「おやじの館」へようこそ

僕の中に、
「おやじの館」のイメージというのがあってね。

洞窟があって、その奥へ入っていくと、
ずっといくつか部屋があって、
一番の奥の奥に、おやじがいる。
そこで、何をしているかと言ったら、
にやっと笑っているだけ。

人々はそこへ入ってきて、
その人流に、
玄関まで来て帰っていく人もいれば、
次の部屋まで来て帰っていく人もいれば、
だんだんだんだん慣れてきて、
一番奥まで来て、
その「にやっ」に出会って帰っていく人もいる。

玄関にだけ来て、
一番奥のおやじの姿を見ないで帰っていく人もいる。
そういう場所。

今でも、僕に出会わないで、
「ありがとう」と言って帰っていく人もいれば、
仮に僕と出会ったところで、
表面的な話をして帰っていく人もいる。
深い人間性を垣間見て帰る人もいる。

それは、
おやじを観たのではなくて、
あなたを観ていくことですね。


生きていること自体が神様との対話

今朝、早めに目が覚めたから、神様に
「ここのところ何日間か、
体調があまり思わしくなくて、何でしょうね」って。

でも、どう考えたって、
体調が思わしくないことは、
心の表われということである。
でも、わからない。
だから、久しぶりに、
己のことは己で見ていくというよりも、
わからないから何なんでしょうね、
と問いかける時間になった。

しかし、「こうだぞ」という答えをもらわなくて、
思考を巡らしていたら、答えを出してもらった。
問いかけて対話するように答えをもらうこともありがたいし、
大切だけれど、自分の思考を巡らすことによって、
その思考の中から答えが湧き出てくる。
それも、自分が考えたのではなくて、
その対話の結果、いただいた。
ありがたい。

前者のほうが便利がよくて、
ありがたみがあるようだけれど、
あまり人を育てない。
後者のほうは、
答えをもらった気になれないようだけれど、
自分を育てるということをいただきながら、
自分がそれに気づいていく。
思考を巡らせて、自分自身の能力を高めながら、
自分の中から答えを見出していく。
これが、優れた師に出会った時の学びである。

大学の先生に、
僕がよくお話することがある。
「知識を伝える学問は高校まででいいんです。
大学の学問は、
知恵を生み出させるための
人づくりの学問なんです」と。
このことも同じである。

気楽に答えをいただくことを、
人はとかくありがたいと思うものだけど、
答えをいただかなくても、
自分の中で巡らせながら、
迷いながらもそこで答えを見出していく。
人間そのものを育てながら、
自分の中から知恵を引き出しながら、
自分で道を開いていく。

これは優れた師が使う、
弟子を育てる手法。
弟子は、自分の想いがごとく、
学びをいただいて育っていく。

この世界があって、
私たちがその世界に降ろされて
生きているということは、
そういったことの表われである。
だから、神様と通じて、
「神様わかりません。教えて下さい」と問いかけ、
すぐ「それはこういうことである」
と答えをいただければ、
ありがたいことのようだけれど、
実はそれはありがたいことではない。
悩み苦しみ、わからない人生をいただいて、
そうやって生きていくことで、人が育てられる。
そこにありがたさが見つからないと、
人生は辛いことばかりになる。

実は、生きていること自体が、
神様と対話している。

「何も不満はありません。何ひとつ不満はありません」

そう思えば、事は何も解決されていないのに、
この世界の問題事は立ちどころに解決される。
ありがたいと思った時に、全てが解決される。
そこには、不満はない。
何も解決されていないのに、全てが解決される。
不満な時と何も変わらないのに。

全ては心次第。

「今日も一日、
自分の役割を果たさせていただきます」


人は変われる

昨夜、9月14日からケア滞在をしていた、
けいこちゃんの卒業コンサートが行われました。
8年間のうつ病を見事一ヶ月で克服し、
その後は「今度は自分の心の癖を直していきたい」
ということで、一ヶ月半の生活体験をしました。
この二ヶ月間のけいこちゃんの変身ぶりは、
いさどんブログでも紹介してきましたが、
本当に素晴らしく、目を見張るものでした。
今回は、卒業コンサートでの
けいこちゃんのあいさつを
皆さんともシェアしたいと思います。

