心のランキング

仏界  あってあるもの なきてなきもの

菩薩界 他者の喜びを自らの喜びとする

人間界 いつも自分のことを考えている

地獄界 悪い結果をもらってもやめられず、やり続ける

無明界(無間地獄) 光のない世界・マグマの世界にはまりこんでいる

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この世界には「心のランキング」があります。
1番下から「無明界」「地獄界」「人間界」「菩薩界」「仏界」と5つの段階に割ることができます。「人間界」は我々がいる人間の世界ですが、「人間界」と言っても下に近いものもいれば上に近いものもいるのです。「人間界」はいつも自分のことを考えている心の状態であり、自分や自分に近いものの健康や幸せを願うもの、例えば会社で一生勤めあげて「いい人だったね」で終わるのが、一般的な「人間界」の人の一生です。

「地獄界」は悪い結果をもらっても止められずやり続ける心の状態であり、例えばお酒やタバコで依存症になってしまうとか、また自分の嗜好に捉われ食べ続けて生活習慣病などの病気を発症するとか、考え方がコントロールできず鬱などになるという世界です。これは生きている世界の話ですから、「地獄」は死んでから行くところではなく、このように人間としてこの世に生きていても、「地獄」の心で多くの人が生きているのです。

そうしたことをやり続けた結果、身につけた汚れを美しく再生するために、魂は輪廻して再生するのです。死ぬというのは「地獄界」や「人間界」にいても、1回リセットしてもう一度きれいにするためであり、そのプランを練って生まれてくる時に、ベースになる親や兄弟、結婚する相手、子どもを選ぶというように、人生の骨格に当たる設計をしてきます。だから生まれて来て、「あんな親の元に生まれて来て!」と文句を言う人がいますが、そうではないのです。自分が選んできているのです。逆に親も自分を選んで生んでいるのです。

「地獄界」というのは本来救われる世界なのです。問題事を振り返らないでやり続けると、痛みが発生しますから、その痛みから問題事の種に気付いて、「人間界」に戻っていく作業をしているのです。
しかし、それを忘れてしまう魂もいます。欲にまみれて、癌細胞のように自らも他者もこの世界も破壊し、その出来事を学習できないものは、「無明界(無間地獄)」という光のない世界にいることになるのですが、その状態が長く続くと、いずれはこの地球の中心に封印されるので輪廻しなくなることになります。

次に、人間から少し上に行って「菩薩界」の話をします。
これはブッダと言われる精神状態のことで、我々の知っているブッダはお釈迦様のことです。お釈迦様は、地獄界、人間界から菩薩界、仏界と全てを生きて、我々に仏道という仏界に行く道を示してくれました。キリストもガンジーもマザーテレサも、みなブッダと称される人々でしょう。
菩薩にもランキングがあって、上の方の菩薩と下の方の菩薩がおり、人間に近い菩薩もいます。例えば人間界の精神の者が喜びを求めて、常に自らのことを喜ぼうとする。それが自らの子ども、家族、一族、日本人と枠が次第に広くなっていって、喜びの枠が大きくなっていくのです。その枠が大きくなっていって、他者のことを喜びとする。自らの喜びが他者の喜びになる状態のことを一般的に菩薩心と言います。

人間は喜怒哀楽の感情を持っています。その中で喜びを持っていることは、内に反対の心が存在しているからこそ、喜びを表現するのです。
しかし、宇宙はそうではありません。ただあるだけなのです。そこで一方に偏ると喜びがあって、反対に偏ると不幸や怒りがあるだけというように、宇宙は情報なのであり、根源は音なのです。肉体を持っている菩薩が肉体を返上して、それが宇宙天然界の中に入り、魂も喜びもない状態になる。それが「あってあるもの、なきてなきもの」の状態です。あるからこそこの世界はありますし、しかしそれはない世界なのでどこにあるか特定できないものです。地、水、火、風、空はありますが、自らを主張しません。あるけれど、他者のためにしかないのです。土は土のために存在しているのではないのです。土としてあるだけです。そういったものがつながって、生命世界が成り立っているのです。

この世界には、宇宙秩序や生態系秩序という法則があります。植物は二酸化酸素を吸って酸素を出し、動物は酸素をとって二酸化炭素を出し、お互いに関係し合って太陽のエネルギーをもらうように、無限の法則のもとに生命は存続しています。このような法則があって意思があるのです。それは、あるのに、どこにあるのか観ようと思っても、観えないものです。それが「仏界」という世界で、神様の存在です。神様の存在は、宇宙の法則であり、ひとつなのです。みんな約束通り一連なりになっています。それを地球上に表現したのがこの生態系であり、地球の姿です。

それが「仏界」に精神が到達したものの姿です。それは、神、宇宙の法則と一体となったものです。仏界に座るものです。仏は人間の姿で形どります。神様も人間の姿に形どりますが、それは我々の体の無限なる調和の姿を表しているのであって、観えないものでもあるのです。私たち人間もそのままで神の姿なのです。絶対調和の小宇宙がここに隠れているのです。
 
 
【お知らせ】

4月13日(日)、千葉県船橋市にて開催される「出張木の花塾」にて、いさどんが大いに語ります!木の花ファミリーのお弁当やおやつを持参し、参加者のみなさんとの語り合いの時間もたっぷり設けています。皆さま、どうぞお越しください!

