何億年もの時をこえて

この世界は、非常に単純な構造をしている。陰陽という相反するもので成り立ち、それが相似形(フラクタル)になっている。そうすると、大きいものも小さいものも同じ構造であり、コンピューターの二進法、すなわち0、1、0、1の繰り返しと同じものである。逆に、それが単純だからこそ、微妙な違いも表現できる世界である。少しの違いは区別できるのだが、大きな単位の違いは少しの違いで区別するのにはわからない。微細で単純にするからこそ、小さな違いもよくわかる。

だから、この世界は非常に単純な構造であると同時に、無限なる多様性で成り立っている。同じものは何一つ存在していない。そういった多様性が微細なものから全宇宙まで表現されている。そうすると、違いは単なる違いではなく、全て連なった多様性の表現ということになる。この宇宙や自然はそれを全て認め合って共同している世界である。

人間はその中で唯一自らを認識し、自己肯定感を持つ存在である。その世界では、自分自身から始まって自らに近いものを守ろうとする。極端なことを言えば、脳を取るか腕を取るかと聞かれたら、脳を優先するだろう。心臓を取るか目を取るかと聞かれたら、やはり心臓を優先するだろう。そのように、人間には生存欲から来る優先順位がある。それは自らが生きる上での本能である。
しかし、そのような本能は自然界の生き物でも持っているのだが、強い自我という形で生存本能を持っているのは人間だけである。そして、無意識の間に自分自身のために生きるようになっている。それに対し、自然界では、この無限なる生命の連鎖の中で、自らに与えられたポジションを本能として担うことが自分自身のために生きることになる、という仕組みになっている。人間だけが、自我のために生きることが優先している。

昔は、人間の能力は自然に対して無力であった。だから、その自我は自然からいただく精神によって満たされていた。ところが、現代の人間は、自分から湧き出てくる感情や思考を巡らせ、自我の自己実現を果たすために欲求を満たしてきた結果、自己実現を果たすことで脳内物質の分泌を促し、それを快感にして追い求めてきた。これは人間が自ら快楽を求めるがためにそうしたのか、それとも快楽物質を分泌させて人間にそれを追い求めさせたのかはわからない。それは、人間の意志なのか、神の意志なのかはわからないとしておこう。

そして、人間は自らに近いものや考えに合うものを良しとするようになったのである。そして、人間は群れをつくるようになった。個が群れをつくり、群れが全体をつくって、それがネットワーク化されていくのは生態系の姿であるが、それに対し個が群れをつくり、そして群れが他との違いから対立するようになったのが人間の姿である。それも、同じ種である人間同士で対立するようになった。これは自然界ではありえないことである。自然界では多種多様のものがいる。そして、時代や環境とともに進化し、変態変容することも常に容認されている。

人間は自我から自己実現を良しとしてきたことによって、自らが得ようとする快感のほうを正義とする。そして、それを主張するために群れをつくって、他の群れと対立する生き物になってきたのである。歴史上、どれほど多くの人間がその対立の結果、殺されてきたことか。それでは、この世界に平和が訪れない。未だに、人間の社会は多数決や力が強い方が支配することになっている。この手法では真理は生まれにくい。

なぜ、このような話をするかというと、木の花では、心を磨き綺麗にして、そして他者との違いを認めることで、他者と自らの区別をしない一体の世界の実現を目指し、取り組んできた。そうすると、もう一つ大きな群れである木の花ファミリーという生命生態系ができて、それが自然と健康体になるのである。そこには、独自の世界観や価値観が生まれる。だから、そこでは自己完結するのである。それはある意味、人類の自己完結であったり、地球生態系の自己完結のようにその都度完成されながら連鎖していく。それは木の花ファミリーが巨大になったものではなく、多種多様のものが連鎖しネットワークすることによって、人類や地球生態系を担っていく一体社会の一つの雛形なのである。

しかし、目指すところはそうであっても、多様性の探求ということで、今までそれと馴染まない者も受け入れてきた。これは自然と他に属するものだから、ここで生きることが合わなくなる。そこで、入ってきた者も受け入れる側もそれが合うものかどうかの選別をしていく。それはここでなくて別のところでも、それが属するべき場所であるかどうかの選別があるのは自然なこと。もしくは何かに属さなくても、社会全体の中にはその人にふさわしい受け皿がある。だから、木の花のような明快なところで人が役割を果たすためには、そこにふさわしい選別は不可欠である。

そうすると、ここで問題が起きるのは、ここにそぐわないのにここにいたいとか、そぐわないからここを自らの考えのほうに変えようとする者がいる時である。しかし、木の花ファミリーのメンバーはあくまでも木の花ファミリーの目的(宇宙・自然生態系を表現する)のために集っているわけだから、メンバーは常に共通の概念でなくてはならない。だから、これは当然のこととして、木の花ファミリーが社会に必要であるならば、そのまま役割として成っていけばいいのである。そして、そこに合わないものは違う世界をつくってネットワークしていけばいい。それはどことネットワークするかしないか、それぞれの価値観でやっていけばいいことである。

それは多様性という意味で、次の時代に新たな人々のあり方としてなっていけばよい。しかし、それを外の世界のものたちが木の花ファミリーを観て、自分たちの思想・信条と違うからといって、どうこうするものではない。外のものたちは自らの自我にふさわしいネットワークをつくって、それを良しとして結果を社会に示せばよいのである。そして、もしもそこに心の広さがあれば、それを多様性としてお互いに認め合ってネットワークすれば、なおさら良いことである。
ところが、自我が強すぎると、自らの考えが正しいと思い、違いを尊重しなくなり、そして自らの考えのもとに同じ考えの者たちが集まってくるとそれが絶対となって、他の価値観の者を攻撃する。そこに対立が生まれるのが人間の常の構造である。

それに対して、自然界では同じ種のものが引き合って受粉し、自分たちの種を増やしていく。同じ種のものが引き合って交尾し、自らの種を増やしていく。そしてそれが全体の中に拡散しながら、生態系をつくっているわけだ。そういった世界に倣えば、何も違うからといってそれを間違いだとか、対立する必要は全くないのである。

