宇宙そのものとして生きる時代へ ~収穫感謝祭でのいさどんの挨拶

2015年12月16日

今年も暮れを迎え、これから新年を迎えるための新たな気持ちになるために、この行事を執り行う時が来ました。ちょうど昨日、ここで2年間開催されてきたカタカムナの学びに区切りをつけました。そして今日、一年の締めくくりとして収穫感謝祭を迎えるということは、そういったことを計算していなかったにも関わらず、なぜこのように物事の段取りが進むのだろうか、と今朝思っていました。それは、わたしたちが日頃から自分たちの都合で生きているのではなく、天や観えない世界を意識しながら生きている証なのでしょう。そして、これこそが時代の流れであり、この世界の道理だと確認する機会となりました。

今日は収穫感謝祭ということで天津祝詞を奏上しましたが、本来そういった祝詞はご利益を願うものではありません。ところが、人類の歴史を振り返ってみると、1000年も2000年もの間そのようなご利益主義が続いてきましたから、人々は知らない間にそのような場で自らの都合を願うようになっているのです。今の世の中で人々は地鎮祭やいろいろな神事を通してこのような祝詞に出会うのですが、その中身を理解してそこに集っている人はほとんどいません。しかし、ここに天津祝詞の解説がありますのでそれを見ていきますと、この宇宙の法則を天はわたしたちに示しており、神々に対してこの世界を清めてくださるようお願い申し上げるのが天津祝詞の精神ですと書いてあります。しかし、そのこと自体が宗教化しているのです。神々に対してこの世界のことをお願いする前に、本当はわたしたち自身がこの世界そのものなのであり、宇宙そのものであることを理解し、生きることが大切なのです。

先日、タイの僧侶であるプラ・サンコンからの招待を受け、彼の寺院に新たに建立された仏塔の落成式と仏像の開眼式に参列しました。その翌日にお話しする機会をいただきました。そこでわたしがお話ししたことは、お釈迦様から導きやご利益をいただくことではなく、お釈迦様の精神イコール宇宙そのものであり、それが本来の人のあるべき姿だということです。ところが、しばらくの間人々はそういったことを忘れ、自然に対して負荷をかけ、自分たちにとって都合の良い世界を求めてきたがために、今の地球上には様々な矛盾が起きています。しかし本来、わたしたち自身の中にもブッダの精神が眠っているのだとしたら、自分が何を想い、何を言い、何を行うかによって、わたしたちは天津祝詞に示された通りの世界をもたらす存在にもなるのです。それは、天がわたしたちに秩序を与えるように、わたしたち自身もこの世界に秩序をもたらす存在になれるのです。それは、天人一体の世界を認識したものたちが生きることによって可能になるのです。そして、それこそが本来の宗教の姿であり、人のあるべき姿なのです。今、人々がそういった精神の原点に立ち返る時が訪れています。

昨日、カタカムナの学びの場に一区切りをつけたのは、わたしたちがそのことを理解したものとして、その精神を生き、それを最優先に生活に表していく時が来たからです。それが天や宇宙と一体の生き方です。昨日から今日になるのも、一年が経つのも、すべて宇宙の仕組みです。わたしたちはその中で生きているのですから、わたしたちは宇宙そのものなのです。したがって、わたしたちの日々の考え方も宇宙そのものでなくてはならないのです。

先程、畑隊、田んぼ隊、そして大町ビレッジの代表の人たちから挨拶がありましたが、皆の話には筋が通っていました。これは、ここ全体がそのようになってきたからこそ、筋が通っているのです。2012年12月21日に銀河の冬至を迎え、新たな時代を迎えるための3年間の準備期間を経た今、2016年の「発信」の年に向けて皆の中にそういった心ができてきたと感じました。

今回カタカムナの学びに区切りをつけたのも、それは単純に方針が変わったということではないのです。学んできたものをしっかりと会得し生活に表していくという意味では、ただ学びが提供されるのを待っているだけではダメなのです。しかし、今まではそういった時代がずっと続いてきましたから、優れた者とその学びをもらい導かれる者の差ができてしまったのです。そのため、今の時代は格差の時代です。格差のために、貧富の差などいろいろな矛盾が発生したのです。しかし本来、この世界は全く平等な世界です。一人ひとりが当たり前に持っている個性が存分に発揮され、誰もが必要とされ、無駄なものは何ひとつないのがこの世界の本質なのです。そういったことをわたしたちはこの生活を通して表現してきましたし、ようやくそれがここ全体で表現できるようになってきたことを今日感じています。そして新たな年を迎えるのです。

今、いろいろなことが変化する時代を迎えています。そこで、なぜ今のような地球規模の変化が人類に与えられたのかというと、これは現代人によってもたらされた地球の近年のカルマの表れです。ですから、わたしたちはカタカムナと出会い、自らのカルマをそぎ落とし美しくすることを会得しましたし、そのことの重要性を理解しました。地球のカルマが人間の欲望によって汚れてしまっている今、わたしたちもその火の粉をかぶらないわけにはいかないのです。その時に、それを越えていく叡智をこれからわたしたちは発信していくのですし、汚れ歪んでしまった自然とどのように向き合っていくのかを考えていくためには、心にしっかりとした柱が立っていなければいけません。そのことをわかったものとして揺るぎない信念を持ち、歩んでいく時が来たのです。

わたしたちの人生を考えたときに、長い人生を望むのか、それとも短い人生を望むのか。そこでは長い人生を望む者もいれば、短い人生を望む者もいます。それは、その人の意識がどこにあるかによって、全く正反対のことが起きるのです。それと同じように、今、社会的に観てもたくさんの混乱が起きていますが、これを生かしていくことを考える者もいれば、右往左往する者もいるのです。それは、その者がどこを観て、どのような精神でそれを観ているかによって全く違う解釈になるのです。

ということは、この世界の解釈は自由自在だということです。今というこの時代は一度きりしか来ないのですから、それを自分の都合の良いように解釈するのではなく、なぜこのようなことが起きたのかをもう一つ違う視点を持って捉えていくことが大切です。わたしたちが毎日当たり前に起きていること、呼吸すること、一秒が経つこと、一日が経つこと、一年が経つこと、そして寿命を迎えて死んでいくこと、こういったことすべてが一体どういうことなのかを、よく考え理解する時代が来ているのだとつくづく思います。

今年は、作物の収穫という点では今までになく厳しい時代だったかもしれませんが、ここではたいへん充実した一年だったと思うと、たくさんの収穫があったと感じています。収穫には、物理的なものと霊的なものと両方があります。その両方の収穫を豊かにいただいていくために、今年は多くの新たな出会いがありました。来年、わたしが関わるプロジェクトだけでもたくさんあり、それは社会を豊かにするためのプロジェクトです。その新たなものを挙げますと、ニーム・ミミズ・蓮池・マコモ・メダカ・エキウム・マヌカ・・・といろいろなプロジェクトがありますが、それは自分たちの都合によって自然を変えることではなく、元々自然にあるものの力を借りることなのです。

来年、まず一番に力を借りるのは、バクテリアの力です。そのリーダーが光合成細菌の力です。今の世の中にはすでに汚れが蔓延していますから、わたしたちがいくらカタカムナを奏上して美しい響きをもたらそうとしても、それだけでは不十分です。そこで、ニームやミミズ、光合成細菌といったものの力を借りて、厳しい環境を乗り越えていくことが必要です。そういったものは世の中に害をもたらしません。虫の中にも害虫化してしまったものがいるとしたならば、ニームにはそういったものを選り分ける能力があると言われています。たとえばミミズでも、「この土なら繁殖して土作りします」という土と、その土を嫌いミミズが引っ越していく土があるのです。自然はそういったことを知っているのです。その力をもらいながら、次なる豊作をわたしたちは享受していくのです。これからそういった情報を世の中にも提示する時が来ていると思うと、未来はとても楽しみです。

来年一年は「発信」の年でもあり、同時に冬眠期間でもあります。つまり、しばらくの間しっかりとそのデータを蓄積して充電し、いずれ世に知らしめるための年なのです。今、わたしたちはそういったことに対してふさわしい段階に来ていると思うと、物理的な収穫という意味ではいろいろな困難な時代を迎えながらも、必ずそこを越えていく答えがその先に現れてくると思い、来年は希望ある年だと感じています。一人ひとりの中にそういったことに共鳴する心が湧いて、その心が高まってくると、ここは新たな時代を迎える雛形として十分価値ある場となります。そして、そこで生きることは誇りを持って人生を終われるということです。