→ 出張木の花塾 詳細はこちら!
 
 


すべては善への旅である

どんなに真理を得ようと思っても、どんなに真理を生み出そうと思っても、それを受ける器がなければ真理は降りてこない。真理への道は無限にあるが、そこに行く意思がなければ意味がない。道を語ろうと思っても、聞く者がいなければ語れない。信じる者は救われる。求める者に道は開かれる。歩む者に目的は現れる。
世界に痛みの伴う秩序があるのは、まっすぐ立つことへの指針である。道があっても目的地のない道は無意味である。曖昧な道を歩んでは目的地には到達しない。
  
世界に秩序があるのは目的地に人をいざなう為にある。秩序に溺れて漂う為に秩序があるのではない。世界の秩序を感じなさい。それはあなたを目的に導く道である。秩序が観えない者は目的地に行くことができない。秩序は世界の法である。秩序は世界のすべてに喜びを与える。世界は秩序の海である。秩序の中にあって内から自我を発する者は、法に反する者である。
  
内なる自我に捉われず、外の秩序に従うこと。内なる自我を取り去ることで内なる鏡が磨かれて、外の秩序が映し出される時、外の秩序が内の秩序になる。自我を捨てることではない。それは、自我を描くこと。そして自我の鏡に外なる秩序を映しなさい。そうすれば自我は消え、内なる秩序は無限の秩序となる。
世界には秩序が蔓延している。道があることを知らぬ者に道はない。道を歩まぬ者に道はない。道を求めぬ者に道はない。道を待つ者に道はない。道を観る者に道は観える。道を歩む者に道は開かれる。道を歩む者に目的は観える。この世界には秩序がある。
  
この秩序が観えるか?すべてを繋ぐ秩序。織物のように紡がれ、無限に連鎖する。連鎖とは繋がり。目的はひとつ。すべてはひとつであること。ひとつであることは区別がないこと。その元には善意、愛、調和。その姿は真、善、美。世界を紡いでいるのは善意。愛に基づいた善意。美に基づいた善意。それが真理。
世界に善を見いだせない者は内に濁りがある者。世界に悪を見る者は内に悪を持つ。世界の実相は善意。世界のすべてに善を観なさい。出来事は世界の真理、善を見るための情報。すべてに善を観ぬ者は内に悪を持つもの。すべてに善を観なさい。世界のどこにでも善を観なさい。
  
世界に善を観ない者は内なる悪を持つもの。汚れを取り去り、美しくしなさい。それを鏡としなさい。そして真理、善を内に映しなさい。その者は世界を照らす者。内なるものも外なるものも善を創るもの。この世界に悪などありはしない。悪があるとするならば、それは善への道しるべ、善を顕す為にある。すべては善の為にある。善という美であり、真理である。すべてに善を観なさい。
  
計る心に悪が生まれ、計る心に善が生まれ、計る心にすべてが生まれ、計らなければすべてが消える。
  
愚か者に悪が生まれ、光への旅に善が生まれ、光への旅に喜びが生まれ、光への旅に愛が生まれ、光への旅に調和が生まれ、光ヘの旅に真理が生まれる。
  
見えぬ者は内なる鏡の汚れに気づき、自らの盲目に気づきなさい。
  
真理を観る目を育てなさい。真理を観ようと努力しなさい。そして信じなさい。世界が善意で創られていることに目覚めなさい。愚かしいと思えることのすべては善の為にある。
  
すべては善への旅である。すべては善への旅である。すべては善への旅である。
すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。
すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。
  
その心が世界を美しくするのです。有難いことです。有難いほどの真理の元に、この世界の秩序がある。それに気づいたならば、どうして世界に不足など生まれましょうか。ただ有難いと思って生きるのみ。有難いことに気づいたならば、有難い神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる。有難宇御在益。
  
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
 
 


神の食べ物は喜びである

木の花ファミリーではこの1ヶ月間、エコビレッジ・デザイン・エデュケーションを開催していました。
以下は、ある日の講義の中でいさどんが語ったものです。

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宇宙は陰と陽でできています。そして、相反するもの同士がお互いの存在を証明し合っているのです。

神様は光の中におられて、光の世界から我々の世界を見ておられる。光は全ての元であり、そこには相反するものはありません。光だけの世界では現象は起きません。それがこの世界の最初であり、最終到達地点は光の世界ということです。
そこで人間の世界を見てみると、問題事が多いです。個人の中にも光と闇が常にあって、楽しい時もあれば悲しい時もあります。そうすると人はもっと楽しいことばかりならいいのにと思って、楽しくないことは受け入れられない。こっちはいいけど、こっちはだめというように選別していくものです。それは自分の癖が出ているのです。