けいこちゃん

来たばっかりの頃は、
ここがどういう所かもよくわからなくて。
ホームページで下見はしていたんですけれど、
実際行ってみようと一大決心をして、
やっと重い腰を3カ月後くらいに上げて、
ここへ来ました。

来たばっかりの頃は、何というか、
びくびくおどおど、
ぐずぐずめそめそしているような状態で、
自分も他の人も信じられなくて、
自分も消えてしまいたい、皆も消えちゃえばいい、
みたいに思っていました。

座っているのも辛い状態で、
ご存知の通り、寝てばっかりの生活だったので、
筋肉も弱っていたし、
なにしろ普通のことがまともにできませんでした。
今も、まともだとは思っていないんですけれど。

いろんなものを見たり聞いたりするのも辛くて、
ここに来てからもしばらくは耳栓をして、
食堂の隅にいたり、ミーティングも耳栓をして、
なぜか出席していました(笑)

ここに来ても、
まだ疑いや信じられない気持ちで、
すごく身構えていて、なかなか心が開けなくて、
治りたいのに治したくないという、
そういう葛藤がありました。
すっかり自信もなくしていたので。

でも、なんとか治りたいと思ってあがいて、
ずっと、暗いトンネルの中にいて、
なんとか光がほしいなと思って。
道しるべがすごくほしかったです。

ここに来て、
だんだんすごくいい感じで巻き込まれていって、
だんだんここのことを知っていきたいとか、
いろんなことを聞いていきたいという気持ちに
変わっていって、
自然に耳栓も外れるようになって、
なぜか眼鏡まで外れるようになって(笑)
それが自分の中では、
「なんか変わった、不思議だな」
というふうに思っていました。

ケアとして来たおかげか、
あまりがんがんと指摘されることもなく、
すごくいい形で
ソフトランディングさせてもらったなと思いました。
最初の入り口がすごく良かったのか、悪かったのか、
わからないけれど、
だんだん、ここはすごい善意の中で暮らしている、
すごく信頼できるなと思って、
どんどん安心して
自分の身も心も委ねていけるようになりました。

道しるべも、藁をも掴む想いだったんですけれど、
なんか、ここで羅針盤とか
北極星を見つけたような気持ちになりました。

ここにいて、自分の説明できない
もやもやとした気持ちを持っていると、
自然と他の人がタイムリーに
それをわかりやすく表わしてくれて、
何というか、すごく必然性を感じて、
沢山学ばせてもらったなと思います。

どうして薬をやめられたのかというのは、
本当に簡単には説明できないんですけれど、
すごく思っていることは、
とにかく嬉しいし、ありがたいし、ここは素晴らしい。
それが私にとっては、何よりの真実ということです。

ここの良さを、
私のまわりの身近な人や、
心の病気の知り合いにどんどん伝えていきたいな、って。
心の病気の一経験者として、一サンプルとして、
皆に利用してもらいたいなと思っています。

一般社会は、いろんな誘惑や雑音が多いし、
まだまだ自分の問題や不安や心の癖はあるけど、
一朝一夕に直していけることではないので、
まずはコツコツ目の前のことをいただいて、
やっていくしかないと思っています。
そうしていけば、よいほうに導かれると信じて
やっていこうと思います。

何か困ったことがあっても、
それは解決できる課題だし、
いただいているからありがたく受け取って、
逃げずに取り組んでいこうと思います。

ここの印象を簡単にイメージするとしたら、
違うのかもしれないんですけれど、
ここはすごく高度な
レクリエーションコミュニティだと思いました。
親のいる実家よりも、ここが実家のような、
心の実家のような気がしています。

とにかく、皆に
ありがとう、ありがとう、ありがとう!
ここに出会えて本当によかったです!
まさに、苦しいことも悲しいことも、
良いことのためにあるんだと思います。
心の中では、
皆にハグしているような気持ちになっています。
本当は、沢山伝えたいことがまだあるんですけれど、
すごくまとまらなくてもどがしいです。

