危機を感じられない人間たちへ ~直感を働かせるには?~

いさどん:
今の社会の人々は、起きた出来事に追われている。起きた出来事を処理しようとして、それに追われ続けているんだよ。

たとえば、今ニュースになっている集団的自衛権。圧倒的多数の与党は、このチャンスに集団的自衛権を行使できるようにしようとしているのだけれど、自民党と公明党では立場が違う。自民党は、軍事力を維持し他国との軍事バランスをとることが、国を守って平和を維持することになると考えている。公明党は、支持母体が創価学会だから、戦争を容認するような立場に立つことには宗教上、反対の立場を取っている。それでは信者からの支持が得られないからね。そこには、立場のせめぎ合いがあるんだよ。
集団的自衛権が必要だという言う人たちは、外に脅威の勢力があると考えている。北朝鮮とか、中国とか、ウクライナのことがあって中国と近付いているロシアとかね。それで対抗勢力のアメリカにごまをする。そうやって起きていることへの対処ばかりして、もぐら叩きのようなことをやっている。

しかし、なぜ人間は争わなければいけないのか。どうすれば争う必要がなくなるのか。それにはどういう視点を持つことが必要なのか、ということを考える方が先決だと思うんだよ。

国家を個人に例えると、アメリカでも中国でも、どこの国もすごく性格が悪いでしょ。自らの国益ばかりを考えている。そうやって考えていくと、明快に問題点が見えてくるのに、それに対処ができない、だから僕は、手応えがないことを感じて、むなしくなる。

そのような人間たちが創っている今の地球は、明らかに気候もおかしくなってきているのに、人々はあまり危機を感じていない。しかし、じわじわとその危機は迫ってきている。それは「いつ来るのかな」というものではなく、すでに来ているのに、こういう状態なんだよ。

ともこ:
やっぱり、鈍いんだね。

いさどん:
鈍い・・・それは鈍いとも言えるけど、何だろうね、やはり、ものが観えていない。何かに汚染されているような、観るべきものが観えていない状態。目が、意識が、何かに囚われている状態だよ。
よくあるでしょう。お酒が欲しくて仕方のない人は、頭の中にお酒しかなくて、生活そのものがお酒になっている。お酒に関することしか考えないし、お酒に関するものしか見えない。他のものが目に入っても、そこに意識が行かないんだよ。
お金にしろ欲望にしろ、それと同じことが言える。自分に近いものに執着して、意識がフリーになっていないんだよ。意識がフリーになったら、全体を冷静に観ることができて、おかしな部分に気付くようになる。

これだけ危機的な状況についての情報がたくさんあるのに、人々は危機感を持っていない。それは、直感が働いていないんだよね。
直感というのは、思考を超えたもの。危機を感じると、直感が働くようになるでしょう。場合によっては火事場の馬鹿力が出ることもある。しかし、それが働かないのは、何かに汚染されて麻痺している状態だから、危機が感じられないでいる。それは何か麻薬のような価値観に、汚染されているんだよ。

そこで、どうするか。
これほど麻痺してしまっている状態を危機と感じない人たちがいるのは、どうしてそうなってしまったのか。

木の花の暮らしの中では、協同することが実現していて、調和が実現しているでしょう。個人の欲求や血縁など、いろいろなものを超越することもできている。
それは今の社会が抱えている危機を乗り越える、もしくは危機を生み出さないための要素で、それがここに実現しているんだよ。だからそれを大切にしなければいけないのに、社会はボケている状態でその価値がわからないから、場合によっては社会と違うということでバッシングして来るんだよ。
すごくボケているでしょう。週刊誌は「こういう生き方があるんだよ」とそれを大切にしなければいけない。ましてやエコな暮らしを大切にしようという業界の人たちは、自分たちがやれないことをここがやっているのだから、これを見本として世の中に広めていかなければいけないのに、逆のことをやっているんだよ。
これってすごく鈍いと思わない?何か人間の中に、人工的なことをやり過ぎてしまって、麻痺してしまっているものがあるんだよ。だから、情報網は高度に発達したのに、そのたくさんの情報の中から何が大切かを読み取れない状態になっている。

ともこ:
なぜだろうね?

いさどん:
それは一言で言うと、欲に汚染されてしまっているということだよ。違う言い方をすれば、自らの中の価値に執着してその欲に汚染され、冷静かつ客観的な目線が麻痺しているということだろう。
自由というのは、自らの思考の位置を、自分に取り込まれずに客観的な視点から見て、どこにも取り込まれない状態ですべてを情報として観ることなんだよ。
自由という概念は、生きる上で得るものでしょう。生きているから表現できる。例えば、死ぬことは絶対で、そこに自由はないよね。生まれることも、気が付いたら生まれているのだから、そこにも自由はない。でも、その生まれてから死ぬまでの間に自由があるんだよ。

その自由を、どう解釈して、どのように使い切るか。自由は、不自由と不自由の間にあるものでしょう。生まれることと死ぬことの間にある自由を、どのように自由として表現するか。
自由でない状態、つまり不自由というのは、囚われている状態でしょう。では、何に囚われているのかというと、視点に囚われている。価値観に囚われている。一番囚われるのは、自分という存在(立場)だよ。
生きている時に何が不自由かといったら、この世界はこれほど多様なのに、自分という肉体に封印されているわけでしょう。そうしたらまず、思考をする時に自分という肉体から出た視点を持つことはできるんだよ。
その、自分の枠から外れたところに視点を持って、自分と他者を平等に観るってことさ。平等に観ることは、一つひとつの出来事を情報として観て、それぞれの立ち位置から来る価値も情報として捉えるということ。そうやって眺めてみると、自分という殻の中から見て囚われていた時の目線から離れることができるでしょう。そうすれば、全ての出来事、価値観を平等に現象(物理性)として捉えることが出来る。次への選択をする時に、自由がある。実は、自由にできるのはそこだけなんだよ。つまり、自らに囚われない自由な視点を持つことが、本当の自由なんだよ。

それ以外は、政府の話も、企業の話も、個人の話も、全てそれぞれの自らの立場を守ろうとして、それで不自由をやっている。それでは冷静な判断ができないし、立場ごとの違いを見て対立するから、対立が起きる。その危機は何のために起きるかと言うと、つながっていくことの大切さを示すために起きているのだよ。
例えば、環境だったら人間の行いと自然のあり方とか、戦争だったら国家と国家の立場ごとの価値観の違いが自由に観られていないから、国益の主張の元にそれが起きている。

今回のバッシングにしても、まず「エコビレッジの概念はこうだ」というものがある。木の花は、自由に世界を展開してきて、ある意味、執着や囚われという不自由から解放して自由な人間をつくるために、それを手助けしながらやってきた。あれがしたい、これがしたい、というのは囚われで、自由ではないのだから、それをやめなさい、ということを伝えてきた。そうしたら、「木の花は自由にさせてくれない」と反対のことを言うんだよ。
自らの立場から見える価値に執着して、自由をはき違えている。そしてその自由を奪われることを恐怖に思って、怒ったり攻撃したりする。

ともこ:
その心が全然自由じゃないね。

いさどん:
この間週刊誌の記者と話していて、この人たちの仕事は不幸だなあと思ったんだよ。社会の攻撃の対象を見つけて、それを掘り起こして、賢いから法律上攻撃されないように巧妙に、人の興味をそそり、汚らしく仕立てて表現しようとするんだよね。より良い社会を築くとか、人の心が調和していくようにということを目指してやっていないんだよ。本当は、出来事の奥にある本質を読み解いて、それをより良い社会に生かしていけば、その人の精神から雲が取れ、晴れてくる。
それをずっと職業としてやっていくと、人間が汚れて自己矛盾が発生する。だけど彼らは、仕事だから仕方がない、という顔をしているんだよね。だから、これは本当じゃない、という思いは、どこか彼らの中にもあるんだよ。だけどそれをやり続けている。
そして、彼らに情報を提供している人たちは、それが正義だと思って情報を提供しているんだよね。しかし、それは表面的な出来事の捉え方で、本質を観る目は麻痺している状態だよ。

そういったことを考えた時に、こんなに情報があって、賢明な選択がいくらでもできるのに、むなしくなるのは、人々の中に賢明な選択をする自由が育っていないんだよ。

ともこ:
私ね、もともとすごく不安定で何かあるとすぐ泣いていたのに、何で今こんなに穏やかで確信を持って生きていられるんだろうかって考えたら、いさどんを通して、その自由自在さに触れたからだと思うの。

いさどん:
あなたも、自分に囚われていたからね。それも、自分の考え方に囚われていたんじゃなくて、トラウマのように、考える前に染みついてしまっている色に汚染されていたから、自分はそういうつもりじゃなくても、何かを思考しようとする前に涙が出てくる。それが染みついている状態だったね。

ともこ:
その染みついていたものを、何の色もない無色透明の世界に触れることで、いったんバラバラにしてもらったんだと思うんだよ。
本物の愛は、無色透明の世界なんだよね。何かを「やさしい」というのは「やさしくない」何かがそこにあるから。やさしいとかやさしくないとかいう判断も人間による色付けで、全てがニュートラルな愛そのものの世界ではそんな判断すらいらなくなる。そういう透明な世界に触れたことで、自分自身の色が浮き出て、知らない間にバラバラにしてもらった。

いさどん:
あなたは、自由な心に触れたんだよ。自由な存在というものが持つ爽やかさを感じた。その風に触れた、ということだよ。

ともこ:
ここを離れて行った人たちは、バラしていく途中で出て行ったんだね。

いさどん:
バラす作業をしている時は、本人もバラされて納得していた。だけどしばらくすると、また自分流に組み立ててしまう。バラしても、その奥に、元へ戻ろうとする力が働いていたんだと思うんだよ。結局その力が勝ってしまった。

ともこ:
それって、ここを出て行った人たちだけじゃないよね。外から来るゲストでも、ここに触れている間はバラされることに心地良さを感じていても、離れればまた元に戻ってしまう。

いさどん:
ヤマギシの人も、ここに来てバラされるのだけど、元に戻るとまたヤマギシ流に組み立て直される。
だから、1度完全に切れなきゃいけないね。ゴムみたいに伸ばして、つかんだつもりになっても、力を緩めるとゴムはぴゅっと戻って離れてしまう。そうじゃなくて、その価値観を一度切ってしまわないといけない。それを「壊す」と言うんだよ。それができていなかった。
そのときに、自分を壊す勇気が、あるかどうかだけどね。

ようこ:
地球を壊す前に、まずは自分を壊す勇気があるかどうかだね。

いさどん:
自我の根っこのところに、ゴムのヒモがくっついているんだよ。
では、どこにそのヒモをくっつけたらいいのかと言ったら、自我ではなく、視点をこの世界全体や天など、できるだけ広い方に持っていけばいい。自我という自らの価値観に縛られている世界観から、家族、会社、国家、人類、地球生態系、太陽系、銀河、宇宙全体へ。世界の中にも現象界と潜象界があり、一番奥に神々がいる。それがこの世界の実態だよ。だから、自我をつなぎとめる鎖というか、ヒモの先をどこへつなげるのか。
自我が発生するところに持っていったら、自我だけで生きてしまう。自我を、家族のために、国家のためにというようにだんだん広げていくと、その自我は、そのもとになるところから来る風によって、どんどん広がっていく。この構造、わかる?