それである時、僕は神様に問うたのです。「この世界をあなたの世界とします。そうすると、これは全てあなたの仕業ですね。しかし、あなたの仕業というわりには、人間の歴史を観ると、血で血を争う醜い世界が展開されています。全ての元であるあなたは、人の親であり師匠です。『親の因果が子に報い』とか、弟子のできの悪さは師匠の責任ということからすると、人間の愚かしさはあなたのせいではないですか。あなたが人間をこのようなものとして地上に降ろしたから、人間はいつまでたってもこのようなものなのではないですか」と問いかけました。そうしたら、神様は「私は全てであり光である」と答えられたのです。

それは、今の人間達の世界も私の現れであり、そして光である、ということなのです。僕は意味がわかりませんでしたが、そんな僕にわかるように説明してもらいました。
光の中では光は見えない。闇の中では闇は見えない。光の中で光を見ようとしても、闇の中で闇を見ようとしても、対象がないと光や闇の概念が生まれない。我々は明るいとか暗いとか、ものを見て近いとか遠いとか、特定の基準があると、そこから対象のものとの区別が生まれ、すぐにセンサーが働いて判断をします。闇の中では闇を認識できないのです。反対に光の中では光が認識できないのです。始まりの光だけの世界に神様はおられて、「私は光であるが、その世界では私が認識できない。私は決して人間を愚かしいものとして降ろしたのではない。私が何であるのかを知りたかったのだ。始まりでは、私はあってあるもの、なきてなきもの。そして、私に対して私を認識するものを創ることが、私を理解することであった。光に対して闇を創ると、そのギャップの分だけ光を認識できる。天に対して地を創ることによって、天地が理解できる。その私の想いから世界が生まれた。それは私を割って、私でないものを創ったということだ」と言われたのです。

それがこの世界の元の命の仕組みです。命は「みこと」と言って、神のことです。「私を割って私でないものを創る」。それは、光を分けて、光ではない闇を創った。そうして互いの位置に置くことによって、互いの存在がわかるということです。それが陰と陽の仕組みです。
陰はかげですから、見えない世界です。それに対して陽は、見える世界です。だから、始まりは見えないところから産まれたのです。我々の認識で見えるものは、こうして顔を見て、言葉を交わしてみなさんと認識し合いますが、その言葉を聞いて頭で解析します。例えば光の話をすると光の想像をしますし、闇の話をすると闇を想像します。このように頭では見えていますが、語ろうとする想いは見えません。想いを思考にし、それを言葉にしてみなさんに伝えています。その解析の繰り返しによって今、みなさんはそのような表情をしてこの話を聞き、知識として取り入れ、それを活かし、自らの人生に当てはめて形として現していきます。それが陰陽の表われの姿なのです。そこでは見えない世界が見える世界に表われているのです。

今も始まりもそうだったのです。神様は見えない想いの奥の世界においでになります。その神様の想いの圧が高まっていくと、世界が創られていきます。
IMG_0502私たちの現象世界でも同じようなことがあります。例えば、僕は昔は視力は良かったのですが、歳を取り、老眼が進んできました。老眼の部分と度のない部分がある遠近両用の眼鏡はとても便利なものです。けれどこれは始めは誰かの頭の中にあったのです。こういった便利なものを想像していた時には、形のないものでした。しかし、その想像のものがここに現われています。これは誰かのイメージから生まれ、形になったものです。
この世界(現象世界)は、ない世界=神様の世界(潜象世界)から、見えない世界=想念の世界(現象世界)に産まれ、そして見える世界(現象世界)に産まれてきているのです。

当時僕は神様に文句を言っていたのです。人間の在り様を見ているとがっかりします。「この世界は全てあなたの現れだとしたら、あなたが問題だからこういった問題のある世界が表われているのではないですか」と責めたのです。そうしたら、「だめか?」と答えが返ってきました。

私が私を認識するために、一つだった私の世界の陰から陽を産み出し、互いの側から互いを認識する仕組みを創ったのだ、と神様は言いました。それでこの世界ができたということです。始まりの一方だけでは、「ない世界」があるだけになります。「ない」ところから「ある世界」を創るためには、見えない世界と見える世界を現象界として、「ない世界」から産み出すことをされたようです。それで、「私もあるものになった」と言われたのです。

次に、あり続けるためにはエネルギーが必要になります。私たちも存在するためにはエネルギーを必要とします。空気や食べ物など、そのエネルギーによって成り立っていくのです。そして、あるためには「何のため」という意味も必要になります。そのあるための意味にのっとって、例えば僕だったら少しウエイトがオーバーしたらエネルギー摂取量を少なくしようかとか、足りないと思えばエネルギーを多目に摂取しようとかいうように、存在する全てのものに目的を持つものです。