では、なぜ人間はこういったことをするかというと、自らの世界を正しいとしたいからだ。自らの世界が正しいのだからそれが正義であり、そのもとに世界を支配したがる。それが大きくなって、世界の多様性を壊していく構造になっていることが、理解できないでいる。
個が自我に意識が行き過ぎてしまって、自我の欲求を満たそうとした時に、個が強くなって個が対立することもあれば、それが群れになって群れ同士が対立することもある。これが地球上にいつまでも平和が訪れない原因である。だから、相手に矛先を向ける前に自らの姿勢を観て、その目に色が付いてないのか、歪みがないのか、客観的に捉える姿勢が必要になるのだが、自我が勝ってしまっていると、その真実がわからないのである。そのような人は常に自らが正しい側になり、冷静さを失うことになる。

そこで、人間の個が強くなって対立が起きた時に、個がどういった性質をしているのかに明快に気付けば、「自分はこういった原因で対立を起こすのだ」と自らを振り返ることができる。人間はとかく、自らを観ないで相手に問題があると観てしまう。そこでは相手を観ているのではなく、自らの姿を相手にオーバーラップさせていることになる。
相手を観ても、同時に自らも観て、冷静で客観的に全容をつかむ目線があれば、全ての出来事は情報であり、その本質に善悪がないことがわかる。そして、そこで対立する必要はなくなる。それはプロセスであり、違いは個性の違いなのだから、互いに認め合うことができるのである。

そうすると、群れを集めたとしても、その群れは世界の中の一つの群れとしての個性であり、ネットワークの一つにしかすぎない。だから、群れ同士で相手を観て否定するのではなく、認め合うための次のネットワークができるのである。

そのために、そういった世界を目指している木の花に、個人の自我を特定する「カルマ読み(名前からその人のカルマを読み解く)」や「己読み(生まれた時の惑星配置からその人の天命を読み解く)」が提供されているのである。なぜそういったものが木の花に芽生えたのか。それは他にないものである。そして、なぜ木の花が今、この個性を表現していくプロセスの中で他からバッシングを受けるのかと考えたら、21世紀を迎え、新たな価値観が地球人類に必要な時が来ているから、それを明らかにしていく道と、同じように考えているモドキとの微妙な仕分けの時が来ているからなのである。

だから、人間がこれからの時代をどのように生きていくか、微妙な真実の見分けが必要になってくる。今まで人間が生きてきた進化はエゴによってもたらされた。しかし、これ以上人間が人間に特化したエゴを発揮していくと、地球と折り合いがつかなくなる。そして、人間の中でもいつまでたっても対立がやまない。
人間の本質が問われる時が来ている。その本質は、今までの価値判断の思考の延長には生まれてこないのである。それは、観えないものにとっては観えないのである。世界は常に進化し、変化していくのに、自我の善悪にとらわれているようではわからないのだ。

だから、人間はここで、今までのあり方の区切りを経て、学習しなければならない。もともと人間は、生態系の姿、そして宇宙の星々の関係をモデルにして顕現され、進化・発展してきたのである。だから、そこにもう一度リセットする時が来たのである。
生態系の中で人間が自我を持って、唯一自己実現できるものとして進化・発展してきた結果、その自己実現がエゴを満たすことで偏ってしまい、自らの性質をコントロールできない状態になっているだけのことである。適度にあればいいものが、異常にありすぎる状態になって、害をもたらしている。そのことに気付けば、人間の尊い能力はこれから人類に、そして地球生命に、宇宙にさらに貢献していける。

21世紀は「脳の時代」である。今の人間は、脳の85%を使っていないと言われる。21世紀にはその使っていない脳を使い、新たなフロンティアを内に求める時代なのである。

だから今、1000年単位の区切りを持ってもう一度リセットして、人間は自らの性質を学び直す時が来ているのである。私たちのもとはどこから発生したのかを学び直し、そして人間社会の立て直し、自然生態系との付き合い方の立て直し、新たに宇宙意識としての人間の役割に目覚めていくのがこれからの時代なのである。

これからは宇宙意識時代だから、新しい科学テクノロジーなど色々な価値観が多様性として人間の内から生まれてくる。それがネットワークする時代である。そして、自然にその中から必要なものと不必要なものが淘汰され、発展・進化していく。それは自然でなくてはいけない。これからは主義・主張から来る対立によってそれが淘汰されていく時代であってはならない。これからは真の共同・協働の時代が訪れる。それにふさわしい覚悟と信念がなければ、これから訪れる天変地異を人々は乗り越えていけないだろう。

その流れに最も抵抗するのが我先のエゴの心である。これからの人類に与えられる困難は、そのエゴから解放されるための救いなのかもしれない。

全ては善きことの為に。ありがとうございます。
 

~ 何億年もの時をこえて ~

何億年もの時をこえて この星の上でめぐり合えた

一緒に日々を過ごすことが 一緒に歌を歌ったことが

みんなの中に流れている 真実のときを想い出させ

たくさんの幻の奥に やっと見えてきた真実を ただ歩んでゆく

闇の時代には真実が 見えなくなって手探りで

みんなで幻を作り上げて それが正しいと思い歩んできた

幻が少しずつ壊れてゆき 真実が光り照らされる

たくさんの幻の奥に やっと見えてきた真実に ただ飛び込んで

やっと出会えたね 新しい時代をつくるために

長い長い銀河の夜を それぞれ旅してやって来た

あなたがいて わたしがいて みんなが一つにつながって

闇の時代は終わりを告げて 光の時代へと向かってゆく

 
 


天との共同作業

いさどん:
この世界は全体で一つにできている。心が壊れた人たちは個の意識が強すぎて孤立してしまったわけだから、自らの世界観を広げ、調和の中に存在することを知ると心を立て直すことができる。それはその精神にふさわしいメッセージであり、全体はすべてを包括して表現している。ここではそういった視点を学んでいる。
ところが、宗教や一般のセミナーは「自己啓発」と言って、参加者に得になることを提供する。それをうたい文句に欲をくすぐる世界を創って人をたくさん集めている。

ひとみ:
そういう意味では、ここと全く違うね。

いさどん:
ここでは先に自らの精神構造を知り、本来人間に与えられたポジションを理解した上で、この宇宙から託されている人間の役割に目覚めて、それを果たしていく人をつくる。それが全体のために生きることにつながる。
結局、人は自らの影響範囲の中で生きていくのだが、そのスタート地点が違う。自らが健康に生きることは世の中のためであり、世界の仕組みに忠実に生きていくために、この仕組みが循環するように意識を持って生きていくのか、それとも、世界から自らを切り離して、自らの幸せや健康を先に意識して進もうとするのかでは、やっていることは同じでも、意識が違うのだから全く違うことになる。その違いを理解していないと、これを生きる意味がない。
だから、占いのように求めるのではなく、自分自身と世界の構造を知り、自らが社会に何を与えているのかを悟って、自らの問題点を改善することによって世界に貢献していくことが大切だ。