ようこ:
わかる。それが天につながったら、もう直感人間だよね。

いさどん:
そうだよ。だから、それが狭ければ狭いほど、立場や欲に捉われてしまうんだよ。そして、それが広く大きくなればなるほど、それは自我が大きくなったというだけのことだからね。恐れることはないんだよ。
自由と言ったって、肉体を持って生きていることは、結局宇宙の中の存在でいるしか仕方がないんだよ。それも不自由なことだけどね。

だから最終的には、肉体はこの地球生態系の中に、微細にして還元する。これが死だよね。そして魂は、超微細になって、アマハヤミ(思念の速度、光の速度の10の64乗倍)の力に乗って、宇宙全体に完全にちりばめられる。それが、もとの状態に戻るということ。
そして、それがまた縁によって集まって、満つって、それが限界まで来ると、成って、この世界、つまり現象界に戻ってくる。

今の地球世界には、もうすでに危機が迫っているのに、それが感じられない世の中や、自らの愚かしさや矛盾に気付けない者たちへのメッセージは、その前の段階の話だよね。

ようこ:
私は今日の話を聞くまで、直感人間になるには、直感が内から湧いて来たり外から降りてくるように、日々の心磨きが大切だと思っていて、それはそうだと思うんだよね。でも、今のいさどんの話を聞いていたら、自分を天というところまで一体化すれば、天の思考がそのまま自分の思考になって、それ自体が直感だと思ったの。それはある意味、一瞬にしてできることだ!と思った。

いさどん:
そうだよ。悟りは隣にあるのだから。だから、直感人間になることは、実は一瞬にしてできるんだよ。
 
  


21世紀の悟りへ ~直感と共に生きるコツ~

中国人のゼンとファンは中国でコミュニティを創る夢を実現する為、5月中旬から木の花に長期滞在しています。先日、いさどんに質問があるということで、ゼンとファンといさどんが話す場がもたれました。その中で、ゼンから「直感について教えてください」という質問がいさどんに投げかけられました。

農作業をするゼン(右)とファン(左)
農作業をするゼン(右)とファン(左)

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
僕は、全ての現象を「情報」として捉えています。その情報の結果起きる出来事は、単なる物理性なのです。そのように捉えていくと、非常に冷静な目で出来事を観ることができます。そして、そこには正邪・善悪はないのです。それは、ただ現象が発生している状態です。ですから、情報が沢山ある中で、その中から何を選ぶのがベストなのか、というだけのことなのです。

ゼン:
その通りです。私たちにはベストのものを選ぶという自由があります。

いさどん:
そうです。それが冷静な生き方のコツです。そのときに、情報がいくつかあるとしますよね。その中でどれが自分にとって有利なのか、と考えるのが人間的思考です。できれば、思考の次の段階は、その自らの損得を外し、判断をフリーにして、「直感」を受けてパッと選ぶことです。それはフィーリングのようなものです。そうすると、地上目線は地上に近く低いところにあって、視界が狭く、今まで自らが歩んできた個性のもとにできています。それを、そういった低い価値基準で選ばず、「自然の法則」や「流れ」に沿ってパッと選べるようになるといいのです。

ゼン:
私は、いさどんが言う「直感」をきちんと理解していないかもしれないので、そこをもう少し詳しく説明していただけませんか?

いさどん:
直感を得るためには、エゴを超越する必要があります。エゴは自らの目線で観た情報に執着することです。ですから、それが少なくなればなるほど、直感は自動的に湧いてくるようになるのです。直感も思考の中から湧いてくるのです。

たとえば地球暦で言うと、水星、すなわち自らの内から湧き上がってくる直感があり、それは潜在意識から来るものです。その潜在意識の一番奥には、生命としてのもっとも健全で美しい人間の設計図があります。それは全く汚れていないものです。地球暦で言うと、太陽の意志を水星が受け取って、出すということです。そのときに、地球という個人の意識や、金星の愛の意識、それから木星や土星のような社会性の意識は、水星から湧いてくる直感には全く入っていない状態です。

これは内から湧いてくる直感であり、そのほかに上から降りてくる直感があります。

それは地球暦で言うと、太陽系の中の惑星の一番外側にある冥王星の働きです。私たちは地球生態系に生きているのですが、その地球生態系の外側、つまり地球の外から色々な働きがあって、地球生態系が営まれ、私たちが生きています。その仕組みで生命が維持されているのです。つまり、生命の法則はとても緻密で、広大なものです。その法則や流れが入ってくるのがもう一つの直感です。

ですから、直感は常に内からも上からも来ており、そうやって私たちのいのちは維持されています。

ところが、人間は自らに執着しています。それがエゴです。しかし、そのエゴを個性として、自らの存在をコミュニティに反映させ、さらに地球生態系の中に反映されている人であれば、個人には執着がない状態になっていきます。そのようにエゴを個性として、大きな枠に反映させればさせるほど、エゴはあり続けながら、執着のない状態になるのです。それは、情報としてあるだけなのです。

そうすると、内なる直感と、天なる直感が生きる状態ですから、その状態では思考を働かせなくても、「はい、これ!」「はい、あれ!」と次々と決断できるようになるのです。その精度は高いのです。それはスタンスが広いので、一見そこで区切ってみると無謀な選択のように見えても、広いスタンスで捉えていくと、最終的にはその決断が最終到達地点につながっていくことが理解できます。そのひとつとして、今回木の花が色々とバッシングを受けたのですが、僕にはそれが良いことにしか観えないのです。ただ、「何でも良いことだ」と言っていると、まわりの人たちにはそれが理解できないので、目の前にあることに対しては直感を使って対処していきながら、今起きている出来事を大きな目線で理解していくことが大切です。

あなたもそういった生き方ができるようになりますよ。そのためには、いかに物事を情報として冷静に捉えていくか、にかかっています。その状態になるためには、おそらく人によって歩みが違うのでしょう。それは、瞑想法やヨガの手法のような歩み方で行けるものではないと僕は思います。特にこれからは、ひとりひとりが目覚める時代です。ですから、ひとりひとりに手法があるのではないかと思うのです。ひとりひとり、直感の受け方も違えば、それは個性的であっていいと思います。

過去には、自己啓発セミナーのようなインスタントにそれを与えるようなものがありました。しかし、それは結果として、人をその人らしく目覚めさせることにはならなかったのだろうと思います。

これからの目覚めとして、私たちは明らかに宇宙から承認されている結果、ひとりひとりが成立しているのです。全宇宙の中で自分という存在はたったひとりしかいません。そして、今の自分は、この瞬間にしかいないのです。

ですから、自らが天に向かって(天はどこでも天なのですから)、自らの意志を語りかけ受け取る作業をすることが、直感が降りてくるコツなのです。

今までの宗教の世界では、神様は人々を救済するためにおいでになるように語られてきました。ところが実際には、全ての現象が神の存在の現れ(物理性)なのです。ですから、全ての現象を神の存在として捉え、自らを全ての現象の側に最終的に同化させることが、人生の旅なのです。

エゴという小さな檻の中に自らを閉じ込め、囚われてしまうところから解放し、その檻のスケールを大きくしていって、最終的には肉体を超越し、地球上に自らの全てを散りばめる――それが死ぬということです。それから、その状態で宇宙全体に「アマハヤミ(思念の速度)」、すなわち光の速度の10の64乗で、魂を微細にして無限に宇宙に反映させていくと、自らがこの世界全体となるのです。その前の段階では、悟りとは、自らとこの世界の対比により、自らの世界が狭いと親や家族など、とても狭い枠の中で対比(執着)することになります。そして、それがさらに狭くなると、自分対自分の執着になるのです。それは自らの中にいくつも自分がいたり、そのバランスを欠くと心の病気になることもあります。しかしその反対に、自らが大きくなればなるほど、世界が広がって、意識は高くなり、全体のために役割として生きるようになるのです。

他者の為、世の中の為というと、とりあえず人間の世界では「ブッダ」と言われます。さらにそれが宇宙規模になって、全宇宙にまで広がると、それは「悟り」の状態です。悟りの完成は、肉体という形の存在する状態では成立しないのですから、肉体を返上した後(死後)、肉体は微細になって地球上に散らばっていくということになります。そして、これまで自らと世界を対比させていた意識から、自らを解き放って、全てを無限に微細にして、この宇宙に解き放つこと――それが悟りの完成です。

これはカタカムナで言うと、「現象界(ある世界)」から「潜象界(ない世界)」へ還ったということです。潜象界でバラバラになったものが、何かの目的に則ってムラが生まれ、何かの目的に則って現象界へまた生まれ出てきます。そうすると、次のあなたがまた生まれてくるという構造になっています。

仏教で悟りが説かれていますが、その時代の情報では、宇宙の構造はもっと小さく不明朗なものでした。ですから、同じ精神ではあっても、21世紀の悟りはさらに無限なるものなのです。違う言い方をすると、悟りというものがもっと明快に解明されていくということです。

あなたたちは、中国でコミュテニィを創りたいのですから、中国人の中でも特殊な人たちですね。現在の中国では、今僕が話したようなスケールのことを考えていない人が多いと思いますが、あなたたちは14億人いる中国人の中でも貴重な存在だと思いませんか?

ゼン:
そうですね・・・よくわかりません(笑)。

ファン:
私のような存在は私だけだと思います(笑)。

いさどん:
それは、地球規模でもそういった時代に移行していますので、へりくだらずに、「そういう人であるべきだ」と思うことが大切だと思います。

ゼン&ファン:
はい、わかりました。今日は大切な時間を私たちのために割いていただき、ありがとうございました。
  
 


菩薩とは?

ようこ:
今年から木の花ファミリーのホームページ上に「富士の麓のユートピア・菩薩の里」と銘打つようになったでしょ?「菩薩とは他者の喜びを自らの喜びとする存在」だといさどんはよく説明するけれど、ここで改めて、初めて菩薩という言葉を聞く人にとってもわかりやすく説明してもらえたらいいと思う。

いさどん:
菩薩は仏教的用語で、広辞苑で調べると、「成仏を求める(如来になろうとする)修行者。後に菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象となっていった」と書いてある。ただ、概念的に菩薩を捉えると、小乗仏教で言われる菩薩は、人間がある境地まで悟った状態のことであるとしている。そのためには、まず、自らの欲や我、執着から離れること。
木の花流に言うと、この世界はいのちの世界であり、いのちとは循環して巡り巡って変化するもの ―― その仕組みは、自他の区別なく巡っている状態。そうすると、そこにある己とは全体を循環させる役割のためにあるのであり、自己意識とはその構造を認識するための意識であって、本来そこに自他の区別がなくなった状態であることが望まれる(菩薩意識)。
だから、「菩薩とは、この世界の仕組みが健全であることや、そこに存在する人々が健全であり健康であることを喜びとする」ということになる。そして、その精神を世の為・人の為に生きることは菩薩道を歩んでいることになる。それを大乗仏教的菩薩道と言うんだよ。

だから、菩薩の状態は喜びを持っていることになる。喜びを持つということは、欲があり、感情が動く状態だということ。つまり、人間としての感情が残っている状態なんだよ(詳細は、いさどんブログ「全ては善への旅」「神の食べ物は喜びである」をご覧ください)。

ようこ:
いさどんが地獄界・人間界・菩薩界・仏界の心のランキングの話をするでしょ?一番上の段階である仏界ではなく、その下の菩薩界、すなわち「仏の里」ではなく、「菩薩の里」を私たちが表現することに意味があるのだと私は感じている。

いさどん:
菩薩とは地上に理想郷(地上天国)をもたらす境地のものたちで、それが完成されて天に昇ると、仏の役割に入っていくわけだ。地獄でも、人間界に近い地獄もあれば、無間地獄といって救いようのない世界もある。

ようこ:
そうだね、底なし沼のような世界もある。今日、いさどんに菩薩について改めて聞いてみたいと思ったのは、一番上のレベルの仏界ではなく、その下の菩薩界の境地がこの暮らしのポイントだと思っていたからなの。

いさどん:
菩薩界で生きることは天に通じている状態だが、人間界で生きることは天に通じていない。だから、菩薩界で生きることが神人和合の境地であり、世の為人の為に生きている状態なんだよ。

ようこ:
では、地上で生きている人間で、仏界の境地、つまり仏の心で生きている人はいないのかな?

いさどん:
仏の心で生きている人は・・・ほとんどいないね。

ようこ:
いさどんは仏?それとも仏と菩薩の間に位置する?