今日の収穫感謝祭ではまず降神祝詞を奏上し、神様に降りていただいて、神事を執り行いました。世の中に宗教はたくさんありますが、こういったことを現実のこととして、頭の中でイメージする人はほとんどいません。しかし、現実にわたしたちは天と共に生きているのです。そして、自分の中にいのちとして神が生きているのを理解する者なのです。

今日はとても良い一日でした。昨日の一区切りを迎え、わたしたちはただ勉強しているのではなく探究していることを伝え、けじめをつけたところで、今日の収穫感謝祭を迎えたということは、まさしく天の計らいと感じました。誰がこの段取りをしてくれているのでしょうか。それは、天とわたしたちが共に行っているのです。それが、天と共に生きるということです。これからも、地球と共に、宇宙と共に、天と共に、神人一体の生活をしていきましょう。
  

新米の御神酒を手に、新たな時代に向かってみんなで「乾杯!!」
新米の御神酒を手に、新たな時代に向かってみんなで「 乾杯!」

 

 


21世紀の人のあるべき姿 ~後編~

前編からの続き 〉

いさどん:
さらに、僕がどの星から来たのかということにも、ある時気が付きました。それは、富士山麓に移住してからのことです。毎日夕方になると、空には強い光の金星が見えました。僕はその星がとても気になって仕方がありませんでした。そして、「なぜあの星がこんなに気になるのだろう?」と思ってじーっと眺めていたら、金星は僕に対して何か言葉を言っているのです。その言葉とは、「早く帰ってキンセイ!」そして、その星を見ていると、僕のふるさとだ、懐かしい、帰りたいという気持ちが湧くのです。それで、僕はあの星から来たのだと気付きました。その以前から、僕は他の星から来ていたことは感じていたのですが、それが金星だったのだとその時初めて納得したのです。

みかちゃん:
ムルンくんも金星人のようですね。

いさどん:
そうですね。

みかちゃん:
金星は、太陽系の中で女性性や美、五感、芸術、豊かさを司る星であり、お釈迦様やキリストなど地球の霊的長老たちは皆、金星を経由して来ています。

いさどん:
昭和天皇もそうです。今、地球上にはだいたい一万人ぐらいの金星人が来ています。そして、地球上にちりばめられているのです。太陽系の中では水星が一番太陽に近いのですが、金星はその次に太陽に近い星ですよね。

ムルン:
僕は太陽のエネルギーをよく感じます。

いさどん:
面白いことに、わたしたちはカタカムナに出会う前に地球暦というものに出会って、太陽系を紐解いてきました。地球暦で観る太陽と惑星の関係から、その人の魂の形やどのような人生を生きるのかを紐解いていたのです。実は、その前に僕は30歳の時から人の名前でカルマを読み解く手法を天から与えられていました。そのカルマ読みに地球暦の己読みが合わさり、そして今、カタカムナに出会ったのです。そうすると、ヒフミヨイムナヤコトというカタカムナで紐解かれるこの世界の仕組みと、太陽系の太陽から冥王星までの仕組みが見事に一致していることがわかるのです。面白いのは、ヒフミヨイが潜象界を表し、ムナヤコトが現象界を表すのですが、地球暦では太陽・水金地火で内惑星を表し、木土天海冥で外惑星を表すのです。そして、火星と木星の間はとても距離があり、その間には小惑星帯もあるのです。

みかちゃんとボード

みかちゃん:
火星と木星の間の小惑星帯は、人間の魂で言うカルマがあるところなのです。地球暦の内惑星は個人の内面の指標になっていて、木星と土星は社会性を示し、ここまでが目に見える星です。その後の天海冥は近代になって望遠鏡が発明されてから発見された星なので、占星術では土星から先はないのです。だから、占星術では土星が一番長老的な星だったのですが、実は見えないところに時代を司る天王星や精神性を司る海王星、そして悟りを司る冥王星があるのです。

ムルンくんの地球暦を観ると、ムルンくんにとって太陽系の中でも縁の深い星があって、たとえば金星と海王星、そして水星と冥王星が「開き」の関係にあります。

いさどん:
水星は直観を司る星ですので、水星と冥王星の開きから、太陽から来る直観で悟りを表現したい気持ちが強いことが現れています。

「開き」というのは、太陽をはさんで一直線上にふたつの星が向き合っている状態です。ですから、太陽の意志を通して直観を受けたら、悟るぞという想いが湧いてくるということです。それに対して、もし太陽に対して同じ側の一直線上に水星と冥王星があるとしたら、それは「結び」という関係になります。水星と冥王星が「結び」の関係だと、自らの道を直観で悟って進んでいく人になりますが、あなたの場合は「開き」の関係になっていますので、太陽の心を直観で受け、悟りを世の中に示し伝えていくことがあなたの役割になります。

さらに、金星と海王星も開きの関係にあります。金星は女性性・愛・喜び・豊かさ・美・五感・芸術を司る星であり、海王星は精神性・夢・ロマン・想像力・信仰・奉仕・ユーモア・癒しの星です。ですから、あなたはそういった精神性を世の中に広げていく人なのです。

ムルンくんの地球暦
ムルンくんの地球暦

海王星と冥王星は連携してスイッチが入っていないと、意味がないのです。なぜかというと、海王星と冥王星は軌道が時々入れ替わるので、このふたつはセットになって働く星なのです。あなたの地球暦の場合、太陽という大本の心に一番近い水星(直観)と金星(愛・女性性)が太陽系の一番外にある海王星(精神性)と冥王星(悟り・究極の真理)とつながっているので、これから世の中に対して大きな役割を果たしていく人ということですね。

面白いのは、あなたの地球暦には地球にスイッチが入っていません。地球は生命活動・肉体・家族・経験・多様性・変容・変態・文明を表す現象化の星なのです。そうすると、あなたの地球暦には地球にスイッチが入っていないので、現象化をしない人ということになります。あなたの場合、それはどういうことかというと、自らの想いは現象化しない人、つまり自分のことはどうでもいいと考える人なのです。ですから、あなたは自分のことよりも、世の中に大事を広めていくことのほうが大切なのです。

こういう人が一般社会で生きていると、たとえば一生懸命勉強してお医者さんになろうとか、何かの技術を会得して専門家になろうと努力したとします。そして社会に出て行くと、その自らの想いが現象化しないのです。ですから、普通に一般社会で生きていたら、生き辛さを感じてニートや引きこもりになったり、会社で働いても適応しない人になります。ところが、あなたは自分のために生きるのではなく、大事な生き方を世の中に示していく人なので、そこに生きる道があるのです。ムルンが27歳までほとんど社会に出ないで、大事な志とともにこのような活動をしてきたことは、まさしくその表れです。このような人は世の中のために生きているので、世の中がこの人を生かすのです。それに対し、自分のために生きている人は、自分で食べていかないといけないので、一生懸命自分のために頑張って生きるのです。その姿を「四苦八苦」と言います。

地球暦の場合、ある惑星のスイッチが入っていなかったり、破線があるということは、一般社会では欠点にもなります。しかし、人の性質によってはその欠点が個性にもなりうるのです。

僕の地球暦を観ると、土星にスイッチが入っていません。それも、ぴったり夜明けの位置でスイッチが入っていないのです。土星は組織的行動・安定化・秩序・システムの星ですから、それはどういったことを示すかというと、僕は絶対一般の会社では働けない人だということです(笑)。つまり、今の社会の中で生きるには社会性がないということです。それで、僕は今の社会とは違う生き方をしているのです。僕はこの生活を始めた40歳の頃からお金の工面で苦労したことがありませんが、世のため人のために生きていれば、そのような苦労がなく安心して生きていけるのです。世の中のために人が生きたら、世の中がその人を生かしてくれるのです。ですから、常に宇宙を観て生きていたら、宇宙が生かしてくれるのです。

いさどんの地球暦
いさどんの地球暦

このように、どの位置に自らの意識があるのかが大切なのです。そして、自らの意識が今どの位置にあるのかは、毎日の生活を通してそこにある思考からわかるのです。毎日食べるために一生懸命になって、自分のことだけで生きているのか、世の中のことを憂いているのか、さらにそういったことを全て超越し宇宙的視点で生きているのか。毎日自分が何を考えているのかによって、カタカムナで言う、ヒ(一)からト(十)の間のどの位置に今自分がいるのかがわかるのです。