ここを去ることは去りますが、
ここの生活を伝えていきたいし、
自分自身もできるだけ続けて生きたいと思っているので。
例えば菜食とかもできるだけ続けたいなと思っているし、
心の学びも自分なりにやっていきたいなと思っているので、
実家の沼津は木の花ファミリーの
沼津支社だと思ってやっていこうと思います(笑)

それでは、ちょっくら、沼津支社に出向してきます!
ありがとうございました。

いさどん

毎回卒業式になると、
ケア担当主治医としてお話をさせていただくのが、
とても名誉なことだと思います。
その度に、僕らの生活に対する勲章が、
一つずつ増えていくなというふうに思います。

今、けいこちゃんの話を聞いていて思ったのは、
けいこちゃんがまわりの者たちを信じられなかった。
だけど、結果、信ずるということは
いいことだなと思います。

決して疑うことなかれ。
疑いを持って生きたら、
疑いの世界が自分の前に現れる。
信ずる者には、信ずるに足りる世界が現れる。
まさしく、名言だなというふうに思いました。

私たちも、一般社会で生きていて、
こういう世界があるよと風の便りで聞いたら、
「え、そんなのあり?
なんか裏があるんじゃないの?」
って思ったかもしれません。
そういう意味では、ここにいて、
それを日々目の当たりにしているということは、
とても幸せなことだなと思います。

ただ、私たちは、
偶然ここにいたのではないんですね。
自分がそのことを大切と思って、
この世界にたくさんの価値観がある中で、
あえて自分の意思でこの価値観を選んできた。

だから、大事なことは、
自分が何を考え、どんな行動をするのか。
その種が自分の中にあって、
その種をいつも吟味すること。
その種が芽生えてきた時に、
自分に何をもたらすのか、
ということを常に吟味している。
そのことが大事だなと思います。

日々の自分をよく観察していくこと。
一つ一つの行いを、
自分はなぜやっているのか観察していくと、
その結果が自分に何をもたらすのかがよくわかる。
そうしたら、自分で自分の行動を修正できる。
そして、困ったことを回避していける。
困ったことが起きないような生活ができる。
もっと言えば、困ったことが起きないのではなくて、
非常に豊かに生きていける。

毎回卒業式で想うのは、
ここに来て病気が治る人は沢山います。
でも、うつ病や病気が治った人の中で
卒業を迎えられるのは、37%です。
まだ、全員は卒業できません。
病気が治っても、病気の種がある。
その種に取り組んで、
自分の中にある病気の種を取り去っていく。
つまり、性格まで自分の中にメスを入れて、
自分の意思で変えていく。

これは、可能です。
そのために人間は、生まれてきて生きている。
そのために、いろいろなことが起きている。
そこのところまでメスを入れて健全にするために、
人間はそのために生きているのですから、可能なんです。
だけど、自分にとらわれていると、
なかなかそうはいかない。

けいこちゃんは、
病気というところまできて、
本当に見事に卒業を迎えました。
病気の種どころか、
心の種も自分で観ることができた。
「病気はこれで治ったよ」と言っても、
「いやいや、
私はもうちょっと心を磨いていきたい」
という自分の意思から、
ケア終了後もここにしばらく滞在した。
そこの部分も、今日のコメントを聞けば、
本当に健全な人になったなと。
これこそ、けいこちゃんに
けいこちゃんの人生を任せていいなと思います。

これからは、
こういった人々にこの世の中を任せていいなと思います。
そういう点では、
この世界は信ずるに足りるところだと思います。

そして何よりも、私たちが生きていると、
いろいろな問題に出会う。
人生の「ささくれ」みたいなもの。
それは痛くて辛くて嫌なものですね。
でも、それがいいものだということがわかると、
それがあってこそ、
私たちは育てられているんです。
問題事やささくれがいいものならば、
私たちはその他の何を疑う必要があるのかといったら、
この世界は本当に信ずるに足るところだなと思います。