いさどん:
何だろうね・・・時々自分の精神状態を振り返るのだけれど、人間をやっているものだから変化・変容するんだよね。そうすると、この世界を憂いて悲しく思うときもあれば、この世界を喜んでいるときもある。
悲しいときを分析すると、その心は愚かしいものを観て救いたいとか、人々が健全に目覚めることを願う心から発している。喜びの心を分析すると、そういった愚かなものが健全になった(真実に目覚める)ことを喜ぶ心から発している。だから、世の中や他者の健全を常に願っていることは確かなんだよ。そこには揺るぎがない。
ただ、怒りも出てくることがある。それも分析していくと、汚れたものが美しくなってほしいと願う心であり、それも他者を想う心から出ていることが確認できる。

では、自分の為にという感情がどれほど働いているかというと、感情を色で言ったら七色で出てくる。その感情の色によって表現が違ってくる。それはどれも人を想う心であり、人が健全であることを望んでいる心であることは自分で確認できている。だから、どこかで、「この心でいいのだ」と思っている。
ただ、心が曇るときもあるのは、それが通じないことがあると、心が揺れることにもなるが、世の中や人の健全を常に願っているという意味では、菩薩界の段階にいるのだろうと思う。

肉体を持ってこの世界でいろいろな刺激をもらう状態で仏の境地にあることは、ほとんどありえない。それは生きていないような状態だから。仏の境地はすべて超越して、この絶対なる宇宙の法のままになっている状態だから、肉体を持って極めることは菩薩の状態の高いか低いか、ということなのだろうね。
現象界に仏が存在するとしたら、それこそ木や銅で創られるような単なる偶像崇拝の対象物になってしまう。そこに魂が入っているとして、何かしらの利益があったとしても、そのような対象になってしまうことだろう。

ようこ:
それでは新たな社会のモデルを創る存在ではないね。

いさどん:
そう。だから、人間がブッダの境地、つまり菩薩の境地に至ってこそ、人々に見本が示せるのだから、あの「菩薩の里」という表現はまさしくぴったりの表現だよね。
それで、菩薩にもランクがある。法華経で言うと上行菩薩とか、上行菩薩があるということはそこに至らない菩薩段階もあって、菩薩でもまだ初期の段階にいるものもいることになる。

ようこ:
菩薩にも色々なランクがあるということで、ここのメンバーもそれぞれオリジナルな菩薩を表現していければいいね。

いさどん:
そうだね。今の時代によく観られる人間の姿は、ある意味知識的に豊富になってすべてをわかったつもりになっている。それがお釈迦様の弟子の中で最も優秀であった「舎利弗」の状態であり、これは菩薩界に到達していないものが知識が豊富になって、自分が優れていると思い込んでいる状態だよ。

ようこ:
それが「もどき」だね。

いさどん:
そう。今の時代には、そのような人々が多い。彼らを冷静に分析していくと、自らの願いや考えに囚われ、自らを肯定しようとしている。それから、自らの考えを正しいとして、自らを肯定したいがための理屈を展開している。だから、大切なことは、その内容が万人に通じるものなのか、それとも個人だけのものなのかを客観的に分析してみる必要がある。

時代は確実に進んでいて、昔はいきなり刃物や武器を持って戦う時代があった。しかし、今の時代の人々は逆に、良い世の中にしようとして自らの囚われの中で生きているものもいる。

ようこ:
そうだね、原発反対の人たちとかね。

いさどん:
そう。それは社会を良くしようという心であることは確かなんだよ。ただ、自意識が強いばかりに、結局対立を生むことになってしまっている。だから、世界観を広めて、自らと他者・この世界との区別がなくなってくると、そこは解消されるだろうと、特に最近は世界観について語っているんだよ。そこが認識できれば、自らに対する囚われが少なくなる。
それを理解できればできるほど菩薩に近くなるし、世の中が良くなっていく道なのだけど、中には自らの都合が良くなることを目的にしているものもいる。「優れた人間になりたい」とか「悟りたい」とか。そこにはまた落とし穴があり、「自分が」ではなく、「世の中が良くなるために生きる」「他者のために生きた結果、自らの価値が高まる」ところに行かないと、結局利益のための道になってしまったり、自らの救済のための宗教になってしまう。しかし、そこでは結果として、自らが救済される境地にならないといけない。

それで、自らの願望を叶えるために生きている人は、ここでは生きられない。ここで生きる者は、自らを超えて社会や他者のために貢献することに共鳴している者たちだから。それが不十分であってもね。
それを道理として理解できている者もいれば、理解できないけれど大事だと思って共にいる者もいて色々だけど、他者のために役割を果たしていこうという自覚のある者が残っていることはたしかだよ。その自覚があるからこそ、ここにいるということ。しかし、自らに執着する心が優先する者は、「自分は正しい」と理屈をこねる。

ようこ:
そうだね、菩薩は理屈をこねない。

いさどん:
そう。菩薩は何を語るかというと、情報として観える景色を淡々と伝えるだけ。理屈をこねるということは、自らを正しいとしたいがために言葉を使うということ。

ようこ:
菩薩は結果も所有しないしね。

いさどん:
そうだよ。だから、いつも自らを正しい側に置いておきたい心を超えると、正しい・正しくないではなく、ただ道に沿って歩む安定した心の状態になる。不安定な心が出てきたら、それを安定させるために鍛えられているぐらいに思っているといいよね。不安定は安定するための指針をもらっているということだから。そうやって、人は元にある心が揺らがない状態になっていく。

ようこ:
菩薩は心が揺らがない?

いさどん:
揺らがないわけではないんだよ。喜びがあったり、憂う心もあるのだが、その奥は、他者やこの世界を想う境地になっているということ。

ようこ:
そこは揺らがないということだよね。

いさどん:
そう。だから、菩薩の状態だと揺らがない心になっているとも言える。

ようこ:
感情が出てきたとしても、元の心は揺らがない。

いさどん:
人間は揺らぎっぱなしだよ。自分のために生きているのが人間界の者たちだから。

ようこ:
自らの損得や思惑があるから、そこは大きな違いがある。

いさどん:
だから、己を捨てないと、人間界から菩薩界には行けない。

ようこ:
それが一番のポイントだね。

いさどん:
そこは明快なことで、多くの人は己のために生きているんだよ。それで、人間には知識的な能力の差があるものだから、賢ければ賢いほど、それを理屈で使って自らのために生きている状態が人間界の姿だ。そちらへ行くと、優秀でもやっかいだよ。ただ、人間的優秀さが菩薩につながっていけば良い世の中になるのだが、結局人間の欲や執着のほうに使われるようになると、良いことを主張しているようで、どんどん地獄が形成されていくことにもなる。だから、人間界で成功することは喜ばしいばかりではない。

ようこ:
ちゃんと後でそのツケが返ってくる仕組みになっているから。

いさどん:
それは確実に返ってくる。だから、意識が菩薩界に到達することが大切だよ。

ようこ:
そのためにも、ここが「菩薩の里」となって世の中に表現していくことが重要だね。

いさどん:
菩薩の世界は今の地上世界にはなかなかないからね。個がそこまで至ったものは過去にはいるけれど、その結果、みんな宗教などになってしまって、生活の中にそれが落とされていることは、僕が認識している限り、なかったのではないかと思う。

人間は生命であるから、生命を生み育むということは、そこに性が関わってくる。そうすると、生活の中に菩薩の心が反映されて、そこに菩薩の性が表現されるということ。性の世界はとても重要で、菩薩の性がそこに表現されると、天上人が降りてくるようになる。つまり、神の魂が降りてきて、菩薩として地上を生きるようになる。
しかし、未熟な人間がそこにいると、天上人ではなく、未熟な人間の魂が降りてくるようになる。だから、地上はなかなか良くならない。神聖なる性が愚かしいものに汚染されてしまうと、地上がなかなか優れた世界にならない。そうやって人間の意識によって、次の時代が決まってくるんだよ。
先祖から子孫への代々の継承がある中で、そこに優れたものを継承していくのか、それとも愚かな因縁を継承していくのか。その結果、コミュニティができ、社会ができてくるわけだから、そこでも大切な世の中づくりをしていることになる。

ようこ:
大分、「菩薩とは何か?」が観えてきたね。

いさどん:
常に他者や世の中を意識して、そこでは己が後に控えている状態でないといけない。だから、この生き方は己が勝っているものにとっては苦痛にもなる。

ようこ:
自分にとって苦痛だから、違う存在をバッシングしたりするんだよね。

いさどん:
そう。ただ、そこでバッシングされる側にも理由があるのだが、そのときにその理由にはいろいろあって、世の中が未熟であればあるほど、その世界では聖なるものに対して違和感を感じるんだよ。そして、その愚かしさがゆえにバッシングするのは、たとえばキリストでもそうだし、お釈迦様でもそういったことがあったのだろう。日蓮さんでもそうだけど、みんな聖なるものであるがゆえに、そして天の法で生きるがゆえに、地上ではそれが法難(バッシング)になってしまうわけだ。しかし、それは禊(みそぎ)であったり、心を創るための追い風でもある。

ようこ:
そうやって鍛えられている。

いさどん:
それは未熟から尊いものに育っていく過程の中で、負荷をもらって鍛えていく必要があるんだよ。たとえば筋肉がたくさんついて、仕事ができるようになるためには、筋肉痛が起きるわけだ。そういった段階での追い風的苦痛がある。そこはそれを客観的に理解して、自らの追い風にしていけばいい。それが理解できていれば、全て超えられる。

ようこ:
そうやって分析できていれば、問題事も学びとして生かされる。

いさどん:
そうなんだよ。出来事を学ぶと、こちらの愚かがなくなって、そこですべて益に変わる。そうすると、対象の愚かだけが残るから、もう向こうの問題だけになる。それは「愚かをやってくれてありがとう」という世界だよ。

ようこ:
だから、何も恐れず、進んでいけばいいだけ。

いさどん:
そこで「恐れずに」とひとくくりにしてしまうと、それは中身を知らないでただ信ずることにもなる。その心は大事だけれど、やはり中身がわかって信じていくという双方がないといけない。法と信じる心の両方があり、信じる心があるから法がわかるのであるし、法がわかるからこそ信じる心が育っていくのだから、その両方が常に開かれているということだ。

ようこ:
そうだね、道理と信仰心が両刃の剣ということだね。

いさどん:
そうなんだよ。

ようこ:
木の花の流れを簡単に振り返ると、創立メンバーは信じる心だけで木の花の土台を創ってきたけれど、そこに理屈をこねる人たちがメンバーに加わってきた。だけど、ここが新たなステージに移行する段階ではそういった人たちがそぎ落とされ、今は道理と信仰心の両方のバランスが求められている。

いさどん:
だから、常に冷静で客観的にものを観る眼があって、それを分析した上で道理の通った真実のところへ行かないといけない。

ようこ:
だから、ひとりひとりがよく考えるということだね。

いさどん:
そう、考えないといけない。自分の道なのだから。

ようこ:
何も考えずにただ信じる、ということもあるけどね。

いさどん:
いきなり何も考えずに信じることをやり切れてしまえば、それはそれでいいのだが、そこへ行くために道理が必要な場合があるんだよ。だから、最終到達地点は、真理がここにあるのだから、それになりきることが目的なんだよ。しかし、そこへいざなってくれるために道理が必要になる。
何も考えずに信じられる人がいたら、それはそれでいい。ただ、そういったものは地上に降りてくる必要がないんだよ。地上は因果応報の道理の上に事が成っているわけだから、やはりその道理の上に信じる心をつくっていく。しかし、信じる心が先に強い人は道理を超えて理解していく。いずれにしろ、最終的にはその両方をマスターしている状態になるということだ。

「種がある人が集まってくる」と言うでしょ?それは信じる心がすでに備わっているということ。

ようこ:
それが共鳴するのだものね。

いさどん:
そして、後から道理が観えてくる。その精神の人々の生活では、余分なエネルギーがかからないし面倒くさくない。

ようこ:
私も、信じて後から道理がついてくるタイプだな。

いさどん:
そうだね。だから、わからないことでもさっとやれる。やはり信じる心の種があることが大切だよ。それがないと、時間がかかる。道理の心が優先してしまうと、結局時間ばかりかかって、かけた時間が無駄になってしまうこともある。