今まであなたが自分の本当の想いを伝えても、まわりの人たちはよくわからなかったですよね。これからは、皆がそれをわかるように伝えていく段階に入ったということなのです。

ムルン:
そうですね。今までは僕に知識が足りなかったのです。「わかるように説明してください」と人から言われても、いさどんが今語っているような知識がないとダメなのです。だから、先代の智慧である物理学や天文学をしっかりと学ばないといけないのです。

みかちゃん:
わたしたちも地球暦に出会ってからカタカムナに出会ったので、この世界の仕組みや人の性質についての理解が深まりました。

いさどん:
その前に、僕に天からカルマ読みが降ろされたのです。カルマ読みで人の魂を読みながら、僕はニート・引きこもりやうつ病の人にアドバイスをしてきたのですが、そこから地球暦に出会い、地球暦を通して人の天命や役割の紐解き方をここで開発していったのです。

みかちゃん:
これからの時代、太陽系の中でも金星の役割は大きいと思うのです。それは、金星は心磨きを大切にする星だからです。

いさどん:
男性性や行動力といった火星の「陽」に対し、女性性や愛を示す金星は「陰」の星なのです。ですから、金星はどちらかというと表面的にはわからない存在なのです。今までの時代は形に表し行動することを優先してきたのですが、その奥にある現象をこの世界に産み出す力は女性性であり、陰が主になって事が起きていくことが大切なのです。「陰陽」とは、陰が先で陽が後に来ますよね。ところが、今の時代はそれが「陽陰」と逆になっているので、形を先に求めてしまうのです。これは、「霊主体従」と「体主霊従」の違いですね。これからは、「霊主体従」という、心が主になって形が後からついてくる時代です。ですから、これからは金星の時代でもあると言えますね。

ムルン:
確かにこれからは金星の時代ではあるのですが、実は陰陽を超えていく時代でもあるのです。

いさどん:
まったくそうですね。

みかちゃん:
それは、物質至上主義社会が終わって単に精神世界が始まるということではなく、統合した世界が現れるということですね。

ムルン:
それが大切なのです。これからは陰陽を超えて、直線的にまっすぐ上へ上がっていく時代なのです。

いさどん:
時代がこれから大きく転換する時に、カルマ読み・地球暦・カタカムナという魂の状態を紐解く3つの仕組みが今ここに伝えられているのです。これをこれから世の中に広めていくことが大切だと感じています。

ムルン:
そうですね。誰でもこうしたことを学べる能力を持っています。これからは、一人ひとりが目覚めていくことが大切なのです。

いさどん:
人間には一人ひとり使命があって、その人がなぜ生まれてきたのかという理由がそれぞれにいくつもあるのです。わたしたち一人ひとりはオリジナルなカルマを持っています。人間は、動物や植物よりはるかにカルマが多く、その分だけ役割も大きいのですが、その使い方を間違うとこの世界に大きな害も引き起こすのです。自らの存在が地球にとってがん細胞にもなれば、正しく生きるとこの世界を正しく導き、天の法則と共に地球を司ることもできるようになるのです。これを「クニ(国・地球)ツクリ(創り)」と言います。カタカムナで「クニ」の思念を紐解くと、「クニ」とは自由(ク)が定着(ニ)したという意味になります。ですから、人間が地球上で生きる目的は、自由に自らを表現し、そして豊かな生命世界を創ることなのです。それが、本来の人間の姿なのです。

しかも、その自由とはある枠(宇宙秩序)の中の自由のことなのです。つまり、枠の中で王道を究めるということです。このように今まで隠されていた古代の叡智が紐解かれていくのが、これからの時代です。古代東アジアに存在していたカタカムナ文明は12900年前にピークを迎え、6450年前に消滅し、そこから現在の物質文明の元が始まりました。そうすると、カタカムナの叡智は今、6450年ぶりに復活したのです。カタカムナの文献は1949年、つまり終戦の4年後に発見されました。ですから、戦争が終わっていよいよそのような叡智が紐解かれる時代になったということで復活し、そしてそれがある人たちによって研究され、今それが世の中に広がる段階に入ったのです。

このように、この世界には流れがあって、その流れの中で自分はどういった意味があって生まれてきているのかという目的があるのです。その一つは個人としてのカルマをきれいにするために、現象化する地球に現れ、いろいろな出来事に出会うことによって自らを知り、カルマをきれいにして元の世界へと還っていくことです。

そしてもう一つの目的は、クニツクリです。地球に対してわたしたちは大きな使命を受けているのです。法華経に「依正不二(えしょうふに)」という言葉があるのですが、依とは人間以外のこの世界の生命全てを指し、人間のことを正法、それ以外の存在のことを依法と言います。正とは人間のことですから、人間が正しい道を表すと、この世界の全てが健全になるという不二一体の状態が、まさしく世界の実体なのです。逆に、人間のあり方が正しくないと、この世界の全てのあり方は間違ってしまうのです。今、まさしく人間のあり方が間違っているので、地球環境が破壊され、多くの生命が絶滅していき、この世界は問題だらけです。ですから、人間には自らのカルマを超えて、この世界のために正しく生きる道が示されているのです。

宇宙を想像してみてください。宇宙に地球のような星は他にありません。この広大な宇宙の中で地球だけに特別な生命が現れ、言わば地球は生命の海の星なのです。そして、280万種いると言われる地球生命の中で、人間だけが特別なのです。人間は宇宙の中でも特別の特別の特別の存在であり、特別の特別の特別の使命を帯びているのです。今70億人いる人間一人ひとりが特別な個性を持って生まれてきているとしたら、一人ひとりにとてつもなく大きな使命が与えられているということなのです。

その真の人間の能力を知って、真の役割を果たしていく扉が開いたのが、2012年12月21日なのです。これは、25800年ぶりに扉が開いたのです。ところが、25800年というのは太陽がたった一螺旋を描いただけなのです。太陽が銀河を一周するスケールから観ると、これは約9000回の螺旋のうちのたった一回なのです。ですから、どの位置に自らの意識があるのかによって、何万年単位・何億年単位で物事を捉えることもできれば、今日一日の生活に四苦八苦することにもなるのです。

そのように、意識次第で人間は本当に小さな存在にもなれば、それこそ宇宙全体を悟り、宇宙を運営するものにもなるのです。これからは宇宙時代ですからね。今、人間たちは世界をどうするのかの突破口が見出せていない状況ですが、21世紀は1000年の道の始まりでもあり、宇宙をこれからどう運営していくのか、天界の神々と共に人間が考え行動していく天人和合時代の幕開けなのです。

僕の中にはそういった想いがたくさん満つっているのです。そして、語ればいくらで出てくるのです。僕は1000年契約で地球に来ていますので、今回が地球上で人として肉体を持つ最終輪廻なのです。ですから、この契約が終了するとまた宇宙へ戻っていくのですが、その前に自分の知っているものを全て表現していくのです。僕の役割は伝えることです。そして、それを現象化するのは、皆さんであり、次の時代の人たちなのです。わたしたちは、時代のプロセスを役割として生きているのです。

ムルン:
その通りですね。とにかく、今の時代はこれだけの叡智が紐解けてきたのですから、これからはそれを仕組みとして表していきたいと思っています。皆さん、今後ともどうぞよろしくお願いします!

イベント終了後、参加者の皆さんと一緒に
イベント終了後、参加者の皆さんと一緒に

 

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2016年2月14日〜3月12日
木の花塾「1ヶ月間の真学校」を開催します!

名前からその人の陰陽と心の性質を知るカルマ読み、生まれた日の惑星配置から使命を読み解く地球暦、そして日本語48音の一音一音に秘められた思念からその人の最も純粋な魂のかたちを解き明かすカタカムナ。
この“三種の神器”を通して自らを紐解き、私たちがこの世界に生きる真の意味を学ぶ1ヶ月間を過ごしてみませんか。

宇宙おじさん4視点が変われば、世界が変わる。

木の花ファミリーという実践の場で生活することを通して、机上の学びでは終わらない実践力を身に付けます!