それで、「あるものである為には、私にも食べ物が必要である」と神様は言われたのです。「神様にも食べ物が必要なのですか。その食べ物は何ですか」と僕は尋ねました。すると、「私の食べ物は喜びである。喜びが、この世界を推進するエネルギーである」と答えられました。「喜びを発生させるためにこの世界を創った」と言われるのです。喜びの反対は悲しみですが、悲しむ目的でこの世界は創られていない、というのです。
これを先入観念抜きにして聞くと、全ては喜びのためにある、全ては善きことのためにある、ということになります。信じられませんでした。問題事がいっぱいあって悲しいことだらけの人間の世界が、喜びの生産工場だと言うのです。被害妄想の人なら、この世の中には何もいいことがないと鬱になってしまいます。それを神様は、喜びの畑だと言われるのです。

つまり、始まりの何もないその完全なる世界は、完全であるから不完全になれず、それゆえその完全なる世界をさらに完全にするために、世界に不完全を散りばめた、と言われたのです。すると、完全から不完全への道ができ、この世界が動き始めたのです。

不幸や悲しみという世界から、完全なる光の世界に向かう道が開かれて、そこに向かっていくことによって少しずつ光が見えてきます。だんだん明るくなっていく喜びの道を通って、私たちが元々いた、神様のところに戻っていく。神様のおられる元の位置は完全の世界なのですが、それでは不完全なのです。だから、完全の世界に不完全を置くことで、その完全を認識する道ができました。そして、始めは不完全な所に身を置き、そこから完全に向かって歩むようにしたのです。つまり、善きことのために歩むように道を創られたのです。

そうすると、その道を行くことは喜びが産まれるばかりです。「その喜びの種を人々が人生の畑に蒔いて、その喜びを収穫物として収穫していく。そこで発生する人々の喜び(収穫物)が私の食べ物であり、この世界を創っていく推進力である。その為に人を地上に降ろし、私の代理(命)とした」ということなのです。さすが神様、賢いですね。
つまり、完全は不完全の裏付けによって成っているのだから、その完全をさらに完全なる世界(絶対完全)に創ったと言われたのです。それは、「完全に不完全を散りばめることによって成った」のであり、「そこに人を介して喜びという収穫物を産み出し、その喜びを収穫していくことを、私がこの世界を創っていく推進力とした」ということなのです。それは天の神と地の人の共同作業ということです。

私たちは命(みこと)としてこの世界を生きています。その中で、喜びの種(出来事)を人生の畑に蒔きながら、その結果を学び、収穫(喜び)していくことが私たちの人生の目的であり、それが神様がこの世界を動かしていくことになるということです。これは、私たちが生きることが直会(なおらい)であるということです。

この世界に問題事はたくさんあるけれど、それは豊かな世界を創っていくことなのです。問題事はそのまま放置しておくと問題だらけになります。それがなぜ起きているのかを、考えることです。そして、それを学ぶと、その奥にある神様の意志を受け取ることになり、喜びの人生となり、天と共にこの世界を豊かにしていくことになるのです。有難いことです。有難宇御在益。ありがとうございます。
  


多次元宇宙を生きる 〜人類の挑戦〜

3月21日春分の日、木の花ファミリーは創立から満20周年を迎えました。
その記念となるメッセージを、皆さまにお届けします。

3月21日 太陽が真東から昇る春分の日の朝日
3月21日 太陽が真東から昇る春分の日の朝日

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いさどん:
想いが巡っていることを録画して、みんなが観ることができるといいね。言語にしたことしか人には伝わらないのは、とても不自由なことだ。
自分がどのような想いを持っていて、その心の色がどんな色か。それを伝えようと思っても、人はそれぞれその歩みに相応しい器と色を持って受け取ることになるから。想っているように相手に伝わらない胸の内を、パッと開けて見せたいものだ。伝わらないことに苛立ちを感じるわけではないが、気持ちは曇る。それは、与えるということではない。客観的に捉えれば、一人一人の歩みが尊重されるということでもある。

我々、肉体を持った人間は、他者とコミュニケーションをとる時に、肉体というバリアがあって、言語や音などの形を通じてしかコミュニケーションがとれないようにできている。面倒くさい仕組みだ。そういった余計なものを取り去ってしまえば、そのままの心が直接お互いを見て、すぐに相手の真実が見える。それは、人間が肉体から去った時の姿と同じ。そうであるとしたら、我々がこの肉体の中に入って、このような制約の中で生きるのは、この肉体の制約を超えた視点を持ちなさいという気づきのメッセージとも言える。
我々は今という瞬間を生きるようにできているが、今は過去の積み重ねで今に至っている。そして今の積み重ねが未来を創っていく。つまり、今の自分を観れば過去の自分が観えてくる。

