何でも来いや、任せておけ!~前編

先日、木の花創立以来初めての相談出張にいさどんとようこが行ってきました。
二人が行きの車中で話した会話を今回のブログでは紹介します。

いさどん:
僕は、この生き方がもっと広がる必要があると思っている。
ただ、今のような一般社会の人たちが、
わがままな豊かさを満たしながら、このような生き方をするのは難しいだろうとも思う。
まだまだ「あれが欲しい、これがしたい」と思っている人たちにとっては、
バランス良く欲望を表現しながら生きていくことは難しいだろうと思っている。

例えば、地球環境に負荷をかけないような生き方をするためには、
今は地球が何個分もいる生き方をしているわけだから、
今のような状態はどこかの時点で改めないといけない。
そういう話は色々なところで出てきているのだけれど、
実際にはそういうことを意識し実践している人はほとんどいない。

そういう中で、私たちの存在はまだ特別な存在だよね。
私たちの中に大切にしている価値観はあるけれど、
ここにいるメンバーの中でも、まだ十分に満たしていない人もいる。

この共同体にいる私たちは一体全体何ものなのか、ということを世の中がいつか理解する時には、
世の中の人々が今の世の中の状態が何なのか、
自分たちが求めていることが私たちにとって何なのか、ということをわかった時だろうと思う。

僕は今、何となく心が晴れない気持ちがある。
今の社会を観て晴れない。
それは僕の中でこの世界に対する理想のイメージがあり、
そこに人々が気づかないから。
そのことに対するイライラとまではいかないけれど、そういった類の気持ちがある。
だからと言って、今わからない人たちに「わかれ」というのも、おかしな話だよね。

ようこ:
「わかれ」と言って、すぐわかるものでもないから。

いさどん:
「自分が何かをやっている」と思うとそういう心になっていくのだから、
「やっている」のではなく、「その役割をもらっている」と思えばいい。
自分がそこでは主役にならず、世の中の動きに対して、
「一つの役をもらった役者のように自分の役割を果たしている、と思えばいいか」
というところに落ち着く。

ただ、そうなる前に、
「自分の思うようにならない。思うように伝わらない」という心が湧いてくる。
それは、今のように振り返れば消えていくことなのだろう。

今日は珍しいことが起きている。
ようこちゃんと僕がこうやって出張するのも初めてのことだし、
相談事で出張するということも初めてのこと。
きっと、これは何かの始まりだと思う。
この機会を区切りにして、僕の晴れない心を卒業したいと思う。

ようこ:
いいねー!

いさどん:
今の木の花に対して想うことは、農業部門がしっかりと確立されること。
それから、きくらげのような新たな経済システムを安定させること。
木の花が共同体として、しっかりとした体制が築かれるということ。
それが出来れば、僕は次の段階に入ってもいいかなと思う。

僕が60歳になって「おやじの館」をスタートするまで、あと1年だよね。
家の前の畑に植わっている夏野菜がどうなっていくのかが、一つの鍵かなと思って観ている。
あれは日にちを追っていけば、学びとともに良い結果がもたらせると思っている。

先日、エコビレッジ国際会議後にここを訪れた、
インドのエコビレッジ、オーロビルに住んでいるビンドゥと話をして、
その後フィリピンでエコビレッジを立ち上げたぺネロペと話をした結果、
木の花がこれからこういった世界で大きな存在になるだろうと思った。

そうすると、色々なことに対する体制が整ってくれば、新しい出会いも生まれてくる。
私たちが取り組んでいるケアのことも、新しい動きがこれから生まれてくる。

そうすると、今日の新しい出発を境にして生まれ変わる必要があると思っている。
自分の自発的な作業とはいえ、
僕も今これを機会に自分の中の晴れない心を取り去っていきたいと思う。
僕は、自分でこうやって打ち出して方向付けをしている。
今日は良い機会だから、自分の中で消化していないことを全部出そうと思って、出してみた。

結局出しても、この道を歩むことには変わらない。
ここまで来たら、他の道なんかない。

ようこちゃんは、そういう意味では未来に賭けているのだから、楽だよね。

ようこ:
楽(笑)!

いさどん:
人に道があってそれに賭けるとなると、自分でどうこう出来ない分だけ楽。

ようこ:
考える必要がないものね。信じていくだけだから。

いさどん:
僕が与えられたこの道は、
絶対なものがそこにあって、確固たる導きのもとにある。
この生き方を広げることが大切であり、
私たちはエコビレッジでもなければ、
医療の一つであるケアを通して世の中に何かを伝えるものでもない。
私たちは宣教師であると言える。

先日、エコビレッジ国際会議に向かう車の中で、
ようこちゃんの話題になってね。
いさおちゃんがようこちゃんと接していると、うっとしたり腹が立つと言っていた(笑)。

ようこ:
そうそう(笑)。

いさどん:
いさおちゃんは、そういうことが2、3日続いてから仕方なく自分の中に収めるという話をした時に、
「いさどんは、ようこちゃんという人をどういうふうに観ているの?」と聞かれたんだよね。
そこで、「僕もようこちゃんにはうっとするんだ」と言った。

うっとするんだけれど、
「ようこちゃんに自分がうっとするということを伝え、
ようこちゃんを自分の思うようにしたい」という心が瞬間的に湧き、
次の瞬間には消えていく。
つまり、自分で考えブレーキなく進んだら、「いただく心」を忘れる。

そうしたら、ようこちゃんは僕がうっとすることをどのように考え、行動しているのかといえば、
彼女には全く悪意がない。
彼女流に判断し、良いと思ったことを行動しているだけ。

そのことに対してNOと言ったら、彼女が良しとすることをNOと言うことになる。
それは、こちらの良しとすることを良しとするということであって、
僕が目指している多様性の中にある真実の在り方から外れることになる。

だから、「自分の想いが何でも達成される」ことよりも、
「制限する」ことの方が大切だと思う。
そこに学びがあったり、成長する要素がある。
だから、僕はそこでうっとすることを自分の中に収め、「いただきます」という心を持つ。
それから、心を上の方へ向け、神様をイメージする。
神様は、「ようこちゃんを通じてその姿勢をつくることを伝えている」と言われる。

それを聞いたいさおちゃんは、
「僕には出来ないけれど、それってすごい世界だね」と言っていた。

一つ一つの行動をようこちゃんが完璧にやっているかどうかについては、わからない。
完璧かどうかということは、「ああだったらいい、こうだったらいい」と考える人間からしたら、
いくらでも評価はあるのだから。
しかし、少なくとも普通の人が行動出来る以上のことを、役割としてようこちゃんはしている。

これは重要なことで、
これから僕らは何もお互いの中に調整する必要のない、
一心同体の関係をつくっていくことをやり始めている。
今までは「ようこちゃんの本質はどんな人なんだろう?」と模様眺めをしているところもあったけれど、
今日を機会にそれをなくして、お互いの関係を次のステージへ進めるべきだと思っている。

ようこ:
いいねー!

いさどん:
僕らは、これから益々世の中のための生き方を進めていく。
世の中には大変な状況の人たちがいるからね。
自分たちのことなど後回しにするくらいの考えでいかないといけない。
そのためには、それにふさわしい二人三脚で行きたいと思う。

今色々と話をしたけれど、
ようこちゃんはこの流れ、木の花のこと、これからケアのことをやっていくこと、
今日の出張のことをどういうふうに考えているのかな?

ようこ:
これは、「考えていない」というのが一番近くてね。
「世の中を良くしたいんだ。戦争をなくしたいんだ!」と言う人もいるけれど、
これは良いんだか悪いんだか、
私は「世の中がああなったらいい、こうなったらいい」とあまり思わない。
私が何かを思っても思わなくても、なるようになるだけだから。
そういう意味では思いがあまりないという感じかな。

今、いさどんが、「晴れない心を卒業しよう」というのを聞いたら、それはすごく嬉しかった。
いさどんと私の個性の一番の違いは、良く言うと、いさどんは思慮深く、視点が深い。
だから、いさどんと話をしていて「心が晴れない」という言葉を聞くと、
「私の心はいつも同じように晴れているから、私の視点はきっと浅いんだろうな」
といさどんから学ぶことがある。

でも、学びになると同時に、
いさどんのその深さが欲として表われ、いさどん自身が疲れている姿を観ると、
私としては、「いさどんという人をもっと有効に活かしたいから、もったいないな」と思う気持ちもあった。
だから、これからいさどんが次のステージへ行くというのを聞き、
これからもっと違う形で活かされていくいさどんを観られる気がして嬉しいな思う。
それがいさどんに対する想いかな。

いさどん:
全くそうなんだよ。僕も知っているんだよ。
僕らがこれから進む道はほとんど決まっている。
そこを辿っているだけだから。
それに一喜一憂することはバカバカしいことなんだ。