そういった善意の心を自分たちが持ち続けて、
人生を生きる。
この世の中の見本として、
良い社会を引き寄せていく。
まさしくそれが、私たちの役割だと思います。

いつも、
「卒業おめでとう」という言葉と同時に、
「卒業してくれてありがとう」
というのが僕の気持ちです。
ありがとうございました。

「人は変われる」
メンバーからもご家族からも、
「別人のようになったね」と言われるけいこちゃんを見て、
心からそう思います。
それも、けいこちゃんの中に
「よくなりたい、変わりたい」
という求める心があったからこそ。
けいこちゃんは皆の言うことを素直に受け取って、
あっという間に、どんどん良くなっていきました。

ありがたい、ありがたいと言いながら、
笑顔で木の花を出発したけいこちゃん。
いってらっしゃい、けいこちゃん。
木の花沼津支社出向、皆で心から応援しています!
本当に本当に、いい出会いでした。


根本の心が何ものか

人間はひとつの種で成立しているけれど、
それぞれの個性は思考によって大いに違いが見られる。
それに引き換え、動物たちの個体差は、
人間ほどは見られない。
こっちのライオンとあっちのライオンの違いが
どれくらいあるかといえば、
地域性や性質、習慣その他で多少違っていても、
おおむね大差は見られない。

それに対して、人間という生き物は、
思考、性質、習慣その他で、非常に差がある。
それぞれの舞台で、個性的な人生を演じている。

「人間はこういうものだ」と
ざっくりと語ることはできても、
人間の数だけ、ひとりひとりはオリジナルである。
それが人間の能力の高さ、特殊な存在の証でもある。

今後、人間が進化していくと
この多様性はなくなって、
この世界の仕組みに目覚めて
調和のもとに近づいていく。

過去に戻ってみると、この多様性はなく、
もっと野性的な時代であった。
ひょっとすると、今の時代が一番
人間は個性的でバラバラなのかもしれない。

仏教経典の中の法華経に、
正法、像法、末法という言葉がある。
お釈迦様が仏教を説いた時代は正法の時代といって、
人々は法華経を習ったことをまだ覚えていた。
心がまだきれいだから、
正しいことはこういうことですよ、
悪いことはしてはいけませんよ、
正しく生きましょうねと言うと、
素直に正しいことはいいことだと、
正しい道を歩むことが出来た時代。

像法の時代というのは、
人々の心の中に法華経の教えが
まだ残ってはいるが、道が掴めない。
しかし、その時代の人々には、
まだ正しいことを求めようとする心があった。

今の時代を末法の世といって、
人々が道理や理屈、知識が大変豊富になり、
上手に語るようになった。
しかし、真実の教えである
法華経の根本を失ってしまって、
物や形に捉われてしまい迷いの中にある。
そういう人たちが生きる時代である。

だから、この世界の根本をわかるために
法華経を学びなさい、と。
それが、末法の衆生を救済する道で、
この法華経をもとにしてそれを広めるのが、
経典の中に記されている上行菩薩といって、
菩薩の中でも特に優れた菩薩。
それが、法華経を根本にして宗門を開いた、
日蓮さんである。
そのことは、
日蓮さん自身も御書の中に残している。

法華経の中には、
そういう優れた菩薩が現れて、
法華経を根本に人々に教えを説くであろう。
ただ、その上行菩薩は、
末法の世の中で
真実を忘れてしまった人々に説く存在であるために、
大変な迫害を受けたり、
命を奪われんがごとくの法難を受けるであろう。
しかし、この世界の法を動かしている神々が
その者を守るであろう、
と記されている。

どんな優れた教えであっても、
その根本の精神が伴っていかなければ、
ただの方便になってしまう。
それには、日常の生活のもとにある心が何であるのか、
しっかり見ていかないといけない。

僕がいつも大事に想うのは、
何を語っているのかというよりも、
どういう心をして語っているのかということ。
本当にこの世のこと、
自分のことを想って日々を生きているのか、
相手のことを想って語ったり行動しているのか、
ということが大切である。