この世界に貢献することを優先して生きることはブッダとして生きることになる。しかし、結局スタートが何であるかによって、自らの問題点を解決して健康に生きることでも、同じようで全く違うことになる。これは菩薩道と人間道の違いだ。
多くの人は人間道の段階にいるので、それを投げかけて理解させようとすると、無理が生じる。だから、奥にある種が目覚めようと旬が来ている人だけを束ねていく。これからは、そのような人々に縁がある予感がする。そのためにこの生活をやっている。
しかし、そこではまだ今までと同じように自分にとって都合の良いものを求める人とも出会う。その人々には20世紀型の意識が残っており、そういった心がこれからは行き詰まっていく。そして、次の時代を迎えるためにも、新たな種が今、芽生えようとしているのではないかと思う。

ひとみ:
今までの人々は世の中のためというより、自分が安心する場所を求めていたわけだから。

いさどん:
だから、まだまだそういった世界観の人は少ない。

ひとみ:
いるはずなんだけどな・・・

いさどん:
いやいや、予備軍はたくさんいる。たとえば自分のことばかり考えている人の中にも、そのことに気付こうとしている人がいる。それはどちらかというと、男の人より女の人のほうが多いだろうと思う。次の時代は陰の目覚めだから、女性性が目覚めるということだ。男の人は理屈っぽいからね。

ひとみ:
男の人の中の理屈で生きていない人は隠れているんだろうね。

いさどん:
女の人はもちろんそうだが、男の人でもまだ役割の旬が来ていない人は時代の裏にいて、表に出ていない。

ひとみ:
新しい時代を生きる若い子とはまだつながっていっていないしね。

いさどん:
それがどのようにつながるのかはわからないが、決して我々に縁がないということではない。しかし、世の中の流れがすべてここにつながると言っているのではない。いろいろな働きがあって、それがうねりとなっていくわけだから。

ひとみ:
でも、まだ若い世代の人たちは、他の世代とかみあっているというよりは同世代で固まっている感じだよね。

いさどん:
それは同じ属性の者が引き合っているという状態なのだろう。ここのように雑多な人間が集まるのとは違うんだよ。
ここは相変わらず雑多な者たちが集まっていくのか、それともそういったものが歩みの目的を確認し融合して進化していくのかは解らない。しかし、元はこの世界全体が進化・成長しているのだから、雑多な者を集めてそれが調和していくのだとは思っていた。
我々も魂の故郷が同じ者たち(天の同じところから降りてきた者たち)が集まってくるのかと思ったけれど、そういう者は既に集まってしまっているのではないかと思う。ある程度の揺るぎない者が集まってきた結果、余裕があるから雑多な者を集めていく次の段階に入っている。次のステージを踏んでいるからこそ、このスタイルになっている。
初期の頃の僕たちが多様性を取り入れてやれたかというと、それは初期の仕組みを固めるための時代で余裕のない段階では難しい人は入れられなかった。その覚悟が固まったからこそ、次に進んできたのだろう。

確か晃ちゃんたちが来たころで、ここが始まって10年くらい過ぎたころにみんなに話したことがある。
「木の花も形が整って安定してきた。もともとのここの始まりは世の中の家庭問題などで困っている人たちの受け皿になることで始まったのだから、ひきこもりや鬱病などの問題を抱えている人たちを預かろう」ということになった。
「そのためには、まず、みんながそういった世のため人のための意識を持とう。そうしたら意識が天に繋がって、必要とする人たちが来るから」ということで外の人を受け入れるようになった。

それから、いろいろな人たちが訪ねて来るようになった。パニック障害の人が来たり、社会で一度成功したように勘違いした人が来たり、自分の欲がコントロール出来ずに女性問題や離婚を繰り返して行き詰っている人が来たり、このような生活を希望していないのに人に連れられて来るような人、他にもそういった雑多な人たちが集まって来た。本当に「雑多」という言葉がぴったりの場になっていったと思う。そういった意味ではこれから不要なものが削ぎ落とされて仕上がり、次の段階に行こうとしているのだと思う。

そして、残った覚悟のある者たちが、これからは雑多ながらに意識を統一することは、ハーモニーを描くということだ。今までは雑音が入り混ざっていたが、これからはハーモニーを紡いでいく人々が集まって来る。それは本来のここの大切な役割を果たしていくことになる。
社会にはここの存在を必要とする者がこれからもまだまだ出てくる。その人たちを調和的に仕立てて社会に還元していく役割がこれからもあるのだから。それが、今ケア(木の花ファミリーが提供する自然療法プログラム)の人たちが増えてきている証なのだろう。
そういったここの変遷を理解した上で、このような役割を果たしていく自覚を皆が持っていくのは大切なことだ。ひとりひとりが自らのポジションをしっかりと担って、全体の推進役になるもう一つ高い意識を持つ目標があるということだ。

ひとみ:
オーケストラの奏者が音を奏でるには指揮者の方を見ていないといけない。

いさどん:
まだまだ人間は自分のことばかりを優先している。「己を失くして世の為人の為に」という大切がわからない。言葉を聞いても脳にそれを解釈して落とす場所が開発されていない。
つまり、脳の中に菩薩としての分野があるのだが、そこが活性されず働いていないから種が芽生えてこない。それで、“もどき”をやってしまうんだよ。21世紀は、菩薩の脳を発達させて、それを現実化していく精神性の時代。それはこれから始まる。

ひとみ:
精神性の時代と言われても、その精神性とはどのようなものなの?