しかし、僕の中にもよしどんのような癖があって、
今まではそれをわかっていながらも、進めてきたところもあった。
そして、人に対して、「そういうことはダメだよ」と言ってきた。
でも、そう言いながら、それを取り切れていない自分もいた。
僕は強いエネルギーとコントロールするだけの力があるから、
自分から打ち出して超えていく時期が来たのだと思う。

「今まではそういう自分であった」と認識して卒業していくということだよね。
この機会を境にして、そこに区切りをつける。

さっき、ようこちゃんは「僕を活かす」と言ったけれど、
こちらからもこの与えられた関係を活かさないといけないと思う。
これは、次へ進む大きな旅立ちだよね。

ようこ:
そうだね。旅立ちだね。
今まで、いさどんの欲の部分を感じていたけれど、
それを敢えていさどんに伝えようとは思っていなかった。
というのも、いさどんと他の人には大きな違いがあると思っていて、
心が晴れないいさどんには、皆のためにそういう役割をしているとも思っていたから。
いさどんのその晴れない心を大人会議でシェアすることによって、
皆一人一人の意識が上がったり、「そういう視点もあったのか」と皆の学びになったり。
だから、これは一概にいさどんの癖と言い切れないところがあると思っていた。
これが他の人だと、その当人が自分の癖を観る時だなと思うから、そのことを伝えるのだけれど。

逆に、それだけ皆の意識も上がってきたから、いさどんがこういう気持ちになったとも言えるよね。
いさどんが次のステージへ行けるよう、皆も成長してきたということだと思うと、
いさどんのことと皆のこととダブルで嬉しいよね。

いさどん:
さっき話した、木の花に対する懸念や漠然とした想いを全部出してみた時に、
見通しは立ってきたと思う。
そこを手放せる段階に来たから、この話がある。

ようこ:
そうそう。
だって、いさどんが私みたいな心で創立当初からいたら、
今の木の花は存続していないよね(笑)。

いさどん:
ということは、いつものことながら、事は全て完璧に起きている。
僕が思っていることを情報として皆に伝えることは良いとしても、
それを心配して自分がどうこうしようという心は要らないということだ。
皆に任せていけばいい。

それともう一つ。
セックスについての偏見や誤解を解いていくことが大切だと思っている。
セックスというものを行うことは、精神性を保っていくのに非常に重要なことである。
ただ、精神性を伴うことだし、そのことは非常にデリケートなことだと思う。
人がそれを間違うと、堕落してしまうことにもなる。

先日、「タオコード」という本を読んだ時に、全くその通りだと思ったことが書いてあった。
人間の体には、頭のてっぺんから脊髄を通って尾てい骨まで通る線があり、
そこには1番重要なチャクラがある。
宇宙エネルギーをそこで受け取る。
頭のてっぺんから反対の端に性器があり、
これは宇宙生命のエネルギーを使って生み出す場所。
男性の陽と女性の陰を融合させることによって、生命を誕生させる。
元々一つであったものが分かれることによって、
この世界が創造されてきたのとは逆に、
分かれた二つのものが一つに戻って新たなものを生み出す儀式としての神事がセックスである。
尊い行為である意識のもとに、それが行なわれることが大切だと思う。
そういうふうにセックスを見直していくことが大切だと思っている。

セックスを隠すものとし、それを語り切れないものとしていたけれど、
それももうやめないといけない。
さっきから僕が話している、どうしても心が晴れない部分はそこにもある。
これからは、神聖なものとして表現しないといけない。

本に書いてあったことで共感したのは、
「忌まわしい行為の延長に生まれてきた」と子供たちが思ったら、がっかりするだろう。
そうではなく、「神聖で尊く、この宇宙を創られ維持されていることと同じ大切な行為によって、
自分たちが生を受けている、そのことによって誕生してきたんだ」
ということを伝えることが大切だと思う。

だから、そういったことは美しくバランスの良い心で行なわれないといけない。
それを伝えたい。
その延長に与えられるエクスタシーは、
「あなたの御心のままに」と己が空っぽになることを体現することになる。

ようこ:
そうだね。「エクスタシーとは自分が空っぽであることの表現」って面白いね。

いさどん:
つまり、悟りの境地だよ。

(後編に続きます。)


あってあるもの、なきてなきもの

この部屋の窓からは、西の空や田んぼ、家々が観える。
屋根の上にはつがいなのか友達なのか、2羽のカラスがいる。
カラスたちは一緒にいるのが当然のように、カーカ―と泣いている。
まるで彼らは会話をしているようだ。
「これからどこに食べ物を探しに行こうか?」と打合せをしているようにもみえるし、
悪だくみをしているようにもみえた。

カラスにしてみたら悪だくみもしていないし、悪い考えも持っていない。
生きるため、本能のままに、一日の始まりを過ごしている。

「あんなふうに生きられたらいい」と時々思う。
人間は色々と考え、賢いなら賢いなりに、愚かなら愚かなりに思い悩む。
「野のもののようにありたい」と思う。
物を所有する人間にとって、それは願望でしかない。

カラスは家を持たない。巣を作っても材料は現地調達。用が済んだらそれで終わり。
雨が降ったり嵐が来ても、その時間をやり過ごせばそれでよい。
一時、大変な環境にいたとしても、それが過ぎたら忘れて今を生きる。

過去に捉われることもなく、今に想い悩むこともなく、未来に想いを馳せることもない。
「あってあるもの、なきてなきもの。」
なかったらないでいいんだし、今をあり続けるもの。
この世界そのままに生きている。

自分が悪賢いとか、見栄えが良くないとか、そういうことは考えない。
しかし、人間は考えずにはいられない。
「もし、自分がカラスだったら」と思う。
「カラスの方が楽に生きている。余分なことを考えないで済むし」と思う。

この生活が始まって2,3年経った頃、僕はまだバリバリのお百姓さんだった。
畑へ行って土手草を草刈り機で刈っていた。
その畑ではウコンとショウガを育てていた。
以前は、ウコンとショウガをセットのように同じ畑で、
ショウガの方が背が低いから南側に、ウコンの方が背が高いから北側に作っていた。
その時の作業では、ウコンとショウガの畑の草取りと土手草刈りをしていた。

土手草刈りをしていた自分の中に想いが湧いてきて、
「同じ植物なのに、ショウガやウコンを大切に扱い、
畑の土手草を刈り取っているのはなぜだろう」と不思議に思った。
「作物と草は同じ植物なのに、なぜ差別するのか。この差別は何だろう」と思った。

それで、草に聞いてみた。
「草さん、僕は畑にあるショウガやウコンを大切に想って手入れしていますが、
あなたたちを草刈り機で刈り倒しています。
これは差別だと思いますが、あなたたちから観たらどう思いますか?」と聞いた。
草は答えをくれた。

「それでいいんです。私たちはそういうものなんです。
今あなたが刈り倒した草は、そこに留まればいつか土手の土となり、また草になります。
それをあなたが刈り取って、その隣のショウガやウコンのところに入れれば、
私たちはそこで土になり、いつかウコンやショウガになります。
そうやって私たちは変化し続けるものであり、今は草であるだけです。
だから、刈り取られたとしても、私たちという存在は形を変えてあり続けるのです。
そういうものなんです。」

人間はそういう意識を持っていない。
私たちはこの世界にいて、そういう意識を持っていない。
「自分が」という願いを叶えていった結果、今の進化や発展がある。
「人間が『自分が』という想いから解放されるためには、
この草たちのような心が必要なんだ」と思った記憶がある。
何も考えを持たないものたちは、「あってあるもの、なきてなきもの。」
そのままに存在している。

それで、今度は同じ畑の私たちが大切にしている作物である、
ショウガとウコンのところに行って語りかけた。
「ショウガさん、あなたのために今日ここに来て畑の手入れをしています。
あなたはどんなふうに扱ってほしいですか?」
するとショウガは、「私は今、水が欲しいです」と答えた。
水が欲しいのなら水をあげることが必要だし、
水をあげなくても株元から水が蒸発しないよう水を保てるような環境を与えてあげることを考えた。

次に、隣のウコンに語りかけた。
「ウコンさん、今日はあなたを手入れに来ています。
あなたはどんなことをしてほしいと望んでいるのですか?」
すると、ウコンはこう答えてくれた。
「僕は体が大きいから自分で根を沢山張って、水分を取ることが出来る。
今は体を大きくするための栄養が欲しいです。」

そこで気づいたのは、「今までショウガとウコンを同じように扱っていた。
同じ畑に作付けし作っていたけれど、それぞれにふさわしい個性があり、
欲しいことが違うんだ」ということを知った。

ここに訪れる人の中に、「私は草取りをしないで作物を作りたい」と言う人がいると、
この話をよくしたことを今思い出した。
この世界は「あってあるもの、なきてなきもの。」
今目の前の瞬間瞬間をつないで存在している世界。
そして、世界はそのままであり続けている。

