず「やっと出会えたね」と思えるときが来るはずです。すべての人がそのような約束のもとに生まれてきているのです。ですから、僕のリクエストは、「何十年もの時をこえて」です(みんな、笑)♪

今、ここに「何万年もの時をこえて」というスライドが(笑)・・・・「何億年もの時をこえて」でしたね(笑)♪その中に、「やっと出会えたね」というフレーズが出てきます。

この曲は、人類が地球上に存在することの意味に気付くための目覚めの歌です。ですから、21世紀の人類へのプレゼントのような曲だと僕は思っています。時代はもう21世紀に入っているのですから、これからこの精神が世の中に広まっていくはずです。僕は「やっと出会えたね」とすべての人にいつも思っています。すべての人と出会うとき、すべての出来事と出会うとき、いつもこのフレーズをイメージするのです。

 
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今日のこの場は、ようこちゃんがいさどんに誕生日プレゼントをあげたいと思い、そこで何をプレゼントしたらいさどんが一番喜ぶのだろう、ということで企画されました。ようこちゃん曰く、「いさどんにとっての一番のプレゼントは人類の目覚めだ。そのためにはまず、ここにいる人たちがさらに目覚めるよう、みんなでこの生き方を再確認する時間を持とう」ということでした。そのようこちゃんの想いはまさに今の僕の心にぴったりです。僕の中には人々が目覚め、宇宙の奇跡である星を本当にわたしたち人類が奇跡として実感し、すべての生命がその生命の尊さ・豊かさを謳歌する、というイメージがあります。そして、そのために生きることが僕の人生です。今、現実を観てみると、そういった社会にはまだまだ程遠い感じがします。そうであるならば、どこかにその雛形となる場所を創らないといけません。

これは、かれこれ30年以上にわたるプロジェクトです。僕は以前、先程のエピソードの中に出てきた滝神社の氏神様から、「そなたはその役割のもとに生まれてきた」と言われました。ですから、そういった役割を果たす約束のもとに僕は生まれてきたのです。人はそれぞれの約束のもとに生まれてきています。その約束を果たすことがその人の生きる真の目的です。そしてそれを果たし満足して旅立つことが人生の喜びなのです。そうであるならば、僕はまさにそれを生きていることを実感しています。

今日、このような企画があることを僕はまったく知らなかったのですが、今ようこちゃんが話してくれたのを聞いて、「そこまで心が通じている人だったのか」と改めて思いました。そして、ここで歌われる歌は世間でヒットしてたくさんCDが売れるような歌ではありませんが、その歌詞は人々が生きる目的の一番として目覚めるための歌詞です。ここにはそういった曲を作るみかちゃんがいるのです。これは二人三脚のようなものだと僕はいつも思っています。僕が語ると長い話になりますが、同じ内容のメッセージをみかちゃんが歌うと、長くても5分で僕が伝えるメッセージを網羅して表現してしまうのです。昔はその役割の違いに嫉妬したこともありましたが(笑)、もしも今、僕がひとりで歌を作って歌って踊れて、ついでに英語まで話せたら、ようこちゃんもみかちゃんもいりませんね(みんな、笑)♪

そのように考えてみたら、この世界は調和であり、互いの個性を活かしながら、すべての生命がつながってもうひとつ大きないのち・地球という星をつくっていることがわかります。そういった意味では、ひとりの者がすべてをこなしてはいけないようになっているのです。ということは、みんなで力を合わせてやっていくということなのです。そうすると、その役割分担をそれぞれが任され、パズルのピースのような自分自身の人生を見て、いくつものピースがピタッとはまって完成するときに、その過程ではひとつずつのピースとピースが出会っていくのです。そのひとつずつのピースはオリジナルで、他に代わりがいません。そして、それが組み合わさっていくたびに「やっと出会えたね」という感情が湧いてくるのです。

いつかそれが完成するときに、「これがわたしたちの生きる目的であり、約束だった」と気付くことでしょう。一人ひとりが個の花を咲かせれば、それが全体として大木となり、大輪の花となるのです。それはすべてのいのちがつらなり、さらに大きないのち・地球という惑星を構成する自然生態系の姿そのものです。それがわたしたちの生きる姿です。

今日5月3日は憲法記念日です。毎年、憲法記念日のときには憲法議論が報道されるのですが、今年は特にそれが過激になっています。ですから、これからこの国をどうしていくのかを一人ひとりが真剣に考える時代が来ています。

僕が32歳の頃、次のようなビジョンが降りてきました。「いつかこの国を司る役割を持っている人たちがここを訪れて、僕に問いかけるのです。『私たちはこの国を本当に豊かで人々が幸せになるように、一生懸命治めようとしてきましたが、これはと思うことをいくらやっても、どうにも上手くいきません。本当に国を正しく豊かに治めるためにはどうしたらいいのか、そのヒントを得るためにここに理想を生きる人々の暮らしがあるのを聞いて、訪ねてきました。どうしたら、良い国をつくることができるのでしょうか。』それに対して、僕はこう答えるのです。『それは制度や仕組みを創ることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこにいる人々の心を見てください。このような心や考え方で人々が暮らせるような国創りをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。』」

