本当の自分を出せる環境があれば

うつ的な心の改善のため、
みずほちゃんは2月中旬から
ケア滞在をしています。
ここに来てからそろそろ1ヶ月が
過ぎようとしているみずほちゃんの、
昨日の大人会議での報告を
皆さんともシェアしたいと思います。

みずほちゃん:
2、3日前から心が安定して、
安定しているのがずっと続くと、
なぜか体がすごく緩んでくるということが
ヴィッパサナー瞑想の後から時々あります。
ヨガでも瞑想でも体を緩めるということが
作用としてあるらしいんですけれど。
穏やかな気持ちでいると、
だんだんと体が緩んでくるような感じで、
体がだるくなってくる。

それで、自分の感覚としては
どんどん具合が悪くなってきた
というふうに思いこんでいました。
今までは具合が悪くなると
2、3日とか1週間寝続けて、
その状態から抜け出すということをやっていたので、
「休まなきゃ、休まなきゃ」と思っていました。
でも、休むたびに
もっと具合が悪くなっていきました。

今朝いさどんに、
「不整脈や頭痛もしてきたので、
病院に行きたいんですけど」と言ったら、
いさどんは、「それは具合が悪いことに
逃げているんじゃないか」と言いました。
「思い込みに捉われているんじゃないか。
『具合が悪いけど、ちょっと今日は頑張ってみます!』
ぐらいのことは言わんといかん」と言われたので、
「そんなものか」と思い、
食当さんのお手伝いをしに行きました。

下っ腹に力を入れて頑張ってみたら、
体もすごく温まってきて、
すぐ治ってしまいました。
頭も真っ白な感じが
何日か続いていたんですけれど、
ちゃんと考えられるようになって、
「ああ、気合いを入れればいいんだ」と
単純なことで落ち着きました。
明日からも気合いを入れて
頑張ろうと思います。

あと、私の中には人を操りたい、
支配したいとか、
彼に対しては
いじめてやりたいという
欲求があるなと思っています。
そういう癖を人にぶつけることがないように、
コントロールしていかなきゃいけないなと思いました。

いさどん:
今度、エリーとここのケアについての
本を出版するにあたり、
どのようにしてここのケアの仕組みや秘訣を
本に表わしていくのか難しいなと思っていました。
というのも、人の本質、一人一人の心の状態を
どうやって把握するのかというのを
伝えるのは難しいことなのです。

今日、みずほちゃんが僕に
頭が痛い、足がだるい、
それと心臓が時々止まってしまう、
だからお医者さんに
行くべきなんじゃないでしょうかと言ってきた。
その時僕が思ったのは、
この人の中に彼に対して
いじめてやりたいといういじわるな心や
悪意的に企む心があるから、
そういう心が湧いてくることがある。

しかし、人にそういうことが
癖としてあるということを伝えても、
悪く取って受け取らない人が多い。
こちらがいくら、
「あなたの癖はこういうものですよ」
と伝えようとしても、
本人がそのことに
抵抗しているようでは成果は出ない。
そういうことをどうやって
理解してもらったらいいのか。
こういった癖は
その人にしみついているものだから
理解するのに難しいものだし、
なかなか時間がかかるものです。

今朝の話も、
よく子供が「学校行きたくない!」と思うと
頭が痛くなってくるようなことと同じです。
僕も昔、
「学校行きたくないな」と思うと、
妙にお腹のあたりがちくっとしたりして、
「もうお腹が痛いから学校に行けないな」と考える。
そうすると、もっとお腹がちくちくっとしてきて、
完全にお腹が痛いような気になってくる。

そこでお母さんに
「お腹が痛いから学校に行けない」と言うと、
「そんなことぐらいで
学校を休むんじゃないよ!」と言われる。
「でも、痛くてどうしようもないんだから」と
僕も頑固だから言い続けるんです。
そうすると、仕方がないからということで
学校を休むことになる。