いさどん:
精神性にもランクがあって、「己の為の精神性(20世紀型)」から「己をなくして人の為に生きる」というランクがある。

ひとみ:
みんな、己をなくすのが大変なんだね。

いさどん:
自分に捉われている人間は、己をなくすことは自分がなくなってしまうと思っている。しかし、己をなくすと、己を超えた己が現れてくるんだよ。そして、さらに己をなくすと、さらに次の己が出てくる。それを繰り返していくと人々はブッダとなり、天とつながる人になる。
それは神人和合となって、人々の意識は宇宙と一体になっていくんだよ。それが21世紀に現れるユートピアなんだ。ところが、多くの人が我の意識レベルでそれをやれているつもりでいる。人間はまだ自らを自分の内に閉じこめている。

ひとみ:
自分のイメージは捨てられないんだね。

いさどん:
そう。我を越えられない状態で自らと向き合おうと思ったらできない。「ありがとうございます、いただきます」という精神になった時にそれができる。そうやって初めて、自らを超えた自らの世界に行ける。それが成長するということ。

ひとみ:
そういう意味では、雑多なメンバーの中でそれを練習してきたんだね。

いさどん:
この世界は多様性の世界(宇宙と地球生態系)で人間の世界も多様性に表現されている。意識のそろっている者を集めていくと簡単に行ける。しかし、雑多な者たちが行くからこそ、この世界の仕組みにふさわしい表現をしていくことになる。
それが人間だけのためであったら、他の生き物を無視することになる。だから、人間も含めてすべての生命生態系とともに意識があることが、ハーモニーを奏で調和を表現する世界につながる。それを託されているわけだから、同じ楽器で同じ旋律を奏でることとは違うことなんだよ。それが「難しいことを与えておるゆえ」という言葉の意味で、それを理解して進みなさいということだよ。あぜ道の話と一緒だね。

しかし、このような話はよほど意識して聴く気がある人でないとわからない。自らが救われたいと思っているようなレベルの人達ではわからない。そうすると、これがわかる人たちが集まってくるのは、我々が集めるのではなくて、時代が天とともに集めることで、そのような時代が来るということだ。

ひとみ:
やっぱり天との共同作業なんだね。

いさどん:
だから、常に天を意識して共同作業していく。しかし、「天との共同作業」と言うと、世の中に浸透しにくい。まだ世の中の人々は「天」という意識も、「いただく」という意識もなく、自らの納得できることをやろうとしている。それを言葉で伝えても、まだ意味がわからない状態なんだよ。
だから、我々は一般の人たちが理解できないことをやっているということでもある。これは、先を行く者の宿命なんだから、それを理解しておく必要がある。

ひとみ:
メンバーでも、もっと天との共同作業という意識を持ってやれるよね。

いさどん:
天との共同作業をするためには、意味なく事がやれる人にならなければいけない。

ひとみ:
天との共同作業というのが、今とても私の意識にヒットした。

いさどん:
天との共同作業をするには、「あれがしたい、これがしたい」と言っているのではなく、とらわれない意識で意味のあることをやれる人にならなければいけないのだよ。
 
 
「アワの歌」

アカハナマ イキヒニミウク

フヌムエケ ヘネメオコホノ

モトロソヨ ヲテレセエツル

スユンチリ シヰタラサヤワ
 
 


課題に出会うことは

課題に出会うことは、その課題を超えて新たな可能性に出会うということであり、それは本来喜ばしいことだ。しかし、それまでに持っていた概念にとらわれていては、その課題は常に目の前にある障害物にしか見えない。

一年に四季があるように、人間が生きていく上で新たな発想が芽生え、伸びていく時がある。その成長が旺盛になり物事がどんどん様変わりしていく。そしてそれが熟して収穫をする秋を迎え、次の課題のための熟成の冬を迎える。そして、新たな課題に出会い、自らの新たな可能性の春に出会う。人間の生の一年の中にも四季のリズムがあり、それは一生の中にも同じように刻まれている。

大局的にとらえれば、どのような時も前向きに生を全うすることができるが、大局は人間の思考の中にあるのではなく、宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされている。それを人間一人ひとりが命の営みの中で受け取り、思考に転換し、自らの生の中に表現していく仕組みになっている。

我々の命は自然そのものであり、さらに自然の奥にある宇宙秩序そのものであり、自然の奥にある自然を法則化している天の意志・「天然」そのものである。それを理解するためには大局的にものをとらえないと、この世界の事象の奥にある本当を観ることはできない。
だから、人間が考える思考と、生命として生態系につなぐ自然と、さらにその自然を保つための宇宙の法則・天然、その3つの視点があってこそ、人間が生を受けてきた目的や役割、そしてこの地に降り立った意志を満たすことができる。

個の気付きがなされないことには人類の目的も達成されない。目的が果たされないことは本来与えられた役割も果たさないことであり、それは本来の道から外れることであり、人間の存在は天の意志からも、自然の法則からも、自らの目的からも外れることになる。

生きることは命を紡ぐことであるが、それは生涯を通して続くことであり、かつ我々は生死を超えた魂の存在である限り、それはあり続けることなのだ。その目的は、この世界を現象化している意志に目覚めることである。
その目覚めのための気付きを一つひとつ得ていくために、我々は日々の中で課題をもらう。それと向き合い、学んでいくのが本来の人生の姿である。人生の四季を経て年輪を刻む大樹となるように、あるいはその時々に応じて節をもらい育っていく竹のように、育っていくために人生の課題があるとしたならば、それは喜ばしく希望あることである。

だから、日々、瞬間瞬間、それに向き合い、味わい、そして伸びる時には思いっきり伸ばし、それを楽しんでいけばいい。

そのために、人間には考える力が与えられている。だから、よく考え、そしてよく観て、育っていく。それを怠るものは目覚めが遠くなる。怠ることの原因として、己にとらわれている。それでは新たな世界には出会えない。
常に今と出会い、いただいていく姿勢がそこには不可欠だ。その姿勢こそが道の扉を常に開くことになる。
 
 


“真学校”としての役割

木の花ファミリーでは、自分という枠から飛び出してこの世界の仕組みを学ぶ「木の花塾」や、それをさらに総合的に、1ヶ月間の滞在を通してじっくりと深めてゆく「エコビレッジ・デザイン・エデュケーション」などのプログラムを開催しています。これまでも受講生たちの人生に大きな変化をもたらしてきましたが、世界中が激動の時代へと進み始めた今、これからのさらなる役割についていさどんが語りました。

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

いさどん:
人間の近くで生きている動物には多少の感情があると思う。それに対して、人間は感情の生き物といえるくらいの存在だ。

21世紀に入って14年目を迎え、社会にはまだまだ問題の種が山積している。その根本的原因がどこにあるかを考えてみると、私たち人間の感情の有様にあることがわかってくる。
人々の感情がエゴに向かって育てば対立するのだが、調和に向かって育てば平和が来る。しかし、どうしてもエゴに向かってしまうのが人間の本質。調和の方向へ向かうことも諦めてしまいそうなくらい、エゴの方向へ一方通行な人間の性質が強くあるとしたら、そのエネルギーを逆の方向に向けても然るべきだと思う。エゴに向かうことが生命としての本質はそうではないのだから。
小さくても人々のあるべき見本を創りたい。その為には人間を人間たらしめている精神構造に着目するべきだと思う。そこから根本的に組み立て直す必要がある。

ひとみ:
それはどうやって?