ようこ:
そうだね、「阿吽」は信じる心だし。

いさどん:
「阿吽」は、完全にそれがマスターできている人たちの世界だよ。だから、心が通じている状態で、自らと他者の区別がなく、瞬間にお互いの心が読める状態だよ。これは相当高い境地だね。

ようこ:
菩薩の生活の中でも高い段階だね。

いさどん:
そう、菩薩が仕上がった人たちの世界だよ。「阿吽」の世界では知識的に豊富だとか、そういったことは関係ない。

ようこ:
ひとえに心が美しいとか、清らかだということ。

いさどん:
だから、これからは「美しい」とか「通じる」とか、もちろん「流れ」もそうだけど、そういうことが大切な世界だよ。そうすると、人々の関係に裏表がなくなり、美しい世界になる。

ようこ:
スムーズに事が進むし、気持ちが良い。

いさどん:
とても気持ちが良く、心地良い世界が展開される。

ようこ:
そういった安心感の中で、今まで心の病があった人たちも健全になっていく場ができる。

いさどん:
そう。そういった場を創れば創るほど、病んでいる人たちを癒す力が出来ていくわけだ。場で癒せるんだよ。

ようこ:
これまでも木の花はそういった場ではあったけれど、これからさらにそれがパワーアップしていく。

いさどん:
今までは世間とは違う場を提供するとともに、心が病んでいった背景を分析していって相手の悟りを促すということで、自然療法をやってきた。しかし、これからは場が優れているから癒されていく湯治場的要素が強くなる。それはそこにいる者たちがその世界を創って、目的を達成するだけではなく、社会を癒していく場になるということでもある。

ようこ:
そうすると、役割としていさどんがその人に伝えることはあるだろうけど、そういった機会が少なくてもいい場になりそうだね。全体でそういった場が完成されたら。

いさどん:
そうなんだよ。ここ全体がケアを引き受けている自覚がますます重要になってくる。今までもそうだったが、その精度が高まるということだ。

ようこ:
言葉で伝えるよりも、空気で癒していく。

いさどん:
それは、「人間たちが創る世界としてここまで可能ですよ」と社会に示すことが最終目的だから、ケアを提供しているというよりも、理想世界の可能性を提示しているということである。もし、ここがユートピアであり、「菩薩の里」と呼ばれるものであるならば、そこまでの可能性が表現できるということ。だから、ひとりひとり自覚して、その場創りをしないといけない。
これは「人々が創る精神の交響曲」だから、芸術の境地に到達することが大切だよ。美術館を訪れて素晴らしい作品に触れると心が癒されるように、そういった場を創っていく。「菩薩の里」と銘打った限りは、そこを目指して実現していくということだよ。

ようこ:
日々、みんながそれを心にとめて生きていく。

いさどん:
それは簡単なことだよ。「己を忘れて、他者のために生きる。社会や人々の健全を一番の喜びとする。」そこに尽きる。木の花(桜・梅・桃)を形成する個がまず花開き、それが全体でひとつの大輪となって花開き、美しい状態を表現する。それが人のいのちの美しさ(桜)や、健康・健全である美しさ(梅)であり、理想郷の美しさ(桃)を表している。
だから、「木の花」という名前にはとても重要な意味がある。それこそが「菩薩の里」なんだよ。

  


週刊文春への掲載を受けて ~ある弁護士さんといさどんとの対談~

昨年から親しくしていただいている弁護士さんが2ヶ月ぶりに木の花ファミリーを訪れ、いさどんと話す場がもたれました。話題の中心は先日発売された週刊文春に木の花ファミリーが掲載されたということで、弁護士さんが色々な質問をいさどんに投げかけました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

A弁護士:
少し痩せられましたか?

いさどん:
昨日から断食をしていますが、体重は減っていないですね(笑)。僕のイメージからするとだいぶ体重がオーバーしているので、できれば7~9kgは減量したいと思っています。

A弁護士:
何日間の断食なのですか?

いさどん:
以前ケアを卒業して、心の問題に取り組むために長期滞在している女性がいまして、今、心は安定してきているのですが、「断食をやってみたい」と言うので、「僕も一緒に付き合ってあげるよ」と伝えると、「それは心強いです!」と言うものですから。

ようこ:
ですから、その人次第で、どれくらい断食をするかが決まります。

いさどん:
一昨年、デンマークから文化人類学者が3ヶ月ここに滞在していたときに、「断食に挑戦してみたい」と言ってきたので、そのときも「付き合ってあげるよ」と言い、彼女は1週間やって、僕はついでに10日間やりましたね。

A弁護士:
そのときは痩せられましたか?

いさどん:
そうですね、最初の3~4日間で1kgずつ減って、その後はほとんど変わらなかったです。痩せるのが目的ではなかったのですが、減量は断食の途中で止まりますね。つまり、人間は食べ物で生きているのではないということがわかるのです。だいたい、5日以上過ぎると、ほとんど体重が減らなくなります。

A弁護士:
先日、知人の弁護士に会ったのですが、彼は9年間食べてないそうです。不食の人ということで有名らしいのですが、彼はプラーナを吸っていると言っていまして、それこそ結界やアワ歌で良いプラーナを与えましょう、と考えたのですが、プラーナをいただいているわけではなく、自分が愛を出していて、愛が循環している、と言っていました。彼は良いエネルギーを出していますよ。

いさどん:
青汁だけで生活している女性がいると聞いたことがあります。

A弁護士:
ですから、色々なエネルギーの人が沢山出てきているのですよ。

いさどん:
その色々なエネルギーの中のひとつが、今回の話かと思っています(みんな、笑)。

A弁護士:
(週刊文春を指しながら)いよいよ、いよいよ、ということですね(笑)。

いさどん:
この人たちはここを汚らしいところにしたいのでしょうが、僕は人の心を綺麗にするためにやってきたのです。

A弁護士:
この週刊誌自体がそういったエネルギーを持っていますよね。要は、体制を崩すことを許さない人たちですよ。今の支配者階級の宣伝部隊になっているわけですから、小沢一郎バッシングも週刊文春から始まっているわけです。やはり今の支配者にとって、気に食わない者はどんどん叩いていこうという感じですよ。

いさどん:
そういうことでしょうし、表面的な綺麗事の延長にこの掲載があると思います。今、木の花のことを率先して批判している人たちは、アカデミックに優れている人たちがスマートな世界を描いて、そうでないものは糾弾しようとするところもあるのでしょう。たとえば、原発に対して物申す、というところもあるじゃないですか。
そしてこの雑誌を見ていると、性の話でも汚れた描写が一緒に出ていますよね。そういったことを喜んで読む人たちが支持しているのですから、色々なことが入り混じってしまっているように感じます。

ただ、ここのところに来て、うちのネタは出るものは出たわけですから、これ以上のネタがないとしたら、次に何が出るかということですよね。

A弁護士:
感覚として、こういう意味では出ないと思います。ただ、木の花のホームページを見て、いさどんブログやみなさんのメッセージを読ませてもらい、その感想を言わせてもらうと、ある意味ではこういったことを全く知らない人から見ると、開き直りのような印象を受けるわけです。「わかる人はわかる」と。
この記事が出る前にある人と話をしていた際、その人はNPOで色々なことを一生懸命やっている人なのですが、木の花の話をすると、「ああ、あそこね」というイメージを持っているわけです。つまり、この記事の前からそういった人たちの情報を受けているわけですよ。そういったことも一部にはあるわけです。私は、「そういうところではないから、行けばわかりますよ」と伝えるのですが、そのようなイメージはある程度定着していると言えなくもないのです。
その中で、みなさんの「私たちはぶれていません」というメッセージや、いさどんの話というのは、知らない人からすると、ここは隔絶したグループという印象を抱いてしまうわけです。それはそれでひとついいのかもしれませんが、ここがひとつの先駆者、すなわち先を走るひとつのグループであって、そのグループにつなげる細い道を何もわからない人にも与えられるような感じがいいのでは、と私は思うのです。
今の感じだと、「木の花は何があっても動じません。私たちは皆と違った、きっちりとしたグループとしてできあがっていますよ。ですから、ここに来てそれを感じてください」というメッセージはあるけれども、普通の人からすると「ああ、そうなの」と逆に引いてしまうような印象があると思うのです。
今日、みちよちゃんが駅に迎えにきてくれて、ここに来るまでの車中で色々と話したのですが、彼女は彼女でできあがっているわけですが、友達に謙虚さが足りないと言われたそうです。第三者から見ると、色々なやりとりからそういったイメージなのです。

木の花のホームページだけでは、詳しいやりとりはある意味わかりませんよね。その中で性と暴力の問題がいわゆる社会の常識とずれていることはずれているわけです。ただそれは、表面的なものではなく、もっと深いエネルギーからすれば、本当のエネルギーがわかれば非難するものではない、ということだろうと思うのです。
そういう受け止め方を私はしているのですが、それは価値観が全く違うので、そのギャップを説明するのは難しいとは思いますが、そこをどうつなげるかだと思うのです。要は、世間は表面的な価値観で物事を見ているわけですよね。しかし、こちらではそういった価値観ではなく、もっと深いところのエネルギーをどのようにするかを真剣に考えてやっているわけですから、そこにギャップがあるのです。
そのつなぎということで、いさどんブログですでに話されているのかもしれませんが、「私たちは二歩先を進んでいます」というメッセージだと、一歩と二歩はどう違うのかとか、そのあたりのつながりが木の花を知らない人から見るとわからないと思うのです。そういう人はもういいよ、と言うのか、木の花がある意味ではリーダーとして、エコビレッジという名前はともかく、こういった自給自足のグループがあちこちにできていくときの先駆者となるのか。
私は、社会の支配から抜け出た本当に自由な生活をできる人たちが少しでも増えれば、一番いいと思うのです。みなさんはその先駆者だろう、とは思うのですが、要はこの「ビッグダディ」になってしまっている問題があると感じています。メンバーのみなさんのインタビューの中でも、「みんなはいさどんが好きだよ」という話になっているわけですよ。いさどんが叩かれているから、逆にいさどん擁護のようなところもひとつあるのですが、最終的には、いさどんが中心ではあるけれども、ひとりひとりが天とつながることが目標なわけですよね。

いさどん:
最終目標というか、今現在なってきていますよ。

A弁護士:
そうですよね、ただ、ひとりひとりのインタビューの中で、いさどん擁護というより、ひとりひとりがもっと自分を表現していったらいいと思いましたが、どうでしょうか?

いさどん:
それは今までずっとここでも語られてきたことで、そこが十分になっていなかったことの結果が今回のことを生んでいるということでもあるのです。それは僕のジレンマでもあったわけです。ですから、僕が望んでいないことが起きているわけです。

A弁護士:
ハッハッハ。

いさどん:
それは外の人の話ではなく、内部の事情として、望んでいないことが起きているわけです。僕を目立たないようにすることに取り組んできたことの延長に、このような段階に来たわけですが、今回のことを通じて今そこへ行こうとしているという感覚はあります。

ようこ:
ようやく(笑)!

いさどん:
ようやく(笑)!

A弁護士:
ようやく(笑)、ひとりひとりの意識が上がってきたということですね。

いさどん:
「これはもう、すずめの子のように餌を食べさせてもらうのを待っているだけではダメだ!自分たちで動かないといけない」とみんなが気付いたということです。
実は、週刊誌の記者は3時間40分、ここで話していたのですが、そのときの僕自身に対する評価は高かったですね。それから、ここがやっていることに対して、「個人的には勉強に来たいです」という話もあったのです。それに、「ここの雰囲気がとても良いですね」という話も出ていました。ただ、編集会議になると、そういうものは一切カットしないと売れないものですからね。
僕がそこで感じたのは、週刊誌の記者も別のものを持っているということです。そうすると、そういうものをつくっている週刊文春という体質も、そこではその両方を持っているということですよ。

A弁護士:
それなら、記者がそう言っていたということを、逆にホームページに出したらいいんじゃないですか?