そのうち、
今から学校に行っても
間に合わないくらいの時間になると、
だんだん良くなってきて、
もう完全に今日は休みだなという時点では
痛みなどどこにもなくなる。

今日は一日得した気分のはずなのに、
あっという間にお昼になり、
夕方になって、
いつもならもう家に帰ってきている時間になる。
「今日一日何をしたんだろう?
なんだかちっとも得じゃなかった」
ということを思った記憶がある。

それとみずほちゃんの話は
ちょっと似ていて、
そうやって自分の心の中で
「嫌だな」と思う何か別の理由を探して
実行しようとすると、
嫌な心が出てきて頭も痛くなるし、
心臓も止まる(笑)。
だから、ちょっと気合いを入れて、
「具合が悪いけどやってみよう」という方に
心を持っていくことで、
その気持ちを切り替えることが出来る。

この人に伝えたいのは、
ストレートに物事を受け取めてほしいということです。
この人はどちらかと言うと
変化球ばかりが得意な人だから、
こちらがストレートに投げても
歪んで受け取ってしまい、
困った人だなと思っていたものだから、
今日はしっかりと話が出来ました。

そうしたら、
「わかりました」ということで
先程の報告になったわけですが、
ここでケアをスタートしてから
もうじき1ヶ月になるんですよね。
それでいて今日のようなことを言うようでは、
成果が出ていないな
というふうに思っていたのですが、
さっきの報告を聞いて、
それならば良かったと思っています。

そうやって
人の心や物事を素直に受け取り、
ストレートに表現することの大切さを
気づかせる環境をつくれば、
自分の本当を素直に
出していくことが出来るようになる。
そういったことも
皆の中で語れるようになるものです。
そういう環境があると、
どう対処していけばいいのか
ということが見えてきます。
ですから、
そういった本当の自分を出せる環境を
つくるということが大切です。

そういったことも
本の中で伝えられたらと思っています。


「神様の意志」と「自分の意志」の見分け方

前回のブログ「いさどんの『Mの精神』人生哲学」を
大人会議でシェアした時に、
いさどんから「神様の意志」と「自分の意志」の
見分け方についてのコメントがありました。
今回は、その話を皆さんともシェアしたいと思います。

まり姉:
ブログを聞いていて、
以前いさどんから言われたことを思い出しました。
私は悩んでいる時に、
大体二つにまでは考えを絞れる。
そこからどちらを選んだらいいのか、いさどんに尋ねたら、
その時は「うっとする」という表現ではなくて、
「得ではない方、損な方を選んだらいい」
と言われたことを思い出しました。

いさどん:
それは少しニュアンスが違っていて、
私たちの前に物事が起き、
そのことに対する自分の行動を選ぶ場合、
「神様の意志」と「自分の意志」があるとして、
神様の意志の方に行こうとする時に
どちらを選んだらいいのかという話だったと思う。

僕がその時に答えたのは、
損得を考えない方へ行けばいいんですよ。
それは得ではない方に行くのではなく、
そのどちらでもない方向へ行くということです。

キャサリン:
私も昔いさどんに、
「神様の意志なのか自分の意志なのかわからない時に、
どうしたらいいのですか?」
と聞いたことがありました。
その時いさどんは、
「損得のない方を選べばいい」
と言っていました。

いさどん:
自分にとって損得に関わらない方へ行くというのが、
一番賢明な方法です。
それが自分にとって一番の学びになり、
有益な道を選ぶ方法です。


いさどんの「Mの精神」人生哲学

一つのことが長続きしない人は、
少しやると限界を感じ、
ダメだから次のことを選ぶということを繰り返していく。
それは色々なことに出会えていいようだけれど、
行き詰まりが来るということは、
自分の中の興味が変わっていったり、
直面する出来事に顔をそむけたりするような作用である。