しかし、人間はその意識を保つことが出来ない。
全ての世界がそうであるのに、
人間はこの小さい世界の中ですら、それを保つことが出来ない。
それを人間の能力の高さとして評価すべきなのか、
人間の愚かしさとして人間についている迷いの種として観るべきなのか、微妙なところである。
人間は「あってあるもの、なきてなきもの」という世界の中でそれを認識せず、
自分の想いの枠の中に自身を閉じ込めている。
人間にはこの世界に降ろされた役割がある。
あってあるべき姿がある。

そうやって物事を外側から捉えていくと、多様な捉え方があり、多様な存在がある。
執着を生んでしまうような価値観も、
多様な価値観の一つとしてそこにただあるだけである。
思い悩むことなど何もない。
なくてなき姿と捉えれば、たちどころに消える。

屋根の上にとまっていた2羽のカラスは、今をあるがままに生きている。
しかし、カラスを羨ましいとは思わない。
今を不満にも感じない。
出会ったことに常に一喜一憂しない自分でありたい。
「あってあるもの、なきてなきもの。」
それが続けられる自分でありたい。

自分しか出来ない役割、自分しか歩めない人生を誰もがもらっている。
今を生きて、つながり、役割が終わるまで進むだけのこと。
終わったら、この世界に形を変えてあり続け、そしてまた帰ってくる。

人間は、自分の中の思考を巡らせ、その想いに翻弄され生きている。
それを意識している人も無意識の人も、自分の想いに翻弄され生きている。
そこを超え、自分という存在を超えていくと、翻弄されない自由な世界がある。
この世界のままにあり続ける。
あってあるもの。

自分の意識をしっかりと保ち生きている人が幸せなのか、
機能が停止して壊れている人が幸せなのか。
自分を保つことが幸せなのか、保たなくなったことが幸せなのか。
どちらも、この世界の在り様の一つでしかない。

今を生きること。
それは捉え方によっては、ないものに等しい。
常に瞬間瞬間切り替わり、次の世界へ移行していく。
あると思うとあるだろうし、ないと思うとない。

私たちは、そういう面白い世界に存在している。
カラスのように自由な世界にいる。


うつ病とは何か~後編

今回は、エリーといさどんとの対談第3弾「うつ病とは何か」の後編です。

エリー:
カウンセリングも含め、一般社会で行われている精神医療と
ここで行われていることとの一番の違いは、当事者と共に生活をしているという点です。
一般社会で当事者と付き合う時間は、
大体グループという形で1ヶ月に1回というのが最大限度ではないかと思うんですね。
あとは、個人のカウンセリングだと、多くても2週間に1回くらいで1時間というのがせいぜいです。
しかも費用は高いわけです。

今振り返り、木の花の実践を観ていて一番の特徴は、その人がここに滞在しているということです。
それが通常の社会ではありえないことで、ここではそれが基本的な体制として取られています。
生活を一緒にしながらその人を観ていくという環境が前提になければ、
今いさどんがおっしゃったような、
具体的な本人の人柄にアプローチしていくという方法で効果を得るのに、
1ヶ月や2ヶ月ではまず不可能だと思います。
しかし、その不可能がここでは可能だということです。

通常、その人の背景に家族関係や親子関係の問題があるとか、
夫婦関係の問題があるということを感じられても、まずそこに触れません。
それはその人の問題であり、本人が話題にするのであれば別ですが、
通常のカウンセリングや相談業務ではまず触れていきません。
触れられないというのが多くの現状だと思います。

それが、ここではストレートにその問題に入り込んでいく。
それが通常の社会ではありえないですね。
これが出来るのも、生活を共にしていくという前提があるからだと思います。

24時間体制の大きなメリットは、外界から遮断されるので、
その人がある意味では特殊な環境に置かれる、ということが言えるのではないかと思います。
外界から遮断されることが不健康だということではなく、
健康な環境の中に置かれるからこそ、その人が潜在的に持っている精神性が
引き出されやすい状態に自然に置かれているのではないかと感じます。
そのことによって、もちろん気づきもその人の中に生まれてくるのだと思います。

食の問題や睡眠の問題、また薬の問題も含め、
24時間滞在させるということが、通常ではありえないここの大きな特徴だと思います。

私はこのことが色々ある効果の一番の基本だと思うのですが、
いさどんは最初からうつ病や精神的な病にはそういう体制が必要だとお考えになって、
こういったケアを始められたのでしょうか。
また、そういう体制が果たす役割についても、少しお話ししていただけますでしょうか。

いさどん:
私は治療者ではありませんし、当然医師ではないわけです。
私は今まで30年にわたって、社会のトラブル、特に家庭内のトラブルの相談に乗ってきました。
家庭というのは誰もが持っているものであり、
独居で暮らしている人も一人の家庭を構成しているわけです。
そういった場所で発生した問題の相談に乗ってきました。
相談に乗りながら問題事を解決していく中で、
人の「心」が原因となって、色々な問題を引き起こしていることに気がつきました。

ですから、治療者として、うつ病について特別な意識を持っていたわけではありません。
人々が健康で幸せな日々を送っていくということを、
問題事、特に家庭の中から捉えてきたということです。
家庭というのは24時間共に暮らす場ですよね。
昼間働きに行ったりすることもありますが、
基本的に生涯共に暮らす場ということです。

家族の中では、プライバシー的なことも全て分かち合い共有し合うことが原則であるわけです。
しかし、核家族化が進み、人の価値観が多様になっていく中で、
そういったことがだんだん希薄になってきました。
それがまず、うつ病に限らず様々な問題を発生させ、
トラブルを引き起こしてきた原因になっていると思います。

ですから、今の医療では、色々な症状の背景にあるものを別々なものとして捉えてしまうことが、
根本的な問題解決から遠ざかっている要因だと思います。
うつ病一つをとってみても、何が原因で起きてきたのかということを遡っていくことが大切です。
どのあたりから心の組み違いが起き、バランスが崩れ、現在に至っているのかということを観ていき、
その原因を捉えることが根本的な治癒、その問題を解決することにつながるのだと捉えています。

家庭内のトラブルや人間関係を観ていった時に、
結果として引きこもりの人がいたり、引きこもりがうつ病になっていったり、
それがさらに深刻になって大きな問題を引き起こしている場合もあります。
そして、当然そこには心の仕組みの方程式があるのです。

例えば、家族間の心の組み合わせによって、
そこにはいつも同じような結果を引き起こす仕組みがあります。
その仕組みの中でいくら話し合い、いくら悩んでも、
原因を起こしている仕組みが理解されなければ、
根本的な問題解決にはならないということがわかってきました。

そこで、客観的に自分の姿を捉えるために環境を変えるということです。
環境が変わると、過去の自分がいたところを客観的に観ることが出来ます。
ですから、ここでは冷静に、過去や現在の自分を振り返る作業が可能です。
過去の状態の自分を、今の自分が振り返るということです。

当然環境が変わっても、その人の心の癖というのは日常の生活の中に出てきます。
私の姿勢としては頻繁にカウンセリングや面談を行うのではなく、
その人を眺めるというスタンスをとっています。
大体最初の1週間くらいは何も声かけをしないで、眺めているわけです。

そうすると、その人はここの色々な人たちと接する中で心の癖を出していきます。
私はそういったことに対して、その人の心の傾向を観ていきます。
そのことによって、その人にはどのような心の癖があり、
どのような心の偏りによって今の問題に行き着いているのかということを捉えていきます。

そういう作業を最初の1週間くらいしていきます。
その後は1週間から10日くらいの単位で面談をしながら、
こちらから観える情報を本人に伝えていくという作業をするわけです。

初めてここを訪れた時には、今までの環境から来るその人の心の癖がありますが、
1週間経てばある程度変わります。
その変わった心にさらに情報を提供しながら視点を切り替えていく、ということを行っていきます。

よくあるのは、今までの環境でついた癖、心の状態から考え、
「こういった環境でやっていけるのだろうか。
ここで心がパニックになった時にどうしたらいいのだろうか」と最初に考えてしまうことです。
しかし、それは今までの環境で起きてきたことを元にして、本人は不安になっているのです。

ところが、ここでの新しい環境で1日経てば、1日分違う人がいるわけです。
1週間経てば1週間分違う人がいます。
環境が変わって、今まで観えていなかった新しい情報をもらうわけですから、
そこでは考えがもう既に変わっているわけです。
ですから、「1日経ってから考えましょう。1週間経ってから考えましょう。
そして、1ヶ月経ってから考えましょう」と伝えます。

そうやって、今の心で未来について考えないということです。
常にその時の材料でその時の自分の心を捉えていくことが大切です。
それをここでは「現場合わせ」と言います。
そういった捉え方を勧め、新しい自分を見出していくという作業をしていきます。