いさどん:
エゴに走るという事は感情が一方通行だろう?自分から周りへというように。だから、広い世界から自らへ帰ってくる視点で外から内へ、そして内から外へと、その両方の視点がバランス良く成立した時に、個人は全体の為に繋がるし、そこに調和が生まれるんだよ。お釈迦様が中道を説かれたけれど、個人の成り立ちと世界の成り立ちが同時に成立するとらえ方があるはずなんだよ。
今、地球の外、人工衛星のあるような位置から地球を眺めている意識で、そんなことを想って語っているんだよ。やはり視点がこの地上意識を離れないとそうはならない。その発想はいつでも人間の能力で出来ることなのだが、人はそれをなかなかしないんだよ。

ひとみ:
しないの?

いさどん:
そういった視点を持たないんだね。

ひとみ:
持てないのではなく、持たない?

いさどん:
持てないのではない。持とうと思えばできる。それだけの能力と情報が人間にはあるのだから。想いはいつでも広がるし、飛ぶ。だから出来るはずなんだよ。

ひとみ:
では持たないのは?

いさどん:
持たないのは視点が狭いんだよ。

ひとみ:
視点が狭いから持とうという気になれないということ?

いさどん:
視点が狭いからそういった発想が浮かんでこない。広い世界観が浮かんでこないんだよ。少し刺激をもらえばその能力は既に持っているわけだから、誰でもその視点に出会える。少なくとも視点が広くなりさえすれば、自分だけの一方的な価値観でこの世界を見ることはない。なんとかしなければ、と思うだろう。自らの内から目線、損得目線では繋がらない。

実際に人類は宇宙開発をしている。宇宙から見たら地球は狭くてひとつに観える。国境がないことも簡単に理解できるだろうに。海もひとつだし、大地もひとつだし、風もひと塊だし、大気もね。空気もみんな、ひとつの中に暮らしているんだよ。

救世教の岡田茂吉さんが今から70年ほど前に自然農法を解き出し、画期的な方法があると語った。肥料をやってお金をかけて大地を悪くして生産性が上がらないよりも、自然農法という神の力を使った方が確実に米の収量が1割〜5割上がる。そして、肥料の毒がない健全な農法と謳って、これはすぐにでも日本中に広がると言った。そしてその会員を募り出したら、100万部くらいのパンフレットを作らなければいけないと書いているんだよ。
それはよくある話で、人参をぶら下げてそれに欲の亡者たちが群がってくる姿だよ。結果、自然農法は科学的な根拠に基づいた農法に代わって一時火がついて世の中に広まりかかったものの、萎んでいった。

あの山岸巳代蔵(ヤマギシ会創設者)さんが理想世界を説いて、食べるのに困らない生活を謳って人を集め、ブームになった。特講(特別講習研鑽会。1週間ヤマギシ会に滞在して自己の思考を見直すというもの)なんて何十万人も今まで受けている。結果、それで下火になっている。それは何故かというと、人間の欲をくすぐって広めようとしたからだ。
逆に人間の欲をくすぐらないで、「欲から離れて本来の人間の生態に相応しい立ち位置に戻りなさい。それは欲に汚染されていないから人間の意識は高いのです」と伝えても、世の中にはなかなか広がらない。しかし、大事だということではこちらの方がはるかに上なんだ。『難しいことを与えておるゆえ、心して行け』と託されたわけだよ。しかし、それを大事の一番としたならば、難しいからといって止めるわけにはいかないんだよ。

何故、人間がこのように偏ったものになってしまったのか。何故、わざわざこのような思考回路を持つ者としてつくられたのか?はたまたこの身体をもらったばかりに、五感の刺激が強いばかりに、自己というものに意識が行き過ぎるのか?
それでも、人間以外のもののように感情的思考が強くなければそのようにはならないはずなのに、一方通行の感情・思考の強い者をわざわざつくってしまったが為にこういった現状があるとしたならば、難しいけれどそこを突破して越えていくだけの道があることは確かなんだ。それはその道を行くことを課せられているとも言えるよね。だから、そこに気付いたものはそこを行かなければいけない。

このようなことを考える人はなかなかいない。いたとしても、それは難しいと言うだろう。だからこそ行くのだ。そういった世界が人間にも創れることを示さなければいけない。
その為にまず取りかかるのは、自らの改造からだ。そして、それを外に示して人間が自らの内側の改造に取りかかった結果、できる世界の姿を示していく。シンプルになっていく豊かさ。分かち合うことによる豊かさ。エゴを手放して繋がることの豊かさ。このようなものは世の中にいくら宣伝してもなかなか広まらないけれど、小さくてもモデルをつくることは出来そうではないかと思うんだよ。世界がそのことになかなか気がつかなくても、可能性としての見本は見せることが出来る。

あと17年。それは個人的に理由のある数字だけれど、それをやりきって後に続く者に残して旅立とうと思う。

最近、『神学校』という言葉が浮かんでくる。イスラム教でもキリスト教でも神学校というものがあるけれど、年明け最初の木の花塾でどうだろうね。

ひとみ:
では、第3回目は実習はなくす?