そのような頭の中の想いを録画できたら、想いを直接見せあうことでコミュニケーションが取れる。そうしたら、人と人はどんなに解りあえることだろう。
想いを言語化して音で受け取り解釈する肉の体を介在する制約の為に、真実を伝え合うことがない。しかし、我々が肉の体から離れると、それが当たり前の世界になる。それを、肉の体を持っている状態のままでできないものかと思う。それが木の花の大いなる実験だ。

我々は肉体という衣をまとっているが故に、五感の刺激に捉われてしまって、過去から未来への無限なる宇宙の情報を自らの内から取り出せないで生きている。しかし、「我」のバリアを取り去ると、それを自由自在に取り出すことができるようになる。すると、他者のことが自らの内なる思考のようにわかるようになる。そこでは一切隠し事のない世界が生まれる。
我々はそういった世界を目指している。今の多くの人間は「個」を尊重し、その個を尊重した上でより良い世界を考えている。それは、個が尊重されなかった時代からすると、進んだ世界のように思われている。しかし、人間の歩みには次の段階がある。そこでは、個の個性がそのまま生かされつつ、積極的、発展的に調和し、生かされていくことによって、個がさらに巨大化してこの世界の実体のままに存在する世界になる。それは個が個の主張を取り払うことにより、個の限界を超えた個の姿になる。それが次の個の活かし方だ。

今の時代、その世界へ、木の花ファミリーはどこまで挑戦できるか。常に今を良しとする姿勢でいると、前も後も他者も間違いになる。宇宙は無限に連鎖し、変化変容を繰り返しながら輪廻している。それを理解するためには、自分という個を超えなければならない。その世界では、他者は自分であり、自分は他者である。表現を変えれば、自分は世界であり、世界は自分であるということだ。

個が尊重されない時代から個が尊重される時代へ行きつくと、個が尊重されることは良いことのように思える。しかし、個が尊重されることを良しとして、特定の価値観の中に縛られ執着することによって、善悪が発生する。今の人々はその状態になっている。
そもそも、特定の価値感に囚われるから次の世界が観えなくなる。特定の価値観に囚われることで、善悪に囚われる。肉体から発生した自我のバリアによって、人々は二次元的善悪のマインドコントロールにかかっている。三次元の世界にいながら、二次元的思考で生きている。それを解きたいと思う。そこで、「あなたを捨てなさい」と伝えると、今を良しとして変化を拒む二次元思考の人々は自らを否定されたと思うのだ。

常に今を生きることは大切だ。今を生きるとは、特定しないフリーな状態で今を生きるということ。そこで囚われの心がある者は、今を「所有」し続ける。しかし、今を所有し続けても、今は次から次へと訪れ、次から次へと過去へ行ってしまう。だから、この世界では所有はできない。
それでも、人々は所有しようとする。それは、この世界が常に変化、変態、変容しながら循環していることに、抵抗している状態。しかし、肉体をもらい、地球上に生命として生きることは、それを体感する為にある。そのことを今の人間達に伝えたい。
それがわかると、何も恐れることはなくなる。今出会うことは、そこから学び、変化成長するためにある。捉われがなくなると、そういった解釈の元に、有難く豊かに生きられる。

すべてのものはいずれ死を迎える。そして見える世界から見えない世界へと旅立って行く。それは、見える世界が終わり、見えない世界に生まれたということ。そして、それが我々の存在する「ある世界」の実相だ。いずれ全てが終わるとしたら、それは「ある世界」が「ない世界」に生まれるということ。そして「ない世界」から「ある世界」に生まれてくるということだ。

そのすべては、物語だ。宇宙物語の始まりから永遠に、その物語は縁によって紡がれ、ここまで来た。その無限なる情報は、この世界の法則として我々の中にすべて内包されている。その永遠に続く法則を理解するためには、自我の器から出て法則の循環の中に思考を置いてやる。そうすると、観えてくる。
そのような永遠に長く巨大なものを、我々のように微細で、思考の限界、物理的肉体の限界、そういった様々な制約のあるものが、どのように理解するかだ。

我々の実体は、想念という無限なるものだ。だから、肉体や思考の制約を自らの囚われとして、そこから解き放ってやれば、たちどころに無限の存在になることが出来る。そしてその無限の状態からこの世界を観てみると、この世界の仕組みが解る。それは永遠なるものの永遠が循環している世界。永遠に・・・
今の目の前にある事象に出会うことは、永遠に続いていく今に出会い、そして循環していく姿。永遠の目で観れば、それが簡単に解る。囚われることは何もない、多様で自由な世界だ。

しかし、それはそれだけの尺度のある思考を持って観ないと理解できない。まだこれからたくさんの時代を刻んで進化していくのに、今に囚われていては、その歩みが囚われの歩みになってしまう。人々が今に囚われれば囚われるほど、この世界とのギャップが生まれ、問題ごとの多い世界ができる。その世界ではいつも善悪が飛び交っていることになる。
21世紀は、その囚われのない、善悪のない、常に自由に変化する世界、そこに入る段階に来ている。しかし、それがなかなか人間世界に顕れて来ない。それを伝えようと思っても、この胸の内にある心を直接見る仕組みがないために、形に囚われている二次元思考の人々には伝わらない。三次元、四次元思考の人々は、その形を超えた世界を観ることができる。