【 日 程 】
2016年2月14日(日)〜3月12日(土)

【 会 場 】
木の花ファミリー
静岡県富士宮市猫沢238−1

【 対 象 】
■ 自分を変えたい人
■ 世界を変えたい人
■ 今の世の中をどこかおかしいと感じながら、どうすればよいかわからずにいる人
■ それまで知らずにいた本当の自分自身を知り、真に人生を謳歌したい人
■ この星に生きる人 すべて
☆ その他、2015年度受講生からは以下の人に薦めたいという声が上がっています。

■ 漠然とした不安がある人
■ 自分も他人も責め続けている人
■ 人を信頼したいという思いはあるが、できない人
■ 未知の世界があることを知りたい人
■ 出会った人 すべて
(詳細は受講生アンケートにてご覧頂けます。
→ 受講生アンケーヘ)

【 内 容 】
講座は「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多岐に渡りますが、全講座に共通して学ぶことは、物理的な現象の奥に流れる深い精神性です。それまでに考えたこともない新たな視点に出会うことで世界観を大きく広げ、今社会はどのような状況にあるのか、その中で自分は一体どういう存在であるのかを紐解いていきます。
〈 講座一例 〉
人格を学ぶ講座(カルマ読み・地球暦・カタカムナ)/天然循環法の畑作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/性と宇宙/自然再生と災害復興/持続可能な心の持ち方

*その他、誕生日会や季節の祭事、地域の食事会などのイベントも盛りだくさん!生活の様々な場面を通して、互いに助けあいながら宇宙の流れにそって生きる豊かなコミュニティの暮らしをリアルに体感できます。
*上記講座はあくまでも一例であり、プログラムは固定されていません。受講生との双方向の掛け合いにより、その時、その場で、もっともふさわしいものが提供されていく、誰にも予測不可能な世界に二つとないプログラムです。
(→ 2015年度レポーをご覧ください。)

【 主 催 】DSC00081
NPO法人ぐりーんぐらす

木の花ファミリーを母体として様々な社会貢献事業を行っているNPO法人です。

【 共 済 】
木の花ファミリー

詳細は、こちらをご覧ください!
「1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー」

150313-225932
2015年度「1ヶ月間の真学校」卒業生による修了パーティー

 

 


21世紀の人のあるべき姿 ~前編~

2015年10月31日から2日間、内モンゴル出身の27歳のムルンくんが企画した「古代日本と遊牧民族の叡智が融合し未来を創造する~モンゴルの草原から来た青年の吹き起こす風 第一章『大地』」と題したイベントが木の花ファミリーにて開催されました。その2日目に行われたムルンくんといさどんの対談の様子を以下にご紹介します。

※なお、9月10日に行われたムルンくんといさどんの対談は、「地球談話を実践する人々~ムルンくんといさどんの対談」からご覧になれます。

 

宮ノ下広場にて お祈りをするムルンくん
宮ノ下広場にて お祈りをするムルンくん

いさどん:
今朝、木の花ファミリーの聖地である宮下で儀式をしているムルンを観て、ムルンという人を紐解いてみたら面白いと思いました。僕も30歳の頃から普通ではない人生を歩んできましたが、ムルンは30歳前にして力強い志とともに一途に生きています。そして、それはこれからどんどん育っていくことでしょう。僕は今64歳で、あなたは27歳なので、年齢差は大分ありますよね。あなたにそれだけ早く志の花が咲くということは、あなたにはそれだけ大きな役割があるのだろうと思うのです。

宮下で儀式をしている時に、ムルンはこの世界に向けて言葉を発していました。そして、そこにはこの世界の意志に応えているムルンの姿がありました。それが、本来の人のあるべき姿なのです。

カタカムナでムルンという思念を紐解いてみましょうか。

みかちゃん:
「ム」は六方向への拡大・縮小が極まるということで、「無」にも通じます。

いさどん:
「ム」は般若心経で言うと、「無眼耳鼻舌身意(むげんにびせっしんい)」と色即是空のことです。この世界は無から始まって、無にまた還ります。ですから、ある意味悟りの境地とも言えるのです。

それから、カタカムナで言うと、「ム」はヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)の六にあたり、「産(ム)す」という思念もあります。「産す」はこの世界の物事が発生する段階です。カタカムナの思念によると、「ヒ」は秘かに始まることを意味し、見えないところで秘かに現象の種が産まれ出すということです。そして、「フ」はそれが二つに割れることを意味し、それが四つになって八つになって、この世界の物事が始まっていきます。「ミ」はそれが満つっている状態です。そして、「ヨ」は時が産まれ混沌としている状態であり、その次の「イ」で位置が決まります。ヒからイまでは潜象界のことであり、まだ現象界に現れていない状態です。そして、そこから「ム」が始まります。つまり、潜象界に秘められたものの位置が決まったら、産して、現象の元ができたということです。「ム」の段階では、全く汚れていない無の状態です。それがいろいろなものに触れ、現象化が進んでいくと、汚れがついてくるのです。その最初の質量を持つ発生の段階が「ム」なのです。

ホワイトボード

そして、「ル」とは、その行為の継続、その状態を保つことです。ですから、「ム」の状態を保ち、「ン」とは前の音を強くするのです。そうすると、この人は非常にわかりやすい人であり、この世界に現れてくる最初の美しい状態で志を強く保っている人ということになります。それが「ムルン」という人です。ですから、とても一途な人です。27歳でその大事を示し生きていったら、その見本になる人ですね。

今、ふっと湧いたのですが、なぜあなたはこのような活動をするようになったのですか?

ムルン:
今から生まれてくる子どもたちは、僕よりももっとエネルギーが高く、もっと優れたいのちたちです。しかし、その子どもたちが今の社会システムの中で生きていったら、たいへんなことになってしまいます。だから、僕はその子どもたちのために新たなシステムを創りたいのです。闇の時代の矛盾が起きているこの世界では、誰かがそれをやり始めないといけないのです。僕にはその役割があるのです。

いさどん:
昨晩のウエルカムコンサートでは「何億年もの時を越えて」という歌が歌われましたが、その中に「闇の時代は終わりを告げて 光の時代へと向かってゆく」という歌詞があります。それは、まだ闇の時代にいて、いよいよ闇の時代が終わるということを歌っているのです。それは言わば、満(ミ)つって、混沌(ヨ)として、位置(イ)が決まる段階です。ですから、闇の側にいて、光の時代を迎えようとしている状態なのです。まさに木の花ファミリーの歩んできた道は、その状態です。そして、それがいよいよ産(ム)して、「そういった時代になったのだ!」と示していくのがあなたの役割です。そして、これから生まれてくる子どもたちはその先の未来を創っていく人たちです。

今、時代は非常に早いスピードで変化しています。今までの人類の歴史を振り返ってみると、250年前のヨーロッパ産業革命以降、物質的なものを究めてきた時代でしたが、それはある意味逆転現象でした。つまり、自らの心に湧いてきた想いを叶えることが幸せだと思って生きてきたことが、かえって自らを苦しめてきたのです。そして、皆が幸せになろうとしてきたことが、かえって世の中を混乱させてきたのです。

ですから、本当の自分を観るという意味で人類は今、思考の質的転換(ナ)をしないといけないのです。

ムルン:
僕の場合、本当の自分は光なのです。太陽の光がボンと自分の中に入ってきて、それが肉体の中に混ざって、僕は生まれてきたのです。

いさどん:
それはお母さんのお腹の中にいた時の話ですか?それとも、生まれてからの話ですか?

ムルン:
僕が生まれる前の話です。

いさどん:
それは、自分が光だった時代ということですか?

ムルン:
そうではなく、一つの魂はある意味エネルギーですよね。そのエネルギーがいろいろなものと関連しているということです。光は宇宙が成り立っている一部であり、その一部から僕が来たということです。

いさどん:
光は物質です。ですから、わたしたちの物質の元になっているのです。宇宙は、ヒフミヨイムナヤコトという一から十の仕組みによってできています。ト(十)は統合という思念で仕上がりの状態であり、ヒ(一)は始まりの思念であり、太陽の日でもあり、燃える火でもあり、光でもあるのです。ですから、あなたの話はその通りなのですが、なぜそういうことをあなたは確信を持って話すのでしょうか。そこのところを聞きたかったのです。普通の人はそういったことを自信を持って語らないものです。

ムルン:
僕はそういったことを自然に感じますね。

いさどん:
それはムルンが自然に感じて、自分の中で当然のように語ることはかまわないのです。それはあなたのルーツですからね。しかし、自信を持って自分の記憶を語ったとしても、まだそのことをわからない人たちは「この人は何を言っているのだろうか?変わったことを話しているなあ」と思ってしまうのです。

ムルン:
実は、これはいさどんのせいなんですよ(笑)!いさどんと話していたら、説明をしなくても、自然とそういう会話に入れるので慣れてしまったのです。

みかちゃん:
ということは、ここに来るまではそういう話をしてこなかったということですか?