いさどん:
“実習”はゲームのようだ。そうではなくて、イメージをどんどん膨らませて世界観を広げていくものにしたいね。

ひとみ:
なるほど。心の読み方自体は1回、2回で伝えたからね。

いさどん:
それは特別に大切なものではないんだ。心の読み方をマスターしてもしなくても、要は世界観が広がりさえすれば人間の意識は変わる。それが変わらないと、自らの心の構造を知ってもどう生かせばいいのかということになる。

ひとみ:
生かすために必要なんだね。

いさどん:
そう。どんな人でも世界観が広がりさえすれば、意識が高まっていく。人間が世界観を広くしないからやっているだけであって、それは一つのツールにしか過ぎない。それは最終目的ではないんだよ。それを最終目的にしたら、お金儲けの手段に使ったり、偶像崇拝的なことになってしまう。

ひとみ:
やはりいさどんは発想の元が違うね。いさどんの視点の位置で考えないと。

いさどん:
それでは“いさどん視点で見てみよう”というキャッチコピーになってしまうね(笑)

ひとみ:
そうそう。どうしても私の場合、“講座”というふうに発想がなってしまうので、狭い発想しか出て来ないことになる。

いさどん:
“自らの思考を柔らかくして新しい視点で観てみよう。”

ひとみ:
なんだろう?固定概念が邪魔をするんだよね。

いさどん:
それは“発想をフリーな状態にして囚われない思考を持とう”という事だね。そうすると、縛られている自らの枠から抜け出せます。そういったことをひとつずつ学んで身につけていくことだよ。

ひとみ:
学びに関しても自分の発想内(理解できる範囲内)の学びをしようと人間は考えるよね。

いさどん:
その学びは人の成長につながらない。

ひとみ:
でも、そういった人がほとんどだよね?「自分の発想内の気づきを得よう」とか「自分の発想内の予測できる学びをしよう」と人間は考える。

いさどん:
それを求めるんだよね。それはその人の心の枠の中にあるものだよね。それでは我は取れないし、意識が広がらない。

ひとみ:
学びや気づきを得ているつもりでどっぷり我に浸かっている状態だね。あーあ、たいへんだね!

いさどん:
この前、木の花塾の『宇宙おじさんの人生講座』である受講生から「公開面談をしてください」と頼まれたので、「それではあなたをバラバラにしてしまうよ」と言ったことに対して、彼女が「それをしてもらう為に来たんです。私はもう限界なので自分の枠を壊したいのです」と言ったんだよ。人はそこまで行き詰まらないとそうはならないけれど、そこまで行き詰まる前にそういったことを求める人でありたいね。そして、常に人はそうあるべきなんだよ。痛い思いをしなくても、冷静な自分観察を出来るようになれる。しかし、人は冷静な自分観察を始める前に、目の前に人参をぶら下げられると、それに魅力を感じてそちらの方へ行ってしまうんだよ。それで手法に走ったり、甘い方へ行ってしまい、本当の実力をつけることが出来ないんだ。

ひとみ:
それを突破できる?

いさどん:
それを突破できるようにずっとここでやってきたんだ。それは“わからなくても信じて行く”決意と、それからわからなくても信じる種が育つこと。

ひとみ:
種。その人に?

いさどん:
ひとりひとりにね。

ひとみ:
でもやはり先導する人が必要ではないですか?

いさどん:
だから、“真(神)学校”がいると思う。

ひとみ:
真学校もいるけれど、“いさどん”がいるのでは?

いさどん:
それを“真学校”というんだよ。

ひとみ:
いさどんが“真学校”なんだ!?

いさどん:
そう。それが“おやじの館”なんだよ。

ひとみ:
「ああ!いさどん様〜!」という感じ(笑)

いさどん:
いや、それは違う。人によって段階によってはそれもやむを得ないこともある。しかし、本来その目的は誰にも縛られない、自分にすらも縛られない者に成長するためのプロセスだから。そういった段階を踏みながら、ひとりひとりの種を芽生えさせていくネットワーク創りをしていくことだと思う。

今までは依存してきた者に対して、自立を促しながら緩急をつけて接してきた。しかし、“もどき”がその中に入っていると、その厳しさだけが際立って今回の現象とその変革となった。そこを教訓にして、やはり種のある者が自然に集まってくる場づくりをする。そして、種があるならば、水をやり、温かくして目覚めを誘発すれば芽が出てくるだろう。その作業をこれからやっていく。“火水(かみ・神)まつり”だね。

ひとみ:
質問です。“もどき”の人間は種があるのは同じなのに何故目覚めないんですか?

いさどん:
“もどき”という状態は、ことの大事はわかっているのだが、まだエゴの魅力に憑りつかれている状態。だから、「わかる」の後に常に「けど」「でも」を使う人。

ひとみ:
エゴに重きを置いている。

いさどん:
自分事を優先して物事を考えている人たちのこと。それはエゴをやりきっていないということさ。エゴをやりきってしまえば、後は調和の方に向かうだけだが、それをやりきれていないんだよ。

ひとみ:
では、「壊したいんです」という所まで行かないと切り替えられないの?

いさどん:
それは推奨できることではないよね。その前に積極的に大事に気がついて、自らを切り替えていけば痛い思いをする必要はない。そこは世界観が狭くてエゴ的カルマが強いからそこまで行くわけだ。
そういう人もいるだろうけど、これからの若い世代の人たちは新しい時代を背負っていく人たちだから、まったく痛い思いをしなくても当たり前にそれが出来る人たちが出てくる。しかし、彼らもそういった事を言いながらも、実際の社会を見れば彼らが思い描く社会や人々にはまだまだ出会えないわけだよ。
だからこそ、ここにそれを創る必要がある。そして、そのような心を育てていく必要があるんだ。今までの宗教団体のように巨大なものをつくる必要はないんだよ。小さくシンプルで、“これだ”というふさわしい本物をつくるだけでいいんだ。その研ぎ澄まされた美しいものは見本として、次の時代の指針となる。
 


「聖蛇」から真の「聖者」へ

ひとみ:
よく日本人は信仰心があると聞くけど、国民性として実際にそうなのですか。

いさどん:
そうだね。信仰心といっても、もともとの日本古来の信仰は八百万の神々で表される自然を神と見立てていた。自然は循環する命の仕組みのつながりであり、自然の循環に神を見ていたということだろうね。
例えば、言葉から発する言霊とか音霊とかいうとらえ方があるように、日本の信仰というのはもともと多神教で多様性があった。それはどういうことかと言うと、神(命)の働きであるこの世界の仕組みを大きく分類していくと、始まりは天御中主(あめのみなかぬし)といって唯一の神であり、そこから働きが別れて多面的(多様性)な一つの世界(一神教)が創られている。その世界が多面的であることから、同時に多神教であるという柔軟な考え方だ。
そういった宇宙の中に、私たち一人ひとりの人間の個が存在する。その個から世界を捉えて生きていると、この世界の仕組みによって活かされていることを生活の中に実感することになる。そうすると、そこに祈願とか感謝とか祭りの精神が生じ、そこから信仰心が生まれた。
その精神世界では、天の御魂が地上に降りて肉体を持つことによって、人間的な所有や執着のカルマ的汚れに汚染されることになり、それが苦しみのもととなっていった。そこで、その汚れを払い落とすことが必要になってきた。神道系の信仰では祓い清めることになるのだが、そのようなことでは人間についた欲が祓い落とせない状態になって、仏教とか、後にキリスト教の道が必要になってきた。