いさどん:
それはそうですが、木の花のホームページといっても、最近チェックする人が増えたとはいえ、せいぜい一日400〜500件ですよ。

A弁護士:
でも、やはり関心のある人は見ますよ。木の花の情報となると、やはりそこから入っていくわけですから。
昨日、北海道でスピリチュアルリーダーをしているある女性と小田原で自然農をやっている男の子と会ったのですが、木の花の話になると、「私の友達の友達が以前あそこにいたので、今度行ってみようと思っています」という話になりました。やはり自然農をやっているグループだと、ここを出た人たちの友達になることもあるのです。そのときに「木の花のホームページを見たら?」という話もできるわけですから、いさどんとしてのメッセージを出した方がストレートに伝わるのではないかと思うのです。
それで、今言われたように、「ひとりひとりが天とつながることが自分の最終目標なのです。今、良いチャンスを与えられて、木の花のメンバーひとりひとりが直接天とつながることができるように、自立の兆しが観えています」というようなメッセージを出すことは、かなり効果的だと思うのですが。

いさどん:
それについては、今までの僕のブログにだいたい網羅されているはずです。

ようこ:
そうですね。

いさどん:
最近のものはこういったことを受けての話になっていますが、以前からずっと膨大な量の話を出していまして、そこをそのまま素直に受け取ってもらえれば、今のような表現はすでにしてあるのです。

A弁護士:
おそらく、その膨大な量を多くの人は見ないですね。

ようこ:
人は、最新のものから見ていきますからね。2009年のいさどんブログが設立されたところから読む人は、よっぽどマニアックな人ですよ(笑)。

いさどん:
全部で2000ページはありますからね(笑)。

A弁護士:
そうすれば誤解はないわけですが(笑)、そうじゃない人が大半なわけですから。

いさどん:
そこで思うところは、これは木の花のみんなにも伝えてあることですし、みんなもそのことはよく理解していると思うのですが、この世界にどんな形で反映されるかは、この世界の人たちの観る価値観によって決まるのです。
たとえば、ある出来事が起きたときに、それが暴力でも性でもいいですが、それを解釈するときには、これだけの膨大な情報を出されたのですから、結局その人の意識レベルで見えるものしか、見えません。
ですから、全体を観ることができたら、これだけの狭い情報に特化した評価とは違うものになるのですが、人はとかく自分の価値観でしか見ないのです。

昨日みちよちゃんが、「やっと私もいさどんのことがわかった」と言うから、「あなた、遅いね~」と伝えたのですが(みんな、笑)、それは何かというと、みちよちゃんが言うには、「いさどんは前から『イエスかノーかどちらかだよ』と言っていたよね。たとえば、木の花のここは好きだけど、ここは嫌だという人が多いし、私もそうだったのだけど、よく考えたら違うんだね」と言うから、「当たり前だよ。良いところも悪いところも、同じ精神から生まれてきている。そうしたら、良いと思ったら全て良いふうに観えないといけないのだし、悪いと思ったら全て否定しないといけない。それが本当は明快なものの見方なのだけど、あなたでも、木の花のここは良いけど、ここは悪いとずっとやってきているから、いつまでたっても本質が観えなかったんだよ。でも、今回のことでそれがわかったのだから、それだけ効果があったね」と話をしました。

僕としては、自分の心に曇りはないわけです。本来、僕の生き方としてはこれでいいと思うのです。ただ、ここの人たちが僕と同じような気持ちなのかどうかという確認が必要だったのですが、最近みんなの言動を観ていると、同じになってきたと感じています。

A弁護士:
今回のひとりひとりのメッセージではそれを感じますよね。

いさどん:
やっと、そこまで来たと思うと、それでいいと思うのです。時代は、いつも必ず一方通行です。ただ、最終的に宇宙はまた戻っていきますが、常に一方通行です。
事実として、人が協働しないといけないとか、もっと個人を超えて人とつながらないといけない世界が確実に来ています。昨日、関東では6月の1日の降雨量として記録的な大雨だったとニュースになっていましたね。北海道でもまだ6月なのに最高気温が34.8度と記録が更新されていくわけです。このように未踏のところへこれから踏み入れていくわけです。

A弁護士:
そうですね。

いさどん:
そうしたら、人間たちも未踏のところへ行かないといけないのに、どうも話をしていると、自分たちが今までいた居心地が良いところでものを観ようとしているから、それではここで起きていることは理解できないのです。しかし、私は以前から「先をやりなさい。雛形をやりなさい」と言われていて、今回の件が起きたときでも「難しいことを与えておるゆえ、心して行け」と言われたのです。そのときに、「わかっています」と言いながら、実際にそれが来ると、「これだったのか」という想いもありますが、でも難しいことはこれで終わるわけではありませんから、安心はしていません。

そうすると、気になるのは、僕のことはいい。ただ、みんなについては、巻き込んできたのか、それともそれぞれの人生プランのもとに集ってきたのか、ということです。集ってきたのであれば、誰にも責任はないのです。そして、世の中もこういったことを必要としているのですし、それに応えて、あえてこういった難しい役割を引き受けて降りてきた、という自覚はあるのです。この契約はあと17年ですけどね。

A弁護士:
80歳までということですか。

いさどん:
はい、あと17年この契約をもらっているのですが、「おまえ、いのちがある限り、評価はされんぞ」ということも聞いているのです。だから僕は、「いいじゃないですか。建物が建つときに見えない基礎で、縁の下でいいんじゃないですか。それが大事なのですから」という約束のもとにやっていることは確かなのです。

現世的な対処は当然していきますが、ページをめくっていくことが必要だと思うと、ページの先には「こうだったね」という話が来るという確信はあるのです。最終的に、生きるということは、ダイナミックに、変な規制をかけず、生き切るということです。そして、死ぬことは、自らが生まれてきて役割を与えられたことの完成を観る、ということです。それしかないと思っています。

ですから、僕が考えていることに他の人を巻き込んできているとしたら、みんなに気の毒だと思うので、みんなに確認したのです。自分の意志でこの生き方をしていることをみんなが理解できたら、これは鬼に金棒で、何でもいいと思います。ここが世間から全くずれたところであって、一般の人たちが理解できなくても、それは全く構わないのです。
宇宙の仕組みからいったら、だいたい地球上に人間のような意識レベルが低いものが肉体を持ってまだあがいていることからしたら、「あなたたちの世界を広めなさい」という段階に来ているのだと思います。

2012年の12月21日(銀河の冬至)に扉が開いて、そういった変革が始まったとしたならば、2014年はいよいよそういうものが出だしたということです。最初の話の、色々な人が現れてきた延長に、結構刺激的なものが出てきたということです。これは問題提起ですからね。相変わらず、奇抜なのですよ(みんな、笑)。

A弁護士:
人数的に、今80人というのはどうなのですか?

いさどん:
人数は関係ないですね。なぜかというと、多かろうが少なかろうが、大切なのはその一体感です。

A弁護士:
一体感があれば、100人でも200人でもいいということですね。

いさどん:
はい、全く問題ありません。実際に、この状況でもメンバーになりたいという人がいるのですから。全てわかりきっているからこそ、ここのメンバーになりたいという人がいるのです。そうすると、仮にこの記事を見て、「やっと本物が世に認知されるようになったんだ」と思う人もいるわけです。

りゅうしろうも、能力が高いわりにはなかなか活躍しないと思っていたところもあったのですが、インタビューの中で「1万人の中の1人がわかればいい」と彼は言っています。しかし、僕はそんなことは考えていません。100万人に1人わかればいい、と(みんな、笑)。
そうすると、1億3000万の中でとりあえず130人ということです。これは80人が130人になるのですから、すごいことですよ。数字はものすごく謙虚です(みんな、笑)。1万人に1人だったらたいへんですよ。1万人に1人なら、1億3000万からすると、13000人になるのですから。まだ13000人もいらないですよ。これは地球全体のことです。とりあえず、今のところ100人超えればいいんじゃないですか。まだそれくらい微々たるものだということです。
僕はそのようなことを考えているのですが、どうですか?

A弁護士:
そうすると、もっと先鋭化するというか、ある意味わかる人しか入れないということですか?

いさどん:
入れる・入れないは関係のことです。それは天の意志ですから。天の意志と本人の意志です。
これからの時代は、自らの思考と天の法則がいかに一致するかどうかであって、農業も同じことです。この自然法則、天の法則と我々がやろうとしている作物に対する心が一致するかどうかが、これからの農業の在り方なのです。

そこで大切なのは、自分が勝っていてはダメなのです。自分が勝っていては、天が「従」になってしまう。天が「主」で、自分が「従」にならないといけないのです。それが宇宙を生きるということですから。
そうしたら、そういった人をここでつくっていくとしたら、元メンバーのような人たちがここにいたら困るのです。しかし、それでもここにいたいと言っていたので、それを調整してきたのですが、それが調整しきれない状態でどうしようもなくなったときに、あのようなことが起きたのです。しかし、あのことも、彼が僕に何度も、「いさどん、僕を殴ってください。僕のこのどうしようもない人間をなおすためには、殴ってもらうしか方法がないのです」と言ってきているのです。そして、それをずっとなだめてきて、最終的に叶えたら、今のようなことになったわけです。こういった本当のことについては、表に出てこないのでみんなわからないのです。
陰でここのことを色々言っている元メンバーたちも、何回ここで不祥事を起こして頭を丸めたか。一人はパニック障害で仕事ができなくなって、何か月かけて僕がなおしてきたのか。そういったことを忘れてしまっているのです。

真実というところから観ると、確実に間違いのない実績があるのです。真実が観えない世の中だから、こういうふうになっているわけです。

A弁護士:
そうですね。

いさどん:
その真実のところに生きている者が、真実を見えないところに媚を売る必要はないわけです。

A弁護士:
そうです。

いさどん:
生きていれば目的は達成されますし、最終的には死を迎えるのですから、濁りのない生き方をすることが大切だと僕は思うのです。その姿勢は、高飛車だとか、傲慢だとか言われますが、それこそ二歩先ですからわからないのです。だからこそ、世の為にも貫き通さないといけないのです。それが僕の姿勢です。ですから、死ぬまではわかってもらえない、という覚悟をしています。しかし、時代が、「その先駆者がいたのだ」と気づくときに、僕は天から観ていますよ。ハッハッハ。

ようこ:
実際、Aさんのように、こちらの全てを細かく伝えているわけではないのに、感覚で理解されている方もいますしね。

A弁護士:
ここに来れば、エネルギーでわかりますからね。この週刊誌のようなぐちゅぐちゅとしたエネルギーではないことはわかるわけですから。

いさどん:
週刊文春の記者ですら、「いいところですね~」と言っていました(みんな、笑)。だから、「それが感じられる?」と聞いたのです。

特に、このタイミングでカタカムナがここに来ました。12000年前のカタカムナ人の物理学は、ここの生き方そのものですよ。神の物理性をそこでは解いているわけです。そうすると、この現代物理学の奥にあるもの、そして宇宙は物理によってできているわけですから、それを科学として人間は解き明かしてきたわけです。しかし、真理からすると、それはまだまだ遠いですね。
カタカムナでは12000年も前に、それがすでに解き明かされていたわけです。それが戦後に復活したわけですが、その第一人者が講師としてここに足しげく通って勉強会を開いているわけです。今度、アワの歌の解析をしようかという話もあるのですよ。

ここに1年8ヶ月滞在していて今はヤマギシに戻っている人が、ここが恋しくてまた帰ってくるのですが、「この週刊誌や色々な書き込みを見ると、ここにいて感じるものと正反対のものが表現されているので、どういう世の中なのかがよくわかります。」というメールを送ってきました。
事実、週刊誌やここをバッシングする人たちが描く世界と、ここで表現されている世界には大きなギャップがあります。実際にここを訪れる人たちが感じるものが真実なのであり、ここでこれまで色々なことがあったのも、今のこの場所につながるためにあったのです。そして、私たちはこれからも理想郷を目指して歩み続けていくわけです。それを、どこかに焦点をあてて区切ってみるのは、たとえば自然を見て「弱肉強食だ」と言っているようなものなのです。今を真実とし、そして未来にまた今があって、真実が紡がれていくのです。

やはり、観るべきところを観た人にはわかるのです。しかし、それはトキとトコロが、つまりトキが来て、そしてトコロ、すなわちそういう環境が整わないと、起きないのでしょう。地球自体が今そちらの方向へ行っていますが、世界で70億の人間がそれに気が付くためには、相当の負荷が与えられないといけないのかもしれません。木の花のみんなも、今回この負荷を与えられて、やっと目覚めてきたのですからね。

ようこ:
3年前、いさどんが還暦を迎え、生前葬をしたときから、「これからはいさどんを目立たなくして、ひとりひとりが声をあげていこう」と言っていたことが、3年かかってようやくここまで来たのです。

いさどん:
そう、3年かかってやっとね(笑)!