ムルン:
僕はあまりこういう話をしてきませんでした。

いさどん:
自分の中に秘めていたのですね。

ムルン:
それは、相手が理解してくれないからです。ただ、相手が少しわかりそうな人であれば、僕はたくさん話をしますし、その人も喜んでくれます。

いさどん:
先程、僕は30歳の頃から変な人だったという話をしましたね。その頃、世の中は高度成長の真っ最中ですから、土地を買えば絶対儲かり、株を持っていれば絶対儲かる時代だったのです。そのような時代に、まわりがどんなにその大事がわからなくても、自分の心の中で秘かにその想いを持ち続けながら歩んできました。最初の頃は自分の中にその想いは満つっていても、語れなかったですね。それが、少しずつ語れるようになってきました。こういったことは僕の中では本当のことですから、語ってきたのです。しかし、今はそれを多くの人に語れる時代になったのです。ですから、あなたが宮下で儀式をして、そのことに皆が立ち会う時代になったのです。先を少し見通してみると、それを受けて実行する人たちがもう生まれてきています。そうすると、ある意味これは順番なのです。僕のような人が現れ、それに共鳴して生きている木の花の人たちがいて、さらに木の花の存在をどこかで感じ集まってくる人たちや、それを受けてあなたのような人と出会っているのです。しかし、あなたは明らかに、僕が30歳の頃とは違う社会に生きています。そして、さらにそれを受けて、子どもたちはわたしたちとは明らかに違う価値観で社会を創っていくことが観えるのです。

ムルン:
そうです。今、生まれてきている子どもたちは、僕が持っているものをすでに持って生まれてきているのです。

いさどん:
そういうことをあなたが語れるのは、確かに僕のせいなのです(笑)。僕がそういったことを理解しているので、あなたは今まで秘めていたものを語っているのですが、それを僕は解説しているのです。

ムルン:
そうですね。生きていくことは成長していくことですから、一番大切なことは自分をよく見つめ、自分とよく対話をすることです。僕がなぜこの道を歩んでいるのかというと、僕はずっと自分の心の声を聞いてきたのです。そうやって自分の心に従い、自然からエネルギーをもらいながら、転んでも泣いても歩んできました。そして少しずつ成長していくと、自分というものが何であるのか、自分がこの世界でしたいことは何なのか、そしてもっと大きな自分の役割は何なのかという質問が自分の内から湧いてくるのです。そして、それをしっかりと考えることが大切なのです。その結果、自分の精神世界とつながり、バランスが良くなって、自分の役割がさらに定まっていくのです。その時に、人は初めて行動することができるのだと思っています。

いさどん:
今、あなたが話していることは、あなたの歩みとして内に秘めてきたことです。しかし、これからは自分が経験してきた歩みを皆の歩みとして外に表していくことが必要なのです。自分の中で秘めているものは自らの心を強くし、この歩みを進めてきたものでもあるのですが、これからは皆が「そう言えば自分もそうだった!」と忘れていたことを思い出すために使っていくといいでしょう。

ですから、今までは、「これを話してもわからないだろうから、人には話せない」としてきたことを、これからは、今はわからないけれど縁があった人にはそれを語っていき、人々がわかるための手助けをする立場に立つのですよ!

ムルン:
それなら僕も言いたいのですが(笑)、皆、僕と同じなのです!

いさどん:
そうですね。先程あなたは、「自分は光だった」と言いましたが、皆同じ存在なのです。全てのものは太陽の光によって生命が育まれています。太陽がなければこの世界に生命は存在できないこと、そして光から全ての生命が始まっていることをどこかで認識していればいいのですが、多くの人々はそのことを忘れています。ですから、この世界に様々な矛盾が存在していることに危機感を持ち、27歳という年齢でそういったことを大事にしているムルンを観て、僕もこのぐらいの年齢の時からこの人生が始まったことを思い出しました。

僕はこの道を与えられた時にこう言われました。「そなたが生きているうちに、この世界は事が起こらん。」つまり、僕はこの世界が新しい時代を迎える前の土台を創る役割であり、だから生きているうちに本当に社会に認められることはない、と言われたのです。

また、この世界で東北を指す艮(うしとら)の方角は鬼門と呼ばれ、神聖な場所を指すのですが、わたしたちは聖地富士山を東北に見て暮らしています。その向こう側に不二阿祖山太神宮という日本最古の神社があり、そこと縁あって一昨年出会ったのです。富士山をはさんでわたしたちが西南にいて、あちらが東北にいるのです。インドに対して日本が東北の方角にあるということも意味があるのですが、不二阿祖山太神宮には天之御中主(アメノミナカヌシ)という太陽系神と、富士浅間木の花祭りの金神様でもある国常立大神(クニトコタチノオオカミ)の二神が祀られています。そこを初めて訪れた時、その神殿でこう言われました。「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」つまり、僕が与えられている役割は今の世の中の人々がなかなか理解しにくい難しいことであり、相当覚悟していけ、ということなのです。実際に、僕がどれほど語っても、世の中の多くの人々はまだ自分自身の欲望に囚われていますから、人としての本来のあり方を理解しないのです。

そこで、僕の名前をカタカムナで紐解くと、偉佐美の偉はヒフミヨイのイではないのです。漢字を見るとわかるのですが、偉という字の中に「ヰ」が入っています。これは井戸の井でもあり、湧き出るという意味です。さらに、このヰは全てを理解した悟りを指します。ヒフミヨイムナヤコトと宇宙の全てがつながって統合されると、いよいよ現象界ができていくのですが、現象界では物が発生しますから、物と物に差が生まれるのです。ですから、「サ」というのは物と物の差であり、差ができると動きができ、この世界の動きが始まるのです。そこで「ミ」は、準備が整い満つっている状態です。ということは、心は悟って、いよいよ始まるぞという状態になり、その状態が満つっているということは、まだ現象が始まらないということです。たとえば、家がありますね。僕はその一番奥にいて、物事はこうだからこう始めていけばいいのだと外に向かって示している状態です。しかし、外にある世の中は、まだ動かないのです。ですから、僕の位置というのは、それをどうしたものかと思案している状態でもあるのです。

ホワイトボード2

そして、ムルンという人が現れました。ムルンは、僕が家の中にいて示していることを受けて、「僕がそれを現象化につなげましょう」という人なのです。ですから、僕は潜象界にいて満つっている状態を保っており、あなたは現象界にいて僕の想いをつなげていく役割になるのです。そして、さらにその次にはイサナという宇宙人が生まれています。今2歳なのですが、イサナの「ナ」は質的転換という意味です。「わたしが現象を起こします」という力強い人が次に控えているのです。そのように、「ミ(三)」から「ム(六)」、「ナ(七)」と時代が進んでいく流れを紐解いていくと面白いですね。

みかちゃん:
「ヰ」をもう少し説明すると、ヰはこの世界に発生し、現象界に形が現れ、そしてまた元の世界に戻っていくという一通りの経験をして、高次元へ還元されたということです。だから、発生する前の段階とは違うのです。

いさどん:
それは、ヒフミヨイムナヤコトの全てを統合して仕上がり、悟って、また戻ってくるということです。それは、現象界へ現れ、いろいろなことを経験して全てがわかると、この世界で修行をする必要がなくなって、もう一回元の世界へ戻り、わかった者として潜象界にいるということです。それが悟りの世界です。

僕の名前には面白いエピソードがありまして、なぜ僕の名前がついたかを父親に聞いたことがあるのです。そうしたら父親は、「生まれた日が5月3日で三男坊。だから、5・3・3でイサミとした」と言うのです。そして元々、「伊佐美」という字を考えて役場に行ったと言うのです。そうしたら、役場の受付の人が「これは伊勢の伊ですから、こちらの偉のほうがいいじゃないですか」と言ったというのです。それを聞いた父親は、頑固者で人の言うことを聞かない人なのですが、その時には「そうですね」とそうしたというのです!それで、僕の名前は「偉佐美」となったのです。

偉いという字がついたことで、僕には昔からプレッシャーを感じることがありました。自分のことをたいして賢いとも思わないし、たいして立派な人だとも思っていなかったので、自分の名前がプレッシャーになることもあったのです。しかしいつの頃からか、自分はこの字をもらう宿命だったと思うようになりました。そして、この字でなければ、イサミのイはヒフミヨイのイ(五・位置という思念)になるのです。それに対し、ヰはヒフミヨイムナヤコトという物事の始まりから終わりまでを悟った最終段階の状態です。昔はその字をもらったことをプレッシャーにも感じてきたのですが、今はその仕組みを語れていると思うのです。