ひとみ:
十戒とか。

いさどん:
そうだね。十戒のような戒律が必要となり、仏教的、キリスト教的な規律で生きていくことが輸入された。
人々がもともとの自然の仕組みのままに生きていたら、それは美しい営みであり問題はなかったのだが、人間の欲望が強くなり、悩みや苦しみが多くなってきた。そして人々は自然の仕組みからはみ出すようになって、そのコントロールが必要になってきた。
そこで求められる世界は、人間の欲望や願望を超えた自然と一体の世界だ。自然は、宇宙法則により生命が一体になった境地を現象化した世界。それは過去の人間たちの中に存在していた。それが祭りなどの形となり、残ってきた。

その精神がなぜ薄れていったのかというと、明治維新により、天皇を神格化する国策が始まった。教育勅語のようなものを使って、国家神道という国をまとめるための宗教を軸にしたことから、本来の自然にまつわる精神を失っていったわけだ。
日本人は歪んだ宗教を与えられた結果、第二次世界大戦を起こし、宗教アレルギーになってしまった。それで、本来日本人の中にある八百万信仰という自然と一体となって生きていく精神が消えていくことになり、代わりに西洋文明の人工的、物質的な価値観が入ってきたり、多様な新興宗教が興ったりして、日本人の本質が骨抜きになってしまった。
そういった中で、多くの宗教は信者獲得の争いにまみれていく。大本教や天理教などの神道系から、仏教系、キリスト教系までの日本の宗教が、ご利益的な教えのもとに勢力を広げることになった。
そこで表現される信仰は御利益宗教であって、人々に目覚めを促す本来の信仰とは異なるものになってしまった。

ひとみ:
ここに来る前に私が調べたことの中に、天御中主命的な、世界はもともと一つだったということがどこの国の神話にも記されているのだけど、あまり他の国の人々はそれがわかっていないような感じがした。日本人はそれを覚えているような感じがする。

いさどん:
日本人気質の中には情報としてあるかもしれないけど、今の日本人は、あまり覚えていないね。

ひとみ:
日本人も忘れているということ?

いさどん:
今の日本の人々にそのようなことを意識している人はほとんどいない。それから、そういったことを意識している人たちもそれに偏ってしまって、生活に表わすことがおろそかになっている。

ひとみ:
そういう傾向があるよね。

いさどん:
分析すれば、歴史がそういった社会を誘導してきたということなのかもしれない。今、20世紀までの千年の区切りが終わって、21世紀型の社会が幕を開けようとしている。それで価値観が大きく変わろうとしていることは確かだね。
これまで、「陽」の時代が千年間続いて来た。そしてこれから「陰」の時代の千年間が幕を開ける。陰が主となる霊主体従の時代が開けようとしている。これまでの陽の時代は、物、金、形、テクノロジー、科学の刺激がとても強かった。しかし、そういったものは陰である霊性に根付いたものでなければ、健全な姿にはならない。そのことを、これから人々がわかっていくことになるだろう。
昨日、アメリカのイサカから来たゲストが彼らのコミュニティについて語ったが、その現状はまさしく、陽が優先し、豊かさと便利さをエコという言葉に変えて追及している、精神性の薄い生活になっている。また、エコについても、どちらかというと彼らはそれほど強い意識を持っているわけではなくて、自分たちの願いを優先し、プライバシーを守り、好きなように暮らせることを大事にしている。それは浅いところの願望は満たしてくれるかもしれないが、霊性などの深さには繋がらないことになり、地球に負荷をかけ続ける20世紀型の生活になる。

ひとみ:
日の本の国(日本)は霊性の世界の写しだから、そこが歪むとアメリカも中国も歪んでくる、と何かの本に書いてあって、以前私がいさどんにその話をしたら、「インドは特別なんだ」と言っていたような気がするのだけれど。

いさどん:
インドは“地球のへそ”といって、心が湧き出るところだ。

ひとみ:
インドは仏教が生まれたところ?

いさどん:
仏教だけではないよ。インドでは仏教のもとであるヒンズー教、イスラム教、実は原始的なキリスト教もインドから生まれたという説もある。

ひとみ:
インドが要になるの?

いさどん:
インドは地球の魂が湧き出るところ。

ひとみ:
日本は?

いさどん:
インドは地球の魂という生命宇宙の法が湧き出るところだけど、日本は逆に宇宙の法が降りて来るところなんだ。だから、富士山のことを天教山(天の教えの山)といって、エベレスト・ヒマラヤのことを地教山(地の教えの山)という。

ひとみ:
そういったものを日本人は忘れてしまっているということ?

いさどん:
DNAの中には情報としてある。そして、それに目覚めてきている人が現れ出している。今までの日本では、そんなことを言おうものならそれこそ宗教団体に見られてしまった。

ひとみ:
そうなんだね。

いさどん:
そのうちに民族意識が目覚めて重ねられる時が来るんじゃないかと思う。

ひとみ:
今でも一部のマニアックな人たちはそういった部分だけ取り上げて、実生活がそれに見合っていない人たちがいるよ。

いさどん:
それも次の時代につなげるための役割で、どこかでつながって100匹目の猿現象のように広がっていく時が来るのだろうと思う。

ひとみ:
今年は“龍のうねり”といさどんが言ったけれど、世界の神話の中には共通して龍のような生き物が出てくるんだよね。どこの国の古い神話の中にも、蛇や龍が表現されている。そして、それが意識される現代はある意味末期の世なんだろうね。