一つのことを続けていくことで、
自分の中がせっかく変わろう(成長)しようとしている時に、
自分の眼の前のものを変えてしまうから、
いつも変わらない自分と付き合うことになる。
だから、変わらない自分に対して、
どこに行っても同じような現象が
待ち構えているということが起きてくる。
大体同じようなリズムでハードルが
眼の前に現れて来るようになっている。
そこでは常に直面する出来事を避けないで、
真っ直ぐ進んでいくことが大切である。

自分が嫌だな、うっとするなと思う方向へ進むと、
今の自分を離れ、人は成長する。
ところが、楽な方向へ行くと、
楽が待っているように思うけれど、
その人の問題の種はあり続け成長しないから、
また同じようなテーマが自分の眼の前に現れてくる。
そうすると、またうっとする。
楽な方へいく。
またテーマから逃げたのだから、
うっとするようなことが起きる。

つまり、心がうっとする方向へ進んで行った方が
その人に成長を与え、
心の段階をクリアしていく結果に結びつく。
そこに希望を見出していけば良い人生を歩める。

僕は、「先天性M」です(笑)。
僕の中にはうっとする方へうっとする方へ
行こうとする心がある。
「この先何があるのか見てみたい」
という思いが湧いてくるのです。

道路が渋滞していると、
「迂回して行こう」という心もあるのだけれど、
「迂回したら何が原因で渋滞しているのかわからない」と思い、
わざわざ渋滞の中にいたい僕がいることがあります。

これって僕にとっては、
人生の中でも重要なことなのです。

例えば畑で作物を作る時に、
虫が発生したり作物の出来が悪いと、
みんなはその対策を取ろうとする。
しかし僕は、
「それでは、この結果どうなっていくのかわからない」と思い、
そのまま何もしないで見ていることがある。
そうすると、その後良くなっていくこともあったり、
自分では想像出来ないことが起きることがある。
その方が学べる機会が多いというのが僕の発想である。

だから、自分流に拒否的解釈をせず、
「いただく」という精神が必要である。
自分流で日々を過ごしていけるからといって、
それだけでどんどん進めていっても人は成長しないし、
「これが正しい」という自分の枠に捉われてしまい、
狭い自分をつくってしまう。

人はとかく、楽な方に行きたがるものですが、
本当の意味での楽を自分にもたらすように、
賢明な物事の見方や判断の上で、
気持ちを込めて自分の内側に気持ちを向けていくことが
大切であると思います。

うっとする方向へ向かっていけ。
いさどんの「Mの精神」人生哲学でした。


美しいブルーの星へ降りてきた

いつ頃からか、
私の眼の前にある映像が浮かんでくる。
それは、地球に近づいていく映像で、
地球に近づけば近づくほど、
地球は太陽の当たっている状態だから、
「満地球」で明るい。
ずっと近づいていくと、
雲に出会い、雲の中に入って、
地上が近づいてくる。

そんな映像を想い浮かべた時に、
なぜ私たちはこの広大な宇宙の世界にいながら、
地上でしかありえない、
それも人間の世界でしかありえない、
人間の中でも捉われがなければありえないような
常識やルールに縛られているのだろうと思った。
すごく窮屈に感じる時がある。

そして、「ああ、忘れていた」と思った。
地球に近づき降りてくるという映像を観た時に、
「そういえば、自分は
この星の外から来たということを忘れていた。
この星のものではないのに。
ずっとこの星の人であったように、
物を考えていた。
外からこの星を観ていたはずなのに」
と思い出した。

その昔、地球が出来た。
ドロドロだった。
まだ地上に生命が誕生していない。
そのうち生命が誕生し、
人間の土台となった猿が誕生してきた。
そして、私たちは猿人といって猿から進化した。
しかし、猿が進化したものではない。
猿という体に人間の魂が降りただけである。
人間は猿から分かれたのだから、
人間と猿は別のものになる。

「神」という字は、
示す辺に申(さる)と書く。
申の中に神の魂が入り
成長したのが人間である。
つまり、この世界を創ったものの一部が、
元から分かれ、地上に降りてきた。
その時の受け皿になったのが申であった。
それが人間の始まり。