癖で悲観的に捉える人に対しては、ポジティブに捉えられるような代替案を提供していきます。
逆に、楽観的に捉える人に対しては、慎重にものを捉えるようアドバイスしていきます。

さらに、私が代替案を提供するだけではなく、
ここには色々な人たちがいることによって、色々なものの捉え方があるわけです。
また、その人と同じようなトラブルを持っているケア滞在者もいます。
そういった人たちの姿勢に出会うことにより、悲観的に自分と重ね合わせるのではなく、
他者の客観的な状態を見て自分と照らし合わせ、
自分の状態を判断するのに役立てることが出来るのです。

ここでは一緒に生活しながら、みんながお互いを見合い、心を許し合い、自分を表現していきます。
さらに、色々な他者からの考え方をもらいながら、多角的な考え方を育てていくことが出来ます。
こういった取り組みは、一般医療の中ではなかなか難しいですね。

例えば一般医療は産業ですので、仕組みとして時間的な問題もありますし、
共に暮らすということも難しいものです。
しかし、例えば家族からもっと詳しい情報を聞き、その人の心のルーツや歩みを体系的に理解し、
アドバイスを提供するということは出来るのではないでしょうか。

それから、ただ症状を薬で抑えてコントロールしていくということだけではなく、
言葉かけをすることによって、薬と同じような効果を提供することが可能です。
ここでしていることには、薬のような副作用がありません。
副作用があるとしたら、先程エリーの質問にあったように、
「責められている」と相手が感じるということですが、
これも受け取り方をしっかりすることによって、それは責められているのではなく、
「客観的な情報を得ている」と捉えることで解決出来ます。

当事者も、こちらからの情報提供を善意に受け取る姿勢が大切です。
悪意に受け取る人には治療的効果は得られません。
お互いの信頼関係をまずつくるということが大切で、そういったことにもここでは努めていますが、
あくまで善意が根本にあることが前提になります。

病気でも何でも「旬」というものがあるのですが、
エネルギーからすると自分が今トラブルを受ける必要がある人、
つまり、今の段階で自分に負荷をかける必要がある人はここで治るのは難しいです。

負荷がある程度かかってうつの状態に行き、そして今度はうつから学びの段階があります。
その学びの段階において、ここでの取り組みは有効だということです。
人生というものを通して色々な気づきを私たちは与えられているのですが、
気づく必要があるところまで負荷がかかっていかないと、私たちは気づけないのです。

そうすると、今問題を引き起こす段階になっている人に、いくらアドバイスをしても聞く耳を持ちません。
そういう人は自分流に走っていきます。
アルコールに依存している人に、「ダメだよ」といくら言ってみたところで、
それはその人の意志ですから、そういったエネルギーを消費するためには、
そのような行動をする必要があるのです。

そして、トラブルが起きて苦痛を感じ、学ぶ段階で初めて、自分を振り返ることが出来るものです。
そのタイミングで声かけをします。その声かけのタイミングが大切ですね。
治療的タイミングを失わないような注意が必要です。
それが遅れすぎてしまうと、回復に時間がかかります。早すぎると効果がありません。
そこを見極めて適確なる対処をすることが大切です。

先程も触れましたが、問題が起きるということは、
まわりの環境と本人の内面の両方を表現しているわけですから、
その原因を知って解決するためには、その症状は起きなければなりません。

つまり、問題事というのは問題事ではなく、
問題事を引き起こす原因があり、それを解決するための糸口だということです。
そういう意味で捉えると、問題事は良いことになります。

世の中には沢山の問題事がありトラブルが沢山起きていますが、
それは物事を改善するための大切な要因であって、
そこに気づいて学習していけば、どんなことでも前向きに捉えることが出来ます。
それは病気でも社会の問題であっても同じことです。

医療の現場では医療だけを考え、
症状的な病気を治すということだけに偏っていると思うのですが、
うつ病はこの世界にある色々な問題事を解決するための大きな糸口になると考えています。
元々私はうつ病を解決するためではなく、30年前から家庭内のトラブルの相談に乗り、
世の中の問題事の解決の糸口のために、こういった考え方を元にした暮らしを始めました。

それともう一つ、病気は治療することだけが良いばかりではありません。
病気の元になる原因があるから病気が起きるのであり、
その場合、病気は起きなければいけないこともあるのです。
問題事を解決するためには、病気を起こすことによって、
そのことをきっかけに学ぶことが必要となるのです。

まだそのことに気づいていないのに症状だけを治すということは、
表面の問題だけを解決することになります。
そうすると問題の種は常に残るわけです。
これは宗教でも医療でも、裁判のような訴訟でもそうですが、
根本的な原因を解決せず現象だけを解決するだけでは、また新たな問題の種を残すことになります。
これは全てのことに共通することでもあります。

そうすると、社会には問題事がいつまでも蔓延し、
良い世の中がいつまでも来ないということになります。
お医者さんは病気によって自分たちの生活が維持され、医療産業が支えられていきます。
宗教も人々が迷うことによって巨大な組織が成立し、経済が賄われています。
さらに、人のトラブルや対立が訴訟産業をつくり、経済的効果がもたらされていきます。
問題事は経済の維持のためにあり、あり続けることが大切になり、
問題を生産し続ける世界がそこにはあり続けていきます。

こういったことは、根本的な人間の質、社会を改善する窓口だと捉えていけば、
家庭内の問題も、医療や宗教など色々な問題をホリスティックに捉えていくことで、
そういった問題事の基本が見えてきます。

その中の一つとして、今回うつ病を取り上げているだけのことです。
ですから、うつ病の解決には全てのことが関係しているということです。
問題の一つとしてのうつ病から、社会病理が観えてきたのです。

例えば大学の学問でも「○○学部」という区別をしていますが、
医療だけで物事を観ていていいのでしょうか。
教育だけでものを観ていっていいのでしょうか。
政治だけでものを捉えていいのでしょうか。

総合的にこの世界を捉え、人とは何であるのか、自分とは何であるのか、
生きている目的は何であるのか、人はなぜ生まれてきて何の目的で生き、どう死んでいくのか、
全てにつなげて観ていくことだと思っています。
そういった体験から学んでいくことにより、木の花の取り組みが生まれてきたのです。

エリー:
歴史的に言えばそれが哲学や宗教学だと捉えられ、学問の基礎であったと思うのですが、
同時に物理学が学問の基礎となっているという経緯もあります。
確かにいさどんがおっしゃったような、
人が生きる目的を考えることが学問の一番の基本になければ、
その上に重ねた物質的に偏った学問というのは、あまり意味がないのだと思います。

いさどん:
そうですね。学問というのは本来、
人が豊かに幸せに暮らし、良い社会をつくっていくためにあると思うのです。
しかし、社会の中にある色々な要素、例えば携帯電話にしろ、アルコールにしろ、
食べることでも、大学に行くことでもそうですが、
そういったものにコントロールされ自分で使い分けられないような状態になれば害が出るわけですね。
学問というものが本当の意味で、人々に良い人生をもたらすものになっているかどうかは、
疑問のところがありますね。

便利な携帯でもアルコールでも、依存症にもなります。
お金でも、お金を使っているのではなく、お金に使われているような人も沢山います。
そう考えますと、バランス良く自分に有益に使える人、
それが有益に浸透している社会が今後求められるということですね。
問題事が発生することにより、
企業などはそれをビジネスチャンスとして企業活動に利用していますが、
そういったことでいいのかということが問われてくると思います。

ですから、自分の前に現れてくる出来事を結果から原因、結果から原因と遡っていき、
最後に、私たちは何のためにこういった世界にいて、
何のために生きているのかという元のところへたどりつけば、
私たちが存在している目的により近付けるはずです。
そして、みんなで手を結べる社会が出来るはずだと思っています。

それをバラバラに捉えている状態では社会を混乱させ、
不安の種を飯の種にしていくような悪意的な社会が生まれます。
みんなが富を得て幸せを獲得しようとしているのですが、
人々の意志がバラバラになっているから対立や競争を生み、
そこで獲得された富がまた競争を生むという悪循環になっているのです。
そうやって、雪だるま式に原因をつくっては、GNPというカウントになって標示されているのです。

物質的なものを求めることに偏り、精神性がバランスを欠き、
社会に混乱をもたらすことでさえ豊かさであると錯覚した社会が出来てくるのです。
病気もそこの中の一つとして発生したものです。
私の捉え方から言えば、病気は心のボタンの掛け違いのようなものです。
自分の中から湧いてくる欲望の持ち方、その叶え方の間違いが、
病気を含めた全ての問題事を発生させていると捉えています。

エリー:
私はここに出会い救われた一人ですが、
世の中には医療関係者も含め、もっとどつぼにはまっている人が沢山いますからね。

いさどん:
もっと気楽に、「心のボタンの掛け違いだよ!」と笑いながら、
「バカバカしいことをやっていたね」と気づき、健全な状態に戻り、
真実に目覚めることが出来ればいいですよね。
そういった客観的な視点があれば、問題事から学び成長し、楽しめるものなのです。
人類も、もうすぐそういった気づきに出会う時が来るでしょう。
その時を楽しみに、この役割を果たしていきましょう。