ムルン:
僕もたくさん悩んできたのですが、僕の時代はもっと明快です。僕の時代は悩んでいたものを形にしないとダメなのです。

いさどん:
それがプレッシャーということですか(笑)。

ムルン:
そうですね(笑)。

いさどん:
その時代にはその時代に生きる人のプレッシャーがありますからね。

ムルン:
はい。だから、難しいのです。

いさどん:
実は、この世界に現れるということ自体が、プレッシャーなのです。ただ、そのプレッシャーをどこで感じるかなのですが、自分自身のことで自業自得にプレッシャーを感じる人もいれば、なかなかならない世の中を憂いて世の中のことでプレッシャーを感じる人もいるのです。ですから、どれほどのスケールでプレッシャーを感じているかが、その人の意識波動の位置なのです。

ムルン:
いさどんの話を聞いていて思ったことは、実は僕の名前にも物語があるのです。僕が最初に親からもらった名前は実は中国語の名前で、呉雪芳という名前でした。僕の兄が雪清という名前だったので、ただそれに合わせただけであり、特にこの名前に意味はないのです。それからどういう物語が起きたのかというと、14歳の時に僕は村を離れ、草原をまわりました。そして大都会に行って、勉強するために学校へ行ったのですが、僕のふるさとの出身の人が先生をしていたのです。その先生が僕の名前を記録する時に、「雪芳」という字が「雪峰」に変わってしまったのです。その時は、なぜその先生が僕の名前を間違ったのか、それは意図的なのか、わかりませんでした。しかし、そこから僕の名前はパスポートでも何でもこの雪峰という字になったのです。

そして、今なぜ「ムルン」という名前なのかというと、僕の兄が2歳の時に僕のおじさんの5番目の弟が兄のもとを訪れ、兄にムルンという名前を与えたのです。ムルンにはモンゴル語で川という意味があり、そのモンゴル語の字はとてもきれいです。しかし、兄は中国語の名前を使っていたので、ムルンという名を使うことはありませんでした。そこで、僕は高校まで雪峰という名前を使っていたのですが、高校時代に僕が今話していることや想っていることの形が出てきました。さらに、僕は中国でも内モンゴル出身なので、自分のルーツに憧れる想いが湧いてきたのです。そこで、「僕はモンゴル人なのに、なぜモンゴル語の名前ではないのか?」と思い、「兄はあの名前を使わなかったから、先輩からもらったあの名を僕がもらおう」と思ったのです。

ムルンくんとボード

いさどん:
あなたはどちらかと言うと、中国人というよりも、モンゴル民族の意識のほうが強いということですね。

ムルン:
小さな頃からそれは強かったですね。僕は小さな頃から、村を守るという意識があったのです。僕はモンゴルの先生から、「モンゴル語の名前がないとダメだよ。そしていずれ、君の雪峰が溶けて、川になるよ」と言われたことがあります。山から雪が溶けていって川になる、というのが僕の物語なのです。そして、それは後からわかったことであり、途中でその意味は全くわかりませんでした。

いさどん:
雪峰というのは、そこに山があって高い位置にあるということで、それは意識が高いということですが、まだその状態では人々のいのちにはなっていないのです。山に降っている雪が溶け、川となって流れてきて初めて、人々はそれを飲み、その水がいのちとして生きていくことになるのです。

ムルン:
その意味が高校時代に解け始めたのです。

みかちゃん:
だから、ムルンという名前には深い意味があります。ただ、山にいるだけではダメなのです。「小聖は山に住み、大聖は町に住む」という言葉があるように、小さな聖人は山に住むことに対し、大きな聖人は町に住んで一般大衆に説いていくのです。

いさどん:
僕は1000年前に地球に降り立ったのですが、その時僕はヒマラヤで行者をしていました。地球に慣れ、宇宙の意識をこの地球上に降ろすためにはまず、ヒマラヤで暮らし、そこで修行をする必要があったのです。カタカムナで言う、ヒフミヨイムナヤコトは、一(ヒ)から十(ト)までの道です。そうすると、ヒからトまでを学ぶということは、ヒト(人)の道を学ぶということです。そして、ヒトであることの意味を学び、悟って昇天すると、俗世に生きなくなるものです。しかし、悟った者の悟りは何のためにあるのかというと、それは悟らない者のためにあるのです。普通、「わたしは悟りたい」と言うと、自らの欲望の延長に悟りたいということです。ところが、「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり」と言うように、悟った者には悟らない者のためにその道を示す役割があるのです。そこには、「自分のため」はないのです。そうすると、ヒマラヤなどで修行をし、悟った者は昇天していくのですが、次にまたこの世界に戻ってきた時には一般の人々の中に入り、そしてわからない者のために生きるということになるのです。

ですから、僕には宇宙から地球に来て、最初にヒマラヤに降り立ち、その後に里に降りてきたという魂の歴史があるのです。そして、こういったことはずっと前から、僕にはわかっていたことなのです。中学、高校の頃にはもうわかっていました。

 

後半へ続く ~

 

 


ブッダの精神を心の柱として生きる~世界土壌デーを迎えて

今月、タイの僧侶であるプラ・サンコン氏からの招待を受けて、いさどん、みちよちゃん、ようこちゃんの3人が、同氏が運営する学校などがあるマブ・ユアン瞑想センターに新たに建立された仏塔の、仏像の開眼式に参列しました。
12月4日のセレモニーの冒頭にいさどんは「クニツクリ奏上」を行い(上記写真)、国王の誕生日であり世界土壌デーでもある翌日、以下のスピーチを行いました。

仏塔の前にてプラ・サンコン氏と共に
仏塔の前にてプラ・サンコン氏(右から4人目)と共に

「ブッダの精神を心の柱として生きる~世界土壌デーを迎えて」
2015年12月5日
タイ国 マブ・ユアン瞑想センターにて

皆さん、こんにちは。わたしは今、とても幸せな気持ちです。それはなぜかと言うと、今日、この場に出会えたからです。わたしはいつも幸せを願って生きています。それは自分の幸せではありません。全ての地球生命が輝いて幸せでいることを願っているのです。

わたしは日本の富士山麓にある木の花ファミリーから来ました。わたしたちのコミュニティが始まってから21年になります。わたしはこれほど皆の心がつながって調和がとれているところを他に知りません。その理由を考えてみますと、わたしたちは富士山麓で自然と調和することを常に考え生きてきました。富士山は日本人の心の柱です。そして、わたしたちにはブッダの伝えてくれる精神があります。その二つの柱に支えられ、木の花ファミリーはとても幸せな生活をしています。

そして、はじめに伝えましたように、わたしの心は今、とても幸せです。皆さん、それはなぜだかわかりますか?皆さんには、今日お誕生日を迎えられたプミポン国王という大きな山がありますね。国王様、お誕生日おめでとうございます。そして、皆さんにも生活の柱となるブッダの精神があります。ですから、わたしは日本の木の花ファミリーにいるときと同じような幸せをここで感じているのです。

ここに地球儀があります。タイはここにあります。日本はここにあります。その距離はほんの少し離れているだけです。飛行機で日本からタイへ来るには約8時間かかります。帰りは約6時間半です。それはなぜだかわかりますか?それは、地球がまわっているからです。

今朝、夜が明けましたね。そして今、暗くなって夜になりました。それは、地球が秒速462mで自転しているからです。そして、地球は太陽のまわりを公転しています。地球は365回自転すると太陽を一周します。そのスピードはどのくらいだと思いますか?秒速30kmです。そのスピードで太陽のまわりを一周するのに一年かかります。そして、地球は一度も止まることがありません。その地球にわたしたちは生きているのです。

宇宙の中で地球はひとつです。そして、ひとつの太陽のもとに地球は動いています。今回、世界土壌デーの祭典が行われました。大陸は海によって隔てられているように見えますが、実はひとつの大地です。そして、海もひとつであり、ひとつの水です。地球がまわっていますから、その水は平等に世界中に雨として供給されます。それは太陽の光によって水になったり、水蒸気になったり、氷になります。そして、風が吹くのも太陽の力です。さらに、ひとつの空気のもとにわたしたちは生きています。つまり、わたしたちはひとつの太陽・ひとつの大地・ひとつの水からいのちを育まれています。そして、ひとつの風からわたしたちの人生はたくましく育てられ、空(くう)というこの地球空間に生きる場所をいただいています。これが、わたしたちが自然の中で生かされている五元素です。