地上に人間として生きる土台が用意された時に、
私たちの魂は地球の外から訪れたものである。
その時は、この世界を外から観ていた。
そして今、この星の外からこちらを観る
ということを忘れていた。

私たちはこの世界を観た時に、
一人一人、自分とこの世界という視点を持っている。
それが無限にある。
人間の数だけある。
一つ一つのものがこの世界と密接に関わりながら、
自分というものをこの世界と対比させて生きている。

今自分がある。
自分がこの世界を認識するということによって、
この世界がある。
認識する自分がいなければ、
この世界はない。
自分があるからこの世界がある。
そういう見方がまず一つある。

もう一つ、自分がある事実として、
過去にこの世界が始まった時があるとする。
とりあえず始まりがあって、
過去から未来へずっと歴史が続いていく中で、
今ここに至り、自分があるという見方がある。

そして、もう一つは、
今現在この広大な世界がある。
その中に維持されているものとして自分がある。
そういう3つの捉え方がある。

ほとんどの人は
自我の視点だけでしか物事を捉えないから、
3つの方向から捉えるのは難しいかもしれない。
しかし、自我の視点だけでは
3分の1の視点しか持っていないことになる。
日々の中で自分の中から湧き出てくる感情の元に、
自分という側から外を観ているだけである。
それも、宇宙なんていう広いレベルは全く観ていない。
ただ湧き出す感情のままに生きている。

しかし、沢山の視点を持てば、
正しく次の世界を捉えることができる。

最近、私の前に宇宙からこの星へ降りて来た時の
映像がよく浮かんでくる。
「ああ、そうだった。
考えてみれば、地球がなかった時には宇宙のものだった。
地球が出来、申という器が出来て、
ここに降り立ったのだった」と。
地球に向かってくると、
地球のブルーがものすごく強烈で、
そのブルーの中に浮いている雲の中に入って
地上に降りてきたという記憶が湧いてくる。

誰もがそうであり、
誰もがその記憶を自分の中に持っているはず。
歴史は途切れることなくずっと続いているのだから。
誰もが宇宙のものであった。
今でも、ここにいても宇宙のものなのである。

もともと宇宙の中に存在していたものに、
地球という場所が用意され、
申という器に入り、
歴史の中で進化しながら今ここにいる。
皆の中にあるその記憶を思い出したら、
感情に縛られた不自由な生活は
しなくてもいいはずである。

とかく人間は、この世界がなぜ創られたのか
一生懸命考えようとするけれど、
それを解明する記憶が既に私たちの中にある。
宇宙の始まりから
ずっと記憶をつないできているのだから。

それを忘れているのは、
この地上にいる記憶があまりにも
強くなりすぎてしまったからである。
地上で生きていることに慣れすぎてしまい、
外から来ていることを忘れてしまっている。

次の時代を生きる新しい人たちは、
必ずそういう記憶を持ち、
宇宙的な発想で生きていくだろう。
その時に、ずっと遠い過去に宇宙からこの星を訪れた
という記憶を持って生まれてくる人たちも出てくる。

私が話し出すと、
こうやって色々な言葉が出てくるけれど、
それは魂的な過去に自分がマスターしたことが
外に出てきただけである。
語る必要がある時には、
記憶という本のページが順番にめくられるように、
私の眼の前に言葉が出てくる。

そういった情報は、
私自身にもすごく新鮮なように感じるのだけれど、
それは自分の記憶で封印されていたものである。
だから、私にとっては語った瞬間に、
新しいことを語っているなと思うと同時に、
それはただ蘇ってくることだから
何の違和感もなく受け入れることが出来る。

これからも自分の記憶のページが蘇り、
それを語り続けていくだろう。
自分にはその量がどのくらいなのかもわからないし、
内容がどこまでいくのかもわからない。
しかし、自分に与えられている役割の分だけは
出てくるのだと思う。