A弁護士:
それも、この出来事のおかげでできたということですね(笑)。

いさどん:
ですから、これは我々のためにもあるのです。

ようこ:
外の人から見ると、「創立以来の木の花最大の危機ですね」と心配される方もいるのですが、私からすると・・・

いさどん:
やっとここへ来たか(みんな、笑)!全ては善きことのために。この世界だけを見ていると、今回のことは一大事ですよ。しかし、この世界の人たちが何を見ているかです。

A弁護士:
エネルギーがわかる人が少しずつ増えてきてはいますね。

いさどん:
この間、カナダ人の文化人類学者の教授が10日間滞在していたのですが、国から助成金をもらってここで長期の研究をしたいということで、助成金が下りればすぐにでも来て、半年くらいここに滞在したいと言っています。
彼女は10日間ここに滞在して、この一連の騒動についての情報も耳にしています。彼女はこういった共同体の研究は実は始めたばかりで、それまでは貧困を研究していました。その際、貧困の中にも豊かさがあることに気付き、豊かさや人の幸せを研究すべきだと考えたときに、コミュテニィを研究しようと思ったそうです。
それで彼女にここを紹介した人は、昨年元メンバーの書き込みに賛同して、ここのことを赤軍のようだと言っていた人なのですが、カナダ人の研究者に「いいところがありますよ」とここのことを紹介するのですから、おかしいですよね(みんな、笑)。思考が狂っているのは、天のはからいなのです。

彼女がここに来たときには、こういったことが話題になっている真っ最中でした。ところが、彼女が聞く情報と、ここで展開されている世界が違うのです。それで彼女は、この観えないものを調査する必要があると感じ、僕と3時間話したのです。そうしたら、彼女は「これは重要だから、これを世の中に出さなければ私の人生の意味がない」と言っていました。
そして、彼女の滞在中に、一昨年ここに3ヶ月滞在していたデンマークからの人類学者が、たまたまここに1泊2日で来たのです。彼女は、「いさどん、今度はもっと長くいるからね」と言っていました。それから、イギリス人の写真家も、たまたま同じときに1泊2日で来ていたのです。彼も深い写真を撮る人ですが、その3人がここで出会ったのです。そして、「ここを世に出さなければ!」と3人が盛り上がっていたのです。
そうすると、これは天が何かをやっていますよ。日本の民衆が何をやっていても、天が何かをやっています。ここにいると、それがわかるのです。

ようこ:
メンバーのインタビューの最後に、今ここに長期滞在中の中国人のコメントも載っていますが、今ふたりの中国人がコミュニティを創ることを学ぶためにここに滞在しています。

A弁護士:
今日、お昼ご飯を一緒に食べましたよ。

いさどん:
アメリカで物理学を専攻している彼が、中国でコミュニティを創りたいということでここに滞在しているのですが、ここのことはとても評価していますね。ですから、ミーハーで色々な活動を表面的にしている人たちとは大きな差があるのです。
さて、そこで彼らに理解してもらうための行動をするのか。それとも、ここを求める人たちが来るために、明快なあり方を提示し続けるのか。ここを求める人たちは砂金探しをしているようなものです。その砂金であるべきなのかといったら、僕は後者であるべきだと思うのです。
ですから、僕はわからないほうがいいと思いますが、どうですか(笑)?

A弁護士:
エネルギーはこの場にいればわかりますからね。皇居の清掃奉仕というものが4日間あるそうですが、そこに知り合いが行ったら、最後に天皇陛下と皇后陛下がお出ましになるそうです。そのとき、全く場が変わるそうです。若い女の子が涙ぐむし、今までにない波動を感じた、と僕の知り合いは言っていました。ですから、天皇陛下・皇后陛下が日々の祈りというか、霊的な御行をされていることがわかると言っていましたね。

いさどん:
宇宙的には完璧に次のステージに入っているわけです。地球も次のステージに入りましたからね。あとは、人間たちだけなのです。
そのときに、ここで今までやってきたように、どの人たちもみんな一緒に連れていこうかと思ってやっていたときには、足に絡む者から色々いたのですが、それが今は全て綺麗に整理されました。やはりトキとトコロが来ないといけないのです。人にもその人の時間軸があるのです。
僕は誰をも、望む者は一緒に連れていきたいという現世的な、肉体を持っている人間的な慈悲の心があるものですから、そういったものを引きずっていましたが、天がそれを排除されたのです。

「ありがとうございます。お蔭で楽になりました。その代わりに、人類という重荷がここにかかってきましたが、それは覚悟しております。」

これからは、一般大衆の目覚めの時代に入ったわけですから、「全ての人間に仏性あり」という扉が開かれたわけです。これは、木の花が始まったときから言われていることですが、「ひとりびとりがイエスやブッダである」というのが元々の歩みだったわけです。やっとそこへ、20年をかけて来たわけです。
昨日も、「これは嵐だよね」という話をしていたのですが、ここの人たちはその嵐の中心にいるのです。まわりがすごい勢いで風が吹いているときに、その真ん中は穏やかで晴天で風もない状態だね、とみんなで話していたのですが、こういう表現はいかがですか(笑)?

A弁護士:
そうですね、みなさんを観ているとまさしくそういう感じですね。みなさんのインタビューを読んでも、完全に抜けていますね。

いさどん:
僕は記者の二人が来たときに、「あなたたちは性をどういうものと捉えていて、あなたたちはどういう欲求で性を表現するのですか?」と聞いたのです。そうしたら、「それは欲望ですよ」と言うから、僕は「そうですか。元々性というものは、宇宙創造の原理なのです。だから、神聖なものなのです」と答えたら、その通りが記事には載っていましたが、ただ自分たちの発言は書いていないのです(みんな、笑)。

ようこ:
そこがポイントなのにね(笑)。

いさどん:
「そういうことをやっているから、こういう雑誌も売れたりするのです」と3時間40分も話しました。
ですから、ある意味、今バッシングをしている人たちもエネルギーをたくさん使っていますが、自分たちが何者であるのかをいつか気が付くために、一生懸命やっているのです。

A弁護士:
バッシングのエネルギーは結局自分たちに戻ってきますからね。

いさどん:
この間のカタカムナの勉強会で講師の人が言っていたのは、「これから真実が明かされるときに、本当の宇宙エネルギーが人間の思考の中に働く時代が来るのですが、逆にそういったことが働くということは、エネルギー全体が高いのですから、生き霊など祟るものも同じように激しくなるのです。だから、これからは激しいということですよ」と言っていましたね。

ようこ:
光だけではなく、光も闇も全てのエネルギーが激しくなっていくということです。

いさどん:
バッシングをしている人たちは自分たちを正義の味方だと思っているのですが、残念ながらそうではないですね。どういう心を持ってやっているのかが、自らの人生を形成していくわけです。必ず未来にそれが自分を待ち受けていることを、彼らはわかっていないのです。

A弁護士:
本当のところが観えていないから、記者もみんな、ある意味利用されているわけですからね。

いさどん:
ですから、正義の味方ですが、実はこの世界に正義も悪もないのです。ある意味、悪は、本当の正義の味方ですからね。ただ、正義も正義の味方なのですが、正義だけをかざしているのが悪なのです。

A弁護士:
結局、みんな本当の自分がわからないから、そういうことになってしまうのですよね。

いさどん:
まず、「人間が何者なのか」がわかっていないでしょう。毎日あくせく働いて、お金に追われて、そして物に執着し、人に執着し、自分に執着し、そこで自らの想いを叶えることが幸せだと思っているのですから。そういったことを全て乗り越えられたところに本当の自由があって、真実の世界があることがわからないのです。

僕の話していることは、時代というものを超えた物語です。それは宇宙的スケールであり、宇宙創造から消滅までのスケールで、それが輪廻するのですから、無限なるスケールで話しているのです。しかし、そういった時代が21世紀に現れたことが、多くの人はまだわからないのです。

A弁護士:
人間は全て宇宙人ですからね。

いさどん:
僕が最近よく言う話ですが、昨日もここにこの場所がありましたが、昨日から今日へ24時間経つと、170万2080km、物理的には移動しているのです。つまり、ここの場所自体が宇宙の中で永遠に同じ場所にないのです。

A弁護士:
回転もしていますしね(笑)。

いさどん:
そうです。あなた自身が、全く止まらないで変化し続けているのです。さらに、カタカムナ的に言えば、この有限な世界は「ない世界」と「ある世界」を行ったり来たりしているのですが、その「ない世界」を私たちは認識できないので、私たちは半分しかこの世界の実態を認識していないことになります。これは、ある段階まで行くと、真実だとわかるのです。

A弁護士:
結局、意識次第で人間は変わっていくわけでしょう?

いさどん:
この世界は意識だけで、たちどころに天国にもなるし、地獄にもなります。

A弁護士:
だから、その意識をどこまで高めるかということが、人間の命を与えられた理由なのですが、この肉体を守るために一生懸命やっているから、もうどうにもなりませんね。

いさどん:
肉体に執着して、この目でしか物が見えていないから、そうなります。ですから、同じ情報をもらっても、意識レベルによって木の花の評価は全く違ってくるのです。物を見て、「これはこうだ」と決めた時点で、物を見ているのではなく、自分自身を観ているのです。しかし、それが人間にはわからないのです。

理想郷はずっと昔から常にあり続けているのです。ただ、人間がそれを理想の意識レベルで観ているかどうかです。悟りも同じことですよ。悟りはすぐ隣にあるのです。全てに執着がなくなって、全ての側にチリのように自らの魂が分散されて反映されたら、万物に自らが立つわけですから、悟りの境地になるわけです。瞬間にして、自分自身を組み立てることができるのです。これが「いさどん」ですよ(笑)!それを、みんながやっているのです。

業をして悟るという昔の方法はある意味幼稚なのです。21世紀の悟りは、もっと簡単にエネルギーもかけずにできるのですが、それができるということはその意識レベルに行かないといけないということです。カタカムナを学ぶと、そのあたりがよくわかってきます。お釈迦様もキリストも、いつの時代にもいるのです。
昔、文字のない時代に、なぜカタカムナが伝承できたのかいうと、「口伝」だというのですが、その口伝の意味がわかっていないのです。口伝とは、その口伝する役割の人が耳で言葉を聞いて、それを次に伝えたと人は思っているのですが、それは違います。いくらそれをしたところで、意識レベルが違っていたら、同じものを観ても別のものになってしまうのです。

微生物が死に絶えても、トキと環境が整うと、また湧いてきます。ホタルや自然のものでも、絶滅したように見えても、トキと環境が整うと湧いてくるのです。この6億年の間に、地球上で6回生命が絶滅したと言われていますが、その後に必ず湧いてくるのです。そしてそれは、進化して出てくるのです。
人間の歴史上、人類というレベルはある一定のレベルになるのですが、それを導く次元の魂が時々降りてくるのです。その魂が降りてきて、何を観るかというと、たとえばお釈迦様が意識したレベルのものが現れると、宇宙を観て、この世界を観て、人々を観て、同じことをそこで語るわけです。キリストでも同じです。経典がなくても、それは同じことを語るのです。宇宙が同じですから。同じことを宇宙はずっとやり続けているわけです。
それは無限に変化し、進化し続けています。ですから、意識の高いものが役割としてパッと降りてくればいいのです。それは天の采配です。それが時代を刻んでいるということです。その中で、ブッダレベルのものが降りてくる時代と、全くいない時代があります。それがある時代に出てくると、それが受け皿になって、宇宙を解釈して伝えるようになるのです。

A弁護士:
今はブッダレベルの魂が結構いるのではないですか?