うつ病とは何か~前編

今回は、「現代医療について語る」、「『治療』としての情報提供」に続き、
エリーといさどんの対談第3弾です。

エリー:
木の花では、特にうつ病のケアについて実績がおありかと思いますが、うつ病とは何か、
そしてなぜ木の花では治るのかについて、お考えのところを述べて下さい。

私見では、うつ病とは、木の花で言う心の癖や心の汚れにより、
精神エネルギーが大きく消失した状態と考えますが、
うつ病という心の病は自己責任として当事者が責められなければならない、
或いは乗り越えていかねばならないものなのでしょうか。
要するに、病気になっただけでも大変であるのに、
心の癖や心の汚れと言われることはあまりにも辛いものではないでしょうか。

いさどん:
まず、うつ病とは何かということですね。
うつというのは、陰陽で表わせば陰性現象の表われです。

生きていれば、健康な人でも朝起きた時にうつ的になっていることがあります。
何か自分の前に重い課題がある時には、積極的に前に進みたくないという感情が出てくるものです。
それは、天気にも左右されるものです。
晴れている時は気分が良く、雨の時には積極的にはなれないという傾向は誰にでもあるものです。

ですから、健康な人の中にも、うつ的な状態と躁的な状態、
また、その中間の安定した状態が繰り返し表われてくるものです。
うつ的に自己コントロールを失った状態が、うつ病と言えるのでしょう。

次に、うつ病の原因についてです。
うつ病の原因には、環境的原因と人格的(霊的)原因があるという捉え方をしています。

環境的原因というのは、その人の生まれた時からの環境のことであり、つまり、人間関係です。
親が子供に対してどのように接してきたのか、
夫婦の関係、兄弟との関係などが大きな原因になります。

人は成長するにしたがって、その人の人格にふさわしい人生を生きていきます。
親が与えたことや他者との出会いがその人の人生観や人格に合っていれば、問題は起きません。

しかし、親の発想で目的などを強く与えてしまうと、そこで問題が起きることになります。
陰性的な性質を持っている子供に対して、「こうなりなさい、ああなりなさい」と接すると、
子供は委縮してしまい、人の顔色を見て生きていくようなことにもなります。
陽性的な性質の子供に同じように接すると、
反発的エネルギーが出て、反発的行動をする人になります。

そうやって、子供時代に自分自身を十分に表現出来ずに育った人は、
大人になってからも子供時代を抜け出せなくなり、
発達障害のようなことになり、幼児的な大人になってしまうことがあります。

陽性的な性質を持っている子供であれば、
親の価値観で子供をコントロールし過ぎてしまうと、そこでは陽性的な行動が封印されますので、
大人になってからその幼児性が暴走的に表現されたり、
逆に陰性のうつ状態になってしまう人もいます。

そうすると、うつ病というのは陰的に偏ってエネルギーが表現されている状態ということになります。

このように、人は生まれながらにして、自分が育っていく環境をいただくわけです。
その環境は、自分がつくり出すものだけではなく、
まわりがつくり出したものの中に自分が生まれ、その環境の中で歩んでいくわけです。
人は、その環境に大きく影響されます。

うつ病だけではなく色々なトラブルを持っている人に私が出会うと、必ずすることがあります。
それは家族関係を確認するということです。
その人と両親の関係がどうであるか。親の夫婦関係がどのような状態になっているのか。
それから、その母親、父親はどのような環境で育ってきたのかということを、
その人の母親の両親、父親の両親の関係から見ていきます。

あとはその人とその兄弟がどういう関係なのか。
本人がどういう性質をしていて、
兄弟の中の長男であるとか次男であるとか、長女であるとか次女であるとか、
その人の魂に合っているような位置関係なのかということを見ていきます。
例えば、長男的性格でありながら次男に生まれてきたとか、
次男的性格でありながら長男に生まれてきたとか、そういったことも環境的原因になります。

さらに、もうちょっと広い環境、学校での対人関係や、
大人であれば成人してから現在に至るまでの人間関係も観ていきます。
そういった人間関係の中で、その人自身がどのような性格を表現しているのか。
その心の表わし方にどのような癖があるのか、を捉えていきます。

そういったことを観ながら、その人の心にどんな負荷がかかっていったのか、
性格的な表現をどのように使い分けてきたのか、ということを見ていきます。

さらに、一人一人には魂の形があり、それも捉えていきます。
私たち人間に限らずこの世界の生命というのは、
大部分のものが陰と陽、オスとメスという形で一対となり、新しい命を育むようになっています。

肉体的に男性は陽、女性は陰と捉えます。
私たちは肉体と魂、精神性を同居させながら生きています。
その精神の部分を陰、肉体を陽と捉えることも出来ます。
さらに、その精神にも、
男性的精神である陽と、女性的精神である陰とに分けることが出来ます。
肉体が男性でありながら女性的な精神を持っている人もいれば、
肉体が男性的であり、かつ精神が男性的な人もいます。
また、肉体が陰の女性であり精神が男性的な人もいれば、
その反対の肉体も精神も陰の女性という人もいます。

今まで話してきたのは、外的因子と内的因子です。
外的因子というのは環境から来るものであり、
自分に与えられた家族関係や人生を通しての色々な出会いのことです。
内的因子としましては、元々持って生まれた肉体的な原因と魂的な原因です。
そういったものが複雑に組み合わさり、私たちは生きています。

今までうつ病の人や色々なトラブルを抱えている人に出会ってきました。
傾向として大まかに分けることは出来ますが、
原因があまりにも複雑に絡み合っていますし、同じケースは一例もありませんでした。

ですから、そういった一人一人に対処するには、その人が問題に至った経緯を、
もつれてしまった糸を解きほぐしていくように取り組んでいくことが必要だということです。

うつを改善するため、そのもつれた糸を解きほぐす作業をする際に、私が心がけていることがあります。
それは、決してこちらから解答を出さないということです。
その人自身が自分の今の状態に直面し、自分の状態を正しく把握することです。
そのための環境を与えながら、気づきが生まれるためのサポートをしていきます。
決して治してあげません。

その時に、薬を飲んでいると精神が麻痺していますから、
なかなか自分自身を自覚することが出来ません。
ですので、まずは薬の影響をなくすという作業が必要になってきます。
ただ、本人の意志で断薬出来ない時には強制しません。
無理にすればストレスがかかってしまい、安定した精神状態に戻ることが出来ないからです。

自分の意志で薬をやめるまでこちらは待つ、という姿勢をとります。
本人の意志で薬を飲むのをやめられた時には、
薬の影響がなくなった状態というのがどういう状態なのかを感じてもらいます。
そうして、うつの状態が自分の中でどのように起きているのかに気づいてもらいます。
その気づきの積み重ねにより、根本にある原因から組み立て直していくわけです。

うつの状態になると色々な症状が現れてくるものですが、
医療ではそれに対して薬でコントロールすることになります。

また、一般ではうつ的に籠ってしまっている人が睡眠障害である場合は、
睡眠薬を与えて解決を図りますが、ここでは薬の効果に頼らず、
うつ状態の時にはそのままでいてもらいます。
睡眠がとれない時には体が睡眠を求めていないのですから、無理に眠ろうとしないことを勧めます。

ここでは薬の代わりに声かけをします。
籠っている人にはその人の気持ちがほぐれるように声かけをして、
前向きになれるような提案をしていきます。
その時に、その言葉を受け入れることが出来る人は、薬と同じような効果を得られるようになります。

薬の代わりに声をかけアドバイスをすることによって、薬と同じ効果を少しずつもたらしながら、
本人が心の状態を変えていけるような指導をして、
自分でうつ的な状態を乗り越えていけるように導いていきます。
そうやって、うつ病の原因を自分で捉えることが出来るようになっていきます。

また、本人にそういったことが難しい場合には、私やサポートチームが手助けをします。
木の花では前向きに日々を生活している人が多いので、
そういった人たちからヒントをもらいながら、うつから回復していく手助けにしてもらいます。
それが治療的効果であったり、薬的効果、カウンセリング的効果をもたらしていると考えます。

こういったことが、「心の免疫力」をつけると捉えています。

さらに、ここでは「農」的生活をしています。
朝、農作業に出て、昼間は太陽とともに過ごします。
うつ的な人が太陽に当たるということは、
陽性のエネルギーをもらうわけですから、陰性の病気であるうつ病回復に効果があるわけです。

それから、陰性のエネルギーが強い場合、大地のエネルギーと触れることによって、
それをアースして中庸に持っていくことが出来るという効果があります。
これは園芸療法でも言われていることです。