地球全体の平和を考えないと、ひとつの国家、ひとつの地域、ひとつの家庭、ひとりの人間の平和はありえません。ですから、今や地球意識から銀河系意識で生きる時代が訪れているのです。地球は、たったひとつの天体として成り立っているのではありません。わたしたちは当たり前のように日常生活を送っていますが、その日常が宇宙的に言えばいかに奇跡なのか――そういったことの価値を真に理解するときが来ているのです。

宇宙に地球のような星は他にないのです。人間のような生命も他にはいないのです。ですから、地球上に人間として生きることは、宇宙の奇跡です。それを表現していくことは誰にとっても尊いことであり、大切なことです。

今、僕はこの道を疑うことはありません。これは天の道であり、時代の意志を受けたものが生きる道なのですから、地球と天体の約束が外れることがないように、そのことを理解した僕もこの道から外れることはありません。微妙なずれもそのうちに入っていて、その天体が織り成す地球上の歴史も約束のままに紡がれていくのです。

確かなことは、わたしたちが託された約束を果たしたときに、わたしたちが想像もできないような世界があるということです。それは、僕も行ってみないとわかりません。ただ、そういった世界があるということです。ぜひ、この肉体があるうちにその景色を見て、旅立ちたいものです。今日はみんなの意識からそういった目的の場所を感じ取ることができました。ありがとうございます(みんな、拍手)!

 

 


533(いさみ)ナイトより③「どんな大海を行く者も その始まりはふるさとに降るしずく一滴より始まることを忘れるな」

僕が30歳でお釈迦様との出会いをいただくようになってから、宇宙の真理や人のあるべき生き方を世の中に広める場を創ろうと思っていました。そんな僕に対して父親は、「夢というものは見るものだ。そして夢というものはいずれ褪せて、それがはじけるものだ」と思っていたようです。僕のプランは40歳でお金儲けをやめて、日々を世のため人のためにお返しする人生を始める、というものでした。そしてその日が近づいてくると、父親の予測とは逆に、どんどん僕の想いは熱くなっていったのです。そして、僕が40歳になって、いよいよそれを実現しようということで、仕事を辞めて両親のところへ行き、両親の面倒をみながら、農業の勉強をし、人々にもそういった心を伝えていこうと自分の生まれた土地に移り住んだのです。

当初、僕が田舎へ戻ったことを両親は喜んでくれていました。ところが、僕が思っていた親孝行と、両親が考えていた親孝行には大きな違いがあり、両親は息子が商売でもっとお金を得て、豊かな生活をするというような一般的な価値観を自分たちの喜びとしていました。しかし僕は、世の中が良くなって、みんなが助け合って暮らせる幸せで平等な社会を創りたいと思い、そのために自らが生まれた土地を活かしていこうと考えていたのです。その結果、両親は僕の理想を理解できず、悩むことになってしまいました。

ある日、父親は僕にこう問いかけました。「おまえな、世の中のためって言うけど、日本にはどれほどの人がいると思うんだ。ましてや、世界にはもっと沢山の人がいるぞ。おまえ一人そんなことを言って、世の中が変わるか?」

そこで僕はこう答えました。「そういう親父のような人が世の中に沢山いるから、世の中が変わらないんだ。そういった人の理屈では確かにそうかもしれないけれど、塵も積もれば山となるというように、そんな人ばかりいるから、今の世の中のようになっているんだ。だから、人にどうしろということは当てにならないが、自分の行いだけは自分の責任で、ひとり分だけ世の中を変える!それは、絶対に出来る!そうしたら、それを見ていた人がわたしも!と言って変わっていく可能性が生まれる。そして、それが広がっていけば、いずれ70億の人が皆そういった考えに変わっていく可能性につながる。もしも、自分がそういった考えを持っていながら、それを怠ったら、すべての可能性が消える!」と伝えました。そして心の中では、「僕がひとりその志を持っているにもかかわらず、親に言われたからと言ってやめてしまったら、世の中は変わらない!」と思っていました。そうしたら、父親は「おまえってやつは、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うといって、どうしようもないやつだ」ということであきらめてくれました(笑)。

その後、ある朝、僕が2階の部屋から下へ降りようとしたら、両親が下でテレビを観ながら話しているのが聞こえました。二人は「どうしたものか。世間の人が息子を見たら、いい若いもんがどこか具合でも悪いのだろうかと思ってやしないだろうか・・・」と悩んでいたのです。それで僕は父親にこう伝えました。「僕も40歳を過ぎたんだよ。そうしたら、早い人は孫もいるよ。僕はもう子どもではないのだから。親父だったって、若い頃は父親の言うことは聞かないで、『俺は筋を通してきた』って言っていたじゃないか。僕も40歳を過ぎたのだから、『老いたるは子に従え』という言葉があるように、子どもの方針を認めて、それに賭けてみたらどうだ」と言いました。しかし父親は、息子の人生イコール自分の考えの延長にしたかったのです。そのあたりで、父親の考えと自分の考えが違っていたことが明らかになってきました。