人々の想っていることと語っていることは、
必ずしも同じではない。
つまり、相手のことを想っているように語っても、
実は想ってないことがある。
そのカラクリをよく観ていくと、
自分に対する想いが強くて、
相手のことを想っているように見えても、
自分事が優先していることがある。

いろいろな経典や教えは沢山あるけれど、
自分の組織や教えを正当化するものになりがちである。
今、宗教が信じるに足りるものであるかどうかは、
考えものである。
自分のところだけが全ての真理で、
他は違っているものであるような表現をしていることがある。
しかし、そんなことをしていたら、
それぞれの主張が原因で対立が起きるばかりである。

そこで考えられるのは、その根本の心。
一体全体、その言葉の背景にどんな心があるのか。
わかりやすく表現すれば、世を想う清い心、人を想う心。
それは、キリストの言葉で、
「汝を愛するがごとく、他を愛しなさい。」
この世界をひとつの命として、あなた自身と観ていく。
そのことを前提に、根本を観ていく。

それは誰の考えでもなく、
この世界の命の仕組みそのものである。
そこに自分の根本を置いて、
ものを観ていくことが大切である。
この世界があって、この世界が動いて、
その中に私たちもいて、
私たちのもとはこの世界の始まりに生み出されたものであり、
今も生き生きと続いている。

この時代、人間の歴史の中では、
もっとも個が激しく強い時代だと思われる。
お互いが違う生き物のように自己主張を繰り返し、
個性的で、バラバラである時代。
競争や対立の中で、
人間は優れたところを沢山発揮してきた。
しかし、その結果、人間の世界はバラバラである。
高い能力は発揮しているが、
非常に愚かな現象が、今この世界に現れている。

過去を辿ると、人間は動物と同じように、
ひとつの種として違いはなかった。
それが今、個がバラバラの状態になってきている。
これがまた過去のようにひとつに戻る。
これは戻るのではなくて、進化である。
進化していくと、またひとつになっていく。
それを束ねる根本は、
自然の仕組み、命の仕組み。
私たちを生みだしたものの仕組み。
そこに思考を働かせて、
自分の行動が自然の仕組みに沿った行動をするということ。
今はそこに移行する段階で、
個々の自己主張がピークに達した時代である。
いろいろな人がいて、そういった主張を認めながら、
成長のプロセスとして学んでいくことが大切である。

今の世界は、
沢山の国々にそれぞれの法律があるように、
ルールだらけ。
その中でルールとルールを比べると、
それぞれにまったく違う世界が展開されている。
さらに、それぞれが生まれてきた素性から、
いろいろな人生があって自己主張がある。
個々に辿っていけば、全て認められることではあるが、
自己主張を通して得られるものは、
不調和であり、対立であって、豊かさではない。

多様性がある人間には、
根本に共通の目的があるはずで、
大切なのは、
個々が自己主張するような我の部分ではなく、
生命としての根本の部分。
この世界の命として、万物と共有している部分。
そこから出てくる仕組みで生きていくことが
大切である。

今はまだ、
そういったことが理解される時代ではないから、
なかなか難しいことではあるけれど、
進化の過程で必ず人がそこへ行き着くことは間違いない。
だから、それに気づいた者は、
世のため他人のためという大事を信じて歩み続ける。
世のため他人のためというと、
人間世界のことだけみたいだけれど、
この地球に訪れる未来にふさわしい生き方を生きる道である。

富士山に移住する時に、皆にこんなことを伝えた。

「小さな志を持って生きていくと、人に認められたい、
人に理解されて生きていきたいという志になってしまって、
まわりの人たちの御機嫌伺いをしなければならない。
けれど、大きな志を持てば、
まわりの人たちが理解しなくても、
自分の姿勢に信念を持って、
歩んでいくことができる。

無理解でも行けるというのは、
大きな志があればこそできること。
あなたが、誰か一人、
例えば僕を信じて行こうとするのではなく、
自分の中にある大切を生きようとする心。
あなたの中に神がおられて、
それを信じられたら行きましょう。
人間を信じて歩むようなことでは、長続きしない。
それは、自分という個の満足になってしまう。