二次元世界とは、平面の善悪思考のこと。それに対して三次元思考というのは、そこに天の視点が加わる。つまり、見えないものの思考が加わる。そうすると、形の見えるものがどんな背景によって現されているかがわかる。そこでは、善悪二元論では語らないことになる。
さらに、宇宙は四次元だから、三次元を見える世界とするならば、宇宙は「ない世界」から生まれて「ない世界」に還っていく。その「ない」ところの視点ができると、四次元思考になる。それは、解説のない世界。その世界に出会ったものが、ただ「ああそうなんだ」と納得するだけの世界。
21世紀を生きる人々は、その段階へ到達する。それを伝えようと思ってはいるが、肉体を持っている者が伝えようとすると、心の目で受け取る人にしかそれは伝わらない。つまり、肉体の制約があって心が直接伝わらないのだ。真実を伝えるのに言葉はいらない。その人なりに感じ取れば、本当は伝わる。それを言語を使えば使うほど伝わらなくなる。言語はとても便利がいいもの。しかし、便利が故に、真実が伝わらない不自由なものでもある。

わかるかな?この妙な苛立ちの気持ちを。そこの世界では細かい話はどうでも良くなってくる。直接その心と出会って、それが美しければそれで良しになる。形に囚われない世界。そしてその心が汚れていたら「汚れているよ」と伝えるだけでいい。

ひとみ:
それが四次元の世界。

いさどん:
いや、これは三次元の世界。

ひとみ:
三次元?大まかでわかるということ?

いさどん:
変な質問してくれたね?大まかではないの。何も吟味しなくても瞬間にわかるということ。それを阿吽というんだよ。

ひとみ:
阿吽だね。

いさどん:
それは三次元だからね。それはあるものを理解しようとする世界。

ひとみ:
四次元になるとどうなるの?

いさどん:
三次元が、あってあるものの世界。それに対して、その「ある世界」を存在させているのが「ない世界」だよ。「ある世界」は、常に変化し続ける世界。その世界を特定して固定することはできない。それは変化し続けているから特定されない。しかしあり続けるもの。
それはその奥にある「ない」世界から「ある」ものが生まれているということ。この世界の実体は、我々が認識するからあるんだよ。認識なんてものは瞬間にしか過ぎず、特定するからあるのであって、本当はないものなんだよ。特定することはできない世界。だから、世界は「ない世界」でもあるんだよ。この世界の実体、「神」は、あってあるもの、なきてなきものと言える。

ひとみ:
その「ない」という世界が四次元なの?

いさどん:
四次元とは言わない。高次元というんだよ。

ひとみ:
層になっている?もっと上まで。

いさどん:
そう(層)。チーン(笑)。

ひとみ:
三次元世界(現象界)に対して、潜象界はなんなの?

いさどん:
ない世界だよ。

ひとみ:
だからそれが層になっているの?

いさどん:
そうだよ。それが神々の存在する世界。それは今ここにもあるんだ。

ひとみ:
なるほど。

いさどん:
それが21世紀に人間が想念で理解する世界。その世界では制約が何もない。

ひとみ:
今の脳では解析ができない。

いさどん:
今まで使っていた脳で解析するものではないんだよ。今まで使ってきた脳で解析していては、二次元的思考でしか理解できない。つまり、解析しない脳、感じる脳で解析する必要があるんだよ。それは解析することではない。ただ感じるだけ。脳で感じる。そして、心で感じる。

ひとみ:
でも理解じゃないんだね。

いさどん:
理解というのは自分の中で解析した状態。だから、解ろうとするのではない。事実がそこにあるだけ。情報に出会って、それを受け取るだけの世界。そうすると人間は二次元思考の世界から解放される。

ひとみ:
まだやってない。

いさどん:
それはどうかな。あなたは、既にしているよ。

ひとみ:
気がついていないだけ?

いさどん:
あなたは今、多次元の宇宙を生きているんだよ。この世界を生きるということは、無限の事象に出会って、無限の選択をしていくことになっている。人間は、一日に3,000回の選択をしているそうだよ。認識していないでしょ?つまり、理解しないところで我々は生きているということ。その中のどれだけの分を認識しているか。
人体の細胞から始まって、無限の選択の中で今を生きているということ。理解を超えたところで生きているわけでしょ?この世界は、昔からそうなんだよ。それは生かされているということでもある。しかし、多くの人は自分を特定したと理解して生きている。その時点でマインドコントロールされている。目が狂っているんだよ。

ひとみ:
すごい!面白い!今までこんな話に出会ったことがない。でも、こういう話が聞きたくて生まれてきたんだな。

いさどん:
あなたは「いさどんが生きている間に、いさどんからどれだけ学ぶか」と言っていたでしょう。まだまだ情報は沢山(無限)にある。

ひとみ:
私はこういう話を聞きたかった。まだ、自分が解らないところを・・・ああ、嬉しいなぁ!(涙)