わたしは30歳のときにお釈迦様の魂との出会いをいただきました。お釈迦様はわたしに、「自然と共にありなさい。そして、いつも自然や他者のことを想って生きなさい」と言われました。わたしは富士山麓で暮らしているときにとても幸せです。そして今日、ここで皆さんと出会いとても幸せです。しかし、毎日生きていると、とても悲しいことがあります。この星の上にはたくさんの国があります。そして、たくさんの人たちが暮らしています。今、時代は21世紀に入りましたが、地球上には今なお戦争や貧富の差が存在し、飢餓で苦しんでいる人たちがたくさんいます。ですから、わたしは毎日幸せな生活をしていても、どこか悲しいのです。わたしの生きる目的は、この地球生命全てが生き生きと輝き幸せであることです。ですから、そういった争いのない世界を創ることがわたしの願いであります。

世の中に理想を掲げている人たちはたくさんいますが、理論を語っているだけの人たちがほとんどです。それは心の柱がないからです。心の柱がない社会は、人々の欲望が暴走します。ですから、ブッダの精神を学び、それを生きることが大切なのです。

今、多くの人たちはこの世界で自分が生きていると思っています。しかし、一日が経つのは、地球が一自転するからです。一歳年をとるのは、地球が365回自転し太陽のまわりを一公転するからです。さらに、わたしたちのいのちは無限の生命の循環・調和のネットワークのもとに生かされているのです。

21世紀に入り、わたしたちは今、リセットする時を迎えています。太陽は天の川銀河を2億2600万年かけて一周し、その間に約9000回の螺旋を描くのですが、その一螺旋は25800年です。2012年12月21日、25800年ぶりの銀河の冬至を迎え、宇宙的には闇と争いの時代から光と調和の時代に向かうサイクルに入りました。ところが、今なお人々の心は自らの願いを叶えることを優先しています。そして今、地球はいろいろな面で危機を迎えています。これは一体誰のせいなのでしょうか。人間はとても能力が高く、影響力の大きな存在です。ですから、わたしたち一人ひとりが他者や自然や地球のことを考えなければ、これ以上地球はわたしたちに健康な生活を与えることができないのです。欲望の膨らんでしまった今の人類は、どうしたらこの心を超えて調和した生き方を実現することができるのでしょうか。

人類の歴史を振り返ると、宗教の時代は今から約3000年前に始まりました。太陽の一螺旋である25800年のサイクルから捉えると、その8分の1弱である3000年という宗教の歴史はそれほど長くはありません。そして、それは時代と共に移り変わっていくものです。ですから、後世の人々が受け継いできたお釈迦様の教えは今、リセットされる時を迎えているのです。

2012年12月21日に銀河の冬至という闇のピークを迎えた今、25800年の一サイクルがリセットされたのです。その25800年は太陽が銀河を一周する9000分の1にしか過ぎないのです。そして、3000年はその8分の1にしか過ぎないのです。これまで太陽は銀河のまわりを20周してきましたが、それでも46億年にしか過ぎないのです。さらに、銀河が誕生してから138億年と言われていますが、宇宙の流れから観ると、それは一瞬のことなのです。

時代は多様な歴史を表現しながら、変化し続けています。それが宇宙の実体です。そして今、これまでの価値観を超えて、新たな価値観を表現する時代を迎えているのです。

最初に、わたしは日本の富士山から来ましたと皆さんに伝えましたが、その前にわたしは地球から来ました。そして宇宙から来ました。では皆さん、宇宙はどこにありますか?宇宙は今、皆さんのいるここにあります。皆さんの心の柱であるブッダの精神は宇宙そのものです。ですから、ブッダイコール宇宙です。皆さんも宇宙人ですよね。そして、その境地に至れば皆さんもブッダなのです。

「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり。」
お釈迦様はこの精神をわたしに伝えてくれました。そして、その精神を生きて、その心をこの世界に示しなさいと言われました。それで、富士山麓に木の花ファミリーという理想郷を創ったのです。木の花ファミリーは宗教団体でも寺院でもありませんが、寺院のように人々が道を求め、宗教団体のように人々が集う場です。そして、それは自らの悟りを求める道ではなく、皆で共に極める道です。

時代は、個人の悟りの時代から人類全体の悟りの時代へ移行しています。他者の喜びを自らの喜びとして生きる菩薩の里――そのような場がこれからの時代のあり方であり、そのように人々が生きることができれば、真に尊く美しい世界が自ずと表現されるのです。わたしはここにいる皆さんと共に、そのような理想世界を創っていきたいと願っています。

わたしは今回タイを訪れて、木の花ファミリーの暮らしで感じるような幸せを感じました。しかし、世界の人々の多くはまだ幸せではありません。日本の人たちもタイの人たちも世界中の人々が幸せに生きて、誇らしく人生を終われることをブッダもプミポン国王も願っているのではないかと思います。わたしたち一人ひとりの人生は、いずれ終わりを迎えます。それは、価値あるものでなくてはなりません。ですから、わたしたちの人生が自然や他者の犠牲の上にあってはならないのです。

「全ての衆生に仏性あり。」
ブッダの精神は全ての人々の中に眠っています。どうか皆さん、その精神を呼び覚まして、共にこの地球を美しい星にしていきましょう。

わたしは今64歳です。そして、30歳のときにお釈迦様からメッセージをいただくようになりました。わたしは今もその精神を生きる者です。そして、その精神は常に進化するのです。それは、宇宙が進化し変化し続けるのと同じように、自然もこの世界も移り変わり続けるのです。それがこの世界の仕組みです。ですから、生きることに執着してはいけません。

わたしには夢があります。それは、この地球生命が皆生き生きと輝き幸せになることです。わたしたちは地球というひとつの家に暮らしています。このわたしたちの大切な家が幸せになるのか不幸になるのか、それはわたしたち一人ひとりの手の中にあるのです。わたしはこの地球に生きる全ての生命家族と共に幸せになりたいと願っています。自分だけの幸せやひとつの国の幸せだけでは、真に幸せになることはできないのです。

そのときに、お釈迦様の精神がわたしたちにどうしたらいいのかを教えてくれます。地球の家族として、そしてブッダの弟子として、わたしたちは人として生まれてきた意味を理解し、表現する時が来ています。皆さん、共に真に幸せで豊かな世界を広げていきましょう。

 

 


21世紀のいのちの捉え方

近代の医療の発展は、目覚しいものがあります。その現場では、常にいのちは長らえることを前提に扱われています。
いのちの捉え方として、たとえば最先端の医療を受け、いのちが長らえるための最善の方法をとっていのちをつなぐことを考える人もいますが、その分だけ人が幸せに生きられるのかというと、そうばかりではありません。長い人生=幸せな人生とは言えないのです。中には長くて幸せな人生を送る人もいるかもしれませんが、短くても充実した人生を終える人もいるものです。その人の魂にふさわしい寿命というものがあるのです。ですから、生まれる前にもらってきた寿命が尽きると、人は健康であっても事故などによって死ぬこともあるのです。

そこで、残された人たちが後から振り返り、「あのときに別の行動をしていればあの人が事故で死ぬこともなかった」と思ったとしても、そういうわけにはいかないのです。生きていると、「~だったら」と人は思うものですが、それならそれをやり直せるのかというと、そうではありません。仮にやり直すことができたとしたら、この世界はとてつもなく複雑になってしまって、全く先に進めなくなってしまいます。

そこで、人は必ず死に、その寿命は決まっているということを前提に考えると、その中身をどのように生きるのかということが大切なのです。それについては生きる中身に自由が与えられているのですから、満足し納得して死ぬのか、それとも悔やんで未練の心で死ぬのか、全てはその人の裁量の中にあるのです。

死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。
生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。
生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。

さらに、亡くなった本人自身の学びが不十分だったとしても、残った人たちがその人の生き様から学び、生かしてくれたということになると、本人から悔やみがなくなって次への旅立ちの手助けにもなるのです。それは、死に対するいろいろな教えがあることも同じことです。そうやって、死を生かすと、死者は次にまた肉体をもらってくるときに、それが生かされて、そこでの悟りから次の段階のスタートが切れるのです。そのような捉え方をすると、死も生かされるのです。それが死者を見送る上で最も大切なことです。