私は神様と対話していく中で、
「通訳としての役割を果たすために生まれてきている」
と言われているけれど、
これは私が特別ということではなく、
誰にでもある役割である。

物質的なものの奥にある
本質的なことを解き明かす役割の人もいれば、
科学者や物理学者といった
物理的なことを探究する役割の人もいる。
中には一般社会的なことを担う役割の人もいて、
ただ役割分担が違うだけである。

時代が移り変わっていくというのも、
時代時代の魂の役割分担が違うからである。
未来に向かって次のステージへ旅立っていく時に、
それを進めていく側なのか、
抵抗する側なのかということも、
役割の違いなのである。

今の時代を生きているものたちは、
ずっと以前に過去の時代を担っていたこともあった。
そうやってくり返しこの世界に現れ、
この世界は進化していく。
新たに宇宙から参入してくるものもあれば、
ここの世界から外の世界へ帰っていくものもあり、
そういうふうに魂が交流しながら
この世界が創られていく。

人間は、地球上の表面の世界だけを
この世界だと観ているのだけれど、
それだけでは非現実的である。
私たちが思考し行動している世界が、
この小さな星のそれも表面だけであるわけがない。
この広大な宇宙からしたら、
細胞一つにも満たないようなこの星で、
外とは全然関係なく
ここだけが存在しているなんて考えられない。

だから、もうちょっと広いところから物を捉えないと、
私たちがなぜここにいるのかはわからない。
どの切り口から観ても、
全部関連性がありつながっているということは、
元は全て一つであるということである。
この世界の実体を
そろそろ人間はわかる必要がある。

それをどう説明しようと、
人々がそれぞれの立場で表現を変えただけであって、
それを神と言おうが、法則と言おうが、
自分と違う表現方法にアレルギー反応を
起こすようなことはやめないといけない。
「それは表現の仕方が違うだけで、
共通するものですね」
と皆が共有する意識を持つ方向に
進んでいくことが大切である。
その視点で物を観る自分の役割として、
これは皆に伝え続けるべきだなと思う。

人間は命をもらい、
その命が自分たちを
強制しているかのように感じている。
食べねばならない、
生きねばならないと。

しかし、自然を眺めると
そこには命の連鎖があり、
ただあるがままに生まれて、
あるがままに生き、
そしてあるがままに死んでいく。
鳥だったって獣だったって、
何も悩まず、しっかりと生きて美しく死んでいく。

本来私たちも自然の奥にある神秘、
芸術的な命の美しさの中にいるのだから、
そのことを理解すれば、
神秘的で美しい人生が送れるはずである。

そういったことを理解出来る人たちが、
これからは沢山生まれてくるであろう。
そこにつなげていくために、
一人一人が目覚めていくことが大切である。
目覚めるということは、
記憶を呼び覚ますということ。
もともとあるのだから。
新たに創り出さなくても、
目覚めて次の時代につなげていくだけである。


求めている人がいるからこそ

「おやじの館」の主のいさどんです。

皆さんからの温かいコメントを
いつも嬉しく読ませていただいております。

こちらは自分の中から湧き出てくるものを
そのままブログとして発信しているだけで、
皆さんからのコメントを求めるために
ブログを発信しているわけではありません。
しかし、それが読む人に伝わりコメントが返ってきた時に、
自分たちを支持してくれているということよりも、
その人の中で受け取ったものが活かされ、
その結果返ってくるものとして、
「役に立ててもらえて良かったな、
役に立ててくれてありがとう」という想いでいます。
大感謝です。

私たちは、世の中にここの暮らしや生き方を
求めている人たちがいるからこそ、
この生活を続けています。
だから、皆さんからのコメントに励まされ、
それによってこの生き方を大事なこととして
続けていく意欲が湧いてくるものです。

ですので、皆さんのコメントに対し、
こちらからも「ありがとうございます」とお返しいたします。
これからも、共につながり、
いい世の中づくりのために生きていきましょう。