僕としては、家長制度が壊れていく本家の古田家を盛り返すということと、平成の二宮金次郎が世の中に現れてもいいだろう、という想いでふるさとに戻ったのです。そして、ふるさとで人のあるべき生き方を世の中に広める場を創ろうと考えていたのです。

しかし、父親の想いを受けて、僕は気が付きました。自分は親孝行をしていたはずなのに、与えようとする意識とそれを受け取る意識の価値観が違うがために、親不孝をしていることがわかったのです。親孝行や人を想うことは、相手と通じたときに価値があるのです。どんなに相手を想う心であっても、それがいかに尊くても、相手と通じなければ意味がないと考えたときに、自分は間違っていたと気付きました。その極めつけとして、「自分は世のため人のための人生を生きると言っておきながら、結局自分の先祖や両親を優先して考えていた。ここにも我があることを知って、天はこの我も取りなさいと教えてくれているのだ」と気付き、親元を離れ、富士山へ行き、この生活をしようと決意したのです。

このようにして、ふるさとでの理想郷づくりを半年で断念した僕は、ふるさとを出発する当日、その志を滝神社の氏神様に報告しに行きました。そうしたら、氏神様から次のような言葉が降りてきました。「そなたのことは、上の神様より聞いておった。そなたがここに来て、わたしを盛り立ててくれることを喜びとしておった。だから、まさかここで別の地へ行くとは思わなかったが、それは理解できる。旅立ちのはなむけに、言葉を送る。どんな大海を行く者も、その始まりはふるさとに降るしずく一滴より始まることを忘れるな。」そこで、僕はその意味をこう解釈したのです。「この言葉の奥には二つの意味が隠れている。一つは、氏神であるわたしがそなたの魂の親であることを忘れるな。そして、そなたは肉の親とは心が通じなかったと思っているかもしれないが、そなたのふるさとである両親のことを忘れるな。」

それから月日が経ち、僕が42歳で富士山麓に移住してから、父親は持病が悪化し入院していました。僕も時々富士山から岐阜の病院へお見舞いに行っていたのですが、父親と僕の間には心の壁ができていました。父親からすると、最高の息子ができたと思って僕に賭けていたのが、自分の思惑と違う息子の生き様を見ていつも悩んでいたのです。父親が亡くなる1週間前、僕のいないときに父親はおふくろにこう言ったそうです。「おい、もしかして、あいつの言うことのほうが本当かもしれんな。」そう言って、父親は亡くなっていきました。

しかし、僕には不満でした。「わかるのであれば、生きている間にもっと明快にわからなければいけない。そんなツケを残したような形のわかり方ではダメだ」と思いながら、父親の葬式の日が来ました。僕は父親が生きている間にそれを伝えたったのですが、何しろ死ぬ間際でしたし、昔の人にそのようなことをわかれとは言えませんでした。しかし、肉体がなくなって魂だけになれば、親子ということではなく、魂同士で思う存分伝えられると思ったのです。それで、昭和天皇様が亡くなられたときに声をかけたように、僕は父親の葬式が終わってみんなが帰っていった後、仏壇に向かって、「親父、何もして行かなかったな。古田家は、後は自分のことばかり考える兄弟たちだから、もう決着がつかなくなる。あなたは筋道を通すと言うわりには、何も筋道を通さずに終わったじゃないか」という意味で、父親に死んだ心境を尋ねました。死んだ限りは僕と対面すれば、僕の心が何ものかがわかると思って語りかけたのです。そうしたら、父親はこう言いました。「俺にはようわからんがな。でも、これで良かったそうだぞ。」

そのとき、父親の魂の上を観たら、そこに光が観えたのです。それで、「父親は光を観たのだ」と思い、僕は気付きました。父親は自分が誇れる最高の息子を得たと思っていたのに、ガッカリして旅立っていったのです。ところがそうではなかったということと、僕は僕で「このケジメをつけない人は何なのだ!」と思っていた人が、実は神様の使いだったのだと気付き、お互いに発見したのです。

そのときに僕はこう思いました。「どんな人であっても他人というものはこんなに赤裸々に人間の愚かしさや矛盾を見せてはくれない。しかし、僕の両親が本当に赤裸々に人間の矛盾を見せてくれたことによって、自分は人というものを学ぶことができた。両親が無理解だったからこそ、自分は大きな道を歩めるのであって、もし両親が自分の想いを理解してくれていたなら、自分はこの小さな山の中で暮らしていたかもしれない。そうしたら、僕の人生はまったく別のものになっていただろう」と。ふるさとにいることと、大海を行くことの意味はまったく違うのです。

だから、すべては神の成せる業だと気付きました。思うようにならないことも、思うようになることもすべて、天の意志なのだと。しかし、そのようにこの世界を受け取っていないと、わたしたちは都合の良いことだけを天の意志だとしてしまうのです。

しかし、真実は、自らの襟を正して生きていくことが大切です。そして自分が生きた結果、世の中が襟を正していく ―― それが真の生き方です。

 

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by 木の花楽団