いさどん:
そこが僕には何とも言えないところです。ブッダレベルのものがいたら、今の時代の様子はもう少し違う気がするのです。すでに出てきているかもしれませんが、それはこれからの働きですね。

いさどんは特定のリーダーのように見えるかもしれませんが、実は特定のリーダーを創らないために生まれてきているときには、誰かがリーダーにならないと仕方がないのです。まだ、みんなが育っていないときにはね。ですから、みんなが育ってしまえば、いさどんはいらなくなるのです。「僕が目立たなくなるように」と僕はずっと伝えてきているのですが、解説すると、事はこういうことですよ。

それで、「生きているうちは評価されないぞ」ということですから、評価されなくても本望なのです。地上で評価されるために生きているわけではなく、天でふさわしい役割を受けて降りてきたのですから。ですから、どんなに傲慢だと言われようが、やはりやり続けるということなのです。

「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり。」
衆生のためにやるためには、衆生にごまをすっているようなことでは、役割は果たせません。僕はそう思っているのですが、生意気ですかね(笑)?

A弁護士:
いや、それはいいと思いますよ(笑)。ですから、そのメッセージをストレートに出したらどうですか?

いさどん:
それには、そういう話を理解する相手がいるのです。そのレベルの人が目の前にいると、今のような話が出てくるのですから、相手のレベルに応じて話が出てくるのです。理解できない人に、どんなに説明しても伝わりません。全ては、人のためにあるのですから。
そうすると、そのレベルの話を引き出す人間が来ると、それが語れるのですから、もっと頻繁にここに通ってもらわないといけませんよ(みんな、笑)。今日この話が出てきたということは、あなたがこういった話を引き出す人だということがわかったのですから、お互いにもっと世の中のためにもコラボしていきましょう。今日の話を世に出せば、それを読んでピッと感じる人は感じますよ。ですから、こうやってつながっていくことが大切だと思います。

A弁護士:
そうですね。

いさどん:
これは、世のため人のためです。僕は常に、人類のために生きています。時代を担うために生まれてきているわけですから、そこを外したら生きている意味がありません。

A弁護士:
それぞれの人も、自分の意識を変容するために生きているわけですからね。

いさどん:
そうです。

A弁護士:
ところが、安易な情報というか、闇の力が強すぎてしまっていて、いかようにも仕組まれていますからね。

いさどん:
ただ、天が言うには、「その闇も私が創った」と言われるのですから、天の自作自演なのです(笑)。

A弁護士:
そこが巧妙なので、それに気付くのはその人の本当の意識なのでしょうが。

いさどん:
「そこが巧妙で、ダイナミックであればあるほど、豊かでしょう」と言われるので、「そうですね」と答えるものの、「でも地上で生きていると、結構うっとしますよ」と言うこともありますね(笑)。
  
  


「覚悟しております」

昨年秋、木の花ファミリーを離れた元メンバーが木の花ファミリーの批判を始めたことをきっかけに、一部インターネット上にて真実とは異なる情報が流布し、先週発売された週刊文春に木の花ファミリーに関する記事が掲載されました。
以下の会話は、記事が掲載される2ヶ月以上前の3月下旬に話されたものです。この機会に、皆さまにもシェアいたします。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
昨年秋から色々なバッシングを受けてきたけれど、もし僕が逆の立場だったら放っておくよ。例えばそれが自分が関わった場であったとしても、縁を切ればいいだけのこと。そして自分の生き方をすればいい。

ともこ:
だからさ、やっぱりみんな木の花のファンなんだよ。

いさどん:
そうだね。興味があるんだよ。そして、ある意味、ここが本物であって欲しくないという心があるんだよ。逆もあるかもしれないけどね。もしも本物ならば、とことんそれぞれが探求していけばいい。

ともこ:
でも、ありがたいね。こういうことが起きるたびに、ああ、大事なのはこっちの道だな、ということを確認させてもらっているよ。

いさどん:
ここまでのことを、こちらから世の中に出すことはできない。でもこうして暴露されたからこそ、そのことについて語れるんだよ。それを聞く人も、その時には「そんなことあり得ない!」というような感情があったとしても、時代が進んでいった時に、「あれ?これってどこかにあったよな」と、それが鮮烈であればあるほど、思い出すじゃない。

ここまで真剣に自分と向き合って生きている人たちがいるということを、こんなふうに広めることなんて、我々にはできないよ。だから、これは神業なんだよ。

ともこ:
そうだね。世間に対してもそうだし、私たちの中でも、真剣に考えるようになったよね。

いさどん:
なぜこれを生きているのかということを再考することになった。

ともこ:
うん。すごいよね。木の花にいると何の不安もなく安心して暮らせちゃうから、中にいるとボケてくる人もいる。その時にこういうことを起こしてもらって。

いさどん:
目を覚ませ、と言ってもらっているようなもの。

ともこ:
そうだね。

いさどん:
目を覚ませということを我々に伝えながら、世間にはここの存在を知らしめている。一挙両得。同時進行でやっている。まさに神業だよ。
でも、これは天のはからいだからできると思うんだよ。人間だとどうしても、物理的に、一つひとつ対処療法的にしかできない。何かが起きてきたから解消するということしかできない。これから起きてくることもわからないし、流れも創ることがなかなか難しい。
天の意志を感じているからこそ、我々はこのように立体的に捉えることができるわけだよ。これは天との共同作業だよ。

ああ、言葉が降りてきた。

「地を生きる者たちは、その目に限定があるがために、天のはからいがあることが見えぬようだが、常に天のはからいをもって地があることが理解できるか。」

それはあなた、理解しているに決まっています。ただ、私たちは地上を生きる者ですから、とりあえず地上の現象をまず最初に受けて、それから天の意志を受け取る順番がありますので、一瞬はうっとするものではあります。ただ、その天のはからいを理解した時には、豊かな心となって、一瞬のくもりの心も、あっという間に晴れて、喜びへと変わるのです。有り難いことです。
有り難うございます。有り難うございます。有り難うございます。
有り難うございます。有り難うございます。有り難うございます。
有り難うございます。有り難うございます。有り難うございます。

肉体を持っていることは、ダイナミックだね。でも、ダイナミックと感じるためには、天の意志がわかってないと、生きることをダイナミックと感じて楽しめないよね。人間たちも、一部ではあるけれど、ここまで天を感じて生きる段階に突入したってことだよ。
あなたにも役割があるんだよ。こうしてここに来て、心を安定させたのは、何もあなたの心を安定させて楽にすることが目的じゃない。すべて世のため人のためにあるんだから。そうすると、自分が何で降りてきたのか、その目的が、神さまの手先となって世のため人のためにあるということ、この時代を紡いでいくための役割を果たしていくってことになるんだよ。それがよく理解できたら、より充実した人生になるよ。
それにしても、外れていった人たちはユダみたいだね。そして、ユダにも役割があったんだよ。

ともこ:
不安だろうね。

いさどん:
それも含めてね。
あなたは、マインドコントロールされていますか?

ともこ:
ううん。されていない。

いさどん:
それが自らの意志であるならば、マインドコントロールじゃないんだよ。自分の意志で、そういう想いや行動ができるようになった時に、それはマインドコントロールとは言わないんだよ。

ともこ:
決してマインドコントロールではないけど、すっごい助けてもらっているって思う。

いさどん:
それは、共に生きることによって、より強く、高く生きるための、お互いの相乗効果だよ。だから、人は群れて生きるんだよ。しかし、自分たちの傷口を舐め合うために群れるようなことではいけないけどね。

(しばし沈黙)
ねえ、ともこさん。僕たちは、ひとつかね?

ともこ:
うん。ひとつだよ。

いさどん:
たぶんね、天上では、一つの命、魂を形成していて、分かれたもの。今も一つの地球生態系を担っている。

ともこ:
私、やっぱりね、いさどんを大事にすることが大切だと思うの。今の時点では、私からは人のためになる智恵はあまり湧いてこないんだよ。だけどその分、いさどんからたくさん湧いてくる。だからいさどんを大事にすることだと思うんだよ。

いさどん:
それはそうだね。

ともこ:
そういう人と、こうやって一緒に過ごせていることが、すごくありがたいことだと思うの。

いさどん:
昔ね、自分というのは何だろうと思った時に、そこら辺にいる人の一人だと思っていたんだよね。だから、あまり自分の言葉とか想いを大事にしていなかったのだけど、自分が想うことや語っていること、それからやっていることへの真剣さがだんだんわかってきたから、これってもしかして宝くじに当たった?と思ったんだ。
しかし、宝くじだったら、例えば全国で150本とか当たるわけだよ。ではこんな人間が日本に150人いるだろうか?1年に何回かその宝くじが発売されるとしたら、当たる人はさらに増えるよね。じゃあこんな生き方をする人がそんなにいるだろうかと思ったら、いないわけだよ。そうしたら、宝くじなんてものではないことに気付いた。

ともこ:
ほんとだね!(笑)

いさどん:
例えばお釈迦様やキリストの存在を考えると、それはすっごく少ないことなのよ。だけどそこで気付いたんだよ。どんなに少なくても、そこにいるんだってことさ。
ということは、「自分はそんなものじゃない」と否定した時に、可能性はゼロになる。しかし、そのものであることの可能性が少しでもあるとしたら、それが自分であることも有り得る。それを「そんなこと有り得ない」なんて思っていたら、自分が希少な役割をもらってきていることを放棄することになるんだよ。
だから、まず、自分はそういった役割として生まれてきたんだ、ということを信じて、とことんそれをやり切ることだと思ったんだよ。そうでないと、その希少な役割であることを放棄することになり、天に対して大変失礼なことをしていることになる。だから、自分はそういうものであるということを、自分の中でちゃんと納得しようと考えた。そして、とことんそれを生きようと思ったら、やっぱりそのように生きられるんだよ。それは、自分が創っていく部分と与えられたものと、両方だと思ったんだよ。
だから、へりくだり過ぎてはいけない。かと言って、驕ってもいけない。ただ自覚ある者として、粛々とそれを生きる。そう思ったね。そうやって自分に言い聞かせてきた。
最近はそんなことを思うこともなく、ただ粛々とこの道を歩むものとして生きるだけになってきた。昔は葛藤があったからね。よく自分に言い聞かせたよ。

ともこ:
今の話を、批判している人たちに聞かせてあげたいな。この生き方をしていくことが、どれだけ覚悟がいることかって。

いさどん:
そうだね。これを歩むことは、大変な覚悟がいる。その覚悟は、一切の駆け引きとか、損得とか、そういったものを抜きにしないとやれない。自分の立場なんて考えていたら、心がつぶれてしまう。
こうやって、いろいろと批判の嵐にさらされるでしょ。その時に、やっぱりうっとするよ。だけどその後にね、ちゃんと湧いてくるんだよ。「そこでくじけては、これをやっていく者の資格はない」って。いつも思っている。
だからね、懲りないよ、この人は。そういう自分が僕は好きだね。