さらに、「規則正しい生活リズム」を回復していきます。
私たちは月と太陽、地球の3つの星の影響を受けて生きています。
その関係に基づいたリズムに合わせていくことが大切です。
うつ病の人は概ね、昼間眠くなって夜起きているという傾向が強いですね。
だから、たいていの人は睡眠障害が起きています。
自然の中で農的な生活をすることによって、崩れたバランスを取り戻し、
自然治癒力により健康を取り戻していくことが出来るのです。

また、「食」も大切なポイントです。
「人が良い」と書いて「食」と読みます。
食べ物には陰性の食べ物と陽性の食べ物がありますが、
食べ物を間違って摂ることも心身のバランスを崩す原因となります。

陰性の季節の冬に陽性の食べ物を摂る、
陽性の季節に陰性の食べ物を摂り体を冷やすのが、自然が与えてくれた健康なのですが、
陽性の季節に陽性の食べ物を摂ったり、
陰性の冬の季節にナスやキュウリ、トマトを食べたり、暖かい地方のバナナを食べたりすると、
陰性の体質が余計に陰性になるわけです。
そういう意味では、食べ物が精神性にも大きな影響を与えているのです。

それから、過剰に砂糖等の嗜好品を摂り過ぎると、
精神的に不安定になったりキレやすくなるということがあります。
ですので、食というものをしっかりと吟味することが大切です。
これは「体の免疫力」をつけるということです。

ここには、そういった様々なことをバランス良く提供出来る環境があり、
うつ病が総合的に改善される環境が用意されているのです。
うつ病に限らず、引きこもりや依存症、
家庭内や社会での人間関係に行き詰まっている人たちも改善される要素がここにはあります。

心の病気には、当事者が自分自身の心の癖が原因だと認め、前向きに取り組みたいものです。
そこを逃げてしまっては、治るということにはなりません。
しかし、そのことを責められるということではありません。
そのことを自覚し理解した上で、自分で立ち直ってくることが大切です。

それを手助けするのがこの考え方です。
「あなたの心の癖が原因していませんか?」というこちらの提案に対して、
日々うつ的に捉えている人にとっては、自己否定され責められていると受け取る場合もあります。
そこで責められていると捉えるのは、まだうつ的な病気の種がその人の中に残っている状態です。

あくまでも私たちが行っていることは、常に情報提供をしているということです。
うつ的な因子が沢山あるならば、その原因となる要素を情報として提供します。
その情報を客観的に受け取り、自分の中で整理し、
取り去っていくべきものを取り去っていき、残していくべきものは残していく。
そうすることで心のバランスが取れ、
さらに環境的な因子や過去のトラウマ的精神状態を取り去っていくという作業をすることによって、
うつ病が治っていきます。

心と体の免疫力をつけ、そういった問題を引き起こした環境的な原因を改善していけば、
病気の治癒には大変有効です。
親子関係が大きく影響している場合は、
ご家族に来ていただき、ご家族にもそのことを学んでもらいます。

それから、職場などの環境についても整えてもらうことが出来れば、
うつ病の種をなくすことにもなります。
問題の種を取り去ることも出来るし、そういった発生源をなくしていくという予防にも有効なことになり、
その結果学びが深くなれば、うつ病になることはまんざら悪いことではない、ということにもなりますね。

このように、物事には全て原因があって結果が生まれてきます。
ですから、うつ病という結果をもたらしている原因を捉え取り去っていくことは、
根本的な解決につながっていきます。

心の癖、心の汚れというのを癖や汚れと捉えることも出来ますが、
そういった様々な問題を引き起こしている種や原因と捉えれば、
それをきっかけに人間関係や社会の問題事を解決していくことにもつながっていくわけです。
そう捉えていけば、うつ病になることは社会の様々な問題を解決する糸口にもなります。

うつ病の捉え方と、なぜここでうつ病が治るのか、
治るために何を提供しているのかということについて話をしました。

また、エリーの私見として、「うつ病とは精神エネルギーが消失した状態」とありましたが、
人間は一人一人エネルギーを持っています。
生命エネルギーを沢山持っている人もいれば、少ない人もいます。
その使われ方に問題が起きている原因があると捉えています。

例えば、0℃で1ccの水をマイナス10℃に持っていくのと
プラス10℃に持っていくのに必要なエネルギーを比較してみると、
マイナス10℃に持っていくには10カロリーのエネルギーが必要ですし、
プラス10℃に持っていくのも10カロリーのエネルギーが必要になります。

このことを質問すると、マイナス10℃に持っていく方が
エネルギーが多く必要だと錯覚してしまう人がいます。
しかし、これは同じエネルギー量なんです。

マイナス10℃に持っていくということは、より寒くなっていきますね。
これがうつ的な方へエネルギーを持っていく人のエネルギーの使い方です。

0℃からプラス10℃へ持っていくエネルギーの使い方は、
躁的にエネルギーを使う人のあり方です。
とかく今の時代はプラスの方を求める傾向にあります。
プラスへ持っていく方が良いことだと捉えられていますが、
これはどちらが良いと言うことではありません。

基本的にこの世界では、プラスマイナス0が一番安定した状態です。
そこから、ある時はマイナス10℃、ある時はプラス10℃に持っていくとすると、
プラスマイナスの振れ幅は20ですね。
これがその人の使えるエネルギー量になります。

そうすると、10のエネルギーしかない人が、
そのエネルギーを全部マイナスに持っていってしまうと、うつ的になるわけです。
逆に、10しかエネルギーがない人が全部プラスに持っていってしまうと、躁的な状態となります。

しかし、有効なエネルギーの使い方というのは、
その場に合わせてある時は全部をプラスの方へ持っていったり、
ある時はマイナスの方へ持っていけば、
10のエネルギーの人がマイナス10からプラス10まで20のエネルギーの幅で使えることになるのです。
マイナス10にばかりエネルギーを持っていっている人と、
プラス10にばかり持っていっている人がいるとしたら、
同じ10を使うにしても、そこでは20の開きがあるということです。

それはどちらが良いということではなく、
「あなたはそのようなエネルギーの使い方をしていますよ。
あなたは自分のエネルギーをわざわざマイナス10℃に持っていって凍えているのですよ」
ということになります。

マイナス10℃の凍えている状態には、物を腐らせず安定的に保つという効果があります。
プラス10℃に持っていけば、物はどんどん変化し壊れ腐っていくわけですが、
食べたりするにはちょうど良い状態と言えます。
そういったことを使い分けられる人になることが大切です。

これがバランスが良く安定した状態です。
その使い分けが十分に出来ず偏ってしまっている人が、病気の状態です。
どういったエネルギーの使い方をしているのかということを伝え、
そのことに本人が気づき、それを使い分けられる人になると健康な人になります。

病気でない人でも、そこまでの使い分けは出来ていませんので、
うつをきっかけに、そういった自己コントロールが出来るようになれば、
病気発生以前より心が安定した人生を歩むことが出来るようになります。

自分の心をしっかりコントロールし、使い分けが出来ている人は、
癖が個性として活かされている状態です。
そういった人は、一般社会で生きている人の中でも生きていく意識が高い状態になります。
誰でも、高い意識を持つ人になれる可能性があります。
そういったことをここでは提供しています。

(後編に続きます。)


まずは正しい自己認識から

結婚して2年になるりーさんは、2歳のお子さんと一緒にファミリーを訪れました。
夫婦関係と子育てについて相談をしたいということで、今日、いさどんとお話をする機会を持ちました。
相談される方には、子供、兄弟、両親、祖父母等の名前の入った家系図を書いてもらいます。
いさどんは、りーさんが書いた家系図を見ながら話し始めました。

いさどん:
まず、りーさんにお聞きします。
ご主人と出会った時のあなたの精神的な安定が足りなかったと思いますが、
彼とはいつ頃出会ったんですか?

りーさん:
実は5年前に鬱病で半年くらい家にいたことがあります。
彼と出会ったのは、まだちょっと鬱を引きずってはいたものの、
どん底の状態から上がっていこうという時でした。

いいパートナーには巡り会わないし、仕事もこれからどうしていいかわからないと、
自分の中で揺れ動く時に彼と出会ったので、
完全に「自分が大丈夫」という状態ではありませんでした。

いさどん:
彼との年齢が離れているということもありますが、
彼が精神的に幼いということがわかっていて付き合ったんですか?