大きな志。それを持って歩んでいけば歩める。
この生き方は、世の中の二歩先を行く歩み。
一歩先というのは、皆がそのことに対して、
大切ということは理解できているけれど、
実際にはやれない道。
しかし、二歩先を行くというのは、
世の中がまだそこに至らない。
志に目覚めている人々であっても、
その生き方は大切だなと思えても、
本当にそのように歩みきれない。
そして、ほとんどの人たちは、
そのことの大切さをまだ理解できないから、
不可思議なものに見えてしまう。

そういった中で、先駆けとして生きるということは、
大きな志を持たないと歩んでいけない。
無理解な人たちのためにも、
それを生きていかないといけない。
それは、しっかりとした大きな志。
己を捨てて、世のため他人のために生きるという志。
そういう志を持って生きていかないといけない」

このことを皆に伝えて、この生活が始まった。
そして今、まさしくこの道を歩んでいる。

多くの人々には
まだそのことが理解できないけれど、
必ずその理解者はいて、この道の歩みを守ってくれている。
それがこの世界の根本の仕組みを信じていくと、
神様の後ろ立ての現象が表われてくる。

いろいろな人がいて、いろいろな主張がある。
それをどれも否定しない。
しかし、それが心の中のどこから出てきているのか。
心の根っこを観て、
それがこれから来るべきこの世界の目的、
役割として捉えていくことが大切である。
一歩先だろうが二歩先だろうが、
間違いなく世の中が後からついてくるわけだから、
信念を持って生きていきたい。

人間は、日常の中で、
何かが変化しそうになると不安になるものである。
例えば、食糧危機が来るのではないかとか、
会社の経営が行き詰って失業するんじゃないかとか、
いろいろなことを思って不安になる。
今現在の状態を壊したくない、
それを守ろうとする心がそこには働く。

現状を守るという意識になると、
少しの変化でも不安になるもの。
しかし、視点を少し変えると、変化することは、
新しい自分がそこにいるということ。
もっと良くなるかもしれないぞ、という発想になれば、
変化することはすごく楽しみで、
何かが壊れていくということは、
新たなことが起きる始まりである。

守ろうとする心があると、
変化することが悪いことのように思えてしまう。
その心の根っこにあるもの。
それが全部、その人の未来に起きる出来事を誘導している。
そこのところに気づいていくことが賢明である。

人類は、生命として誕生してから、
貧しい時代を過ごしてきた。
長い間自然のままに、
自己主張を全く許されずに歩んできた。
しかし、その時その時、不自由があればこそ、
喜びがあって生きてきた。
郷に入っては郷に従うように、
価値観が変われば、
違う価値観の中でも喜びはあるはずなのである。
今の時代のように、何でもあるのに喜べない時代は、
それとは対照的である。

そのことに気づけば、何でもいただく心を持てる。
縄文時代の人間と私たちとどのように違うのかと言ったら、
ほとんど変わらない。
チンバンジーと人間のDNAがほとんど変わらないように。
全体のルールが変われば、
そこには新たな生き方があって、何も恐れることはない。
それは、退化することではなく、
新しい価値のもとに進化することである。

今を守ろう、維持しようとして、
自分を自分の中に閉じ込めている。
成長させないでいる。その根本を忘れてしまう。
全体を忘れて、個々に自分を成り立たせようとするのである。
これは、個性的な表現の仕方の生き方である。
それは人間が能力が高く、
特殊な生き物である証ではあるけれど、
そのことがこの世界に混乱をもたらしている。

どんなことでも、根本が何であるか、
そのことをしっかりと吟味していくことが大切である。
それをどう使うかによって、
自分にとっても、他人にとっても、社会にとっても、
有益にも有害にもなるのである。


信頼が幸せの種

今日は、ケアがスタートしてからもう少しで2カ月になる、
けいこちゃんのご両親がファミリーを訪れました。
いさどんとの面談が始まるや否や、
開口一番、けいこちゃんのお母さんが
嬉しそうに話し出しました。

けいこちゃん母:

けいこから電話がかかってくると、
木の花さんでの生活が楽しいって、
明るい声で言うんですよね。
もうそれを聞いたら、主人と二人で泣いてしまって・・・。
楽しいっていうのを、
もう何年も聞いてなかったものですから。

いさどん:

一番いいことですね。

けいこちゃん:

実は、私と父親の性格が似ているから、
連れ添っている関係が良くないのかなって、
最近思い始めているんです。

いさどん:

どの人と関係が良くないというよりも、
どの人とも良い関係を持てる
つきあい方というものがあります。
自分でわかって気付くということ。
何かマニュアルがあるわけではないから、
時々、こういうことでいいのかな、
とふと気付いて、
そこを冷静に見つめ直すことが出来さえすればいい。
この関係はいつもこの関係というわけではなく、
その日の気分や出来事の内容によっていろいろあるから、
やはりその都度新鮮に観ていくということですね。

ただ、気持ちが出たままということではなくて、
起きたことをいつも客観的に観て、
どこから出てきたのか、
どういうふうに考えたらいいのかを
観ていければ大丈夫です。

けいこちゃん父:

自分も気をつけないと。

いさどん:

気をつけるといっても、
家族の中で気を使ってばかりだと不健康ですからね。
自分の思い通りに相手をしたいというのではなく、
本当にお互いが自立しながら、
気持ちよく、相手のことを想って、
客観的にアドバイスできればいいですよね。
ついつい身内の関係だと、
思うがあまりに相手をこうしたい、
こうなるべきだとなってしまいます。

親しい関係でも、ちょっと一線を置いて、
客観的にお互いを見つめ合える距離でいられるといいですね。
逆に、お互い冷たすぎて、
それぞれということで交流が全くないのも、
身内としてはおかしな話ですから。

けいこちゃんも、臆病にならずに、
その都度やっていくということで、
先に、「またこうなるんじゃないか、
ああなるんじゃないか」って考えるのは、
余分なこころだからね。

けいこちゃん父:

つい、自分も取り越し苦労してしまうんですよね。
こういっては悪いかもしれませんが、
今までも、「良くなったかな」と思うと、
今までだとすぐに元に戻ってしまうことがありまして。
だからこちらでお世話になっても、
実はまだ半信半疑なんです。

いさどん:

でもここまで、
彼女が安定している状態というのは、
今までにはなかったですよね。

けいこちゃん母:

はい。良くてひと月くらいでした。

いさどん:

話し方やものの捉え方がしっかりしていますからね。
そこは大丈夫です。
そこは、お互い信頼しないと。自分のことも信頼しないと。
けいこちゃんはここでは優等生ですから、
こちらとしては感謝、感謝ですよ。

けいこちゃん母:

私たちも、本当に感謝、感謝です。
今まで、本当にいろいろとありましたから。

いさどん:

来た時と今では、全く別人のようですよね。
縁あってここと出会わなければ、
今でも病気のままかもしれませんし、
本当に良い出会いでした。
なにはともあれ、非常に順調でしたね。

けいこちゃん:

順調に行きすぎて、怖い…。
何か起こるんじゃないかって思ってしまって。

いさどん:

自分にも他人にも、信頼を持たないとね。
それと、良いイメージを持つことが大切。
悪いように想えば悪いようにものは展開するし、
良いように想えば良いふうに展開します。
必ずこの世界は、そういった仕組みですから。
結局、自分が種を播いているのですから。
やはり、いいふうになるように自分を信じていかないと、
そういう道は開かれないですからね。

僕なんて、
「何でもいいんだいいんだ」と思ってますから、
病気になったら、
「これがきっかけで、
今までのことが良くなるんだ!」と考えます。
何でも順調、順調ということですね。

終始、和やかな雰囲気で面談が進んだのも、
ひとえに、けいこちゃんのうつ病が
完全に良くなったからでしょう。
あとは、自分の心の癖をコントロールするために、
もうしばらくここで滞在し、
来月には社会復帰して
自分の可能性を試してみたいと語ってくれました。
けいこちゃんの卒業までラストスパート。
ファミリー皆で応援しています。