ともこ:
それがどれだけすごいことかっていうのが、彼らには見えないんだろうね。

いさどん:
矢面に立てば立つほど、対抗するのではなくて、粛々と生きていく決意が湧いてくる。
でもね、粛々とやっていく意義があるでしょ。そしてそれを伝えることは大切だと思いながら、面倒くさいと思うこともあるんだよね。なぜかというと、人間というのは、わかる時が来ないとわからない。それで、わかる時が来ていない人間にわからせようなんてことをすると、すごくエネルギーがかかるわけだ。ところがわからない人に限ってうるさいんだよ。本当は、今わからなかったら、それはわからない時なのだから、わかる時が来るまでおいておけばいい。
我々の考え方はいつもそうでしょ。流れが観えない時は、今は時期ではないのだから流れが来るまで待っていなさい、と。そして、観えたら行きなさい、ということなんだよ。だけど、今の人々にはそういうことがない。わからないと、わかりたくてわかりたくて仕方がなくなる。そういった欲が深いものだから、焦ってしまって間違った方に物事を決めつけてしまう。だけど、それが一番の間違いの元だよ。

道というものは、自然に見えてくるものなんだよ。だから、自分で結論を出すものではない。結論を出したら、それは道じゃない。自分の考えだよ。道は天が与えてくれているのだから。そして、時代が刻んでいくのだから。
我々は、自らの想いの通りに生きて、その想いが何であるかをこの世界からいただく者でしょう。そしてそれが生きるということでしょう。「生きる」ということは、「いただく」ということ。そしてそれを知ることなのだから。
人間が生きている要素をどんな切り口から見ても、自分の力で生きている要素なんてひとつもない。それを、自分で生きていると思っているから、結論を自分で出そうとして、そういったことがわからないんだよ。それで、それを人間に伝えようとすると、面倒くさくてしかたがない。だけど、わからない者ほどそれを求めているから伝えなくてはいけない。

ともこ:
わからない者にほど伝えないといけないのか~。。

いさどん:
わからない者は放っておけばいいのだけど、わかる時が来ていないのに求めてくる。

ともこ:
やっぱり、わからないからうるさいんだね。落ち着かないから。

いさどん:
そう。観えるようになると、ちゃんと落ち着いてくる。

ともこ:
そうだろうね。わかんないうちは不安だもん。

いさどん:
そういった自分の姿が観えないんだよ。だから、それを伝える役割の側からするとすごく面倒くさいんだよ。だから、立場上役割として、それでも伝えなければいけない時には伝える。世のため人のためということは、わかる者のためだけにあるわけではなくて、わからない者も世であり人であるからね。その矢面に立つのも役割だということだよ。

ともこ:
そうだよね(笑)。

いさどん:
視点が地上から離れて、宇宙空間まで出なくても、せめて10m、せめて5m、せめて1mでも視点が地上から離れたら少しはわかるようになるけどね。
それとね、時間を、過去・現在・未来とつなげて捉えると物語になっていて、そこには流れがあるでしょ。そういったものを観る心の大きさや余裕がありさえすれば、そんなことはたちどころにわかることなんだよ。
ところが、今というものを二元的な損得や善悪だけで見ているものだから、それはわからない。それは過去に捉われて、未来にこだわって、今がまったく見えない状態に陥ることになる。
だから、こういう役割を与えられたものとして、天から「難しいことを与えておるゆえ心して行け」と伝えられているわけだけど、そこは本当にそうだと思う。だからこそ、そこでは「覚悟しております」という決意に行き着く。最初から覚悟して生きてきたし、今もその覚悟があることをやっぱり思うよ。

だから、どこまでも行くよ。そして、どんな者の投げかけも、受けて立ち、その奥にある真実を伝えていく。
だってね、心に濁りがないことは確かだから。自分で自分の心を観て、濁りがないことを確認している。だから、どんなに非難されようとどうしようと、その時が来るまで大切な役割を果たしていく。

ともこ:
そうだよね。だから、批判をしている人たちも、本当は知ってるはずでしょ?自分の心のことを。

いさどん:
そうだね。でも、本当の自分と向き合おうとしないんだよ。しっかり見たらあることはわかるのだけど、そう思いたくないし、認めたくないんだよ。どの位置の心で今の自分の行動があるか。僕は心のランキングの話をするでしょ。あれで見たら、一目瞭然でわかるよ。
こんなことは宗教でもたくさんやってきた。それを宗教がご利益に使ったものだから、人々の魂にはそれが入っていない。知識としてしか生かされていないから、心を磨くための智恵として湧いてこない。
だから、この道を進むことは大切だね。そこで、大きな希望があるのは、やっぱり天が後ろ盾になっている。だから、我々が行く道にはちゃんとそこに流れがあるし、出会いが用意されている。そしてこうやってどんな無理解に出会おうと、絶対なる結束のもとに歩んでいけているでしょう。抵抗が大きければ大きいほど、しっかりと結束が強くなっていくでしょう。これがあることが、この道がいかに大切で揺るぎないものであるかの証さ。

ともこ:
そうだね。あの人たちの書いたものを見て、辛いだろうな~って思うんだよ。あんな心でいるのは、辛いよ。

いさどん:
そこなんだよ。ある意味、気の毒だとは思うんだよ。

ともこ:
でもやっぱり、個人の選択だよね。

いさどん:
ああいった攻撃的な感情や人を裁く心を持っていることが、自分の魂をどの位置に置くかということになる。ある意味、正義の旗印のもとに地獄を生きているわけでしょ。それがわからないんだよ。

ともこ:
うん。わかんないんだよね。わかんないならわかんないで、そのまま置いとけばいいのにね。

いさどん:
物事を決めつけたいんだよ。

ともこ:
不安だから。

いさどん:
そう。不安だから自分の思っている方へ決めつけたいんだよ。逆に、自分の思っている方でない時には、特に不安になる。

ともこ:
そこには成長がないね。

いさどん:
成長するという意味が分かっていないからね。人は自分を壊した分だけ成長するのに、自分を保って成長しようとしているのだから。それは、この世界の法の逆に行くことになる。
あなたもね、心のランキングから言ったらずい分下の方にいた時もあるけど、それがこうやって今の位置まで来られるのだから。神様は、わざわざ自分から遠い位置に人々を置いて、闇に行けば行くほど、ほんのちょっとの光でも見えるようにされたんだよ。中途半端に明るいと、光があるのが当たり前になってしまう。それこそ光そのものの世界では、光なんて認識できない。だから闇を創られたんだよ。それで、闇にいる者も救われる。
どうして、こんな解釈があるのに、みんなわかろうとしないのかね。

ともこ:
ねえ。

いさどん:
いろんなことがあるけどさ、こういう心になるといっぺんに幸せになれるでしょ。

ともこ:
うん。

いさどん:
幸せどころか、有り難くて仕方ない世界だよ。

ともこ:
そうだよ。そして、怖いものがないんだよ。

いさどん:
そう。世界が輝いて見える。
僕も長い間人間をやって、通りの悪い者と付き合っていると疲れるんだよ。でもこの心を持つと、それが全てリセットされて、だからこそ、わからない者がいるからこそ行こう、となるんだよ。「その覚悟はできております」ということだよ。

ともこ:
こんな覚悟を持って生きている人間が沢山いてほしい。

いさどん:
さあどうかな。でも、少なくとも僕は自分に出会ってそういう者だと思うよ。
つまり、何事もないからといって、今までと同じように生きていてはいけないんだよ。人にはよくあるでしょ。問題がないからこのまま行けばいい、って。そうではないんだよ。時が来たら、問題が起きていなくても捨てなくてはいけないものもある。それだけのけじめと心が必要だよ。時期が来たら、次へ行く。

ともこ:
そういう心も、普通はなかなか持てないね。

いさどん:
今まで覚悟の連続だったもんなあ。
日月地神示の艮の金神の言葉って、すごく迫力があるでしょ。あれは、覚悟を持っていけって、常にそれを伝えている。生半可なことではいけないぞって。それが、心を創るってことだよ。

(しばし沈黙)
ありがとう、ともちゃん。

ともこ:
ありがとうは私のセリフです。

いさどん:
いやいや。そこにいるからさ。そこにいることが有り難いんだよ。だってこんな話は、対象がなければ出てこないんだから。あなたは僕の言葉を聞いて有り難うと思うかもしれないけど、それを引き出す器だから、両方で有り難いんだよ。

ともこ:
そうですね。

いさどん:
(ここでいさどんがおならをする。)おならもしますよ(笑)。

ともこ:
肉体があるね!(笑)

いさどん:
昔、いつの頃かは覚えてないけど、やっぱり女の人の前ではおならができないなーとか、出そうになったらがまんしなきゃいけないと思っていた時があった。昔のおならは食べ物が悪いから臭いだろうしさ。そういう気持ちもあったね。
でもこの生活を始めて、みんなと一緒に暮らすようになって、それがどうってことなくなったんだよ。何だろう。何でも許される関係、というふうになった時に。一般の女の子たちは、父親がおならしたら「やめてよ」って言うでしょ。それが、そうではない関係ができた時に、それこそ空気のようなこととして受け取れるようになる。そういう関係がふっとできた時に、こういった人間関係で生きることの豊かさを感じたね。人の壁をここまで取れるんだ、って。
それこそ、年を取って介護が必要になって下の世話をしてもらうようになるのは仕方がないとしても、それは開き直ってのことでしょ。そうではなく、自分で全てできるにも関わらず、それをオープンにできる関係ってすごいと思うんだよ。それこそトイレまでついてきて、お尻拭いてと言ったら拭くぐらいのつもりでいるでしょ。我々がそこまでの人間関係を創れているということを、世の中の人々は想像できない。もっとひとつになれるよ。

ともこ:
世の中の人は想像できないだろうけど、どこかでその必要性を感じているんじゃないかと思うの。

いさどん:
それと、どこかでそれを求めている。

ともこ:
そうそう。だからこんなに反応して来るんだよ。

いさどん:
もう時代がそういった方向に進み出しているからね。

ともこ:
そういう意味では、やっぱりいさどんは大変だよね。

いさどん:
いや、僕は土台をつくる人だからね。
お釈迦様がそう言われたもの。
昔、僕は「お釈迦様が難行苦行をしてこの道の元を創られたと聞きますが、私は、あなたからこのように道をいただきながら、実際は毎日自分の生業にいそしんで、修行するわけでもなく、人々に道を説くわけでもなく、日々を過ごしております。私も、宗教家や政治を司る者たちのように、日々を世のため人のためや、もしくは自らを磨くための修業をするべきではないでしょうか」と尋ねた。
そうしたらお釈迦様は、「道は一つである。もしそなたが私の道を受け継ぐものであるならば、私の歩んだ道の延長に受け継げばよい。二度と再び、私のやったことを受け継ぐ必要はない。」と言われたんだよ。それは時代のバトンタッチだから。
「私の時代は、そのような苦行の道を歩んだけれど、それは道が観えるための働きであった。ただ、私の時代の人々は、心がまだ美しかった。人々には、正しいことを正しいといえば、正しい方へ行こうとする仏の心がまだ残っていた。しかし、そなたは今の世に生きるゆえ、人々に正しいことを伝えても、世の中には正しいがいっぱいあって、人々はどれが正しいかわからない時代になっている。私が苦業を通して苦を味わい切り開いた以上に、そなたが道を歩むことは苦を発生させることであり、それは私の時代よりも大変なのである」と仰った。だから、いつも道を歩むものにとっては一緒だ、ということだよね。
「そんな宗教のもとになった経典に残っている正しい道を語っていては、道が順調に進んでいくわけがない。常に無理解の中で、正しいを説いていかなければいけない。今の時代は、人々が賢くなっているから、正しいが山ほどある。その時代に真実を伝えることは、並大抵の覚悟ではできないことである。そのような覚悟を持っていけ。もしお前が私の道を受け継ぐと言うならば、その先を行けばいい。だから、私の道を真似ることは一切いらない」とも言われた。
よくあることだよね。師匠のやったことと同じことをやっている人がいる。経典をいつまでも大事にして、時代に合わなくなってもやろうとする。

ともこ:
その方が楽だもんね。

いさどん:
そう。それである程度の境地に至ったら、合格をもらおうとする。でもそうではない。道というのは、常に受け継がれていくものであり、時代と共にあって、新たに生まれ変わっていくものなんだよ。そこに共通するのは、志のみ。その道を継承する者は、常に前人未到の道を歩むことになる。それがこの宇宙の姿だよ。