りーさん:
彼とは8歳離れているんですが、逆にすごくしっかりしていると思っていました。
私はおおざっぱで何でも「いいよ、いいよ」と生きてきましたが、
彼は小さい頃から苦労して努力を積み重ねてきたということを聞いていたので、
逆に「すごいな」という目で見ていました。

「付き合うならその人と結婚したい」と思っていたので、
彼がまだ若いから惹かれながらも付き合うつもりはなかったのですが、
そのうち付き合うことになり、子供を授かり、双方の両親と話し合って結婚に至りました。

実際、結婚生活を始めてみて、
彼の中に乗り越えられていない問題があるということはわかりましたが、
「彼が幼い」という感覚はありませんでした。

いさどん:
あなたとお子さんとの接し方を見ますと、
親と子供というよりも、あなたは子供の意識でお子さんを育てています。
だから、友達みたいな状態で子育てをしているのですが、これはあなたの元々の傾向です。

そうすると、あなたのようなタイプの人は、しっかりとした自分をリードしてくれる人、
単に勢いがあって力強いというよりは、説得力や包容力がある人といると安定するのですが、
そういう人を現実に選んでいません。

それは、あなたが人を観る目に冷静さを欠いている状態で彼と付きあうようになったということです。
それで、彼と出会った背景に何があったのかを知りたいと思い、先程の質問をしました。

彼の場合、自分の心をカモフラージュして、
実際よりしっかりしているように見せようという傾向があります。
これは悪気があってそうしているというよりも、そういう心が働くというのは人としてよくあることです。

あなたが冷静さを欠いていた状態だったから、
そういった表面的なことに惹かれてしまったということです。

安定している目から見れば、この人は実際より自分を良く見せようとしていることがわかるものです。
それが見えなかったがために、先程のような彼に対する評価をしているのだと思います。

その背景に、当時あなたの中に不安定な要因があり、
それが物を判断する時に影響を受けてしまったんだと思います。
あなたのご両親との関係で長年積み重なってきたものがあり、
現実逃避したい心や、「満たされたい」という強い想いがなかったですか?

りーさん:
実は、小学校5、6年生ぐらいの時から、ちょっとずつ自分の気持ちが暗くなり出していました。
それはなぜかと自分で考えた時に、母親と意見が合わないことが多く、
喧嘩ばかりしてわかり合えなくて、いつもさみしいという想いがありました。

いさどん:
今はお母さんとの溝は埋まったんですか?

りーさん:
私が子供を授かり、親の気持ちが少し理解出来るようになって、
「すごく私のことを愛してくれていたんだな」と感じるようになりました。
「あなたが幸せになることを一番に思っている」と言われ、
自分のことをよく育ててくれたなと思っています。

でも、未だに話はあまり合わないし、正直、もっと理解し合いたいという気持ちはあります。
母親は私のことを「何を言っても聞かないから、もう勝手にしたらいい」と思っている気がします。
私のやっていることの大半は、多分良くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

いさどん:
彼との結婚も、お母さんとしてはあまり良くは思っていなかったということですか?

りーさん:
そうですね。「あなたの人生なのだから、勝手にしたらいい」という感じでした。
私が鬱でどうしようもなく母親に相談した時も、
「もう私は疲れたから、お父さんに任せるわ。
今までお父さんは子供の面倒を見てこなかったんだし。私はもう口出ししない」と言い、
母親はそこからノータッチで、そのまま私も結婚したので、
「あなたの好きにすればいい」という感じでした。

いさどん:
お母さんがなぜあなたと合わないのか、わかりますか?
あなたからしたら、「もっと包容力のある人であってほしい」ということだったと思いますが、
とてもそういうふうに接してこなかったお母さんでしたよね。

りーさん:
お母さんの中の「こういう子であってほしい」という理想と、私が全くそぐわなかったからでしょうか。
私は、子供の時からお母さんが言うことに対して何でも、「いやいや」と言っていたらしいんです。
それに対してお母さんはいつも怒っていて、
だんだんイライラしてきたのかなと私は思っているんですが。

いさどん:
あなたのお母さんに対する評価をもう一度見直してみようということで、このことを聞いています。
お母さんはなぜあなたを自分の思い通りにしたかったんでしょうか?

りーさん:
私が幸せであってほしかったから?

いさどん:
そういうふうに考えるのが、あなたの癖です。
常に相手は自分を見て、自分のことを考えてくれている、と思う傾向があなたにはあるのですが、
人というのはそうばかりではありません。
実は、相手を想うのではなく、自分を想っている人が沢山いるんです。
自分の都合で相手を見て、自分の都合で相手を動かしたいと思う人もいます。

今、彼のことを聞いてもお母さんのことを聞いても、
あなたは常に「相手は自分のことを想ってくれていて、
相手は私にとって悪い人ではない」と判断していますが、本当にそうなんでしょうか?

実はあなたの中に、「私にとっていい相手だと思いたい」という心が働いているんです。
自分の中のどこかで「そうではない」と感じたとしても、あなたのような人の場合、
「自分のことを想ってくれた結果、こうなっただけなんだ」と無理に事実を曲げて、
自分のいいように思いたいという心が感じられます。
それは相手を正しく評価しているのではなく、相手を都合良く受け取ることによって、
自分を都合良く守りたいという心の表われです。

りーさん:
現実をストレートに見ていないということですか?

いさどん:
ということよりも、現実を冷静に判断せず、
自分の思惑の方に捻じ曲げて物を捉えたい傾向があります。

りーさん:
言われてみるとそう思います。

いさどん:
だから、あなたが誰のことを話しても共通した傾向があります。
ただ、お父さんに対してはその傾向がありません。

りーさん:
そうですね。自分と似ているなと思うので。一緒にいても楽というか。
自分を全部受け止めてもらえているのかなと感じています。

いさどん:
どうしてお父さんといると楽なのかといったら、あなたと似ているからではありません。
お父さんは自分の意見を押し付けない人です。でも、責任もとらない。
つまり、あなたに対して圧力がないから、あなたは楽なだけなんです。
ここでも、あなたの物の見方に偏りがあることがわかりますね。

冷静に事実を受け取るのではなく、自分の心に色がついていて判断するものだから、
「彼をしっかりしている」と捉えるあなたがいます。
つまり、自分に都合がいいように、
自分の理想のような相手に思いたいという心がそこでは働いています。

事実彼と付き合ってしまった。子供が出来てしまった。だから結婚するべきだ。
どこかで「この人でいいのかな?」という心もありながら、
「でも、これから自分が築いていく家庭が理想じゃないといけないから、理想のようにしよう」と思ったら、
相手をいい人と考えないと理想を描いていくことが出来ない。
だから、そういうふうに思おう、思おうとしてやってきたのですよ。

しかし現実には、そうではない人がそこにいるわけだから、
いくらそう思ったところで、現実は違う相手と毎日付き合っていくわけです。
そこのところで、自分が思いたい部分と現実とのギャップが大きくなってきて、
自分が目一杯になり、こうやって僕のところへ相談しに来たということになります。

そうすると、彼は最初から自分を素直に表現していたかもしれません。
お母さんも素直に自分を出していたかもしれません。
しかし、あなたが対象を冷静に見ないで、
自分の思惑のように相手の人間像を創り上げて付き合ってきた可能性があります。
微妙な話ですが、わかりますか?

りーさん:
言っていることはわかりますが、言われるまでは全然気づきませんでした。

いさどん:
そうですね。そしてこれは、自分で結果を招いていることなんです。

もう一つ言えるのは、あなたのお母さんは子育て中、ずっとストレスが溜まっていました。
それはなぜだと思いますか?

りーさん:
母一人で子育てをして、父はずっと蚊帳の外でいましたから。

いさどん:
そうですね。お母さんはいつも
「自分一人だけで子育てをしている」という感覚があって孤独だったんです。
お父さんは会社に行って給料は家に入れるし、とりあえず夫の役割はしているのに、
お母さんは孤独だったんです。
それは、お父さんがマイペースで自分のやるべきことはやりますが、
人のことに口をはさまず、自分のペースで行動する人だからです。

本来、父親というのは自分のことはもちろんですが、
妻のことも子供のことにも配慮しながら日々を生きていくというのが望ましいでしょうが、
あなたのお父さんの場合、何かが起きた時にはお父さんとしての役割は果たしてくれますが、
日頃の支え的役割は果たしてくれません。
だから、お母さんが一人で「お父さんとお母さん役」をしていたのです。
つまり、精神的には母子家庭のような生活だったのです。

ところが、お母さんは自分一人でも心の安定を保つのが大変な人で、
まわりの人に精神的に助けてもらわないと安定が保てないのです。
だから、常に精神的なストレスを抱えて子育てをしてきたのです。
元々母性が薄い人ではありますが、夫が精神的に十分満たしてくれれば、母性も出てくるものです。
夫から与えられた分は出てきますが、与えられず一人だけで子育てをすると、
イライラしてストレスが溜まるという状態だったのです。

だから、あなたのことを想っている心の中には、イライラもあなたの方へ向いていたと考えられます。
ここでも、あなたは人を観るということが十分出来ていません。
相手を正しく見るというよりは、「こういうふうに思いたい」という判断のもとに物事を捉えています。