いさどん:
その心は、その喜びは、誰もが持っているんだよ。すべての人々にそこに到達するだけの種があるんだから。

ひとみ:
今まで余分なものがあるから、いさどんからこれを引き出せなかった。もっといっぱい詰まっているのに。

いさどん:
この世界の実体だね。
我々は人類のために生きている。人類の目覚めのための大いなる実験をしている。

ひとみ:
ひとつに溶け合うことが大事だよ。

いさどん:
あなたと私に差はない。

ひとみ:
そしたらこういう世界が展開されていくんだね。

いさどん:
そしたらさ、「ゆるいつながりがいい」なんて言わなくても、思いっきり一つになれる。

ひとみ:
すごい自由な楽しい世界だよね。

いさどん:
こうやってハグするでしょ。ハグすると体の限界を感じるんだよ。
男と女でも引き合って、一つになろうとするでしょう。でも、ほんの一部分しか一つになれない。それは肉体の限界。気持ちが相手を愛していると心は一つになろうとする。しかし、体の制約があってそれがならない。
そこを突破することはできる。もっと大きな枠組みでこの世界を抱えている宇宙は一つだから。その次元(高次元)に意識が到達すれば、誰でもこの世界(宇宙)と一体になれる。

ひとみ:
それが、理解ではなくて感じることだね。
 
 


この世界を宇宙として生きる者は

これからあなたが年を取り、80歳になったら、外観は今と変わるだろう。しかし、その中の本質は歳をとらない。そしてそこには死はないということも言える。
私たちはいずれ肉の体を離れる時が来る。仮に、肉体を持って生きる期間が80年だとしよう。それは我々の地上の時間で考えると長いようだけれど、一度宇宙空間へ出て、その宇宙空間的スケールで考えたら、地球が太陽をたった80回(29200自転)周っただけなのだ。

私たちは、この生活を始めて、鶏を飼うようになった。養鶏は来年終了を迎えることになったが、麹を作り始めた時も、味噌や醤油の仕込みも、菌の培養も、ミツバチの飼育も、初めてやる時にはいつも僕が関わっていた。鶏を飼う時にも全く未知なることだったので、色々な参考書を手引きにしながら雛から育てていた。その過程の中で、雛を健康に成鶏まで育てていける術を確立していくのはとても難しいことだったが、それでも薬を使わずに、いろいろな工夫を凝らしながら今の安定した木の花養鶏法が確立されてきた。
雛を育てる時に一番大切にしてきたことは、雛を「観察する」ことだった。しかし、それは雛を育てるための観察ではない。雛は毎日大きくなっていく。雛の年齢は、日齢とか週齢という単位で数えていくのだが、1日1日育っていくのを観ていると、雛の行動が変わってくるのがわかる。雛を1週間育てると、人間で言えば幼稚園に上がった段階。その雛を育てていって、大体60日か70日経つと、羽毛がとれて、しっかりした羽が出てくる。それが小学校高学年くらい。そして、70日、80日くらい経つと、雄鶏と雌鶏の違いがはっきりしてくる。
90日から100日くらいになると、雄鶏と雌鶏の違いがよりはっきりしてきて、雄鶏が時々太い声を出すようになり、交尾行動で雌鶏の背中の上に乗ろうとする。70日に至る前は雄鶏と雌鶏の違いはほとんどなく、雄鶏が雌鶏に乗っかろうとすると、雌鶏は逃げていく。ところが100日くらいになると、雌鶏がその行為を受け入れるようになる。ただ、まだ交尾の練習のようなもので、今の若者たちが中学から高校くらいにかけて興味を持ち、そういったことを始めかけるようなものだと思われる。そして120日くらいになると、初卵といって雌鶏が初めて卵を産み出す。この頃になると交尾は成立するが、まだ未熟な段階である。もしそれが有精卵になってかえしたとしても、あまり良い雛は育たない。人間でも若くてまだ未熟な時に子供をもうけると、その後の夫婦(男女)関係が壊れたり、環境が良くないということで子供に問題が起きることもある。大体140日から150日くらいで成鶏として一人前の卵を産むようになり、その段階でとった卵で雛をかえせば良い雛となる。

鶏を健康に育てようと鶏を観察していたら、1羽1羽個体は別々でも、その成長の変化が日齢と一致していて、個体差はあっても全体が同じような過程をたどることがわかってきた。そして雛を1日という単位で観察していくと、単純に雛が育つという捉え方ではなくて、地球の回転と何回付きあうかによって、その鶏の雛の様子や行動が変わってくることに気が付いた。