今、僕が話していることは、亡くなった人に対して、お経をあげていることと同じことです。寿命を迎えいのちが尽きたことを悟りながら、その寿命が尽きたことの意味とその人の生き様を、死んで旅立っていく者もこれから生きていく者も共に学んで、次につなげ、生かすことができるのです。

世の中には、水子で亡くなった者に対して、実際にこの世界に生まれてきて生きていないにも関わらず、3歳の時には七五三でお祝いし、生きていたら小学生だからとランドセルを買ってお供えし、それから「あの子が生きていたら25歳になるから、お嫁さんをもらってあげましょう」とお人形までつくって飾るような風習もあるのです。これは迷いの世界です。これでは、情が、亡くなった魂を迷わせてしまうのです。
ですから、寿命が尽き旅立ったことに対して学ばせていただき、そして「ありがとう」と感謝の気持ちで見送ると、亡くなった魂もスムーズに次の輪廻に入ることができるのです。上にいる限り、魂のレベルは変わりません。ですから、肉体を持って生きている間に学び、次に生まれてくる時のために、今世の学びを生かし、自らの魂を進化させていくことが大切なのです。

そういった道を開くという意味でも、情ははさまずに見送ることが大切です。人間の感情や思考によって、魂のあり方は全て決まるのですから。昔は人の情が深く、宗教的なものに縛られる時代もありましたが、時代が進んできた今、新たな時代にふさわしいいのちの捉え方が必要なのです。

時代を振り返ってみると、お釈迦様の時代にお葬式はしませんでしたし、今の宗教が行っているような年忌を問うたり、お盆の供養などは全くありませんでした。お釈迦様は輪の中の空間に宇宙を観て、そしてこの世界は無常であると説きました。無常であるということは、感情や愛情を一切抜きにして、冷静に物事を観るということで、そこに空(くう)を観たのです。しかし、それが後に人々が生や死に対する未練を持つことによって、その未練を満たすためにお葬式をしたり、死者の年忌を問うことになったのですが、それは元々のお釈迦様の教えではないのです。

死は、亡くなった人との別れでもあり、ある意味その人とのそこからの新たな出会いでもあるのです。さらに、寿命が尽きてふさわしい旅立ちをするという意味で、死は神聖なことであり、生に対する当然の道なのです。死は次の道への旅立ちなのですから、本来は祝福とともに迎え、見送ることでもあるのです。ですから、最善の見送り方は、旅立つ人の死を生かし、残った人たちが明るく生きていくことです。そこで、いつまでも死を悲しむようでは、その死を生かすどころか、亡くなった魂の足を引っ張ることにもなってしまうのです。そのように死に対して囚われている人々は、真実とは逆さまに生きていることになります。

人は生きている時には「けど」「でも」と言いますが、これが一番心を汚すことになるのです。そして、人生の中ですでに起きてしまったことに対して、「本当は~だったら」と思うことがさらに迷いを深めることになります。たとえば、自分が宝くじを買ったのと同じ場所で他の人に一等が当たっていたとしたら、「あの時に宝くじを全て買い占めていたら一等が当たっていた」というような話も出てくるのです。ですから、「~だったら」という話ぐらい、道理に合わない話はありません。その時その時の事実しかないのですし、それが答えなのです。

この世界を観てみると、宇宙の構造自体が二度と同じところへは行きません。一日も、昨日と今日は宇宙空間的には違う場所にあるのです。春・夏・秋・冬と一年は過ぎていきますが、昨年の春と今年の春は、空間的にも時間的にも違うのです。ですから、宇宙空間では常に先へと進んでいるのです。そうやって、亡くなった人も次のステージへと入っていくのです。

実際に、肉体も火葬にすれば灰になり、それは炭素や窒素になって空気中に漂い、いずれ植物に吸われ、動物に食べられ、そしてまたいのちとして巡ってくるのです。このように、わたしたちのいのちを地球生態系という、もっと大きな生命として捉えていくこともできるのです。そうすると、わたしたちの存在は、大きないのちの中の新陳代謝の一つにしかすぎないのです。

ですから、この世界に死はありません。ただ、形を変え、つながっていくだけなのです。今回の人生が終わったからといって、その魂の旅が終わったわけではないのです。いのちを束ねる魂というものがあるとしたら、肉体の中に魂がある限り、その形態のいのちはあり続けます。そして、その肉体から魂が抜けると、肉体という有機物はそこで束ねる縁がなくなり、時間の経過と共に自然に還っていくのです。つまり、その人を形成していた魂はあり続けるのですが、それはこの世界ではなく異次元世界にいて、そしてまたこの世界に生まれて来て、学びを積み重ねていくのです。

その仕組みを13000年前の上古代カタカムナ的視点で観てみると、この世界は、「見える世界」と「見えない世界」からなる「現象界」と、そのさらに奥にある「潜象界」で成り立っているのですが、普通の人は死ぬと見えない世界に行きます。
見えない世界とは、心や魂が存在する世界です。通常、わたしたちの魂は見える世界と見えない世界を行ったり来たりするのですが、その魂がこの世界の仕組みを悟ると、その奥にある潜象界に還っていくのです。そこは、お釈迦様の言われる悟りの世界であり、現象界の奥には潜象界という「ない世界」があるのです。
それに対し、「ある世界」は見える世界と見えない世界を行ったり来たりする現象界を指します。

スライド46

死を迎え、肉体の衣服を脱いだ先は、見えない世界で魂として存在しています。ただ、それでも「ある世界」にいるので、見える世界と見えない世界を行ったり来たりしています。それを繰り返しながら、学びを積み重ね、「ある世界」の仕組みを悟ると、今度は「ある世界」と「ない世界」を行ったり来たりすることができるようになるのです。神は「ない世界」に存在します。そして、「ない世界」へ行くためには、一切の情がなくならないといけません。ですから、人間もいずれ「ない世界」へ行き、この世界の単なる原料に還っていくのです。

そこでの「ない世界」というのは、ないけど、「ある」を包含しているのです。そこには何があるのかというと、現象界を創るための響きがあるのです。聖書でも、「はじめに言葉ありき」と表現され、想いだけがあり、それは響きなのです。
響きという音の思念があるだけですから、潜象界にはたとえば「ア」という音と「イ」という音がそれぞれ存在しているのです。音には全て意味があるのですが、それはこの世界を創る素材であって、それがこの現象界に現れてきて、「ア」と「イ」が縁があってつながると、「アイ」になるのです。それは、一人ひとりの人間の魂についても同じことです。たとえば「アイ」という魂をバラバラにして潜象界に送ると、「ア」と「イ」の響きだけになって、それは「ない世界」の状態です。そして、そこに縁が生じ、現象界に現れると「アイ」という魂になり、「アイ」という人生(現象)が表現されるのです。

このように、この世界に存在するものに死はないのです。それは、宇宙のはじまりから現在に至るまで縁とともに巡り続けているだけのことであり、これからもあり続けるのです。

こうしたいのちの仕組みを人々が理解するようになるのが、21世紀です。そうすると、なぜ生きているのか、生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのかを人々は紐解くことができるのです。そして、そういった真実に目覚めると、生きている意味を実感しながら生きていくことができるのです。

それが本来の人間の姿であり、わたしたちのいのちが存在する目的なのです。

 

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私たちの生きる宇宙の仕組みをひも解く「カタカムナ研究会」が、毎月木の花ファミリーにて開催されています。この世界のカラクリを知り、誰もが“うれしたのし”と生きていく新しい時代への入口が、ここにあります。どなたさまもどうぞお越しください!

次回開催予定

【日時】
集合:2015年11月9日(月)

11:05 JR身延線「西富士宮」駅 又は 10:51 富士急行「大石寺」バス停(送迎あり)
お車の方は11:30までに木の花ファミリーおひさまハウスひまわりへ直接お越し下さい
解散:2015年11月10日(火) 昼食後(送迎あり)

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【会場】
木の花ファミリー(地図はこちら
静岡県富士宮市猫沢238−1

【定員】
15名

【参加費】
8,640円
(1泊2日、宿泊・お食事・送迎・保険料・税込み)

日帰り参加の場合:1日につき3,240円
(お食事別途)

*同性の方との相部屋をお願いする場合がございます。
*オプションにて、木の花ファミリーの施設見学やプレゼンテーションのご提供も可能です。

【詳細とお申し込み】
下記リンク先よりどうぞ!

カタカムナ研究会のご案内