いさどん:
末期の次は始まりということになるからね。

ひとみ:
そうそう。末期が始まり。古代神話の創世の部分に龍のような動物が登場する。古い時代が終わって新しくなるということだね。

いさどん:
だからこそ、人間はそれを察知して新しい意識を持って生きる必要がある。新しい意識を持つとは、ここでは“古い”意識を想い出すとも言える。それは“復活する意識”で、忘れていたものを想い出すことが新しいということになる。
そのことが今の人間たちには大事なことだけど、それがなかなか一番にならないんだよね。どうしても20世紀型の物・金・カタチのところに魅了されてしまっていて。決して物やお金がなくなってしまうわけではないのに、優先順位を間違えている。優先順位の一番が欲を満たすことになってしまっている。イサカのエコビレッジの話を聞いても、個人の願望が優先されて、コントロールすることによるシンプルな豊かさや尊さがまだ理解されていない。

ひとみ:
物理的な生活はシンプルかもしれないけれど、シンプル違いなんだよね。個人の願いとか趣味とかにまだ意識がある。

いさどん:
それはシンプルではないんだよ。個人の欲望が少し方向が変わっただけであって、個人の概念を満たすということについては同じことなんだよ。

ひとみ:
同じなんだよね。そうそう、それが言いたかった。

いさどん:
この世界(宇宙)では個人は全体の為にあって、個人が生きるための意識の先に全体が存在しなければいけないのに、その全体ということが優先できない我が勝っている状態にあるわけだ。

ひとみ:
一般社会と同じなんだね。エコビレッジというカタチをしているだけで。

いさどん:
それが“もどき”なんだ。他にも世の中にもどきはいっぱいいる。

ひとみ:
なるほど。

いさどん:
エコビレッジに限らず、いろいろなものが“もどき”になっているんだよ。自分を優先する理屈で正邪を決めているんだよ。

ひとみ:
自分が元にあることのカラクリに気が付かない人が多いね。

いさどん:
そうだね。自分という存在はすごく大きな存在だからね。だから、自分を越えていくことは難しい。しかし、美しくなるためには、それを越えていかなければいけないんだよ。

ひとみ:
そこが古い時代と新しい時代の違いだね。

いさどん:
根っからの宇宙人というか、この世界の法に基づいてというか、“法に目覚めて”生きていこうとする者と、自分の中から湧き出てくる我に翻弄されながら生きていこうとする者との違いがそこにある。そこを超えて創られる時代がこれからの時代で、21世紀の物理的に難しい時代を楽しく乗り越えられる人々の心の姿なんだ。そこをいくら言っても、個の我が優先している者には解らないんだよ。

ひとみ:
伝わらないんだよね。

いさどん:
時期が来れば、誰にも目から鱗の時期が来るだろうと思って、伝えようとしているんだけど、伝えようとしても伝わるときにしか伝わらないから、まあしょうがないと思っている。

ひとみ:
なるべく、大難にならないうちに気がつかないといけないね。

いさどん:
そこに気がつかないと、自然現象や天変地異的なものは収まらないよ。

ひとみ:
収まらないね。ますます激しくなる。

いさどん:
しかし、ひとりふたりとそこに気付こうとする者たちが出てきている。

ひとみ:
その為に揺さぶられているんだね。

いさどん:
逆に“もどき”が明らかになって外れていくからね。

ひとみ:
本当だね。

いさどん:
それが新たな次の時代に移行するときの選別なんじゃないかな。

ひとみ:
そうだね。意識の選別。

いさどん:
我々は陽的(物質的)な時代から扉を開けて、次の時代を見た者として、新たな、生きるという現象化を大事にして進めるのが役割。そしてそれを自覚して生きることなんだ。

ひとみ:
だから肉体を持って生まれてきたんだね。

いさどん:
そういった大事を表現しない人生なんて意味があるんだろうかと思うんだよ。自分の私利私欲で食べ物を食べて酒に溺れて、単に物理的な豊かさを追求してお金を求めて、その豊かさの延長に生きてなんの意味があるのか。
生きることに対して死があり、それは繋がっている。魂の旅である宇宙の法則の中に生きる認識と比べたら、何の意味もないことだ。それどころかそれが自らの足枷になり、人生の旅の重荷になって、自らの成長を妨げるものになることを感じると、そんなものにまったく魅力を感じない。
しかし、物質的なものは霊的な豊かさの表現の手段のひとつでもあるのだから、そこを避けて生きるということではない。豊かさの優先順位を間違えないように心して生きるということだ。

ひとみ:
魂で生きることを意識していたらそうなんだろうね。今の人々はそれを忘れている。

いさどん:
だから、多くの人を惑わす。物、金優先の社会や“もどき”の宗教や、“もどき”の神通力を使うものたちが出てくる。そういう人たちは必ず有名になろうとしたり、お金に溺れていくことになる。

ひとみ:
表面的な知識だったり。

いさどん:
そう。知識や理屈に溺れていく。

ひとみ:
あとは表面的な“仲良し”に走ったり。

いさどん:
結局そういったものは自らの中にある微妙なもの(けじめのない心)を優先している。それは無意識に我が優先している状態。

ひとみ:
一見良さそうに見えるものね。

いさどん:
聖者と言われていても、それとは対極の者もいて、紙一重なんだよ。魔はいつでも差してくる。しっかりとした意志がないと道は歩めないもどきになってしまう。田んぼの畦道の話をいつもするけれど、左側は尊い生命の米を作っていて、右側はいつでもカルトに落ちるという真ん中の細い一本道を歩いていることを、常にわかっていることが大切なんだ。

ひとみ:
本当に謙虚に歩いていないと、すぐに魔に足をすくわれることになる。

いさどん:
謙虚だけでは駄目だね。やはりしっかりとした意志を持って真実から外れないという魔に打ち勝つ覚悟がないと駄目だね。覚悟が、自らの中にある我や魔から自らを守るんだよ。

ひとみ:
頭ではなく、腹で決めるということ。

いさどん:
そうそう。頭で考えているのではなく、腹から湧き出てきたものでないといけないんだよ。

ひとみ:
その感覚が現代の世の中にないんだね。

いさどん:
ないね。頭があって腹がない。

ひとみ:
頭があって腹がないのは蛇だね。

いさどん:
だから“聖蛇”というんだよ。

 
※ひとみ注:最後にある“せいじゃ”は漢字を“聖蛇”としました。
聖蛇・・・聖人の形(なり)をした蛇、“もどき”のこと。