人間もまた、生まれて歳を重ねていくと、感情が変化していき、最初は男女の意識すらなかったものが、意識して遠ざけるようになったり、どうしようもない衝動に駆られて惹かれ合うようになったりする。それは、鶏の成長具合と同じではないのか。
つまり、我々が生きて、年齢と共に感情や行動が変わっていくということは、地球の回転に何回付き合ったかということ。そこに思考が生まれては消えていき、それによって成長していく。そして人生の終末を迎えた時に、それに相応しい塊となって旅立っていく。地上意識・人間の感情で考えると、思考は自分の意思のように思えるが、実は地球の回転数によってそれが生まれていくということに気付いたのだ。
1日1齢と考え、80年生きるとしたら、29200齢となる。つまり、地球が1回転することに付き合うたびに、我々の体が変化し、それにふさわしい感情が生まれてくることになるのだ。

そして、食べ物や気候など、その人がどういった環境で育ったかも、その人の感情や人格の形成に大きく影響している。人間は、内に意識が向き過ぎて、個で世界を意識しているが、実は自らの人格すら、自らを取り巻く環境の側から与えられていることになる。地球暦では、生まれた瞬間の太陽と惑星の配置から、その人の人格や人生を読み解く。星と星の対話や地球の生態系の中で織りなす環境が我々の人生を表わしているとしたら、我々はそういった外からのものを受け取って、内に映し、また外への表現として返している、とも言える。我々と世界はそういった鏡同士の関係だとしたら、私というものは私を特定した認識の位置の外の世界、すなわち時と環境を表現しているということである。
その外からの目線を、人間は忘れてしまったのか、封印してしまったのか。内から出ている自らの感情に対して、それが外から来ていることを意識すると、内から一方通行に出ている自我の心が消えていく。そして、自らの感情や、人生が自分のものなのかどうかということが、不確かになっていく。
しかし、自分の内から外へ観ているだけの一方通行の思考をしていると、半分しかものが観えていないことになる。外の世界は無限に広がっているのに、ほんの一点しか見ていないことになる。それが私たち人間の実態だろう。
今の自分の感情は、星と星との関係や、周りの環境によって生まれている。例えば女性なら、生理が来て体調が思わしくなく、感情が落ちているとしたら、それは月と地球(自分)の関係から現われてきている。性的欲求や食欲が現われるのも同じ事で、それを自分の意思と捉えたり、それを表現することが自分の自由のように思っているが、そういった感情が歪んでくることすら、周りの環境や、星と星の配置の関係により微妙な不完全や歪みが生まれることによって起こっている。
それを自らという「個」から捉えると、特定したくなるものだが、その全貌を客観的に観ていくと、この世界を生きることは宇宙の表現を個々に托されているということなのだと気付くことができる。

そんな捉え方ができることに、鶏の雛が育っていく過程を眺めていて気付いた。
そういった視点で出来事に出会っていくと、現象に出会うことは世界の仕組みに出会うことになる。人間は、日々の生活を自分の枠の中で、自己主張もしくは自己表現として生きているが、それはそういった自分目線から見た世界にしか過ぎない。それは自意識という色を付けて見ているだけのことであって、そこでは対象を見ているのではなく、自らの意識の色を見ていることになる。そこから自意識を取り除けば、宇宙の情報と出会うことになるのである。

そこから何が観えてくるか。
我々は、今こうして一般の社会とは違う生き方をしており、時代もそれを刻もうとしている。新しい領域に視点を向けて、その視点から生まれる価値観と現象を表現しようとしている。まさしくこれこそが地球の意思を生きることであり、時代を刻む最先端を生きることである。
時代が刻まれていく時、時代に生きることに気付いていない者達は、自意識から価値観を見出そうとして、時代に抵抗する。しかし時代は徐々に移行していき、最後には抵抗する者達も移行していくことになる。
これはまさしく時であり、時代であり、流れであり、宇宙の働きである。そして、瞬間瞬間を確実に、過去から未来へと永遠に変化し続け、進化していく。この世界に同じ瞬間は二度と来ない。

自我に捉われている者達は、特定の位置に自らを縛り、変化することを恐れたり執着したりする故に、この世界の出来事を善悪で見たり裁いたりする。この世界を宇宙として生きる者は、自我から離れ、変化することを一切恐れない状態に自らを解き放ってやる。それが宇宙を生きるということであり、神(天)の道を歩むということになる。神の道を歩むということは、天の法を生きること。そこでは、個は薄くなり、消えていく。そして、宇宙という絶対な私が観えてくる。

人間がこれから真実を観ていく時に、無限なるフロンティアが開かれてくる。だから、「知っている」と思わずに、常に学ぼうとする心が大切なのである。
人は年齢を重ねていって死を必ず迎えるが、体は衰えても脳は成長し続けていくことができる。その脳の成長は魂の成長なのである。私たちは地球上に降り立ち、死を迎える時には物理的なものはすべてこの世界に還していく。しかし、脳の中に蓄積された記憶や世界観はすべて魂に刻まれて、次の自らの歩みに持っていくことができる。これが唯一、私たちがこの世界に生きて、次につなげられるものなのです。