りーさん:
でもお母さんは、「子供を産んだことが女性としての一番の幸せだったし、
子供のことを一番に考えている」と言っています。

いさどん:
それは、お母さんの長い間の心の浮き沈みの中で、
安定した気持ちになった時にそう言ったかもしれません。
しかし、それだけをあなたが印象強く取り上げ、自分の中にしまっているということがわかりませんか?
実際にあなたの話を聞くと、そうではないお母さんの部分が沢山出てきます。

人には色々な人間性が出ますから、確かにそういう部分もあります。
そこでも、「自分がこういうふうに思いたい」という想いから材料を取り出して、
「そういう人である」と決めていくことがあります。

これを解説すると、あなたは精神的に幼いところがあるのです。
「自分が満たされたい、癒されたい、~してほしい」という心が常につきまといます。
これから年を重ねてもそういう心の形は変わりませんから、
子供に対しても自分が与えるというよりは、自分が与えてほしいという気持ちになり、
自分と対象を重ねて子育てしていますね、という話を始めにしました。

自分が一体どういう人柄で、どういう傾向を持っているのか、ということがわかると、
お母さんとあなたの関係や、お父さんに対する評価、そしてなぜこの旦那さんを選んだのか、
子供との関係、なぜ今こういう環境にいるのかということが少しずつ見えてくるものです。

あなたが今の心の傾向をそのままにしておくと、今後も色々なところで冷静で正しい判断ではなく、
自分に都合のいいように物事を見ていくことになります。
そして、それをあなたのお子さんが表現していることになります。

この子は力強くてたくましく生きていける力があります。
たくましいということはエネルギーが強いということですから、
これから沢山自己主張するようになります。
(ここで、りーさんはポロポロ泣きだしました。)
どうしてあなたから涙が出てくるのかということですが、あなたは子育てが難しいと思っていますよね。

りーさん:
この子をいい子に育てたいと思っているのですが、
私の子育てが間違ってしまうと悪い影響を与えてしまうのではないかと思っていて。
でも、今の話でこの子が強いところを持っていると聞いて嬉しくもあり、安心したというか。。。
この子にいい人生を歩んでほしいと思っているので。

いさどん:
この子にいい人生を歩んでほしいと思う心はどこから来ましたか?
この子にとってのいい人生というイメージがどこかにあるということですよね。
でも実は、いい人生というイメージがあるのではなく、心の中に悪い人生のイメージがあるから、
それがないいい人生というイメージがあるということなんです。
あなたにとって、悪い人生ってどういう人生ですか?

りーさん:
常に落ち込んでいて、私が鬱でずっと家に閉じこもり何もやる気が起こらなくて、
「私なんていてもいなくてもいい」という心の状態です。

いさどん:
それを悪い人生として、そういうことがない人生をこの子に重ねているんです。
そうすると、あなたは本当にこの子のことを想っているのでしょうか?

先程、「お母さんは私のことを愛してくれていたんだ。
だから、私はお母さんの愛を受け取って、良く思っていこう」
という傾向があなたの中にあると言いました。
そのことに対して、「本当にお母さんはあなたのことを想っていたんでしょうか」と、
お母さんの心の傾向を話しました。

その結果、「私のことを本当に想っていたのではなく、
お母さんはストレスが溜まっていてそのイライラで私に接していたんだ」ということがわかった時に、
あなたの考えていたお母さん像は消えていきましたよね。
結果、「そういうお母さんとして私に接してほしかった」
というあなたが創ったお母さん像に気づけましたよね。

それと同じことが、ここでも言えます。
「私が鬱の時に辛かったことをこの子には味わってほしくない。
この子には幸せな人生を送ってほしい」というあなたの想いは、
あなたの過去をこの子に重ねているだけで、
この子の未来を考えているのではないということに気づきませんか?

りーさん:
全て自分の中から発生しているということですか?

いさどん:
そうです。それがあなたの心の癖です。
相手が違うから別の現象のように見えるかも知れませんが、
実は発信源が同じということに気づいてもらいたいと思います。
別々なこととして現れていますが、
あなたが自分の心の中にある種を表現した結果、起きているということです。

もう一つ気づいてもらいたいのは、傾向として常に不満や不安の心が発生しているということです。
利害の薄い関係、例えばあなたのお父さんはあなたに圧力をかけてこないので、
あなたはお父さんに対して不満を感じませんよね。

しかし、強く圧力をかけてくる相手、ご主人やお母さんにはストレスを感じています。
それをいいふうに思いたい。
子育ても同様に、
ストレスだけれども、「この子を良くするために一生懸命こうしなきゃ」というふうに、
そのストレスを正しく認識するよりも、
「不安のない方に思いたい」という方向に捉え方を変えてしまう傾向があります。

「自分が種を播いている。自分の心の癖が色々なところに現れている」ということを、
あなたにわかってもらう必要があります。
このまま行くと、知らぬ間にあなたが辛くなってしまう状態が続くことになってしまいます。

では、これからどうすればいいのでしょうか?
人が色々な問題事をいただくのは、その人の心の中にある問題事の種があるから、
それにふさわしい現象が起きているということです。
つまり、自分の心の中に問題事の種があるということを教えてもらっていることでもあるのです。
そして、それを取り去るために私たちは生きている、と言うことも出来ます。

「普通に生活して子育てして、家庭を保ち幸せに生きていく」という
一般社会的な価値観で人生を終わっていくのではなく、
人生を自分の学びや魂の向上のためにあると捉え、
そのために色々な問題事に出会い自分が育ち鍛えられていくという価値観もあります。

そうすると、今あなたが自分の心の癖から問題事を与えられているということは、
自分がこの世界に生まれてきた目的、
学んで成長していくことに気づくためのメッセージだと言うことも出来ます。
だから、今敢えて、お母さんのこともお父さんのことも、旦那さんのことも子供のことも抜きにして、
あなたが生きていることの意味を捉えることが大切です。

出来事が起きるということは、自分自身の心を見るためのチャンスです。
自分の心を正しく捉えるために、色々な現象が起きているのです。
そして、そこから学んでいくことに希望を見出せば、
今のような自分に都合がいい判断をしなくなるものです。

あなたの物の捉え方が少しずつでも変わっていきさえすれば、
当然行動も変わりますから、まわりの反応も確実に変わります。
そうすると、生活全体に対する環境が変わってきます。

子育てに関しても、人というものは本来、自分で自分の道を切り開いていくようになっていきます。
この子はエネルギーが強いので、
あなたの癖で接して束縛すればするほど、反発となって出てきます。
それは、あなたの心の姿勢を鏡として表わしてくれているのです。
しかし束縛しなければ、この子は自分の道を歩むためにエネルギーを使えるようになります。

そうすると、「この子にいい人生を歩んでほしい」という想いはいらないわけです。
あなたがどう想おうが、この子は自分の幸せを自分で掴んでいける人です。
エネルギーが強いから、「私がこうしたいからこうするの」ということをやり遂げる人です。
それはあなたから見たら辛い道かもしれませんが、
これはあなたとお母さんの関係にも見えてきませんか?

りーさん:
私は私に与えられている課題をクリアしていくことに専念すればいいということですよね。

いさどん:
今は自分を見ることが大切です。まずは、
「私は人のことを想っていたのではなく、自分のことを想っていたんだ。
自分は物を考える時に、一種のトラウマ的な先入観で物を判断していた」ということに気づき、
その癖を取る必要があります。

それを取ってから、親としてこの子に接していけばいいんです。
子育てをする時に大切なことは、親が子供のペースをつくっていくことです。
子供のペースを親がつくってあげるからこそ、子供は安心して育つことが出来ます。
でも、あなたは子供のご機嫌を聞き過ぎているので、子供がペースをつくってしまい、
いつもあなたは子供に合わせないといけない状況になっています。
愛情とルールを与え、親のペースで育てていくことは非常に大切なことです。

この子が成長していく時に、「私はこんなことがあって辛かったのよ」と伝えると、
この子は、「お母さんね、お母さんの人生はお母さんの人生、私の人生は私の人生なんだよ。
大丈夫、私は私でやっていくから。それよりも私はお母さんの方が心配よ」
と逆に言ってくれるかもしれません。

りーさん:
物を正しく捉えるということをこれからしていけばいいんですよね。
今まではお母さんに対して「いい母親でいてほしいから、
そうならないのは私のせいなんだ」と自分を責める心もありましたが、そうではなく、
「その時その時の母親の心境を受け取って私が育ってきた」というのが正しい判断ということですよね。

いさどん:
そうです。あなたは一生懸命自分を守ろうと常に思惑が働いて生きてきた結果、
裏目に出て色々な問題事が起きています。
これから1週間ここで滞在されるのですから、
「あの時に話された自分の傾向がここでも出ているな」と一つ一つ気づいていくことが出来れば、
感じ方、考え方も変わり、相手の反応も変わり、人間関係も変わって、
あなたの人生も変わってくるということになります。

まずは、「自分が今まで正しくない判断をしていたから、
自分を見直す必要がある」ということを認識することからスタートです。